第六話

六、比頭郡葛瀬村

 宮瀬弓子は、停車場の脇に立って、目の前の曲線線路を眺めていた。これは余勢駅から視界の及ぶ処、一キロメートル程に渡って伸びていて、その両側には欅や楡の並木が整然と植わっていた。うっすらと霧雨が降る中、新芽がその滴を吸って膨れ上がりはち切れそうになっている。少し前に西からやって来た陽気に育まれて、麓では既に春の息吹が充満し始めていた――そういえば、もうそんな季節だったのだ。向き直ると、広場のほぼ中央に植えられた染井吉野が弓子の目を引いた。葛瀬村の桜はほとんどが山桜であったから、桜といえば四月末から五月に掛けてが盛りだが、余勢駅の染井吉野は既に大半が花開き、満開に差し掛かり始めていた。頭上を薄紅一色に染め上げる、雲海のような花の塊を見上げながら、弓子は絶叫しそうになる。

 ――美しい。霧雨を受けて音もなく揺れている白い花々は、うっすらと濡れて瑞々みずみずしく、まるで生殖の瞬間を待つ悦びに身を震わせているようだ。薄雲うすぐもを貫き通す陽光の愛撫を一身に浴びて、白い花弁を仄かに紅潮させて、つややかに開き切らせている。けれども――弓子の心に仄かな細波さざなみが立つ。この花の美しさは、やはりどこか空恐ろしい。この花は自然ではない。東京が江戸と呼ばれていた頃から延々と人の手により雌雄を掛け合わされ、人の手によりその生殖器官を弄ばれて生み出されたこの艶やかな花は、ただ、人を慰める為だけに無理矢理に美しくされた畸形なのだ。その媚びたような美しさが嫌いだった。その「歪み」が弓子の心を粟立たせた。

 弓子はふと、自分自身のことを想起してみる――じゃあ自分は、一体何なのだろう? この日の弓子は、女学校のもう一つの制服であるセーラー服を着用していた。地質は紺サージで、衿と袖口に白線三本が縫いつけられている。胸元には目が覚めるような赤いスカーフをし、髪には蝶をかたどった大き目の鼈甲べっこうの髪留め。そして顔と首には薄くコティの粉白粉を塗り、頬に紅を差して、眉墨を引いていた。自分は、何の為にこんなごてごてとした恰好をしているのだろう? 何の為に毎日入浴し、毎朝顔を洗ってシモンクリームを塗ったりしているのだろう? 何の為にひと月に二度もエンゼル香油で洗髪し、ブリアンチンを摺り込んだりしているのだろう? いつの頃からだろう、自分が「女」だと思い知らされるようになったのは。子供の頃は、自分のことをただ「自分」とだけ思っていた。不二夫が生まれ、やがてそれが「弟」と呼ばれ、自分が「姉」と云われる存在になった時にも、その言葉に潜む男女の違いに決して気付くこともなかった。身動きのしにくい服装を不思議には思ったが、幼少の頃は病弱で、そもそも家の中で休んでいることが多かったから、そのことを余り不自由とは思わなかった。むしろ、家にいて、読書をする機会が多かったからこそ、空想力はちっぽけな肉体を遥かに越え、道々を行き、大海を渡り、未知の国々での大冒険に乗り出していた。家にいて、かえって心は自由だった。『ガリヷー旅行記』『宝島』『三銃士』『十五少年漂流記』『アリババと四十の盗賊』『希臘ギリシア英雄譚』『トム・ソウヤー物語』『快男児タルタラン』『新訳ロビンソン物語』……。様々な冒険物語を貪るように読みふけった。ガリヷーやタルタランの不思議な冒険に心を躍らせた。ジム・ホーキンズやダルタニヤンの爽快な活躍に憧れた。いつの日か、自分も彼らのようになるのだと単純に信じていた。いつの日か、世界に飛び出し、にっくき海賊シルバーや赤公爵を相手にして、陰謀を挫き、弱い者を助ける英雄になるのだと。

 けれども、皮肉にも体が壮健になった頃から、そうはならないことを散々に思い知らされるようになった。思うように体を動かし、活動出来るようになった頃、自分がそうしたいと望むことはことごとく禁じられた。そして、自分の体を包む衣服が、とても窮屈で、決して動き易く作られていないことにも気付いた。体そのものも変わっていった。無駄な肉が増えていき、ようやく健康になった筈の自分の体は、野山や海に飛び出して英雄達のように活躍できるどころか、日々、無残なまでに重々しく、鈍いものに変わっていった。しかも、それで終わりではなかった。その頃から、常に自分が粘り付くような目で見られていることにも気付いた。不躾ぶしつけに、自分の全身を舐め尽くすように見る目。こっそりと隠れながら、けれども決して自分を逃さず執拗に追い続ける目。それが、「男」達の目だった。一方、「女」達も自分をじろじろと見た。それは冷たく監視するような目で、一挙手一投足を見張るような目だった。数多の視線に曝され、息が詰まるようだった。やがて意識も他人の視線に雁字がんじがらめにされていく。しとやかな立ち居振る舞いを求められ、こまやかな身嗜みを求められ、諭され、叱られ、納得させられていく。そして、嫌々ながらにも、結局それらの求めに応える自分もいた。「可愛らしい」とされる衣服を選んで着るようになり、顔や首に無意味な粉を振った。笑う理由など何も無くとも、いつしか極力微笑むようになっていた――心の底で馬鹿馬鹿しいと思いながらも。髪を短く切ったのは、村の大人達に対するせめてもの反逆だった。けれどもそれが、実の処、反逆にもなっていないことも、弓子には分かっていた。村の古臭い大人達は確かに眉をひそめたが、何のことはない、それは東京の「モダーン」な女達の間で流行っている髪型に過ぎないからだ。弓子は、自分を「女」としてしか見ない、男達の目が嫌だった。自分を「女」に改造しようとする、大人の女達の目が嫌だった。そしてそんな大人達の目にそっくりな、従順で愚かな同世代の娘達の目が嫌だった。そして結局はそれらに抗えない自分自身が嫌だった――

 弓子は再び、正面の花に目を移す。今、自分の視線に曝されているこの花は、どんな思いで見られているのだろう? 人に操られ、もてあそばれ、異様なまでの美しさを得るのと引き換えに、もうこの花は種子を残せないと云う。いびつな操作の果ての、一代限りの変種にすぎないのだ。どんなに美しく着飾ろうとも、決して実ることはない花――にも拘わらず、いまだに各地で殖えているのは、全て単独の株からの接ぎ木だという。永遠に子をなすこともないまま、自分の分身だけが、際限なく人の手によって殖やされ続けていく――自分なら、絶対に気が狂う。いや、きっともう既に狂っているのだ、この花は。「咲き狂う」――染井吉野によく使われる表現ではないか。そう、咲きながら、狂うのだ。そして、狂って狂って狂った果てに――。ふと弓子の脳裏に、ある日、日本中の染井吉野が同時に朽ちていく幻視ヴィジョンが過った。それは、この花の狂気の果ての――或いは、一瞬、正気が戻った瞬間に選び取った――自死なのだ。

 ぼうと妄念の中に没入している弓子の耳に、けたたましい警笛の音が聞こえてきた。現実世界からの呼び声だった。傘を差していない所為せいで睫毛に溜まった滴を拭い、曲線線路の先に眼を戻すと、鰐のような姿をした電気機関車が、霧雨にぬめぬめと濡れて、いつも通り長大な客車を引き摺りながら這い上がってきていた。西の地から再び蕗屋清一郎を運んできたのだ。あれもまた、自分を「女」としか見ない愚劣な男なのだろうか、それとも――?


「ムラニイヘンアリシキウモドラレタシミナカンケイス」宮瀬桂子がこの電報を蕗屋清一郎に送ったのは、蕗屋が雲ケ畑に行った二日後のことであった。そう、葛瀬村にはさらに異変があったのだ。あの後――蕗屋清一郎が京都へと帰った後で。こうして再び彼は、電報の要請に応じて、急ぎ葛瀬村へと戻ってきたのであった。初め、電報の意味を良く理解できなかった蕗屋だが、村に近付くにつれてその意味を実感し始めた。それはず、村へと続く山道を行く蕗屋の耳に、ざわざわとした音として聞こえてきた。それはくぐもった蛙の鳴き声のようであったが、やがて猿が唸る声のようになった。そしていよいよ村近くまで来ると、どうやら多くの人間の怒声であると分かるのだ。

 村の境界に入ると、その怒声を発している者の全てではないにせよ、幾人かの正体が蕗屋にも分かってくる。あちこちから、「あっちだ、あっちだ」などと叫びながら、つい今し方まで農作業をしていたのであろう、汚れた野良着を着た男達が数名ばらばらと尋常ならぬていで駆け出して来るのである。一様に目は血走り、皆瞬きもせず、目をぎょろぎょろと見開いて血相を変え、野良着からにょろりと伸びる腕には血管と筋肉がぶるぶると隆起している。大方は取るものも取りあえずといった様子だが、何人かは手に棒を、或いは鋤や鍬を持っていた。異様な興奮のまま、彼らは皆同じ方向に向かっていた。そして怒声の大部分も総じて、そちらから聞こえてくるようであった。

「あまりじろじろ見ちゃ駄目よ、御兄さん」

「ありゃ、一体、何なんだい?」もうじきに分かるわ、と弓子が云うので、それ以上聞かずになおしばらく村道を行った。

 村の社「弥栄神社」の辺りに差し掛かって、遂に騒ぎの核心を蕗屋は知ることになる。叩き出せ――締め上げろ――巻きにしろ。そういった非道い罵声の断片が次々に耳に入る。その乱雑に折り重なる無数の単語と、幾重にも折り重なる声音から考えて、十人どころでは済まないらしく、それらが感情のままに怒鳴り声を上げているらしいことを知ると、蕗屋は否応なく速まる心臓の拍動と共に、血流の上昇と戦慄とを感じざるを得なかった。やがて社の境内に、温い小糠こぬか雨の蒸気をまとわせながら、狂躁の熱に駆られた三、四十人程の異様な一団が集まっているのが見えた。

 蕗屋は、その野良着姿の男達の異常な騒ぎ様から、集団ヒステリィに駆られた無秩序な群衆かと思ったが、そうではなかった。彼らは皆一点に顔を向け、どうも何かを取り巻いているらしい。その激高には一定のリズムがあって、ある切っ掛けで湧き上がるようだった。その視線の先にあるものは、村道からこれを眺めている蕗屋にはそう簡単に見通せなかったが、たまたまこの狂躁から抜け出る者があったので、彼が抜けた隙間から垣間見ることができた。群衆の視線の先には、以前、桂子が「斎藤」と呼んだ在郷軍人服を着込んだ壮年の大柄な男と、その横ですっかり青褪めてがたがたと震えている行商らしい男がいた。そしてその二人の付近には、やはり在郷服を着た別の男二人と、軍服代わりのつもりだろうか、中学の時に着ていたとおぼしい詰襟の学生服を着て、足にゲードルを巻いた男数人が居並んでいる。中央の在郷服の男が何か煽ると、他の在郷服と学生服が唱和し、それに合わせて野良着の男達が沸騰するのである。化けの皮を剥げ――吊るせ――殺せ、云々。彼らは、哀れな行商らしい男に向かって、こうした聞くに堪えない言葉の数々を憎しみのままに浴びせているのである。何という恐ろしいことであろうか――

「一体……あれは一体、何なんだい?」

「駄目、大きな声を出しては。……きっと、行商の人か誰かにい掛かりを付けているのよ。後で説明するから、かく顔を伏せて。見付かっちゃ駄目よ、御兄さん。さぁ、こっち。向こうは非道いことに夢中になってるから、目立たなくさえしてたらやり過ごせる筈よ」

 そう云うと、弓子はぎゅっと蕗屋の手を握った。そして、そのままぐいぐいと蕗屋を引っ張っていった。弓子の柔らかな温もりが掌に直接感じられて、既に拍動を速めていた蕗屋の心臓が、一段と高まった。とはいえ勿論もちろん、強烈な戦慄が失せることはなかった。引き続き背後から聞こえてくる、人を罵る残忍な声が、蕗屋にそれ以上の雑念に浸ることを許さなかった。村で何かが限界点に達しつつあることが、蕗屋にも分かった。


 宮瀬紘造は、僅か数日会わなかっただけで、驚く程に打ち解けた様子になっていた。夕餉の時などは、媚びるような笑いを浮かべて、紘造自らしきりに酌をしようとするぐらいであった。桂子は元より親しみ易い質であったが、この時はこれまで以上に懇切で、最早もはや甲斐甲斐しいといえる程であった。電報に書かれていた通り、蕗屋は宮瀬家の皆に歓迎された。いつもの欠けた箱膳には、しかしいつもと違う料理があって、子持ち鮒の煮付に山女魚やまめの塩焼きと、豪勢にも魚料理が二つも並んだ。蕗と胡桃の砂糖まぶしやぜんまいの煮物といった、春の山菜も実に美味い。巻き寿司に巻かれた海苔は、果て、海の無いこの辺りだとどこから手に入れているのだろうと問うと、静岡の三保からはるばる運ばれてくるとのことだった。しかし、その常ならぬ歓迎振りは、やはりどこか不自然であって、恐らくは何か自分に見返りを期待してのものであろうということは、蕗屋にも容易に分かった。実際、二人は時折怯えたような表情を見せていて、蕗屋は、自分に求められている見返りとは、その不安に関係するもので、そしてそれは恐らく、昼間に社の境内で見た光景と関係しているのだろうと察した。

 料理を食べ終え、執拗に紘造が勧める酒をちびりちびりと舐めていると、遂に桂子が口を開いた。

「見たでしょう? あの馬鹿げた人達を……」

「馬鹿げた人達……」

「見たはずよ。……今日の昼だって、大騒ぎしていたから」

「ああ……。祠の処に集まっていた男たちですね。彼らは一体、何者なんです? 一応、村の男達のようには見えましたが……」この蕗屋の問いには、紘造が答えた。

「村の若い男達だよ。馬鹿みたいに煽られて、頭に血が上って、すっかり、ちまってるがね。村が危ないだの、村が狙われてるだの騒いで、それで、不審な余所者を追い払って、自分達で村を守るんだって云って……あれで自警団なんだそうだ。私にはどう見ても、彼らこそが村を必要以上に騒がしているようにしか思えないがね」

「……でも、警察は?」

「駐在は、街の方で連続して起こっている持凶器強盗事件の広域捜査に駆り出されて、この処、ずっと留守だ。村人達の中にも「警察には従わないと」っていう者が多いから、早く帰ってきて欲しいんだが……。警察の上層なんて、こんな田舎の村のこと、怪我人の一人や二人出ようが知らんぷりなのさ。はっきりした殺人でも起こればさすがに別だろうが……」

「……でも、何故急に、そんなことに?」

 桂子が、その名を出すのも嫌とばかりに、身を震わせて云った。「斎藤勇って男の所為よ……。ほら、この間、私と清一郎さんに云い掛かりを付けてきたでしょう? 在郷服を着た、粗暴な……」

