第七話 裁くのは誰か?(後編)※

 夜は昼より一層騒々しく、町が動き出す時間帯だ。これが媽京まきょうの真の姿だと言わんばかりに、明かりが、人が、音楽が、ざわざわと摩天楼から這い出てくる。

 幾重にも折り重なる、享楽と生活と時間の高楼に植え付けられた樹械きかいが、ある所には深々と根を下ろし、ある所には辟易したように葉を萎れさせ、ある所では花を開いて祝福するこの景色。この世で人だけが作り上げる欲望の森。


 賑やかな中心部の喧騒を遠くに、闇に沈む胡同こどうを、公衆衛生灯籠がぽつりぽつりと照らしていた。灯籠の上には、蛍紅色マゼンタの花が植わった鉢が吊るされており、設定された時刻に花弁が落ちると、灯りに燃やされて薄荷に似た匂いを立てる。


 これが虫除けその他の衛生的機能を持つ、巴氏はし滅花めっかの灯籠だ。

 だが、今はその清浄な香りさえ、近づくことを拒むような死臭が胡同に満ちていた。死体の臭いではない、死線の向こう側、色も温度もない虚ろの気配が。


 気配の元はシャン・スーバン、長袍ちょうほう姿で、例の忘生清宗を携えている。彼はこの時間になるまで待った上で、医院を訪問しに来たのだ。

 つまりは診療時間外なのも承知の上――堂々と正面玄関にて呼び鈴を鳴らすと、現れたチ・フージュンは驚いた顔をしていた。


「手術の日取りは延期になったと……」

「ああ、だからその前に、心臓をこの眼で見てみたくてね」


 にこやかにしながらも、スーバンはずかずかと中へ押し入る。その背後で、フージュンは申し訳なさそうに言いながら扉を閉めた。


「いえ、それは。難しいです」

「器だけでもいいんだが」


 スーバンは振り向いて、ひたりとフージュンの顔を見据えた。万が一にも、あの心臓に問題が発生していれば困るが、嫌な予感がしてきた。


「先に言っておくんですが、僕は多分、貴方がたに殺されても仕方がないと思います。ただ、出来れば最後まで、僕の話を聞いてもらえますか」


 スーバンの顔から愛想笑いが消え、目が刃のそれになった。


「……何をやった」

「僕の弟が来たんです、胸を刺されて。心臓を移植しないと助からなかった。だから、緊急の処置としてあれを――」

「眼鏡を外せ」


 言われたことの意味が分からないように、フージュンが「はい?」と聞き返したので、スーバンは重ねて言った。


「貴様の目つきが気に食わん。いいから眼鏡を外せ」


 困ったようにフージュンの眉間にシワが寄るが、逆らう気はないようで、素直に眼鏡を外す。その右目に、スーバンは二本の指を突き入れた。


「……ッ……!?」


 何が起きたか理解できない顔が、スーバンの無造作な手の動きにたちまち歪み、涙を流す。激痛に声も出ない隙に指を増やし、中にある丸いものをつまみ取った。ぐちりと、粘性の音と共に引きずり出したそれを握り潰し、神経の束をちぎり、崩れ落ちようとするフージュンの口にねじ込む。

 髪をわし掴んで頭を上向かせ、血涙ちなみだづらに怒鳴り立てた。


「その腹を括ったふてぶてしい目つき、一つに減ってもまだそれが出来るか? なるほど、貴様はこうなることも見越して、その心臓をくれてやったのだろうな!」


 突き飛ばし、蹴り飛ばす。待合室の長椅子にぶつかって、フージュンは声もなくその場に座り込んだ。握り締めていたままの眼鏡、透鏡レンズに血飛沫の点が付く。


 それにしても酷い顔だ。空っぽになった眼窩がバランスを保てないのか、苦痛と相まって神経的な不安を覚える歪み方をしている。その上、血と涙とよだれと硝子体、それらの混合物にまみれたフージュンは、正視に耐えない汚らしさだった。


