第六話
六、比頭郡葛瀬村
宮瀬弓子は、停車場の脇に立って、目の前の曲線線路を眺めていた。これは余勢駅から視界の及ぶ処、一
――美しい。霧雨を受けて音もなく揺れている白い花々は、うっすらと濡れて
弓子はふと、自分自身のことを想起してみる――じゃあ自分は、一体何なのだろう? この日の弓子は、女学校のもう一つの制服であるセーラー服を着用していた。地質は紺サージで、衿と袖口に白線三本が縫いつけられている。胸元には目が覚めるような赤いスカーフをし、髪には蝶を
けれども、皮肉にも体が壮健になった頃から、そうはならないことを散々に思い知らされるようになった。思うように体を動かし、活動出来るようになった頃、自分がそうしたいと望むことは
弓子は再び、正面の花に目を移す。今、自分の視線に曝されているこの花は、どんな思いで見られているのだろう? 人に操られ、
「ムラニイヘンアリシキウモドラレタシミナカンケイス」宮瀬桂子がこの電報を蕗屋清一郎に送ったのは、蕗屋が雲ケ畑に行った二日後のことであった。そう、葛瀬村には
村の境界に入ると、その怒声を発している者の全てではないにせよ、幾人かの正体が蕗屋にも分かってくる。あちこちから、「あっちだ、あっちだ」などと叫びながら、つい今し方まで農作業をしていたのであろう、汚れた野良着を着た男達が数名ばらばらと尋常ならぬ
「あまりじろじろ見ちゃ駄目よ、御兄さん」
「ありゃ、一体、何なんだい?」もう
村の社「弥栄神社」の辺りに差し掛かって、遂に騒ぎの核心を蕗屋は知ることになる。叩き出せ――締め上げろ――
蕗屋は、その野良着姿の男達の異常な騒ぎ様から、集団ヒステリィに駆られた無秩序な群衆かと思ったが、そうではなかった。彼らは皆一点に顔を向け、どうも何かを取り巻いているらしい。その激高には一定のリズムがあって、ある切っ掛けで湧き上がるようだった。その視線の先にあるものは、村道からこれを眺めている蕗屋にはそう簡単に見通せなかったが、たまたまこの狂躁から抜け出る者があったので、彼が抜けた隙間から垣間見ることができた。群衆の視線の先には、以前、桂子が「斎藤」と呼んだ在郷軍人服を着込んだ壮年の大柄な男と、その横ですっかり青褪めてがたがたと震えている行商らしい男がいた。そしてその二人の付近には、やはり在郷服を着た別の男二人と、軍服代わりのつもりだろうか、中学の時に着ていたとおぼしい詰襟の学生服を着て、足にゲードルを巻いた男数人が居並んでいる。中央の在郷服の男が何か煽ると、他の在郷服と学生服が唱和し、それに合わせて野良着の男達が沸騰するのである。化けの皮を剥げ――吊るせ――殺せ、云々。彼らは、哀れな行商らしい男に向かって、こうした聞くに堪えない言葉の数々を憎しみのままに浴びせているのである。何という恐ろしいことであろうか――
「一体……あれは一体、何なんだい?」
「駄目、大きな声を出しては。……きっと、行商の人か誰かに
そう云うと、弓子はぎゅっと蕗屋の手を握った。そして、そのままぐいぐいと蕗屋を引っ張っていった。弓子の柔らかな温もりが掌に直接感じられて、既に拍動を速めていた蕗屋の心臓が、一段と高まった。とはいえ
宮瀬紘造は、僅か数日会わなかっただけで、驚く程に打ち解けた様子になっていた。夕餉の時などは、媚びるような笑いを浮かべて、紘造自ら
料理を食べ終え、執拗に紘造が勧める酒をちびりちびりと舐めていると、遂に桂子が口を開いた。
「見たでしょう? あの馬鹿げた人達を……」
「馬鹿げた人達……」
「見た
「ああ……。祠の処に集まっていた男たちですね。彼らは一体、何者なんです? 一応、村の男達のようには見えましたが……」この蕗屋の問いには、紘造が答えた。
「村の若い男達だよ。馬鹿みたいに煽られて、頭に血が上って、すっかり、いかれちまってるがね。村が危ないだの、村が狙われてるだの騒いで、それで、不審な余所者を追い払って、自分達で村を守るんだって云って……あれで自警団なんだそうだ。私にはどう見ても、彼らこそが村を必要以上に騒がしているようにしか思えないがね」
「……でも、警察は?」
「駐在は、街の方で連続して起こっている持凶器強盗事件の広域捜査に駆り出されて、この処、ずっと留守だ。村人達の中にも「警察には従わないと」っていう者が多いから、早く帰ってきて欲しいんだが……。警察の上層なんて、こんな田舎の村のこと、怪我人の一人や二人出ようが知らんぷりなのさ。はっきりした殺人でも起こればさすがに別だろうが……」
「……でも、何故急に、そんなことに?」
桂子が、その名を出すのも嫌とばかりに、身を震わせて云った。「斎藤勇って男の所為よ……。ほら、この間、私と清一郎さんに云い掛かりを付けてきたでしょう? 在郷服を着た、粗暴な……」
「ああ……。やっぱりあの男か……」
「桂子の云う通りだ。あの男、先の世界大戦争の時に徴兵で
「子供達を守る?」
「……清一郎君、村の子供達が、その……不二夫と共に集団自殺をしたのは、君の知っている通りだが、その後、君が京都に帰ってから、それとは別の子供達が二人、失踪したのだよ……」
――紘造によると、久米幡江と熊城藤枝という二人の少女が、一週間程前から立て続けに失踪したとのことであった。幡江は十三歳で、三月一七日に農作業を手伝った後、檜の巨木の辺りで友人達と菓子を持ち寄り、御喋りを楽しんでいたが、友人達が家に帰った午後四時頃以降、姿が見えなくなったという。その夜には騒ぎになり、両親は友人達の家々に当たったが、幡江は発見されなかった。村の者が総出で探したが、村内では見付からず、翌日、村の若い男達による山狩りが始まることになる。ところが、この山狩りの最中、もう一人の少女が失踪した。それが尋常小学校を今年卒業する熊城藤枝で、一八日午前十一時頃、母親から「山狩り中の兄に弁当を渡してきて」と用事を頼まれ、自宅を出たまま行方が分からなくなったのだ。母親からの報せで、山狩りを行っていた兄を始めとする若者達が大急ぎで引き返してきて、再び村内隈なく捜索が行われた。しかし結局、村の男達の懸命の努力にも拘らず、少女らは二人共見つからなかった。そして何人かの住人から、「最近、不審な余所者を見た」との証言も出たことで、村はいよいよ騒然としていったのである……。
まさかそんなことになっていたとは――蕗屋は驚愕する。つい先日、四人の子供が自殺し、その真相も分からず、周りの者達の傷も全く癒えていないというのに、今また、二人の子供が失踪するなんて、一体本当に、何という事態なのだろう! 一体本当に、何がこの村で起こっているのだろう! しかも、失踪した内の一人、藤枝とは、熊城卓次の妹で、弓子と仲が良いのではなかったか? とすれば、「山狩り中の兄」とは「タクちゃん」のことか? そう思って弓子の顔を見ると、やはり紘造の話しから藤枝のことを思い出して悲しみを新たにしたのか、顔を伏せて肩を震わせていた。その弓子の
「あの人達はね、私達の家も疑っているのよ……。不二夫だけが助かったものだから、他の、一緒に自殺した子達の親や兄弟が、色々あらぬことを云って……」
「うちの家は関係ないさ! 大体、うちは、助かったっていっても、不二夫はあんなことになってしまってるんだぞ! 私達だって充分に傷付いているんだ……何でそんな……。他の子供達の失踪になんて関わるはずがない! 本当に何故こんなことになってしまったのか……」
紘造の目が赤くなっていた。先日は強がり、人を寄せ付けぬような、見えぬ心の壁を造っていた紘造が、今や蕗屋の膝に手を当て、ぐっと何かに堪えて
ところで、この専ら紘造一人が酔い潰れていく酒宴の最中、蕗屋は何度か、屋根瓦や雨戸がバラバラと叩かれる音を耳にした。それは極軽い音なので、それ自体は恐ろしいものではなかったが、そこに込められた底意地の悪い嫌らしさが蕗屋を震えさせた。宮瀬家の者は誰も何も――恐らくは敢えて――云わなかったが、それらが石
