参 血闘(けっとう)
すでにネットを
およそ逃げ
なにゆえ士道を犯すほどの不名誉を被ってまで
中には首を傾げる者もあったものの、
ここへ至っては、もはや
そして、
トラ流、松尾
誠志郎の言葉通り、
答えは剣が出してくれるであろう。
松尾は左肩を前にすると、
膝がほとんど直角になるほど深く、腰を沈めた。
刀はまっすぐに立て、右脇へ引っ付けるようにして構える。
これは
ただ使いこなすのは難しく、
むしろ現代ではあまり意味のない構えとされていた。
スポーツ剣道では、禁止されているほどである。
だがそれは、この構えの持つ正しい意味を知る者が
少なくなったためとも
一方、誠志郎は
相手へまっすぐに切っ先を向けていた。
攻めにも受けにも回ることが出来る、
基本にしてもっともバランスの取れた構えと
剣を知る者なら、この時点で先に仕掛けるのは
誠志郎と読んだに違いない。
真剣を使うことを意識して、
誠志郎は通常よりも腰を落とし気味にしていた。
だがそれでもなお、松尾のほうがずっと低い。
これでは素早く攻め掛かるのは、到底不可能というほどだった。
戦場剣術では、重さ5~6貫、およそ数十kgに及ぶ
それゆえ、そもそも素早く動くことは想定されていない。
だが今、実際に鎧を着ているわけではない。
むしろ皮肉なことに、
より実戦的な構えを取っているのは、誠志郎のほうであった。
道場剣道をもとにしつつも、
真剣を扱うことに
松尾は、古流の
古きを守るは
これでは、若き誠志郎の勢いを
いささか難しくあろう。
それでも、流派、構えの差などより、
使い手の実力こそ、もっともよく勝敗を分けるものなのは言うまでもない。
また、真剣での
日本刀がいかに頑丈でも、同じ日本刀と打ち合っては、
勝負の途中で刃が欠ける、曲がる、折れるといった事故が
起きる可能性が高い。
なにより、刀は侍の魂なのだ。
きちんと手入れさえすれば、数百年に
たとえ大金を積んで買ったとしても、決して使い手の所有物などではない。
あくまで天より借りているという感覚が近かろう。
無闇に傷つけてはいけない。
果たし合いとはいえ、侍には多くの守るべき作法や信念がある。
それは命より優先されるべきものと、考えられていた。
ゆえに真剣勝負に受けはなく、
「松尾殿、貴方は多くのことを語らぬままにしている。
今のうちに言い
「お
しかし答えは剣が出してくれると申されたのは、誠志郎殿だったのではありませんかな?
それとも言い
若侍は、瞳へわずかに迷いをよぎらせた。
直後に起きたことは、すべてが
なんと先に攻め気を見せたのは、松尾だった。
それでも早かったのは、誠志郎である。
相手に攻めさせるため、あえて隙を見せたのかと思える
奇妙!
