第五話
五、京都
夜の北山はさすがに寒い。痛めた首筋が引き
「
「そもそもこの辺には人もいてへんし……でも
「気難しい御方なんですか?」
「……そんなことはあらしませんよ。別にそんないう程警戒心が強い方って訳でもあらへんのですよ。大体、もしそうやったら、こないに「はいはい」と人入れたりしませんわね。
「せやけど、年相応には頑固やわね。いつでも世話焼くと、いらん、やめろ、って、そればっかし。……でも、近くに身寄りもいたはらへんし、私が御世話するしかあらしませんやないですか」
先を行く中年の女中は、田舎の素朴な雰囲気を漂わせながら、見知らぬ郷田を相手に、たわいもないことをペちゃくちゃと話し続けた。恐らく、専門的にこうした仕事をしている訳ではなく、近郷の女性が手伝いに来ているのだろう。
板張りの廊下をかなり進んで、最後に行き着いたのは、一間二枚立ての襖の前だった。
「御客様を御通ししました」と、女中は大きな声で中に告げると、返事も待たずさっさとそれを開けてしまった。郷田は少し驚いたが、そんな郷田に小声で、
「御客様にこんなこと御願いするのも変なんですけど、何かあったら直ぐ私を呼んでおくれやす」と告げて、女はそそくさと下がった。
開いた襖の中に身を入れると、異様なくらいに暖かい。その八畳程の座敷は主屋から庭側に突き出た処に位置しているらしく、恐らくは東方と南方の二面が大きな
そして座敷の中央には、柔らかそうな綿蒲団が敷かれていて、そこに恐らくこの家の主人と思われる、破れた唐傘のような、或いは
郷田の視界の中で、老人の姿が近付いて大きくなる。更にその向こう側では、夜の暗がりの中で、自分が老人ににじり寄っていく像が見えた。それは
ここは、京都府
このように古来より朝廷縁故の地だが、
郷田が
ともあれ郷田は二日前に会う約束を取り付け、「できるだけ早く」と郷田自身が急かした為、山間の地にも拘わらず、夜間の訪問となったのである。雲ケ畑には、京都電灯株式会社系列が経営するバスが、京都市電北大路橋電停を起点として運行している。しかし、夜間
一九日午後五時に、郷田は大阪を出て国道一号線から京都に向かった。京都の市街地に入ってからは烏丸通りを進んでこれを縦断した。そうして大谷大学のある上総町から賀茂川沿いに車を走らせ、御薗橋東詰から上賀茂神社の前を通って大岩街道に入り、そこから概ね一直線に北上すればよかった。賀茂川上流に架かる高橋から先は、険阻な坂や
「やあ。君が、二日前に電話をくれた大阪の刑事さんだね……」
郷田は不安になった。この状態で彼に何ができるのだろうかと。自然と郷田は、「
しかし、郷田がそう聞くと、黒岩はそんな気遣いは無用とばかりに首を振り、ただ黙って、知的な好奇心に満ちた目を郷田に送った。体の疲弊など御構いなく、或いは訪問者の戸惑いなど全く気にもせず、ただ、知的な刺激が無いことこそが最大の苦痛とばかりに、それだけを一心に欲しがっているような目付きだった。その眼窩の落ち窪んだ瞳の底には、執念深い知性の輝きが、いまだ
「体を崩し給え。こんな山奥まで御苦労だったね。随分、時間がかかったろう」老人の声は変わらずか細いが、好奇心の高まりが
「御心配なく。自動車で参りましたから。あ、私のものではありませんよ。そんな高給取りではありません」郷田が少しおどけて云うと、老人は意外にもくすりと笑った。
「ここは……失礼ながら、かなり辺鄙な処だと思うのですが、何故このような処に御住まいで?」
「学究の為には、外のことに
別に、仕事上の争いに敗れた訳ではなかったのだ――世間の噂とは、やはり当てにならぬものだと郷田は思った。
「
「さっきの、ここまで私を案内してくれた女性ですか?」
「……うむ。身の回りの世話をしてもらっている。いや、つまらぬ詮索はよしてくれたまえよ、この老いさらばえた肉体でそんなことあるものかね。彼女にはできるだけ良くしてやりたいのだが……。肉親など、薄情なものさ。年に一度も顔を見せん」
「御子さん達ですか?」
「……そうだ。まぁ確かにここは鄙びた処ではあるが、それにしても、一向に顔も見せん」