「ああ……。やっぱりあの男か……」

「桂子の云う通りだ。あの男、先の世界大戦争の時に徴兵で青島チンタオだかに出征したんだが、退役後大阪で事業を始めたものの失敗して、身を持ち崩して村に帰ってきたんだ。兄夫婦の家に厄介になっておきながら、威張り散らすだけで、何の能も無い男だよ。以前から嫌な男だと思っていたが、あの軍人上がりが、急に、村に自警団を創るなんて云い始めてから、村の雰囲気が一気に変わっちまった。……いや、少し前から、少しずつ少しずつおかしくなっていってたんだろうが……。それにしても、ただ騒いでいきり立ったからといって解決する訳じゃあないさ。もう異様だよ。村の子供達を、余所よそ者から守るんだと息巻いてるが、あんな大騒ぎをしたからって守れるものか。自分達の不幸や不満を、暴れて晴らしたいだけなんだ」

「子供達を守る?」

「……清一郎君、村の子供達が、その……不二夫と共に集団自殺をしたのは、君の知っている通りだが、その後、君が京都に帰ってから、それとは別の子供達が二人、失踪したのだよ……」

 ――紘造によると、久米幡江と熊城藤枝という二人の少女が、一週間程前から立て続けに失踪したとのことであった。幡江は十三歳で、三月一七日に農作業を手伝った後、檜の巨木の辺りで友人達と菓子を持ち寄り、御喋りを楽しんでいたが、友人達が家に帰った午後四時頃以降、姿が見えなくなったという。その夜には騒ぎになり、両親は友人達の家々に当たったが、幡江は発見されなかった。村の者が総出で探したが、村内では見付からず、翌日、村の若い男達による山狩りが始まることになる。ところが、この山狩りの最中、もう一人の少女が失踪した。それが尋常小学校を今年卒業する熊城藤枝で、一八日午前十一時頃、母親から「山狩り中の兄に弁当を渡してきて」と用事を頼まれ、自宅を出たまま行方が分からなくなったのだ。母親からの報せで、山狩りを行っていた兄を始めとする若者達が大急ぎで引き返してきて、再び村内隈なく捜索が行われた。しかし結局、村の男達の懸命の努力にも拘らず、少女らは二人共見つからなかった。そして何人かの住人から、「最近、不審な余所者を見た」との証言も出たことで、村はいよいよ騒然としていったのである……。

 まさかそんなことになっていたとは――蕗屋は驚愕する。つい先日、四人の子供が自殺し、その真相も分からず、周りの者達の傷も全く癒えていないというのに、今また、二人の子供が失踪するなんて、一体本当に、何という事態なのだろう! 一体本当に、何がこの村で起こっているのだろう! しかも、失踪した内の一人、藤枝とは、熊城卓次の妹で、弓子と仲が良いのではなかったか? とすれば、「山狩り中の兄」とは「タクちゃん」のことか? そう思って弓子の顔を見ると、やはり紘造の話しから藤枝のことを思い出して悲しみを新たにしたのか、顔を伏せて肩を震わせていた。その弓子のくずおれてしまいそうな姿を見て、蕗屋の中でも、強い怒りに似た感情が湧き上がってくる。そのやり方はさておき、村の若者達がいきり立って自警団を結成した心情も、それ自体としては無理からぬように、蕗屋には思えてきた。それ程に、余りにも異様なことが、余りにも立て続けに起こっている。これもまた、あの「本」と関係があるというのだろうか……? 

「あの人達はね、私達の家も疑っているのよ……。不二夫だけが助かったものだから、他の、一緒に自殺した子達の親や兄弟が、色々あらぬことを云って……」

「うちの家は関係ないさ! 大体、うちは、助かったっていっても、不二夫はあんなことになってしまってるんだぞ! 私達だって充分に傷付いているんだ……何でそんな……。他の子供達の失踪になんて関わるはずがない! 本当に何故こんなことになってしまったのか……」

 紘造の目が赤くなっていた。先日は強がり、人を寄せ付けぬような、見えぬ心の壁を造っていた紘造が、今や蕗屋の膝に手を当て、ぐっと何かに堪えてうつむいていた。彼もやはり、息子の自殺未遂に悲しみ疲れ果て、消耗していたのだ。結局紘造は、まるでそれが自分の勤めだとでもいうように、なんとか涙を堪え、やがて表面上の落ち着きを取り戻したが、突然蕗屋の手を握って、村での暫くの滞在を懇願した。それを後押ししようと、桂子が無言のまま、その横ですっと頭を下げる。二人の向こうでは、食事中殆ど喋らなかった弓子が、じいっと蕗屋に訴えかけるような目を寄越していた。皆、不安なのだ。立て続けの不幸に加え、理由はともあれ、あの荒っぽい自警団の若い男共に目を付けらえているということが、この中年の男一人女二人しかおらぬ弱々しい家族を堪らなく不安にさせているのだと、蕗屋は理解した。それがどれ程具体的な脅威なのか、蕗屋には分からなかったが、しかし自分という若い男手があれば、それは幾らかこの家族にとって慰めになるのだろう。元より、不二夫の自殺の真相を解明するという約束を、弓子と取り交わしていた蕗屋は、それを達成するまで京都に帰る積もりはなかったので、紘造の願いを快諾した。紘造は喜び、少し安心した様子となったので、更に酒を勧められる羽目になったのは、蕗屋のささやかな誤算だった。舌先で杯に触れる程度にしてそれに耐え、むしろ片口を自分で取って、紘造に飲ませることでその場を凌いだ。しかし、この思いがけない葛瀬村の事態は、不二夫達の集団自殺から始まる一連の事態の全体像の中で、どのような意味を持っているのだろう? 正直な処、蕗屋には皆目見当が付かなかった。ただ兎に角、自分にできることとして、早く「本」を見付けなければと、宮瀬家の家族三人を前にして、蕗屋は決意を新たにした。

 ところで、この専ら紘造一人が酔い潰れていく酒宴の最中、蕗屋は何度か、屋根瓦や雨戸がバラバラと叩かれる音を耳にした。それは極軽い音なので、それ自体は恐ろしいものではなかったが、そこに込められた底意地の悪い嫌らしさが蕗屋を震えさせた。宮瀬家の者は誰も何も――恐らくは敢えて――云わなかったが、それらが石つぶてのぶつかる音であることは、蕗屋にも直ぐに分かったからだ。厠へ行きがてら、庭から外の様子を伺ってみたが、暗くて何も分からぬ。ただ確かに、誰かにじっと見張られているようでもあり、音や気配から察するに、二、三人の者が、夜陰に紛れて宮瀬家に石を投げ付けているようであった。確かに、宮瀬家は、村のいきり立つ者達の嫌がらせの標的にされているのだ。

 この夜、蕗屋は当初予定していた行動を取るのを諦めた。


 翌早朝、母屋にまだ人の動く気配がないのを見定め、酔い潰れた紘造は勿論、桂子や弓子もまだ起き出さない内に、蕗屋は離れを後にして宮瀬邸から抜け出した。この処、昼間は大層暖かいとはいえ、この時間帯の空気はまだまだ冷たい。ただし、幸いにも前日の雨は止んでいた。山際の本当に端の方がほんのかすかに碧くはなってはいたものの、空はまだ殆ど夜の暗黒を留めていて、足元は不案内極まりなかったが、蕗屋は行くしかなかった。隠しからダイモン社の懐中電灯を取り出して点灯すると、村内は案外快調に進むことができたが、しかし村から外に出てしまうと、それだけでは到底不十分で、一歩進むのにも手探りをせねばならなかった。とはいえ、幸い、この二週間程の間に二度も行き来した為に、村と麓とを結ぶ道も朧げながらに覚えていた。

 前夜の雨に濡れた石で、幾度か足を滑らせて危ない思いもしたが、蕗屋はなんとか麓に到達した。ここまで来ると、もはや山間の隘路ではない。空もその碧さを増し始め、まだ標識の文字などはよく見えなかったが、最早懐中電灯は要らず、足元を気にする必要もなかった。どこかの木の上で、恐らくは南の方から渡ってきたばかりの大瑠璃オオルリが「ぴいるり、ぴいるり」と頻りに鳴き始めていた。できるだけ早い内に葛瀬村に帰りたかったので、蕗屋の歩みは速くなる。先程懐中電灯を戻した隠しから、今度は折り畳まれた一枚の紙を出した。それは蕗屋が自分で手帳から千切り取ったもので、荒く書き殴られた字で「相模屋」と書かれている。それが目指す処であった。余勢宿に着くと、蕗屋は片っ端から宿屋の看板を見て回った。そうして数町程いくと、目指す屋号を記したかけ行灯あんどんが見つかったので、蕗屋は急いで駆け寄り、早朝ゆえに大きな音を出すのははばかられながらも、中の者に伝わるくらいには確かにその戸を叩いた。何度か叩くと、中から眠そうな顔をした手代が出てきたので、蕗屋は「郷田三郎という客に会いたい」と要件を伝えた。


 郷田三郎は、よれよれの寝巻きに逆立った髪の毛のまま、目尻にはうっすらと涙ともその残滓ともつかないものを浮かべ、顔をくしゃくしゃにして蕗屋に文句を云った。

「もう、何やねん……昨日、来おへんと思ったら、こんな朝早ように……」

「すみません。思った以上に事態が深刻で……。村で、今度は少女が二人失踪したそうです。電報にあった「ムラニイヘンアリ」とは、そのことだったんです。それで、自警団が結成されたのだそうです」

 蕗屋は、時間を惜しんで早口で捲し立てた。ただ、ここまで急いで来た為に息も切れていたので、寝惚け頭の相手にはよく聞き取れないようであった。

「じけ……何? ちょっと待ってくれへんか……こっちはまだ頭が回ってへんねん。そもそも、昨日の夜に会おうゆう話しやったやないか。せやのに、昨日は来んで、それはええけど、まさかこないに早朝に……」

 頭が回っていないのは確からしく、郷田は頭をぼりぼり掻きながら、同じ文句を繰り返し口にしていた。それは腹を立てているからというよりも、それしか頭に思い浮かばないから、取り敢えずそれを口にしているといった風だった。つい先程まで自分が眠りに落ちていた布団の上にぺたりと座り込んでいて、漸く動き出したと思ったら、どうやら肌蹴た寝巻きが寒いらしく、掛け布団を頭からすっぽりと被って丸まってしまった。その傍に転がった空の徳利からは酒精の香りが漂って、蕗屋の鼻をくすぐった。

「すみません。昨夜は、家を抜け出られそうになかったので……」

「なんや、歓待され過ぎて、酒で足でも立たんようにでもなったか? 事態が解決したら、いつか大阪か京都で一緒に飲もうやないか。君の分くらい、俺が奢るわ」

「御言葉は有難いですけど、昨夜は違いますよ、そもそも僕はそんなに酒が飲めません。飲んでるのは郷田さんの方じゃないですか。それは兎も角として、大変なんです。どうも、村が変なことになっていて……」蕗屋は、改めて村の状況を語った。最初、欠伸をしながら聞いていた郷田だったが、暫くすると真顔となり、掛布団は相変わらず頭から被ったままだったが、昨夜煎れた茶の残りを急須から直接飲んだかと思うと、ぴしゃりと自分の頬を張った。

「あかんなぁ……。なかなか頭が回らん。君を待ち草臥くたびれてだらだらと飲んでもうた安酒があかんかったかな……」言葉とは裏腹に、南向きの硝子ガラス障子から差し込む碧い朝日に浮かんだ郷田の顔は、明らかに、そして急速に醒めつつあった。

 郷田三郎もまた、愛宕群雲ケ畑での邂逅の後、ぐに休暇を取って、この奥多摩山系のただ中へ来ていた。蕗屋から、宮瀬桂子より送られてきた電報について聞かされたからであった。葛瀬村には宿などないことから、麓の余勢宿の「相模屋」に逗留して、少し遅れて来る蕗屋の到着を待っていたのであった。正規の捜査ではなく、管轄の大阪から遠く離れた処で探偵活動をするには、土地を知る協力者が必要だった。一方の蕗屋も、「本」を追い、事件を捜査することの危険と困難を痛感するにつれ、そうした事柄に慣れた者の助けを必要としていた。そして二人共兎に角、葛瀬村に乗り込んで、姿を消した木戸大尉の手掛かりと、「本」の在り処を突き止めたかった――二人の利害と目的は一致していたのである。蕗屋が手引きし、仲立ちすることで、郷田の葛瀬村での捜査が――そしてそれは同時に蕗屋の捜査でもある訳だが――進展する筈であった。しかし、既に村での事態は二人の予想を超え始めていたのである。

「そんな状態やったら、到底俺が乗り込めそうにないなぁ」

「ええ……僕でも動き廻るのが躊躇されるくらいですし……」

「そうか……。実はこっちもきな臭いんや。どうもこの余勢宿に、伊志田鉄郎も来ているようなんや」

「あの軍人が? やっぱり何か「本」の手掛かりを掴んで来たんでしょうか? それとも僕らの後を追って?」

「さぁな……。しかしまぁ、どちらにせよ同じようなもんやろう。飯屋で一寸ちょっと見掛けただけやから、向こうの動向とかはよう分からんが……」

「伊志田と、自警団を仕切っている斎藤って元軍人と関係あるんでしょうか?」

「分からん。兎に角、油断せん方がええ。……取り敢えず、村がそんな状態やったら、俺の方は暫く、この宿場や近隣の村々を回って聞き込みをすることにしよう。君の方も、くれぐれも気ぃつけて。自警団も危なそうやが、「本」に関わる人間を襲っているらしい奴がいることも忘れずに……」

 村に近付けない郷田は、当面の間、近隣の町村の住人や、この辺りに出入りしている商人職人を相手に聞き込み、村の状況や、消息を絶った元中尉の行方を当たることとなった。一方の蕗屋は、村での「本」の捜索と、「本」を手にするに至った不二夫の行動を調べることとした。それくらいなら「自警団」に目を付けられることもなく、比較的宮瀬家の周辺だけで行えると思われたからだ。当面の打ち合わせを済ませると、以後の連絡は宮瀬家と「相模屋」の電話を使って行うことを確認して、蕗屋は急ぎ村へと帰るべく、ついさっき降りてきたばかりの山道の方へ向かった。

 復路は、足元を懐中電灯で照らす必要もなかったので、その意味では楽であった。但し、そもそもが登り道であるので、蕗屋が急ごうと思う程には足が進まない。おまけに、朝食を食べずに早朝から動き廻っている為、ただでさえ運動不足の蕗屋の体はいよいよ勢いを失った。そんな自分に情けない思いがして、「これは自分の体力不足の所為ではない、何か食べ物を口にすることができれば、たちまち体力も回復する筈だ」と、自分の自尊心に云い訳をするも、それで歩みが速くなる訳でもない。御陰で、村に戻った頃には、太陽はすっかり斜面や木々よりもずっと上に出ており、当初思っていたよりも遅い時間となってしまっていた。これは、蕗屋の大失態であった。というのも、彼が不在の内に、宮瀬邸が自警団に取り巻かれてしまっていたからである。


