第七話

七、破局

「きゃああああ」

 蕗屋が、己の置かれた状況について何の判断も付かない内に、彼の耳に、人間の悲鳴らしきものが届いた。上半身ごと地下倉の中に突っ込んでいた蕗屋には、それが何なのか咄嗟には判然としなかったが、それでもただならぬものを感じて身を起こすと、それまで傍らで地下倉を照らしてくれていた郷田が、注意深く、四方に明かりを送っていた。ちらちらと浮かび上がるその表情は張り詰めている。暗さの為に事態は定かではなかったが、矢庭やにわに、郷田は弾かれたように跳ね上がり、彼方でいつの間にかぴくりとも動かなくなっている、一条の灯りの源へと猛烈な勢いで駆け出して行った。蕗屋も、その動かない光源が意味するものに気付いて、血相を変えて後に続く。

 駆け付けた郷田のカンテラに、ぼんやりと照らし出された弓子は、懐中電灯を手にしたまま、水路脇の土手にぺたりと座り込んで動かなかった。

「大丈夫でっか、宮瀬さん?」

 先を進む郷田が、声を掛けながら、さらに灯りを弓子の体に近付ける。幸い、出血や服の乱れはない。怪我などはしていなさそうであったから、蕗屋は取り敢えずほっとするものの、そのただならぬ様子から、先程の悲鳴が弓子のものであることは間違いないと確信する。

「どうもありませんか? 何があったんです?」再度掛けられた声に、ようやく気が付いたかのように、のろのろと動き出した弓子は、何もわず、持っていた懐中電灯を傾け、自分の前方の土手を照らした。するとそこに、土の中からにゅっと二足の革靴が突き出ているのが見えた。しかし、革靴だけではなかった。うっすらと土が被せられているものの、その二足の靴から繋がって、人間の体らしい輪郭も浮かび上がっている。手も足もだらりと伸ばした輪郭――誰かがそこに、埋められているのは明らかだった。

 熊城か?――一瞬、蕗屋はそう思った。そこに、熊城がいなかったからだ。しかし、先程までぴんぴんとしていた熊城がこのようになる訳がない――タクちゃんではあり得ない。慎重に周り込んだ郷田が、埋められている男の顔の辺りの土を除け、灯りを宛てた。蕗屋は見たくなかったが、しかし見ざるを得ないとも思っていた。どうやらまだ腐敗などは進んでいないようだった。

 郷田の灯りが男の顔を仔細に照らし出すにつれ、蕗屋は不思議な感覚を覚えた。知らない顔であるにも拘わらず、見覚えを感じたからだ。知人のたぐいでないことは間違いなかったが、どこかで会ったことがあるような顔だった。果て、どこだろう? 郷田のカンテラが、男の顔から少し動いて、頭全体を照らし出す。その丸い光輪の中に、突然、赤い裂け目が見えた。その縁には、黒髪を備えた皮膚と白い骨板の断面が見え、そこから何か乳白色のものが、でろりと潰れて食み出しているのが見えた。

「これは、伊志田鉄郎や」

「……え?」

「間違いない、伊志田や。余勢宿で見掛けたって云うたやろ? せやけど、その後ほとんど見掛けんようなってたんや。まさか、こんなことになってたとは……」

 それで、蕗屋は思い出した。ああ、そうだ、雲ケ畑で見た写真に写っていた男だ。京都寺町の革堂こうどうで見掛けた男――支倉を襲ったと思われる男。しかし、それならば何故この男はここに倒れているのか? この男こそが、「本」を追う人間を襲っているのではなかったのか?

「しかし、なんでこいつがここで……」郷田が、蕗屋と同じ疑問を口にした。蕗屋は、勿論もちろん、その疑問の答えを持ち合わせていなかったので、代わりに別の疑問――余りに馬鹿馬鹿しいものではあったが――を郷田にぶつけてみた。

「……死んでるん……ですよね?」

「御覧の通りや」郷田は灯りを動かして、再び先程の赤い裂け目を浮かび上がらせる。弓子は痺れたようにまじまじとそれを見つめ、蕗屋は目を逸らした。

「頭をぱっくり割られとる。どう見ても、死んだばっかりっていうことはないな。俺は鑑定医やないから細かくは分からんけど、死後数日ってとこちゃうかな……」

「事故ですか? それとも――」

「都会みたいに、あちこちにコンクリートの建造物があるとか、近くにでかい石があるとかやったらともかく、こんな草だらけの地面では、いくら勢いよく転んでも、こないにぱっくり割れんやろ。せやから、まぁ――」

「殺された?」

 郷田は、口に出して返答する代わりに、無言で頷いて肯定した。また一人死んだのだ。


「……一体、この死体はどうしたんだい?」蕗屋は、弓子が少し落ち着いたように見えたので、問い質した。

「……分からない。何か、不二夫が隠した宝物が無いかどうか、この辺りを水濠に沿って探していて、丁度ちょうど土が盛られたような処が在ったから、それを探ってみたら、足が出てきたの……隠してあったんだわ」

 蕗屋は、弓子の言葉の通りであろうと思う。実際、この辺りは、法的な所有権は勿論宮瀬家のものだが、つい今し方、蕗屋らが苦労して探索したように、更地で草も生えるがままに放置されて久しい。埋められているとはいえ、可成かなり浅かったようだから、腐敗が進めばそれなりに臭うことになるだろうが、都会とは違って、元より堆肥や家畜など様々な臭いが村内には立ち込めている。もう少し暖かくなれば、この辺りは子供の背丈程はある草で茫々ぼうぼうとなる。この夜はそもそも隠されたものを探す目的であったから、草を掻き分け、土を掘り返すなどして偶然見付けてしまったが、このような人の通り掛からぬ水濠の縁に埋められていては、果たしてそう簡単に発見されたであろうか。勿論、今は自警団が各処で目を光らせているが、しかしそれは飽くまでも「生きている不審者」に対してであって、見知らぬ人間の死体がどこかに埋められているかもしれないなどとは、さすがに彼らとしても予想の範囲外であろう。ただし、そうはいっても、土を薄く被せただけで隠し方が中途半端だったのは、やはり自警団の目を気にしたからだろうと、蕗屋は思った。土を大きく掘り返すような作業をしていれば目立つだろうし、死体を動かすのも困難だったに違いない。

 そこまで考えて蕗屋が気になったのは、この場所であった。結局、「本」は見付からなかったとはいえ、不二夫ら子供達が宝物の隠し場所としていた地下倉と余りにも近い。郷田や黒岩の話しでは、この軍人も「本」を追っていたとのことである。だとすると――

 蕗屋は思ったことを口にしてみた。

「うん。それは俺も気になってたんや。こいつも「本」を追っていた。それは間違いない。その死体がこんな処で見つかったとなると――」

「僕達同様、何らかの形で、不二夫君達の宝物の隠し場所を知って、それを探しに来て、襲われた?」

「けったくそ悪いが、そういう経緯がいかにもありそうやな。ああくそ……てっきり、こいつが色んな人間を襲ってるもんやと思ってたのに、こいつも襲われる側やったとは……」

 蕗屋は改めて戦慄する。今、この時も、「本」を探す人間を襲って廻っている者がいるのか。そして自分達のことも勿論承知していて、虎視眈々と、襲撃する機会を今や遅しと窺っているのかと。自分は何と軽率だったのだろうと、蕗屋は今更いまさらながらに後悔し始めた。この事件に首を突っ込んだことを、ではない。それも確かに今ではやや悔い始めてはいたが、とはいえ、それは仕方が無かったのだ。蕗屋がこの村に帰り、不二夫の自殺未遂という悲劇に向き合わざるを得なかったのは、云わば必然で、それは運命であったのだと、蕗屋は思っていた。彼が後悔したのは、親しい者を巻き込んでしまったことであった。京都で、蒐集家の死を目にした時、郷田の話しを聞いた時、この一件が危険極まりないことは分かっていたではないか。それなのに、自分は、自分の親しい人達をそれに巻き込んでしまった。自分の友や、自分の――可愛い従妹に。地面にへたり込み、遺体を眺め続けている弓子の姿に、蕗屋は強く自分を責め苛んだ。そして、狂おしいくらいに弓子の心を案じた。もしも、このまま捜査に付き合わせることで、これ以上彼女の心を――ましてや体を――傷付けるようなことが起こってしまったなら――そう考えるだけで、蕗屋は身悶えてしまいそうであった。もう、これ以上関わらせるのは止めよう。弓子も、熊城も、又野も、秋子も……。そこで蕗屋は、「あっ」と、失念していたことを思い出す。

「そう云えば、熊城は?」蕗屋は、まだ遺体に見入っている弓子の肩を揺さ振って、問い質す。この言葉を発した時、蕗屋は、既に自分の恐れていることが、熊城の身に起こったのではあるまいかと、恐怖していた。しかし、その返ってきた答えは、蕗屋を別の恐怖に突き落とすものだった。

「誰か人を、呼んでくるって……」

「人を呼んでくるって、そんなことをしたら――」

 蕗屋が即座に感じ取った恐怖は、既に現実のものとなっていた。彼方から、沢山の松明が押し寄せ始めていた。


 ただ、かく逃げるしかなかった。何とか対話を試みようとはしたのであった。しかし、松明を持った群衆の前に歩み出て、何とか話しをしようとしたその時に、猟銃が撃ち鳴らされるに至っては、最早もはや話しが通じる相手とは思えなかった。夜陰に響く銃声は、蕗屋らに恐怖を、群衆に興奮と激昂を呼んだ。もう、話し合いの余地も、一刻の猶予もなかった。逃げねばならない、けれども、どこへ? 松明は、特に東の方から迫って来るようだった。幸いにも、寄せて来る自警団の松明によって、漆黒の景色は、徐々に陰影が付きつつあった。道が少しは浮かび始めていた。南側の道にも、寄せて来る自警団の男達がひしめいていた。

「余所者がいる」「誰か殺された」「捕まえろ」「縛り上げろ」との怒号が響く。「人殺しはあそこにいるぞ」そう聞こえたので、蕗屋はつい、「僕達は関係ない、無実だ」と、あらん限りの声を出して云い返す。すると、「やはりあそこだ」「見逃すな」と云った声がどよどよと上がるが、蕗屋の言葉にまともに応えようとするものはない。「タクちゃん、そっちにいるのか? いるんだったら、何とか皆を――」

 そんな蕗屋を見て、

「阿呆か、御前は! こっちの場所を知らせてどうする!」と、郷田が憤った。「放っとけ! 兎に角逃げるぞ。あいつら、すっかり頭に血が上っとおる。カンテラを消せ! こっちの場所を知らせるだけや。こんだけ松明があったら、逃げ切るまでは点けんでも大丈夫や」

 そう云うと、郷田は弓子の手を引き、蕗屋を手招きして北に向かって歩み始めた。蕗屋も手薄と思っていた方角だった。

 しかし、そこにも着実に松明の数は増えつつあった。どこかの家に助けを求めようかとも思ったが、周りの騒動に気付いて、どこも巻き込まれまいとしているのか、戸口を固く閉め、灯りを消している。宮瀬家でさえそれは例外ではなかった。少し前まで漏れていた光も消え、息を潜めている。いよいよ難を逃れる手立てが無いと思われた時、不意に、郷田が蕗屋の手を掴んだ。そして、それまで自分が握っていた弓子の手を、ぐっと握らす。

「何があっても、逃げ切るまでこの手ぇ話したらあかんぞ。御嬢ちゃんを、責任持って守るんやぞ」蕗屋は、郷田の目を見て、力強く頷いた。すると、それを見届けた郷田は、先程「切れ」と云ったカンテラを自ら点けて、怒声を上げて群衆の方へ駆け出して行った。ぐさま、松明が動き始める。すると、郷田の位置を示すカンテラの灯りは、挑発するように同じ位置でぐるぐると動いた後、幾つもの松明を引き連れて、横道へと走り去っていった。郷田の意図を直ぐに理解して、心の中で感謝の言葉を何度も唱えつつ、松明の殆どが、横道へと向かうのを見届けて、蕗屋は弓子の手をしっかりと握り締めながら、郷田を追って再び灯りがまばらとなった村の北方へと駆け出していた。

 暗い道は、恐ろしかった。二けん先も見えず、どこかにぶつかりはしまいか、つまずきはしまいかと、常に身がすくんだ。けれども、頭の中に覚えている限りの道順を再現し、幼少期の感覚を引き摺り出し、怯え縮み上がりながらも、懸命に駆けた。弓子を転がさぬように、引き倒さぬように、細心の注意を払って、只管ひたすら駆けた。松明を持った男らは、大半が郷田を追っていったので殆ど出くわさなかったが、それでも、少し遅れて来たと思しい小勢の群れがいた。その男らの傍らをすり抜け、目の前を掠めて、脱兎の如く、雌雄二羽の兎のように走る。灯りも点さず、突然現れた二人連れに、驚く者もあれば、逆上する者もおり、また当然飛びかかろうとする者もいたが、最も血気のある者達はうに郷田を追って離れ去ってしまっていたので、その場にいた者達の動きは概ね鈍く、呆然と蕗屋と弓子が手を取って走り去るのを眺めるだけの者が多かった。むしろ、走り抜けた後で、背後から響めきと叫声、「追え」と叫ぶ怒号が聞こえた。だから、走り抜けたとて、速度を緩めることはせず、後ろも振り返らなかった。

 ただ、弓子の様子だけは気になって、何度か覗き見たけれども、最早群衆の松明も相当に後方となったので、暗闇に輪郭が辛うじて掴めるだけで、誰の手を引いているのかも解らず、暗闇に影法師を連れているような心地でさえあった。しかし、蕗屋が覗き込む度に、ぎゅうと握り返されてくるので、やはりそれは影法師ではなく弓子であると思えるのだった。だから、心が通じ合えているように思えて、困難を覚えるごとに、見えぬながらも、弓子の顔を振り返り、「大丈夫、大丈夫」と心の中で語りかけるのだった。


 郷田の云う通り、灯りを消したのは正解だった。先程の小勢をやり過ごし、幾らかも走ると、もう追手は蕗屋らを見失ったようで、眺める処、松明の類は遥か彼方に疎らに右往左往しているだけで、一気に駆け抜けた蕗屋らに迫る気配は無かった。恐らく、向こうはこちらの位置さえ把握していないだろうと、蕗屋は当面の安全を感じる。しかし、問題はこれからであった。

 蕗屋らは、旧篠崎家敷地内の更地から、自警団の包囲が一番薄かった北側を抜ける形で逃亡した。それは、先程の状況で唯一取り得る逃げ道ではあった訳だが、村全体の地形から云うと、麓側から山側に逃げたことになる。即ち、麓に降りるには、再び自警団のただ中へ戻らねばならない。それは余りにも馬鹿げており、最早、事態が解決しない限り、そちらへ降ることは考えられなくなっていた。云わば、一番望ましい、余勢宿側への逃走の可能性を、自ら断った形なのだ。

 兎も角、十分にいたらしくはあったので、しばらくは休息をしよう――ずっと聞こえ続ける呼吸の音が、自分の息なのか、弓子の息なのかも分からなかった。しかし、休息といっても、どこへ行くべきか? 酸素が不足して、頭も回らない。立ち止まり、ひとしきり酸素を補った後、二人は話し合って、暫く秘密基地へと向かうことに決めた。そこへ行けば、敷き詰めた羊歯シダの上とはいえ、多少は体を横たえることもできる。そして何より、又野や熊城らがきっと助けに来てくれると信じたからだ。