この夜、蕗屋は当初予定していた行動を取るのを諦めた。
翌早朝、母屋にまだ人の動く気配がないのを見定め、酔い潰れた紘造は勿論、桂子や弓子もまだ起き出さない内に、蕗屋は離れを後にして宮瀬邸から抜け出した。この処、昼間は大層暖かいとはいえ、この時間帯の空気はまだまだ冷たい。
前夜の雨に濡れた石で、幾度か足を滑らせて危ない思いもしたが、蕗屋はなんとか麓に到達した。ここまで来ると、もはや山間の隘路ではない。空もその碧さを増し始め、まだ標識の文字などはよく見えなかったが、最早懐中電灯は要らず、足元を気にする必要もなかった。どこかの木の上で、恐らくは南の方から渡ってきたばかりの
郷田三郎は、よれよれの寝巻きに逆立った髪の毛のまま、目尻にはうっすらと涙ともその残滓ともつかないものを浮かべ、顔をくしゃくしゃにして蕗屋に文句を云った。
「もう、何やねん……昨日、来おへんと思ったら、こんな朝早ように……」
「すみません。思った以上に事態が深刻で……。村で、今度は少女が二人失踪したそうです。電報にあった「ムラニイヘンアリ」とは、そのことだったんです。それで、自警団が結成されたのだそうです」
蕗屋は、時間を惜しんで早口で捲し立てた。ただ、ここまで急いで来た為に息も切れていたので、寝惚け頭の相手にはよく聞き取れないようであった。
「じけ……何? ちょっと待ってくれへんか……こっちはまだ頭が回ってへんねん。そもそも、昨日の夜に会おうゆう話しやったやないか。せやのに、昨日は来んで、それはええけど、まさかこないに早朝に……」
頭が回っていないのは確からしく、郷田は頭をぼりぼり掻きながら、同じ文句を繰り返し口にしていた。それは腹を立てているからというよりも、それしか頭に思い浮かばないから、取り敢えずそれを口にしているといった風だった。つい先程まで自分が眠りに落ちていた布団の上にぺたりと座り込んでいて、漸く動き出したと思ったら、どうやら肌蹴た寝巻きが寒いらしく、掛け布団を頭からすっぽりと被って丸まってしまった。その傍に転がった空の徳利からは酒精の香りが漂って、蕗屋の鼻を
「すみません。昨夜は、家を抜け出られそうになかったので……」
「なんや、歓待され過ぎて、酒で足でも立たんようにでもなったか? 事態が解決したら、いつか大阪か京都で一緒に飲もうやないか。君の分くらい、俺が奢るわ」
「御言葉は有難いですけど、昨夜は違いますよ、そもそも僕はそんなに酒が飲めません。飲んでるのは郷田さんの方じゃないですか。それは兎も角として、大変なんです。どうも、村が変なことになっていて……」蕗屋は、改めて村の状況を語った。最初、欠伸をしながら聞いていた郷田だったが、暫くすると真顔となり、掛布団は相変わらず頭から被ったままだったが、昨夜煎れた茶の残りを急須から直接飲んだかと思うと、ぴしゃりと自分の頬を張った。
「あかんなぁ……。なかなか頭が回らん。君を待ち
郷田三郎もまた、愛宕群雲ケ畑での邂逅の後、
「そんな状態やったら、到底俺が乗り込めそうにないなぁ」
「ええ……僕でも動き廻るのが躊躇されるくらいですし……」
「そうか……。実はこっちもきな臭いんや。どうもこの余勢宿に、伊志田鉄郎も来ているようなんや」
「あの軍人が? やっぱり何か「本」の手掛かりを掴んで来たんでしょうか? それとも僕らの後を追って?」
「さぁな……。しかしまぁ、どちらにせよ同じようなもんやろう。飯屋で
「伊志田と、自警団を仕切っている斎藤って元軍人と関係あるんでしょうか?」
「分からん。兎に角、油断せん方がええ。……取り敢えず、村がそんな状態やったら、俺の方は暫く、この宿場や近隣の村々を回って聞き込みをすることにしよう。君の方も、くれぐれも気ぃつけて。自警団も危なそうやが、「本」に関わる人間を襲っているらしい奴がいることも忘れずに……」
村に近付けない郷田は、当面の間、近隣の町村の住人や、この辺りに出入りしている商人職人を相手に聞き込み、村の状況や、消息を絶った元中尉の行方を当たることとなった。一方の蕗屋は、村での「本」の捜索と、「本」を手にするに至った不二夫の行動を調べることとした。それくらいなら「自警団」に目を付けられることもなく、比較的宮瀬家の周辺だけで行えると思われたからだ。当面の打ち合わせを済ませると、以後の連絡は宮瀬家と「相模屋」の電話を使って行うことを確認して、蕗屋は急ぎ村へと帰るべく、ついさっき降りてきたばかりの山道の方へ向かった。
復路は、足元を懐中電灯で照らす必要もなかったので、その意味では楽であった。但し、そもそもが登り道であるので、蕗屋が急ごうと思う程には足が進まない。おまけに、朝食を食べずに早朝から動き廻っている為、ただでさえ運動不足の蕗屋の体はいよいよ勢いを失った。そんな自分に情けない思いがして、「これは自分の体力不足の所為ではない、何か食べ物を口にすることができれば、
宮瀬邸の生け垣門の前では、前夜の酔いも完全に醒めた様子の紘造が、一段せり上がった段上に登って、大勢の男達に向かって必死に訴え掛け、説明をしていた。
「いえ、ですから、昨日うちに来ましたのは、当方の甥でございます。決して、決して不審な者ではございませんから」
「だったらおめえ、その甥ってえのはどこにいやがんだ? ええ?
「いえ、ですから、多分、朝の散歩か何かに……」
「家のもんに黙って出あるってく奴が不審じゃあねえのかよ! んな奴をおめえらは、はいはいどうぞどうぞと村に入れてやがったのかよ? おいおいおい、みんな、どう思う? 北川さんよ、おめんとこのすみ子ちゃんは、ここんちの息子に唆されて……あんなことになっちまったんじゃねえのかよ?」
「そうだ、おめえらが、おめえらの息子がいなけりゃ、おれんちの娘は!」
「笹田さん、おめえんとこはどうなんだよ?」
先頭に立って、村人達を煽り立てているのは、やはり先日社の境内で見た、斎藤という在郷服の男であった。そしてその側にいる、別の在郷服の男二名と、詰襟の男数名と云う首謀者達の顔ぶれは、この間と全く同じであった。そして彼らを筆頭に、若い男達が殺気立ち、憤然としている。
蕗屋は後で知ることになるのだが、やはり前日に宮瀬邸に石礫を放っていた者達がいて、彼らは同時に宮瀬邸の様子を監視していたのだ。恐らくは離れの明かりからであろう、「宮瀬家に客が滞在しているらしい」との報告が、前夜の内に斎藤達になされていたのである。そして今朝になって、その客とは何者なのかを確認しに、大挙して押し掛けたのであった。実は紘造や桂子らにしてみれば、ここまでは予想の範囲内であった。自分達の家が監視下に置かれていることは、毎夜の如く飛んでくる石礫によって薄々気付いていたので、蕗屋を呼び寄せれば、そのことについて「自警団」に問われることは予測できた。その上で、蕗屋は実の甥であり、幼い頃には何度も村に遊びに来ていること、また、最近も村にやって来ていることなどをきちんと説明すれば、さしもの頭に血の登った若者達と
これを木立の隙間から遠目に見て、蕗屋は宮瀬邸に近付くのを逡巡した。無論、話しの細かな内容までが聞こえていた訳ではない。けれども、屋敷を取り囲む男達の異様な興奮の仕方に、紘造らがどのような立場に置かれているのかは容易に想像できた。そうであればこそ、自分は少し時間を置いて、自警団が去った後に戻った方が良いのではないかと蕗屋は思ったのだ。それは、自分の身を案じてのことではなく――無論、全くそれが無かった訳ではないが―― その方がこの怒れる男達を刺激せずに済むかと思ったからだ。
しかし間もなく、激昂した男達の一人が、紘造の横にいる桂子に掴みかからんばかりになったのを見て、蕗屋は意を決した。自分があらわれなくとも、この男達はもう十分過ぎる程に興奮している。それならば、出て行った方がいいのだろう、と。もし仮に、彼らを余計に興奮させることになってしまったとしても、その怒りの矛先は自分が引き受ければいいのだと。
