怪物の街

黒豆博士

怪物の街


「どうしたら人間になれる?」


 怪物が俺にそう尋ねてきた。

 明確な答えなんてあるわけじゃない。

 だけど俺は人間だから、俺が人間である理由をちょっと考えてから、こう返した。


「自分を殺せるようになればいい」





 十数年前には満天の星が見れた街の空は、もうすっかり薄汚れた雲に覆われていた。仄かな月光は頼りなく、ゆらりと上る紫煙が怪しげにうねる。

 不規則に明滅する電灯、車の通らない道路。

 しんと静まり返った住宅街、人のいない交差点。

 怪物でも出そうな夜の街。


「…………」


 そのとき、俺は自分がどこにいたのか覚えていない。犬小屋のある小さな家の、背の低い塀の傍だったかもしれないし、タイヤが無造作に並べられた空き地の真ん中だったかもしれないし、あるいは明かりのほとんどない、怪物でも出そうな夜の街を一望できる、広いテラスだったかもしれない。わかるのは、とにかく俺はどこかに立っていたということだけだった。

 そこに、俺を見つめる影がいた。

 顔に薄暗い靄がかかっている。体はヒトの形をとっていたけれど、蠢く何かを無理やり押し込めてその形を作ったかのような、でたらめな均整だった。

 そいつが誰なのか。そいつが何なのか。

 そんなのいうまでもない。

 怪物だ。


「…………」


 怪物は何かを話すことはなかった。ただじっと俺を見つめていた。顔には靄がかかっているから、表情どころか、どんな容貌をしているのか、そもそも目があるのかすらわからなかったけれど、怪物は確かに、俺を黙って見つめていた。

 俺もまた、怪物を見つめ返す。

 恐怖はなかったし、疑問もなかった。ただ、そうしなければならないことだけがわかっていた。

 そのうち、俺は怪物の様子がより詳しくわかるようになってきた。

 不思議な感覚だった。互いに指一本すら動かしていないのに、相手の怪物が何をしたいのか、いま何を思っているのか、その情報が確信を伴って、するりと俺の中に飲み込まれていった。

 怪物は見つめたくて俺を見つめていたわけではなかった。

 怪物は俺に触れたがっていて、でもなぜだか指一本動かすことすら出来なくて、しかし欲求を抑えることもできずに、歯痒い思いを噛み締めながら俺を見つめていたのだ。

 俺と怪物は、まるで間に透明な壁があるかのように、絶対的な何かによって隔てられていた。

 それはいうなれば世界の隔たりであって、すべての善と悪の分かれ目であって、人間と怪物の境界線だった。


「…………」


 怪物は怒っていた。憤っていた。そして、悲しんでいた。怪物は、その隔たりの存在を受け入れられないようだった。自分が人間でないことを、自分が怪物であることを認めたくないようだった。

 怪物の視線が俺を貫いた。怪物の嘆きが、羨望が、怨嗟となって俺に激突した。

 なぜお前が人間で、なぜ俺が怪物なんだ。

 怪物の視線はそういっていた。

 不思議なことに、不気味な怪物の激情を受けても、俺はいたって冷静にそれを把握した上で、落ち着き払っていた。まるで人間のように取り乱す怪物の様子に、親近感とでも表すべき妙な感覚が胸を満たしていって、むしろ俺は積極的に怪物のすべてを理解したいと思った。


「…………ア」


 そして幾ばくもしない内に、怪物の視線に驚愕の色が混じり、動揺が芽生えた。

 指一本すら動かすことが出来ないけれど、声を発することはできる。

 その事実を理解した怪物は、俺への視線に乗せていた感情の一切合切を消し去り、本当の意味でしばらく固まっていた。

 俺はそのとき、怪物は歓喜しているのだと思った。俺に対し何をすることも出来なかったところで初めて俺へ働きかける手段を得て、普通の人間のように喜んでいるのだと思った。

 しかし違った。喜ぶどころか、怪物はいきなり、焦ったように再び俺を見つめると、あるのかもわからない口をもごもごと動かして、俺に伝えるべき言葉を苦心してまとめ始めた。そしてようやく口を開いたとき、俺はやはり怪物は怪物なのだと思った。それまで怪物に対し微かに覚えていた人間臭さや親近感が、どうしようもない勘違いの紛い物だったのだと悟った。

