第10話 舌が半分の少年 ――名もなき君、名もなき私、革命後
舌が半分しかないその少年の名前を、私は今でも知らない。
出会ったのは、私が十四歳の時。彼も同い年だった。
一大革命を成しえた直後の首都の街道で、私達は邂逅した。
革命団員だった彼は、得意そうに革命旗を振り回していた。
どうして舌が欠けているのかと尋ねると、彼は独特の滑舌で、
「度胸試しに、自分で噛み切ったのさ。舌が丸まる前にスプーンで押さえれば、窒息死はしない」
と得意げに言った。そして、どうして私には右目がないのかと聞いて来た。
「子供の頃に、眼病でなくしたの」
「下層市民は、医者にもかかれなかったからな。でもこれからは違う。仲間もたくさんいる。何もかも良くなるのさ」
私は彼に、言わなかった。舌を噛み切るなどという度胸試しはないし、舌を噛んだ直後の人間がスプーンで的確に舌を抑えるなど、できるはずがないことも。
政府軍の兵隊が、面白半分に下層市民の子供を痛めつける光景は、珍しいものではなかった。彼の舌も、恐らくは兵士に押さえつけられて、無理矢理に切られたのだ。けれど、それを指摘しても意味はない。
彼がもう少し私の眼窩をよく見れば、目の傷は新しい外傷だと気づいただろう。
革命団と政府軍の小競り合いで、クロスボウの流れ矢が私の右目を貫いたのは今年のことだった。矢羽には政府軍ではなく、革命団の印がついていた。けれどそのことも、私は彼に言わなかった。
彼は、優しい目で私を見ていた。その瞳の奥には、無限の空が広がっていた。それを、私のせいで曇らせたくはなかった。
ただ、とにかく彼が眩しかった。
旧政府の役人が追い払われた後の街には、政治の経験者も、その才覚がある人物も残っていなかった。
革命団の中枢人物達は、あまりにも早い首都の荒廃を目にして、旧政府の高官に次ぐ早さで街から脱出していた。
動乱の中で孤児になって後、街をさ迷っていた私は右目がないことで面白がられ、ある好事家の養女となった。
彼と再会したのは、そんな頃だった。
義父のお使いでパイプとアブサンを買いに出た私は、恐ろしく痩せこけた彼をベーカリの軒下で見つけた。
「やあ、君か、……よく覚えてるよ。違う、片目がないからじゃない、……」
私は、小さく悲鳴を上げた。彼に、左腕がなかったからだ。
「舌が半分ないくらいじゃ、だめなんだ……誰も憐れんでくれない。見ろよ、腕がないと、こんなにお恵みがもらえるんだぜ」
彼は、ひん曲がった銅貨ばかりが数枚入った布袋を見せると、よたよたと路地裏に消えて行った。
街はなおも荒れて行き、危険だからと私は外出を禁じられ、翌月になってようやくあの路地の奥を見に行った。
今会わなければ、取り返しのつかないことになるような気がした。
けれどそこにはただ、いくつもの壊れた木靴が転がっているだけだった。
木靴にはどれも、人の名前らしきものが彫ってあった。
不摂生がたたり、義父はその後数年して他界した。いくばくかの遺産を渡されて、私は小さな花屋を開いた。
街はようやく落ち着き、新しく貧富の差が構成され始めた。
家のある者は路上生活者に施すことが美徳とされ、私の店も繁盛したので、よくパンや小銭を浮浪者に与えた。
その日も私は、ソーダ水を施そうと浮浪者の群れの前に膝まづいた。
最前にいるのは、ぼろぼろの毛布を体に巻いた、けれど両腕と片足がないことの明らかな男だった。ぼさぼさの髪から覗くその顔には、両目もない。これほどの状態の浮浪者は、初めて見た。
「ソーダ水です。どうぞ」
そう声をかけると、浮浪者は少し体を震わせた。しかし瓶を咥えようとはしない。
耳も悪いのだろうかと、私は浮浪者に耳打ちするような距離で告げた。
「私も片目がないんですよ。両目では大変でしょう。口を開けて下さい、飲ませてあげますから」
けれど男は、口を開こうとしない。
女から施されることに、屈辱を感じるタイプなのかも知れない。
私は瓶を男の足元に置き、
「よかったら、誰かに飲ませてもらって下さい」
ともう一度囁いて、その場を離れた。
そして十数歩も進んだ時、ようやく、なぜ彼が口を開けなかったのか、ひとつの可能性に気づく。
振り向いた瞬間、目の前の街道を馬車の群れが駆け抜けた。
それが通り過ぎると、既にあの浮浪者の姿はなく、ソーダの瓶だけが土煙の中に佇んでいた。
私達の時代は後世に、どれだけ愚かしさを嗤われるのだろう。
愚かしいほどの懸命さは、どこまで伝わるものだろう。
愚者の屈辱と誇りは、誰が汲んでくれるのだろう。
馬車は走り去って行く。
街道には、怒号交じりの喧騒が行き交う。
家々の屋根を猫が渡って行く。
その空を、鳥が舞う。
更に見上げた先には、太陽。
私の片目に映るのは、誰かが求めた、無限の空。
終
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