恐怖に
皆、一様に怒りと逆流した血管の膨張によって、歪み切った顔をしていた。恐らく、蕗屋が本当に小さかった頃には、村祭などで、顔を合わせている者もいる筈なのだが、まるでそんな懐かしさは感じない。蕗屋と同世代の者も何人かいた。その中には、子供の頃に蕗屋と共に野山を駆け回った幼馴染がいてもおかしくはない筈だし、実際に何人かはどこか見覚えがあるような気もしなくはなかった。しかし、村に来なくなって十年程を経てすっかり大人になった蕗屋には、せいぜいそのような気がするという以上には分からなかったし、そもそも現下の緊迫した状況が、一つ一つの顔を十分に吟味する余裕を与えなかった。なにしろ皆、まるで見知らぬ野良犬でも見ているような目をしているのだ。何人かは、鋤や鍬といった農具や、
「おめえが、昨日ここに来たっつう余所もんか? そういやこないだも来てやがったな……」斎藤勇が怒れる男達の群れを分け除けて、ずいと蕗屋の前に出て来る。間近に見ると、この元軍人の恰幅の良さが、圧倒的なものとして迫った。
「僕は、余所者じゃありません。宮瀬家の先代、泰造の孫です」
「はぁ、泰造さんの孫だってか、どうだか! 泰造さんはとっくの昔におっ
「顔も似てねえようだがよ!」
誰かが醜い野次を入れると、男達が沸き立った。
「もう十年程も前になるから、見た目は変わってしまってると思いますけど、小さい時には、村によく来て、皆と一緒に遊んでました。ほら、あの辺りを駆けっこしたり」
「皆って云うがよ、んじゃあ、どこの誰と遊んでたっつうんだよ?」
「名前は……。今はここにいないけど、タクちゃん――熊城卓吉とか。他は……よく覚えてません。でも、皆、僕を「清ちゃん、清ちゃん」って。そう、僕は「蕗屋清一郎大将」で……」
「
「散歩に出たら、少し道に迷ってしまって……」
「こんな朝から散歩だと!」また、野次が飛ぶ。
「嘘じゃありませんよ、少し、山の方に行ってたんです。ほら、靴にも泥が……」
「山ん中隠れてよ、おめえ
「それによ、もしおめえがこの村の出だからってよ、この村の外で育ったんなら、もうそりゃ余所もんじゃねえか」また斎藤が、言葉を
「それを云うなら、あんただって長く村を空けてたんじゃないのか?」この反駁は効果的だと蕗屋は思った。軍を退役後、長らく村を空けて大阪で事業に失敗し、身を持ち崩して帰って来た男――御前も、もう余所者みたいなもんじゃないのか? 実際、これは堪えたようで、斎藤勇はそれまで嗜虐的に歪んでいた顔を強張らせて、息を飲む。しかし、それはひと時のことで、斎藤は寧ろこれまで以上に怒気を強め、既に紅潮し切っていた顔を更にどす黒いまでに膨れ上がらせて、激情のままの怒声を上げた。
「おめえ、俺を侮辱しやがんのか!」蕗屋がしまったと思った時にはもう遅かった。その激烈な怒りは、
それまでも十分に常軌を逸していた目は、更に吊り上っていった。男たちの鼻孔が広がり、肌に目に血管が浮き上がっていく。彼らの筋肉が隆起し、何人かが手にしている鋤や鍬、鶴嘴はぶるぶると震え始めていた。その内に、「村から叩き出せ」「いや締め上げろ」「吊るし上げろ」といった言葉が、一つ一つは小さかったが、そこにいる何人かの口から漏れ始める。そのぼそぼそとした呪詛の言葉は、蕗屋の鼓膜を細かく
「おい、
突然、頓狂な声が上がったのはその時だった。誰が発したのかも分からなかったが、比較的若そうではあった。ただいずれにせよ、その
「あすこだ、あすこ。誰か見知らぬ奴がいるぞ」
また、同じ声だった。今度は確かに、男達の注意が逸れた。皆、その誰かが促しているらしい方角に顔を向ける。蕗屋もそちらを振り返ってみた。山の斜面に桑畑が広がっている辺りであった。不審な者が、いたのか、いないのか。影が
「皆、取り敢えず桑畑に向かうぞ! こいつは後回しだ!」と、自分の役目を思い出したかのように、突然大音声を発したのは、先程まで困惑した様子を隠せなかった斎藤だった。元軍人らしい高らかな声で断固と、そして何度も呼号を掛ける。それに不満そうな者達もいた。はっきり異を口にする者もいた。それらは、取り分け宮瀬家に恨みを持つ者達かもしれなかった。けれども、首謀者達の誘導の下、大勢は既に桑畑の方へと意識を向けていた。斎藤の号令の下、ざっと在郷服と詰襟が桑畑へと向かう村道へと動き出す。野良着の男達も、聊か統制を乱しながらも、それに付いていった。蕗屋の前を通り過ぎる時に、陰惨な目を向けて、「おめえへの疑いが無くなった訳じゃねえからな」とわざわざ云う者もいた。それとは逆に、少し哀しげで同情的な目を向けてくる者もいた。そうした顔には見覚えがあるような気もしたが、結局の処、蕗屋にはよく分からなかった。一団の大方が過ぎ去り、とはいえまだその最後尾の者は近くにいたのだが、感極まり堪えきれなくなった様子で桂子が近付いて来て、泣きながら蕗屋の両肩をぎゅっと抱き締めた。そうして何度も何度もその頭を撫でた。宮瀬邸の生け垣門では、紘造が安堵に脱力した顔でぺたりとその場に座り伏し、その横にはいつの間にか弓子が立っていて、目に涙を一杯に溜めて、蕗屋をじっと見つめていた。その目を見返す蕗屋の耳に、「頑張ったね、頑張ったね」と呟く桂子の声が聞こえた。
昼食後、いつもの背嚢を背負った蕗屋は、弓子を誘って再び外に出た。朝のことがあったので、控えた方がいいと思わない訳ではなかったが、かといって家に閉じ籠っていては目的を果たせない。郷田が当面麓に張り付いている以上、村内での探索は蕗屋一人で行う必要があった。それでも弓子を連れ出すのは危険かと思いぎりぎりまで躊躇したが、彼女には今朝のことについても一言云っておきたかったし、またこれまでに知り得た情報を共有して、協力してもらいたいとも思っていた。そして何より、紘造や桂子のいない処で弓子と二人で話しがしたかった。幸い、当然のことと云えばそうなのだが、自警団の男達も一日中暇な訳ではないらしく、村は、とんとんからりと
蕗屋は、「どこへ行くの?」という弓子の問いには答えず、胸の隠しから、朝に麓からの帰りに山で摘んできた
「……さっきは本当に怖かった。そもそも、御兄さんが勝手なことをするからよ。その大阪の刑事さんだって、この辺りのことは全然知らないんでしょう? だったら、御兄さん一人で何ができるっていうの? この村に来たのは九年振りなのよ。……でも、そう考えると、よく一人で麓まで下りていけたわね」
「九年振りとは云え、子供の頃は何度も来ているからね。直ぐには思い出せなかったけど、この間、村に帰って来ただろ? そして今回。立て続けに二度も帰ってくれば、さすがにこの辺りのことも粗方思い出すさ」
「まぁ、さすが御兄さん、頭の出来が違うのね」
褒められたのだと取れば、悪い気はしなかった蕗屋だが、弓子の口調は少し拗ねているようで、皮肉とも取り得たから複雑だった。そして実際、この発言をして幾らも経たない内に、蕗屋は何とも情けない事態に陥ってしまう。二人で暫くぶらぶらと村道を歩いた後、やがて蕗屋はまごまごとし出し、少しばかり考え込むような顔をして立ち止まった。いつまでも蕗屋が動き出そうとしないので、弓子が怪訝そうにその顔を覗き込むと、蕗屋は意を決して、恥かしそうにしながら「元々は獣除けだったと思うんだけど……村の垣根はどこにあったかな?」と弓子に尋ねた。
「村の垣根って、北の山側の?」と問う弓子に対して、蕗屋は「たぶん、そう……かな」と曖昧に答えた。何とも要領を得ない答えだと蕗屋自身辟易したが、それ以上何とも答えようがない。弓子は、先程のやり取りもあったからばかりだから、
「どうして、北の垣根になんか行くの?」と訊く弓子に対して、蕗屋は直接その答えを口にしなかった。その代わりに、意外なことを語り出した。
