第11話 冷たい麦畑 ――ジレル・イルギスは謝罪する

 貴族に弄ばれるのが嫌なら、君はこの街から逃げるんだ。

 僕にはまだ、ここでやることがあるから……



 『歌と水の街』は、大陸随一の芸能都市である。

 その規模の肥大と同時進行した腐敗の中、踏みにじられ続けた下層階級の尊厳を取り戻そうと、特権階級の転覆を狙った革命勢力の動きが、この十年来激しさを増していた。


 『街』から離れたある村に住むオーリエ・ヒールは、今年で二十四歳になる。

 十年前から居候している家の、同い年の長男から、ある朝求婚された。

「私を、ですか。でも……」

 オーリエは、ある少年の手引きで十年前に歌劇団から抜け出し、彼の故郷である村のこの家へ逃げて来た。

 オーリエに求婚した長男はその少年の幼少期の親友であり、一家は何も言わずに彼女を匿ってくれた。

 早くからオーリエに惹かれていた長男が、これまでそれを隠して来たのは、ひとえに親友への遠慮からだった。過激な私兵を持つ歌劇団からの逃亡は、手引きした者も只では済まないから、当時十四歳の親友は特別な好意をオーリエに寄せていたに違いない。しかし。

「君が、あいつ――ジレルのことを気に掛け続けているのは知っている。俺もそうだ。でも、もういいとも思う」

 彼はオーリエを逃がそうとした際に、歌劇団の私兵の矢で頬をえぐられた。あの鮮血に染まったジレルの顔を思い出すと、オーリエの胸は今でも詰まる。『街』に残った彼は、どうなっただろう。

 長男は、返事は待つと伝えた。


 その夜、オーリエの部屋の窓をノックする者がいた。

 窓の外の人影の頬には、大きな傷があるのが見えた。

 暗闇の唇が、「僕だ。ジレルだ」と動いた。

 オーリエは転がるように家から出た。

 長男は、半開きになったドアが風に軋む音で目を覚まし、外へ出てみると、悲鳴が聞こえた。家の横の麦畑で、オーリエが黒い影に組み敷かれている。

 長男を見て、影は逃げた。

 地面に横たわるオーリエの顔は叩かれて腫れ、服は破れていた。長男は激高したが、

「待って。あの人、ジレルなの」

 泣きながら、オーリエが長男を止めた。

 ――馬鹿な。しかし、歌劇団の連中の私刑は、想像を絶する過酷さだと聞く。

 ――親友は、奴らに捉えられ、心を壊され変質してしまったのか。また、どうやら彼女は自らドアを開けて出て行った……

 オーリエだけでなく、長男もまた、深く打ちのめされていた。


 夜が明けた。

 オーリエは部屋から出て来ない。

 朝食時に、来客があった。客が名乗ると、長男は絶句してから唸り声で告げた。

「ジレル。今更何しに来た」

「済まない……オーリエは?」

 長男の嗜虐心に、一気に火がつく。

「会わせると思うのか。俺達は結婚する。お前の友人も居場所も、もうここにはない。消えろ、不幸の種め」

 ジレルは「……そうだな。今更だった。幸せに」と呟いて去って行った。

 長男は、唾を吐いた。


 二ヶ月後のある日、一人の中年男が長男とオーリエを訪ねて来た。

 男は革命兵の一員だと名乗った。

「あなた方には言っておきたくてね。ジレルなんですが、あれは歌劇団から長く拷問を受けていました。根城やらを聞き出す為、自白剤もたんと打たれて、ぼろ雑巾のようになって、用済みだと放り出されたのが二ヶ月前です」

「……ふん」

「ここへ来たでしょう。他に身寄りもなかったようだし。で、この間、あれは『街』の裏路地で野垂れ死にました。内臓が薬と栄養失調でほとんど駄目になっていたから、別にあなた方のせいじゃない」

「……何が言いたい」

「ひと月ほど前、『街』で小競り合いがありましてね、その時に拷問屋くずれのゴロツキが吐いた。ジレルの自白の時に、昔逃がした元歌姫が郊外にいることを聞いて、少々役得しようとその女を襲いに行ったとね。そいつはジレルと似た頬傷があったので、夜なら女を騙して油断させられるだろうと。皮肉なことに、どうやらその翌日に本物のジレルがここへ来た。長くはないと自覚して、最後にお二人に、ね」

 二人は息を飲んだ。長男はオーリエを襲った男をよく見ていない。オーリエは翌朝来たジレルを見ていない。

「なあ、ジレルはそれを……」

「死ぬ二三日前に知りました。あなた方には教えるなと言われたがね。彼の戦いは、特に逃亡者であるお嬢さんの為だった。歌劇団は我々の相手に忙しく、一度逃げてしまった者を追う暇はなかった。この村は平和だったでしょう」

 長男は、絶句して震えた。

 自分はあの日、ジレルに何と言った。彼は、何と言った。

「あの若者はね、馬鹿です。でも我々の求める平和は、利口では追えない」


 男は去った。

 立ち尽くす二人の前には、麦畑が十年来と同じに、風に揺れながら広がっている。


 二人の心中とは、あまりにも裏腹に。

 そこには確かに、静かな平穏が湛えられていた。


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