 宮瀬邸の生け垣門の前では、前夜の酔いも完全に醒めた様子の紘造が、一段せり上がった段上に登って、大勢の男達に向かって必死に訴え掛け、説明をしていた。

「いえ、ですから、昨日うちに来ましたのは、当方の甥でございます。決して、決して不審な者ではございませんから」

「だったらおめえ、その甥ってえのはどこにいやがんだ? ええ? っととここに連れてきやがれよ!」

「いえ、ですから、多分、朝の散歩か何かに……」

「家のもんに黙って出あるってく奴が不審じゃあねえのかよ! んな奴をおめえらは、はいはいどうぞどうぞと村に入れてやがったのかよ? おいおいおい、みんな、どう思う? 北川さんよ、おめんとこのすみ子ちゃんは、ここんちの息子に唆されて……あんなことになっちまったんじゃねえのかよ?」

「そうだ、おめえらが、おめえらの息子がいなけりゃ、おれんちの娘は!」

「笹田さん、おめえんとこはどうなんだよ?」

 先頭に立って、村人達を煽り立てているのは、やはり先日社の境内で見た、斎藤という在郷服の男であった。そしてその側にいる、別の在郷服の男二名と、詰襟の男数名と云う首謀者達の顔ぶれは、この間と全く同じであった。そして彼らを筆頭に、若い男達が殺気立ち、憤然としている。

 蕗屋は後で知ることになるのだが、やはり前日に宮瀬邸に石礫を放っていた者達がいて、彼らは同時に宮瀬邸の様子を監視していたのだ。恐らくは離れの明かりからであろう、「宮瀬家に客が滞在しているらしい」との報告が、前夜の内に斎藤達になされていたのである。そして今朝になって、その客とは何者なのかを確認しに、大挙して押し掛けたのであった。実は紘造や桂子らにしてみれば、ここまでは予想の範囲内であった。自分達の家が監視下に置かれていることは、毎夜の如く飛んでくる石礫によって薄々気付いていたので、蕗屋を呼び寄せれば、そのことについて「自警団」に問われることは予測できた。その上で、蕗屋は実の甥であり、幼い頃には何度も村に遊びに来ていること、また、最近も村にやって来ていることなどをきちんと説明すれば、さしもの頭に血の登った若者達といえども分かってもらえると思っていたのだ。村の若い男達の中には、子供の頃に蕗屋と遊んだ者もいる筈であったから。予想外だったのは、離れが空っぽで、その蕗屋本人がいなかったことである。家にいる客とは何者なのだ?――怪しい者ではない、甥だ。では、その甥と会わせてもらいたい――今は、いない。どこに行ったんだ?――分からない。隠しているのか?――隠していない。では、何故、どこにいるのか答えられないのか?――このやり取りに、紘造や桂子は答えることができなかったのである。あやふやな返答は若者らの不信感を招き、不信感は反発と怒りに変わった。若者らの怒りは紘造らの萎縮を招き、萎縮はますます受け答えをあやふやにさせた。こうして、話せば分かるはずの談判は、爆発寸前の吊るし上げの場となって、宮瀬家を逃げ場のない袋小路に追い込みつつあった。明らかに危険な状態であった。

 これを木立の隙間から遠目に見て、蕗屋は宮瀬邸に近付くのを逡巡した。無論、話しの細かな内容までが聞こえていた訳ではない。けれども、屋敷を取り囲む男達の異様な興奮の仕方に、紘造らがどのような立場に置かれているのかは容易に想像できた。そうであればこそ、自分は少し時間を置いて、自警団が去った後に戻った方が良いのではないかと蕗屋は思ったのだ。それは、自分の身を案じてのことではなく――無論、全くそれが無かった訳ではないが―― その方がこの怒れる男達を刺激せずに済むかと思ったからだ。

 しかし間もなく、激昂した男達の一人が、紘造の横にいる桂子に掴みかからんばかりになったのを見て、蕗屋は意を決した。自分があらわれなくとも、この男達はもう十分過ぎる程に興奮している。それならば、出て行った方がいいのだろう、と。もし仮に、彼らを余計に興奮させることになってしまったとしても、その怒りの矛先は自分が引き受ければいいのだと。

 恐怖にすくむ身を奮い立たせ、拳を握りしめて――それは、闘う為ではなく、勇気を湧き上がらせる為だ―― すっと木立から一歩を踏み出す。宮瀬邸を取り囲む群衆越しに、今にも恐怖に崩れ落ちそうな紘造と桂子に眼差しを送ると、紘造がそれに気付いた。蕗屋は自分の決意を眼差しで知らせたつもりだったが、それを悟ったのか否か、紘造は眉間に皺を寄せて、微かに、そして小刻みに顔を振るった。それは「止めておけ」と云っているように蕗屋には思えたが、もう彼は決心していたし、それに紘造の表情の変化に気付いた斎藤勇が、直ぐに蕗屋の方を振り返った為、どちらにしろ意味はなかっただろう。「あいつだ」と、斎藤が蛮声を張り上げるや、自警団の男たちは一斉に蕗屋の方に顔を向けた。

 皆、一様に怒りと逆流した血管の膨張によって、歪み切った顔をしていた。恐らく、蕗屋が本当に小さかった頃には、村祭などで、顔を合わせている者もいる筈なのだが、まるでそんな懐かしさは感じない。蕗屋と同世代の者も何人かいた。その中には、子供の頃に蕗屋と共に野山を駆け回った幼馴染がいてもおかしくはない筈だし、実際に何人かはどこか見覚えがあるような気もしなくはなかった。しかし、村に来なくなって十年程を経てすっかり大人になった蕗屋には、せいぜいそのような気がするという以上には分からなかったし、そもそも現下の緊迫した状況が、一つ一つの顔を十分に吟味する余裕を与えなかった。なにしろ皆、まるで見知らぬ野良犬でも見ているような目をしているのだ。何人かは、鋤や鍬といった農具や、鶴嘴つるはしさえ手にしている。

「おめえが、昨日ここに来たっつう余所もんか? そういやこないだも来てやがったな……」斎藤勇が怒れる男達の群れを分け除けて、ずいと蕗屋の前に出て来る。間近に見ると、この元軍人の恰幅の良さが、圧倒的なものとして迫った。

「僕は、余所者じゃありません。宮瀬家の先代、泰造の孫です」

「はぁ、泰造さんの孫だってか、どうだか! 泰造さんはとっくの昔におっんでるし、口先じゃあよ、あんだって云えるわな」

「顔も似てねえようだがよ!」

 誰かが醜い野次を入れると、男達が沸き立った。

「もう十年程も前になるから、見た目は変わってしまってると思いますけど、小さい時には、村によく来て、皆と一緒に遊んでました。ほら、あの辺りを駆けっこしたり」

「皆って云うがよ、んじゃあ、どこの誰と遊んでたっつうんだよ?」

「名前は……。今はここにいないけど、タクちゃん――熊城卓吉とか。他は……よく覚えてません。でも、皆、僕を「清ちゃん、清ちゃん」って。そう、僕は「蕗屋清一郎大将」で……」

あに云ってやがんだ、おめえ?」斎藤が吐き捨てるように云う。「そもそも、こんな朝っぱらからどこに行ってやがったんだ!」

「散歩に出たら、少し道に迷ってしまって……」

「こんな朝から散歩だと!」また、野次が飛ぶ。

「嘘じゃありませんよ、少し、山の方に行ってたんです。ほら、靴にも泥が……」

「山ん中隠れてよ、おめえあにしてやがったっつうんだよ! ええ、この悪党、白状しやがれ!」斎藤が全体を煽り立てるように怒鳴った。それに合わせて野次が次々と飛び、男達が「うおお」と怒声を上げて、興奮状態になる。蕗屋はそれに恐怖を感じつつも、しかし改めてこの集団の弱さも感じた。一部の煽り立てる者達を除けば、唯々諾々とそれに従っている様子を見るに、一人一人は、恐らくは不安であったり、恐怖を感じていたりして、むしろ弱いのだ。弱いからこそ、斎藤と、彼に同調する他の数人が発する強い言葉につき従って、どうしようもない不安や恐怖を払おうとしているのだ。間近に見ることで、蕗屋はそれをはっきりと確信するのであった。そして、彼らの不安と恐怖とは、まさに最近の一連の出来事から引き起こされているに違いないのだ。結局の処、事件を解決することが、この粗暴な集団に最終的に打ち勝つ手段でもあるのだと、蕗屋は正しく理解した。その解決策こそが最善だと蕗屋は揺るがない自信を持っていたが、しかし――と、蕗屋は自問する。今、この差し迫った状況で、その悠長な解決策に意味はあるのだろうか? 

「それによ、もしおめえがこの村の出だからってよ、この村の外で育ったんなら、もうそりゃ余所もんじゃねえか」また斎藤が、言葉をろうして煽り立てる。

「それを云うなら、あんただって長く村を空けてたんじゃないのか?」この反駁は効果的だと蕗屋は思った。軍を退役後、長らく村を空けて大阪で事業に失敗し、身を持ち崩して帰って来た男――御前も、もう余所者みたいなもんじゃないのか? 実際、これは堪えたようで、斎藤勇はそれまで嗜虐的に歪んでいた顔を強張らせて、息を飲む。しかし、それはひと時のことで、斎藤は寧ろこれまで以上に怒気を強め、既に紅潮し切っていた顔を更にどす黒いまでに膨れ上がらせて、激情のままの怒声を上げた。

「おめえ、俺を侮辱しやがんのか!」蕗屋がしまったと思った時にはもう遅かった。その激烈な怒りは、っくに冷静さを欠いている男達に瞬く間に伝染していった。

 それまでも十分に常軌を逸していた目は、更に吊り上っていった。男たちの鼻孔が広がり、肌に目に血管が浮き上がっていく。彼らの筋肉が隆起し、何人かが手にしている鋤や鍬、鶴嘴はぶるぶると震え始めていた。その内に、「村から叩き出せ」「いや締め上げろ」「吊るし上げろ」といった言葉が、一つ一つは小さかったが、そこにいる何人かの口から漏れ始める。そのぼそぼそとした呪詛の言葉は、蕗屋の鼓膜を細かくおぞましく震わせた。それらは、ずっと忍んでいた怨嗟が遂に我慢できずに漏れ出すようで、それまでの、数人の首謀者が上げる単調な怒号よりも遥かに恐ろしかった。そこではたと蕗屋は気付く。ああ、この者達が、甲田伸太郎や栗原一造、北川すみ子、笹田折葉の、父や兄なのだろうか。久米幡江や熊城藤枝の家族なのだろうか。それとも、昭和恐慌や関東大震災で不幸にあった家の者達なのだろうか。村に、積もりに積もった嫉妬や怨嗟が、ざわざわと蠢き出してしているようだった。沸々と煮立っているようだった。様々な、行く手を失った怨嗟が、この場に集中しているようであった。男達の向こうには、紘造と桂子の必死な顔が見えた。蕗屋を助けようという気持ちがそこにあらわれているのは疑い無かったが、このか弱き夫妻に、最早何もできないのも明らかだった。不思議と、先程まで群衆の怒りを煽りに煽っていた斎藤勇の顔からも、勇ましい激昂は消え、寧ろ困惑し始めているのに蕗屋は気付いた。いや、斎藤だけではない。他の在郷服や詰襟の者達も、そして自警団の少なからぬ者達も、明らかに戸惑い、怯えたような顔をし始めていた。沸き上がってくる怒りの予想外の大きさに、焚き付けた者達も困惑しているのかもしれない。自警団の男達の反応は明らかに割れていたが、困惑し怯えた者達が、怨嗟に身を委ねた者達を抑えられるようには、蕗屋には思えなかった。

「おい、一寸ちょっとあすこを見ろ」

 突然、頓狂な声が上がったのはその時だった。誰が発したのかも分からなかったが、比較的若そうではあった。ただいずれにせよ、そのいささか甲高い声の調子に、男達の注意がほんの刹那逸れたのは確かだった。

「あすこだ、あすこ。誰か見知らぬ奴がいるぞ」

 また、同じ声だった。今度は確かに、男達の注意が逸れた。皆、その誰かが促しているらしい方角に顔を向ける。蕗屋もそちらを振り返ってみた。山の斜面に桑畑が広がっている辺りであった。不審な者が、いたのか、いないのか。影がぎった気もするが、太陽と雲の悪戯かもしれない。桑の木が揺れているようでもあったから、風の悪戯だったかもしれない。蕗屋には何とも判断が付かなかったが、目の前の男達の中からは、「いた、いた」と声が上がった。男達は、これまでと違う調子でざわざわとし始めた。状況を確認しようと周りをきょろきょろする者、新たな不審者の出現に、再び勇ましく振る舞い始める者、いまだ蕗屋に憎悪溢れる目を向けている者……。

「皆、取り敢えず桑畑に向かうぞ! こいつは後回しだ!」と、自分の役目を思い出したかのように、突然大音声を発したのは、先程まで困惑した様子を隠せなかった斎藤だった。元軍人らしい高らかな声で断固と、そして何度も呼号を掛ける。それに不満そうな者達もいた。はっきり異を口にする者もいた。それらは、取り分け宮瀬家に恨みを持つ者達かもしれなかった。けれども、首謀者達の誘導の下、大勢は既に桑畑の方へと意識を向けていた。斎藤の号令の下、ざっと在郷服と詰襟が桑畑へと向かう村道へと動き出す。野良着の男達も、聊か統制を乱しながらも、それに付いていった。蕗屋の前を通り過ぎる時に、陰惨な目を向けて、「おめえへの疑いが無くなった訳じゃねえからな」とわざわざ云う者もいた。それとは逆に、少し哀しげで同情的な目を向けてくる者もいた。そうした顔には見覚えがあるような気もしたが、結局の処、蕗屋にはよく分からなかった。一団の大方が過ぎ去り、とはいえまだその最後尾の者は近くにいたのだが、感極まり堪えきれなくなった様子で桂子が近付いて来て、泣きながら蕗屋の両肩をぎゅっと抱き締めた。そうして何度も何度もその頭を撫でた。宮瀬邸の生け垣門では、紘造が安堵に脱力した顔でぺたりとその場に座り伏し、その横にはいつの間にか弓子が立っていて、目に涙を一杯に溜めて、蕗屋をじっと見つめていた。その目を見返す蕗屋の耳に、「頑張ったね、頑張ったね」と呟く桂子の声が聞こえた。


 昼食後、いつもの背嚢を背負った蕗屋は、弓子を誘って再び外に出た。朝のことがあったので、控えた方がいいと思わない訳ではなかったが、かといって家に閉じ籠っていては目的を果たせない。郷田が当面麓に張り付いている以上、村内での探索は蕗屋一人で行う必要があった。それでも弓子を連れ出すのは危険かと思いぎりぎりまで躊躇したが、彼女には今朝のことについても一言云っておきたかったし、またこれまでに知り得た情報を共有して、協力してもらいたいとも思っていた。そして何より、紘造や桂子のいない処で弓子と二人で話しがしたかった。幸い、当然のことと云えばそうなのだが、自警団の男達も一日中暇な訳ではないらしく、村は、とんとんからりとはた織りの音だけが響く、いつも通りの長閑のどかな姿に戻っていた。ただ、弓子の話しによれば、斎藤勇だけは、仕事もせずに昼日中から暇を持て余しているらしいから、出くわさないよう注意せねばならないとのことであった。

