第12話 血と灰の熱 ——リース・リストリイの喀血
「歌と水の街」は、大陸の端にある一大芸能都市である。
その中枢をなす歌劇団にあって、リース・リストリイは、中心的な存在ではなかった。
歌い子の潮時は二十五歳までと言われる中、彼女は今年、二十八歳になる。
最年長のリースの歌は、今なお最上級ではない。しかし、美貌は優れている。
■
公演の後、私は歌劇場支配人の執務室に呼び出された。
「リース。エドワーズ氏とは良好なのだな」
エドは私のパトロンだ。三十五歳の独身。すべからくパトロンを持つ歌い子の中では極めて異例なことに、彼は私に手も触れないが。
「彼から、君に次回公演のソロを任せろと要請が来た」
私は、足がすくんだ。歌劇団の誰もが目指し、そして夢及ばずに破れていく、最トップの座だ。
「そんな、こと……」
「多額の融資と共にだ。君の歌は、他の歌い子の見本といえる出来ではないが。ただ、君が誰より努力してきたのは皆が知るところではある。君に、その気があるのなら」
寮の個室に戻ると、私は大きく嘆息した。
当然、不安は大きかった。
確かに私は誰より努力してきた。他の歌い子が休み、遊び、パトロンと出掛けている最中も、私は練習室でひたすら歌い続けた。
しかしそれでも、私は歌の力だけで劇場に出ている訳ではないのだ。顔で末席を買ったという陰口が、的はずれでないことは自分で分かっている。
次期公演までは、あと一月もない。
それからは必死だった。
食事は栄養補給のみに努め、喉を守る強い薬を副作用に耐えて飲み、仮眠以上の睡眠を取らずに一層練習に明け暮れた。
毎日のステージも、控えの歌い子に代わってもらった。来月のソロの方が遥かに大切だった。
年齢のこともある。歌劇団内で煙たがられてもいる。恐らくこれが、最初で最後の主役だろう。
言わば、団からの餞なのだ。ならば、最高の形で成就させてみせる。
私はエドを含め、男性に触れられたことがない。駆け出しの頃、好きになった人はいた。本当に好きだった。告白をされた時は、夢ではないかと泣いた。しかしそれでも断り、歌に全てを捧げた。
女として男たちに磨かれ、彼女らの求める幸福を手にしていく同僚を見ながら、私はただ歳だけを取り続けた。
それくらいの犠牲を屠さなければ、本物の才能とは渡り合えないと分かっていた。
これは私の、最後の意地だ。
二週間もすると、睡眠不足と疲労で、嗅覚と味覚が極端に鈍化した。紅茶を淹れる意味がなくなり、白湯にした。
目眩が増え、頭痛と腹痛が重くなり、耳鳴りも酷い。
しかし。
本来のソロは、現公演のメインを歌っている、メリッサ・モアという十八歳の天才だ。彼女の役を奪うからには、それくらいの苦労は何とも思わない。
私がソロを務める公演の当日がやって来た。
異変に気づいたのは、水とスープだけの昼食を終えた時だった。
劇場の周りの人通りが少ない。
そして、大きな声が響いてきた。
「中央広場だ! メリッサが、ゲリラ公演をやってる!」
頭を殴られたような衝撃だった。
気づいた時には、広場に向かって駆け出していた。
認めていなかったのだ、メリッサは。
顔だけの女が、歌劇団の主役を務めるなどと。
「私だって……努力したのよ。私だって、やれる……」
呟きながら駆ける。
広場は満杯だった。
私が劇場に集められるであろう人数を遥かに上回っている。
メリッサは壇上に立ち、今まさに、大きく息を吸い込んだところだった。
そして。
放たれた歌声は、一瞬でその場の全員を魅了した。
演目は、今日これから私が歌うのと同じ英雄曲だった。
音響設備も何もない野外で、メリッサの声はしかし、弾けながら膨らむ。
クラップや嬌声までも巻き込み、飲み込んで、倍加させて打ち放つような歌声。
胸を高鳴らせ、高揚が爆ぜる、稀代の声だ。
歓喜する人々の熱狂の中、私はただ一人打ちのめされて、両膝と両肘を地面についた。
涙がぼろぼろと落ちる。
見ろ。
見ろ。
見ろ。
聴け。
あれが本物だ。あれが才能だ。
努力では決して手に入らない、産まれた時に定められていた運命の形。
徒労でしかなかった私の戦い。
この後に、私が劇場で歌う?
質の悪い冗談だ。悲劇に過ぎる。
いや、喜劇か。
私は狂ったように笑い出した。
あまりに激しく笑ったため、限界間際だった喉が破れて血の混じった咳が出た。
これでは歌えない。
よし、死のう。
私は広場に背を向けて駆け出した。
その時、後ろからメリッサが私を呼んだ。
「それで歌うんだよォ!」
それでかろうじて私は、川ではなく劇場へ足を向けた。
死ぬのは、歌ってからだった。
破れた喉で。敗北者の魂で。
初めて、歌を、誰かに届けられるかもしれないと思った。
終
歌と水の街 @ekunari
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