伍 慕情(ぼじょう)


翌朝、松尾文台ぶんだいの変死体が発見されたことは、

無論、大きな騒ぎとなった。


二転三転した話の成り行きに、

興味を掻き立てられずにいられなかったとしても、

もはや無理からぬ事と言えたろう。


松尾が肩の内側にい込んでいた鎖帷子くさりかたびらについて、

どのような話が人口じんこうにのぼったかは、

今さら説明するまでもないことだ。


また、松尾を討ったのは何者なのか?

誰のがねによるものか、盛んに議論されたものの、

答えなど出るはずもなかった。


結局、新田家も松尾も、どっちもどっちだったのではないかというところへ

話は落ち着きつこうとしていた。


だが同じとき、

吉原遊郭よしわらゆうかくで一人の遊女が首を吊ったことを話題にする者は、

さほど多くなかった。


まして、二つの事件を結びつける者など、

皆無であったろう。


それは、新田家に仇討免状あだうちめんじょうが降りた

その夜のことであった。


「もし? どなたかいらっしゃったのでございますか?

 ひょっとして、本当に来て下さったと?


 よろしければ、なにかお返事をいただけますと……


 いえ! もちろん正体を云々うんぬんしようという気は

 つゆほどもございません。


 あくまで襖越ふすまごしに話を聞いていただき、

 お引き受け下さる場合は、

 ただ金子きんすを受け取っていくのだと聞きおよんでいます。


 とはいえ、なんとお呼びすればよいものか……そうですね。

 お前様と、お客と同じように呼ばせていただきたく思います。


 はい、お察しの通り、

 私は吉原遊郭で、お座敷遊びのお相手をさせていただく

 遊女でございます。


 今時は新造しんぞうのうちに上がってしまう者も多い中、

 太夫たゆう花魁おいらんとまではいかずとも、

 部屋持ち女郎じょろうとして、少しは名を売っているつもりでございます。


 とはいえ、遊女としては少々、とうが立って参りまして、

 年増としまと見なされることも多くなってしまいました。

 まったく、女は歳を取って得をすることなどなにもございませんね。


 つい、愚痴をこぼしてしまいました。

 お話がお話ですから、急に本題へ入りますのも、つい躊躇ためらってしまいまして……

 いえ、無駄な前置きこそ、かえって無粋ぶすいというものでしょう。


 失礼をいたしました。


 近頃、世間をにぎわしております

 新田玄蕃斎げんばさいの一件へ、ついに仇討免状あだうちめんじょうが降りたこと、

 お前様も、きっとお聞き及びのことと存じます。


 そうです、玄蕃斎げんばさい様がご令息れいそく

 誠志郎様馴染なじみの遊女というのは、何を隠そうこの私のことでございます。


 遊郭というものについて、どの程度ご存じかはわかりませんが、

 花魁おいらん太夫たゆうの姉さん方であれば、

 一夜の夢に100両が積まれることも珍しくありません。


 町人が一月の間、しゃにむに働いてなんとか1両を稼ぐのが精一杯というのですから、

 一夜限りの夢を見るのも、なかなか楽なことではございませんね。


 私のような部屋持ち女郎でも、

 かつては一夜に10両を出して下さった方もいたのですよ。


 もちろん、将軍家旗本はたもとのお家柄とはいえ、

 次男の誠志郎様に、それほどの大金を用意できたはずもございません。


 ええ……お前様が、口を滑らせるはずはないとわかっておりますが、

 それでもやはり、大きな声では言えそうもありません。


 誠志郎様は、私の情夫いろということになるのでしょうね。

 お花代はなだい頂戴ちょうだいせず、座敷へ上がっていただいたことも何度か、

 いいえ、お金をいただくのが申し訳なくなるほど……

 私の方がれ抜いてしまったのでございます。


 幸いと言いますか、

 誠志郎様のほうでも私のことを憎からず思っていただけたようで、

 足繁あししげく通って下さいました。


 お侍と遊女、決して結ばれることはないと心得ていましたが、

 自らの身の上を振り返ってみれば、

 それでも充分幸せなことだと思い定めておりました。


 しかし、この度、玄蕃斎げんばさい様と松尾文台ぶんだいの一件が出来しゅったいいたしまして、

 誠志郎様が討手うってとして名乗りを上げられることと相成あいなりました。


 ええ、あの晩、お父上が討たれた夜も、

 誠志郎様は私と枕を共にしておりました。


 もし私が遊女などではなく、

 おめかけの一人といったところなら、

 きっとあれほどご家中での立場を悪くすることもなかったでしょう。


 もうお会いすることは叶わぬのではないかと、

 心中、恐れておりましたが、

 誠志郎様はそれほど不人情な方ではありませんでした。


 あれから一度だけではありますが、

 明け方、裏口からそっと私の部屋を訪ねて下さったのです。


 私は夢を見ているのかと疑いながらも、あの方の胸へすがり付いていました。

 夢ならば、覚める前にそうすべきと考えたのでございます。


 人肌の温かさと心の臓の音を聞き、

 知らず涙をこぼすほど感極かんきわまってしまいました。


 誠志郎様はそんな私を憐れと思って下さったのか、

 なだめるように背を撫でながら、

 ご自身の決意の程を語って下さったのです。


 仇討ちを果たすまで、もうここへは来れぬ事。

 連絡を取り合ってると知れるだけでも大事おおごととなってしまう状況だという事。

 自分が兄の代わりに家督を継ぐといった話も出ているが、

 それは周りが勝手に申しているに過ぎぬ事。


 誠志郎様ご自身はもしも本懐ほんかいげたなら、

 恩賞としてまとまった金子きんすをいただけるよう、

 交渉するつもりでいるとおっしゃるのです。


 そのお金で……私を、身請みうけして、共に暮らしてもらえないか。

 どうしても、直接、私の気持ちを聞いておきたくて、

 今宵こよい訪ねて参ったのだと。


 そして、どこか遠くの町で家を借り、

 子供達に読み書きなど教えながら、慎ましく暮らしてみないかと。


 私に……一夜限りの夢を見せるはずの夜の蝶である私に、

 誠志郎様は夢を見せて下さったのでございます。


 もちろん、殿方のおっしゃることですから、

 どこまで本気であったのか。

 連絡さえ控えねばならぬ現状では、確かめるすべもございません。


 しかし、私にはこのひとときの夢だけで、

 充分だったのでございます。




 はい、不思議に思われたかもしれませんね。

 その私が、誠志郎様の勝利を疑ってでもいるように、お前様をお呼び立てしたことを。


 もちろん、疑いなどしておりません。

 むしろ誠志郎様ほどお強いお侍は他に知らぬほどでございます。

 どちらかと言えば、私は自分自身に幸福な未来が訪れることを

 信じ切れずにいるのでしょう。


 それに……どうも、に落ちぬのでございます。

 新田家ご一門の方々は、江戸城双子橋前ふたごばしまえ死装束ししょうぞくに身を包み、

 仇討ち御認可ごにんかをいただけるよう訴え出たということでございますが、

 それ自体、おかしなことに思えるのです。


 だって、そうでございましょう?

 実際、命をして戦うのは、誠志郎様お一人でございます。


 なぜ、お殿様から御認可を頂くときには皆で命を賭けるのに、

 いざ戦うときはお一人に任せてしまうのです?


 これでは本末転倒、

 命の賭けどころがおかしゅうございます。


 所詮、世を知らぬ女のごとと、お笑いになるかもしれませんね。

 ですが、お家の方でさえ御認可をいただいた時点で、

 もう問題は解決したとお考えになってるふしがあるように感じるのは、

 私の穿うがち過ぎでございましょうか?


 たとい、誠志郎様が敗れても、

 討手うってを出したことで、新田家の名誉は守られます。


 しかし本当にかたきが憎いと思うなら、

 そんなことは言っていられぬのではないでしょうか?

 たとえ、卑劣ひれつそしりを受けたとしても、

 恨みを晴らすべく策を講じるのが、そんなにおかしなことでしょうか?


 一対一の果たし合いにこだわる必要など、

 本当にあるのでしょうか?


 なのに、新田家で責められているのは、

 討手うってである誠志郎様だけであるように感じるのです。


 だいたい、なぜ誠志郎様なのでしょう?

 仇討ちは本来、嫡男ちゃくなんのお役目で、

 その人さえしっかりしていれば、

 そもそも誠志郎様が冷や飯を食わされる羽目になることだってなかったはずなのです。


 こういうときくらい、嫡男らしくお覚悟をされたらよろしいではないですか。

 でもお家のかたには、そのことに疑問を感じる者さえいないようなのです。


 侍の家では、長男だけが跡を継ぐ資格を持っています。

 だから、次男に貧乏くじを引かせることが当たり前になり過ぎていて、

 もはや疑問を感じることさえなくなっているのではないかと……


 ああ! でも、そうでなかったなら、

 私と誠志郎様が出会うこともなかったのかもしれませんね。


 だからやはり、こうなるしかなかったのでしょう。




 誠志郎様が、無事本懐ほんかいげられるなら、

 このようなことは杞憂きゆうに過ぎなかったと、どうぞお笑い下さい。


 しかしもし、松尾文台ぶんだいなる者が、

 誠志郎様を手に掛けたばかりか、やおら世に名を成さしめることがあったなら、

 私には到底っ、到底、受け入れられぬと思うのです!