 それがますます、スーバンには腹立たしい。

 自分自身が、憤怒と憎悪が凝り固まった、灼熱の鉄塊と化していくのが分かった。このまま愚かな町医者を焼き尽くしてやりたいが、まだこいつには用事がある。


「どうせそいつは、まだろくに動けんのだろう。お前を殺してこの医院をくまなく探し、見つけ次第そいつを殺してやる。それが嫌なら、俺の手間を省かせろ」


 再び立たせようとして近づくと、フージュンの体の下から透明なものが飛び出した。尾のように頚椎と背骨を垂らした女の生首――ローが渡していた使鬼だ。

 スーバンは中指と人差し指を揃え、〝剣指けんし〟を立てる。一息の元に空飛ぶ生首の額を突くと、それだけで霊体は水風船のように四散した。


 使鬼の格としては、ナル・チャオライに持たせた物と変わらないが、この程度ならばスーバンには剣を抜くまでもない。

 だが、フージュンが片膝をついて立ち上がり、懐の拳銃を取り出す時間は出来た。


「どうした、先生。そのザマで照準が合うのか?」


 銃を構えながら、フージュンは即座に撃つ気配がない。引き金にかける指は血の気がなく、小さく震え、肩が苦しげに上下していた。


「僕は――あの子を……!」

「手間を省かせろと言っているだろうが」


 尻を蹴り払い、スーバンは再度、哀れなほど無害な男を床に転がした。怒りに任せて目を抉ってしまったが、もう少し軟弱ならば気絶していてもおかしくない状態だ。よく頑張っていると言えるが、それがまた苛立たしい。


「先生ー! なんかあったの?」


 明朗快活な声がした。スーバンは横たわる医師から視線を外し、今しがた螺旋階段を降りかけた青年を見やる。先日、ナル・チャオライを襲撃してきた若い猟客だ。

 その姿を認めた瞬間、何もかもがガツンと、腑に落ちた。


(ああ、そういうことか)


 心臓を刺された弟、そしてこの猟客。あの夜殺し損ねた奴が、よりにもよってチ・フージュンの弟で、更にあの心臓を移植されたとすれば、あんまりではないか。

 怒りのあまり、逆に体中の血が冷える感覚をスーバンは覚えた。あの心臓のために、今日までどれほど苦労してきたと思っている。それが、こんなことで。


「お前!」


 上方から声と影。足を後ろへ摺り、軽く立ち位置をずらして第一撃を避ける。拳が宙を空振り、軌道が突きの動きに変わった。


「一体、ここで! 何っ! してんだよっ!」


 階段から飛び降りたグイェンは、そのまま殴りかかってきた。分かりやすく顔を真っ赤にしていて、気を乱している。


 その状態で放った拳は、以前にも増して見え透いた動きだった。つま先を狙った踏みつけや、投げを狙った掴みが時折拳に混ざるが、どれもスーバンには届かない。ことごとく払い、受け、かわすのみ。代わりに、長椅子が貫かれ、裂け、吹き飛び、床がぶち抜かれ、大庁ホールが竜巻に巻き込まれたかのように、たちまち荒らされていく。


套路とうろも満足にこなせないか、愚物ぐぶつ十魂十神じゅっこんじゅっしんが宝の持ち腐れだな」

「へっ? なんであんたが知ってんの!?」

「さあな」


 答える義理があろうはずもない。さておき、グイェンの動きにスーバンは違和感を覚えていた。あの夜はどこか及び腰だったが、興奮して我を忘れているからか、今の打ち合いにその色はない。この短期間に、勇ましくなる要因でもあったか? 考えながらスーバンが腰の刀に手をやった時、グイェンの動きが淀んだ。

――それで察した。


「踊りの練習相手は、他所で探すのだな」


 忘生清宗の柄に手をかける。掌が貼り付くような冷たさが愛おしい。スーバンは丹田に力を込め、裂帛の気合とともに抜き払い、目の前の若虎に叩き付けた。


                 ◇


 グイェンは不意に五感を失ってたたらを踏んだ。自分に何が起きているのか把握する前に、白刃のきらめきを感じて体がすくむ。それも一つや二つどころではない、無数の刃が迫り、腕を、足を、胸を、腹を、目を滅多刺しに貫いた。


 こんな風に切り刻まれるのはいつ以来だろう?