「朝、僕は危険な目に遭っただろう? 正直な処、怖かったけれども、御蔭で、光明が見えたのさ」
「光明?」
それは村の北側の斜面に広がる、灌木の
それはかなり細かったし、昨日からの断続的な小雨の所為で濡れていたけれど、蕗屋に躊躇する様子はなかった。弓子は手を伸ばして蕗屋に助けを求め、引っ張られるようにして丸太を渡る。小屋の質素な戸板は、引きさえすれば開いた。中の造りも質素で、建材の板や木材、果ては天然の木の枝までが、そのまま剥き出しになっている。但し地面には厚く
弓子が見た処、小屋に入って以来、蕗屋はうっとりしたような顔をしている。そして、実に愛おしそうに、その木箱の中を覗き込んだ。中には、古惚けてすっかり錆び付いたブリキ缶と薄汚い小さな木箱が幾つか転がっていたが、しかしそれだけで、他には何も無かった。弓子には、それらはガラクタにしか見えなかったし、そもそも何故こんな処に来たのであろうと、不思議だった。
「……もう、使われてないんだな」
「……使う?」
「そう。ただのガラクタに見えるだろう? でも違うんだ。色々と決まりがあってね……例えば、このホシタカ印の薬箱は……」
蕗屋はそう云いながら小さな木箱をひっくり返すが、幾らか腐食したそれは当然空っぽであって、何かが出て来る筈もない。
「さすがに、何も無いか……。こっちの、乳果カルケットの缶は、うわっ、泥水だらけだな」泥水の入った缶を置いて、蕗屋は別の缶を手に取った。
「あっ、こっちはまだ何枚か残っているよ。いつ入れられたものだろう? ほら」
蕗屋が差し出したのは、外気や
「ここは、僕が子供の頃、みんなと一緒によく遊びに来ていた処なんだ。弓子ちゃんの代には使ってなかったのかな? ああ、そうか、君は子供の頃、外で殆ど遊んだことがないから、使われてたかどうかも分からないか……。ここは、僕たちの、云わば秘密基地だったんだ。そしてこの箱や缶は、仲間内の郵便箱みたいなものなのさ。あのホシタカ印の薬箱は、普通の伝言用。何か皆に伝えたいことがあれば、あれに伝言を書いた紙を入れておくと、ここを知っている友達皆がそれを見て知ることができる。乳果カルケットの缶は、宝物を入れておく為のものさ。宝物っていっても、
「今朝、「不審者がいる」って、誰か云っただろう? あれは……もしかすると本当に怪しげな人間がいたのかもしれないけれども、でも、あれはきっと、僕を助ける為だったんだ。だって余りにも間が
「「懐かしい友へ」とでも書いときゃいいんじゃねえのか?」
いつの間にか戸口に、黒々と日に焼けた精悍な若い男が立っていた。今は野良着を着ていたが、今朝は確かに詰襟を着て、斎藤の横に立っていた男だった。
「君は……やっぱり、今朝は君が助けてくれたんだね?」
「清ちゃん、蕗屋清一郎大将――まさかあんな状況でそんな懐かしい言葉を聞くとはな。本当に久しぶりだ……。俺の名前を覚えちゃいねえんだろう? まったくひでえ話しだ。と、いうより、あの頃はせいぜい下の名前か渾名ばっかりで、名字や本名なんて名乗っちゃいなかったかな? 俺は又野。又野重郎だ」
「重郎……シゲちゃんか!」
「そう、よく思い出したじゃねえか。本当に懐かしい……」そう云うと、又野は蕗屋の手をぎゅっと握り、力強く云った。「……おかえり、清ちゃん!」
「御兄さんが云っていたお友達って、又野さんのことだったのね……」
「そう、そうだったんだ。もう九年も経っていたからね、すっかり大きくなってるから、顔を見ても分からなかったよ!」
「清ちゃんだって、すっかり大きくなったじゃねえか。いや、清ちゃんと呼ぶより、蕗屋大将の方がいいかな?」
「止してくれ。いやでも、シゲちゃん、あんなに小ちゃかったから……。僕よりずっと小さくて、細くてガリガリで……」
「そう。だから大将のおめえとは違って、俺はいつも足軽や二等兵だったのさ」
二人が旧交を温めている内に、更に二人の旧友が秘密基地に駆け付けた。二人共、
幼い頃の仲を取り戻した三人に対して、蕗屋は改めて協力を要請した――不二夫の行動を調べて欲しい、自分一人では、しかもこの状況では、到底無理だから、いろんな村人達に聞いてみて欲しい、最近の行動じゃない、三年くらい前の行動なんだ、その頃、不二夫の行動や様子に、何か変なことが無かったかどうか、何かを見付けたり、隠したりしていないかどうか……。三年前とは、丁度、不二夫が
十年振りの秘密基地にいることは、彼らをまるで童心に還らせる効果を持っていたようで、蕗屋の奇怪な提案にも、幼馴染達は真摯に頷いてくれた。勿論、皆、一連の事件を解決したいとの固い意志を覗かせもした。特に熊城にあっては、当然のことながらその思いは痛い程強く、細かな事情を説明できない蕗屋の方が申し訳なく思えた程だった。
「十年振りに、少年決死隊結成っつう訳だな」とは、又野重郎の弁。
「一寸、あたしは少年じゃないわよ。あんた達だって、もう少年なんて歳じゃないじゃない。特にタクちゃんなんかさ、そんなに大きくなっちまって」
「大きな御世話だっつうんだ」
童心に返った幼馴染達の口調は、それだけを取り出せば、まるで遊びの話しをしているかのように軽かったが、勿論それは表面的なことに過ぎなかった。積極的に取り組もうとしてくれる姿は力強くて、そこには自分への揺るぎない友情があると蕗屋には思えて、心強くなった。
「まぁでも兎に角、
「任せといてよ。北川家とか笹田家とか、女の子んとこもあたしが当たるわよ」
「よし……じゃあ俺はよ、俺んちだけじゃなくて、年の離れた連中にも聞いてみんべ。でえじょうぶ、おめえの名前は出さねえよ。弓子ちゃんの
幼馴染達は、それぞれに担当を決めて、情報を集めてくることを約束してくれた。そして三日後の昼過ぎに、また基地に集まることを約束して、この日は解散した。
一方、蕗屋と弓子は、もうその日から、村の至る処で「本」を探索し始めた。とはいえ、いくら狭い山村でも、一冊の本を見付け出すとなると、充分過ぎる程に広い。闇雲に探していたのではただ時間を浪費するだけで、効率が悪いこと極まりない。だから、探す場所を絞ることが重要であった。不二夫は早熟とはいえ中学生であったから、さすがに立ち寄る場所などはそれらしい処なのではと思われた。そこで、子供が出入りしそうな場所を重点的に探すことにしたが、それでも沢山の候補が挙がった。友人の家という可能性もあったが、何でも一人で溜め込みがちな不二夫の性格からすると、手元に置いておくか、少なくとも自分の意のままになる場所に置いていて、他人の家には預けないのではないかと弓子は主張した。そこで祠や一本杉周辺など、いかにもそれらしい処を
勿論、例の秘密基地も探った。現在、使われていないことから考えて、不二夫らの世代がそこを使っていたかどうか定かではなかったが。二人は、小屋の中にあるもの、即ち丸太切れと羊歯とを取り出し、次に剥き出しの地表や壁、天井、それに周りの地面まで、そこら中を探し回った。するとあらゆる処で、あらゆる虫が、この探索に追い立てられて逃げるように飛び出し、弓子は顔を
村人達の目を気にしながら、あちこちを探し廻るというのは、想像以上に難渋であった。時折、自警団に参加している男らとも遭遇して、陰惨な目で睨み付けられることや、非道な言葉を浴びせられることもあったが、幸いにしてそれ以上に危険な目に逢うことは無かった。とはいえ、罵倒の言葉や憎悪の籠った視線を向けられるだけでも神経は随分と
辺りが暗くなると、宮瀬邸に引き返して、今度は屋敷の中を探した。村人達の目を気にしなくていい分、気分的には楽ではあったが、こちらの方が、隠し場所足り得る処が多いという意味ではより困難であった。母屋の押し入れ、物置、天袋、地袋、それに
「本ねぇ……。あの子は、本は沢山持っていたから」
「普通の本ではないのです。西洋の言葉で書かれていて、恐らくはかなり古い本で……」
