第五話

五、京都

 夜の北山はさすがに寒い。痛めた首筋が引きって、強がって包帯を取るのが早過ぎただろうかと後悔する。木材の素地そのままの簡素な棟門を潜り抜け、郷田は女中の後を付いて、長い小径こみちを歩いていった。灯籠に照らし出された庭は、最初からそうした趣向だったのか、それとも何らかの退廃の結果なのか、その灯籠そのものも含めて一面が苔に覆われている。紅っぽい光を浴びている所為せいで、明るく照らされているにも拘わらず、その緑は黒のように見えた。足元はよく見えないが、すっかりり減った革靴の下で、恐らくは荒く敷かれた石がごりごりと触った。

 しばらくして行き着いたのは立派な切妻造りの玄関棟であった。そこから、庭を取り囲むように建物が伸びて主屋に繋がっている。主屋は入母屋造りで、桁行十二間、梁間八間といった処だろうか。その桟瓦葺きの大屋根の四周には庇屋根も巡らされている。暫く待てとわれて待っていると、女中が鍵を取り出して戸を開けてくれた。

られるものなんてあらへんのやけどね」そう云って郷田を先に入れる。

「そもそもこの辺には人もいてへんし……でも一々いちいち戸締まりしとかへんと怒られるから」ぶつぶつと云いながら、女中は再び郷田の前を歩いて、廊下の先へと導いた。

「気難しい御方なんですか?」

「……そんなことはあらしませんよ。別にそんないう程警戒心が強い方って訳でもあらへんのですよ。大体、もしそうやったら、こないに「はいはい」と人入れたりしませんわね。ぐ鍵閉めんと落ち着かへんのは、何でも、昔海外で暮らしていた時の癖やそうで……」そこで言葉を切って、女中は少し上を向いて、考えるような顔をした。

「せやけど、年相応には頑固やわね。いつでも世話焼くと、いらん、やめろ、って、そればっかし。……でも、近くに身寄りもいたはらへんし、私が御世話するしかあらしませんやないですか」

 先を行く中年の女中は、田舎の素朴な雰囲気を漂わせながら、見知らぬ郷田を相手に、たわいもないことをペちゃくちゃと話し続けた。恐らく、専門的にこうした仕事をしている訳ではなく、近郷の女性が手伝いに来ているのだろう。

 板張りの廊下をかなり進んで、最後に行き着いたのは、一間二枚立ての襖の前だった。

「御客様を御通ししました」と、女中は大きな声で中に告げると、返事も待たずさっさとそれを開けてしまった。郷田は少し驚いたが、そんな郷田に小声で、

「御客様にこんなこと御願いするのも変なんですけど、何かあったら直ぐ私を呼んでおくれやす」と告げて、女はそそくさと下がった。

 開いた襖の中に身を入れると、異様なくらいに暖かい。その八畳程の座敷は主屋から庭側に突き出た処に位置しているらしく、恐らくは東方と南方の二面が大きな硝子ガラス障子になっていた。一方西側と思われる壁には、隣の間へと続く襖の他に、腰の高さ程の小さな押し入れ様のものが設けられていて、その中に座敷暖炉が造り付けられていた。異様な暖かさはこの所為かと、郷田は納得する。

 そして座敷の中央には、柔らかそうな綿蒲団が敷かれていて、そこに恐らくこの家の主人と思われる、破れた唐傘のような、或いはむしられた痩せ鶏のような、骨と皮だけの老人がいた。しかしその老人は、下半身こそは蒲団の中に潜り込ませていたものの、上半身は起こしていて、郷田の姿を見ると、かすかに笑みを浮かべた。それが、会えたことを喜んでのものなのか、ねぎらいの為なのかはよく分からない。ただ、歓迎はされているようだった。そうして老人は、何も言葉を発することなく、笑みと顎をしゃくる緩慢な動きとで、郷田を座敷のさらに奥へと招き入れた。郷田は畳の上にひざまずいて、その仕種に促されるまま進んだ。

 郷田の視界の中で、老人の姿が近付いて大きくなる。更にその向こう側では、夜の暗がりの中で、自分が老人ににじり寄っていく像が見えた。それは勿論もちろん、硝子障子に映り込む、自分達の反転した姿だったが、あたかも夜の苔す庭園で、黒々とした池の上に浮かびながら、自分と老人とが邂逅しているような、不思議な心地に郷田をさせた。夜空を背景に立ち上がるねじれた松と、雪見灯篭もぼんやりと見えた。昼はきっと素晴らしい眺めなのだろう――庭の手入れがされていたなら。その向こうには、十三石山が借景となって見えるのだろうか。