「……来客は、余り無いのですか?」
「……そろそろ前置きはいいだろう。それとも、君は、わざわざこの老人とそんな世間話しをしに来たのかね? いや、私は、暇を持て余しているから、それでも構わんのだが……そうではないのだろう? 私に残された時間は短い。そろそろ、本題に入ろうか」
そう老人から云われて、郷田は少し云い淀む。実の処、ことここに至って、郷田の方で、どう老人に話を切り出せばいいのか、考えがまとまらなくなっていた。一体、この老人は何を知っているというのだろう? 自分は、何を聞き出せばいいのだろう? この老人は「本」とどう関わり、伊志田鉄郎とどう関わり、川手妙子とどう関わり、事件とどう関わっているのか? そして、この老人と話しをすることで、一体この先、何が出てきて、捜査はどうなるのか? 郷田の頭の中は、数限りない疑念が渦巻いていた。ぶつけたい質問は山程あった。しかし、どういう手順で質問していけばいいのか、
先ずは、老人と確実に関わりのある質問をぶつけてみようと、郷田は思った。
「……伊志田鉄郎という男から連絡があったか、或いはここで会いませんでしたか?」
そう告げると、黒岩の顔から笑みが消えた。目は一層細まり、頭の中で様々な想念が巡り始めたらしいことが分かる。今、持ち出された話題について、その含意を読み取ろうとしているようであり、どう答えようかと考えているようでもあった。老人は、郷田から視線を外し、一転して宙をぼんやりと見詰め、頭を片方に
「……果て?」とだけ口にした。
その言葉が、その口調が、その表情が意味する処が、郷田には理解できなかった。郷田の予想通り、老いた賢人は、完全に己を制御する術を心得ているようであった。郷田の問いに全くの無関心といった様子だったが、「否」とは答えていない処を見ると、郷田の質問や追及を拒否しているという具合でもなかった。老人の態度にも拒絶の意思表示や動揺した様子はない。寧ろ、曖昧な返答で次の質問を誘っているようでもあった。兎に角、老人の反応が、これまでの警察人生の中で行った聴取の中で見たことの無いものであったので、郷田はただ困惑した。やはり一筋縄でいかない――郷田は暫く、老人の真意が理解できず、攻め処が分からないまま質問を重ねた。
「伊志田は陸軍の軍人なのですが、御記憶はありませんか? そういえば、ご老人、軍歴は?」
「私は体が弱かったのでね」
「……軍とは関係なかったと?」
「軍に属したことはない」
「兎に角、伊志田という軍人が、貴男と会見しているか、少なくともそれを申し込んでいる筈なのです」
「ほう。そうですか……」
「この男です。顔を見たことはありませんか?」
郷田は、大川遊歩道での大立ち回りの後、手に入れた、伊志田鉄郎の写真を老人に見せた。しかし老人は何も云わず、表情も変えない。全く手応えが無かった。だからといって、やはり拒絶されている風ではなかった。郷田の質問が遮られたり、打ち切られたりすることもなかった。ただ、兎に角、のらりくらりとした応答が繰り返されるのだ。寧ろ老人の受け答えには余裕があり、顔にこそ何も出さないものの、郷田との駆け引きを楽しんでいるようにさえ思えた。老人は「残された時間は短い」と自ら云いつつ、のらりくらりとした応答に徹した。その矛盾が、郷田には気になった。老人は、自分の余命を気にしている筈なのだ。何か語ることがあるなら、急ぎ、焦って然るべき
郷田は、老人に質問する形を保ちつつも、自分の知っていることを思い付くままに口にした。川手妙子の事件について説明し、その妙子が生前に行っていた不可解な調査活動について説明した。そして、それを郷田が追っていく中で浮上した、レンブルクを巡る人脈についても説明した。それらは、老人の解答を期待してのものというよりも、寧ろ郷田のこれまでの捜査の成果を老人に報告するようなものであった。
そして最後に、持参した鞄からあるものを取り出し、老人に示した。
「――これを、御覧ください」