 長らく思い出さなかった忌まわしい記憶が、痛みに白く明滅する脳裏を駆け巡り、グイェンを内側からバラバラにする。


――その時のグイェンは、まだ身も心も幼児そのものだった。


 なんだか急に家が騒がしくなって、その日から〝ちちうえ〟は消えてしまった。覚えているのは、怖い顔をした知らない人たちが、自分を取り囲んでいたこと。その人たちに、何度も剣で切り刻まれたこと。


 首がない自分の体を見た。(やめて)

 脚を外された自分の体を見た。(ちちうえ)

 自分の腹の中身を見た。(たすけて)

 バラバラになったまま火をつけられた。(ぼくは)

 自分の血で肺を満たされ窒息した。(どうして)

 それでも死ななかった――死ねなかった。


 生きたかった。


 そのほかには、まだ何も知らなかった。


 与えられた百八つの魂の内、七つから九つはこの時に砕かれたと記録されている。八朶はちだしゅうはスー・グイェンの処分を諦め、自分たちの制御下に置くことにした。この時の凄惨な記憶は、暗示と薬物で消したはずのものだ。

 刃物に対する恐怖心、それだけが、彼の経験したものの僅かな痕跡だった。


――今日、この時までは。


                 ◇


 石のように硬直した青年の体は、不意に脱力して横倒しになった。見た目には無傷だが、そのまま、死んだようにぴくりとも動かない。

 これで厄介者は片付いた。スーバンはグイェンに触れてさえいない、ただ殺気と合わせて〝しょう〟をぶつけただけだ。


 これぞ雄渾ゆうこん喝破かっぱ

 内力を込めた声=嘯によって、相手の心胆寒からしめ、戦わずして降伏させる。それに重ねて、刃物に対する恐怖を突いたことで、より効果的になった。これが他の人間であれば、わざわざこんな手間をかけず、そのまま殺していただろう。


 だが、相手が十魂十神ではそうもいかない。常人より多くの魂を持つということは、それだけ死ににくい、否――事実上の不死身、ということだ。

 だからこそ、心を折るほうが確実に無力化出来る。これで後は、チ・フージュンを始末して、心臓を移植されたというその男を捕らえるだけだ。


                 ◆


 正体不明の違和感を覚え、ふと目が覚めた。舌の上で酸素がからく、空気がヒリヒリと痛い。何かが起きている――ジュイキンはそっと寝台を抜け出した。

 手術から二日、すでに体の調子は完全に戻っているように思えたが、油断は禁物だ。足元で寝ていたミアキンが、ジュイキンに体をすり寄せながらついてくる。


 部屋を一歩出た瞬間、違和感はますますはっきりした。今や頭の中に警報が鳴り響き、ジュイキンは身を隠しながら、素早く廊下を移動する。

 階段の前に来ると、滅茶苦茶に荒らされた待合大庁ホールの様子が見えた。倒れたまま動かないグイェンと、上着に血を付けたフージュン。そして、兄の胸ぐらを掴んでいる見覚えのある男。ここに運び込まれる前に見た顔が、こちらを向いた。


 階下と階上、互いの視線が交差する。


「お前は――」階段の手すりを握りしめる。


 一人は奇妙な既視感を、一人はすんなりした納得を覚えた。


「――貴様は」掴んだ胸ぐらにますます力を込める。


「ナル・チャオライの護衛ッ」

「あれの専属のように言うな」


 心底嫌そうにスーバンは顔をしかめ、口元を歪めた。


「しかし、そうか。貴様があの心臓の持ち主だな? そうか、そうか。なるほど……いや、なるほど。そういうことも、まあ、あろうさ」


 顎を親指で撫でて、スーバンは自分に言い聞かせるように呟いた。

 その様を見ながら、ジュイキンは不思議に胸がもやもやする。あれは、自分の心臓を刺したその当人だ、見覚えがあるのも当然だろう。


――だが、もっと前、別の何処かで見たような気がする。


 兄の痛ましいうめきが聞こえ、ジュイキンは物思いを断ち切った。スーバンは腕をねじり上げてフージュンを捕まえ、刀の刃を首元に当てている。


「言ってみろ、先生、お前は何と手を組んだ?」

「……打神だしん翻天はんてん。〝神灵カミを打ち倒し、天を翻す〟反動集団」


 出血と痛みに顔色を失ったフージュンは、意識も朦朧としているのか、虚ろな声で問われるままに答えた。スーバンが言葉を継ぐ。


「そう、そして神灵を殺すその手段、我らの切り札がそこの心臓だ」

「神灵を、殺す?」


 訳の分からなさに、ジュイキンは思わずオウム返しに問うた。こいつは明らかにおかしなことを言っている、だが、傍にいる兄の深刻な顔はどうしたことか。

 人が人を殺すのと、人が神灵を弑逆するのとでは訳が違う。それは無辜の民を大量虐殺する以上の悪逆、自らの祖先を魂ごとまとめて滅ぼすような大それた悪逆非道!