 ここは、京都府愛宕おたぎ郡の雲ケ畑である。愛宕郡は、京都市に北隣し、嘗ては山城国愛宕郡と呼ばれていた。その中西部に位置するのが雲ケ畑で、明治七年に出谷村と中畑村、中津川村とを合併して創られた。と云っても全体に山がちの地形であり、一纏ひとまとまりの大きな村落があるというよりは、昔ながらの小さな集落が山間の適地に疎らに存在するという風である。そうした山間の鄙びた地ではあるが、山道こそ通らねばならないものの、本来、都には近い。主殿寮や仙洞御料に定められて、薪炭や木材、鮎などを朝廷に献上していた地も多く、また御一新ごいっしん以後も大正までは皇室の「御猟場」とされていた地もあった。それに、雲ケ畑一帯は賀茂川の源流域でもあり、特に岩屋山志明院の神降窟の湧き水は水源とされ、住人達には、朝廷の人々が飲む水を守ってきたとの自負も強い。

 このように古来より朝廷縁故の地だが、けても平安期の皇族、惟喬親王とは特に深い関わりを持った。文徳帝の第一皇子である惟喬親王が、自身の弟である第四皇子惟仁親王の外戚、藤原良房との政争に破れ、隠棲したのがこの地であった。惟喬親王の居処「高雲御所」は、臨済宗永源寺派の寺院に姿を変えて、現在もこの地にある。天明七年に書かれた『拾遺都名所図絵』によると、親王が愛玩した雌鳥が死に、その遺骸を埋めた場所は、今では惟喬神社となって、雲ケ畑の集落で崇敬を集めている。

 ひるがえって、愛宕郡という処は全般に、古来、都を落ちた人間が隠れ住む場として働いてきたのであった。花脊には俊寛の一族や平家の落人が逃れてきたとの伝承があるし、比較的近年の話しでは、御一新で活躍した贈太政大臣岩倉具視公が、愛宕郡岩倉の地で隠棲していたのはつとに知られたことであろう。

 郷田がおとのうた老人黒岩周六もまた、京都での仕事上の争いに破れたか疲れたかして、この地に住まうようになったとの噂であった。無論、人づてに聞いた話しであり、本当の処、真にそのような争いの末にこの地に移り住んだのか、それとも単なる気まぐれの故か、細かな事情については郷田の知る処ではない。

 ともあれ郷田は二日前に会う約束を取り付け、「できるだけ早く」と郷田自身が急かした為、山間の地にも拘わらず、夜間の訪問となったのである。雲ケ畑には、京都電灯株式会社系列が経営するバスが、京都市電北大路橋電停を起点として運行している。しかし、夜間ゆえにバスに頼ることはできなかった。とはいえ徒歩は余りに無謀である。そこで、郷田は何くれと理由を付け、半ば強引に大阪府警察部の官給の自動車を借り出したのだった。「用心棒」乃至ないしは「車持ち出しの共犯者」として、郷田はこの京都遠征にも竹谷を誘ったのだが、竹谷は「あんだけのことやったからなぁ、暫く俺の縄張りの外は怖うて出れんわ」とか、「俺は大阪府警察の権限の及ばない地域では無理しいひん主義なんや」とのことで、鰾膠にべもなく郷田の申し出を断ったのだった。「案外に腰抜けだな」だの「単なる内弁慶じゃないか」などと、竹谷を挑発してみたものの、にやにや笑って「その手には乗らん」と云われるだけで効き目はなく、最後には「縄張りの中に用事あったら、また云うてくれ」と云われ、仕方なく郷田は一人で来ることになったのだった。

 一九日午後五時に、郷田は大阪を出て国道一号線から京都に向かった。京都の市街地に入ってからは烏丸通りを進んでこれを縦断した。そうして大谷大学のある上総町から賀茂川沿いに車を走らせ、御薗橋東詰から上賀茂神社の前を通って大岩街道に入り、そこから概ね一直線に北上すればよかった。賀茂川上流に架かる高橋から先は、険阻な坂や九十九つづら折りの道に苦しめられることになったが、車坂や持越峠をなんとか大過なく経て、郷田の時計で概ね午後七時頃に、黒岩が居を構えるここへと辿り着いたのだった。


「やあ。君が、二日前に電話をくれた大阪の刑事さんだね……」

 ようやく口を開いた黒岩周六の言葉は、小さく、か細い。息も漏れるようにぜいぜいとしていて、喋ること自体が、彼の体力を奪っているようだった。郷田は、女中が廊下で返事を待たなかった理由に気付いた。あれは、大きな声を上げさせないようにとの配慮だったのだ。かつては様々な思念が渦巻いたのであろうその額は、その酷使の故にかすっかり禿げ上がっていた。それ自体は年相応とも云えるが、その頭皮にはまるで張りがなく、そこに疎らに残った白髪が力無くひょろひょろと伸びているのが、衰えをまざまざと見せつけて無惨だった。痩せ細った体に寝巻きは余り気味で、胸は自然と開けてしまう。肋骨が浮き出て、ひっくり返した昆虫の腹のようであった。若かりし頃には、友と取っ組み合いなどしていたかもしれない腕に、もう筋肉はほとんど無い。座敷暖炉の所為で室内はかなり暑かったのに、最早もはや余分な水分はないとばかりに、汗一つかいておらず、むしろ皮膚全体が乾き切っていた。枕元には、薬剤と水と最新式の吸入器しかない。