 蕗屋は、「どこへ行くの?」という弓子の問いには答えず、胸の隠しから、朝に麓からの帰りに山で摘んできたスミレの花を取り出して、弓子にそれを渡し、そうして今朝の顛末と、関西での捜査の結果と、郷田との「協力関係」などの全てを打ち明けた。自分にこの探偵仕事を依頼したのは元々弓子であり、だからこそ弓子には聞く権利があると思ったからだ。弓子は「本」の正体について大いに驚き、怯えおののいたような表情を見せたが、ある種の納得もしたようであった――恐らく、その「本」の尋常ならざることが、却って「不二夫にして然るべき」と弓子をして思わせたのであろう。二人もの死者が出ていることについては、純粋に戸惑い、恐怖しているようであった。一方で郷田との関係については、幾らか好奇心に目を輝かせると共に、やがて不満そうな顔にもなっていった。不満とは、主に今朝の顛末に関わる事であり、もっと早くに打ち明けてくれたら、自分が上手く立ち回ったのに、何で自分をけ者にしたのか、どれ程心配したと思っているのかと、隠しに入れられている間にひしゃげてしまった花弁を手で繰りながら、そうした旨を縷々るる述べて、蕗屋を責めるのであった。

「……さっきは本当に怖かった。そもそも、御兄さんが勝手なことをするからよ。その大阪の刑事さんだって、この辺りのことは全然知らないんでしょう? だったら、御兄さん一人で何ができるっていうの? この村に来たのは九年振りなのよ。……でも、そう考えると、よく一人で麓まで下りていけたわね」

「九年振りとは云え、子供の頃は何度も来ているからね。直ぐには思い出せなかったけど、この間、村に帰って来ただろ? そして今回。立て続けに二度も帰ってくれば、さすがにこの辺りのことも粗方思い出すさ」

「まぁ、さすが御兄さん、頭の出来が違うのね」

 褒められたのだと取れば、悪い気はしなかった蕗屋だが、弓子の口調は少し拗ねているようで、皮肉とも取り得たから複雑だった。そして実際、この発言をして幾らも経たない内に、蕗屋は何とも情けない事態に陥ってしまう。二人で暫くぶらぶらと村道を歩いた後、やがて蕗屋はまごまごとし出し、少しばかり考え込むような顔をして立ち止まった。いつまでも蕗屋が動き出そうとしないので、弓子が怪訝そうにその顔を覗き込むと、蕗屋は意を決して、恥かしそうにしながら「元々は獣除けだったと思うんだけど……村の垣根はどこにあったかな?」と弓子に尋ねた。

「村の垣根って、北の山側の?」と問う弓子に対して、蕗屋は「たぶん、そう……かな」と曖昧に答えた。何とも要領を得ない答えだと蕗屋自身辟易したが、それ以上何とも答えようがない。弓子は、先程のやり取りもあったからばかりだから、しばし少し呆れるような表情をしていたが、やがてくすくすと笑い出し、寧ろ上機嫌になって蕗屋を先導した。蕗屋はばつが悪い思いをしたが、自分の発言で弓子が明るく笑ったのだと思うと、嬉しかった。仕方のないことではあるが、蕗屋と再会した直後などを例外として、弓子の表情が常に憂いを帯びがちだったからだ。

「どうして、北の垣根になんか行くの?」と訊く弓子に対して、蕗屋は直接その答えを口にしなかった。その代わりに、意外なことを語り出した。

「朝、僕は危険な目に遭っただろう? 正直な処、怖かったけれども、御蔭で、光明が見えたのさ」

「光明?」


 それは村の北側の斜面に広がる、灌木のまばらな林の中にあった。かつて獣除けに使われていた垣根であったが、今は打ち捨てられ朽ちている。その、崩れかかった竹材に手を触れていると、幼い蕗屋の体に染みついた記憶が脳の奥底から蘇ってくる。「そうそう、こっちこっち」と独り言を呟きながら、蕗屋は垣根の裂けた処からそれを乗り越えていった。するとそこには、使われなくなった古道があるのだ。まだ春先だったので、下草に覆われながらもなんとか目で確認できたが、夏には全く見えなくなってしまうことだろう。その道をそのまま垣根に沿って上っていくと、一寸した沢に突き当たる。それは天然の沢ではなく、嘗ての水路の掘り跡に水の溜まったものであった。その沢はそこから水面を拡げて他の掘り跡を合わせ、地面が一層窪んだ処で溜池を作っていた。弓子はその池を知らなかったので、少し驚いて暫しぼんやりと眺めていたが、蕗屋がどんどん先へ行くので慌てて後を追った。すると溜池に浮かぶ小さな島に、これまた嘗ては狩りで使われていたらしい、打ち捨てられた小屋が見えた。蕗屋は灌木を掻き分けて池の縁へ下りた。するとそこには丸太が差し渡してあって、小屋のある島へと渡れるようになっているのだ。

 それはかなり細かったし、昨日からの断続的な小雨の所為で濡れていたけれど、蕗屋に躊躇する様子はなかった。弓子は手を伸ばして蕗屋に助けを求め、引っ張られるようにして丸太を渡る。小屋の質素な戸板は、引きさえすれば開いた。中の造りも質素で、建材の板や木材、果ては天然の木の枝までが、そのまま剥き出しになっている。但し地面には厚く羊歯しだが敷いてあり、更に卓子テーブルとも椅子ともなりそうな短く太い丸太四本と、それから大きな木箱が一つ並べられていた。

 弓子が見た処、小屋に入って以来、蕗屋はうっとりしたような顔をしている。そして、実に愛おしそうに、その木箱の中を覗き込んだ。中には、古惚けてすっかり錆び付いたブリキ缶と薄汚い小さな木箱が幾つか転がっていたが、しかしそれだけで、他には何も無かった。弓子には、それらはガラクタにしか見えなかったし、そもそも何故こんな処に来たのであろうと、不思議だった。

「……もう、使われてないんだな」

「……使う?」

「そう。ただのガラクタに見えるだろう? でも違うんだ。色々と決まりがあってね……例えば、このホシタカ印の薬箱は……」

 蕗屋はそう云いながら小さな木箱をひっくり返すが、幾らか腐食したそれは当然空っぽであって、何かが出て来る筈もない。

「さすがに、何も無いか……。こっちの、乳果カルケットの缶は、うわっ、泥水だらけだな」泥水の入った缶を置いて、蕗屋は別の缶を手に取った。

「あっ、こっちはまだ何枚か残っているよ。いつ入れられたものだろう? ほら」

 蕗屋が差し出したのは、外気やカビに侵されて全体に変色し、その経てきた運命の分だけ汚された幾枚かの紙切れであった。それぞれ、繊維の一本一本がねじれてしまったように、すっかり湿気を吸って縮み上がっている。だが、注意深く開けると文字は読めた。それらはどうやら、採点済みの答案用紙らしく、その内の一枚は滲んだ文字ながら、九九がびっしり書かれているのが読めるけれども、点数は一八点と芳しくない。別の一枚は国語の書き取り試験らしく、子供の大きな筆跡で、表には「いろはにほへと……」、裏には「ゑんもみおゆら……」と拙いひらがなの文字が処狭しと書き込んであった。

「ここは、僕が子供の頃、みんなと一緒によく遊びに来ていた処なんだ。弓子ちゃんの代には使ってなかったのかな? ああ、そうか、君は子供の頃、外で殆ど遊んだことがないから、使われてたかどうかも分からないか……。ここは、僕たちの、云わば秘密基地だったんだ。そしてこの箱や缶は、仲間内の郵便箱みたいなものなのさ。あのホシタカ印の薬箱は、普通の伝言用。何か皆に伝えたいことがあれば、あれに伝言を書いた紙を入れておくと、ここを知っている友達皆がそれを見て知ることができる。乳果カルケットの缶は、宝物を入れておく為のものさ。宝物っていっても、硝子ガラス玉とか、蛇の抜け殻とかだけれどもね。そしてこっちの佐伯ドロップスの缶は、秘密箱。親に知られたくない秘密は、これに入れる。例えば、この九九とかひらがなの書き取りみたいに、結果の良くなかった試験なんかをね。そういう、決まりだったんだ。だから……」蕗屋は懐から、用意していた紙と鉛筆を取り出した。

「今朝、「不審者がいる」って、誰か云っただろう? あれは……もしかすると本当に怪しげな人間がいたのかもしれないけれども、でも、あれはきっと、僕を助ける為だったんだ。だって余りにも間がかっただろう? それに、今朝の男達の中に、確かに昔の仲間がいた気がするんだよ。そう、今朝確かに、昔、僕と遊んでいた幼馴染がいたんだ。ああ、でも、顔はぼんやり浮かぶけれども、名前とか、どこに住んでいるかとか、肝心なことは何も思い出せないんだ。村の地理がまだ怪しいくらいだからね……。だから、向こうから接触してくれるのを待つしかないのだけれども、僕の方でも、ここに何かを残そうと思うんだ。丁度ちょうど子供の頃、この伝言箱を使ったようにね。もしかしたら、僕と同じように、ここを使うことを思い付いてくれるかもしれないから……あぁでも、何て伝言を書けばいいんだろう?」

「「懐かしい友へ」とでも書いときゃいいんじゃねえのか?」

 いつの間にか戸口に、黒々と日に焼けた精悍な若い男が立っていた。今は野良着を着ていたが、今朝は確かに詰襟を着て、斎藤の横に立っていた男だった。

「君は……やっぱり、今朝は君が助けてくれたんだね?」

「清ちゃん、蕗屋清一郎大将――まさかあんな状況でそんな懐かしい言葉を聞くとはな。本当に久しぶりだ……。俺の名前を覚えちゃいねえんだろう? まったくひでえ話しだ。と、いうより、あの頃はせいぜい下の名前か渾名ばっかりで、名字や本名なんて名乗っちゃいなかったかな? 俺は又野。又野重郎だ」

「重郎……シゲちゃんか!」

「そう、よく思い出したじゃねえか。本当に懐かしい……」そう云うと、又野は蕗屋の手をぎゅっと握り、力強く云った。「……おかえり、清ちゃん!」


「御兄さんが云っていたお友達って、又野さんのことだったのね……」

「そう、そうだったんだ。もう九年も経っていたからね、すっかり大きくなってるから、顔を見ても分からなかったよ!」

「清ちゃんだって、すっかり大きくなったじゃねえか。いや、清ちゃんと呼ぶより、蕗屋大将の方がいいかな?」

「止してくれ。いやでも、シゲちゃん、あんなに小ちゃかったから……。僕よりずっと小さくて、細くてガリガリで……」

「そう。だから大将のおめえとは違って、俺はいつも足軽や二等兵だったのさ」

 二人が旧交を温めている内に、更に二人の旧友が秘密基地に駆け付けた。二人共、あらかじめ又野が声を掛けてくれていたのだ。一人は熊城卓次であった。妹の失踪によって疲労の色が濃く、今も暇を見付けては近隣に妹を探し回っていたから村を空けがちとのことだった。又野同様、自警団の一員であったが、「できる範囲で自分も助けになる」と、昔と変わらぬ友宜を示してくれた。蕗屋も懸命に、熊城を上手く慰められる言葉を探したが、どうにも出てこない。結局出てくるのは当たり障りのない見舞いの言葉でしかなかったが、熊城はそれさえも「気にするな」と云って、蕗屋が口にするのを止めようとした。既に人から触れられるのさえ辛くなっているのかもしれないと蕗屋は思った。もう一人は、意外にも女性であった。「え、アキ坊?」と、蕗屋は驚きを隠せない。幼い頃は髪も短く、男の子顔負けのやんちゃぶりで、一緒に遊んでいた蕗屋は完全に男の子だと思い込んでいたのだ。すっかり成長して黒く長い髪が似合うようになった、そのアキ坊――野末秋子は、斎藤勇の親族で、蕗屋の為に、斎藤家周辺に探りを入れることさえ申し出てくれた。「清ちゃんの為なら、いくらでもスパイをしてあげるわよ!」その話す処によれば、斎藤勇はどうやら斎藤家の親族の中では嫌われているらしい。だから、野末家などは、この自警団騒ぎによって、却って村内で肩身が狭くなることを恐れているらしかった。又野重郎も勿論、何かあった時の助けになることを申し出た。又野家にしても、家では老いた父房次郎が卒中で寝た切りらしく、何かと大変な状況のようであったが、蕗屋の為に時間を割いてくれるとのことであった。素直に再開を喜び切れない状況ではあったが、それでも幼馴染が四人、ほぼ十年振りに秘密基地で顔を合わせたのが嬉しくて、つかの間、村の現状を忘れて思い出話しに花を咲かせた。皆記憶は曖昧だったが、その食い違いや思い違いがまた面白くて、無邪気に笑い、楽しんだ。幼い頃に体が弱くて殆どを家で過ごした弓子は、そんな四人を眩しそうに眺めていた。

 幼い頃の仲を取り戻した三人に対して、蕗屋は改めて協力を要請した――不二夫の行動を調べて欲しい、自分一人では、しかもこの状況では、到底無理だから、いろんな村人達に聞いてみて欲しい、最近の行動じゃない、三年くらい前の行動なんだ、その頃、不二夫の行動や様子に、何か変なことが無かったかどうか、何かを見付けたり、隠したりしていないかどうか……。三年前とは、丁度、不二夫が羅典ラテン語についての質問を手紙で蕗屋に送り始めた頃のことだった。細かなことはぼかしたが、それらを聞き出すことが、村で起こっている一連の出来事の解決に繋がる筈だとは説明した。携えた背嚢の中に仕舞ってあるノオトや「本」のこと、伊志田鉄郎のこと、ましてや川手妙子のことは口にはしなかった。友人達を危険に曝すかもしれないと、躊躇したからであったが、同時に、弓子との間だけで秘密を持つことを望んだからでもあった。

 十年振りの秘密基地にいることは、彼らをまるで童心に還らせる効果を持っていたようで、蕗屋の奇怪な提案にも、幼馴染達は真摯に頷いてくれた。勿論、皆、一連の事件を解決したいとの固い意志を覗かせもした。特に熊城にあっては、当然のことながらその思いは痛い程強く、細かな事情を説明できない蕗屋の方が申し訳なく思えた程だった。

「十年振りに、少年決死隊結成っつう訳だな」とは、又野重郎の弁。

「一寸、あたしは少年じゃないわよ。あんた達だって、もう少年なんて歳じゃないじゃない。特にタクちゃんなんかさ、そんなに大きくなっちまって」

「大きな御世話だっつうんだ」

 童心に返った幼馴染達の口調は、それだけを取り出せば、まるで遊びの話しをしているかのように軽かったが、勿論それは表面的なことに過ぎなかった。積極的に取り組もうとしてくれる姿は力強くて、そこには自分への揺るぎない友情があると蕗屋には思えて、心強くなった。

「まぁでも兎に角、ず俺達が当たるべきなのは、自殺した子らの家族と、久米家、それに斎藤勇に近い奴らだな。あの辺は、清ちゃんが聞き込もうったって、そう簡単にゃいかねえだろうし。熊城家周辺は、勿論タクちゃんに。斎藤家周辺は、最初の話し通り、アキ坊に頼むとしよう」