桂子は全く心当たりがない様子だった。ところが意外にも紘造に反応がある。確かに不二夫が宝物のようにしていた本があったと云うのだ。最初にそれを見たのは、やはり三年前のことであった。その時、不二夫は軽い風邪を引いて家で休んでいた。一方、紘造は桑畑の世話をしていた。急用を思い出した紘造が、電話を掛けようと慌てて屋敷に帰ってきた時、ふと、「調子は大丈夫なのだろうか?」と覗いた不二夫の部屋で、彼は何かの本をまるで宝物を見るかのように眺めていたと云う。ところがそれは、一体どこで拾ってきたものか、到底宝物とは云えない薄汚れた黒焦げの本で、何故そんな本をそんなに大事そうに扱うのかと不思議になったらしい。中身までは見えなかった。表紙には確かに横文字が書かれているようだったが、今時、装丁で横文字を使うのは必ずしも珍しくないから、その時は気にも留めなかった。兎に角、不二夫がやけに大事そうにしていたのが印象に残っていて、その後も何度か、彼がその本をとても大事そうに扱っていたのを覚えていた。あれが蕗屋の云う洋書だったのだろうか……
「間違いない、それです!」
「そんなに貴重な本なのかい? 不二夫も大切そうにしていたが……」
「ええ、まあ」
いくら貴重とはいえ、こんな時に、そんなに本が大事なのかと、紘造は少し気を悪くしたのだが、そんなことに御構いなしで、蕗屋と弓子は――顔にこそ、さすがにはっきりとは出さなかったが――喜んだ。これまで本当に雲を掴むようだった「本」の、漸くしっかりとした手懸かりを掴んだのだ。やはり「本」はこの家にあったのだ、紘造はそれを見ていたのだと、蕗屋は内心、雀躍したいくらいだった。しかし、紘造の知る限り、不二夫はそれを決して人には見せようとせず、紘造も
「ああ、
蕗屋は「ありがとう、伯父さん」と云って微笑んだが、直ぐに難しそうな顔になって、それ以上何も云わないまま、改めて準備をし直してせかせかと天井裏に潜り込んだ。その微笑みが納得の合図だと紘造は了解したが、弓子はその後の難しい顔の方が気になった。紘造と桂子が「早く寝なさいよ」と告げて奥座敷へ下がった後も、弓子はその難しい表情の意味を問おうと、蕗屋が降りてくるのを、首を長くして待った。
半時程して、顔を
「ああ。確かに伯父さんの記憶はとても有難い、貴重な情報だった、それは間違いない。ただ、伯父さんの云った「本」の様子がね、僕の期待する風じゃあなかったんだよ……大きさがね。古い欧羅巴の本には、一尺半以上もあるような、かなり大きな本もあるから、もしそうなら、ある程度隠せる場所も絞り込めるかと思ったのだけれども、どうもそうではないようだったから……。八寸くらいの大きさの本を隠せる場所となると、まだまだいくらでもありそうだよ」
そして弓子の予想通り、天井裏に「本」は無かったと蕗屋は云い添えた。
翌日も、蕗屋と弓子は太陽の高い間は村内のあちこちを廻り、日が陰ると、蕗屋が寝泊まりしている離れに、二つの土蔵、蚕室と機織場、更に納屋と肥屋まで見て廻った。埃塗れになりながら這いずり廻る二人の姿に、紘造と桂子も、どうやら彼らの探すものが、ただ貴重なだけの本ではないと察して、それが今の状況の中でどんな意味を持つのか、勿論それは気になったであろうが、敢えて聞こうともせずに二人に協力をし始めた。三日目には四人掛かりで邸内をひっくり返し、時には床板を外しさえもしたが、結局「本」は見付からなかった。
かくして約束の日、蕗屋と弓子は、何の収穫もないままに、ただ、仲間が何かを掴んでくれていることを期待して、秘密基地へ向かうことになったのである。しかし、蕗屋の幼馴染達も、似たり寄ったりの結果であった。蕗屋と弓子が三日に渡って「本」の探索に奔走している間、幼馴染達に加えて、彼らに云いくるめられた数人の村人達が不二夫の行動について訊き廻ってくれたが、何とも不確かな中傷や誹謗の類は沢山集まったけれども、具体的な行動についての目ぼしい情報は殆ど無かった。斎藤勇らの関心を必要以上に引かぬよう、控えめに行動しなければならなかったというのも、結果が芳しくなかった理由の一つだが、それ以上に、というよりも遥かに大きい最大の原因は、不二夫と仲の良かった子供達が、既に皆死んでいるという、改めて頭の重くなる陰惨な事実であった。取り立てて周囲と溝を作るという程ではないにしろ、宮瀬不二夫は、その才が明らかになるにつれ、交友する相手をごく限っていた。そしてその全員が、あの、二月一八日に、不二夫と行動を共にして死んでいるのである。
「辻川家にさしたる情報はねえ、潮見家にもねえ、狩尾家にもねえ……。期待に沿えなくて悪かったなぁ。こうなったら、なんとかもう少し協力してくれる者を増やすかぁ」
又野重郎は、御手上げというおどけた仕草をしながらそう云った。けれども、それからどっしりと腕を組んでしまって、誰の名前も挙がってこない処を見ると、言葉とは裏腹に、どうやら具体的な当てはないらしい。熊城卓次も同様で、ただ無言で困った顔をしているだけだった。恐らく二人共、できる限りの情報収集はしてくれたのだろう。特に熊城は、妹失踪の心労も
物憂い午後を過ごしながら、何と捕え難い事件だろう、と蕗屋は呆れながら考えた。村に戻ってきた時には、急に電気に打たれたような強烈さで、劇的に事件が展開した――かに見えたが、それっきり、全く何もない。目に見える動きというものが完全に無くなってしまったのだ。事件全体に、余人を寄せ付けまいとする悪意のようなものが付き
「ま、いいや」
「なぁ清ちゃん。おめえの云う通り協力してるけどよ、こんなことがほんとに、この村を救うことに役立つのか? なぁ清ちゃん。何か分かってることがあんなら、もう少し、手の内を知らせてくれてもいいんじゃねえか?」
蕗屋は、その問いを
「すまねぇすまねぇ、待たしちまったわね」と頓狂な声を上げて、野末秋子が約束の時間よりもかなり遅れて小屋へとやって来た。その背後には、肩越しに赤い夕日が射し始めていた。
「ほんと御免なさいね。おっかさんの手伝いをしてたらさ、えらく遅くなっちまって……とっとと結果の報告をさせてもらうわね」そう切り出した秋子の成果は、北川家にさしたる情報はない、笹田家にもない、久米家にもない、斎藤家周辺にもない……と、やはりないない尽くしで続く。それでも蕗屋は期待を込めて、その話しの続きをじっと聞き続ける。しかし、この二日間、秋子からある程度進捗状況を聞いていた又野は、新味の無い不毛な結果の列挙で始まった秋子の報告に、早くも結果を予見して失望した様子だった。弓子も、蕗屋程は期待を持たずに聞いていた。
「やっぱりさ、シゲちゃんとも云ってたんだけど、不二夫君とほんとに仲の良かった友達ってのがもういねえからさ……。結局よく分かんねえんだよ。分かったことってばさ、兎に角、誰も、……少なくとも今、生きている人間の中にはよ、誰も不二夫君の細けえ事を知ってるもんがいねえってことなんだ……」辛抱強く、最後の最後まで聞いていた蕗屋も落胆した。
――やはり自力で「本」を見付け出すくらいしか、取り得る手はないのか。けれども、ここ三日に渡って、散々に村中を、そして宮瀬邸の屋根裏から床下までを探したではないか――一体、これ以上どこを? 秋子を待っていた所為もあって、日は最早陰り始めていた。何も成果も無く、次なる方策も見当たらなかったが、しかしこれ以上引き留める訳にもいかない気がした。失望したままに、蕗屋は取り敢えず三人に礼を云い、この場を終わらせようとする。その時――
「たださぁ……」と秋子がもう一度口を開いた。
「結局、不二夫君の細けえ事ぁ誰も分かんなかったんだけど、すみ子ちゃんのおっかさんがちぃとばかし
消えた子供――蕗屋は直ぐに熊城卓次の妹らを思い起こして、恐怖した。そんなに早くからこの村では子供の失踪が起こっていたのか?