 理屈の上でも可能だとさえ思えないが、仮に一柱でも神灵が死することがあれば、そこに属する人間たちは残らずニングに落ちるだろう。そうすれば、この国は大混乱に陥り、八朶宗だけではとても事態を収拾できない。


「本気で、言っているのか……?」


 明らかに相手の正気を疑いながら、ジュイキンは震える唇で問うた。神灵の世に生まれた者として、それは通常発想にすらたどり着かない行い。当然の反応だった。


「でなければ、誰が好き好んでこんな仕事をやるものか」


 吐き捨てるように言い、スーバンはフージュンを突き飛ばして転がすと、顔面、空っぽの眼窩に向かってつま先を蹴り入れた。

 血しぶきがほとばしるような、長い粘性の悲鳴が上がる。ジュイキンの頭蓋の中で、がちがちと噛み合う奥歯が火打ち石になり、怒りと恐怖の火花を散らした。

 嘲った表情で、スーバンが階上の若き猟客を見上げる。


「こっちへ来い、八朶宗。お前の兄なのだろう? まさか見捨てはすまいな」


 判断する時間は長くはなかった。だが、その数秒はこれまでの人生で最も長く、そして長引いて欲しい数秒間だ。


「……そいつに人質の価値があるとでも?」


 口を開くと、ジュイキンは初めて人を殺した日の気持ちで、冷たく冷たく言葉を並べた。一音一音、慎重に、寸分の狂いもなきようにと祈りながら。


「確かに、私とそこの男は兄弟だ」


 無惨な兄の姿を視界内に捉えながら、ジュイキンはそれを直視出来なかった。


「だがな、狂ったニングに追いかけられた時、そいつは幼い私を見捨てて、一人だけ逃げたんだ。おかげで私はニングに堕ち、辛い人生というわけだが……」


 冷笑してみせる。身振り手振りを交え、その男などこれっぽっちも大事ではないのだと訴える。外道に徹しろと己に言い聞かせ、更に言葉を重ねていく。


「その私に、そいつにかけてやる情けがあるとでも? 冗談じゃない、今すぐにでも私一人で、ここから逃げてやるぞ!」


 冷や汗を、震えを隠し、ジュイキンは祈った。そいつには人質の価値はない、だから解放しろ、と。スーバンの返答は、そんな小賢しさを断つ一撃だった。


「ならば最初に見つかった時、なぜすぐに逃げ出さない? 自分の命が惜しければ、暢気に俺の話など聞いておらんだろう。お前は明らかに、こいつらを案じている」


 拙い演技はあっけなく看破されていた。せめてこの男と兄が離れればと思ったが、そう上手くいくはずもない。ジュイキンは諦めて、戦闘態勢を取った。


 人間の体には、宇宙創世の時に、万物の根源たる最も純粋な気が封じ込められている。これを呼吸法や瞑想などで行き巡らせ、練り、養う――

 身に染み込んだ練気をやりかけた時、ジュイキンの胸を稲妻が貫いた。手術から目覚めて以来、一度も覚えなかった心臓の痛みが、今、この時になって。


「……っく、ううっ」


 脂汗が吹き出し、たまらず手すりを掴みながら、ずるずるとその場に座り込んでしまう。やはりまだ戦える状態ではなかったのだ。

 重たい瞼を堪えながら視線を巡らす。グイェンは変わらず、物言わぬ死体のようだ。ミアキンが体をすり寄せて来るが、この子は見逃してもらえるだろうか?