「任せといてよ。北川家とか笹田家とか、女の子んとこもあたしが当たるわよ」

「よし……じゃあ俺はよ、俺んちだけじゃなくて、年の離れた連中にも聞いてみんべ。でえじょうぶ、おめえの名前は出さねえよ。弓子ちゃんのめえではちぃと云いにくいけど、今や宮瀬んちの噂話は、良くも悪くもあっちこっちで紛々ふんぷんだ。いってえどこまで当てになんのかぁ分かんねえけど、取り敢えずよ、幾らかでも話しを集めるこたぁでけんだろ。気にするこたぁねえ、清ちゃん。それで妹についてもよ、何か手掛かりが得られるかもしんねえっつうなら……」

 幼馴染達は、それぞれに担当を決めて、情報を集めてくることを約束してくれた。そして三日後の昼過ぎに、また基地に集まることを約束して、この日は解散した。


 一方、蕗屋と弓子は、もうその日から、村の至る処で「本」を探索し始めた。とはいえ、いくら狭い山村でも、一冊の本を見付け出すとなると、充分過ぎる程に広い。闇雲に探していたのではただ時間を浪費するだけで、効率が悪いこと極まりない。だから、探す場所を絞ることが重要であった。不二夫は早熟とはいえ中学生であったから、さすがに立ち寄る場所などはそれらしい処なのではと思われた。そこで、子供が出入りしそうな場所を重点的に探すことにしたが、それでも沢山の候補が挙がった。友人の家という可能性もあったが、何でも一人で溜め込みがちな不二夫の性格からすると、手元に置いておくか、少なくとも自分の意のままになる場所に置いていて、他人の家には預けないのではないかと弓子は主張した。そこで祠や一本杉周辺など、いかにもそれらしい処をくまなく探して廻ったが、結果は芳しくなかった。例えば、村の北西側の斜面には、昔から後北条氏の城跡に繋がると伝えられる、その名も「北条の抜け道」と呼ばれている狭い洞穴があるが、ここには途中柵が設けられていて、注連しめ縄が張られ、それ以上奥へは危険だから入ってはいけないとされている。そういう場所だからこそ、逆に不二夫は自分の大事なものを隠すのではないか、こここそ有望なのではないかと、蕗屋も弓子も大いに期待して行った。ところがいざ意を決して柵を越えると、何のことはない、そこから直ぐの処で洞穴は閉じていて、さして深いものではなかった。そして蕗屋が愛用のダイモンの懐中電灯で、その短い洞窟を隅から隅まで探しても、せいぜい茸くらいしか見つからなかったのである。万事がこの調子で、二人の探索はなかなか実を結ばなかった。

 勿論、例の秘密基地も探った。現在、使われていないことから考えて、不二夫らの世代がそこを使っていたかどうか定かではなかったが。二人は、小屋の中にあるもの、即ち丸太切れと羊歯とを取り出し、次に剥き出しの地表や壁、天井、それに周りの地面まで、そこら中を探し回った。するとあらゆる処で、あらゆる虫が、この探索に追い立てられて逃げるように飛び出し、弓子は顔をしかめた。狭い処だから、どんなに念入りにやっても探索は直ぐに済んでしまい、丸太切れと古い羊歯とを戻して、元通りにするだけとなった。

 村人達の目を気にしながら、あちこちを探し廻るというのは、想像以上に難渋であった。時折、自警団に参加している男らとも遭遇して、陰惨な目で睨み付けられることや、非道な言葉を浴びせられることもあったが、幸いにしてそれ以上に危険な目に逢うことは無かった。とはいえ、罵倒の言葉や憎悪の籠った視線を向けられるだけでも神経は随分とり減るものである。それだけの苦痛を味わいながら、あちらの木の洞を手探りし、こちらの隙間を覗き込みして、村の方々を巡ったが、見付かったのは、どこかの子供が集めて隠したと思しい蝉の抜け殻やら団栗どんぐりばかりだった。

 辺りが暗くなると、宮瀬邸に引き返して、今度は屋敷の中を探した。村人達の目を気にしなくていい分、気分的には楽ではあったが、こちらの方が、隠し場所足り得る処が多いという意味ではより困難であった。母屋の押し入れ、物置、天袋、地袋、それに箪笥たんすのあらゆる引出を開けたが、それでも探すものは見当たらなかった。初日、怪訝そうにしながらも、「子供の頃に僕が好んでいた玩具を探しているのです」という蕗屋の言葉を信じて、取り立てて何も云わなかった紘造と桂子であったが、二日目に、軒下に潜って泥だらけになった蕗屋が、今度は天井裏に上ると云い出すに至って、さすがに「そんなに大事なものなのか?」「私達も一緒に探しましょうか?」と、甥と娘の行動を見過ごせなくなっていた。蕗屋は、夫妻を巻き込むことを恐れて、なお真実を語ることに抵抗を覚えたが、「本」の探索が難航を極めたことから、遂に自分が探しているものについては正直な処を語ることにした。但し、飽くまで単に貴重な本を不二夫が持っていたらしいと云うに止めたが。その上で、家の中で変わった本を見たことがないかを夫妻に問うた。

「本ねぇ……。あの子は、本は沢山持っていたから」

「普通の本ではないのです。西洋の言葉で書かれていて、恐らくはかなり古い本で……」

 桂子は全く心当たりがない様子だった。ところが意外にも紘造に反応がある。確かに不二夫が宝物のようにしていた本があったと云うのだ。最初にそれを見たのは、やはり三年前のことであった。その時、不二夫は軽い風邪を引いて家で休んでいた。一方、紘造は桑畑の世話をしていた。急用を思い出した紘造が、電話を掛けようと慌てて屋敷に帰ってきた時、ふと、「調子は大丈夫なのだろうか?」と覗いた不二夫の部屋で、彼は何かの本をまるで宝物を見るかのように眺めていたと云う。ところがそれは、一体どこで拾ってきたものか、到底宝物とは云えない薄汚れた黒焦げの本で、何故そんな本をそんなに大事そうに扱うのかと不思議になったらしい。中身までは見えなかった。表紙には確かに横文字が書かれているようだったが、今時、装丁で横文字を使うのは必ずしも珍しくないから、その時は気にも留めなかった。兎に角、不二夫がやけに大事そうにしていたのが印象に残っていて、その後も何度か、彼がその本をとても大事そうに扱っていたのを覚えていた。あれが蕗屋の云う洋書だったのだろうか……

「間違いない、それです!」

「そんなに貴重な本なのかい? 不二夫も大切そうにしていたが……」

「ええ、まあ」

 いくら貴重とはいえ、こんな時に、そんなに本が大事なのかと、紘造は少し気を悪くしたのだが、そんなことに御構いなしで、蕗屋と弓子は――顔にこそ、さすがにはっきりとは出さなかったが――喜んだ。これまで本当に雲を掴むようだった「本」の、漸くしっかりとした手懸かりを掴んだのだ。やはり「本」はこの家にあったのだ、紘造はそれを見ていたのだと、蕗屋は内心、雀躍したいくらいだった。しかし、紘造の知る限り、不二夫はそれを決して人には見せようとせず、紘造もちり捨て場から拾ってきたような薄汚れた本に興味は持っていなかったので、全くその本について話しをしたことはないとのことであった。だから、その本が今どこにあるのか、どの辺りに不二夫が仕舞っていたのか、さっぱり分からないと紘造は云った。これには失望を感じた蕗屋だったが、しかし「本」の所在に繋がりそうな初めての確たる証言ではないかと、改めて自分を鼓舞する。そうして紘造から一つでも多くの情報を聞き出そうと、見た本の大きさや厚さ、色合い、それに焼け焦げの具合などを聞き出した。

「ああ、わしが見かけたのは、縦八寸、横六寸くらいだったかな……。赤茶色の表紙に金色で題字とかが記されていたと思うが、全体に黒く焦げていたから、よく分からなかったな。頁の縁も黒く焦げてたわんでいた。でも、本の体裁をなしてなかったという程じゃあない。中の紙は大丈夫だったと思う……確かに茶色く汚れていたが、あれは古い紙だったからだろう。厚さは……儂が見た時は、不二夫が手にして開けておったからよく分からんが……一寸もなかったろう。せいぜい、七分といった処じゃないかな……」

 蕗屋は「ありがとう、伯父さん」と云って微笑んだが、直ぐに難しそうな顔になって、それ以上何も云わないまま、改めて準備をし直してせかせかと天井裏に潜り込んだ。その微笑みが納得の合図だと紘造は了解したが、弓子はその後の難しい顔の方が気になった。紘造と桂子が「早く寝なさいよ」と告げて奥座敷へ下がった後も、弓子はその難しい表情の意味を問おうと、蕗屋が降りてくるのを、首を長くして待った。

 半時程して、顔をほこりで真っ黒にした蕗屋が天井裏から降りてきた。その様子から、結果が芳しくなかったことは直ぐに察せられた。そこでもうそのことは訊こうともせず、弓子は先程の表情の意味を問うた。

「ああ。確かに伯父さんの記憶はとても有難い、貴重な情報だった、それは間違いない。ただ、伯父さんの云った「本」の様子がね、僕の期待する風じゃあなかったんだよ……大きさがね。古い欧羅巴の本には、一尺半以上もあるような、かなり大きな本もあるから、もしそうなら、ある程度隠せる場所も絞り込めるかと思ったのだけれども、どうもそうではないようだったから……。八寸くらいの大きさの本を隠せる場所となると、まだまだいくらでもありそうだよ」

 そして弓子の予想通り、天井裏に「本」は無かったと蕗屋は云い添えた。

 翌日も、蕗屋と弓子は太陽の高い間は村内のあちこちを廻り、日が陰ると、蕗屋が寝泊まりしている離れに、二つの土蔵、蚕室と機織場、更に納屋と肥屋まで見て廻った。埃塗れになりながら這いずり廻る二人の姿に、紘造と桂子も、どうやら彼らの探すものが、ただ貴重なだけの本ではないと察して、それが今の状況の中でどんな意味を持つのか、勿論それは気になったであろうが、敢えて聞こうともせずに二人に協力をし始めた。三日目には四人掛かりで邸内をひっくり返し、時には床板を外しさえもしたが、結局「本」は見付からなかった。

 かくして約束の日、蕗屋と弓子は、何の収穫もないままに、ただ、仲間が何かを掴んでくれていることを期待して、秘密基地へ向かうことになったのである。しかし、蕗屋の幼馴染達も、似たり寄ったりの結果であった。蕗屋と弓子が三日に渡って「本」の探索に奔走している間、幼馴染達に加えて、彼らに云いくるめられた数人の村人達が不二夫の行動について訊き廻ってくれたが、何とも不確かな中傷や誹謗の類は沢山集まったけれども、具体的な行動についての目ぼしい情報は殆ど無かった。斎藤勇らの関心を必要以上に引かぬよう、控えめに行動しなければならなかったというのも、結果が芳しくなかった理由の一つだが、それ以上に、というよりも遥かに大きい最大の原因は、不二夫と仲の良かった子供達が、既に皆死んでいるという、改めて頭の重くなる陰惨な事実であった。取り立てて周囲と溝を作るという程ではないにしろ、宮瀬不二夫は、その才が明らかになるにつれ、交友する相手をごく限っていた。そしてその全員が、あの、二月一八日に、不二夫と行動を共にして死んでいるのである。

「辻川家にさしたる情報はねえ、潮見家にもねえ、狩尾家にもねえ……。期待に沿えなくて悪かったなぁ。こうなったら、なんとかもう少し協力してくれる者を増やすかぁ」

 又野重郎は、御手上げというおどけた仕草をしながらそう云った。けれども、それからどっしりと腕を組んでしまって、誰の名前も挙がってこない処を見ると、言葉とは裏腹に、どうやら具体的な当てはないらしい。熊城卓次も同様で、ただ無言で困った顔をしているだけだった。恐らく二人共、できる限りの情報収集はしてくれたのだろう。特に熊城は、妹失踪の心労もし掛かっている状況で協力してくれた訳で、そう思うと、蕗屋は何も云えなかった。だから、ひとしきり不毛な結果報告をした後は、誰も口を聞くことができず、そうすると自然と空気も重苦しくなっていった。小屋に充満したその空気を破るものは、春の空気に誘われた紋白蝶の来訪や、燕の飛来くらいだった。会話は散漫で取り留めもなかった。一時は、弓子が主役になって喋り出し、特に誰に向かってという訳でなく、あれやこれやと、この三日間の探偵活動のあれこれを、少しばかり脚色して語って聞かせたが、しかし、やがてそれも話しが尽きた。

 物憂い午後を過ごしながら、何と捕え難い事件だろう、と蕗屋は呆れながら考えた。村に戻ってきた時には、急に電気に打たれたような強烈さで、劇的に事件が展開した――かに見えたが、それっきり、全く何もない。目に見える動きというものが完全に無くなってしまったのだ。事件全体に、余人を寄せ付けまいとする悪意のようなものが付きまとっていた。人の理解を拒み、突き放すような毒心が感じられた。その為、何をしても無駄であるかのような印象が沸き起こって、あたかも、全てが予め決められたことで、今はもう運命という不可抗力によって、何の解決にもならない幕引きへと突き進んでいるように思えてしまった。しかし、その運命とは何なのか? 誰がその運命を決めるのか、そんな運命などあってまるかと、誰に対してとも分からない蕗屋の反感は高まるのだ。しかし、では、どうすればいいのか?