 夜の秘密基地へと向かう道は、普段以上に秘境めいたものであった。元より、人が余り踏み入れないからこそ、秘密基地に選ばれたのである。そこへ至る経路も踏みしめられておらず、天然そのままの凸凹とした地表であった。昼間ならば、その凸凹を目で確かめて、足場となる場所を確認して一歩一歩進む処を、夜の暗闇の中では、当然のことながら視覚の助けが得られない。り足で地表の状態を確認し、必要なら手探りまでして、確かな足場を求めた。そうして手まで使うと、今度は顔が無防備になり、草の先端や樹木の枝葉が気に掛かる。時には目元に触って、蕗屋を大いにひるませたが、耐えて、歩行できる処を探り進んだ。そして、自分がある程度進んだら、握っている手に渾身の力を込めて、弓子を引き揚げた。そうして、ゆっくりゆっくりと歩みを進めたので、小屋のある池の畔に着いた時には、一体何時間掛けてここまで来たのかと思ったくらいであった。

 溜池は四方が繁みに囲まれた処にあったので、そこまで来て漸く蕗屋は懐中電灯を点けた。真っ黒い水面と、丸太が見え、気を付けてそれを渡った。小屋に入り、念の為、中を慎重に照らす。橙色の光に丸く照らし出された内部には、何の変化も無かった。昼間、一度ひっくり返した後で無造作に戻した羊歯の葉も、蕗屋を歓喜させた佐伯ドロップの缶もそのままだった。ほんの短時間の間に、大きく事態は変貌したが、ここだけは変わってはいなかった――そう、子供の頃から、ここだけは変わっていないのだ。改めて暖かな気持ちが湧き上がり、張り詰めていた緊張が緩んでいく。やっと、安心することができるように思われた。

「これで、少しは息をけるね」と弓子に云われ、改めて彼女のことを意識した蕗屋は、急に照れ臭くなって、握っていた手を慌てて離した。


 羊歯の上に直接座って、それぞれ向かい合った。追手がやって来る気配は全くなかったが、又野や熊城らが助けに来てくれる様子もなかった。安全な場所で落ち着いてくるにつれて、蕗屋の中で、何とも云えない気恥ずさしさが募っていった。一緒に逃げる為とはいえ、ずっと弓子の手を握り締めていたからだ。こんな夜も更けた時間帯に、こんな薄暗い処で、異性と二人切りでいるのも、蕗屋には始めてだった。何とも落ち着かなくなり、羊歯でも敷き直そうと、そちらに光を当てると、追襞おいひだのスカートの裾から、弓子の白い足首が見えてどきりとした。かといって光を上げると、弓子の可憐な顔が直ぐ近くに見えてしまう。黙りこくると、弓子の吐息が聞こえた。それは蕗屋の神経を震える程に痺れさせたので、蕗屋は沈黙が怖くなった。それから免れる為に、蕗屋は自ら喋る方を選んだ。自分が喋れば、気を紛れさせ、沈黙を避けることができる。だから、喋りに喋った。話しは、おのずから事件のこととなった。それ以外には、これといって話題が思い付かなかったからだが、逆に事件のことであれば、話しの流れは途切れることはなかった。京都で帝大の助教授に会ったことや、中世欧羅巴ヨーロッパ基督キリスト教異端のこと、奇書蒐集家と会ったことなど――これまでに、既に話し合った内容も多かった。弓子が疾うに知っているであろう内容も多かった。それでも蕗屋は喋りに喋った。この選択は功を奏して、蕗屋の脳は、何とか理知的な働きを取り戻し、本能的な部分を鎮めることができた。弓子の鋭敏な反応も、蕗屋を助けた。知的な会話が二人の間で交わされ、それが弓子にはどうやら本当に楽しかったらしく、つかの間、彼女本来のものと覚しいほがらかな口振りが多く聞かれたので、蕗屋もそれを心から喜ぶことができた。

「ねぇ、御兄さん。羅典ラテン語ってどんな言葉なの? この間も聞いたけど、いい機会だから、もう少し詳しく教えてくれない?」

 欧羅巴の古書についての話しから、羅典語の文法へと話しは流れた。そこで蕗屋は、背嚢から例の黒焦げの不二夫のノオトを取り出して、実際の羅典語の文章を見ながら解説した――羅典語では、名詞を語尾変化させることで、日本語の助詞に当たる文法機能を持たせる。「星」をあらわす名詞は「stella」だけれども、これを「stellam」にすれば「星を」、「stellae」にすれば「星の」または「星へ」になる……だから、羅典語では日本語と同様、語順は全く重要じゃないんだ……云々。

「不二夫君は、もし彼がこれを訳したなら、全体に上手くやっているね……さすがだよ、大したものだ。でも、ここだけが変なんだ」


 ――Miserabiliter獣の populat無残に Deus青褪めた男達を celatus語る lividos隠された narrantes自殺を suicidia滅ぼす brutorum神は

 ――隠された神は、獣の自殺を語る蒼褪めた男達を無惨に滅ぼす


「この文章? 確かに変な文章だけど……そういう意味じゃないよね? どこが変なの?」

「羅典語の単語の脇に、日本語の意味が書き込まれているだろ? まぁ、欧文を訳す時には良くやる手順だね。ところが、ここだけ、書き込まれている日本語が無茶苦茶なんだ。例えば、「Deus」に「蒼褪めた男達を」と書き込んであるけど、「Deus」は単純に「神は」という意味で、そんな長ったらしい意味じゃない」

「単なる不二夫の間違いじゃないの?」

「いや、最終的な訳文は合ってるんだよ。それなのに、羅典語の文章の方に書き込まれた日本語だけが間違えてるんだ。だから、変なんだ。しかも、今も云ったように、「Deus」は「神は」という意味で、他にも例えば「Miserabiliter」は「無残に」、「populat」は「滅ぼす」という意味なんだけれども、不二夫君のノオトでは、「Deus」が「蒼褪めた男達を」、「Miserabiliter」が「獣の」、「populat」が「無残に」と、羅典語の単語と日本語が、完全に間違っているというよりは、ずれてしまっているんだ。まるで、わざとずらしたみたいに。……まさか!」

「どうしたの?」

「もしかしたら、不二夫君は本当にわざと間違えて書き込んだんじゃあないだろうか! 僕みたいに、羅典語を読める人間が見たら注意を引けるように……」

「注意を引く? 確かに、今、現に御兄さんの注意を引いているけれど……。でも、何故そんなことをしたと?」

「……確証はないけれど、既に一度、不二夫君は遠回しな形で伝言を残しているだろう?」

「暗号?」

「うん。わざと間違えて、この文に人の気を引きつけたというのは、きっとここにも、伝言が隠されているからなんだと思う。いや、もしかしたら、ここだけは不二夫君自身が作った文なのかもしれない……さっきと同じなら、そんなに難しい暗号じゃないはずだ……」

「……これが、暗号……?」弓子はまじまじと羅典語の文章を見た。「また、atbash暗号?」

「いや、今一寸試しに頭の中で置き換えてみたけど、そうじゃないみたいだ」

「じゃあ、他の暗号だと? ……でも、簡単なものじゃないと、誰にも読まれなくて、伝言を残すこともできないんじゃ……」

「その通りだよ。だから、他の簡単な暗号法を使っているんだと思う。欧文の暗号だと、最初の文字だけを拾ってつなげるというのもあるんだ。Mi……po……de……ce……li。……これも違うな……。乱数を使うような難しいものではないと思うんだが……」

「この、わざと間違えたのには意味はないのかしら?」

「これは、注目を集める為だと思うけど……。いや、待てよ。……そうだ、確かに弓子ちゃんの云う通り、このちぐはぐなずれに意味があるのかもしれない……。弓子ちゃん、何か書くものを持ってる? あぁ、いい。ここに手頃な木の枝があった。地面に書くから、一寸ちょっと懐中電灯を持っていてくれないか?」

 蕗屋は試しに、訳文の語順に合わせて、それぞれの意味を割り当てられた羅典語の単語を並べ替えてみた。


 ――隠された神は、獣の自殺を語る蒼褪めた男達を無惨に滅ぼす

 ――lividos隠された brutorum神は Miserabiliter獣の narrantes自殺を celatus語る Deus青褪めた男達を populat無残に suicidia滅ぼす


「atbash暗号では無理だ……。じゃあ、最初の文字は……」暫く考え込むような顔をしていた蕗屋だったが、間も無くその目は爛々と輝き出した。「……出てきた、出てきたぞ! 羅典語の文章だ、そうか、これだ……。li……bru……mi……nar……ce……De……po……sui」

 蕗屋は地面に、繋ぎ合わせた欧語を記した。


 ――libruminarceDeposui


「これが、何なの?」

「これは、立派な羅典語の文章だよ! Librum in arce deposui――日本語に訳すと……」

 蕗屋が木の枝を動かすと、不二夫の伝言が、鮮やかに地面に浮かび上がった。


 ――私は、本を城砦に隠した。


「そうだ、郷田さんも云っていた……創設者の実業家は欧州での貿易で一財産築いた人物だって……。そう、いみじくも郷田さんは、あそこの創設者こそが木戸黄太郎大尉だと示唆する手掛かりを掴んでいたんだ……僕が、自分の発見に酔いれて、まともに受け止めていなかっただけで……。いや、でも、郷田さんも出身地が違うと云っていた……だから、郷田さんも確証を持てなかったんだ。……待てよ、そうか……君は、云っていたよね? あそこの奥さんが……」

「気の触れた奥様ね……」

「そう、確か、その奥さんがこの辺りの出身だって云ってなかったっけ? だから、その療養の為に、この辺りの土地を選んだんだって?」

「ええ、そうよ。甲武日日新聞がそう伝えていたわ」

「そうか……黒岩老人が云っていたのは、妻の生家のことだったんだ……」

 蕗屋は改めて、自分が地面に書いた言葉を見、反芻した。

「「私は、本を城砦に隠した」――村の云い伝えで、「北条の抜け穴」と繋がっていたと云う、後北条氏の城跡……。今、そこに建っているものと云えば――」

「……サナトリュウムね……」


 がしゃん――硝子ガラスの割れる音がして、駐在所の窓が外から無理矢理に開かれた。そしてそこから侵入者が転がり込んできた。侵入者は、喉の内側がひび割れて血が出るのではないかという程に息を切らせていて、しばらくの間、床に転がって全身の筋肉をびくびくとさせていた。何とか、逃げ切れた――漸く取れた休息に人心地つく、この侵入者こそは郷田であった。蕗屋らと別れてから、彼は狭い村中をずっと逃げ惑っていたのだった。あらかじめ村内の地理を頭の中に入れておいたのが、思いがけない形で功を奏した格好だった。とはいえ、勿論、村内の地理に関しては村人達の方が詳しい訳であるから、郷田が無事に逃げ切れたのは、やはり途中でカンテラを捨て、夜陰に紛れたことが大きい。今夜が新月でなかったなら、どれ程村内の地理を頭に入れていたとしても到底逃げられはしなかっただろうなと、郷田は安堵と恐怖の入り混じった複雑な念を抱いた。

 郷田が駐在所に逃げ込んだのは、勿論偶然ではない。自警団の松明から身を隠しつつ、彼が一番に思ったのは、兎に角、外界と連絡を取ることであった。自分がこのような形で潜入していることを知れば、地元の警察は気をよくしないであろうし、場合によっては大阪府警察部と地元警察の間で、自分の進退に関わるような大問題になるやもしれぬと思えたが、ことここに至れば、それも止むを得ないと覚悟するしかなかった。そこで、外界と連絡を取るにも、村の出口まで至るのは困難と判断した郷田は、麓に降りるのを諦め、電話と無線を求めて、この駐在所へと来たのであった。

 電灯はあったが、点けなかった。外にいる者達に、ここに誰かいるとみすみす伝えることになるのは明白だったからだ。上着の隠しから、もう随分前にもらった「カフェー・青蘭」のマッチを取り出し、窓との位置関係に気をつけながら――光が窓から外に漏れないようせねばならない――る。束の間瞬いた炎の明るさを浴びて、駐在事務室内に影が浮かんだ。それを手掛かりに、執務机に辿り着くと引き出しを漁り、どうにか蝋燭を見付け出す。これを、やはり外に光が漏れぬ位置に立てて灯すと、視覚は何とか役に立ち始めた。

 しかし、電話と無線機はどうにもならなかった。蝋燭の明かりの中、それらは容易に見付かったのだが、両方とも目茶苦茶に破壊されていたのだ。これまで、暗くて郷田は気付いていなかったのだが、駐在所には、先程彼が砕いたものとは別の硝子窓にも、小さいが指を差し込むには充分なくらいの割れ目が錠の近くに付けられていて、いつそうしたのかは分からぬが、郷田以前に何者かが侵入したのは明らかであった。そして恐らくその者が電話と無線を破壊したのだ。その者は、きっと村で今夜のような騒動が引き起こされることを前もって知っていて、先回りして外界と連絡を取れぬようしたに違いない――郷田は、これを行った人間の周到な悪意に背筋が寒くなるのを感じた。郷田には、その者こそが、伊志田を殺害した犯人に違いないと思えた。そして、もしかすると、その者こそが、郷田らに濡衣を着せる為に、今夜の騒動そのものを引き起こしているのかもしれぬとも――

 兎も角、郷田の失望は大きかった。直ぐには次に打つ手が思い付かなかった。しかし、それでも何とかしなければならなかった。自分の身もさることながら、若い二人のことが案じられた。彼らは今頃、どこまで逃げられただろうか? 自警団の配置からして、麓に向かえるとは思えなかった。山にでも入って、朝まで身を隠していてくれたら――焦る気持ちを抑えつつ、郷田は、駐在所の中を漁った。何か、事態の解決に繋がるものはないかと頭を絞り、あちこちを掻き回した。しかし、小さな村の駐在所にあるのは、替えの官服一式に刺又さすまた、四方梯子、捕縛縄、呼子笛、刑法の手引書、各種書類、それに事務用品といった処がせいぜいで、他にあるものといえば――代々引き継がれた駐在巡査の日誌くらいであった。


 ――暫くの間、郷田はそれが意味する処が分からなかった。「葛瀬村駐在所日誌」と題されたそれら十数冊の冊子は、明治二三年から代々の駐在巡査によって書き継がれたもので、巻末には勤務表や雑多な報告書の控えも添えられていた。そこには、村人達個々の情報として、年ごとの伝染病罹患歴、家畜検査歴、家産所有状況などが細かく記載されていた。折々の巡回記録や、出入り商調査、出入り薬種商鍼治業者許可確認、伝染病戸口調査、賭博取締、乞食駆除護送、喧嘩仲裁、風紀取締、夜警……そうした、代々の駐在が行った日常的な業務も簡潔に書き記されていた。郷田は、何か駐在が掴んでいることがあるのではないかと期待して読み始めたのだが、そのようなものはなかった。村の平和さ故か、駐在の関心の低さ故か、事件と云えるようなものは、時折起きる喧嘩が関の山で、殆どなかった。不二夫らの図った集団自殺も、大きな悲劇といえど飽くまで私的な問題とされたらしく、記載こそされているものの、突っ込んだ扱いはされていなかった。だから、何かこれまで自分らの知り得ていない情報でもないかと期待して読み始めたものの、ここ数年分の日誌はあっという間に読み終えてしまい、何ら得るものはなかった。何年も何年もに渡って、永遠に続くかと思う村の平和さと駐在の怠惰が、数冊の日誌に延々と描き出されていた。

 ところが、ある年の七月から、少し毛色の違う事項が記載され始めることに郷田は気付いたのだ。それは十一年前の日誌で、時期的には子供の頃の蕗屋が村に来なくなる少し前のことである――その記述を読むと、何かが郷田の中で引っ掛かるのだ。この感覚が意味するものは何だろうか? 

