弐 出来(しゅったい)
さて、
常に腰へ刀を
侍とは、庶民の見本となるような生き様を見せるからこそ、
さまざまな特権を許されているに過ぎないのだ。
もっとも、切り捨て
だが実際には、その場合でも
罪に問われぬ代わり、いざ問題を起こしたなら、
自ら命を絶たねばならぬのが侍なのだ。
恥ずべき行いをする者は、たとえ身分が高かろうとも真の侍ではない。
無闇に
彼らはなにより家を大切にし、誇り高く生き、
決して恥を掻いてはならないと、固く教えられる。
切腹とは
家名を汚さぬために行うのである。
ただし、何事にも例外はつきものだ。
侍には命に代えても、必ず相手を斬らねばならぬ時がある。
たとえば、仇討ちがそうだ。
しかし庶民の見本となるべき彼らが、なぜあえて
それは仇討ちが、人の道として人を
侍としての義務である。
無闇に人を斬ることが恥ならば、
戦うべきときに戦わないのは大恥である。
侍は決して、命を
いつでも死ぬ覚悟を持って生き、
いざそのときが来れば、
侍が侍として生きる意味がある。
もちろん、仇討ちがあくまで人の道である以上、
厳しい制限があるのは、当然と言えよう。
まずは自らの主君へ願い出て、
免状、つまり許可証をいただいた上で、実行へ移すのが筋である。
主君もまた、無闇に殺し合いを認めることはない。
これが人の道として
また
実力があるかどうかも判断基準となる。
すでに
法的に認められる決闘は一度きりであり、
万一、敗れるようなことがあれば、
親の仇であっても
だがだからこそ、追われる側も勝負を受けるのである。
もっとも、実際にはこうこうこういう理由でこういう処罰を与えておくから、
どうか
主君の
侍の
お殿様がそうおっしゃるならと願いを取り下げ、
このほうが、むしろ理性的に物事を丸く収めることができ、
遺族もまた仇討ちを強く望んだという形になり、
だが、新田
新田家は代々将軍家に仕える
江戸に道場を開く剣道家としても名を知られた存在だった。
一方、松尾は
同じ侍でも、戦場で騎乗することを認められた
足軽は単なる
しかも、新田家は将軍家へ仕える
無論、
1万石を超える
旗本はそれに次ぐ地位が認められていた。
だが足軽は、侍とは名ばかりの暮らしをしている場合が、
ほとんどであった……
それでも松尾は、
武者修行の旅へ出ることを許された。
これは将来、
足軽の身には
こうして、江戸へやってきた松尾が、
腕試しに玄蕃斎の道場を訪れたのは、ごく自然なことと言えたろう。
トラ流とも呼ばれる、松尾の
はるか戦国の世に広まっていた古流剣術を復活させたものである。
一方、玄蕃斎の
竹刀などは
だが無論、必ずしも古流が強いというわけではなかった。
玩具だからこそ、本気で打ち合っても怪我をせずに済む。
つまり、それだけ長時間、
ゆえに、道場剣は古流に比べ、ずっと合理的であり、
スポーツとして完成されているという側面も持っていた。
玄蕃斎は当初、弟子達にちょっとした刺激を与えたいと考えたようだ。
自分達の流派は、すでに古流を上回っている。
だが、古流がその源泉であることは疑いようがない。
それを肌で感じるのは、きっと勉強になるはずだと。
松尾の構えは、独特であった。
まるで鋼の刀でも握っているように、どっしりと腰を落とした
不格好な構えを取ったのだ。
道場剣法では、素早く動けるよう腰を高く構える。
実際に試合で使われるのが竹刀である以上、
こちらのほうが
認めている。
もっとも、それはすぐに掻き消されることとなった。
立て続けに打ち倒されたからである。
ここへ来て、
ついに、自ら松尾と立ち合うべく竹刀を取る羽目になったのだ。
だがもし、
道場内は、ただならぬ緊張に満ちていたという。
もっとも、試合そのものは尋常に執り行われた。
結果――わずかに早く、
門下生達も、ほっと胸を撫で下ろしたという。
道場主にしても同じ気分だったのか、
かすかに浮かべた笑みは、晴れやかとまでは言えないものだった。
「さすがは松尾殿。
この勝負、引き分けといったところですかな?」
それでも、道場主がそう言い出したのを
門下生は松尾の顔を立てるための配慮と受け取っていた。
しかし、松尾のほうでは違ったらしい。
「
我がトラ流は、真剣で立ち合うことを想定したもの。
もしこれが戦場での立ち合いであれば、どうなっていたか?