それは、郷田が見付けた、妙子の父庄太郎の、日々の覚え書きであった。川手家廃宅に眠っていた、膨大な記録の中に埋もれていたもので、郷田は、妙子が持って歩いていたという納入記録を見付けることはできなかったが、代わりにこれを見付けたのである。中は川手家の私的な歳時記といった風で、祭事や法事、町内との付き合いなど、家庭の行事のあれこれや、それにまつわる種々の思い出が書き付けられていた。そして欄外には、その日庄太郎が特に印象深かった事柄が、
郷田は、川手家廃宅に通うこと二週間にして、漸く川手家が異常に高額な「本」の取引を行っていたことを示す物証を見出だしたのである。
「私には当面、これしか見付けることはできませんでしたが、もっとよう調べれば、残された膨大な帳簿の中に、もっとはっきりした痕跡を見出だすこともできるでしょう。川手妙子はこれを追っていて、そしてその結果、恐らく事件に巻き込まれたんです……。この「本」とは、一体、何なんですか? 貴男は、それについて伊志田と何か接触を持った筈や」
郷田は、つい、語気を強めてしまったが、相手の健康状態を思い出して、直ぐに軽率なことをしたと後悔した。しかし、その語気の所為でもあるまいが、老人は初めてのしっかりとした反応を見せ始めていた。ふんふんと頷き、最後には満足そうに大きく頷いた。
「……
その言葉を合図として、先程郷田が入ってきて、今は
「紹介しよう……といっても、彼とも今日会ったばかりなんだがね。三高生の蕗屋清一郎君だ」
「……はじめまして。失礼ながら、廊下で話しを伺っていました。蕗屋清一郎と申します」
郷田は、ぽかんとしていた。事態の展開に、まるで付いていけなかったからだ。この学生が何者かといった疑問以上に、ここでこんな学生に引き合わされる意味自体がまるで理解できなかった。何故この学生が自分達の話しを聞いていたのかも理解できなかった。だから、兎に角唖然として、困惑だけを感じていたのである。ただ、怪我でもしているのであろうか、学生の頭に幾重にも巻かれた白い包帯が郷田の目を引いた。
しかし、郷田の困惑はやがてあっさりと解消することになる。
老人が、「もっとこちらへ入ってきたまえ」と促したので、包帯を巻いた学生は、座敷に膝を突きながら、老人の横たわる寝床へと近付いた。郷田のいる側とは反対へと擦り寄ったので、丁度老人の寝床を挟んで郷田と蕗屋とは相対する形に向かいあった。そして老人は、震える右手で、先程郷田が示した写真を摘み上げると、それを左側に座っている蕗屋の前に翳した。
「蕗屋君、この男に見覚えはないかね?」
蕗屋は、たった一枚の写真でさえ老人の負担になると云わんばかりに、直ぐさま、しかし
「見覚えがあるのかね?」
「あ……はい。確かに、どこかで見ました。ええと……」
老人は、その方が良い結果が出ると確信しているかのように、青年を急かすことなく、その記憶が蘇るのを見守った。一方郷田は、いまだ事態の全貌が飲み込めず、阿呆のように口を開けていたが、それでも朧げにこの先の展開を予想し始めていたので、視線は、突然あらわれたこの若い男に注がざるを得なかった。四つの目に曝されながら、ううん、と
「寺町通り――
老人は、満足そうににやりと笑った。
一体、どういうことなんだ?――郷田は、自らも殆ど意識せぬままに、学生の方に右手を伸ばしていた。学生は、郷田自身でさえ必ずしも自覚していないその意図を汲み取って、写真をその手に握らせる。引き寄せて、改めて確認したその写真は、勿論、先程老人に示した、伊志田鉄郎を写したものだった。この学生は、伊志田を知っている――それは、自分にとってどういう意味になる? 未だ郷田は状況が把握できない。
「郷田刑事、この学生は、君が云う処の「本」を探しているのだよ。そして、その伊志田と云う軍人もまた、同じ「本」を探している。君の推察の通り、一連の事件の中心には、恐らくその「本」がある……。君は大変良く調べているが、肝心の「本」については、こちらの学生さんの方が上だ。まぁ、話しを聞いてみようじゃないか――」