 怪物は俺に語りかけるのではなく、尋ねてきた。


「どうしたら人間になれる?」


 怪物の声は曖昧で、若く張りのあるようでいて、老いてしわがれているようでもあった。もしかしたら、その発声は声ではない別の何かだったのかもしれない。

 少なくとも、怪物の声は、人間のものではなかった。そしてその問いも、人間ならする必要がないものだった。

 だからこそ、人間である俺が明確な答えなんて持っているはずもない。

 けれども、俺はその問いにはどうしても答えなければならないような気がした。答えなければ、俺が人でなくなるような気がした。

 だから俺は俺が人間である理由をちょっと考えてから、こう返した。


「自分を殺せるようになればいい」


 俺の答えを聞いてから、しばらく怪物は何の反応も見せなかった。あれほど手に取るようにわかっていた怪物の視線も、感情も、一瞬のうちによくわからなくなった。

 そして怪物が再び俺に視線を向けた時、俺はこの怪物と出会ってから初めて恐怖した。

 怪物は笑っていた。心底おかしそうに俺を嘲笑っていた。

 あるのかもわからない口を歪めて、靄に覆われた歯を剥き出しながら、俺を笑っていた。


「なんだ。なら、お前も怪物じゃないか」





 誰もいない街だった。怪物の出そうな不気味な街だった。

 しんと静まり返った夜の街を一望しながら、怪物はテラスに佇んでいた。

 俺は思い違いをしていた。怪物と出会ったのがどこか、俺はよく覚えていないといったけれど、それは思い違いだった。犬小屋のある小さな家の塀の傍で、タイヤが無造作に並べられた空き地の真ん中で、街を一望できるテラスで、すべての場所で俺は怪物と出会っていた。

 怪物とは、欲望だ。人間であろうとする欲望だ。欲望は人の可能性が潰えたときに芽生え、欲望が芽生えたときに怪物は生まれる。

 背の低い塀に囲まれた、犬小屋のある小さな家で、俺たち家族は暮らしていた。俺と妻と幼い子供と三人で、慎ましいながらも穏やかな日々を送っていた。先日建てた犬小屋を見ながら、いつか犬を飼おうと笑っていて、しかしある日、唐突に妻と子は殺された。俺のいない間に、家に侵入していた空き巣と鉢合わせして、それだけのために殺された。

 タイヤが無造作に並べられた空き地で、俺はその空き巣を殺した。ありとあらゆる手段を使って空き巣の居場所を突き止め、のうのうと生きていたそいつを殺した。帰宅途中を襲い、揉み合いになった末に、空き地の真ん中で、息の根を止めた。

 街を一望できるテラスに佇み、俺は妻と子を想った。もう会うことが出来ない愛しい人たちを想った。そして、会いたいと願った。


 街を一望できるテラスに佇む怪物は、手すりから身を乗り出し、地上を見下ろした。

 綺麗に白線の引かれた道路の上で、赤い華を咲かせて俺が死んでいた。


 体の芯から熱が引いていく。人だった俺の体を欲望が塗り変えていく。

 怪物の問いに答えたとき、俺は、人であるための条件は、自分に罰を与えられるかどうかだと思っていた。己を律し、相手のために己を殺す。それこそが尊ぶべき道徳であり人間であるための条件なのだと信じていた。

 しかし違ったのだ。

 人間が人間であるための条件とは、可能性だ。

 犬小屋のある小さな家で、俺には何事も無く家族と暮らしていく可能性があり、知らぬ間に空き巣に入られたことに歯噛みする可能性があり、犬を飼う可能性があった。

 タイヤが並べられた空き地で、俺には空き巣犯を殺さない可能性も、話をして理解しようとする可能性も、もしかしたら許している可能性もあった。

 そしてテラスで俺は自ら命を絶ち、それから先の俺のすべての可能性は潰えた。

 俺が俺を殺したということは、俺はもう二度と俺を殺せないということだ。俺が俺を殺す可能性は潰え、俺は自分を殺すことが永遠にできなくなった。人としての条件を満たすことができなくなった。

 可能性とは、未来だ。

 未来が潰えたとき欲望は生まれる。

 人はみな、こうであってほしかったと実現できなかった未来を望み、悔やむものだ。そしてそれを飲み下し、胸に秘めながら、新しい未来へと進んでいく。それこそが、人が人であるための条件であり、人が人である理由なのだ。

 心の奥底に秘めた怪物は時折人に牙を向く。その欲望に身を委ねたとき、人は人であるための道を踏み外すのだ。怪物に寄り添い、抗うことができなくなったとき、怪物と見つめ合い、答えを間違ったとき、未来が潰えたとき、人は人でなくなるのだ。


 夜の帳が下りた、人のいない街。

 怪物でも出そうな不気味な街。

 当たり前だ。ここは怪物の街。未来の潰えた終わりの街。


 怪物の街を一望できるテラスから、怪物は、道路を見下ろした。

 真っ赤に咲いた華の上で、怪物が産声を上げていた。

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