松尾は踏み込みこそしたものの、構えを解いていない。
左肩を前にしたまま、信じ難い行動へ出たのである。
古流剣法は、甲冑を身に
防具に竹刀を当てる競技ということも出来たろう。
誠志郎にとって想像の外であったに違いない。
なんと松尾は、肩で真剣を受け流したのである。
通常想像するよりも、はるかに
これは、侍たる者、
実際、
だが当然、戦場では飛び道具からも身を守らなくてはならない。
そのとき侍は、肩を前にして前進する。
つまり、
矢や鉄砲さえ通さぬほど頑丈に作られているのだ。
もちろん、松尾は鎧を身につけてるわけではなかった。
だが仮に鎧を
正面から受けては体勢を崩しかねない。
だから刃の横にある平たい
受け流すのである。
幕府の
この
素手で刀を止めてしまう
これは斬りかかろうと振り上げた一瞬の隙を狙って掴む技であり、
振り下ろしたところを止める技ではない。
松尾も、あえて自分から間合いを詰めることで、
誠志郎の勢いを殺している。
だがそれを持ってしても、
肩で刃を受け流すとは、
先制したはずの誠志郎が姿勢を崩す。
無論、松尾は防御のためだけに肩を使ったわけではない。
すれ違い様、低く滑らせるように、
誠志郎の膝を横様に斬り払っていた。
これぞ
膝の横を斬ったのは、そこが鎧を着ていた場合、
ちょうど
また現代剣道とは比較にならぬほど低く構えた松尾にとって、
脇腹よりも膝のほうが近く、斬りやすいという事情もあった。
このとき、誠志郎には自分の身に起きたことを
正しく理解する
それでも、咄嗟に大きく前方へ跳んだのは
松尾はトドメを刺す機会を
しかし誠志郎の気力ももはやそこまでであった。
背を向けたまま膝を突いてしまったのだ。
勝負あり。
だが、慌てて背中へ斬りつけるのは、
名誉を重んじる侍は、
侍は決して恥を掻いてはならない。
だから、たとえ殺し合いの最中でも、
相手に恥を掻かせぬよう
よって振り返るのを待ってから、首筋へ切っ先を突きつけ、
勝敗を確認した上で、
また斬られる側も結果を素直に受け入れ、
死の覚悟があったことを示す。
敗北した以上、生き残るのは恥である。
侍として生まれた以上、生き恥をさらすことなどあってはならない。
こうなっては、もう立派な最期を遂げることで、名誉を守る他ないのである。
「勝負ありと見受けますが、いかがか?」
松尾は、
だが誠志郎のほうは、あろうことか、一瞬、怯えの表情を見せたばかりか、
なにごとか声を上げようとしたのである。
即座に、松尾は
万一、誠志郎が悲鳴を上げれば、
見苦しい最期を遂げさせたことになってしまう。
それは、生き恥をさらす以上の
あってはならぬほどの大恥であった。
こうなると、新田家はまたも恥を
太平の世にさらなる血を流すことにもなりかねない。
返事を聞かずに
新田家の名誉を守るためには、致し方なき
「さすがは玄蕃斎殿のご子息、
最期までご立派なお覚悟でありました」
松尾の言葉が
大衆の目にも明らかだったろう。
問題は、最後に残された母親がどう出るかだ。
「尋常な果たし合いでのこと、もはや
彼女の目にも、誠志郎が悲鳴を上げそうになったと見えたのか?
涙を溜めながらも、
今し方、実の息子を斬った男へ丁寧に頭を下げたのである。
母親でさえ、夫や息子の死を覚悟し、
たとえ相手が憎い仇であっても、見苦しい真似はせず礼を忘れない。
それが家の名誉を守ることと心得ていた。
侍とは、そういうものであった。
また意図したものか否か?
誠志郎とその父、
それはつまり、松尾が闇打ちなどしなかったと
まさしく剣を持って証明したことになろう。
また、誠志郎がそうだったように、
あるいは
ならば、唯一、その最期を見届けたはずの松尾
あえて汚名を着せられてまで
侍の道に叶ったことだったのかもしれない。
侍は恥を掻いてはならない。
また、侍は侍に恥を掻かせてはならない。
ゆえに、1つ自分の身のためだけに、
他者の名誉まで
たとえ、生涯を
義を通すのが侍である。
義のために
もっとも松尾が
それほど理不尽とも言えまい。
またその息子が尋常な勝負を挑んできたのなら、
こちらもまた尋常に立ち合うのが
あえて手を抜くのは無礼というものだろう。
たとえそれが、さらなる悲劇を起こす結果になっても、
通すべき義を
――ただ、どれ程の者が気付いたであろう?
果たし合いを見届けるや、
そっとその場を離れる影があったことを。
そして、誠志郎が最期に声を上げようとしたとき、
その口の形が母音で“え”の形に結ばれていたことを。
恐怖に際し、“あ”“い”“う”の形で悲鳴を上げるのは、
珍しくない。
だが、“え”は少々珍しい。
誠志郎は、いったい何を口走りそうになったのか?
理解している者がいるとしたら、
この場には、おそらく影だけであったろう。
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