「ま、いいや」しばし続いた沈黙を破って、又野がこれまでとは異なる、少し開き直った風な口調で語り出した。

「なぁ清ちゃん。おめえの云う通り協力してるけどよ、こんなことがほんとに、この村を救うことに役立つのか? なぁ清ちゃん。何か分かってることがあんなら、もう少し、手の内を知らせてくれてもいいんじゃねえか?」

 蕗屋は、その問いをもっともなものだと認めざるを得なかった。勿論、これ程に協力してくれている友人達に隠し事をするのは、蕗屋としても心苦しいのだ。しかし、京都での出来事について考えると、蕗屋の口は重くなる。弓子はじっと蕗屋を見つめて、果たして蕗屋はどう答えるのだろうと注目している。果たしてどこまで説明すべきなのかと逡巡しながら、それでも何か口にせぬ訳にはいくまいと、心がはっきり定まらぬまま、何かを云い掛けた時、

「すまねぇすまねぇ、待たしちまったわね」と頓狂な声を上げて、野末秋子が約束の時間よりもかなり遅れて小屋へとやって来た。その背後には、肩越しに赤い夕日が射し始めていた。

「ほんと御免なさいね。おっかさんの手伝いをしてたらさ、えらく遅くなっちまって……とっとと結果の報告をさせてもらうわね」そう切り出した秋子の成果は、北川家にさしたる情報はない、笹田家にもない、久米家にもない、斎藤家周辺にもない……と、やはりないない尽くしで続く。それでも蕗屋は期待を込めて、その話しの続きをじっと聞き続ける。しかし、この二日間、秋子からある程度進捗状況を聞いていた又野は、新味の無い不毛な結果の列挙で始まった秋子の報告に、早くも結果を予見して失望した様子だった。弓子も、蕗屋程は期待を持たずに聞いていた。

「やっぱりさ、シゲちゃんとも云ってたんだけど、不二夫君とほんとに仲の良かった友達ってのがもういねえからさ……。結局よく分かんねえんだよ。分かったことってばさ、兎に角、誰も、……少なくとも今、生きている人間の中にはよ、誰も不二夫君の細けえ事を知ってるもんがいねえってことなんだ……」辛抱強く、最後の最後まで聞いていた蕗屋も落胆した。

 ――やはり自力で「本」を見付け出すくらいしか、取り得る手はないのか。けれども、ここ三日に渡って、散々に村中を、そして宮瀬邸の屋根裏から床下までを探したではないか――一体、これ以上どこを? 秋子を待っていた所為もあって、日は最早陰り始めていた。何も成果も無く、次なる方策も見当たらなかったが、しかしこれ以上引き留める訳にもいかない気がした。失望したままに、蕗屋は取り敢えず三人に礼を云い、この場を終わらせようとする。その時――

「たださぁ……」と秋子がもう一度口を開いた。

「結局、不二夫君の細けえ事ぁ誰も分かんなかったんだけど、すみ子ちゃんのおっかさんがちぃとばかし面白おもしれえこと云ってたのよ。三、四年前に不二夫君とよく一緒にいたって子はさ、すみ子ちゃん達の他に、もう一人いたって。見ず知らずの子で、春から暫く不二夫君らと一緒にいたらしいんだけど、それはほんのみじけぇ間で、割と直ぐにいなくなったって話しでさ……」

 消えた子供――蕗屋は直ぐに熊城卓次の妹らを思い起こして、恐怖した。そんなに早くからこの村では子供の失踪が起こっていたのか?

 ところが、そんな蕗屋の様子を見て、秋子がにやりと笑った。

「怖い顔して……あに考えてっか、御見通しだよ、清ちゃん。でも、そういう意味じゃねえんだよ。あたしらに云わせりゃ、あんただって充分に、「消えた子供」だったんだから」

「――え?」

 その後の秋子の説明を聞いて、「ああ、成程」と蕗屋は思った。


 郷田からの返事は早かった。二日後の昼過ぎには、蕗屋を満足させる連絡が返ってきた。

「おった。見つかったぞ。子供の頃にいた時期と今で季節が一緒やったし、自警団の所為で、麓で足止めされてる奴が多かったから、案外に直ぐ見つかった。名前は小山田六郎といって、やっぱり、君の予想した通り、甲州街道沿いに仕事をしている、流しの鋳掛職人の子や。三年前の春休み、たまたま親が葛瀬村で仕事した時に、村をぶらぶらしていて、村の同年齢の子らと仲良くなったらしい。それから、親が余勢宿に留まって仕事をしている間は、ずっと葛瀬村の子供達と遊んでいたらしいわ……」

 やはり――と、蕗屋は思った。「見ず知らず」というからには、どこかの親戚の子などではなく、行商の子なのだろうと、蕗屋は推測していたのだ。考えれば、きたりな話しではあった。閉鎖的な大人とは違って、子供というのは、同世代の者を抵抗なく受け入れる。だから、起こり得るのだ。親の都合で、親にくっついてやって来た子供が、また、親と共に去る。その都合とは、法事や商売など、色々あるだろう。しかしその短い間にでも、子供はその地で友人を作ることがあり得るのだ。いつの間にかやって来て、その地の子供達と仲良くなって、いつの間にかいなくなる子供。秋子の云う通り、蕗屋自身がそうであった。親の里帰りにくっついて村にやって来て、又野や熊城、秋子と仲良くなった。今も自分を助けてくれるくらいに、大切な仲間だった。しかし、親の足が里から遠ざかるにつれて、自分も村から消えた。そして実にこの年になるまで、足を踏み入れることもなかったのだ……。

 しかしともあれ、蕗屋はこの連絡に興奮していた。消えた不二夫の友人――それは、郷田からの電話を受け取るまでは、ただ、秋子が聞き込んだというだけの不確かなものであった。無論、秋子の言葉を疑っていた訳ではないが、見つかるかどうかも分からない存在だった。それが今や蕗屋の前に――いや、厳密には郷田の前に――現実の存在として姿を現したのである。不二夫の友人の中に生きている者がいることを感謝していた。――今度こそ、期待していいのだろうか? 何が、期待できるのだろうか? 

「子供ってゆうのはやっぱり素直なもんやな。それとも、あの少年が特別真っ直ぐなんかもしれんが。実にあっけらかんと、寧ろ嬉しそうに、俺の聞き込みにも答えて、昔の友人らのことを実に懐かしそうに証言してくれたわ。今は尋常小学校を卒業して、親と同様、流しの鋳掛職人の見習いをしているらしいから、生活は結構苦しいやろうに、とてもそうは思えへん程利発そうやった。そういう処も、君の従弟と馬が合ったのかもしれん……」

「それで、「本」について、その少年は、何か云ってました?」

「細かいことは覚えてないみたいやったが、「宝物」については覚えていた」

「……「宝物」?」

「そう。君の従弟――とは勿論認識していなかったが、君から預かった写真を見て、間違いなく、その顔に見覚えがあると云っていた。君達の村の、その頃の子供達の中心人物だったそうだ。その子供が、大事にしていた処の、「宝物」さ。どこかから大事なものを見つけたらしくて、幾つかあったようだが、それらを、不二夫君は「宝物」と呼んでいたそうだ。その内、不二夫君が一番大事にしていたのは確かに本だったと云っていた」

 それこそが間違いなく、目指す「本」なのだろう、『悪魔との対話』なのだろう――蕗屋は、意図せず、受話器を持つ手をぐっと握り締める。そして右の耳に意識を集中させて、更なる情報に期待した。ところが郷田の口上は、蕗屋のはやる気持ちとは裏腹に、ひょんな会話の綾から本題を外れて、行商人らの苦情の代弁へと移っていった。事実上余所者に閉鎖されている今の村の状況についての苦情だった。この二日に渡って、行商人らと直接顔を合わせてそうした苦情を聞いてきたのであるから、それも仕方がないのかもしれない。しかし一方で、麓で待機してずっと村に入れないでいる郷田の心情もそこには重ねられているようで、村にいる蕗屋との間で、聊か意識に温度差が出始めているようにも思われた。こうなったら、やはりそろそろ郷田にも村に来てもらわなければ――

「しかし、あの自警団の連中は何とかならんもんかな。公衆の往来を阻害して……村に入れへんと、小山田少年や他の行商人達も難儀してる」

「それで思い出したんですけど、郷田さん、今晩動けますか? 今晩なら、もしかしたら何とか村に入れるかもしれません」

「何とかなるのか?」

「これから根回しとかしないといけないので、一寸まだ断言はできませんが……多分、今晩なら」蕗屋が腹案を伝えると、郷田も了承した。

「それで、その不二夫君の「宝物」の隠し場所について、何か云ってませんでしたか?」

「あぁ、そうそう。すまん、話しが逸れて。小山田少年は、不二夫君からこう聞いていたそうだ――」


 蕗屋は、今しがた郷田の口から発された言葉を、りつかれたように、何度も何度も頭の中で繰り返した。そう確かに郷田は云った。若き行商人が、不二夫から聞いた言葉として――「基地に行けば分かる」と。

 遂に、遂に自分は手掛かりを掴んだのだ! 蕗屋の全身に、抑え難い興奮がぞくぞくと走った。いてもたってもいられなくなり、蕗屋は慌ただしく行動を開始する。先ず、自警団の一員でもある又野重郎と熊城卓次に会って話しをつけ、今晩の行動について協力を要請した。その首尾は上々で、二人が快諾してくれた為に、これでこの夜の手筈は充分に整ったように思われた。そして直ぐに宮瀬邸に戻り、「相模屋」に電話を掛けて改めて今晩のことを伝える。こうして懸案を片付けた上で、蕗屋は弓子を誘って、いよいよ本命の仕事を果たそうと、目的の場所を目指した。

「でも、あそこには何も無かったじゃない」慌てる蕗屋を追いながら、弓子が呆れたように疑問を投げ掛けた。そう、数日前に調べた時には、確かに何も無かった、しかし――兎に角、もう一度行ってみれば分かることだと蕗屋は思った。「基地に行けば分かる」――その言葉は、天啓のように蕗屋を突き動かしていた。それは、雷の如きであると蕗屋は思った。同時に、既に幾度にも渡って足を踏み入れているのに、弓子が云うように既に散々探し回ったのに、何故これまで何も気付かなかったのだろうと、己の愚鈍さを知らしめるものとして、その言葉は蕗屋を打った。蕗屋は、真っ直ぐに向かった。その勢いは、村の辻々にたむろする自警団の男共を刺激せんばかりだったが、構わず疾駆した。

 秘密基地は、数日前に来た時と変わらなかった。いや、小屋の周りに福寿草や片栗の花が綻び、微かに香りを放っているのを考えると、確かに時は経っているのだ。蕗屋は息を切らせて、羊歯の上に膝を屈すると、憑りつかれたように羊歯の一葉一葉を注意深く捲り上げ始めた。後から悠々とやって来た弓子は、どこか冷ややかに地面をむしる蕗屋を見ていた。全ての羊歯を捲り終え、その下の地表も確認すると、蕗屋は小屋の周りの草々の中に顔を埋め、いよいよ犬の如き姿となってごそごそと漁り始めた。しかし、いくら草花が伸びたと云っても、僅か数日前に探した時とそんなに変わる訳ではない。ましてや、不二夫が本を隠したならば、それはもっと以前の話しなのであるから、仮に伸びた草によって隠す場所が増えたとしても、それはこの場合関係ないのであった。だから周囲の草花の中に見つかる筈もなく、既に小屋の羊歯の下は全て確かめたのであるから、あっさりと探すべき場所は無くなってしまった。そこで、小屋の中と云わず外と云わず、蕗屋は遂に石や土を掘り返し始めた。勿論、全ての地面を掘ることなどできる筈もなかった。人間の爪は、指先を保護する為のものであって、土を掘り返す為に備わっているのではないからだ。直ぐに爪の隙間に泥と砂塵が詰まり、逆剥けが裂けて血と泥が混ざる。事態が変わらぬのを見ている内に、弓子の視線はいよいよ冷やかになった。この蕗屋清一郎という男は、とても頭がいい筈なのに、どうしてこう時折抜けたことをするのだろう? 数日前に散々探したのだから、ここから何かが出てくる筈もない。ここに「本」があるなどという情報は、大阪の男に担がれているのか、それとも、もしその情報に信憑性があったのだとしても、不二夫があのようになってから既に誰かが持ち去ってしまったとしか考えられず、いずれにせよここを探すのは全く無意味にしか思えなかった。

 一方、蕗屋の頭の中でも、違う、違うぞと、理屈ではなく、感覚的な部分が騒ぎ出した。それは、郷田からの連絡を受けた時から、脳の奥底の方で地虫のようにうずいていた感覚だったが、この時まで蕗屋は、ただ、郷田の言葉の意味する処を字句通り機械的に捉えて、その地虫のうごめきを無視して突っ走ってきたのだった。しかし、その結果陥った愚かしい失態の前に、言葉をただ字句通りに判断するという理性に従っていた自分が、却って短絡に囚われていたことに気付かざるを得なかった。理性よりはむしろ、蕗屋の脳髄の奥底に仕舞い込まれた無意識的な直観を司る部分の方こそが、言葉の微妙な陰翳というものを上手く聞き分けていたようであった。基地に行けば分かる――基地に行けば分かる――基地に行けば分かる。そう、脳髄の奥底で気付いてはいた。郷田は――或いは郷田の口を借りた小山田六郎少年は、「基地にある」とは云っていない。

 つい今しがたまで掘り返していた小屋の地表の上にぺたりと座り直すと、蕗屋はぢっと裂けた指先を見て考えを纏めた。呆れたように見詰める弓子の視線にも素知らぬ顔で、すっと立ち上がった蕗屋は、先程自分でひっくり返した、小屋の外に転がる木箱の方へ寄った。そしてごそごそと手を突っ込み、佐伯ドロップスの缶を取り出した。中には、僅か数日の間に、団子虫が入り込んでいた。云わばそこは彼らの家と化しつつあった訳だが、その新参の住人に構わず、蕗屋は中に収められていた紙を全て引き出した。「算術一八点」「地理二四点」といった答案が広げられる。

「そうか、違う、違うんだよ。郷田さんは「基地にある」なんて云ってないんだ。郷田さんが云ったのは、「基地に行けば分かる」――そしてそれは、宝物のを知りたがった幼い友人に、不二夫君が云った言葉でもあるんだ。つまり、不二夫君は、基地に「宝物がある」と云ったんではなくて、基地に行けば、「宝物の在り処を知ることができる」って、そう友人に伝えたかったんだ――」

 そう云うと、それまで上気して落ち着きのなかった蕗屋の顔が、ぴたりと静止した。その目は瞬きも忘れて凝固し、その視線の先は今拡げられたばかりの一枚の紙に注がれていた。一体どういうこと?――と、弓子はいぶかしんで、蕗屋の背なに廻る。可憐な少女が密着した為に、蕗屋は大いに動揺したのだが、そうした男の劣情などをよそに、弓子は強い期待と困惑を胸に、蕗屋の手にする紙切れを覗き込んだ。するとそこには、弓子の予想とは大いに異なる、子供のような文字が書かれていた。


 ――ゑんもみおゆらすかひをゆたへな


 それは数日前に、蕗屋が「ひらがなの書き取り試験」と断じたものだった。

「……これが、御兄さんの探していたものなの?」

「……そうだよ」

 弓子が冷やかに見つめる中、蕗屋はみるみると相好を崩していった。彼は、自分が追い求めていたものをついに発見して、湧き上がる笑みを抑えられなかった。


 その夜、これまでずっと麓の余勢宿で待機していた郷田が、遂に葛瀬村へと足を踏み入れることとなった。蕗屋から、昼間に指示された通りの行動である。とはいえ、ただ所定の刻限に、村の南方の入り口へ来るようにと云われただけであるから、果たして大丈夫なのか、そこからどのように自警団の目を誤魔化すのだろうかという危惧が無くなりはしなかったが、具体的な手管てくだは蕗屋に任せるしかなかった。土地勘も無ければ権限も無い郷田には、他にどうしようもなかったからである。足元が覚束おぼつかない新月の夜陰の中、なんとか山道を抜けて、定められた時刻通りに村の南の口へやって来た郷田は、初めてその目で見て呆れ返ると共にうんざりした。詰めている男達は詰襟と野良着姿で、馬鹿馬鹿しいくらいに安っぽくて貧相な恰好であったが、手には四尺ばかりの天秤棒や鍬を持っており、一向に気を緩める気配もなく、俊敏に辺りに目をやっている様子からは、到底遊びとは思えない。その警戒の物々しさと、それとは似つかわしくない恰好との取り合わせが滑稽ではあったが、それだけに何か調子外れの恐ろしさが感じられた。郷田は夜陰と木陰に隠れながら側まで寄って様子を覗うが、刻限が来ても取り立てて何の変化も無く、またそもそも、自分が隠れてしまっていては、手引きしてくれる者がいたとしても気付きようがない訳だから、意味が無かった。本当に中に入れるのだろうかと訝りつつ、意を決して姿を曝して近付いていくと、屈強な農夫の一人がついと前に出た。

