春の日
鴎
第1話
老人は車椅子に腰掛けて温室に佇んでいた。春の午後の陽光が優しく照らし、温室の中は実に過ごしやすい気温だった。老人はこれといって動くこともなく外を眺めている。寝ているのではなくただじっと、外を見ている。この家は高台にあり、下に広がる景色が見渡せる。住宅街が続き、繁華街があり、その向こうには海があった。
「お加減はどう」
そう言って温室に入ってきたのは青年だった。人間離れをした艶やかな髪をして、ゆったりとしたローブのような服を纏っている。老人は魔術師だった。しかし、老いてもう動くことさえできない。昔は高名な魔術師だったが今やその影はない。しかし、昔であってもこの老人を知る者は限られていただろう。高名といってもその功績を知る者はごくひとにぎりだった。老人はその一生をほとんど人と関わることもなくすごしてきた。老人はひどく人間嫌いだった。
「うん? ああ、悪くはない」
「それは良かった。紅茶を淹れたよ。慣れないから味の保証はできないけど」
「構わんさ」
老人は渡されたカップをすすって満足げに口元を緩ませた。老人は人間嫌いだったが青年とは普通に接した。老いてその性分も落ち着きを見せたのか、それとも青年が纏う人間離れした雰囲気のせいなのか。いや、やはりその両方がゆえなのだろう。
「天気が良いね」
「ああ、まさしく春といった感じだ」
「ここは本当にたくさん花が咲くね。これだけ育てるのは随分な手間だったでしょう」
温室は咲き誇る花々で満ちていた。
「手間だったが、私の魔術は植物を使うからな。存外、経験でなんとかなるものだ」
老人は植物による魔術を使ったが十数年前にその研究を止めていた。代わりに、単に趣味として様々な花々を育てていた。温室の中は今や小さな植物園のようになっていた。
「随分長いことやってきたが。植物だけが私の友人だった。これと関わっている間こそが私の生きている時間だった」
「人間の友達は居なかったの」
「居なかった。私は人間が嫌いだったからな。いや、違うか。白状すると私はずっと人間が恐ろしかったのだ。何を考えているのかちっとも分かりはしなかった」
老人は穏やかに言った。
「会話すればある程度は分かるものじゃないの」
「いや、やはり分からなかった。強いて言えばまだ子供の頃はなんとかなっていた。皆裏表なく話すし、仮にあったとしても他愛ない可愛らしいものだ」
「子供は純真ってやつか」
「だが、少年になって皆が大人に近づき始めると何もかもが変わっていった。皆、何を考えているのか分からなくなった。皆、私の知らない言葉で、私の知らない事を話すようになっていった。私はまったく人間というものが分からなくなった」
老人は表情を歪ませた。遠くでヘリコプターの音が響いていた。
「それから人間と関わることを止めた。人間と話していてもひどく恐ろしくなるだけだった。ひどく苦しくなるだけだった。人間は私に苦痛しか与えなかった」
「ふーん」
青年は間の抜けた相槌を打った。
「人間は私のわからないことばかりをする。金も私には分からない、社会というものも私には分からない。倫理観というものも私には分からない。愛というものも私には分からない。日常、普通、仕事、夢、分からないことばかりだった。私にはとんと人間というものが分からなかった。今になってもだ。私はそんな人間が妬ましく、恨めしく、憎かった。一切合財が謎なのに、私に同じであるように求めてくるのだから。本当に恐ろしい連中だった、人間というのは」
老人はため息をついた。ひどく疲れたため息だった。
「人間というものも分からなかったが、同時に私も良くわからなかった。同じような人間の姿をしているのにここまで中身が違うのは一体全体なぜなのか。まったくもって分からなかった。それも苦しいことだった。私は苦しみを紛らわすように植物と語らった。植物とは心が通じ合うようだった。それを見た何人かの人間は私の能力を評価したが、正直それもどうでもいいことだった。結局評価というものも私には良く分からないのだから。きっと私は人間と根本的に何かが違うのだと思ったよ」
「ふーん」
「そうやって植物と関わりながらも幾度となく人間のことと私のことを考えた考えて考えて何十年と経ってしまった。結局答えは出なかった。こうして老人のように話しているがね、実のところ中身は十代の頃から何にも変わった感じがしないんだよ。私の時間は何十年と動いていないんだ。結局私はなんの答えも得られず、何の満足も幸福も今の今まで得ることはなかった。ただ、延々と空虚さと苦痛があっただけで、それを植物がなんとか紛らわしてくれたような人生だった。なんとも虚しい80年だった」
老人は自嘲的に笑った。
「結局なんだったのだろうか。人間とは、私とはなんだったのだろうか。分からずじまいだったよ」
老人はカップの紅茶をすすった。そうして穏やかにまた景色に目を移す。青年が答える様子もなく、そもそも老人は答えを求めてもいなかった。ただ、独白をしたかっただけなのだ。自分の人生を振り返って、そこでとうとう分からなかった疑問を一応吐き出しただけなのだった。だから、老人は青年が何を話さなくとももう一口紅茶をすするのだった。
「そうだね」
しかし、返答はあった。
「結局、あなたは人間が好きだったんじゃないかな。人間に対してそんなに色んなことを思うのは仲間に入りたかったからなんじゃないかな。あなたはきっと誰より人間的だったんじゃないかな。そしてそんなに悩んできたのならなら、あなたはきっと正しい選択をしてあなたなりに正しい生き方をしたんじゃないかな」
「ふむ」
老人は青年の答えに顎を撫でてしばし考えた。
「ふはは、なるほどそうだったか。そういうことだったか。それは、良かった」
老人は満足げに微笑んだ。そしてゆっくりとまぶたを下ろし、全身の力を抜いていった。手元からカップが転げ落ちる。しかし、中身はすべて飲み干されていて紅茶が飛び散ることはなかった。
「お疲れ様。おやすみなさい」
青年は静かに言った。
春の日 鴎 @kamome008
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