 郷田は不安になった。この状態で彼に何ができるのだろうかと。自然と郷田は、「御体おからだは大丈夫ですか?」と口にしていた。

 しかし、郷田がそう聞くと、黒岩はそんな気遣いは無用とばかりに首を振り、ただ黙って、知的な好奇心に満ちた目を郷田に送った。体の疲弊など御構いなく、或いは訪問者の戸惑いなど全く気にもせず、ただ、知的な刺激が無いことこそが最大の苦痛とばかりに、それだけを一心に欲しがっているような目付きだった。その眼窩の落ち窪んだ瞳の底には、執念深い知性の輝きが、いまだたぎっていた。疲れ果て、老いさらばえた老人の顔の中に、恐ろしいまでの、知識の求道者たる者の凄みがあった。肉体は刻一刻と崩壊に向かっていても、精神はまだ驚く程に輝きを放っていたのだ。大丈夫だ、彼はきっと自分の助けになるに違いない――老人の目を見返しながら、郷田は一人頷いた。

「体を崩し給え。こんな山奥まで御苦労だったね。随分、時間がかかったろう」老人の声は変わらずか細いが、好奇心の高まりがいささかでも肉体に活気を取り戻させたのか、先程よりは張りのある声になっていた。

「御心配なく。自動車で参りましたから。あ、私のものではありませんよ。そんな高給取りではありません」郷田が少しおどけて云うと、老人は意外にもくすりと笑った。

「ここは……失礼ながら、かなり辺鄙な処だと思うのですが、何故このような処に御住まいで?」

「学究の為には、外のことにわずらわされない環境が必要なのだよ。しかし、私の若い頃に比べて、京都はもうすっかり変わってしまってね……。昔は、下鴨村や塔之段、浄土寺や上加茂村の辺りで充分に閑静だったのだが……しかし、今ではもうすっかりあの辺りも騒がしくなってしまった。烏丸車庫の近辺に会社員などが住み始めたのが良くなかった。すっかりただの市街になって、いつの間にやら京都市に飲み込まれる始末だ。いずれこの辺りも京都市に占領されて、愛宕郡も無くなってしまうかもしれん……」

 別に、仕事上の争いに敗れた訳ではなかったのだ――世間の噂とは、やはり当てにならぬものだと郷田は思った。

もっとも、今の私は学究の為にではなく、静かな最後を迎える為に静寂が必要なのだがね。……とはいえ、房枝さんには迷惑を掛けているよ」

「さっきの、ここまで私を案内してくれた女性ですか?」

「……うむ。身の回りの世話をしてもらっている。いや、つまらぬ詮索はよしてくれたまえよ、この老いさらばえた肉体でそんなことあるものかね。彼女にはできるだけ良くしてやりたいのだが……。肉親など、薄情なものさ。年に一度も顔を見せん」

「御子さん達ですか?」

「……そうだ。まぁ確かにここは鄙びた処ではあるが、それにしても、一向に顔も見せん」

「……来客は、余り無いのですか?」

「……そろそろ前置きはいいだろう。それとも、君は、わざわざこの老人とそんな世間話しをしに来たのかね? いや、私は、暇を持て余しているから、それでも構わんのだが……そうではないのだろう? 私に残された時間は短い。そろそろ、本題に入ろうか」

 そう老人から云われて、郷田は少し云い淀む。実の処、ことここに至って、郷田の方で、どう老人に話を切り出せばいいのか、考えがまとまらなくなっていた。一体、この老人は何を知っているというのだろう? 自分は、何を聞き出せばいいのだろう? この老人は「本」とどう関わり、伊志田鉄郎とどう関わり、川手妙子とどう関わり、事件とどう関わっているのか? そして、この老人と話しをすることで、一体この先、何が出てきて、捜査はどうなるのか? 郷田の頭の中は、数限りない疑念が渦巻いていた。ぶつけたい質問は山程あった。しかし、どういう手順で質問していけばいいのか、にわかには分からなかった。郷田は、勿論これまでの官服時代に、幾度となく事件関係者に聴取を行っている。しかしその多くは、一寸ちょっとした歓心を満たしてやれば自分から語る善良な第三者や、幾らか威圧的な態度を取れば直ぐに怖じ気づく、短絡な悪党であった。中には無論、駆け引きにけた難しい相手もいたが、そうした者には、むしろ根気よく、実直に利害を解けば、時間は掛かってもいずれ事情を聞き出すことができた。相手の人物に合わせた聴取の攻め処については、それなりに心得ているつもりの郷田だったが、死の床に臥した知的な老人など、これまでの郷田の経験にはなかった。郷田が黙っていると、老人の細い、少し苦しそうな息が聞こえてくる。相手の健康状態を考えると、聴取は早く済ませた方が良いのは確かだった。かく、何か問うしかないと、郷田は意を決した。