 その記載とは、大正一二年の衆議院選挙を切っ掛けとしたものであった。


 七月二三日

 衆議院議員選挙有権者党派調査。政友会派、三二人。憲政会派、四五人。

 村内若年者数名ニ過激思想ノ疑ヒ在リ。要観察

  

 七月三一日

 要観察人野口達市、栗原比露子、矢島五郎、甲田申太郎。皆年少者ナリ。過激思想、赤化ノ疑ヒ濃厚。


 そして、こういった情報が、この年の八月末まで間断無く続くのである。

 ふと、少し前から気に掛かっていたことが再び首をもたげた。蕗屋から、地下倉から見付かった洋書を渡された際に感じた、奇妙なわだかまりである。仏蘭西フランス語など全く解らぬ郷田だったが、そうであるのに、ちらりと見たその表題には、実はどこかで見たような覚えがあったのだ。ああ、もしや――郷田は捜査用の手帳を上着の隠しから引っ張り出し、最近の捜査記録ではなく、遥か古い頁を捲った。

 ――Le Capital。確かに、その言葉はあった。郷田が見付けたのは、彼自身の字であった。何のことはない、覚えがあって当然、彼はその言葉を、かつて自分自身の手で手帳に書き付けていたのだ。そして、その言葉が指す意味を知って、郷田は改めて驚愕した――何故、こんなものが村の地下倉から見付かったのだ? これでは、まるで事件の構図が違ってくるのではないか? 郷田の手帳の中に、『失業と失業に対する闘争』や『ローザ政治論集』といった言葉と並んで、それは記されていた。それは、嘗て郷田が官服を着ていた時代に摘発に協力した、ある在阪政治犯所有の危険書の一覧であった。ル・カピタル。そう、確か日本語では、こう云ったはずだ――カアル・マルクスの『資本論』。それが、蕗屋が地下倉から見付けた本の内、少なくとも一冊の正体であった。


 ――サナトリュウムへ向かう道は、困難を極めた。きつい勾配はそのまま足に掛かる途轍もない重荷となり、険しい斜面はまるで壁となって、蕗屋と弓子の前に立ち塞がった。日中は暖かいとはいえ、夜の山中は村にない冷気を孕んでいて、先を進もうとする者の手足を鈍らせた。上着も纏わず学生服とセーラー服という日中の村内と同じ格好をしている二人には、首回りや袖口から外気が遠慮なく侵入してくるのを防げなかった。せめてもの救いは、車が通れる程に道が整地されていることであり、そんなに足元を気にしなくて良かったが、とはいえ、そんな利点に気付かせる余裕も与えなかった。道の両脇からは、崩れ落ちるように木々が覆い被さっており、闇がより重々しい存在感をもって、行く者を圧し潰しに掛かっているようだった。鵺鳥トラツグミの声、木々のざわめき、風の唸り、全てが禍禍しく思えた。夜の森そのものが、二人の歩みを挫いた。実の処、傾斜と冷気を除けば、二人の道程を困難にしているのは、全て心理的な障壁であった。しかし、だからといって、それで事態がましだということを意味する訳ではない。心理的な障壁は、しばしば物理的なそれ以上に人を苦しめる。秘密基地を出て以来、決して懐中電灯を点けようとしなかった蕗屋が、再びそれに手を掛けた。

「点けても大丈夫? 山腹だから、かえって目立つんじゃない?」とは弓子の弁で、興味深いことに、こうした場合、婦人の方が、肝が座っているということも往々にしてある。

「もう、随分と奥まで来たから、大丈夫だろう」と、蕗屋は返した。確かに山腹であるから、村から見上げればかなり目立つかもしれない。しかし、もし気付かれたとしても、これだけ先行したなら、追い付くまで間がある。それまでに、自分達がサナトリュウムに辿り着いてしまえば、村人達もそう強引なことはできまいと思えた。

 灯りを点けたら点けたで、木々の影が怪物めいた姿を現し、蕗屋を怯ませた。それでも、先程までと比べれば、不思議なもので何となく安心できる。蕗屋の一歩一歩の歩幅が、明らかに大きくなった。その登攀は、幾らか力強さを取り戻した。

 そんな蕗屋を見て、弓子はつい微笑ましく思う。自分では恐らく越えられなかっただろう壁の幾つかを突破していく蕗屋の賢明さに、弓子は素直に感心していた。元々、彼女にしてみれば、蕗屋は単なる異性の年上の親類ではなかった。これ程に頭のいい人間を、弓子は自分の周りに知らない。不二夫は、もしかすると蕗屋以上に頭が良かったかもしれないが、所詮は弟であり、しかも今はいた。蕗屋が自分に興味を持っていることも弓子は知っていた。ところがそれを、蕗屋自身がばつの悪いことと思っているようで、再会した初めから、必死に取り繕って、一生懸命誤魔化そうとしていた――それが弓子にしてみれば、馬鹿馬鹿しくて可笑しかったが、少し可愛いらしいとも思えるようになり始めていた。この蕗屋という頭のいい、そして人のい男は、自分をどこまで連れていってくれるのだろう――弓子は好奇心をもって、じっとそれを見届けようと思っていた。

 そうして二キロメートル程の傾斜を乗り越えて、漸く二人は目指す建物が見える処まで辿り着いた。サナトリュウム――後北条氏の山城跡に建てられたという施設。進藤健三は既に故人であったが、あそこにはまだ礼子夫人が健在な筈であった。「気が触れている」との噂だが、誰も見た者はいない……。あの宮殿のような洋館に引き籠っている女主人――進藤健三こと木戸黄一郎の妻――が、この一連の事件の鍵を握っている筈だと、蕗屋は確信していた。そして、不二夫が隠したという「本」もあそこに――


 当然のことながら、サナトリュウムの門は固く閉ざされ、しっかりと施錠されていた。蕗屋は門扉を飛び越えることを主張した。こんな時間に、普通に開けてくれる訳がないと思ったからだ。弓子もそれに異論はなかった。ず蕗屋が門扉の凹凸に手足を掛け、その硬く冷たい金属の面をじ登る。こんな挙動は恐らく尋常小学校以来だったが、予想以上に体は動いた。それから、門柱にしがみ付いて、弓子を引き揚げた。

 夜の庭園もまた人気が無くざわざわとしていたが、夜風に唸りを上げる天然の森を抜けて来た蕗屋らには、まるで造花のようで最早恐ろしくはなかった。建物の中から光が漏れ、処々には庭園灯もあったから、これまでに比べればむしろ明るいとさえ云える。整然とした環境に囲まれていると、粗野な自警団など、遠い異国での出来事のようにも思われた。とはいえ、村までさして距離がある訳ではないから、彼らが追って来ようと思えばそれ程時間が掛かる訳ではない。だから、幾らここが平穏とはいっても、急がねばならなかった。

 二週間程前に訪うた本館が庭の向こうに見えた。今も、あそこで不二夫は、傷付いたレコード板のように、誰も聞いてはいない言葉をぶつぶつと呟き、意味も無く繰り返しているのだろうか。壊れてしまった従弟のことは気になったが、今はそちらに気を取られていてはおれなかった。進藤礼子がいるという、別館を目指さねばならない。

「御兄さん、案内板はこっちよ」

 サナトリュウムの案内図を見付けると、進むべき順路を懐中電灯で照らして確認し、二人はその示す方へと向かった。


 蕗屋らが乗り越えた門からは二百メートル程離れた、綺麗に整理された藤棚に囲まれた中に、その別館はあった。外観は英国風の破風造りで、その重厚な屋根からは太い樫の柱が幾条も下っている。雨洩りの染み一つない真っ白い壁は、その身を下賤な外界から守ろうとでもするように、蔦と鎧扉とを纏っていた。楢材で造られた重厚な玄関の扉には、繊細な葉薊アカンサスの花が浮き彫りになっていた。

 この典雅な洋館が、サナトリュウムの狂える女主人のついの住処であった。ほとんど人の気配も感じられぬ程に、ひっそりとしていたが、それでも仄かに灯りの漏れているのが見て取れた。「行くよ」と弓子に声を掛け、蕗屋は扉に造り付けられた獅子像の叩き金を打ち鳴らす。乾いた音が響き渡った。しかし、何度打っても館内はなお静かなままだったので、蕗屋はやがて重々しい扉を直接叩いた。今度は、厚い戸板越しに、空気が動いているような気配がした。それでも、扉は開かない。もしかしたら、覗き穴で向こう側からこちらを見ているのかもしれない。それ程に、微妙な空気の乱れ――或いは些細な音の波動のようなものが感じられた。もう一度、扉を拳で思い切り、力強く叩くと、

「どちら様ですか」と、遂に内側から声がした。若い女の声だった。

「下の村の者です」

「非常識でしょう、こんな遅い時間に。何の用にせよ、明日出直して来て下さい」

「ここに入所している、宮瀬不二夫の家族です」

 この弓子の一言で、重々しい扉は漸く、軋む音一つ立てることなく開いた。

 扉は開いたとはいえ、その隙間は細かった。住み込みの家政婦は注意深くその隙間から目を覗かせるだけで、奥に取り次ごうという様子も見せなかった。歳の頃は二十を少し越えたくらいだろうか、若く、やや派手な目鼻立ちをした家政婦は、しかし見た目とは裏腹に慎重で、決して蕗屋らを扉の内側に入れようとはしなかった。少し遅れて、住み込みの看護婦と覚しい白衣の中年女性も家政婦の背後に現れたが、彼女達の主人は人に会える状態ではないとの一点張りだった。

「いいから、緊急の事態と伝えて下さい。そうすれば、もしかしたら会って下さるかもしれないじゃないですか――いや、だから、奥様と会って直接御話しする必要があるんです。貴女では分からないから、兎に角取り次いで下さい――貴女は何も知らないから、ことの重要性が分からないんだ。兎に角、下の村では一大事が起こっているんだ、話しをさせろよ!」

 蕗屋の語気は徐々に荒くなった。けれどもそれは失策で、蕗屋の言葉が荒れれば荒れる程に、相手の不信感は高まるのだった。家政婦と看護婦は頑として蕗屋の申し出を拒否し、元々友好的とは云えなかったが、更に困惑し、果てには軽蔑するような態度に変わっていった。蕗屋には、それが不誠実に思えた。だからこそ、蕗屋自身も腹が立った。この、一連の奇怪な事件が打ち続く中で、その関係者と疑い得る人間が知らんぷりを決め込んでいるなんて――

「僕は知ってるんだぞ! 御前達の御主人様が、木戸黄太郎の妻だということを! 呪われた「本」に関係あるということを! 僕の従弟はその「本」を読んで人生を狂わされた犠牲者なんだ! それなのに、その態度は何だ! あんた達の女主人は何か知っている筈なんだ! 不二夫君を入所させたのも、好意ではなくて秘密を隠しておきたいからなんだろう! もう、何もかも洗いざらいぶちまけてやろうじゃないか、いいのか、それで? その前に云い訳したいことはないのか? もし云い訳したいことがあるなら、すればいい! こちらはもう、どこまで自分が真相に近付いているのか分からないが、兎に角もう知っていることを全て明らかにする気なのだから、それは、取り次ごうが取り次ぐまいが、そうする気なのだから、それでいいのか! 御主人様が云い訳する機会を、御前達が潰してしまうことになるんだぞ!」

 彼女達が目配せを始めたのが、蕗屋には分かった。心変わりしてくれたのだと、蕗屋は思った。自分の説得なり脅しなりが効いて、取り次いでくれる気になったのだと。実際、看護婦が「少し御待ち下さい」と云って、下がっていった。蕗屋は、自分の言葉が奏功したと思った。

 しかしそこで、思いがけないことが起こった。看護婦が下がって、家政婦一人になるや、弓子が強引に扉の隙間に足先を入れ、ぐいとこじ開けて中に押し入ったのである。勿論、家政婦は抵抗したが、弓子はその家政婦の上に覆い被さって、押し倒し、格闘し始めた。

「御兄さん、貴男はやっぱり女のことを分かってないわ」家政婦の肩を床に押さえ付けながら、弓子が叫んだ。

「あの女は、本館へ助けを呼びに行ったのよ!」

 まさか、と蕗屋は思ったが、確かに遠く、どこか玄関とは違う場所で、慌てて扉が開閉される音が聞こえた。微妙な館内の気圧の変化で、それが建物の内側と外側を繋ぐ扉であることは何となく分かった。弓子の云う通り、看護婦が外に出たのだ。蕗屋はそれを追おうと、慌てて外へと踵を返そうとしたが、それを弓子が制した。

「無駄よ、御兄さん。それは間に合わない。それより、今の内に、この館の主人を探して! 私が、この女を動けなくしてから、建物の内側に鍵を掛けて、邪魔が来ても入れないようにしてしまうから!」


 蕗屋は、奥へと足を踏み入れた。玄関から行くと突き当たりが広間となる。壁には、夫人の信仰を反映して、ブロンズィーノやティッツィアーノの宗教画の大きな複製が飾られている。一方床はリラと暗紅色の七宝模様が切嵌きりばめになっており、その有機的な絵画と無機的な装飾の対象が鮮やかだった。そこからず一階を行く。勝手が分からぬ故、進むに任せて出鱈目に廻った。それは要領が悪く、非効率なことではあったが、他に選択肢は無かった。幾つもの扉を開けに開けた。大きな書棚のある応接間、暖炉と酒棚を備えた談話室、猫足の浴槽を備えた豪奢な浴室などがあるが、人の気配はない。リージェンシー風の桃花心木マホガニーの長椅子や後期ジョージアン風の胡桃くるみ材の飾り棚、同じくジョージアン風の楢材の暖炉枠に脇棚、天然大理石の一枚板を使用した洗面台などが蕗屋を出迎えた。こんな山中の僻地に、これ程豪奢な家具や趣味豊かな調度品があるのに驚いた。しかし、それらの主人たる人物の姿はなかった。廊下奥の扉を開けた時、姿を現したのは大きな桃花心木の卓子テーブルを備えた晩餐室であった。そこにも、配膳室にも、こんな夜の更けた時間だというのに、一向使われた形跡がなく、蕗屋を戸惑わせたが、その裏の厨房には、使い終わった食器――ミントンやロイヤルウースターの高級なもの――があって、蕗屋は安堵した。厨房には小さな昇降機が設けられており、食事を容易に二階に運べるようなっていた――どうやらこの館の主人は、二階の自室で食事を取っているらしい。

 蕗屋は一階に見切りを付け、再び広間へ戻った。広間の中央奥は階段室となっていて、馬蹄形に設けられた階段が左右の壁沿いに伸びている。その馬蹄の頂点に当たる小さな階段廊には、近世白耳義ベルギーのタピスリが飾られていた。それを横目にしながら、そこから更に上へ伸びる短い階段を二段飛ばしに駆け上がっていく。