蕗屋は、携えていた背嚢から、彼の甥が残したという焼け焦げたノオトを引っ張り出し、それを見せながら、郷田の全く知らない、そして全く予期もしていなかった話しを始めた。「本」を巡って起きている別の一群の事件――というよりも、郷田がこれまで懸命に捜査をしてきた事件の、もう一つの側面と云うべきか。田舎の少年達の集団自殺――襲われた蒐集家――そして、それらの中心に見え隠れする、「本」。
「……その本の名は、『悪魔との対話』、またの名を『絶望の書』と云います……」
郷田はここで初めて、「本」の題を知った。
「では、何故、君はこちらに?」
「先程云った蒐集家、支倉喜平が、襲われる前に僕に教えてくれたのです。京都帝大の元教授に、
次に語るのは、老人の番であった。老人は、細い体をこれまで以上に起こしたので、その為掛け布団が
「――先程、郷田刑事に軍と関係はないかと問われ、私は「軍籍はない」と答えたね。それは嘘ではない。しかし、関係が無い訳ではない。というよりも、関係は大有りなのだよ……」
弱った体で出来る限り多く語ろうとでもいうように、少ない息の量で出来るだけ長く語ろうとでもいうように、老人は細く細く息を吹き出し、小さく小さく声帯を震わせて語った。それは注意しないと聞き逃しそうな声量であったが、しかし一つ一つの発音は明瞭だった。
「……私は、三高や帝大で亜剌比亜史の専門家であったが――いや、無論、今でもそのつもりだが、何故、「東洋史」と云う専門分野があるか知っているかね? 東京帝大の白鳥先生が満鉄の満鮮歴史地理調査部の研究長を務めたことや、昨年陸軍省が『蒙古大事典』を刊行したことからも分かるように、東洋史には、対
――黒岩は、口に出してその時のことを回想する。それは、今から三十一年前、明治三十六年の十月某日のことであった。黒岩はまだ三九歳で、新進の東洋史研究者として第三高等学校に奉職していた。当時、京都帝国大学はまだ創建から七年しか経っておらず、理工科と医科、法科しかなかったからだ。しかし、三年後の明治三十九年には京都帝大にも文科の設置が決まっていたので、そこへの異動を夢見て、旺盛で活発な研究生活を送っていたのだった。
その日の午後、黒岩が定刻通りに講義を終えて研究室に戻ってくると、年長の同僚である中国史家の春田能為が、普段黒岩が腰掛けている安楽椅子に身体をうずめて、相対した誰かと何かぼそぼそと話しをしているのが見えた。声の調子は普段と違ってひどく抑えられていて、時に口元を掌で隠したりもしていた。黒岩からだと、相手の男は、その背中しか見えず、何を話しているかは分からない。春田は、黒岩の姿を認めると、直ぐに立ち上がって、傍らのもう一脚の椅子を勧めて、先程まで話し込んでいた男を紹介した。それは、黒岩の見知らぬ者だったが、身なりから明らかに軍人と分かった。しかし、今まで付き合いのあった士官ではなかった。歳の頃は、黒岩と同じく三十程で、春田能為は、自分の知己の息子なのだと紹介した。則ち東日本の元士族の子であるとのことで、そうであれば苦労してきたのだろうと黒岩にも想像された。
当初の印象からは意外な成り行きであったが、それから黒岩達三人は愉快に談笑した。この頃、大阪で本邦初の営業を開始した二階建て電車のことや、亡くなった力士陣幕久五郎の話題、或いは、
三人の話しは暫く続いたが、徐々に春田がそわそわとし始め、時計の針が三時を差す頃になると、明らかにあたふたとしてその場を辞する旨を述べ、慌てた様子で退室した。しかし不思議と客はどっしりと尻を座に着けたままで何ら変わる処はなかった。黒岩は居座った来客を
さて、素顔をあらわしたこの見知らぬ怪しげな軍人は、先程までと違って、決してにこりともせず、至って無愛想かつぶっきらぼうなのであった。その反応の乏しい表情はどこか爬虫類を想起させ、何かぬめぬめとした冷たく固い蟲の皮膚を、人間の肌の上に貼付けているかのように黒岩には思われた。それは彼が計算の上で作り上げた、表情を読まれぬ為の仮面だったが、長年の研鑽によって完全に身に付いていたので、最早彼の血肉であった。それでいて、どこか人を見下すような、才知溢れる者特有の嫌らしさが容易に透けて見えるのである。