 先ずは、老人と確実に関わりのある質問をぶつけてみようと、郷田は思った。

「……伊志田鉄郎という男から連絡があったか、或いはここで会いませんでしたか?」

 そう告げると、黒岩の顔から笑みが消えた。目は一層細まり、頭の中で様々な想念が巡り始めたらしいことが分かる。今、持ち出された話題について、その含意を読み取ろうとしているようであり、どう答えようかと考えているようでもあった。老人は、郷田から視線を外し、一転して宙をぼんやりと見詰め、頭を片方にかすかに向けた。見えぬものを見、聞こえぬものを聞いているかのような仕種だったが、もしかするとそれは、他人がどう望んでも見えることはない、彼自身の頭の中のものを見、聞いているのかもしれない。しかしやがて、その頭の中でどのような結論が出たのかは分からなかったが、再び、老人の眼が郷田を捕らえた。否と答えるか、応と答えるか? 郷田は老人の顔付きの変化をじっと見ながら、返事を待った。しかし、老人は何の表情も浮かべることなく、素っ気なく、否でも応でもなく、ただ、

「……果て?」とだけ口にした。

 その言葉が、その口調が、その表情が意味する処が、郷田には理解できなかった。郷田の予想通り、老いた賢人は、完全に己を制御する術を心得ているようであった。郷田の問いに全くの無関心といった様子だったが、「否」とは答えていない処を見ると、郷田の質問や追及を拒否しているという具合でもなかった。老人の態度にも拒絶の意思表示や動揺した様子はない。寧ろ、曖昧な返答で次の質問を誘っているようでもあった。兎に角、老人の反応が、これまでの警察人生の中で行った聴取の中で見たことの無いものであったので、郷田はただ困惑した。やはり一筋縄でいかない――郷田は暫く、老人の真意が理解できず、攻め処が分からないまま質問を重ねた。

「伊志田は陸軍の軍人なのですが、御記憶はありませんか? そういえば、ご老人、軍歴は?」

「私は体が弱かったのでね」

「……軍とは関係なかったと?」

「軍に属したことはない」

「兎に角、伊志田という軍人が、貴男と会見しているか、少なくともそれを申し込んでいる筈なのです」

「ほう。そうですか……」

「この男です。顔を見たことはありませんか?」

 郷田は、大川遊歩道での大立ち回りの後、手に入れた、伊志田鉄郎の写真を老人に見せた。しかし老人は何も云わず、表情も変えない。全く手応えが無かった。だからといって、やはり拒絶されている風ではなかった。郷田の質問が遮られたり、打ち切られたりすることもなかった。ただ、兎に角、のらりくらりとした応答が繰り返されるのだ。寧ろ老人の受け答えには余裕があり、顔にこそ何も出さないものの、郷田との駆け引きを楽しんでいるようにさえ思えた。老人は「残された時間は短い」と自ら云いつつ、のらりくらりとした応答に徹した。その矛盾が、郷田には気になった。老人は、自分の余命を気にしている筈なのだ。何か語ることがあるなら、急ぎ、焦って然るべきはずなのだ。それとも、これは矛盾ではないのか? こののらりくらりとした応答に意味があるのか? 試されているのかもしれない――郷田は、ふと、老人の意図を理解したような気になった。自分が老人を試しているのではない、老人が自分を試しているのだと。それなら、試されるに任せればいい。

 郷田は、老人に質問する形を保ちつつも、自分の知っていることを思い付くままに口にした。川手妙子の事件について説明し、その妙子が生前に行っていた不可解な調査活動について説明した。そして、それを郷田が追っていく中で浮上した、レンブルクを巡る人脈についても説明した。それらは、老人の解答を期待してのものというよりも、寧ろ郷田のこれまでの捜査の成果を老人に報告するようなものであった。

 そして最後に、持参した鞄からあるものを取り出し、老人に示した。

「――これを、御覧ください」

 それは、郷田が見付けた、妙子の父庄太郎の、日々の覚え書きであった。川手家廃宅に眠っていた、膨大な記録の中に埋もれていたもので、郷田は、妙子が持って歩いていたという納入記録を見付けることはできなかったが、代わりにこれを見付けたのである。中は川手家の私的な歳時記といった風で、祭事や法事、町内との付き合いなど、家庭の行事のあれこれや、それにまつわる種々の思い出が書き付けられていた。そして欄外には、その日庄太郎が特に印象深かった事柄が、屡々るる書き付けられていた。郷田が持ってきていたのは、何冊もあったそれら覚え書きの内、明治三十七年分のものだった。その七月七日の頁に、川手家で行われた七夕祭の思い出と並んで、簡単なものだが、確かにこう書かれていたのだった。「本、参千円余り、遂にレンブルクより注文さる。代金当面立て替えることになるも、今後の取引への期待大なり」