よもや、
もちろん、門下生達は一斉に松尾の態度を批難した。
先に刃が当たった以上、
真剣での立ち合いであっても、松尾がそのまま振り抜けたはずはない。
下らぬ負け惜しみを言い立てているのは、そのほうであろう。
それに比べ、我らの師は剣の腕のみならず、
やはり侍としての礼を心得ていらっしゃる。
皆も、見習うべきであろう。
しかし、当の
黙してただ、松尾の瞳を覗き込んでいたという。
事件が
どこぞで酒を飲んでいるにしても、
日をまたいで帰ることはまずなかった。
しかも、その日は次子、誠志郎の姿も見えなかったのである。
とはいえ、大の男が二人、
なにも心配するほどのこともなかろう。
一緒にいるのであれば、むしろ安心。
2人の腕を知る
それでも虫の知らせでもあったものか?
婦人だけはそわそわと落ち着かぬ様子で、2人はまだか、連絡はないかと、
繰り返し尋ねてきたのを、多くの者が記憶している。
やがて
ようやく帰宅する者があった。
誠志郎は、ぷんと微かに
顔には酒気を帯びていた。
だが、彼は1人であった。
おまけに、友人宅で酒を
父のことなど知らぬと言うのである。
ここへ至り、婦人の忍耐も限界となったらしい。
厳しく息子を
こうなっては家人も尻を落ち着けているわけにはいかず、
誠志郎ともども捜索へ当たることになった。
果たして、くだんの人物はあっさりとみつかった。
ちょうど道場と屋敷の中間辺り、
人目に付かぬ暗がりで、仰向けに倒れる姿があったのだ。
膝の外側と首筋を切られ、絶命していた。
無論、
正々堂々の勝負に納得せず、仕返しに
到底、侍の振る舞いとは認められない。
時代が時代なら、打ち首
切腹さえ許されず、
平政の現代、さすがに
それでも厳しい
だが侍の
よりによって、お互い納得ずくの立ち合いだったと申し開いたのである。
試合の後、続けて真剣で立ち合うことを、
互いの目で確かめたと言うのだ。
その証拠に、
西洋風にベルトで
一本結びに帯を巻いた上で、そこに刀と
道場主とはいえ、
一本差しに留めていた。
こういった出で立ちのほうが、
だが帯へ刀を差したほうが、
いざというとき抜きやすく、実戦的な
松尾はそれを確かめた上で声を掛け、
あらためて勝負を挑んだと言うのだ。
確かに松尾の言う通り、
さらに昔の玄蕃斎を知る者の中からも、
あの人ならそういうこともあるかもしれないと証言する者まで現れた。
無論、それだけでは決定的な証拠と言えない。
また、出世街道へ乗っていたはずの松尾
このように軽々しい行動へ出たのも不思議な話である。
しかし、松尾自身が語ったのはここまでで、
なぜかそれ以上のことはなにも話そうとしないのだ。
こうした事情から、
無論、真剣を使っての私闘は
しかし
周囲へ事前の説明をしていなかったのは、それが理由とも取れた。
加えて、松尾は武者修行の
お互い納得ずくの立ち合いであれば、
通り
そうこうするうち、
松尾はもともと
まことしやかに囁かれるようになった。
噂の出所は、インターネットである。
実は、若かりし頃の
武者修行の認状を持って諸国を旅していたこと。
さらにその際、近江藩の
誤って殺害してしまったこと。
疋田の息子は、即座に仇討願いを届け出たが許されず、
それに抗議する形で切腹して果てたこと。
疋田の
こういった情報の断片をネット上のあちこちから、
収集する者達があったのだ。
さらに、疋田の仇討が許されなかったのは、
身分の差があったせいではないか?
息子が切腹して抗議するほどなのだから、
やはり
ひょっとして、
だが待て? そうすると松尾は立ち合いではなく、
やはり最初から闇討ちを狙っていたことにならないか?
予期せず、事件は世間の
なってしまったのだ。
こうなると黙っていられないのは、
新田家の者達であろう。
本来、被害者のはずが、
果たして幕府に対し、仇討ち願いが届けられた。
次男、誠志郎の手によってしたためられたものであった。
『道場での立ち合いで勝ったのは、我が父、新田
たとえ真剣に持ち替えたからといって、
松尾
考え
加えて、一太刀目は膝の側面を斬られており、
松尾某の正面から立ち合ったという証言も、いささか怪しく感じます。
こう申しますのも、
横様に切り払うのは、それほど力が入らぬものだからでございます。
それゆえ、柔らかい脇腹を狙うのが普通であり、
まともな傷を付けられるのは、
せいぜい股の高さまででございましょう。
これは剣の道を歩んだことのある方であれば、
どなたであっても、
わざわざ膝を狙うのは、不自然でございます。
つまり松尾は父の側方より、突如襲いかかり、
一太刀目を仕損じたために生じた傷と考えたほうが、
自然な説明ではありますまいか?