「待て、こら。どこに行こうってんだ?」と、背の高い野良着の男が残忍な目をして云うが、無論、大きな農具を突き付けられていては待つしかない。「……蕗屋清一郎の処だ」

 男達は目配せして、思案顔を交わすと、最初、野良着の男が値踏みするようにじろじろと郷田を眺め回したが、もう一人の詰襟の男がそれを制した。

「すまねえが……もしかすると、大阪から来たっつう方かな?」

 そうや、と答えると、

「話しぁ伺ってます。俺ぁ蕗屋の友人の又野重郎です。こっちぁ熊城卓次」と、笑みこそ浮かべはしないものの、態度ががらりと変わった。成程なるほど、蕗屋の云う通り、「何とか」なっていたのだ。見かけによらず、世慣れしていないようでありながら、案外、蕗屋には間諜の才能があるようだと、郷田は感心する。

「じゃあ、予定通り、タクちゃん、頼んだぞ。俺ぁここで引き続き夜番してっから」

「すまねぇな、又野。もし誰か来たら……」

「誰か来たら、タクちゃんは腹っ下しでもしたと云っておくさ。あ、勿論、もし本物の不審な奴が来やがったらこいつを鳴らして人呼ぶから、大丈夫」と、胸に吊り下げた呼子をいじくって、

「清ちゃんによろしくな」と快活に云うと、詰襟の男は天秤棒をぎゅっと握り直してその場に留まった。

 一方、野良着の男は、

「ようこそ、葛瀬村へ。さあそんじゃあとっとと、清ちゃんち行くべ。誰かに見られでもしたら、七面倒くせえことになっちまう」

 そう云って、郷田を先導した。この野卑な田舎男が、あのやわな書生然とした蕗屋と気脈を通じているのかと、郷田は驚く。郷田にしてみれば、もう一人の詰襟姿の男と蕗屋を結びつけることはまだ難くなかったが、こちらに至るとにわかにはまるで接点が想像できない。しかし、蕗屋の名を出してから後の、すっかり和らいだ表情や、「清ちゃん」という今の親しげな話しぶりを聞くに、彼らが昵懇であることは間違いないのだろう。もう長らく村には来ていないという話しであったが、そうはいっても信頼できる友人関係が続いていたということか。大阪で生まれ育った郷田にはピンと来ないが、田舎というのは、身内には義理堅い処だと云うから、そうしたことは充分にあり得るのだろうとも思えた。しかしそれは云い換えれば、今、この村が現に垣間見せているように、余所者に対しては排他的になり易いということでもある訳だから、西から来た言葉も風体も違う自分が、一体彼らにはどのように見えているのかという不安も郷田に抱かせた。ましてや、不可解な事件が続発している村なのだ――今はにこにこと先を進むこの大男が先程見せたあの残忍そうな目の理由が、都会育ちの郷田にも改めて理解できる気がした。

 初めて足を踏み入れる葛瀬村は、郷田にとっては殆ど、ただ、闇であった。都会で暮らす郷田からすれば、街灯も無く、家屋もまばらな新月の村は、まるでその姿を把握することができない。しかし、全く何も分からない訳ではない。処々に見える、民家から漏れる灯りだけが便よすがとなった。それらを頼りに何とか位置関係を頭に描き、郷田は、宿で頭の中に叩き込んでおいた村の地図とそれとを突き合わせる。

 郷田に到来する村のもう一つの印象は、匂いであった。都会にはない、堆肥、草、川の水、藁、田畑、牛馬、そして目の前を歩く人間の匂いが、郷田の鼻腔に押し寄せた。人によっては懐かしさを感じるであろう、そうした馴染みのない匂いの数々が、郷田を不快に、というよりも不安にさせた。それは、まさに慣れていないが故のことなのか、それとも、何かこの村を覆っている危険なものをその奥に感じ取ってのことなのか、郷田には見当が付かなかった。

 一軒の大きな屋敷に連れてこられた郷田は、その家の主がいるであろう母屋へは通されず、真っ直ぐに離れへと向かわされた。そこに蕗屋がいるのであろうことは、直ぐに察しが付いたし、実際、直ぐに蕗屋が顔を出した。

「ようこそ、郷田さん。予定通り、無事に来られて何よりです。どうぞ中へ」

 瀟洒な洋間には、蕗屋と、郷田の知らない少女が一人いた。蕗屋の紹介で、郷田は簡単に自己紹介した。尤も、あらかじめ蕗屋から説明されていたらしく、少女も、郷田のことを承知している様子ではあった。続いて、先程熊城と名乗った若い男が改めて自己紹介し、やはり蕗屋の幼馴染であったかと郷田は思った。郷田の関心を引いたのは、もう一人の蕗屋の従妹だという少女だった。この村で少年達の集団自殺を引き起こした張本人である宮瀬不二夫の姉であるとのことで、勿論それは注目に値する点なのだが、それ以上に兎に角結構な美人であり、どうも単なる従妹という以上に蕗屋と親密そうなのである。単に部屋が四人入るには狭く、また、椅子が人数分無い所為なのだが、二人が寝台に腰掛けているのが何とも意味深そうに見えてしまう。ははぁ、いくら親戚とはいえ、蕗屋清一郎がこれ程に甥の一件に首を突っ込むのは、この麗しい従妹の所為だなと、郷田は直感した。血の繋がりを考えると、本気の恋愛という可能性は低いのであろうが、それでも蕗屋くらいの年齢なら、気になる存在であるに違いない。成程なるほど、一見分かりにくそうに思えた今風の軟な書生、蕗屋清一郎が傾ける熱情の正体は、最も分かりやすい、古今東西不変のものであったのだ。しかし、それが理解できたことは、郷田の中で蕗屋の地位を軽んじさせるよりも寧ろ、蕗屋への親近感を増させた。それだけでも村へ来た甲斐があったものだと郷田は思った。

 宮瀬邸の離れでは、郷田と蕗屋、熊城と弓子の四人が、これから始まる「捜査会議」の参加者となった。

「本当はもう一人、野末秋子という女性が協力してくれているんですけど、今日は時間が遅いので……。どうぞ、そちらの応接椅子に座って下さい。今、この離れは僕だけが使ってますので遠慮なく……と云ったら、伯父さん伯母さんに怒られるかな。でも、どうぞ」

 郷田は云われた通り、小さな丸卓子テーブルを挟んで郷田の向いに位置している肘掛椅子に腰掛けた。弓子と名乗った従妹は、郷田に茶を差し出した後、再び蕗屋の横、寝台にちょこんと腰掛けた。洋間なので珈琲かと郷田は思ったが、持ち手の付いた洋茶椀の中は澄んだ緑色であった。郷田は口を湿らすだけのつもりであったが、その茶を一気に飲み干す。やはりここまで来るのに緊張していたのか、思ったより喉が渇いていたようだ。郷田が飲み干すのを見届けるや、殆ど前置きもなしに、蕗屋が話しを切り出した。

「郷田さん、暗い中、こんな山奥まで御足労頂いて有難うございます。今日は、元々は意見交換をして意思疎通を図る程度と考えていたんですが、郷田さんの御蔭で大きな進展がありましたよ。いや、本当に、もしかすると、色々な事件の解決まであと一歩なのではないかと……。いや、ですが、その話しは後でしましょう。直ぐに済みますから。わざわざ来てもらったのに済みませんが、本当に直ぐなのですよ。だから、その前に、そう、そちらの首尾はどうです?」

「こっちも一応収穫はあったで」

 郷田は、蕗屋の話しが大いに気になったが、ここは取り敢えず蕗屋の進行に任せ、自分がこれまでの聞き込みで得られた情報を説明した。まず、川手妙子殺害事件のあった二月四日と、支倉喜平殺害事件のあった三月十五日の両日に関する、村人達の不在証明アリバイについてだった。郷田は主に、余勢駅の鉄道員に聴取することで、村人達の出入りを把握したのであるが、結論から云うと、この調査結果は芳しくなかった。村の若い者の多くが出稼ぎ、或いは商談でこの時期はずっと村を離れていたからだ。農閑期の冬には、寧ろ村を離れる者が多く、三月十七、十八日の土日曜日に漸く帰村した者が多かった。この為、二月四日と三月十五日に関西で事件を起こし得た者は存外に多く、ここから何か有力な情報を引き出すことはできなかった。一方郷田は、木戸が欧州で行方を断ったことから、欧州と繋がる線についても近隣の村や麓で聞き込んでいた。こちらでは幾つか有力と思われる情報があり、浮かんできた線は三つ。先ず斎藤家の縁者に一人、先代当主の弟だか従弟だか甥っ子だかになかなかの秀才がいて、今は疎遠になっているが、大正の初めの頃に海軍兵学校を出て、軍令部勤務になったとのことであった。これが大正五年頃、丁度先の欧州大戦の際に欧羅巴ヨーロッパ留学をした筈だと云う者が多くいた。次に、野末家――野末秋子の家で、この話しを聞かされて蕗屋は内心不愉快になった――の先々代の妾腹の娘の名を挙げる者もいた。彼らの話しによれば、この娘が横浜で芸者になり、それが墺太利オーストリア人貿易商の目に留まって、明治末年頃に請われて渡欧したらしい。それから、サナトリュウムの創設者の進藤という実業家を挙げる者もいた。この男は、余勢宿に逗留した際に本人が語った処によれば、欧州で二十年来商売をしていたそうで、特に、欧州大戦の時にひと財産築き、大正十一年頃帰朝したとの話しであった。ただ、それ以前については、郷田曰く「経歴不明、元手の出処不明」で、「考えたら木戸は工作資金を流用できる立場にいた訳やから、それを元手にした可能性かてあるわな」。郷田はこの線が一番怪しいと睨んでいたが、但し、聞き込んだ者達の証言では、この実業家は出羽の出身でこの辺の土地の縁者ではないらしい。この点が黒岩の証言と矛盾した。

「……だから、どれも決定的とはいえへんなぁ……」として郷田は話しを締め括った。蕗屋も、その郷田の締め括りに異論を唱えなかった。というのも、彼は自分の昼間の発見に大いに酔いれていたからであり、実の処、余り注意深く郷田の話しを聞いてはいなかったからだ。

「まぁ俺の話しはこんな感じやな。今日まで、肝心のこの村に入れへんかったから、曖昧な伝聞情報ばっかりなんがどうもな……。ふむ、君の方がもっと凄い発見したみたいやな」

「分かります? ええ、まあね」

「じゃあ、こっちはもう収穫を全部話したんやから、そろそろそっちが手に入れてるもんも教えてくれや。それとも、残る二人から、何か話しがあるのかな?」

「いえ、二人には、今日は特に何も御話しすることはない筈です。……タクちゃん、そうだよね? よし。じゃあそろそろ、僕の方からいきますか」そう云うと蕗屋は先ず、今からする話しの前提として、熊城に「本」についての説明をした。葛瀬村で、そして大阪や京都で起こっている一連の奇怪な事態の背景にあると思われる「本」……。熊城は目を白黒させていたが、彼にはまた後日、改めてゆっくり説明するとして、今は先に進もうと蕗屋は思った。

「さぁそれで、今日僕はこれを発見したんですよ。いや、郷田さんの御蔭なんですけどね……」

 そう云って蕗屋が卓子の上に拡げたのは、くしゃくしゃに皺の寄った、経年で茶色くなった紙切れだった。郷田と熊城は興味深そうにそれをしげしげと眺めた。一方の弓子はもうその文面を知っているらしく、敢えてよく見ようとはしなかったが、それでも難しい顔をして首を傾げ、じっと見下ろしていた。子供っぽい字で、大きく平仮名が書かれている。

「ゑんもみおゆらすかひをゆたへな?」熊城が口に出して云った。

「……この、出鱈目な子供の練習書きみたいなのが、これが、蕗屋君の探しとったもんなんか?」郷田は怪訝な顔をした。

「そうですよ。なあに、大したものじゃありません」そう云うと、蕗屋は自ら卓子に置いた紙を改めて手に取り、少し勿体ぶったように、頭の中で話しを組み立てながら語り始めた。

極々ごくごく、簡単な暗号ですよ。簡単過ぎて、子供の殴り書きに見えるんです。いや、そう見えるように、不二夫君がわざと拙い字で書いたのかもしれませんね。でも、難しくては駄目なんです。彼が伝言を宛てた相手は、自分と同世代の子供達なのですから。不二夫君なら、もっと複雑な暗号を作れたかもしれないけど、相手に読めなくては仕方ないですからね……」

 そう云うと蕗屋は、abcdef……のアルファベットを、途中で折り返すように二列に分けて自分の手帳に書き、卓子に乗せて皆に見せた。


 abcdefghijklm

 zyxwvutsrqpon


「西洋では、atbashとかazbyとか呼ばれる、簡単な暗号表記法があるんです。それで暗号を書く場合には、先ず、こんな風に、アルファベットの前半を普通の順番に、後半を逆の順番に書いて、それぞれ対応するように同数二列に並べます。そして、ある単語なり文章の字を、この二列を参照して、対応する字に置き替えて書くんです。つまり、「a」なら対応する「z」に、「z」なら対応する「a」に置き替えて書きます。「b」なら対応する「y」に、「y」なら対応する「b」にそれぞれ置き替えて書きます。同様に「c」と「x」、「d」と「w」、「e」と「v」をそれぞれ置き換えて書くんですよ。例えば、「baseball」なら――」蕗屋は、先程の二列の横に、次のように書き付けた。


   本来の単語 baseball

  atbash暗号 yzhvyzoo


「――こうなる。これが、atbash暗号です。これを、いろは歌でやったのが、不二夫君の暗号ですよ。わざわざいろは歌の書き取り試験の裏面に書いたのは、それ自体がヒントだったんですよ。先ず、いろは歌を、前半を普通の順番に、後半を逆の順番に、折り返すようにして二列に書きます。いろは歌だと一つ余りますが、それは他の字に置き換えないでそのままにするのでしょう。それから、「ん」もね。ほら、こんな風に二列に――」


 いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむう

 すせもひゑしみめゆきさあてえこふけまやくおのゐ


「この二列を参照して、それぞれ対応する字を置き換えていくんです。「い」と「す」、「ろ」と「せ」、「は」と「も」、「に」と「ひ」を置き換えるという風に。すると……」

 そうして置き換えていくと、くしゃくしゃの紙切れに書かれた文字列から、確かに意味のある文章が浮かんでくるのであった。


 いろはatbash暗号 ゑんもみおゆらすかひをゆたへな

 本来の文章 ほんはとなりのいえにありふしを


 あっ、と声を上げたのは弓子だった。

「――「本」は、隣の家にあり。不二夫」

「ええ、じゃあ今から行きましょう。云ったでしょう? 今日のここでの僕の話しは直ぐに済むって。ここでの会議は終わりです。今から一緒に、事件の鍵となる「本」を発見しに行こうじゃありませんか」