 郷田は、川手家廃宅に通うこと二週間にして、漸く川手家が異常に高額な「本」の取引を行っていたことを示す物証を見出だしたのである。

「私には当面、これしか見付けることはできませんでしたが、もっとよう調べれば、残された膨大な帳簿の中に、もっとはっきりした痕跡を見出だすこともできるでしょう。川手妙子はこれを追っていて、そしてその結果、恐らく事件に巻き込まれたんです……。この「本」とは、一体、何なんですか? 貴男は、それについて伊志田と何か接触を持った筈や」

 郷田は、つい、語気を強めてしまったが、相手の健康状態を思い出して、直ぐに軽率なことをしたと後悔した。しかし、その語気の所為でもあるまいが、老人は初めてのしっかりとした反応を見せ始めていた。ふんふんと頷き、最後には満足そうに大きく頷いた。

「……成程なるほど、よく分かった。よく調べている。君は私よりも会うべき人がいる。その者が「本」が何か教えてくれるだろう……今日は、実はもう一人客がいるのだよ。おい君、入ってきたまえ」


 その言葉を合図として、先程郷田が入ってきて、今は丁度ちょうど背にしている襖がするりと開いた。殆ど音もしなかったが、微妙に敷居をこする振動と、空気の動き、そして対面している老人の目の動きで郷田にもそうと分かった。郷田が振り返ると、跪いて襖を開けている房枝の姿が目に入ったが、それは一瞬のことで、直ぐに彼女の姿は廊下側の陰に消え、代わって別の人物がそこににじり寄るのが見えた。それは学生服を着た若い男であった。

「紹介しよう……といっても、彼とも今日会ったばかりなんだがね。三高生の蕗屋清一郎君だ」

「……はじめまして。失礼ながら、廊下で話しを伺っていました。蕗屋清一郎と申します」

 郷田は、ぽかんとしていた。事態の展開に、まるで付いていけなかったからだ。この学生が何者かといった疑問以上に、ここでこんな学生に引き合わされる意味自体がまるで理解できなかった。何故この学生が自分達の話しを聞いていたのかも理解できなかった。だから、兎に角唖然として、困惑だけを感じていたのである。ただ、怪我でもしているのであろうか、学生の頭に幾重にも巻かれた白い包帯が郷田の目を引いた。

 しかし、郷田の困惑はやがてあっさりと解消することになる。

 老人が、「もっとこちらへ入ってきたまえ」と促したので、包帯を巻いた学生は、座敷に膝を突きながら、老人の横たわる寝床へと近付いた。郷田のいる側とは反対へと擦り寄ったので、丁度老人の寝床を挟んで郷田と蕗屋とは相対する形に向かいあった。そして老人は、震える右手で、先程郷田が示した写真を摘み上げると、それを左側に座っている蕗屋の前に翳した。

「蕗屋君、この男に見覚えはないかね?」

 蕗屋は、たった一枚の写真でさえ老人の負担になると云わんばかりに、直ぐさま、しかしうやうやしくそれを受け取り、まじまじと見る。すると即座に、「あ」と声を上げた。

「見覚えがあるのかね?」

「あ……はい。確かに、どこかで見ました。ええと……」

 老人は、その方が良い結果が出ると確信しているかのように、青年を急かすことなく、その記憶が蘇るのを見守った。一方郷田は、いまだ事態の全貌が飲み込めず、阿呆のように口を開けていたが、それでも朧げにこの先の展開を予想し始めていたので、視線は、突然あらわれたこの若い男に注がざるを得なかった。四つの目に曝されながら、ううん、と呻吟しんぎんしていた青年は、「あっ」と急に頓狂な声を上げて軽く膝を打った。

「寺町通り――革堂こうどうの前にいた、二人連れの片方だ。外套に背広で御参りなんて、少し珍しいなと思って、見てたんだ」

 老人は、満足そうににやりと笑った。


 一体、どういうことなんだ?――郷田は、自らも殆ど意識せぬままに、学生の方に右手を伸ばしていた。学生は、郷田自身でさえ必ずしも自覚していないその意図を汲み取って、写真をその手に握らせる。引き寄せて、改めて確認したその写真は、勿論、先程老人に示した、伊志田鉄郎を写したものだった。この学生は、伊志田を知っている――それは、自分にとってどういう意味になる? 未だ郷田は状況が把握できない。