よって、当家は松尾が闇討ちを仕掛けたものと
確信しております。
父が
松尾がただならぬ憎しみの
その瞳から見て取ったゆえ、用心したためではないかと推察します。
清貧を
充分に有り
無論本来であれば、すべて
充分心得ておりますが、
また、世間で噂されるようなことは
松尾本人が何も語らぬ以上、
父との間に
仮に噂通り仔細があったのだとしても、
免状もなく
それはただの復讐、ただの人殺しに相違ないではありませんか。
断じて、仇討ちと呼べるものではございません。
にも関わらず生前、父が築き上げた名誉さえ
当家にとって
よって、ここに仇討ちの
また仇討ちが
加えて
重ねて
実は、事件当夜のアリバイが不確かであった誠志郎についても、
当初、友人宅にいたと証言していた誠志郎だが、
実際のところは、馴染みの
なんと
父親が
息子が遊郭遊びへ
新田家にとって恥の上塗りとも言える
婦人は、時代が時代なら切腹を申し渡されても不思議はないと、
激しく息子を責め立てた。
誠志郎が
それは幾日にも
家人達も、本当に腹を切らせてしまうのではないかと恐れ、
さりとて、
やがて母子から距離を置くようになってしまった。
とはいえ、それまでずっと誠志郎の
黙認してきたのも事実であった。
婦人は二人して吉原へ繰り出したのではないかと、疑っていた節がある。
だが、誠志郎にも同情すべき点は多い。
書状にある通り、
屋敷から滅多に姿を現さぬばかりか、
剣よりも絵筆を握ってる時間のほうが長いような
反面、誠志郎はもともと家人からも門下生からも人気があり、
その腕前はいずれ父親に並ぶと
だからこそ、
かといって、
こうなると、誠志郎は冷や飯を食わされる他になく、
飼い殺しも同然の立場といえた。
加えて
若い身体を持て余しているところがあった。
しかも、そんな次男坊を憐れんでか、
遊郭遊びを教えたのは、一家の主たる
こういった事件が
咎められるほどのことではなかったろう。
また新田家を代表し仇討ちへ
この誠志郎を置いて他にいないのも事実であった。
名乗りを上げることになった。
これに
むしろ
いくら剣の腕が優れていても、
本来、次男である誠志郎が道場を継ぐことは認められない。
たとえ剣を振るえなくても、長子だけがその権利を持つ。
それが
もっとも、継がされる側にとっても迷惑な話だったかもしれない。
だが、
侍の世では
無論、天下太平の世で、そうそうそのような機会に恵まれるものではない。
ただ1つ、仇討ちを除いては。
命を
親の仇を討つことは、侍にとって最大の
もし誠志郎が
汚名を返上できるばかりでなく、
本人にとっても、
人生を逆転できる最初にして最後の機会と言えたろう。
それでも、いやそれゆえにか、
誠志郎は
竹刀を使った剣道と真剣を使った剣術の違いについて、
研究することも
この時代、ほとんどの侍がそうであるように、
誠志郎もまた真剣を使って
いざ試してみたところ、
その重さで想像以上に
それゆえ、まずは自らを
連日、日が暮れるまで
無論、遊郭通いのような悪癖も影を潜めた。
そんな誠志郎に門下生達はますます肩入れし、
厳しい訓練にも進んで協力するようになっていった。
このように周囲の期待を一身に受けながらも、
誠志郎自身はあくまで次男として兄を支える立場を崩さなかった。
これがまた一門の者達を
やがて道場の誰もが、真剣での立ち合いなら、
誠志郎様こそ
だが、免状はなかなか降りなかった。
世間から注目を浴びる中、
新田家は繰り返し嘆願書を送る羽目になったが、
ついに風向きが変わるときがきた。
長く続く詮議に
あろうことか、
突如姿を消し、
これは、明らかな
侍が牢へ入れられることがないのは、
こういったとき、絶対に逃げないことが前提となっている。
士道を犯せば、もはや侍とは認められない。
本人はもちろん、お家お取り潰しも当然。
それどころか、幕府からのお
所属する
下手をすれば、藩主が隠居をする、家老格の者がお腹を
そういった事態にも発展しかねない大問題だった。
無論、武者修行の免状もお取り消しとなった。
同時に、
出奔したのは、近江藩の藩士ではない。
この上は、我が方で
近江藩にしても、こうせねば、
汚名を
すぐさま、新田家及び
江戸城、双子橋前へ出向いた。
全員が
死に装束に身を包んでおり、
仇討ち願いを差し上げ、城門の前へ平伏したのである。
新田家一門はもはや
もし、近江藩士達の手によって松尾が葬り去られれば、
憶測を繋いだ噂だけが残り、
永遠に名誉を回復する手段を失ってしまうのだ。
という見方が強くなっていた。
また新田家一門が
SNSを伝って広まってしまった。
パフォーマンスを非難する声もあるにはあったが、それはわずかなもので、
おおむね同情的に
むしろ
ネット上ではこの果たし合いがどう決着するかで、
早くも議論が
今や、誰もが免状の降りることを願っていた。
いずれの
松尾の他にはお
双方の顔を立てる形を取ったのである。
こうして、ついに悲願は叶った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます