肆 眉月(まゆづき)
そろそろ、
いわゆる
松尾は、近頃、根城にしているドヤ街の安宿へ
向かっていた。
そこは本来、日雇い
だが詳しく身分を
いつしか
この辺りは、新宿歌舞伎町にほど近く、
江戸市中でもひときわ治安が悪いとされていた。
なにせ携帯電話を出すだけで、
人相の悪い男が、
オイコラと声を掛けてくるという噂まであるくらいだ。
もっとも、松尾はまだその現場に居合わせたことはない。
不用意に携帯電話を出す者が、そもそもいないのだ。
昼の果たし合いについて、
ネット上ではすでに多くの
現場にいた
すでに広く拡散されてしまっている。
松尾が、なにゆえ
なにゆえ語らずを通しているのか。
勝手に彼の心中を
彼をして
だが結局のところ、
真実を知るのは松尾
その松尾にすれば、
そもそも新田家の地位を考えれば、
彼の安い挑発に乗って得をすることなど、何1つない。
あえて、真剣の立ち合いへ応じてくれたのは、
やはり思うところあってのことであろう。
もちろんその息子、誠志郎が
親の仇を討たんとする気持ちは痛いほどわかった。
松尾もまた次男坊であり、
それゆえに父が斬られ、兄が切腹した後も、
母方の実家に養育され、生き残ることができた。
しかしそれは、いつでも、
どこか借り物の命を生きているような、
人混みの中で尻の落ち付け所がみつけられず
そうして
そんな松尾が、
それこそ片腹痛い。
言ってしまえば、松尾の弱気にこそ原因があった。
このまま詮議が続けば、
自分が本当のことを話してしまいたい欲望に負けてしまうのではないかと、
恐れたのだ。
果たし合いを受けたこととて、大層な覚悟などはなかった。
無視するには
かといって誠志郎ごときに黙って斬られてやるほどのことはない。
それだけのことである。
ただ、どちらかが善でどちらかが悪と決めつけたがるのが、
いみじくも命を賭けて戦った
松尾のことは高く持ち上げようとするのは、いかにも浅はかであった。
また、彼が見せた
肩で真剣をいなすなど、本当に可能なのか?
実際、目の前で見せられた以上、信じざるをえない。
いや、誠志郎が弱すぎたせいでは?
いやいや、やはり古流はひと味違うのだ。
いずれにせよ、二度までも敗れた
と大きな話題になっていた。
果ては、これほどの
彼の助命を請う声まで上がり始めるほどであった。
ともかくも、新田家へ対しては、
すでに義理を果たしたという思いがある。
残るは、かつて
ここまで語らずに来たとはいえ、
おのれの
藩には
だから松尾は、
すでに
そこに彼だけが知ることも多く書かれていたのは、言うまでもない。
明朝にはそれを持って
もし許されるのであれば、その場で腹を
だからようやく安宿へ辿り着いて個室の扉をくぐったとき、
やり終えたという思いからか、
電灯を
いきなり天上から影が落ちかかってきたのだ。
それでも咄嗟に鞘ごと剣を突き上げ、
剣を
反復的に
とはいえ、侍たる者、
決して闇討ちなどしてはいけないものだ。
その嫌疑を掛けられた松尾であっても、
なお意外の念が強い。
しかし侍でありながら、侍のしがらみに
その者らは、決して死ぬことを許されない。
侍は、死ぬことで名誉を守る。
敗北すれば、
失敗すれば、腹を切って汚名を
すなわちその者に名誉はなく、
どのようなときも
どのような手を使っても生き残ることこそ、義務づけられる。
その者は、狐の面で顔を隠し、闇へ溶け込むような黒装束に身を包む。
四本足の獣が今にも跳びかからん
人々は――
いったい、どこの手の者か?
そう
肩口からはらりと布地が裂けて、中身が露わになった。
「なんとっ」
松尾は低く唸るようにしたものの、
大声を出すことは恥じらった。
彼は着物の内側へ
それも、肩の部分にだけ。
そう、あの絶技・
なにも鍛錬のみによるものではなかった!
あくまで着物の内側に仕込んだ鎖帷子を、
つまり鎧があることを前提とした技に過ぎなかったのだ。
もちろん、あの果たし合いに予告があったわけではない。
これは松尾が普段からよく用心していたことを表しており、
むしろ
ただ、
このような
世の
果たし合いの現場を目撃していた“影”は、いち早くそれを見抜いていた。
だから初撃を防がれると見たとき、
咄嗟に
こうすれば、恥を恐れる侍が下手に騒ぎだてできぬと読んだのだ。
とはいえ、待ち伏せを仕掛けてきたことからも、
以前から影が松尾のねぐらを突き止めていたのは疑いようがない。
なのに、今日まで襲撃を控えてきたことになる。
松尾は目的が読めず、不気味の念を感じたものの、
それでも戦いを避けられる相手でないことも悟っていた。
無論、襲撃者にとっても、初撃で仕留められなかったのは、
大きな
松尾が声を上げずとも、
いつ誰かがひょっこり顔を出さぬとも限らぬ。
そうなれば、不利になるのは影の方だ。
その前に決着を付けようと焦ったか?
実戦剣法、
不用意ともとれる攻撃を仕掛けてきたのである。
さて、当然のことながら、忍びというのは
一般にイメージされるような無敵の存在ではない。
むしろ、剣術勝負であれば、
侍のほうに
なぜなら、忍びとは剣の腕だけ鍛えればいい
というものではないからだ。
闇に
人々の中に
武芸にしても、あらゆる武具を使いこなせるよう、
エキスパートとしてトレーニングする。
また忍びは、情報を持ち帰って報告することこそ、本来の役目であり、
それゆえ、生き残ることが至上命題とされる。
同時に決して証拠を残さぬよう
忍びの者がいると知られるだけでも、情報収集が困難になるからだ。
よって、
相手がそれと気付かれぬうちに始末する闇討ちこそ、
戦闘技術の
つまり、その剣は初撃こそすべてである。
それを
松尾の圧倒的優位となるのは
加えて、この安宿は布団を敷くのがやっとという、
言うまでもなく、
部屋の出入り口に立っているのは松尾であり、
影は奥手にある。
むしろ、袋のネズミとなっているのは影のほうなのだ。
松尾は最初、相手が
逃げ場のない
だが、剣術だけを鍛えるわけにはいかぬ悲しさか?
影は、上段に振りかぶったのである。
松尾はあえて抜かず、
こうすれば、刃が木の鞘に食い込み、
そのまま奥の壁まで押し込んで動きを封じた
抜刀して腹を刺すなどすればよい。
「――ぬッ」
だが、影は振りかぶったまま忍刀を背後へ捨てた。
侍にとって、刀は魂だ。
それを手放すなど有り得ない。
まして、戦場で
命さえ危うい。
このとき、松尾ははっきり
あろうことか、突き出した鞘を掴まれてしまう。
直後に影は
盲点ではあるが、足下や脇をすり抜けるより、
頭と天井の隙間の方がはるかに広い。
松尾が咄嗟に腕を引こうとした勢いを利用し、
そのまま鉄棒の前回りの要領で頭上を跳び越したのだ。
おそらく10寸ほどの隙間があれば、
跳び上がってすり抜けられるよう訓練したものに違いない。
それでも松尾は、咄嗟に脇の下から
さらに振り返る動作と屈み込む動作を同時に行い、忍刀のほうを掴む。
こちらはすでに抜き身であり、
しかも刀身が短い分、室内では有利なはずだった。
だが、影は思いの
それは明らかに剣の間合いではなく、
しかもなにかを
腕を振り上げていた。
そう、忍刀は拾わせるために捨てた。
少なくとも、自分の刀とどちらを使うか迷うはずだと読んでいた。
松尾は
背後からの攻撃をも警戒していた。
だが、それはあくまで剣での戦いを想定したものに過ぎない。
影にとっては、わずかでも振り返るのを遅らせ、
かすり傷でも負わせることが出来れば充分だったのだ。
松尾は、知らず膝を突いていた。
背中から冷たく
「せ、背中から……? 卑怯な、まさか……これはっ」
ただの傷によるものとは違う。
むしろ傷の痛みさえ
「……毒?」
血走った目で、影を
侍は決して背後から攻撃してはならない。
無論、毒を使うなど以ての
だが、この者は忍びである。
忍びにとって、薬学に
また刀さえあくまで武具の1つに過ぎない。
通すべき義理を持たず、守るべき礼儀もない。
ただ相手を
命を奪うことに疑問を抱かず、
敬意もなければ、感謝もない。
そこに名誉は必要なく、
恥など捨て置けばよい。
まさに獣の
サムライなる道を知らぬ、
まこと、無礼なる
しかして、そも生き残るための戦いこそ、
もっとも野蛮なものなのだ。
松尾は、どうっと倒れ、
棒手裏剣の刺さった背中が
影は、麻痺が広がり過ぎる前に忍刀から松尾の指を引き剥がすと、
背中の棒手裏剣にも手をかけた。
「しょ……書状を、殿に……書状を」
松尾は、忍びを
書状を仕舞った
影は松尾に
一息に手裏剣を引き抜いた。
それから
なんと、中をあらためもせず火を
「な……なぜ?」
松尾はついに
怒りと
影は、懐から二枚の小判を取り出すと、
片方を死体の上へ放った。
小判一枚は、一両となる。
一両は、外貨にして約2000ドル。
それより下の
一両小判には今でも、本物の
葬儀に使う費用としては、
充分過ぎるであろう。
そのまま、窓から外へ出ると、
影はするすると
やがて、屋根の上へ辿り着く。
野の獣が如き忍びも、やはり人の子であったか。
ひととき、
夜空へ目を奪われたが
そこには、
これから十五夜の満月へ向けて、
少しずつ輝きを増していくのであろう。
しかし、はっとしたときにはもう、
影はいつの間にやら、姿を消していたのである。
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