「郷田刑事、この学生は、君が云う処の「本」を探しているのだよ。そして、その伊志田と云う軍人もまた、同じ「本」を探している。君の推察の通り、一連の事件の中心には、恐らくその「本」がある……。君は大変良く調べているが、肝心の「本」については、こちらの学生さんの方が上だ。まぁ、話しを聞いてみようじゃないか――」

 蕗屋は、携えていた背嚢から、彼の甥が残したという焼け焦げたノオトを引っ張り出し、それを見せながら、郷田の全く知らない、そして全く予期もしていなかった話しを始めた。「本」を巡って起きている別の一群の事件――というよりも、郷田がこれまで懸命に捜査をしてきた事件の、もう一つの側面と云うべきか。田舎の少年達の集団自殺――襲われた蒐集家――そして、それらの中心に見え隠れする、「本」。

「……その本の名は、『悪魔との対話』、またの名を『絶望の書』と云います……」

 郷田はここで初めて、「本」の題を知った。

「では、何故、君はこちらに?」

「先程云った蒐集家、支倉喜平が、襲われる前に僕に教えてくれたのです。京都帝大の元教授に、亜剌比亜アラビア学の権威がいると。その支倉は、その後何者かに殺されてしまいましたが……。この頭の怪我も、その時に受けたものです……悔しいことに、どうすることもできなかった……。それで、その方が殺されてしまったので、僕にはもうそれ以上「本」について調べる術がなくなり、切羽詰まって、こちらに来たのです」

 

 次に語るのは、老人の番であった。老人は、細い体をこれまで以上に起こしたので、その為掛け布団がめくれた。蕗屋は老人の体を支え、郷田は開けていた寝巻きの襟元を直した。それらに感謝を云うと、老人は、しおれた肺臓一杯に空気を吸い込み、そして唇から細く声を漏らした。

「――先程、郷田刑事に軍と関係はないかと問われ、私は「軍籍はない」と答えたね。それは嘘ではない。しかし、関係が無い訳ではない。というよりも、関係は大有りなのだよ……」

 弱った体で出来る限り多く語ろうとでもいうように、少ない息の量で出来るだけ長く語ろうとでもいうように、老人は細く細く息を吹き出し、小さく小さく声帯を震わせて語った。それは注意しないと聞き逃しそうな声量であったが、しかし一つ一つの発音は明瞭だった。

「……私は、三高や帝大で亜剌比亜史の専門家であったが――いや、無論、今でもそのつもりだが、何故、「東洋史」と云う専門分野があるか知っているかね? 東京帝大の白鳥先生が満鉄の満鮮歴史地理調査部の研究長を務めたことや、昨年陸軍省が『蒙古大事典』を刊行したことからも分かるように、東洋史には、対亜細亜アジアの国策遂行に資することを期待して設けられた学問分野という側面があるのだよ。だから、勿論、高尚な学問として研究は純粋になされないといけないが、一方で生臭い人脈との付き合いも生まれてくるのだ……。尤も、亜剌比亜や土耳古トルコは、東亜の国々とは違って、本邦からは遠い。だから、中国や朝鮮、蒙古や越南などの国々の研究とは違って、直ぐに我が国の命運に関わるということはないが、それでもやはり無縁ではない。私は若い時分、本邦の未来に資するべく、或いは亜細亜の未来に資するべく、第三高等学校や京都帝国大学で亜剌比亜や土耳古の社会や歴史を研究していたのだ。あの男が私を訪れたのは、そんな或る日のことだった……」


 ――黒岩は、口に出してその時のことを回想する。それは、今から三十一年前、明治三十六年の十月某日のことであった。黒岩はまだ三九歳で、新進の東洋史研究者として第三高等学校に奉職していた。当時、京都帝国大学はまだ創建から七年しか経っておらず、理工科と医科、法科しかなかったからだ。しかし、三年後の明治三十九年には京都帝大にも文科の設置が決まっていたので、そこへの異動を夢見て、旺盛で活発な研究生活を送っていたのだった。

 その日の午後、黒岩が定刻通りに講義を終えて研究室に戻ってくると、年長の同僚である中国史家の春田能為が、普段黒岩が腰掛けている安楽椅子に身体をうずめて、相対した誰かと何かぼそぼそと話しをしているのが見えた。声の調子は普段と違ってひどく抑えられていて、時に口元を掌で隠したりもしていた。黒岩からだと、相手の男は、その背中しか見えず、何を話しているかは分からない。春田は、黒岩の姿を認めると、直ぐに立ち上がって、傍らのもう一脚の椅子を勧めて、先程まで話し込んでいた男を紹介した。それは、黒岩の見知らぬ者だったが、身なりから明らかに軍人と分かった。しかし、今まで付き合いのあった士官ではなかった。歳の頃は、黒岩と同じく三十程で、春田能為は、自分の知己の息子なのだと紹介した。則ち東日本の元士族の子であるとのことで、そうであれば苦労してきたのだろうと黒岩にも想像された。