ところが、そんな蕗屋の様子を見て、秋子がにやりと笑った。
「怖い顔して……
「――え?」
その後の秋子の説明を聞いて、「ああ、成程」と蕗屋は思った。
郷田からの返事は早かった。二日後の昼過ぎには、蕗屋を満足させる連絡が返ってきた。
「おった。見つかったぞ。子供の頃にいた時期と今で季節が一緒やったし、自警団の所為で、麓で足止めされてる奴が多かったから、案外に直ぐ見つかった。名前は小山田六郎といって、やっぱり、君の予想した通り、甲州街道沿いに仕事をしている、流しの鋳掛職人の子や。三年前の春休み、たまたま親が葛瀬村で仕事した時に、村をぶらぶらしていて、村の同年齢の子らと仲良くなったらしい。それから、親が余勢宿に留まって仕事をしている間は、ずっと葛瀬村の子供達と遊んでいたらしいわ……」
やはり――と、蕗屋は思った。「見ず知らず」というからには、どこかの親戚の子などではなく、行商の子なのだろうと、蕗屋は推測していたのだ。考えれば、
しかしともあれ、蕗屋はこの連絡に興奮していた。消えた不二夫の友人――それは、郷田からの電話を受け取るまでは、ただ、秋子が聞き込んだというだけの不確かなものであった。無論、秋子の言葉を疑っていた訳ではないが、見つかるかどうかも分からない存在だった。それが今や蕗屋の前に――いや、厳密には郷田の前に――現実の存在として姿を現したのである。不二夫の友人の中に生きている者がいることを感謝していた。――今度こそ、期待していいのだろうか? 何が、期待できるのだろうか?
「子供ってゆうのはやっぱり素直なもんやな。それとも、あの少年が特別真っ直ぐなんかもしれんが。実にあっけらかんと、寧ろ嬉しそうに、俺の聞き込みにも答えて、昔の友人らのことを実に懐かしそうに証言してくれたわ。今は尋常小学校を卒業して、親と同様、流しの鋳掛職人の見習いをしているらしいから、生活は結構苦しいやろうに、とてもそうは思えへん程利発そうやった。そういう処も、君の従弟と馬が合ったのかもしれん……」
「それで、「本」について、その少年は、何か云ってました?」
「細かいことは覚えてないみたいやったが、「宝物」については覚えていた」
「……「宝物」?」
「そう。君の従弟――とは勿論認識していなかったが、君から預かった写真を見て、間違いなく、その顔に見覚えがあると云っていた。君達の村の、その頃の子供達の中心人物だったそうだ。その子供が、大事にしていた処の、「宝物」さ。どこかから大事なものを見つけたらしくて、幾つかあったようだが、それらを、不二夫君は「宝物」と呼んでいたそうだ。その内、不二夫君が一番大事にしていたのは確かに本だったと云っていた」
それこそが間違いなく、目指す「本」なのだろう、『悪魔との対話』なのだろう――蕗屋は、意図せず、受話器を持つ手をぐっと握り締める。そして右の耳に意識を集中させて、更なる情報に期待した。ところが郷田の口上は、蕗屋の
「しかし、あの自警団の連中は何とかならんもんかな。公衆の往来を阻害して……村に入れへんと、小山田少年や他の行商人達も難儀してる」
「それで思い出したんですけど、郷田さん、今晩動けますか? 今晩なら、もしかしたら何とか村に入れるかもしれません」
「何とかなるのか?」
「これから根回しとかしないといけないので、一寸まだ断言はできませんが……多分、今晩なら」蕗屋が腹案を伝えると、郷田も了承した。
「それで、その不二夫君の「宝物」の隠し場所について、何か云ってませんでしたか?」
「あぁ、そうそう。すまん、話しが逸れて。小山田少年は、不二夫君からこう聞いていたそうだ――」
蕗屋は、今しがた郷田の口から発された言葉を、
遂に、遂に自分は手掛かりを掴んだのだ! 蕗屋の全身に、抑え難い興奮がぞくぞくと走った。いてもたってもいられなくなり、蕗屋は慌ただしく行動を開始する。先ず、自警団の一員でもある又野重郎と熊城卓次に会って話しをつけ、今晩の行動について協力を要請した。その首尾は上々で、二人が快諾してくれた為に、これでこの夜の手筈は充分に整ったように思われた。そして直ぐに宮瀬邸に戻り、「相模屋」に電話を掛けて改めて今晩のことを伝える。こうして懸案を片付けた上で、蕗屋は弓子を誘って、いよいよ本命の仕事を果たそうと、目的の場所を目指した。
「でも、あそこには何も無かったじゃない」慌てる蕗屋を追いながら、弓子が呆れたように疑問を投げ掛けた。そう、数日前に調べた時には、確かに何も無かった、しかし――兎に角、もう一度行ってみれば分かることだと蕗屋は思った。「基地に行けば分かる」――その言葉は、天啓のように蕗屋を突き動かしていた。それは、雷の如きであると蕗屋は思った。同時に、既に幾度にも渡って足を踏み入れているのに、弓子が云うように既に散々探し回ったのに、何故これまで何も気付かなかったのだろうと、己の愚鈍さを知らしめるものとして、その言葉は蕗屋を打った。蕗屋は、真っ直ぐに向かった。その勢いは、村の辻々に
秘密基地は、数日前に来た時と変わらなかった。いや、小屋の周りに福寿草や片栗の花が綻び、微かに香りを放っているのを考えると、確かに時は経っているのだ。蕗屋は息を切らせて、羊歯の上に膝を屈すると、憑りつかれたように羊歯の一葉一葉を注意深く捲り上げ始めた。後から悠々とやって来た弓子は、どこか冷ややかに地面を
一方、蕗屋の頭の中でも、違う、違うぞと、理屈ではなく、感覚的な部分が騒ぎ出した。それは、郷田からの連絡を受けた時から、脳の奥底の方で地虫のように
つい今しがたまで掘り返していた小屋の地表の上にぺたりと座り直すと、蕗屋はぢっと裂けた指先を見て考えを纏めた。呆れたように見詰める弓子の視線にも素知らぬ顔で、すっと立ち上がった蕗屋は、先程自分でひっくり返した、小屋の外に転がる木箱の方へ寄った。そしてごそごそと手を突っ込み、佐伯ドロップスの缶を取り出した。中には、僅か数日の間に、団子虫が入り込んでいた。云わばそこは彼らの家と化しつつあった訳だが、その新参の住人に構わず、蕗屋は中に収められていた紙を全て引き出した。「算術一八点」「地理二四点」といった答案が広げられる。
「そうか、違う、違うんだよ。郷田さんは「基地にある」なんて云ってないんだ。郷田さんが云ったのは、「基地に行けば分かる」――そしてそれは、宝物の
そう云うと、それまで上気して落ち着きのなかった蕗屋の顔が、ぴたりと静止した。その目は瞬きも忘れて凝固し、その視線の先は今拡げられたばかりの一枚の紙に注がれていた。一体どういうこと?――と、弓子は
――ゑんもみおゆらすかひをゆたへな
それは数日前に、蕗屋が「ひらがなの書き取り試験」と断じたものだった。
「……これが、御兄さんの探していたものなの?」
「……そうだよ」
弓子が冷やかに見つめる中、蕗屋はみるみると相好を崩していった。彼は、自分が追い求めていたものをついに発見して、湧き上がる笑みを抑えられなかった。
その夜、これまでずっと麓の余勢宿で待機していた郷田が、遂に葛瀬村へと足を踏み入れることとなった。蕗屋から、昼間に指示された通りの行動である。とはいえ、ただ所定の刻限に、村の南方の入り口へ来るようにと云われただけであるから、果たして大丈夫なのか、そこからどのように自警団の目を誤魔化すのだろうかという危惧が無くなりはしなかったが、具体的な
「待て、こら。どこに行こうってんだ?」と、背の高い野良着の男が残忍な目をして云うが、無論、大きな農具を突き付けられていては待つしかない。「……蕗屋清一郎の処だ」
男達は目配せして、思案顔を交わすと、最初、野良着の男が値踏みするようにじろじろと郷田を眺め回したが、もう一人の詰襟の男がそれを制した。
「すまねえが……もしかすると、大阪から来たっつう方かな?」
そうや、と答えると、
「話しぁ伺ってます。俺ぁ蕗屋の友人の又野重郎です。こっちぁ熊城卓次」と、笑みこそ浮かべはしないものの、態度ががらりと変わった。
「じゃあ、予定通り、タクちゃん、頼んだぞ。俺ぁここで引き続き夜番してっから」
「すまねぇな、又野。もし誰か来たら……」
「誰か来たら、タクちゃんは腹っ下しでもしたと云っておくさ。あ、勿論、もし本物の不審な奴が来やがったらこいつを鳴らして人呼ぶから、大丈夫」と、胸に吊り下げた呼子をいじくって、