 階段を上り切った正面には、ジョルジョーネの複製画が飾られていた。そこを基点に廊下は左右に伸びているが、途中折れ曲がっていて見通せない。壁面に規則正しく並ぶ縦長窓の一つ一つは大きかったが、鎧扉が下ろされているので、外は庭園灯で幾らか明るい筈だがその灯は入ってこない。各所に穿たれた六弁形の龕に小さな電灯が点っているが、それだけでは薄暗かった。

 早く目的を果たさなければ――弓子は大丈夫だろうか、との思いが頭を過ぎる。大丈夫だ、弓子はあの家政婦よりも背が高くて若い。きっと体力で負けることはないだろう。それに、案外と抜け目の無い、賢い娘だ。大丈夫、大丈夫、きっと上手くやっている。けれども――。一刻も早く加勢に戻りたい気持ちもあった。しかし、そんなことをしても、彼女は失望するだろう。あんなにも、事件の解決を望んでいたのだから。兎も角、今は進藤礼子を探し出すことだ。そうして、事件の全てを解決させられれば――。

 蕗屋は右に伸びる廊下を進む。室々の扉には、それぞれに花綱飾りなどの様々な浮き彫りが施されていた。先ず一番手前の扉を開けてみるが、今ぐ人の住めそうな調度こそあったが、空室だった。そこにも置かれている洗練された家具類を見るに、元々進藤夫妻はこうした別荘を建てて、客を招いたりするつもりだったのかもしれない。高所の土地購入にしても、元々避暑の為に考えていたのかもしれない。次の部屋も、その次の部屋も、幾らか調度の趣きが違うだけで、同様だった。「どこにいる」と声に出したい処だったが、出さなかった。息が切れていたのもある。緊張で喉が乾いていたのもある。しかしそれ以上に、声を上げて、わざわざ自分が近付いていますよと相手に知らせることが正解なのかどうか分からなかったからだ。だから、ただ黙々と調べて廻った。

 行き当たった廊下の角を曲がると、蕗屋はそれまでと違うものを感じた。かすか、本当に微かだが、何かか細い空気の振動が蕗屋の鼓膜をくすぐったのだ。それはほんの一瞬のことで、直ぐに聞こえなくなったから、蕗屋は錯覚かと思った。しかし、実は己の呼吸と鼓動の音にき消されて聞こえなくなっているのかもしれないと、やがて気付いた。蕗屋は立ち止まって、大きく息を吸った。そうして、一杯に吸った空気が体中に満ちてくると、自分の呼吸の音は気にならない程静かになった。緊張から、鼓動が静まることはなかった。けれども、その鼓動の奏でる低音を掻き分けて、細く高い旋律が聞こえてきた。それは、静かに拍子を刻むティムパニを伴奏として奏でられる、掠れた洋笛フルートのようだった。

 細い細い歌声は、廊下の突き当たりの方から聞こえてくるようだった。呼吸が落ち着き、幾らか興奮の収まった蕗屋は、そちらの方へゆっくりと向かった。その歌声を消さぬように、足音さえ立てぬように。やがて突き当りに行き付くと、そこにはこれまで同様の扉があって、ぴったりと閉じられてはいたが、しかしそこから漏れ聞こえているのははっきりと分かった。握りに手を掛けると、不思議なことに気付いた。その扉は、何故か内側からではなく、廊下側から施錠されているのだ。怪訝に思いながらも蕗屋は、握りの摘みを回して円筒錠を外し、そろそろと扉を開けた。扉が開くにつれて、相変わらずか細い歌声が、しかしそれまでよりもはっきりと聞こえた。胸から聞こえる打楽器の拍子が速くなり、演奏の最高潮が近いことを聴く者に知らせていた。

 部屋は橙色の暖かい光に満たされていた。寝台横の脇机の上に置かれた三叉状の銀器に灯りが点っており、初め、蕗屋は蝋燭の炎かとも思ったが、そうではなかった。その繊細な飾りの中で輝く灯りは揺れておらず、そこから電導線が伸びているのも見える。その、電気仕掛けの燭台の下で、白木綿のロングワンピースに身を包んだ初老の細身の女が、ひざまずいて一心に手を合わせていた。若い頃は美しかったであろう、細面で色白の女だった。


「……進藤礼子さんですか?」

 女は、細い細い歌を、止めなかった。それは、彼女の深い深い処から湧き上がってきているようであり、彼女自身止めようもないかのようであった。蕗屋の存在に気付いてさえいない様子で、何ら表情を変えず、一心に歌っている。それで心が安んじているという様子でもなく、だからといって悲しんでいるという様子でもなく、ただ、歌うが為に歌っているようであった。いやむしろ、歌ってさえおらず、音が漏れているといった感だった。風洞が音を上げるように、歌が、彼女の喉を細かく震わせて、口から漏れ出しているのだ。殆ど口が開いていない為、発音は不鮮明だった。それでも、蕗屋は耳で音を追った。


 ――Deus, Deus meus, quare me dereliquisti,

 ――Longe a salute mea, verba mea neglexisti.

 ――Ad te clamabo per diem, et non exaudies,

 ――Et per noctem, non tranquillitas in me.

 ――Ad te Domine clamabo, ne sileas a me,

 ――Ne taceas, neque compescaris.

 ――Ne taceas, neque compescaris .

 ――Ne taceas, neque compescaris.


(――神よ、我が神よ、何故私を捨て置かれたのですか)

(――何故私の救いから遠く離れ、私の言葉を放っておかれたのですか)

(――昼、貴方を呼び求めても、貴方はお答えになられず)

(――夜、貴方を呼び求めても、私の心に平安はありません)

(――主よ、貴方を呼び求めます、私に対して沈黙しないでください。)

(――黙していないでください、静まっていないでください)

(――黙していないでください、静まっていないでください)

(――黙していないでください、静まっていないでください)


 ぽかりと小さく開いた女の口、その肉の管から溢れ出てくるその音は、聞き取りが難しかったが、蕗屋の耳に辛うじて羅典語として聞こえた。どうやら賛美歌か何かのようであった。蕗屋の鼻は、割合最近にどこかで嗅いだ異臭を感じ取っていた――そうこれは、摂取された薬品香の溶け出た、つんとする甘くえた屎尿の臭い。それが部屋中の布類に染み付いているかのようだった。戸惑いを隠せない蕗屋だったが、それでも、女の眼前に回った。しかし、女は蕗屋を見ようともせず、それどころか瞬きさえせず、音を吐き出し続ける。その白く無表情な顔は、まるで無数の釘で頭蓋骨に打ち付けられているかのようにぴくりとも動かなかった。

「神に、祈りを捧げているんですか?」

 蕗屋は先ず軽く声を掛けてみたが、一切何の反応もない――視界の中には収まっている筈の蕗屋が、まるで見えてはいないようだった。その様子といい、歌といい、強い屎尿の臭いといい、普通ではなかった。まさか本当に――蕗屋に不安が伸し掛かる。この女が何か知っている筈なのだ、この女に聞きたいことは山程あるのだ! 嘘だ、この女は詐病しているのだ、正気の筈だ! そう信じて蕗屋は老女を大きく何度も揺さ振った。そして大きな声で、極力大きな声で何度も何度も呼び掛けた。

 すると女の口から、止めどなく漏れ続けていた音が、漸くぴたりと止まり、静まり返った。そして、しばしの沈黙の後、初めて周囲の変化に気付いたとばかりに女の首はぎこちなく傾き、声のした方――即ち蕗屋の方に顔を向けた。蕗屋の不安は払拭されたかに見えた。しかし、顔は蕗屋の方に向けたものの、一体何を見ているのか、それとも何も見ていないのか、瞼は無駄に大きく見開かれ、目の焦点が蕗屋に合わされることはなかった。そして、ただそれだけで、また口を尖らせて、ひゅるひゅると音を発し始めた。もう何もなかったかのように、先程と全く変わらぬていで。顔には、涙とはなみずの固まった半透明の茶色いものが、至る処こびりついていた。歌うに任せて、口からは涎がこぼれた。

 それから蕗屋は、幾度か老女に声を掛け、肩を揺さ振り続けた。揺さ振るに任せて老女の首はがくりがくりと折れそうな程に大きく上下したが、それだけだった。揺さ振れば揺さ振る程、老女の脆い脳髄がますます崩れそうで蕗屋は恐ろしくなった。そこにいたのは、紛れもなく壊れた女だった。

 駄目だ、駄目だ、駄目だ! この女は壊れている! ここまで来て、結局何も分からないのか! 何もこれ以上追うことはできないのか! 無力感と徒労感が、どうしようもなく蕗屋に襲い掛かった。女は、蕗屋の絶望に御構いなく、ひゅるひゅると喉を鳴らし続けた。それが、蕗屋のしゃくに触った。狂気の歌が、蕗屋の心をも蝕み始めていた。

「黙れ!」

 思わず蕗屋は礼子を平手打ちにした。それ程強く打ったつもりではなかったが、しかし礼子は全くの無防備だったので、まともにその頬に当たり、力無い礼子の首がへし折れんばかりに横に曲がった。涎に混じって、鼻血がだらだらと流れ始めた。それでも礼子は無表情のままだったが、その姿勢は打たれた勢いで均衡を失い、重い頭を支え切れないらしく、首がぐらぐらと左右に振れた。その度に、涎と血とが飛び散った。老女は自らの体液を撒き散らしながら、なお歌った。

「Deus, Deus meus, quare me dereliquisti……Longe a salute mea, verba mea neglexisti」

「黙れ、黙らないか、この……」

 蕗屋は更に打った。その度に、老女の鼻と口がぬるぬるとしていく。その感触を右手に覚えながら、更に、蕗屋は無防備な老女を打ち続けた。


「御兄さん! 何をしてるの!」

 ――その言葉で、蕗屋は我に返った。

「いや、違うんだ、これはその……」

 蕗屋は慌てて、掴んでいた老女の胸倉を放した。蕗屋は、自分は何てことをしたのだろうかと強く恥じ入り、後悔した――一時の衝動に任せ、こんな力無い老女に狼藉を働いてしまうなんて。老女の流している鼻血が、弓子の蔑むような目が怖かった。

 弓子は顔をしかめていたが、蕗屋の責めが中断したことでその場にぺたりと腰を落とし、再び粘液塗れの顔で歌を吐き出し始めた礼子を見て、大凡おおよその事態を悟ったらしく、敢えてそれ以上諫めはしなかった。

「……何も、分からなかったのね」

「……ああ」

 しかしそれが、果して云い訳になるのだろうか――蕗屋は己のしでかしたことを見て戦慄した。老女の唾液と血液とで、べとべとと糸を引いている右手を。老女のぐちゃぐちゃになった顔を。白を基調とした美しい室内――生活の垢で汚れてはいたが、亡き夫が妻への思いを込めて設えたのだろう――の至る処に細かい赤い飛沫が飛び散っていた。部屋の中には、今や屎尿のそれに加えて、錆びた鉄のような血の匂いも混じっていた。それもこれも、蕗屋の一瞬の激情がもたらしたものだった。なんと自分は酷いことを、なんと軽率なことをしてしまったのだろうか……しかもそれを弓子に見られてしまうとは――蕗屋の全身に強烈な後悔がわなわなと走った。弓子に嫌われてはどうしようかと、軽蔑されてはどうしようかと、心の底から恐れた。

 ところが、その弓子は、勿論その場の情景に衝撃を受けていたのだが、意外な程にそれにこだわらなかった。老女の鼻血をハンケチで拭いてやり、さしたる怪我をしていないことを確認すると――当然、後から頬が腫れ上がってくるだろうが――その頭の中は、どうやら別のことに占められ始めていた。最後の諌めとばかりにきっと蕗屋を一睨みした後、一端溜め息を吐くと、直ぐに表情を切り替えて告げた。

「それよりも御兄さん、外の様子が変なの……」それを聞いて、あぁ救われたと、奇妙な話しだが蕗屋は思った。事態は何も解決していないが、まだ弓子の気持ちだけはこちらにある……

 さっきの看護婦が、本館から守衛らを呼んできたのか――弓子の言葉で、蕗屋はそう思った。さぁ、果たして守衛は何人いるのか、と。こうした施設だから、万一に備えて沢山いるかもしれぬぞ、と。老女の部屋の引き幕を開けて、窓に嵌められた鉄格子越しに外を見てみる。そちら側はこれといって何も見えなかった。そこで反対側を見てみようと、廊下に出て、そこの窓の鎧戸を開けて、外を窺った蕗屋は、想像以上のものを目にした。

 それは、サナトリュウムの周囲をぐるっと取り巻いて揺らめく、松明の群れだった。二重三重に折り重なって、炎の波が押し寄せているように蕗屋には見えた。本館の守衛などではなかった。八方塞がりだ――蕗屋はそう思った。もうどうしたらいいか分からなかった。逃げ場所も思い付かなかった。ただ、自分達が鍵を掛けたこの洋館の中に、暫く立て篭もる以外の選択肢が思いつかなかった。幾らかでも時間を掛けたら、外の奴らも少しは冷静になるだろう――不安は尽きることはなかったが、そこに賭けるしかなかった。


 そうして、ある意味ではすっかり観念して、蕗屋は弓子と共に一階に降り、広間の長椅子に座って、相手の出方を待った。時間が過ぎるのが、恐ろしく長く感じた。奴らも、さすがに弓子には何もしないだろう――そう信じるしかなかった。自分はどうなるだろうか? こちらの話しを聞いてくれるだろうか? 話せば分かる筈なのだ――もし、話しを聞いてくれるなら。あの斎藤勇が人々を煽り立てなければ……

 蕗屋の想念を中断するように、洋館の扉が、外から激しく叩かれた。蕗屋らが最初にここに来た時と、丁度反対の形だった。

「ここを開けろ、清ちゃん」

 扉の向こうから聞こえたのは、意外にも親しげな声音だった。

「悪いようにはしねえ、みんないきり立ってはいるが、ちゃんと話せば分かる筈だ」扉に近付いて耳を澄ました蕗屋と弓子の耳に、説得の言葉が聞こえてくる。

「兎に角開けてくれ、話し合おう。窓から見れば分かる筈だが、俺しかいねえ。他の連中はまだ塀の外だ。俺にこの場を任せてくれるよう、時間をくれるよう、斎藤さんと皆を説得したんだ。兎に角、外の様子を見てくれ。もし、話し合いが不調に終わったなら、俺はおめえ達の方に付く。元々、一緒に行動する筈だったんだから。だから兎に角、中に入れてくれ」

 弓子が蕗屋に目配せして、二階に上がっていった。「僕しかいない」という相手の言葉が本当かどうか、上から覗いて確かめに行ったのだ。

 間も無く下りてきた弓子は、

「本当に又野さん一人だわ」と驚いたような顔で告げた。


 開かれた扉から広間に入ってきた又野重郎は、疲れ切った様子だった。自警団の活動をしている時はいつもそうである処の詰め襟を着て、いつもの天秤棒だろうか、布袋に包まれた棒状のものを手から下げている。その姿で、蕗屋ら同様、サナトリュウムまでの山道を懸命に歩いてきたらしく、よく見ると肩口に、引っ掛かった木の枝が付いていた。下瞼のくまが目立つのは、自分達のことを心配してくれた為だろうと蕗屋は思い、感謝した。

「……心配してたんだぜ、ほんとに。取り敢えず怪我もねえみてえで良かった……弓子ちゃんも」

「僕達は何もしていないんだ。不二夫君の足取りを追っていたらたまたま死体を見付けてしまっただけで……。タクちゃんがどんな風に皆に伝えたのか分からないけれど、もしかしたら、周りが勝手に騒ぎ出しただけかもしれないけれど、僕達はただ死体を見付けてしまっただけで何もしていない。……シゲちゃんは、タクちゃんに会った? 彼は一体、何て?」