 当初の印象からは意外な成り行きであったが、それから黒岩達三人は愉快に談笑した。この頃、大阪で本邦初の営業を開始した二階建て電車のことや、亡くなった力士陣幕久五郎の話題、或いは、亜米利加アメリカの富豪モルガンに落籍された祇園の芸妓お雪が、幸せになれるのか否かなど、たわいもない話しをした。春田が、客を連れてやって来た理由を語らないのが不思議だったが、彼は元々話し上手であったし、客も非常に快活だったので、いつも話題に窮する黒岩もすっかり会話を楽しみ、些細なことなど気にならなくなった。寧ろ、来客の臨機応変な機知と、独特の揶揄や皮肉に感心した。

 三人の話しは暫く続いたが、徐々に春田がそわそわとし始め、時計の針が三時を差す頃になると、明らかにあたふたとしてその場を辞する旨を述べ、慌てた様子で退室した。しかし不思議と客はどっしりと尻を座に着けたままで何ら変わる処はなかった。黒岩は居座った来客をいぶかしんでその顔を見たが、先程までとまるで違う、冷淡で棘があるものになっていた。余りの変貌ぶりに黒岩は驚いたが、実の処、こちらこそが、彼の平素の表情であった。後で分かることだが、この時、春田は、ただその客を黒岩に引き会わせる為だけにここに来ていたのであり、さらに云うならば、同席した軍人が知己の息子というのも全くの嘘ではないにせよ、その言葉から思い浮かぶものとは程遠く、せいぜい故郷が近いくらいのことでしかなかったのだ。細い細い縁をもって半ば無理矢理に自分を黒岩に紹介させ、その接触を円滑にする為に、本当に昔からの馴染みのように春田に向かって振る舞っていたのである。春田も成り行き上、それに合わせていたのであるが、遂にいたたまれなくなり、切りのいい時刻になったのを機会として、バタバタと退室したというのが実情である。そして、かの来客も、昔馴染みを訪れた素朴な客という装いを脱ぎ捨てたのだ。

 さて、素顔をあらわしたこの見知らぬ怪しげな軍人は、先程までと違って、決してにこりともせず、至って無愛想かつぶっきらぼうなのであった。その反応の乏しい表情はどこか爬虫類を想起させ、何かぬめぬめとした冷たく固い蟲の皮膚を、人間の肌の上に貼付けているかのように黒岩には思われた。それは彼が計算の上で作り上げた、表情を読まれぬ為の仮面だったが、長年の研鑽によって完全に身に付いていたので、最早彼の血肉であった。それでいて、どこか人を見下すような、才知溢れる者特有の嫌らしさが容易に透けて見えるのである。

 彼は、その爬虫類のような目でじっと黒岩を見つめ、

「今日は、研究室への不躾な訪問を快く受け入れて下さって、御礼申し上げます」と、改めて感謝の念――どこまで感情が篭っているかは別だが――を口にすると、それから殆ど何の前置きも無く、全く抑揚の無い、しかし存外によく通る声で語り始めた。

 それは、一体どこでそんな話しを聞き付けてきたものか、ある「本」の話しであった。亜剌比亜でも、欧羅巴でも、およそ一千年に渡って忌み嫌われていた本。黒岩もまだ見たことのない、いや、凡そ現代に生きる人間であれば、誰も見たことがないであろう「本」のことを、表情も変えず、しかし素人としては割合に詳しく語ってみせたのだった。

「――小官は左様なる奇矯な「本」の話しを聞き及んだのでありますが、そこで本邦における亜剌比亜学の泰斗でいらっしゃる先生に聞きたい。先ずそもそも、その様な奇矯な「本」は、一体全体、本当にあるのですかな?」

 黒岩は、相手の冷静沈着なる物云いと、それとは不釣り合いな希代の奇書の組み合わせに、最初は寧ろある種の滑稽さを感じた。いまだ目の前のむっつりとした軍人に不気味さを感じていたが、しかし質問をされれば答えるのが彼の職種に求められる勤めではある。

「……在る、と聞いています。聞いているという云い方をしたのは、私は勿論、実物を見たことはないし、長らく、発見もされていないからです」

「実物を見られたことはない、とのことですが、では、その本の中身が、如何様いかようなる物なのかは御存知でありや、なしや」

「内容については、関連する書物などに記されてきた伝にて知っております。神や霊魂の不在を証明する為に、精緻な天文観測を行い、人体解剖まで行った、恐るべき哲学者が書いた本とのことです。一神教が主流の文化園では一千年に渡り忌み嫌われ、封印され、破壊され、燃やされ続けてきた、忌むべき本ですな」