 隙間風のような音がする。反射的に意識を傾けてから、それが兄の笑おうと試みている息継ぎだと分かった。


「ああ、そうだ。今度はお前が、僕を見捨てる番だよ」


 背中をスーバンに踏みつけられながら、汚れきった面を堂々と上げ、フージュンは微笑んでいた。雨季の終わりに晴れ渡った空のような、底抜けに清々しい顔。

 それは、死者の笑いだ。もはや己がこの世にあることは出来ぬと悟り、受け容れた、哀しいほど澄んだ心境のそれ。


「僕は、ずっとお前に裁いて欲しかったんだ」


 兄の言葉が、微笑みが、ジュイキンの心の奥、脆すぎて誰にも触れさせなかった部分を打ち砕いた。破片は二度と直せない遠くへ飛び散り、彼の中に変えることの出来ないきずをつける。それが何を意味するか悟るのは、ずっとずっと後のことだろう。


「違う! 兄さん、違うんだ! が言いたかったのは、そんなことじゃない!」


 見捨てるつもりなんてない、それはこの場の誰にも伝わっているだろう。けれど、兄にかけられる最後の言葉があんなものなんて嫌だ。思い通りにならない体を引きずって、ジュイキンは階段を降りようと試みる。


「もはや言い残すこともあるまい」


 スーバンは刀を突き下ろそうと、準備動作に入った。その足の下で、フージュンは懸命にもがく。凶刃から逃げるためではない、グイェンに望みを託し、呼びかける。


「起きるんだ、スーくん! 今ジュイを助けられるのは、君だけだ!」

「黙れ!」


 ジュイキンは階段を降りそこねて、ごろごろと段差を転がり落ちた。天地が回る中、兄の苦鳴が聞こえ、全身から体温が消える。


 体中の痛みと相まって、急速に視界は暗くなっていった。何もかも判断を誤ったのか、ここへ来たことも、兄に人質の価値が無いと思わせようとしたことも。


 この自分はどこまで愚かなのだろう? きっと、本当に裁かれるのは自分の方なのだ。いや、今この状況こそが、既に下された審判なのかもしれない。


                 ◆


 忘生清宗の刃は、驚くほど抵抗なく骨肉に潜り込んだ。背中側から腹へと突き抜ける氷刃、あれほど冷たかった柄が今は温かく、血と臓腑のぬくもりを伝えるようだ。

 剣が喜んでいる――それをスーバンが知るのと、フージュンが霊符を破るのは同時だった。破損された札が起動し、中に封じられた改造魂魄が飛び出す。


 透明な存在は、しかし目の前の脅威であるはずのスーバンにではなく、気絶したままのグイェンに襲いかかった。砕けた床の木材と長椅子の詰め物から、弛緩した若い体を弾き飛ばし、力尽きて空中に四散する。


「……ぁ、ああ……」


 活を入れられ、大の字にのびたグイェンがうめく。使鬼は、与えられた単純な命令を実行するだけの存在だが、ローのそれは少しばかり高級な知能を持っていた。

 打神翻天を裏切った時から、ありとあらゆる対策手段を講じた町医者はそれに気づき、簡単な命令に従わせるコツを暴き出していたのだ。


 どろりと、フージュンの口から溢れる血は重くどす黒い。


「ス……くん、ジュイを……た」


 その首をスーバンはね飛ばした。胴と泣き別れになった頭が、激しく回転しながら、貼り付けた最期の表情を凶漢に見せつける。


 それは凄絶な笑みだった。

 苦痛や恐怖など彼岸に蹴り落とし、やってやったぞという勝鬨かちどきを、ざまあみろという凱歌を、歯を剥き出して高らかに誇る呵々大笑。


 そして、首を刎ねられるその直前――フージュンが押していた、小さなスイッチが仕掛けを起動させる。


 夜の媽京市街に、霓虹燈ネオンとは異なる白い光が閃いた。そして爆炎、轟音、短い地響き。反動集団に携わる中で、チ・フージュンは様々なやくざ者と知り合っていた。

 それらを通してかき集めた火薬類を、彼は院内のいたる所に仕掛けていたのだ。グイェンに頼んでいた、診察室と物置きの作業もそれだった。


 一歩間違えれば、弟もろとも吹き飛ぶ大仕掛け。フージュンとしても出来れば使いたくはなかったが、これは賭けであり、彼は勝ちを確信して実行に移した。

 その証拠に、霓虹燈ネオンと月明かりに照らされた摩天楼を、電磁蒸気に身を潜めながら、逃げていく者が確かにある。


 誰が裁くとも知れぬ審判は、結果すら不明の闇だが、賭けの勝者が一人いたことは、確かだった。

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