「タクちゃんには会ってねえな……。俺はずっと村の南口で番をしてたから。俺が皆に合流した時にぁ、もう皆興奮状態で……。だから、あいつが何て皆に伝えて、皆がどうしてあそこまで憤慨しちまったのかは、俺にぁ分かんねえけど、でも、おめえらが人を殺したりなんかしてねえことは分かっているさ。清ちゃんは――勿論弓子ちゃんも、んなことのできる人間じゃねえ。あの、大阪の奴ぁ分かんねえけど……」

「郷田さんは、昨日、村に来たばかりで、しかもずっと僕達といたから、関係ないよ」

「……でも、余所もんだからな……。んな簡単に信じてもいいのか……そういやぁ、ここにはあの大阪の奴ぁいねえんだな」

「……途中ではぐれたんだ」

「そう。じゃあ、おめえらはなんでこんな処に? 外の連中は、おめえらがこんな村の外にまで出て、逃げ出したこと自体が罪の証だっつって息巻いている。俺ぁ、あの大阪もんが何か入れ知恵したんじゃねえかと思ってたんだが……」

「ああ、それはね、あの後、色々分かったんだ。細かいことは、一寸ちょっと今は説明している時間はないけれど、逃げている間に分かったんだ。そうだな……取り敢えず、何故、ここに来たのかを簡潔に説明するなら、「本」の為だよ。例のあの、事件の背景にある「本」だ。あれは、宮瀬家の隣なんかじゃなく、ここに隠してある筈なんだ。そう、不二夫君が僕達に手掛かりを残してくれていたんだよ」

「ここ……って、この洋館の中に?」

「いや、それはどうだろう。そうかもしれないけど、細かいことはまだ分からない。兎に角、この、サナトリュウムの敷地のどこかに不二夫君が隠したらしいことには違いないんだ」

「……でも、あんで不二夫君はこのサナトリュウムなんかに「本」を隠したっつうんだい……? わざわざ、どうして……」

「何か意味があるんだと思う。どうも、村に騒動の種を持ち込んだのは、このサナトリュウムの創設者の進藤健三だったかもしれないんだ。色々と符合することがあるんだよ。もしかしたら、不二夫君はそれを告発しようとしたのかもしれない。それを知らせる為に、ここに隠したのかもしれない……」

「成程……。すげえな。さすが清ちゃんだ、本当によく調べてるよ」

「いや、分からないことだらけだよ。だからこそ、進藤礼子に話しを聞きたかったんだ。けれど、結局何かを聞き出せるような状態じゃなかった。「本」を追う人間を殺して廻っているのも、彼女じゃない。……あの状態では……礼子が壊れてしまったのも、もしかしたら「本」を読んだからかもしれない……」

 又野は、蕗屋の熱弁に聞き惚れていた――本当によく調べたものだ! 単に勉強ができるだけの点取虫ではない。さすが清ちゃんだと、又野は心の底から感銘していた。幼い頃から、一人だけ少し毛色が違っていた、都会的で知的な友人……。一方、二人のやり取りを横で聞いていた弓子は、先程から蕗屋の袖を目立たないように指で摘んで引っ張っていた。蕗屋が、自分の話しに没頭して、まるでその合図に気付く様子を見せないので、遂に弓子は遠慮がちに声を出した。

「待って……御兄さん、聞いて……変だよ」

「何だよ、弓子ちゃん……何が?」

「だって、又野さんは、「本」のことを……」

 それは蕗屋と弓子が互いに耳元でぼそぼそと囁き合うようなやり取りだったが、又野は感心した様子で、これも聞き逃さなかった。

「……すげえ。本当に、おめえらの血筋は頭がいいよ……不二夫君もそうだったし……弓子ちゃんも本当に鋭い。感心する、羨ましいよ……」

 そう云いながら又野は、自分が持ってきた細長い布袋をゆるゆると開き始めた。蕗屋は、「何をする気だろう?」とばかりに、不思議そうにそれを眺め、弓子は、懸命に蕗屋の袖を引いた。

「いや、本当によく調べたよ。おめえらにぁ心から敬意を表するよ……。すげえ、ほんとにすげえ。だから清ちゃん……」

 又野は、心の底からの敬意と友情を込めてそう語った。そして、蕗屋と弓子が見詰める中、まるで赤子を慈しむような穏やかな動作で、ゆっくりと優しく、袋の中から一本の猟銃を取り出した。

「……だから、そろそろ、死んでくれ」

 そう云うと、又野重郎は蕗屋に猟銃を突き付けた。蕗屋には、訳が分からなかった。


「大阪の男を当てにしてんのかもしれねえが、サナトリュウムの周りはぐるりと自警団が取り巻いている。入ってこれねえぞ」

「御前、何を云ってるんだ?」

「いいから、おめえはここでおっぬんだ」

「外の奴らに、そうしろって云われたのか? あの斎藤って奴に? そこまで外の連中は頭に血が上っているのか? いかれてる……なんでそこまで……」

「おめえには分からん」

「だって、おかしいじゃないか。僕は何もしていない。御前だって、納得してくれてたじゃないか。僕は無実だって、死体を見つけただけだって。僕も郷田さんも、この村で起こっているおかしなことを解決しに来ただけだって、そう説得してきてくれよ! そうしてくれるって云ってたじゃないか。奴らの説得は無理だっていうことか? でも、だからといって、シゲちゃんが奴らの云うことなんか聞く必要ないじゃないか! そんなことしたら、御前……」

「もういい、黙れ」

「御前、分かってるのか? 大体、何で御前がそんなことしなきゃいけないんだよ! 何で御前、銃なんか向けるんだよ! もし本当にそんなことしたら、御前だってただじゃすまないんだぞ! 分かってるのか? もし外の奴らに云われてるんだとしても、そんなこと云う奴らの方が、完全におかしいだろ? そんな奴らの云うことを聞いてたら、御前自身の破滅だぞ! 奴ら、御前に全部押し付ける気なんだよ、分かるだろ?」

 蕗屋がそこまで云うと、又野の顔が曇った。蕗屋はそれを見て、又野にはまだ話しが通じる筈だと思った。

「御前、何か奴らに弱みでも……? それとも、寝た切りの御父さんのことで、借りでもあるのか? だったら、僕に云ってくれよ! そっちも一緒に解決しようじゃないか」

「もういい。おめえが黙んねえなら、黙らせるだけだ」

「御兄さん、云って分かる相手じゃない!」

「……でも」

「御兄さん、しっかりして! 兎に角、銃を取り上げないと!」

 蕗屋は、まだ話せば何とかなると考えていたが、「先ず銃を取り上げるべきだ」という弓子の言葉には納得した――理由はともあれ、又野を犯罪者にしない為にも、銃を取り上げなければいけないと。幸いにも、問答を繰り返している間に、又野の構える銃口は少し下を向き、二人の距離も縮まっていた。これなら――又野がうるさそうに弓子を見遣った隙を見計らって、咄嗟に蕗屋は身を捻って、銃身を掴もうと手を伸ばす。撃たれたなら、足を貫かれる可能性があったが、又野は撃たなかった。それが本当は自分達に銃を向けたりする気がない証だと、蕗屋には思えた。


 蕗屋の伸ばした手は銃身を掴みはしたが、先端であったので、十分に力を込めることはできなかった。暫く揉み合った末に、蕗屋は弾き返されたが、又野も体勢を崩した。そうして二人は、広間の端と端に少し離れて対峙した。

「止めろ、又野! 御前には本当はこんなことする気はないんだ! そうだろ?」

 又野は、一瞬怯んだかに見えた。蕗屋はそれを、自分の問いに対する肯定の意のあらわれと捉えたが、それは違っていた。又野にしてみれば、自分に対して身構えている蕗屋と弓子二人の姿が目に入っていた。だから彼は、一本の猟銃で、二人を同時に制圧する方策を考えていただけで、蕗屋が肯定の意のあらわれと捉えた隙は、それを考えている時間にすぎなかった。そして結論は間も無く出た。又野は、目を蕗屋から逸らさずに睨み付けながら、すっと銃口を弓子に向けた。蕗屋の動きを制するには、それで十分だった。その意味することに気付いて、蕗屋の挙動は止まった。弓子も勿論止まった。

「今度はもう、さっきみたいなへまはしねえ。こっちに近付くな! 女を撃たれたくなかったら、この縄でとっととてめえをふん縛るんだ!」又野は、用意してきた縄を隠しから取り出して、蕗屋の目前の床に投げ捨てた。

「又野、御前……」

やかましい! もう、さっきみたいなへまはしねえっつったろ? おめえと話す必要はねえ。それで自分を戒めろ。云うことを聞かねえならそれでも構わん。女を撃ってからおめえを撃てばいいだけのことだ。さあ!」

「御兄さん、駄目! こいつの云うことなんて聞いちゃいけない!」

「黙れ!」

 蕗屋は混乱した。怒りと、悲しみと戸惑いが一度に渦巻いた。しかし、又野の表情が、冗談ではないと云っているのが見て取れた。弓子に一瞥もくれないその目が、逆に無慈悲に引き金を引く覚悟をあらわしているようにも思えた。だから、自分が即座に何か行動しなければいけないらしいということは理解した。兎に角、弓子を撃たせる訳にはいかなかった。けれども、云う通りにしたなら、もう自分にはどうにもできなくなってしまうことも、勿論分かっていた。どうすればいいのか――何らかの手立てがあるかもしれないとも思えたが、考えている余裕がなかった。何の方策もないまま、寧ろますます混乱に陥りながら、蕗屋の手は、床に投げ捨てられた縄を取っていた。又野に云われるまま、先ずしゃがみ込み、両足首を縛る。それから、右手で左手に縄を掛け、左手で右手に縄を掛けて、その両端を足と口を使って引っ張った。芋虫のように藻掻もがきながら、不格好に己の両の手を締めた。そうしながらも、考え続けてはいた。しかし、何かを思い付こうと焦れば焦る程、思考は空回りして真っ白に静止した。弓子に向けられたまま、又野の決意を示すように揺るがない銃身が恐ろしかった。その冷徹さが、蕗屋の頭脳を麻痺させた。時間稼ぎもままならず、これ以上きつく締めては駄目だと分かりつつも、縄はするすると締まっていった。完全に締まったら、最早成す術がないのは分かり切っていたから、それまでに、何か思い付かないといけなかった。けれども、緩めに縛ることくらいしか思い付かないまま、両手首にかけた縄を一通り締めてしまうと、もう、手遅れだった。蕗屋が身動きできないことを確認すると、又野は数回、猟銃の銃座で蕗屋を殴り、抵抗する意を完全に削ごうとした。それからゆっくりと弓子に迫り寄り、抵抗する弓子を組み伏せ、縛り上げた。首尾よく二人を制圧して、又野は満足そうににやりと笑った。そして余裕の笑みを浮かべて、改めて蕗屋の眉間に銃口を突き付けた。

 何とかしなければいけない、何とかしなければいけない、何とかしなければいけない――蕗屋の頭はぐるぐると回った。何か手立てはないか、せめて弓子だけでも救えないか――しかし、焦燥に沸騰しそうな蕗屋の頭には、結局何も思い浮かばなかった。折角せっかく緩く結んでおいた両手首の縄も、力む程にますます絡まった。又野はその様子を見下ろして、残忍な笑みを浮かべたが、もう付け入る隙を与えないと心に決めているらしく、何も云わずに引き金に指を掛けた。その指の動きが、蕗屋には見えた。恐ろしく緩慢に動いているように見えた。遠くの方で、「止めて」と叫ぶ弓子の悲鳴が聞こえる気がした。音としては蕗屋の耳に届いても、蕗屋の脳はもうその意味を理解するのを放棄していた。蕗屋は最後まで諦めたつもりはなかったが、もう何も考えてはいなかった。ただただ目の前の指の動きに見入るだけだった。


 恐らくはほんの数秒のことである筈だが、途轍もなく長い時間が過ぎたように蕗屋には思えた。幾ら経っても、銃声は鳴らなかった。いつの間に掻いたものか、汗がついと額を下り、目に入って染みた。それで蕗屋はまだ自分が生きていると知った。銃口は変わらず間近にあったが、目の前の指は、途中で止まっていた。「はあぁ」と大きな音がした。蕗屋自身の呼吸の音だった。暫く息さえ吸っていなかったことに気付いた。酸素を吸うと共に、緊張の頂点が去って、汗がどっと出て、へなへなと筋肉の緊張が解れた。すると、元より緩く結んでおいた両手首の縄も抜けそうな気がした。冷静に、落ち着いて、力一杯身をじれば抜けるかもしれない。それには、又野の視線をい潜らねばならなかった。だから蕗屋は、用心深く又野の様子を覗ったのだが、実の処そうする必要はなかった。即ち、又野は蕗屋を見ていなかった。驚いたような顔で何かを見つめるその視線の先には、広間の開け放たれた扉があった。そしてそこから、猛烈な勢いで人間が飛び出してくるのだった。その人間は、体を丸めて肩口から又野の体に思い切りよく激突したので、又野の体は、蕗屋の眼前に突きつけられていた猟銃ごと吹き飛んだ。二人はもつれ合いながらごろごろと広間の床に転がった。縺れ合った二人の体が離れ、一人が先に起き上がった。そこには、官服をぴっちりと着込んだ、一人の警察官が立っていた。その手には、奪い取った猟銃が握られていた。それらは、ほんの数秒のことであった筈だが、蕗屋には恐ろしくゆっくりとした出来事に思えた。

「何とか、間に合ったようやな」見慣れぬ姿ではあったが、その声で、蕗屋にはその官服が郷田だと分かった。


「……やっぱり、官服の力というのは絶大なんやな……駐在所から一寸拝借して着させてもろたんやけど、あの斎藤っていう男も、官服を見たら、すっかり怖じ気付いとった。竹谷が官服に拘る気持ちも少し分かったわ……」

 竹谷とは誰のことだろうと思いながら、蕗屋は両手足首の縄を外し、それから弓子の戒めも解いてやった。礼を云いながらふらふらと立ち上がった弓子の白い手首には、縄の痕が赤く付いて痛々しかった。しかし弓子からすれば、何度も銃座で殴打された蕗屋の顔の方が痛々しかった。

 心配そうに掛けてくる弓子の言葉を「大丈夫、大丈夫」と強気に受け流し、蕗屋は郷田の元へ行って、横に並んだ。郷田はじっと又野を監視するように見下ろしていた。先程の体当たりで切ったようで、彼も口から血を滲ませていた。一方の又野は傷一つ負わず、その目にまだ闘志を漲らせつつも、猟銃を奪われた状態で、郷田と蕗屋の二人を敵に回して立ち廻るつもりはないらしく、無言で床に座り込んでいた。

「――それで思ったんやが」と、郷田は自分の言葉を引き取って、更に続けた。

「自警団をほんまに煽ってたのは、あの斎藤って男やないな。ありゃ、見掛け倒しの看板や……」郷田はそこで一端言葉を切って、目を細めて又野の反応を見ながら続けた。

「今、この様子を見るに、自警団を作って、ほんまに煽ってたんも御前なんちゃうんか?」

 蕗屋は郷田の言葉に衝撃を受けた――が、先程からの又野の行動を考えるに、充分にありえそうだとも思った。

「……あんの話しだ?」

「俺がこの官服を着て、あいつらの処に行った時、皆、「ここを取り巻いて待機するよう指示された」って云うとった。あの斎藤って男もや。誰が頭目かは云いよらんかったが、「待機」という言葉を使っているからには、その場にいない人間の指示なんやろう。御前一人だけここに入ってきていることから考えても、御前が待機させてたんやないのか?」