「清ちゃんによろしくな」と快活に云うと、詰襟の男は天秤棒をぎゅっと握り直してその場に留まった。
一方、野良着の男は、
「ようこそ、葛瀬村へ。さあそんじゃあとっとと、清ちゃんち行くべ。誰かに見られでもしたら、七面倒くせえことになっちまう」
そう云って、郷田を先導した。この野卑な田舎男が、あの
初めて足を踏み入れる葛瀬村は、郷田にとっては殆ど、ただ、闇であった。都会で暮らす郷田からすれば、街灯も無く、家屋も
郷田に到来する村のもう一つの印象は、匂いであった。都会にはない、堆肥、草、川の水、藁、田畑、牛馬、そして目の前を歩く人間の匂いが、郷田の鼻腔に押し寄せた。人によっては懐かしさを感じるであろう、そうした馴染みのない匂いの数々が、郷田を不快に、というよりも不安にさせた。それは、まさに慣れていないが故のことなのか、それとも、何かこの村を覆っている危険なものをその奥に感じ取ってのことなのか、郷田には見当が付かなかった。
一軒の大きな屋敷に連れてこられた郷田は、その家の主がいるであろう母屋へは通されず、真っ直ぐに離れへと向かわされた。そこに蕗屋がいるのであろうことは、直ぐに察しが付いたし、実際、直ぐに蕗屋が顔を出した。
「ようこそ、郷田さん。予定通り、無事に来られて何よりです。どうぞ中へ」
瀟洒な洋間には、蕗屋と、郷田の知らない少女が一人いた。蕗屋の紹介で、郷田は簡単に自己紹介した。尤も、
宮瀬邸の離れでは、郷田と蕗屋、熊城と弓子の四人が、これから始まる「捜査会議」の参加者となった。
「本当はもう一人、野末秋子という女性が協力してくれているんですけど、今日は時間が遅いので……。どうぞ、そちらの応接椅子に座って下さい。今、この離れは僕だけが使ってますので遠慮なく……と云ったら、伯父さん伯母さんに怒られるかな。でも、どうぞ」
郷田は云われた通り、小さな丸
「郷田さん、暗い中、こんな山奥まで御足労頂いて有難うございます。今日は、元々は意見交換をして意思疎通を図る程度と考えていたんですが、郷田さんの御蔭で大きな進展がありましたよ。いや、本当に、もしかすると、色々な事件の解決まであと一歩なのではないかと……。いや、ですが、その話しは後でしましょう。直ぐに済みますから。わざわざ来てもらったのに済みませんが、本当に直ぐなのですよ。だから、その前に、そう、そちらの首尾はどうです?」
「こっちも一応収穫はあったで」
郷田は、蕗屋の話しが大いに気になったが、ここは取り敢えず蕗屋の進行に任せ、自分がこれまでの聞き込みで得られた情報を説明した。まず、川手妙子殺害事件のあった二月四日と、支倉喜平殺害事件のあった三月十五日の両日に関する、村人達の
「……だから、どれも決定的とはいえへんなぁ……」として郷田は話しを締め括った。蕗屋も、その郷田の締め括りに異論を唱えなかった。というのも、彼は自分の昼間の発見に大いに酔い
「まぁ俺の話しはこんな感じやな。今日まで、肝心のこの村に入れへんかったから、曖昧な伝聞情報ばっかりなんがどうもな……。ふむ、君の方がもっと凄い発見したみたいやな」
「分かります? ええ、まあね」
「じゃあ、こっちはもう収穫を全部話したんやから、そろそろそっちが手に入れてるもんも教えてくれや。それとも、残る二人から、何か話しがあるのかな?」
「いえ、二人には、今日は特に何も御話しすることはない筈です。……タクちゃん、そうだよね? よし。じゃあそろそろ、僕の方からいきますか」そう云うと蕗屋は先ず、今からする話しの前提として、熊城に「本」についての説明をした。葛瀬村で、そして大阪や京都で起こっている一連の奇怪な事態の背景にあると思われる「本」……。熊城は目を白黒させていたが、彼にはまた後日、改めてゆっくり説明するとして、今は先に進もうと蕗屋は思った。
「さぁそれで、今日僕はこれを発見したんですよ。いや、郷田さんの御蔭なんですけどね……」
そう云って蕗屋が卓子の上に拡げたのは、くしゃくしゃに皺の寄った、経年で茶色くなった紙切れだった。郷田と熊城は興味深そうにそれをしげしげと眺めた。一方の弓子はもうその文面を知っているらしく、敢えてよく見ようとはしなかったが、それでも難しい顔をして首を傾げ、じっと見下ろしていた。子供っぽい字で、大きく平仮名が書かれている。
「ゑんもみおゆらすかひをゆたへな?」熊城が口に出して云った。
「……この、出鱈目な子供の練習書きみたいなのが、これが、蕗屋君の探しとったもんなんか?」郷田は怪訝な顔をした。
「そうですよ。なあに、大したものじゃありません」そう云うと、蕗屋は自ら卓子に置いた紙を改めて手に取り、少し勿体ぶったように、頭の中で話しを組み立てながら語り始めた。
「
そう云うと蕗屋は、abcdef……のアルファベットを、途中で折り返すように二列に分けて自分の手帳に書き、卓子に乗せて皆に見せた。
abcdefghijklm
zyxwvutsrqpon
「西洋では、atbashとかazbyとか呼ばれる、簡単な暗号表記法があるんです。それで暗号を書く場合には、先ず、こんな風に、アルファベットの前半を普通の順番に、後半を逆の順番に書いて、それぞれ対応するように同数二列に並べます。そして、ある単語なり文章の字を、この二列を参照して、対応する字に置き替えて書くんです。つまり、「a」なら対応する「z」に、「z」なら対応する「a」に置き替えて書きます。「b」なら対応する「y」に、「y」なら対応する「b」にそれぞれ置き替えて書きます。同様に「c」と「x」、「d」と「w」、「e」と「v」をそれぞれ置き換えて書くんですよ。例えば、「baseball」なら――」蕗屋は、先程の二列の横に、次のように書き付けた。
本来の単語 baseball
atbash暗号 yzhvyzoo
「――こうなる。これが、atbash暗号です。これを、いろは歌でやったのが、不二夫君の暗号ですよ。わざわざいろは歌の書き取り試験の裏面に書いたのは、それ自体がヒントだったんですよ。先ず、いろは歌を、前半を普通の順番に、後半を逆の順番に、折り返すようにして二列に書きます。いろは歌だと一つ余りますが、それは他の字に置き換えないでそのままにするのでしょう。それから、「ん」もね。ほら、こんな風に二列に――」
いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむう
すせもひゑしみめゆきさあてえこふけまやくおのゐ
「この二列を参照して、それぞれ対応する字を置き換えていくんです。「い」と「す」、「ろ」と「せ」、「は」と「も」、「に」と「ひ」を置き換えるという風に。すると……」
そうして置き換えていくと、くしゃくしゃの紙切れに書かれた文字列から、確かに意味のある文章が浮かんでくるのであった。
いろはatbash暗号 ゑんもみおゆらすかひをゆたへな
本来の文章 ほんはとなりのいえにありふしを
あっ、と声を上げたのは弓子だった。
「――「本」は、隣の家にあり。不二夫」
「ええ、じゃあ今から行きましょう。云ったでしょう? 今日のここでの僕の話しは直ぐに済むって。ここでの会議は終わりです。今から一緒に、事件の鍵となる「本」を発見しに行こうじゃありませんか」
紘造が新たに建てた蚕室と機織場を除けば、隣家の敷地は全くの手つかずのまま放置されていた。元々人の住んでいた処であるから、勿論地形としては全体に平坦で、自然の山野とは異なっている筈なのだが、
「ここは……少なくとも僕が子供の時は、篠崎家という別の一族が住んでいたんです。だから、少なくとも十年程前までは、その家屋敷があった」
「しかし、今は何も無いやないか」
「ええ。篠崎家は特に絹生産の方に力を入れていたので、五年前の絹糸の大暴落の時に――篠崎家だけじゃあありませんが――家を傾かせて、村を出て行ったんです。その後、空き家となった家屋が出火して全焼したのを機に、宮瀬家が残った建物と敷地の全てを買い取り、更地にして、その区画の一部には、あの新しい蚕室と機織場を建てた訳ですが……」
「じゃあ、もし、「隣の家」に隠してあると云うのなら、その時に、不二夫君が云う処の「宝物」も、燃えてしまったんじゃあ……」