彼は、その爬虫類のような目でじっと黒岩を見つめ、
「今日は、研究室への不躾な訪問を快く受け入れて下さって、御礼申し上げます」と、改めて感謝の念――どこまで感情が篭っているかは別だが――を口にすると、それから殆ど何の前置きも無く、全く抑揚の無い、しかし存外によく通る声で語り始めた。
それは、一体どこでそんな話しを聞き付けてきたものか、ある「本」の話しであった。亜剌比亜でも、欧羅巴でも、
「――小官は左様なる奇矯な「本」の話しを聞き及んだのでありますが、そこで本邦における亜剌比亜学の泰斗でいらっしゃる先生に聞きたい。先ずそもそも、その様な奇矯な「本」は、一体全体、本当にあるのですかな?」
黒岩は、相手の冷静沈着なる物云いと、それとは不釣り合いな希代の奇書の組み合わせに、最初は寧ろある種の滑稽さを感じた。いまだ目の前のむっつりとした軍人に不気味さを感じていたが、しかし質問をされれば答えるのが彼の職種に求められる勤めではある。
「……在る、と聞いています。聞いているという云い方をしたのは、私は勿論、実物を見たことはないし、長らく、発見もされていないからです」
「実物を見られたことはない、とのことですが、では、その本の中身が、
「内容については、関連する書物などに記されてきた伝にて知っております。神や霊魂の不在を証明する為に、精緻な天文観測を行い、人体解剖まで行った、恐るべき哲学者が書いた本とのことです。一神教が主流の文化園では一千年に渡り忌み嫌われ、封印され、破壊され、燃やされ続けてきた、忌むべき本ですな」
「ふうむ……何故、それ程までに忌み嫌われるのですかな?」
「貴官は、信仰を御持ちですかな? ……それでは、ピンときますまい。敬虔な一神教徒にとって、神の存在を否定することは、最大の罪悪であり、禁忌です。それを驚くべき説得力で証明しているというのですから、それは恐れられて当然でしょう。実際に、欧羅巴でも亜剌比亜でも、あるいは
見知らぬ軍人は、黒岩の説明にも特にこれといった反応を示さなかったが、じっと興味深く聞いているようではあった。そうして黒岩の話しが終わると、その
次に目を開いた時、軍人は黒岩の思いも付かぬ奇怪な質問を口にした。
「ではそれを、もし現代の人間が読めばどうなるでしょうか?」
黒岩は、全く軍人の質問の意味を理解できなかった。大いに困惑を覚えつつも、取り敢えず思い付いた
「……実物を読んだことがないので何とも云えませんが、恐らく、すっかり都会化した現代人ならば、読んでもさして影響はないのではないでしょうか……」と、そこまで云ったが、そこで少し思う処があって、手の仕種で軍人の次なる発言を遮った。そうして
「……しかし、そうですね……いまだ素朴で敬虔な信仰心を持つ者も、各国の地方や農村、辺境の小国などなど、世界にはまだまだ多いでしょう。特にそうした地域に住む一神教徒には強い影響を与えるかもしれませんね……。それと、これは一神教徒でなくとも当て嵌まるかもしれませんが、いまだ人格形成の不安定なる青少年にも、衝撃は強いやもしれません……」
「では、西亜細亜や欧羅巴の田舎者が読んだらどうでしょうか、例えば、回教圏の中央亜細亜や
「その辺りの地域なら、まだまだ近代化されていない地域が多いでしょうから、いまだかなり衝撃を受ける者も多いのではないですかな?」
話しがここに至って、遂に軍人はにやりと笑った。といっても、真向かいにいる者が目を凝らさねば分からない程度であったが、黒岩には確かに、軍人の唇が歪み上がるのが見えた。
「……さすれば、或る処の或る一神教を奉ずる帝国に、唯一絶対の神にその権威を承認されたという皇帝がいるとしましょう。その皇朝、代々仁政施さず、国はいまだ封建の旧習抜け切らず、
最後の言葉は、最早黒岩への問いではなかった――
「――私は、それでピンときたのだ。この世から
木戸黄太郎――郷田は、その名に覚えがあった。伊志田大尉の手帳に、「失踪」と書かれていた男の名だった。