 蕗屋や弓子の疑いの目に曝されながらも、又野は沈黙を保った。

「……まぁ、ええ。この話しにはこれ以上証拠はない。また後から、追々おいおい調べればええことや。それよりも……」と、郷田は蕗屋の方に向き直り、

「蕗屋君、事件の背景は大体分かった」そう云うと、一冊のノオトを取り出して、驚き呆然とする蕗屋に手渡した。

「これは、駐在所にあった記録の一つや。ここに、十一年前、村の駐在が行った住民調査の記録が残っている。これを見て思ったんやが……」

 睨み付けるように郷田を見上げていた又野の顔が、少し強張った。

「木戸黄太郎は――多分、ここでは進藤健三と名乗っていたと俺は思っているんやが――この村で、以前に自分が立てた構想を、或いはその進化型を、実行してたんやないか? 小露西亜ウクライナ農村部で行う筈やったものを」

 何のことだろうと、蕗屋は思った。


「これや、これを見ろ」そう云って、郷田は駐在記録の頁を開いた。


 大正十二年七月二三日

 衆議院議員選挙有権者党派調査。政友会派、三二人。憲政会派、四五人。

 村内若年者数名ニ過激思想ノ疑ヒ在リ。要観察。

  

 大正十二年七月三一日

 要観察人野口達市、栗原比露子、矢島五郎、甲田申太郎。皆年少者ナリ。過激思想、赤化ノ疑ヒ濃厚。

  

 大正十二年八月七日

 要観察人野口達市、栗原比露子、矢島五郎、甲田申太郎、黒塚伝次、山田源之助、又野啓郎、北川福太郎、土屋良平、吉田雄太郎、原田喜三郎、杉本富子。過激思想ノ疑ヒ在ル年少者急増。急進的ナ主義者ノ類也。如何ナル手立テ講ズベキヤ、我困惑ス。如何ナル所以ゆえんニテクモ急増セシヤ。

  

 大正十二年八月二〇日

 要観察人野口達市、栗原比露子、矢島五郎、甲田申太郎、黒塚伝次、山田源之助、又野啓郎、北川福太郎、土屋良平、吉田雄太郎、原田喜三郎、杉本富子、長田泉三、浅見三四郎、谷田義三、上杉逸二、菱田新太郎。過激思想ノ疑ヒ在ル年少者さらニ増ス。辺鄙ナ山村ニテ何故、何処カラ広マリシヤ。


 大正十二年八月二七日

 要観察人同右。過激思想ノ拡大一時止ム。然レドモ、激化、暴発ノ疑ヒ濃厚。騒乱ノ企図在リトノ情報。事態逼迫セリ。摘発鎮圧止ム無シ。


 大正十二年九月四日

 私為医業按摩鍼灸者調査、及ビ禁厭祈祷者調査実施ス。違反特ニ是無ク。


 大正十二年九月一〇日

 夜警中、木村善次郎ト山本徳一トノ喧嘩ヲ発見ス。木村善次郎、棒ニテ山本徳一ヲ殴打シ顔面ニ怪我セシムルヲ以テ駐在所ニテ厳重ニ注意ス


「ここを見れば分かるやろう? この村には、嘗て、急進的な「主義者」がわんさかいたんや。こんな田舎の村に、なんでやという程に……それも、特定のある時期に集中してや。今、ここには持ってきてないが、駐在所に残っている他の記録とも付き合わせて見てみた。駐在の調査で、調査開始以来ずっと、「大正十年、特ニ無シ」「大正十一年、特ニ無シ」ていう感じで記されていた危険思想の持ち主についての調査が、大正十二年には急に十七人もの名を列挙することになるんや。当時の駐在も、急に増えたことを不思議がっている。「如何いかナル所以ゆえんニテクモ急増セシヤ」ってね。こんな田舎の村にやぞ、都会に出て来た若者がかぶれるのとは訳が違う。誰かが、この田舎に意図的にそうした思想を持ち込んで広めたとしか思えへん……。しかし、一体誰が好き好んでこんな田舎の村に持ち込む? そう疑問に思っとったら、八月二七日の欄外には、こうも書かれていた。「村ノ若者二十人程、神ヲ嘲リ、唯物論ノ徒ト成リ……」「今ニモ騒動ヲ起コサンバカリ……」これで、ピンときたんや。木戸の構想は、小露西亜の田舎の農村に、無神論を広めるというもんやった。農村の素朴な人間の素朴な信仰心を破壊し、騒擾を引き起こすというもんやった。あの構想を、或いはその発展版を、木戸は何らか縁のあったこの地域の長閑のどかな山村で実験したんやないか? 自分の計画で素朴な人々の心を乱し、騒乱を引き起こせることを立証しようとしたんやないか? そして実際に、村に大きな波風を立てることに成功した――少なくとも、戸惑いに満ちた駐在の言葉からは、そう読める。時期的にも符合する。大正十二年と云えば、進藤健三こと木戸黄一郎が日本に帰国した時期と殆ど変らん。そう考えれば、最近起こっているこの村の異変の諸々の原因も想像が付く。恐らく木戸はわざと、「本」を村の若者達の目に届きやすいようにして、村の若者達が動揺するように仕向けてたんやろう。勿論、木戸がそう仕向けたのは十年以上も前のことやが、恐らく、最近になって、その木戸が残した「宝物」を、不二夫少年らが再発見したんや――勿論、「宝物」なんてええもんやないが、頭の良かったらしい不二夫少年にはそう思えたんやろな。どういう風に不二夫君らがそれに触れることになったのかは、今はまだ一寸分からへんが、元々村の若者らの目に届きやすくしていたなら、不二夫君らが何かの切っ掛けにそれを見付けたとしても不思議ではないやろう。つまり、木戸が村にばら蒔いた危険な火種が、十数年経って、再び芽を吹いてきたのが最近の出来事なんやないのか?」

「けれど……木戸が行おうとしたのは一神教徒の信仰心の破壊で、若者に急進的な思想を持たせるというものとは少し違うのでは……」

「そう、確かに少し違う。せやけど、青少年の人生観や世界観に与える影響は甚大なのではないかとゆう話しやったやろ? 恐らく木戸は村の若者達の素朴な人生観や世界観、道徳心をめちゃめちゃに破壊し、更にそこに、急進的な思想を注入しやがったんや。そう考えれば、不二夫君が見付けたという「宝物」の中に、『資本論』が含まれていたことも納得がいく」

「――『資本論』?」

「蕗屋君、君は三高生やないのか。仏蘭西語なんてまるで分からへん俺の方が先に気付いたみたいやな。あの更地の、不二夫少年らが「宝物」の隠し場として利用していた地下倉の中で見付かった仏蘭西語の本の一冊、『Le Capital』は『資本論』や。多分、他の本も似たようなもんやろ」

 蕗屋は、自分が見つけた洋書の意味にこの時初めて気付かされて、はっとした。

「でも……でも、何故、そこで急進的な思想なんかが出てくるんです?」

「明石将軍への対抗意識やろう。明石将軍は、露西亜ロシアの共産主義者らと手を組んで、その反体制活動を激化させることで明治三十七、八年の戦役を勝利に導いた。木戸は、自分の好敵手――といっても、木戸の方で勝手に思っていただけやろうが――のアイデアを一部取り入れることで、自分の構想をより強力なものにしたんやないかな。それとも、もしかしたら、明石将軍をやはり上回ろうとしたのかもしれん。明石将軍が扇動したのは、露西亜の既存の共産主義者やった。それに対して木戸は、既存の共産主義者など全くいない素朴な農村に、それを一から短期間で生み出して騒擾を引き起こさせるという、より応用性の高いものに、自分の構想を練り直したようにも思える。兎も角、云わば木戸は、自分の元々の構想と明石将軍のアイデアを組み合わせて、村の若者達相手に「赤化実験」でも行ってたんやろう」

「「赤化実験」……」

 蕗屋は戦慄した――青春の惑いの中にある少年少女の心を、ただ実験をする為だけに弄んだのか、と。純朴な若者たちの思想心情を、ただ己の構想を確かめる為だけに、改造したのか、と……その行いの裏に見え隠れする、木戸という男の思い上がりと自己満足がおぞましかった。それは確かに、木戸という打ち捨てられた鬼才にとっては、己が人生への、一種の報復だったのかもしれない。そのこと自体は、必ずしも理解できない訳ではない。しかし、ただその為だけに多くの若者を巻き込んだのかもしれないと思うと、木戸という男の独善性が恐ろしかった。

 蕗屋は振り返って、又野を見た。又野は、蕗屋とも郷田とも視線を合わさず、顔を紅潮させながら沈黙していた。その沈黙の意味は蕗屋にはよく分からなかったが、少なくとも否定の意には思えなかった。

「……そのことと、シゲちゃん――いや、こいつと、どういう関係があるんですか?」

 又野がいつまでも黙っているので、蕗屋が問うた。といっても、又野を庇おうという意図があってそうした訳ではなかった。今や、又野が事件に関係していることを、蕗屋は全く疑っていなかった。殴られた口の傷を摩り、いつの間にか濡れ手拭いを用意した弓子に皮膚の熱を取ってもらいながら、蕗屋は寧ろ憎悪の目を又野に送っていた。あれだけの目に遭ったのだから、それは当然のことと云えるだろう。しかしそれでも、納得できないことは納得できなかった。それは彼の中の憎悪などの感情とは別だった。何故、又野がこのような行動に至ったのか、全く理解できなかったので、そこをどうしても知りたいと思ったのだ。

「関係は、ある――勿論、細かいことは本人に聞かんと分からへんけどな……。取り敢えず、今、俺に云えるんは、こいつの兄貴も、駐在の記録に、危険人物として名が挙がってるということや。ほら、ここ見てみ。つまり、こいつの兄貴も、木戸の実験の犠牲者やった訳やな……」

 そう云って、郷田は蕗屋が持っているノオトの該当箇所を指で差した。蕗屋は、弓子と共にそれを見る。そこには、確かに「又野敬郎」という名があった。当時の駐在によって調べ上げられた情報も別の箇所に乗っていた。「又野敬郎」という男の弟は、確かに重郎という名であった。

 蕗屋と弓子がそれらを見ている間、郷田は更に又野に詰め寄っていた。郷田は、口ではただ、兄の存在を指摘しただけだったが、どうやら他にも考えていることがあるようだった。

「……御前の兄貴、もう死んでるらしいな」

「……それがどうした」又野が漸く口を開いた。

「……どうもな、おかしいんや……。この小さな村に、あれだけの数の急進的な「主義者」がいながら、結局騒擾は起こらなかった。駐在の調査も直ぐに打ち切られたらしく、同じ年の九月以後の記録では、もう何もなかったみたいになってる。九月四日は、私為医業按摩鍼灸者調査と禁厭祈祷者調査をしたこと、九月一〇日は喧嘩の仲裁をしたことが書かれているだけ……。そして現在、この村には、色々奇妙なことは起こっているが、それこそ自警団みたいなんは騒いでいるが、危険思想の持ち主らしき者はいない。……主義者はすっかり、ぷっつりと消えてなくなった訳やな。村にとっては万々歳といった処やろうが……」

 郷田は、何を云おうとしているのだろうかと、蕗屋はいぶかしく思った。

「……この小さな村にあれ程いた「主義者」達が、危険思想の持ち主達が、ぷっつりと全くいなくなった方が、寧ろ不自然やないか? なぁ、何でこんなに綺麗さっぱりいなくなったんや?」

 又野は何も答えなかったが、その顔はどんどんと引きっていった。

「……なぁ、実の処、この一連の出来事の中では、「本」の謎なんて、本当は真の問題やなかったんとちゃうか? 少なくとも御前にとっては、「本」なんて、実は二の次やったんとちゃうのか? もっと他に隠したいことがあったんやないのか……? こんな無茶なことまでして隠したかったことが……」

 先程まで強気に郷田の言葉を受け流していた又野が、急速にその顔色を失っていった。又野が何故、それ程に郷田の言葉に反応するのか、郷田の言葉のどの部分に反応しているのか、蕗屋には全く理解できなかった。だから、ただぼうっと二人の顔を交互に見つめるしかなかったが、そんな蕗屋の袖を、弓子がまた引いた。弓子の顔もまた、すっかり青褪めていた。彼女もまた、郷田の言葉を聞いて震えているらしかった――弓子は何にそんなに恐れおののいているのか? 蕗屋は、今この瞬間の意味を理解していないのが自分だけであるらしいと悟って、愕然とした。そんな蕗屋の戸惑いに気付いて、どう伝えたらいのだろうかと逡巡した様子を見せながら、弓子は駐在記録の頁を指差した。

「御兄さん、これ、見て……ここに挙がっている人達の名前……」

 蕗屋は首を傾けて、該当する頁を見た。そこに並んでいる名前を見た。


  野口達市、栗原比露子、矢島五郎、甲田申太郎、黒塚伝次、山田源之助、又野敬郎、北川福太郎、土屋良平、吉田雄太郎、原田喜三郎、杉本富子、長田泉三、浅見三四郎、谷田義三、上杉逸二、菱田新太郎


「この人達全員、死んでるの。十一年前に出稼ぎに出て、関東大震災で全員死んだって私は聞いているの……」

「え……」ずっと村を離れていた蕗屋にはよく分からなかった。しかし、慌てて弓子の手から記録を受け取って眺めると、そこに挙がっている名前は、確かに関東大震災で死んだと聞かされた名と一致しているようだった。十一年前に全員死んでいる? それをどう捉えるべきなのか? けれどもそれは飽くまで出稼ぎ先で死んだという話しで……。出稼ぎ? 関東大震災があったのは、大正十二年の九月だった筈だ。九月?――そうだ、行く筈がない、九月に出稼ぎなど――蕗屋は、思わず「あっ」と口にしていた。

 そして郷田は、そんな蕗屋と弓子のやり取りを耳に収めて、確信を深めた様子だった。

「……やっぱりそうか。……御前ら……」そこまで云って、郷田が憂鬱そうな溜め息を吐いた。

「全員殺しやがったな」


 洋館一階の厨房のすみ、丁度昇降機の脇の床に、目立たないよう設けられた蓋板があった。そこを開けると縦穴があって、狭い石段が下方へと続いている。数歩降りると、直ぐに空気は重く冷たくなった。殆ど人が立ち入ってないことは明らかだった。石段の傾斜はかなり急で、手摺のようなものもないから、懐中電灯を片手に持ちながらだと危なっかしい。しかし足元を充分に照らさないことにはより危険になるから、懸命に片手を壁に這わして、前のめりになりそうな体の均衡を保った。この石段は洋館建設の際に新しく整備されたもので、下り切ってしまうと、石で区切られた空間は終わりであった。そこからは更に狭い横穴が続いていたが、カビと腐った木材の臭いが強く鼻をつく。ダイモンの懐中電灯に照らし出すと、上下左右に渡された大小様々な矢板や木材が、複雑に組み合わされて、懸命に剥き出しの土石を支えていた。洞壁を支える木材の隙間からは、取り取りの地層の縞が浮き出している。天井の矢板の隙からは、幾条か樹木の根が垂れている。新しい補強の跡が見られるものの、全体としてそれらの矢板や木材の多くはかなり古いもののように見えた――云い伝えの通りに戦国時代の頃からのものかどうかは分からないが。足元に敷かれた板も、壁面や天井を支える木材も、一様にじめじめして黒ずんでいる。そのぬめりに足をすくわれないよう、蕗屋は後ろから来る弓子の手を握り、ダイモンの灯りを頼りとして慎重に足を進めた。