「いや、それはどうでしょう。弓子ちゃん、伯父さん達がこの辺りを買い取ったのは何年前だったか覚えているかい?」
「ええと……。私が高女一年の頃だから、四年前だと思うわ」
「それなら、不二夫君が「宝物」を手に入れた三年前には、既にこの辺りは更地だった筈です。それにも拘わらず、不二夫君が「隣の家に隠してある」と記したからには、きっと何か、その残りがある筈なんだ」
蕗屋達は、手分けして、荒涼と広がる半町程の更地を捜索した。蕗屋と郷田、熊城の三人は宮瀬家にあったカンテラを、弓子は蕗屋から渡された懐中電灯を手に、腰を屈めて草の中に分け入った。カンテラは取り回しにくく、蕗屋は苦労した。手を動かす
郷田は恐らく官服時代に似たような仕事を幾つも
「篠崎んちの敷地はよ、どの辺りまであったんだっけかな?」熊城が問うた。
「ええと、どこまでだったかな? 弓子ちゃん」
「あの、水路の端の処までがそうだわ」
「んじゃあ、皆でおんなじとこ探してても
蕗屋は、熊城の口振りに少し不快感を覚えた。確かに弓子は手を動かしていなかったが、それはダイモンの懐中電灯の高性能の所為で、その様子をちゃんと見れば、探していると分かるのに。その上、弓子が若い男と二人
「さあさあ、手が
その言葉に促されて、遠く、水路の方で揺れる灯りの軌跡を横目で追いながらも、蕗屋は仕事を再開した。けれども、どうにも二人のことが気になって、注意が散漫になる。そんな自分を愚かしく思い、じっと手元に集中し、草を分け進む。しかし、暫くするとまた、水路辺りの灯りを目で追っていた。変わり映えのしないそれを見てはまた草に分け入り、やがてまた目で追う。そんなことを暫く蕗屋は繰り返した。
そうして小一時間程も経った頃、地面近くに密生している蓬の葉を掻いていた蕗屋の指が、かつりと何かに引っ掛かった。蕗屋の指先にそれまでと違う感触がする。葉や土、虫などの柔らかいものではない。もう一度、同じように指を動かすと、確かに硬いものが触れる。蕗屋の目は、まだその正体を確認していなかったが、その大体の形状は指先から伝わった。引き続き慎重に、指先でその輪郭を確認していく。それは、明らかに自然界ではありえない直角で構成されていて、硬く冷たい。明らかに石ではなかった。大きさはせいぜい三寸くらいで、棒状のもので形成されているらしかった。それは指で引っ掛けると動くのだが、どうやら地面にぺたりと倒れているように思われた。手探りをしている内に、その棒状の部分に上手く指が引っ掛かり、思い切って引っ張ってみると、そろそろと立ち上がるのだった。
在った――蕗屋は勇躍して、カンテラの灯りを当てた。例によって上手く下まで灯りが届かないので、蕗屋は周りの背の高い草を引っこ抜いた。そうして改めてカンテラを向けると、地面にコの字形の金具が突っ立っているのが浮かび上がるのである。それこそ、先程まで彼の指が引っ掛かっていたものであった。急いで周りの下草も払うと、それらは簡単に根こそぎ除けられ、その短い根が土ごと取り払われた跡からは、不自然にすべすべとした地面が顕れるのだった。もちろんそれは、自然の地面ではなく、嘗ての篠崎家の名残であった。蕗屋は顔を起こし、周りを見回す。暗くてよくは分からないながらも、遠くに宮瀬邸の雨戸から漏れる光が見えた。振り返ると、水路の水面がきらきらとしている。次に蕗屋は目を閉じ、自分自身の記憶を懸命に思い出して、その中に己の身を置いた。宮瀬邸と水路の位置を、そして嘗て存在した篠崎邸の位置を思い浮かべる。幼い頃に、改装前の宮瀬邸二階の蚕室から眺めた周囲の景色、夏に水路で沢蟹釣りをした時の情景。ここらは、きっと、篠崎家の土蔵があった辺りではないだろうか? 地上のものは疾うに失われていたが、地下に構えられたものがまだ残っていたのではないか?
「郷田さん、これ」蕗屋は、近くで叢の中に潜っていた郷田を呼び寄せた。二つのカンテラでよくよく照らすと、蕗屋が掘り返した処からは、六十
鍵などは掛けられておらず、戸の金属板も薄かったが、錆び付いていて容易には開かなかった。把っ手が小さく、十分に力を込められないのが、もどかしかった。やがて金属板は、開くというよりは
中は全くの暗黒で、ただ、嗅覚だけが、何か菌類の発する瘴気を、そして微かな酒精臭を感じていた。決して広くないその口からカンテラを突っ込むと、そこは予想通り半畳程の極小さな地下倉で、人独りが降りる程の余裕さえなく、地上から頭を突っ込み、手を伸ばすしかないようだった。底には密封された口の小さな甕が幾つも並んでおり、酒精臭はそれらから漏れているようだった。どうやら、元々はどぶろくか何かをここで作って貯蔵していたらしい。成程、だからこんな秘密めいた地下倉なのかと、蕗屋は納得する。酒を自家製造することは法で禁止されているし、まして山村では米は貴重だったからだ。それらの壺の上にはみっしりと蜘蛛の巣が張られていて、もう長らく人の手が触れていないのは確かだった。
底にはそれらの甕しかないのは明らかだった。しかし倉の側面にはどうやら棚が設けられているようである。ぐるぐるとカンテラを回転させると、棚もほぼ一面蜘蛛の巣で覆われていて、置かれているものも、殆どが古惚けた工具や農具であった。しかし、棚の一隅に、比較的蜘蛛の巣が薄い箇所がある。地上の開口部からも近く、割合に手の届き易い処――それこそ、子供であっても。ぐいと手を突っ込むと、紙らしきものに触れたので、取り敢えずそれを引き出してみる。懐中電灯の灯りの下に曝すと、それは封筒で、こんな田舎でどう手に入れたものか、中には川田芳子のブロマイドが入っており、その裏には「余勢中学校一年二組甲田伸太郎」と書かれていた――不二夫と共に自殺した少年の名だ。さらに手を突っ込むと、今度は袋が出てきて、その中には色取り取りのガラス玉や美しい天然の石、それに古銭が収められていた。どうやらここが、不二夫達の世代の子供たちに、特に大事にしている宝物の隠し場所として使われていたのは間違いないらしい。いよいよ確信を高めた蕗屋は、更に大胆に手を突っ込んで、当たるに任せて弄った。
そして遂に、ずっしりとした直方体の物体に行き当たった。何かに覆われた、平べったい直方体。引き出してみると、それは油紙に包まれた何かだった。
「蕗屋君、それは――」ずっと傍らで地下倉を照らしていた郷田が、思わず蕗屋の横にしゃがみ込む。それ程に、油紙を通して浮かび上がるその輪郭は、明らかだった。漸く、見付けたのだ――不二夫の宝物、或いは黒焦げの本。膨れ上がる期待に駆られながら、しかし逸る気持ちを抑え、慎重に油紙を解いていく。その中からは、確かに黒い
「よし、洋書だ!」蕗屋は思わず口に出していた。全てが、報われたような気がした。この時、確かに蕗屋は、自分が、目的のものに到達したと思った。カンテラを翳して、全ての表題を一望の下に置く。
暗闇の中、本の表題が一斉に浮かび上がった。『L'Origine de la famille, de la propriété privée et de l'État』、『La Conception matérialiste de l'histoire』、そして『Le Capital』。
違う、
違う、違う、違う――。
中世の忌むべき異端の書が、
一方、渡された三冊の本を手にしたまま、郷田もまた、困惑していた。蕗屋が地下倉の中に頭を突っ込んで、何をしようとしているのか把握できなかったからだ。とはいえ、「違う、違う」「これは仏蘭西語だ」などと連呼している蕗屋の言葉や表情から、この手にしている三冊が、求めている「本」でないことだけは確かなのだろうと思った。仏蘭西語も羅典語も全く理解できない郷田には、よく分からなかったが。ただ、不思議なことに、知らない筈の仏蘭西語で書かれているにも拘わらず、手にしている本の表題には、何となく引っ掛かるものを感じた――
しかしこの、無残を極めた蕗屋の混乱も、思いがけない女の悲鳴によって取り敢えず掻き消されるのだった。
(続く)
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