「……元々は、露西亜には回教徒が多いので、その諜報扇動の可能性を検討することになったのが、木戸大尉がこうした方面に関わる切っ掛けだったようだ。そうした中、細かいことはよく分からぬが、どこからか持ち上がってきたのが、ハッジャールの本を使った扇動工作であったらしい。何でも、元は中世
郷田は、ここで老人の話しを遮って、おたおたと
「そんな世話はいらん、蕗屋君はどこだ、話しの続きを……」
と、呻く老人の言葉を再度遮って、もう一度寝巻の襟元を直し、掛け布団を丁寧に被せた。蕗屋と共にやって来た房枝は驚き、老人の顔を優しく拭いて、医者を呼ぶことを主張したが、自身の雇い主に拒否された。しかし、砂糖水を飲ませるという提案だけは決して撤回せず、これには老人も折れて、吸い口からそれを吸った。水分と糖分が効き目を現したのか、老人の顔色が茶色程度にはなった。
それから房枝は、座敷の下座にこそ移動したものの、部屋から下がろうとはしなかった。床に臥してただ天井を仰ぐ老人に、果たして彼女の姿が見えているのか、いないのか、本人以外の誰にも定かには分からぬが、兎も角それを気にするでもなく、再び彼は語り始めた。郷田は、老人の体力をこれ以上削るのは忍びないながらも、一方でその老人の様子から、今聞き出さなければ二度と聴取の機会がないように思われて、良心と職務の間で葛藤しつつ、結局はそれが老人の意志なのだからと、語るに任せることを自分に納得させた。とは云え、目の前の学生が、
「君達も、明石将軍の活躍は勿論知っているだろう? 最近、伝記も出たからね……そう、六年前に小森徳治が台湾日日新報社から出した『明石元二郎』上下巻だ。明石将軍――当時の明石大佐は、元々露西亜の
黒岩は、語る内に、徐々に過去を思い出して賛美するような口調になっていった。それは、並ぶものなき異能の戦友を思い起こして、武者震いを引き起こしているかのようであった。落ち窪んだ両の眼は、
海外の地理には
「そう、亜剌比亜の奇才と日本の奇才が、一千年の時と亜細亜の東西という地を越えて、この東亜の地で出逢うことで生み出された異形の構想だ。君達のように物質主義的で分別がある程度付いた者なら、どうってことはないのかもしれん。しかし、信仰心のある者や、思春期の少年少女なら、恐ろしい衝撃を受けるかもしれん。騒擾を引き起こす程に……。人間にも、命にも、この世界にも、何一つ意味はないのだということが、恐ろしい程に理路整然と論じられているのだ。だからこそ、『絶望の書』と呼ばれるのだ……」
「……木戸大尉自身、自分の構想に魅了されていたようだった。武官補佐官としてレンブルクに赴任した彼は、自分の構想が正式に採用される前に、何とか自前で借財をこさえてでも資金を工面して、工作を既成事実化しておこうと思ったらしい。手柄さえ上げてしまえば、後から金はどうにかなると思ったんだろう……。この時、工作資金を立て替えたのが、
「殿村昌一中尉と風間九十郎ですね。風間はテュルク諸語ができたようです。もう二人共故人ですが」
「そうなのかね……。私はレンブルクでの具体的な活動は知らんのだが、しかし、テュルク諸語に堪能な学生まで雇ったことを考えると、彼は回教徒への工作もやはり考えていたのか……。私としては、高架斯や
そこで言葉を切って、深く息をした老人の唇に、郷田は吸い口を付けた。乾き切った唇に、砂糖水が染み込んでいった。
「すまんな……。さぁ、しかし結局の処、彼は成功しなかったんだ。さしたる工作資金を認めてもらえなかったようだ。結局、ストックホルム組に競り負けてしまったのだな……。
「……黒岩先生は読まれたのですか?」ふと気になって、郷田は聞いた。
すると老人は、
「……想像に御任せするよ」と云って、意味ありげに笑い、すっと目を細めた。