 もし万一、その可能性があることを想像するだけでも、

 とても耐え切れぬ思いがするのです。


 それならばいっそ、

 一足先に松尾文台を討ってもらえるようお頼みするべきかもしれませんね。


 しかし……しかし、誠志郎様が無事お戻りになり、

 私を迎えに来て下さるという甘い夢を、

 その夢まで捨ててしまうことが、どうしてもできぬのです。


 ここ吉原よしわら公娼こうしょう御上おかみに認められた伎楼ぎろうだけが、

 揚屋あげやを置くことが認められています。


 しかしそれでもおたなごとに、少しずつ差があるのです。

 私共、遊女はこの伎楼ぎろうに買い取られ、

 多額の借銭しゃくせんを抱えているのが普通でございます。


 これを少しずつ返し、足抜けをするか、

 どなたかに大金を積んでいただき、身請けしていただく他に

 自由の身となる方法はございません。


 そうした規則が決められているだけ、

 吉原の遊女は恵まれてると申す者もあるでしょう。


 しかし、私が預けられている伎楼ぎろうは、

 あまりたちがよくないことで有名なのです。


 たとえば、遊女が着物を買うとき、

 金子きんすは私共の持ち出しということになって、借銭へ上乗せされてしまうにも関わらず、

 買った物はなぜか伎楼の所有物ということにされてしまいます。


 しかも、どの遊女にどんな着物を買わせるかは、

 伎楼のほうで決めるのです。

 また私共の衣装は、決して安い物ではございません。


 10両、20両なら、まだしも安い方で、

 花魁おいらんともなれば、諸々もろもろ1000両を超えることもあるのです。


 一晩、100両を稼ぐ花魁でさえ、

 なかなか足抜けができないのは、こうした事情もあるからでしょう。


 新造しんぞうの頃、私共の取り分は、せいぜい一部か一部半といったところでございます。

 にも関わらず、30両40両の物を勝手に買われてしまうのですから、

 それだけ稼ぐのにどれほど苦労したかと泣き崩れる遊女も少なくありません。


 私も遊女として一番油が乗っていたとき、

 こうして足抜けできぬよう留め置かれてしまいました。


 そして年増としまと見なされるようになった今、

 もう自力で借銭を返せる日が訪れるとは思えません。


 身売りをさせられてから、親元ともずっと連絡は途絶えたままでございます。


 ただ、私の伎楼ぎろうは部屋持ち以上の遊女が情夫いろを持つことには、

 まだしも寛容かんようでありました。


 このような環境に置かれた遊女達の心労しんろうはただ事ではなく、

 せめて心から愛する人が1人でもいなくては……


 誠志郎様がいなくては、私は生きていけぬでしょう。


 その誠志郎様が命を賭けて果たし合いへのぞむ以上、

 もしもの時は私もまた命を断つ覚悟でございます。


 しかし、それでは誠志郎様の仇を討ってくださる方が

 いらっしゃいません。


 お前様が、万一の備えとして控えて下さるならば、

 私はこの世になんの未練もございません。

 知らせを待つ間も、きっと心安く過ごせましょう。


 もちろん侍の家では、たとえ負けたとしてもいさぎよくそれを認め、

 決して見苦しい真似をしてはいけないということも存じています。


 でも私は遊女で……いえ、

 あの方の前では、ただ一人の女でございます。


 言ってしまえば、これは女の一念に過ぎぬのでしょう。

 ですが、侍の名誉などより、

 私にはこの女の一念こそ、人の情として正しき物に思えてならぬのです。


 私が幸福な未来を上手く信じられずにいるのも、

 きっと今までが今までだったからでしょう。

 だから、考えるのはやはり誠志郎様のことばかり。

 恨むことさえ、誠志郎様のかたきばかり恨んでいる気がいたします。


 お家の事情などで都合のよいときだけかつぎ出され、

 自分に冷や飯を食わせてきた父母のために命を賭けねばならず、

 跡目を取らせてもらえるわけでもないのに飼い殺しにされ、

 遊女と会うにも人目を忍ばねばならない。


 それもこれも、侍の名誉などというものがあるからでございます。


 ああ、私があだを討ちたいと願うのは、

 見も知らぬ松尾文台などという男ではなく、


 侍の名誉、そのものなのかもしれません」


いつの間にやら、彼女がふすまの前へ置いた

小判二枚は消え失せていた。


かつて、一夜に10両を稼ぎ、

数十両の着物に身を包む部屋持ち女郎にすれば、

小さな額と思うかもしれない。


だが伎楼ぎろうせきを置く遊女達は、

逃亡を防ぐため、自分の財布を持ち歩くことさえ許されていない。


小さな買い物をするためにも必ず伎楼を通さねばならず、

どうしても金子きんすを持ち出すなら、それは借銭しゃくせんへ加えられてしまう。


しかも、限度は2両までとさだめられており、

これはその全額であった。




さて、事件は新田家にとっても、松尾文台ぶんだいにとっても、

勝者などいないような顛末てんまつ辿たどることとなった。


勝った者も負けた者も、名誉をたもてたようには思えない。


誠志郎が、本当にあの遊女を迎えに行くつもりがあったかどうかも、

結局のところ、想像を膨らませる以外にはないだろう。


ただ、新田誠志郎が最期になにを言おうとしていたのか。

それは影だけが知ることであり、

またそれだけが、この事件のすべてだったようにも思える。


今朝、電子瓦版でんしかわらばんに載ったとき、彼女の稼業かぎょうに配慮してか。

名は伏せられていたものの、もちろんこの遊女にも名はあった。


末摘花べにはな

え段から始まる名である。


もし最期にその名を呼んだとすれば、

無論、口は“え”の形を結ぶであろう。


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サムライ無礼道 籐太 @touta

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