 やがて四十畳程はあろうかという大きな空間に辿り着いた。先程までの地下道と同様、天井や床に木材が幾つも渡されているから、ここも人の手が入っているのは勿論間違いない。ただ、壁面に関しては、余り木材などは渡されておらず、寧ろ天然の岩盤がこれを支えていた。そうした様を見るに、元々は自然にできた大地の隙間のようであった。つまり、天然の洞穴を加工して、この地下の空間にしているらしい。そしてこの空間から、洋館とは反対の方にも、どうやら地下道は伸びているようだった。恐らくその先に、今は塞がれているが――不二夫らの集団自殺の後で、事態に気付いた又野が再び土を盛って塞いだらしいのだが――村の「北条の抜け穴」が繋がっているに違いない。処々に棚状のものが設けられていることからして、ここは、恐らく嘗ての村か、或いは山頂の古城の、地下倉であったのだろう。或いは本当に抜け穴で、その為の避難所か貯蔵庫だったのかもしれない。広い分、床板は一面には敷かれておらず、寧ろ天然の地面が多く剥き出しになっていた。湿気が強く虫が這いずる剥き出しの地を避けて、継ぎ接ぎに組み合わされた床板が迷路のようになった上を、蕗屋は用心しながら歩いていった。奥へと進めば進む程、さっきまでの地下道とは違って、周囲の木材の至る処が焼け焦げているのが分かった。それらが嘗て強い炎に曝されたのは確かだった。

 そうして弓子共々空間の真ん中辺りに至ると、改めて懐中電灯で周りを照らした。すると、殆どの棚の一番下段は床板が張られておらず土が剥き出しなのに、一番奥の棚だけむしろが敷かれているのが分かった。しかもそれは、ただ敷かれているのではなく、その下が少し掘られていて、それに蓋をするように被せられているのであった。蕗屋は弓子をその場に残してそちらへ向かった。爪先で筵をつついてみると、確かにその下に何かがあって、乾いた音を立てた。蕗屋は憂鬱になったが、確かめざるを得なかった。

 蕗屋は筵の端を掴み、引き剥がした。それから手を伸ばし、懐中電灯を当てた。分かってはいたが、それを実際に目の当たりにすると、やはり彼は弾かれたように後退し、ぬるぬるとした地表に足を滑らせそうになった。それでも、目を外すことはできなかった。とはいえ、直視をしたくもなかったから、視線を逸らして、視界の隅にそれが収まるようにした。しっかりと焦点が合わないように、しかしそれが何であるかは分かるように。

「そこにある」と告げられていたものに間違いなかった。大きな卵の殻のようなものが十数個もぎゅうぎゅう詰めに押し込まれていた。それらは調度人間の頭程の大きさで、実際に嘗て人間の頭であったものだった。ひび割れのような縫合線や、焼けて縮れた毛髪がまだ残っているのが見える。幾つかは女性だったらしく、幾らか縮れているものの比較的長い髪が残っていた。筵を完全にめくると、眼球を失ってぽっかりと空いた虚ろな眼窩や、鼻梁を無くした鼻腔がぞろりと並んでいた。唇も歯茎も朽ち落ちた剥き出しの歯が貝殻のように並んでいた。そしてボロボロになった衣服の残骸を纏わせて、無数の頸椎、鎖骨、脊椎骨、肋骨、上腕骨などが折り重なって続いていた。それらが漁村のゴミ置場の貝殻のように、乱雑に捨て置かれていた。それらこそは、野口達市や栗原比露子、矢島五郎、甲田申太郎……そして又野敬郎といった、十一年前の村の若者達の、現在の姿であった。


 これを、人の目から守ろうとしていたのか――一隅いちぐうに積み重なった夥しい白骨を目にして、蕗屋は暗澹たる気分に陥った。

 十一年前、大正十二年八月三一日、野口達市や栗原比露子、そして又野敬郎ら、村の若者達一七名は、決して東京に出稼ぎになど行ってはいなかった。いや、冷静に考えるなら、行っている筈などなかったのだ。間も無く農繁期の九月を迎えるというのに出稼ぎなど。彼らは、彼らがしばしば秘密の会合を持っていた、この「北条の抜け穴」の奥の空間で、村人達に焼き殺されたのだ。

 その頃、まだ幼かった又野も、全てを覚えている訳ではなかった。しかし、彼の話しによれば、父に連れられて洞窟の前に立った彼に、彼の父が概ねこのようなことを云ったのは覚えていた。

「彼らは、村の恥だ。村から危険な「主義者」を、醜い国賊を、忌まわしい国事犯を出す訳にはいかない。あれらを止めることは、わしら親の責務なのだ」

 その場には、他にも何人かの大人の男達がいたが、皆、思い詰めた顔で、一緒になって、うんうんと首を振っていた。幾人かは涙を流していたが、反論のようなものはなかった。大人達は、中にいる若者らに気取られぬよう、注意深く、音を立てずに「北条の抜け穴」の入り口に、薪や柴、藁を積み上げていった。それらで入り口を完全に塞いだ上で(又野の記憶にはないが、恐らくは現在の洋館側の出口も塞いだ上で)、油を掛けた。

 そして、十歳の又野重郎に松明を与えてこう云ったという。

「重郎、さぁ火を点けなさい。御前の兄は罪深い考えを持ったから、焼け死ぬ運命になったのだ。だからこれは天命なのだよ。だから怖がらずに火を点けなさい。……よし、いい子だ。今日から御前が、我が家の跡取り、そしてゆくゆくは村を守っていくのだよ……」

 そうして重郎は火を点けた。燃えた、燃えた、薪や柴、藁は盛大に燃えた。火が奥までどれ程燃え広がったのか、幼い又野には分からなかった。ただ、煙は濛々と立ち込め、奥から獣の吠えるような叫び声が聞こえてきたのを又野は覚えていた。

 この日から、兄とその友人達は村からいなくなった。翌日、東京で大きな地震があったことから、いつの間にかそれに巻き込まれて死んだこととされていた。「北条の抜け穴」は、そこに残された遺体や、彼らが持っていた諸々の「本」ごと、大人達によってその入り口に土が盛られて塞がれ、これ見よがしに注連しめ縄が掛けられて封印された――何かの拍子に盛り土が崩れて不二夫が発見するまで……

 後年、又野の父はこう云っていたという。「御国を脅かすようなのは我が子ではない。それは、村の親達の総意だった……」


 洋館と繋がる地下道から、カンテラを持った郷田が降りてきた。

「取り敢えず、自警団は解散させて帰した。御嬢ちゃんが大きな洋箪笥に閉じ込めてた家政婦もな。又野は、さっき君らが縛り付けられとった縄で、上のでかい卓子テーブルに繋いである。自警団の奴らに任せたら、逃がしかねへんからな……。うわっ、思ったより酷いな……」

「その後、又野は何か云ってましたか?」

「今は一寸落ち着いてきとるな。まだ話したいことはありそうやったが……。一人で抱え込んでいた秘密が大きいから、もしかしたら、内心では、これまでも誰かに聞いてほしかったのかもしれん……」

「進藤――木戸は、どうしてここにサナトリュウムを建てたんでしょう?

「さぁ……。さすがに良心が痛んだんやないか。自分の計画が凄惨な事態を招いてしもたんやから……。せやから、この洞窟や城跡がある一帯を買い取り、痕跡を隠蔽するのに協力したんやろ……ありそうな話しやと思うが、既に木戸が死に、妻もあの状態では一寸真意は分からん。さすがにそれは又野に聞いても分からへんのやないか。彼は、基本的には、父親の云い付けを守って、親による子殺し――それも一七人殺しという村の忌むべき秘密を守ってきただけみたいや。父親の云い付けを墨守して、木戸の経歴を追って村に近付く者や、「本」の行方を追って村に近付く者――そうして知り過ぎた者達を襲っていたみたいやな。川手妙子然り、伊志田鉄郎然り、そして君……」

「……京都の支倉は?」

「あれはどうも偶発的なものやったみたいや。君の捜査を妨害しようとして、ああなったみたいやな。支倉には、川手妙子も接触してたから、「本」を辿って村に近付く人間が立ち寄る経路として認識してたみたいや。せやから又野は、支倉の処に行き、『断罪』を買い取るか、少なくとも君の目に触れさせんとこうと考えてたみたいやけど、ところが交渉はこじれ、更に支倉家の蔵には既に君がいることを知って、全ての痕跡を消そうと、ああなったらしい。ただ、やったことは兎も角、彼はある意味で今回の騒動の元々の首謀者やない。又野重郎に、村の秘密を守るよう云い付け、一七人もの人間を焼き殺した首謀者は……」

「シゲちゃんの父、房次郎……」

「そう。卒中で今はもう又野家の離れに寝た切りらしいな。それから、栗原源蔵、甲田徳次郎、北川荘八……どうも、大方もう天寿を全うしているみたいやな。……そして君の祖父宮瀬泰造や」

「……え?」

「当時の村の有力者として、又野房次郎と共に、若者達の殺害を主導してたみたいやで。恐らく、不二夫君らの集団自殺には、単に「本」を読んだ絶望だけでなく、親や祖父を告発する意図があったんやろ。もし、君の云う通り、ここに「本」があるんなら、そう考えた方が自然や。誰かが「本」と一緒にこれを見付けてくれることを願って、わざわざここに「本」を戻して、手掛かりも残したんや……」

 そう云うと、郷田は白骨遺体の処に近付いていき、誰にともなく呟いた。

「……恐ろしいことやな……」


 まさかそんな、あの御祖父さんが……蕗屋には大きな驚きだった。それに、今は大方が亡くなっているとはいえ、村人達の多くがそのような惨たらしいことに関与していたとは……。弓子は、どれ程衝撃を受けていることだろうか――蕗屋は弓子を思いやって、その姿を見守る。彼女は少し離れた処から、取り憑かれたように目を見開き、白骨の群れに見入っていた。あのおぞましいものを見ながら、彼女は何を思っているのだろうか。この白骨の主たる、嘗て若者だった者達のことだろうか。それとも、彼らをこのようにした村人達のことなのか。村を襲った痛烈な運命をいたんでいるのだろうか……。考えれば、今回の一連の事件では、彼女には余りにも厳しい辛苦が待ち受けていたのだ。それを思うと、蕗屋はいたたまれなくなる。弓子の美しく、悲しい横顔が切なかった。とはいえ、喜ぶべきなのだろうと蕗屋は思った。余りに衝撃的なことが多かったが、事件は解決したのだ――十一年前の葛瀬村、或いは三一年前の京都に始まった因縁の糸の絡まりは、今日、全て解けたのだ。一人の天才の奇想が生み出した悪夢は、今日終わったのだ。しかし、蕗屋の中に引っかかるものがあった――まだ、何かが解決していない。一体、何だったろうか?

 郷田が、白骨の群れの上に屈み込み、その様子を観察し始めた。さすがに現役の警察官だけあって、遺体の多さにこそ辟易しているらしいものの、大きな動揺は見せなかった。

「医学博士に鑑定してもらわないと正確なことは分からへんけど、十年程前の遺体というなら、そんなもんという感じやな……。すっかり白骨化してるから死因は分からんが、衣服とか燃え残っとるから、焼死というより煙による窒息死ってとこか。大きさから云うて、男十五人に女二人……」

 郷田は更に衣服の残骸や白骨の周辺も探った。死者達の遺品らしきものが次々と出て来る。懐中時計に眼鏡、尾錠付の帯革、変形した鉄道靴、真鍮製の煙草入れと仁丹入れ、缶切り……。十一年前の、若者達の携行品であった。どれも熱で黒ずみ、経年で錆付いているか、或いはぬるりとした菌が表面に膜を作っていた。

「見付けたぞ、これが、諸悪の根源や」

 郷田が声を出して持ち上げたもの――それは、焼け焦げた一冊の本だった。


 表裏の表紙も、頁の縁も、全体に黒く焦げて撓んでいた。しかし、中の紙は大丈夫そうで、本の体裁を成していないという程ではなかった。縦八寸に横六寸、厚さは七分といった処だろう。全体にすすけて分かりにくいが、装丁は赤茶色の皮革で成されているらしく、そこに金装の文字で『Dialogus cum Diabolo(悪魔との対話)』と――蕗屋は、自分の目を疑いながら、何度も何度も見返した。しかし何度見返しても、それは、間違いなかった。そこには、確かに『Dialogus cum Diabolo(悪魔との対話)』と、書かれていた。探し求めていた「本」が、遂に、見付かったのだ。波乱多き探求の果てに、惨たらしい過去の暴露の結末に……。不二夫が残した告発であり、十一年前の若者達が残した無念のようでもあった。蕗屋は、不謹慎と思いつつ、感激していた――不二夫は、やはりここに返していたのだ。蕗屋の中で、場違いな好奇心が高まっていくのを抑えられなかった。自分も、あれを読んだら――

 しかし、郷田の様子は違っていた。郷田はその全身から嫌悪の感情を振り撒いていた。

「これが原点か……まさに呪われた本やな……。これが木戸の知る処となったばかりに……」そう云うと郷田は、何か決意したような顔をして、手にしていたカンテラの火屋ほやを外すと、「本」をその火に翳した。蕗屋は、郷田が何をする気なのか察した。

「……一寸郷田さん、何やってるんですか! 止めて下さい! 「本」が燃えてしまう!」

「何でや! こんな厄介な本、のうなった方がええやろ! こんな本があるから、御前の故郷のこの村かて、こんなことになってしもたんやぞ!」

「だからと云って、駄目です、郷田さん! 黒岩さんも云ってたじゃないですか、それは人類の叡智の……」

「やかましい! こんな本はのうなった方がええんや!」

「止めてください!」

 蕗屋がそう叫んだ時、銃声がした。そして郷田がゆっくりと倒れ、その手からばさりと「本」が落ちた。

 蕗屋は、ぽかりと口を開けて、身動きが取れなかった。地下道の中なので、音が反響してよく分からなかったが、目に見える範囲にはただ倒れた郷田がいるだけだから、銃声は、どうやら蕗屋の背後からしたようであった。蕗屋は呆然としながら後ろを振り返った。そこには、猟銃を抱えた弓子が立っていた。

「御兄さん、その「本」を拾って、こちらに渡して」

 

「弓子ちゃん、一体何を……?」

「御兄さん、「本」を見付けてくれて本当にありがとう。御兄さんなら、きっと見付け出してくれると信じていた。本当に付いてきて良かった、感謝してるわ」

「君は……何を云って……?」

「不二夫、あの子ったら、私に読ませまいと、「本」を巧妙に隠すのだもの……でも、私は、その本を読みたいの。読まないといけないの。だって……」弓子は首を傾げ、言葉を選びながら、しかし恐ろしく魅力的で、知的でぞっとするような微笑みを浮かべて静かに語った。