老人の話しは、殆ど終わったかのようだった。今や老人は、寝息を立てるように規則正しく胸を上下させている。しかし、一つ重要なことを老人が云い忘れていることに、郷田は気付いていた。目の前の学生を見ると、何かを訴え掛けるような不安な面持ちで、半ば閉じられた老人の瞼の奥をじっと覗き込んでいた。彼も、老人が再び口を開いてくれるのを待っているのだろう。しかし、その時が来るのかどうか、郷田は半信半疑だった。もう、どう考えても老人の体力は限界を迎えていた。いや、限界を超えていたと云った方がいいのかもしれない。もう直ぐにでも、房枝がこの面会を御開きにして、自分達を追い返すのではないかと恐かった。しかしそれ以上に、自分達が、今も猶、老人の寿命を縮めてしまっているのかもしれないと考えるのが恐かった。
ずっと下座で息を殺していた房枝が腰を浮かした。もう、これまでかと郷田は思った。諦めて、彼もまた腰を浮かせようとした時、急に学生が、老人の肩を揺すぶった。
「黒岩さん、まだ伺ってないことがあります! 黒岩さん!」
「一寸、学生さん、何しはるんですか!」
若いとは、残酷だということなのかと郷田は思った。驚いて止めようとする房枝と共に、郷田も学生を制しようとした。
「黒岩さん、『悪魔との対話』は、どこに?」
「止めとくれやす!」
しかし、学生は止まらない。郷田は、力ずくで学生を引き剥がさざるを得ないと思った。もう完全に立ち上がり、学生の両腕を羽交い締めにしようとする――が、病人のいる部屋で本気の立ち回りをする訳にもいかず、力を加減してしまい学生を上手く止められない。そうして房枝を含めて見苦しい揉み合いをしていると、すっと手を伸ばしてそれを制する者がいた。
「……分かっている。まだ云ってないことがあるのは……。房枝さん、一寸、暖炉の火を弱めてくれるかな……。暖か過ぎて、どうも眠くなるようだ……」
大いに不服そうな房枝は、それでも云われた通りにした。郷田は、最早複雑な気持ちを通り越して、悲しくなり始めていたが、それでも黒岩の話しを聞かねばならぬと気を取り直し、まるでそれが自分にできる唯一の勤めとでもいうように、老人の唇に砂糖水を含ませた。
「そう、それなのだよ、問題は……。『悪魔との対話』は、今も、木戸大尉……いやもう今は大尉とは呼べぬか……兎に角、彼の手元にある
「伊志田大尉は、何故そのような?」
「知らん……が、私と木戸が練った構想を、何かの参考にしようとしているのかもしれん。或いはまた、一神教を奉ずる国と戦争でもしようというのか……。兎に角、伊志田大尉は何としても「本」を手に入れ、その情報の一切を自分の下で管理しようとしているようだ……。諜報というのは、しばしば暴走すると手に負えんからな……。川手商会の娘が大阪で殺されたとラヂオ・ニュースで聞いた時、嫌な感じがしたのだ。もしかしたら、伊志田がやったのかもしれん、とな。だから、郷田刑事、大阪で刑事をしているという貴男から私に電話があった時、やはりそうなのだと確信したのだ。少なくとも、あの呪われた本の周りで、人が死んでいるのだと」
「……では、何故、僕の従弟がそんな「本」を読んでいたのですか?」
「分からん。分からんが……思い当たることがある。木戸の実家は、今はどうか知らんが、関東方面の山地……多摩だか甲州辺りに元々あって、親類もいた筈だ」
「……じゃあ、木戸が「本」をその親類へ送ったと?」
「そう……なのかも、しれない」老人は一端、言葉を切った。
「二人とも、何とか「本」を見付け出してくれ……。あれは、古の哲学者が狂える程の思索の末にたどり着いた、一つの智慧の結晶。いかに忌まわしいものとはいえ、人類の到達点の一つなのだ。それをこのまま、歴史の闇に埋もれさせてはならぬのだ……」
そう云うと黒岩は、左右両方の手でそれぞれに郷田と蕗屋の手を取り、ぎゅっと握り締めた。郷田と蕗屋も、それぞれにその手を握り返した。すると老人は、とても満足そうにゆっくりと頷き、今度こそ全てを伝え切ったとばかりに満足そうな笑みを浮かべ、そのまま目を閉じて、再び静かな息を立て始めた。そしてこの日はもうこれ以上、何も語ることはなかった。
――この三日後、黒岩の容態は急変した。そして房枝と急ぎ駆け付けた息子達に看取られつつ、やがて息を引き取った。
(続く)
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