 紘造が新たに建てた蚕室と機織場を除けば、隣家の敷地は全くの手つかずのまま放置されていた。元々人の住んでいた処であるから、勿論地形としては全体に平坦で、自然の山野とは異なっている筈なのだが、ヨモギススキカヤ草葦クサヨシタデなどが、この処の陽気で急速に成長したらしく、それらで一面埋め尽くされて地表さえ見えない。それらの力強い葉々が、既にひざほどにまで届く高さになっていた。

「ここは……少なくとも僕が子供の時は、篠崎家という別の一族が住んでいたんです。だから、少なくとも十年程前までは、その家屋敷があった」

「しかし、今は何も無いやないか」

「ええ。篠崎家は特に絹生産の方に力を入れていたので、五年前の絹糸の大暴落の時に――篠崎家だけじゃあありませんが――家を傾かせて、村を出て行ったんです。その後、空き家となった家屋が出火して全焼したのを機に、宮瀬家が残った建物と敷地の全てを買い取り、更地にして、その区画の一部には、あの新しい蚕室と機織場を建てた訳ですが……」

「じゃあ、もし、「隣の家」に隠してあると云うのなら、その時に、不二夫君が云う処の「宝物」も、燃えてしまったんじゃあ……」

「いや、それはどうでしょう。弓子ちゃん、伯父さん達がこの辺りを買い取ったのは何年前だったか覚えているかい?」

「ええと……。私が高女一年の頃だから、四年前だと思うわ」

「それなら、不二夫君が「宝物」を手に入れた三年前には、既にこの辺りは更地だった筈です。それにも拘わらず、不二夫君が「隣の家に隠してある」と記したからには、きっと何か、その残りがある筈なんだ」

 蕗屋達は、手分けして、荒涼と広がる半町程の更地を捜索した。蕗屋と郷田、熊城の三人は宮瀬家にあったカンテラを、弓子は蕗屋から渡された懐中電灯を手に、腰を屈めて草の中に分け入った。カンテラは取り回しにくく、蕗屋は苦労した。手を動かすごとに灯りは右へ左へと揺れ、視界が定まらない。おまけに前屈みになると、いつもの背嚢が頭の方にずり落ちてきて邪魔になった。灯りを広く当てようとすると、くさむらの中を照らすには余りにも薄暗く、とはいえ充分な光量を得ようにも、草に炎が燃え移る危険があるので、それ程近付ける訳にもいかない。その上、折からの陽気で下草は伸び上がっているから、どうしても草の根元まで灯りが届かない。丁度いい照らし方は見つからず、せいぜい手元の上っ面が明るくなるだけで、結局手探りの探索となった。昼間の地面に継いで、夜には叢を掻き分けている訳だが、地面より叢の方がましということもなく、時折指先に葉の棘が刺さって痛んだ。突然、寝床を襲われて、小さな蛙が飛び出しもした。どこかに蝮が隠れてはいまいかと、少し恐ろしい気もした。

 郷田は恐らく官服時代に似たような仕事を幾つもこなしてきたのだろう、要領良く草の中を突き進んでいった。熊城は、普段草刈などでこうした仕事には慣れている筈だが、如何せん暗くて手元が覚束おぼつかないらしく、思ったよりももたもたしていた。一方、弓子は、蕗屋のダイモン社の懐中電灯を、ただ自分の足元辺りに当てて照らしているだけで、しゃがみ込もうとさえしていない。しかし、目は注意深く叢の中に注がれているから、それで探しているのが分かる。さすが独逸ドイツ製、充分な光量なのだなと、蕗屋は思った。同時に、そう云えば弓子は小さい頃から外で遊ぶ子ではなかったから、叢の中に潜り込むことに抵抗があるのかもしれないなとも感じた。

「篠崎んちの敷地はよ、どの辺りまであったんだっけかな?」熊城が問うた。

「ええと、どこまでだったかな? 弓子ちゃん」

「あの、水路の端の処までがそうだわ」

「んじゃあ、皆でおんなじとこ探しててもらち明かねえから、俺はよ、向こうの方を探してくらぁ。弓子ちゃん、探す気がねえなら、向こうで俺の手元照らしてくんねえか」

 蕗屋は、熊城の口振りに少し不快感を覚えた。確かに弓子は手を動かしていなかったが、それはダイモンの懐中電灯の高性能の所為で、その様子をちゃんと見れば、探していると分かるのに。その上、弓子が若い男と二人きりになることに、どうにも抵抗があった。妹の失踪で憔悴している熊城に、うわついた処はないように見えたが、そんな熊城相手だからこそ、弓子も同情を覚えるかもしれない――水路の方へ向かう二人を見ながら、蕗屋はそんなことを考えた。すると、そんな蕗屋の機微に気付いたのか、それともただ事実を指摘しただけなのか、郷田が蕗屋に声を掛けるのだった。

「さあさあ、手がおろそかになっとるで」

 その言葉に促されて、遠く、水路の方で揺れる灯りの軌跡を横目で追いながらも、蕗屋は仕事を再開した。けれども、どうにも二人のことが気になって、注意が散漫になる。そんな自分を愚かしく思い、じっと手元に集中し、草を分け進む。しかし、暫くするとまた、水路辺りの灯りを目で追っていた。変わり映えのしないそれを見てはまた草に分け入り、やがてまた目で追う。そんなことを暫く蕗屋は繰り返した。


 そうして小一時間程も経った頃、地面近くに密生している蓬の葉を掻いていた蕗屋の指が、かつりと何かに引っ掛かった。蕗屋の指先にそれまでと違う感触がする。葉や土、虫などの柔らかいものではない。もう一度、同じように指を動かすと、確かに硬いものが触れる。蕗屋の目は、まだその正体を確認していなかったが、その大体の形状は指先から伝わった。引き続き慎重に、指先でその輪郭を確認していく。それは、明らかに自然界ではありえない直角で構成されていて、硬く冷たい。明らかに石ではなかった。大きさはせいぜい三寸くらいで、棒状のもので形成されているらしかった。それは指で引っ掛けると動くのだが、どうやら地面にぺたりと倒れているように思われた。手探りをしている内に、その棒状の部分に上手く指が引っ掛かり、思い切って引っ張ってみると、そろそろと立ち上がるのだった。

 在った――蕗屋は勇躍して、カンテラの灯りを当てた。例によって上手く下まで灯りが届かないので、蕗屋は周りの背の高い草を引っこ抜いた。そうして改めてカンテラを向けると、地面にコの字形の金具が突っ立っているのが浮かび上がるのである。それこそ、先程まで彼の指が引っ掛かっていたものであった。急いで周りの下草も払うと、それらは簡単に根こそぎ除けられ、その短い根が土ごと取り払われた跡からは、不自然にすべすべとした地面が顕れるのだった。もちろんそれは、自然の地面ではなく、嘗ての篠崎家の名残であった。蕗屋は顔を起こし、周りを見回す。暗くてよくは分からないながらも、遠くに宮瀬邸の雨戸から漏れる光が見えた。振り返ると、水路の水面がきらきらとしている。次に蕗屋は目を閉じ、自分自身の記憶を懸命に思い出して、その中に己の身を置いた。宮瀬邸と水路の位置を、そして嘗て存在した篠崎邸の位置を思い浮かべる。幼い頃に、改装前の宮瀬邸二階の蚕室から眺めた周囲の景色、夏に水路で沢蟹釣りをした時の情景。ここらは、きっと、篠崎家の土蔵があった辺りではないだろうか? 地上のものは疾うに失われていたが、地下に構えられたものがまだ残っていたのではないか?

「郷田さん、これ」蕗屋は、近くで叢の中に潜っていた郷田を呼び寄せた。二つのカンテラでよくよく照らすと、蕗屋が掘り返した処からは、六十センチ四方程の金属板が露出していているのがはっきり見えた。それはどうやら、地下へ通じる戸であり、蕗屋が最初に見付けたコの字形の金具は、その取っ手であった。その戸の大きさからいって、下には小さな地下倉が設けられているようだった。

 鍵などは掛けられておらず、戸の金属板も薄かったが、錆び付いていて容易には開かなかった。把っ手が小さく、十分に力を込められないのが、もどかしかった。やがて金属板は、開くというよりはたわみ始め、その歪みに合わせて地面に隙間が開いた。郷田はそれを見逃さず、隙間にぐいと靴先を突っ込み、蹴り上げるように脚の筋肉を一息に収縮させた。すると、「ばん」と空気の撥ねる音がして、弾けるように戸は開いた。

 中は全くの暗黒で、ただ、嗅覚だけが、何か菌類の発する瘴気を、そして微かな酒精臭を感じていた。決して広くないその口からカンテラを突っ込むと、そこは予想通り半畳程の極小さな地下倉で、人独りが降りる程の余裕さえなく、地上から頭を突っ込み、手を伸ばすしかないようだった。底には密封された口の小さな甕が幾つも並んでおり、酒精臭はそれらから漏れているようだった。どうやら、元々はどぶろくか何かをここで作って貯蔵していたらしい。成程、だからこんな秘密めいた地下倉なのかと、蕗屋は納得する。酒を自家製造することは法で禁止されているし、まして山村では米は貴重だったからだ。それらの壺の上にはみっしりと蜘蛛の巣が張られていて、もう長らく人の手が触れていないのは確かだった。

 底にはそれらの甕しかないのは明らかだった。しかし倉の側面にはどうやら棚が設けられているようである。ぐるぐるとカンテラを回転させると、棚もほぼ一面蜘蛛の巣で覆われていて、置かれているものも、殆どが古惚けた工具や農具であった。しかし、棚の一隅に、比較的蜘蛛の巣が薄い箇所がある。地上の開口部からも近く、割合に手の届き易い処――それこそ、子供であっても。ぐいと手を突っ込むと、紙らしきものに触れたので、取り敢えずそれを引き出してみる。懐中電灯の灯りの下に曝すと、それは封筒で、こんな田舎でどう手に入れたものか、中には川田芳子のブロマイドが入っており、その裏には「余勢中学校一年二組甲田伸太郎」と書かれていた――不二夫と共に自殺した少年の名だ。さらに手を突っ込むと、今度は袋が出てきて、その中には色取り取りのガラス玉や美しい天然の石、それに古銭が収められていた。どうやらここが、不二夫達の世代の子供たちに、特に大事にしている宝物の隠し場所として使われていたのは間違いないらしい。いよいよ確信を高めた蕗屋は、更に大胆に手を突っ込んで、当たるに任せて弄った。

 そして遂に、ずっしりとした直方体の物体に行き当たった。何かに覆われた、平べったい直方体。引き出してみると、それは油紙に包まれた何かだった。

「蕗屋君、それは――」ずっと傍らで地下倉を照らしていた郷田が、思わず蕗屋の横にしゃがみ込む。それ程に、油紙を通して浮かび上がるその輪郭は、明らかだった。漸く、見付けたのだ――不二夫の宝物、或いは黒焦げの本。膨れ上がる期待に駆られながら、しかし逸る気持ちを抑え、慎重に油紙を解いていく。その中からは、確かに黒いすすまみれの表紙が姿を現した。紘造の話しでは、金装の題字が読めたとの話しだったが、一度は不二夫が綺麗にしたのかもしれないけれども、炭化した部分が今も少しずつ崩れているようで、全体が真っ黒で表題がまるで見えない。題を確認する為、油紙をすっかり剥いで取り出そうとすると、意外なことに蕗屋は気付いた。本は一冊ではなく、三冊もあったのだ。少し訝りつつも、何か同種の本を他にも不二夫は入手していたのだろうかと、深く考えずに蕗屋は三冊の本を横に並べた。そして一冊一冊、その表紙の黒い煤を拭うと、思っていたよりも、すっきりとした活字で印された表題が次々と顕れていった。それは紛れもなくアルファベットで書かれていた。

「よし、洋書だ!」蕗屋は思わず口に出していた。全てが、報われたような気がした。この時、確かに蕗屋は、自分が、目的のものに到達したと思った。カンテラを翳して、全ての表題を一望の下に置く。

 暗闇の中、本の表題が一斉に浮かび上がった。『L'Origine de la famille, de la propriété privée et de l'État』、『La Conception matérialiste de l'histoire』、そして『Le Capital』。

 違う、羅典ラテン語ではない――蕗屋は一気に失望へと叩き落された。驚くべきことに、それらは全て仏蘭西フランス語であった。『Dialogus cum Diabolo(悪魔との対話)』という題を仏蘭西語にしたものでもない。「Dialogus(対話)」という単語も、「Diabolus(悪魔)」という単語も一切それらには含まれていなかった。三冊とも確かに古い洋書ではあったが、どれもこれも全く別の本だった。念の為、蕗屋は表紙裏の奥付を見る。その発行年を見て、蕗屋は愕然とした。一八八四年、一八九七年、一八六七年、――それらは全て十九世紀の本だった。全く、違う。

 違う、違う、違う――。

 中世の忌むべき異端の書が、亜剌比亜アラビアの狂える哲学者が狂気の果てに達した真実の書が、ここにはあるはずだった。あれ程に探し求めていたものが、そして遂に探し当てたと確信していたものが、ここにはある筈だったのだ。しかし、結局は無かった。真実を追い求め、知恵を駆使し、京都では危険な目さえも乗り越えて辿り着いた先は、何の関係もない、訳の分からない仏蘭西語の本であった。不二夫がどこからか見つけたという「宝物」とは、とても大事にしていた本とは、これらなのか? 『悪魔との対話』は、あのノオトは何だったのか? これまでの自分の努力は全くの無駄だったのか? 途轍もない失望と徒労感とがどっと押し寄せ、それだけで、蕗屋を打ちのめすのに十分だった。そして、探し求めるものとは全く違うものが出てきたことが、ただ、蕗屋を打ちのめすだけでなく、彼を混乱の底に突き落とした。一体、何処どこで間違ってしまったのだろう? 一体、何故、こんなことになってしまったのだろう? そして結局の処、ずっと探し求めている「本」は一体何処どこにあるのか? 何故、何故、何故――何処、何処、何処? 蕗屋にはもう、何が何なのか分からなくなりつつあった。落胆を通り越して、錯乱したように狭い地下倉の中に上半身を突っ込む。そして、蜘蛛の巣が濃かろうが薄かろうが構わず、手を突っ込み、他に本らしきものが無いか探したが、遂にその三冊以外見付けることはできなかった。蕗屋の失望は頂点へと募っていった。

 一方、渡された三冊の本を手にしたまま、郷田もまた、困惑していた。蕗屋が地下倉の中に頭を突っ込んで、何をしようとしているのか把握できなかったからだ。とはいえ、「違う、違う」「これは仏蘭西語だ」などと連呼している蕗屋の言葉や表情から、この手にしている三冊が、求めている「本」でないことだけは確かなのだろうと思った。仏蘭西語も羅典語も全く理解できない郷田には、よく分からなかったが。ただ、不思議なことに、知らない筈の仏蘭西語で書かれているにも拘わらず、手にしている本の表題には、何となく引っ掛かるものを感じた――勿論もちろん、彼には読めないのだが。

 しかしこの、無残を極めた蕗屋の混乱も、思いがけない女の悲鳴によって取り敢えず掻き消されるのだった。

 

                                  (続く)

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