「もう、途中まで読んでるのだもの……」

「……え」

「御兄さんは、さすがだわ。残念だけど、私には不二夫の暗号は判らなかった……。私はどうも頭に柔軟性がないみたいで、もっと物事は柔らかく考えなきゃ駄目ね。不二夫にも御兄さんにも、本当に頭に来る……私よりも賢いのだもの。でもね、御兄さんや不二夫が私より頭がいいのは仕方ないわ。だって、不公平なのだもの。父は、不二夫には幾らでも本を買い与えるくせに、私には全然そうしてはくれない……ううん、子供の頃はよく買ってくれたのよ。でも、いつの頃からか、まるで買ってくれなくなった。女学校も、本当に私の知りたいことを教えてはくれない……。私は、色々なことが知りたいのに……。答えて、御兄さん。私は、この体を軽やかに越えていきたいの! この重たくて弱い肉体は、私にとって重しなの! ねぇ御兄さん、答えて! 人に魂はないの? じゃあこの、私の、肉体を越えて飛び立ちたがっているものは何なの? 幻想でしかないの? 私の気持ちは意味のないものなの? 私の心はまやかしでしかないの? こんなに狂おしいのに、こんなに藻掻もがいているのに、それも意味のないことなの? だとしたら私は――私の気持ちは――私なんて、こんな無様な脂肪の塊なんて、いらないじゃない!」

 いつの間にか、弓子は涙を流し始めていた。

「神様は、いるの? いないの? 霊魂は、あるの? ないの? 途中までしか読めないなんて、こんな酷なことはない……。 不二夫は読んだ、読んで、この世にも、人間にも、自分にも価値が無いことを知って、喜んで正気の世界を去った。あの子は、きっと今、幸せだわ。私には分からない……。私には分からないの。私に価値はあるの? 私が生きていることに意味はあるの? この世界に価値はあるの? もし、価値がないのなら、死後の世界も善悪も何もないのなら、この世も、私も、滅びてしまってもいいんじゃないの? ねぇ、御兄さん、教えて――」

 蕗屋には、何も答えることはできなかった。その様子を見た弓子は、一層涙をはらはらと流しながら、蕗屋に要求した。

「――教えることができないなら、私に「本」を渡して……」

 蕗屋は、郷田の手からこぼれた「本」を取った。黒ずんだその「本」は、今や郷田の血を吸って、ますます禍々しくなっていた。蕗屋は、ぴくりとも動かない郷田にこれ以上害が及ばぬよう、弓子の方に近付く素振りを見せつつ、郷田から離れた。しかし、弓子に「本」を渡しはしなかった。

「……何のつもり?」

「……これは、渡せない」

 読めばどういう結論を下すことになるか、蕗屋には分かっていたからだ。けれども、そう蕗屋が云うと、弓子の表情が、変わった。涙は留まることなく流れ続けていたが、その表情は、きっ、と何かを決意したようなものになった。

「そう。じゃあ、いい。御兄さんには、もう一つして欲しいことがあるから」そう云うと、弓子はすっと銃を蕗屋に向けて水平に構えた。

「私、御兄さんのことが、少しだけ好きだったわ。御兄さんも――私のことを、好いてくれて……いたのでしょう? そうじゃないと、九年前の……まぁ、それは、いいわ。ねえ、もし御兄さんに霊魂があるなら、もし、私のことを好いてくれているなら、死んだ後で、私の処へ会いに来てよ。私、待ってるから……。皆、魂はあるなんて、口では自信たっぷりに云う割に、誰も私の処に来て、それを証明してはくれないのだから……。ずっと一緒にいたいなんて云っていたのに。幡江ちゃんも、藤枝ちゃんも……」

 この時、蕗屋は思い出した。

 前に葛瀬村に戻って来た時、熊城藤枝が弓子に掛けた言葉を。


 ――これで、でえ好きな弓子御姉ちゃんともずっと一緒にいられるってもんだよ!


「……弓子ちゃん、何を云って……?」

「何故二人とも、私の処にやってきてくれないの? なぜ誰も、魂はあるよって私に会いにきてくれないの? あんなに私のことを好きだって云ってたのに」

「弓子ちゃん、君は……君はもしかして、二人がどこにいるのか知っているんじゃ……」

「知らない……。だから、その「本」を読みたいの」

「そうじゃなくて……その、二人の、肉体がどこにあるかだよ?」

「……それなら、ええ、知ってる。御兄さんが九年前、私を連れ出して接吻した、あの人の来ない、楡の木の下に埋めたから、まだ腐ってなければ、そのままの筈……」

 蕗屋は、自分のよって立つ足元が全て崩れ落ちるような感覚に囚われた。そんな、そんな、そんな、そんな――

「ねえ、御兄さん。御兄さんなら、私のことが好きなのなら、もし魂が本当にあれば、私の処に来てくれるわよね? それとも、やっぱりこの世には意味はないの? ……待ってるからね……だから、私のことを好きだと云うのなら、私に証明してみせて」

 そう云って、銃を構えたまま、別れの挨拶を交わすように、にっと口角を上げたその笑みは愛らしく、無邪気なようにも残忍なようにも見えた。蕗屋にはどっちなのか判断が付かなかった。彼女が言葉の通り本当にそう望んでいるのか、それとも自分をもてあそんでいるのか。ただ、自分が彼女の禍々しい美しさに、この瞬間も魅入られているのは分かった。そしてもう一つ、彼女の元には、久米幡江の魂も、熊城藤枝の魂も訪れなかったということも。よし、じゃあ自分は、もし魂があるなら、弓子の元へ訪れようじゃないか――現実とは思えないような薄暗い地下の空間で、きっと真っ直ぐに銃を構える美しい弓子と対峙しながら、そんな思いが一瞬、蕗屋の脳髄をよぎった。

 銃声が轟いた。しかしそれは、弓子の構えた猟銃からではなかった。俯せに倒れていた筈の郷田が、脇腹から血をだらだらと流しながらも、いつの間にか上体を起き上がらせていて、彼の握る二五口径FNブローニングM一九〇六拳銃から銃声は発したのだった。弾丸は、弓子に向かって飛んだ。蕗屋の方を向いていた弓子は無防備だった。発射された弾丸は、真っ直ぐ弓子に向かって飛び、その顔を掠めた。殆ど触れたか触れなかったかも分からぬ程度であったが、そこは左の目であった為、眼球が弾けた。外膜が微かな弾丸との接触で裂け、硝子体が飛び散った。ぱちりと水晶体が零れ、中の眼房水が全て溢れ出た。

 弓子は、顔を押さえて、声に為らぬ絶叫を上げた。郷田が、何か自分に向かって指示しているのが蕗屋には分かったが、その耳には何も聞こえてはいなかった。得体の知れない激情が噴き出て、何故か蕗屋は郷田に飛び掛かっていた。そうして、怪我をした郷田に馬乗りになり、泣きながら殴り続けた。顔から血を流す弓子を見て、蕗屋は半狂乱になって郷田を殴り続けたのだった。

 間も無く、洋館側の地下道から煙が充満してきた。洋館から出火して、その炎が、蕗屋らのいる地下空間にも押し寄せてきたのであった。その煙に巻かれて、やがて蕗屋は意識を失った――


 この後、現場からどう逃げ出したのかを、蕗屋はよく覚えていない。蕗屋らを介抱した村人の話によると、「北条の抜け穴」を塞いでいた盛り土の一部が崩れて、そこから、意識不明の蕗屋と郷田が転がるように這い出て倒れていたとのことであった。

 焼け跡の洋館とその地下からは、男女二人の焼死体――又野重郎と進藤礼子――と、そして勿論、古い白骨一七体が見付かった。火元は洋館の広間で、現場の痕跡から、戒めを抜け出た又野が厨房に保管されていた油を撒き、火を放ったものであると推定された。部屋に閉じ込められていた進藤礼子に逃れる術はなかったようだ。一方、弓子の姿は現場からも村からも見付からなかった。「本」も見付かっていない。焼けたのか、弓子が持ち去ったのか――幻は再び幻となったのだった。

 宮瀬邸の離れにて心身の回復に努めながら、これで村はどうなってしまうのだろうと蕗屋は危惧したが、それは良くも悪くも杞憂に終わった。火災の直後数日は村全体が騒然となったものの、やがて皆押し黙るようになり、娘の行方が分からなくなった宮瀬夫妻も含めて、村人達全般は驚く程早く平静を――少なくとも見かけ上は――取り戻していった。白骨体の捜査が行われ、幾つかの遺品も公開されたが、それらが身内のものであると名乗りを上げる村人もいなかった。村人達の口は一様に重く、全員が事態の全容を、火災の時に何があったのかを、或いは十一年前に何があったのかを、どこまで知っているのかは定かではなかったが、兎に角押し黙ることが、多くの村人達の意思のようであった。

 警察の捜査もおかしなものであった。無論、白骨体は古く、身元も含めて決定的なことを明らかにするのは難しかったし、村人達も捜査に非協力的であったから捜査の難航は仕方のない処ではあるが、そもそも遺体の調査や聞き込み自体が至っておざなりで、早々に「身元不明、遺棄時期不明」との結論が出された。見付かった場所が「北条の抜け穴」であったことから、「戦国期の遺骨だろう」と仄めかすことさえした。この一件は結局、不審者がいると村人達を煽り、挙句に自ら誤って、折り悪く村を訪れた伊志田鉄郎を殺害してしまった又野重郎が、罪の意識を感じて自殺し、進藤礼子はそれに巻き込まれたのだとされた。何故、又野がサナトリュウムの洋館で死んだかについては問題にならなかった。白骨体については、最終的には公式発表さえなかった。警察は、そんなものなどまるで何もなかったかのように振る舞うことを選んだのだった。赤化少年一七人の虐殺という惨劇は、恐らくは殺されたのが赤化少年であったからこそ、殺害者を称賛こそすれ、咎めだてることは何もないとばかりに、遂に表沙汰にはならなかったのである。この杜撰な捜査や性急な結論については郷田が大いに異議を唱えたが、大阪府警察部の刑事の進言など、地元の警察にはまるで聴き入れられなかった。

 蕗屋も、郷田には同調しなかった。彼もまた、犯罪の隠蔽という点では同罪であったからだ。彼は、撃たれてから先の郷田の記憶が曖昧なのをいいことに、弓子の告白を誰にも明かさなかった。一度だけ、何かを察したのか熊城卓次が蕗屋の元を訪れ、「知っていることがあるなら話してくれ」と強く懇願したが、しかしそれでも遂に蕗屋は打ち明けなかった。結局、彼も、多くの村人達同様、沈黙したのだ。

 郷田は困惑し、失望し、怒った。もし後年、この事件が知られなかったなら、それは国が、村人が、蕗屋が隠蔽したのだと、郷田は怒り狂った。そう、郷田の云う通り、国も、村も、蕗屋も、事件に口を閉ざし、目を瞑り、隠蔽したのである。ただ郷田一人が、義憤に駆られて自分が見聞し、知り得たことを主張し続けたのであったが、彼一人でどうなるものでもなかった。この国では真相は必ずしも必要ないのである。だから、真相究明を声高に叫ぶ彼は、寧ろ村人達からは胡散臭い目で見られ、地元警察からもうとまれた。その上、蕗屋からも積極的な助力を得られないことを悟って、遂に観念した。そしてなす術なく、彼は大阪へと帰っていった。いつか大阪か京都で共に飲もうとの約束はきっと果たされないだろうと蕗屋は思った。郷田という異物を吐き出した村は、十一年前と同様、大きな毒を抱え込み、薄気味の悪い平穏の下で腐乱していくことを選んだのである。こうして、葛瀬村での騒動は、終息――これが終息と云えるなら――を見たのだった。

 京都へと帰る前日、蕗屋は弓子の云っていた通り、彼らしか知らぬ斜面の奥まった処にある楡の木の下を掘り返した。そして蕗屋は確かにそこに、二人の少女の遺体が埋められているのを確認した。それだけを確認して、蕗屋は村を発った。もう二度と村に戻ってくることはないだろうと確信しながら。


 京都に帰った蕗屋は、村のことも事件のことも全て忘れて、勉学に打ち込もうとした。なにしろ高等学校三回生なのだから、すべきことは多かった。しかし、新聞紙上で、東日本で若い女の遺体が見付かったと聞くと、その遺体は隻眼ではなかったろうかと気にかかり、自殺者が出たと聞いたら、その周辺に怪しい本を持った隻眼の女がいなかっただろうかと落ち着かなくなった。忘れようとすれば忘れようとする程、村での出来事が思い出された。結局自分は何もできなかったのだと己の無力を苛み、弓子と「本」の行方ばかりを考えて仕方なくなった。そうして頭の中が一杯になるごとに酒を飲んで紛らわしていたから、飲酒量は増えていき、午前中の授業には明らかに差し障るようになっていった。そうして結局、三高の授業がどんどん進んでいっても勉強には手が付かず、みるみる成績は落ちていき、やがて現状での帝大への進学は難しいと云われるようになった。しかし、蕗屋はそれでもいいと思った。そうしてやがて、蕗屋は自分が、自分で思っていた以上に弓子を愛していたのだと思うようになった。弓子の顔が思い浮かんだ。陶器のような白い肌、薄桃色の唇、寝待月のように大きく輝く目、少しだけ歯並びの悪い左の糸切り歯……。耳はその声を求めた。しかし、思い出されるのは、彼女が発した悲痛な問い――「私が生きていることに意味はあるの?」

 ――ある夜、いつものように並等酒で酩酊していた蕗屋の脳は、その問いに対して、自分なりに一つの答えに達したのだった。「何の為に人は生きているのか」というその問い自体が、人間の脳という無駄に大きくなりすぎた器官が見せる地獄なのだ――と。そこに陥ること自体が、一つの罠であり、永遠に解決のない地獄なのだ。その問いに陥ること自体が、救いへの一歩ではなく、無限地獄への一歩なのだ。或いは、全てに因果を求める人間の思考様式が見せる地獄であり、「生きながら地獄にいる」と語ったハッジャールの地獄、彼が立ち向かった地獄なのだ。鳥を見よ、虫を見よ、花を見よ。ただあるがままにそこにあるじゃないか、それで何が悪いのか、と。

 しかしそこで一つの疑問が浮かぶ――では、人がただあるがままにそこにあるだけなら、それを殺すことは罪なのか? 人が自分で自分の存在を消すことは罪なのか? 人の存在に意味を見出すことに意味がないのなら、ただあるがままにそこにあることを拒んでも、そこにもまた何の意味もないのではないのか? 蕗屋の脳髄は、並等酒の酒精に痺れながら、答えを求めてぐるぐるぐるぐると同じ処を回った。それもまた、脳髄の見せる地獄であった。

 終わることのない懊悩の中、同じような煩悶に陥ったのであろう弓子の姿がまたも愛おしく思い浮かんだ。「私が生きていることに意味はあるの?」――彼女は、今もまだ、その問いを発し続けているのだろうか? まだ頭蓋骨の中の荒野に囚われているのだろうか? 酒精が見せる幻視に溺れながら、蕗屋の脳裏には、近い未来に、東京や満州や上海で、答えを求めて自分を愛する者を手に掛け続ける、美しく成長した隻眼の女の姿が思い浮かぶのだった。

 もう一度会ったなら、必ず彼女に伝えようと蕗屋は思った。自分なりに出した答えを。彼女はどんな反応をするだろうか? 鼻で笑うだろうか? それとも自分の考えを受け入れてくれるだろうか? そして、もし彼女が自分を愛したなら――

                                  (了)

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禁書――リベル・プロヒビトゥス―― 神山棘人 @ou-est

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