「ふうむ……何故、それ程までに忌み嫌われるのですかな?」

「貴官は、信仰を御持ちですかな? ……それでは、ピンときますまい。敬虔な一神教徒にとって、神の存在を否定することは、最大の罪悪であり、禁忌です。それを驚くべき説得力で証明しているというのですから、それは恐れられて当然でしょう。実際に、欧羅巴でも亜剌比亜でも、あるいは波斯ペルシアでも、それを読んだ多くの人間が自ら命を断ったとも、大きな騒擾を引き起こしたとも伝えられています……」

 見知らぬ軍人は、黒岩の説明にも特にこれといった反応を示さなかったが、じっと興味深く聞いているようではあった。そうして黒岩の話しが終わると、そのまなじりの上がった細い目を、更に狐面のように吊り上げて目を閉じ、何度かぴくぴくと顳顬こめかみを引き攣らせながら、無言で何事か思いを巡らせているようであった。

 次に目を開いた時、軍人は黒岩の思いも付かぬ奇怪な質問を口にした。

「ではそれを、もし現代の人間が読めばどうなるでしょうか?」


 黒岩は、全く軍人の質問の意味を理解できなかった。大いに困惑を覚えつつも、取り敢えず思い付いたままに答えて、

「……実物を読んだことがないので何とも云えませんが、恐らく、すっかり都会化した現代人ならば、読んでもさして影響はないのではないでしょうか……」と、そこまで云ったが、そこで少し思う処があって、手の仕種で軍人の次なる発言を遮った。そうしてしばしこちらも目を瞑り、考えをまとめた後で、再び言葉を続けた。

「……しかし、そうですね……いまだ素朴で敬虔な信仰心を持つ者も、各国の地方や農村、辺境の小国などなど、世界にはまだまだ多いでしょう。特にそうした地域に住む一神教徒には強い影響を与えるかもしれませんね……。それと、これは一神教徒でなくとも当て嵌まるかもしれませんが、いまだ人格形成の不安定なる青少年にも、衝撃は強いやもしれません……」

「では、西亜細亜や欧羅巴の田舎者が読んだらどうでしょうか、例えば、回教圏の中央亜細亜や高架斯カフカスや――或いは基督キリスト教圏の露西亜ロシアとか?」

「その辺りの地域なら、まだまだ近代化されていない地域が多いでしょうから、いまだかなり衝撃を受ける者も多いのではないですかな?」

 話しがここに至って、遂に軍人はにやりと笑った。といっても、真向かいにいる者が目を凝らさねば分からない程度であったが、黒岩には確かに、軍人の唇が歪み上がるのが見えた。

「……さすれば、或る処の或る一神教を奉ずる帝国に、唯一絶対の神にその権威を承認されたという皇帝がいるとしましょう。その皇朝、代々仁政施さず、国はいまだ封建の旧習抜け切らず、佞臣ねいしん貴族が国富を独占し、いたずらに己の享楽の為に消尽浪費する一方、臣民の多くは塗炭の苦しみにあり。その臣民の生活の無残なること、木の皮を剥ぎ土を食うが如き。その貧しさたるや、老人は打ち捨てられ、母は赤児が飲む乳も出せず、子は痩せ細り泣く声も上げられず。しかれども皇帝はただ、素朴なる臣民の信仰心に頼って無為に統治いたすのみ。もし左様な国情にある処で、その地の農民や地方の民衆が、かの「本」を目にいたさば、どのような反応を示すのでしょうかな? 唯一神への信仰が打ち砕かれた時、神授されたと云うその皇帝の権威も根底から打ち砕かれるのではありませぬかな?」

 最後の言葉は、最早黒岩への問いではなかった――


「――私は、それでピンときたのだ。この世からうとまれ、周囲から呪われて惨めに死んでいった中世亜剌比亜の天才哲学者の著作が、現代の、最も大きい帝国の一つを揺るがす可能性を持っているかもしれぬ、と。その奇想が私を魅了したのだ。そして、その話しに乗った。そして、二人で案を練ったのだよ。その時の軍人こそが、木戸黄太郎大尉。後で知ったことだが、当時の陸軍士官学校十期生一の変人と云われていた男だ」

 木戸黄太郎――郷田は、その名に覚えがあった。伊志田大尉の手帳に、「失踪」と書かれていた男の名だった。


「……元々は、露西亜には回教徒が多いので、その諜報扇動の可能性を検討することになったのが、木戸大尉がこうした方面に関わる切っ掛けだったようだ。そうした中、細かいことはよく分からぬが、どこからか持ち上がってきたのが、ハッジャールの本を使った扇動工作であったらしい。何でも、元は中世加須底羅カスティーリャに起源を発する、巴爾幹バルカン半島居住の裕福な猶太ユダヤ系の一族が、伝来の珍宝として秘匿していたものを、売却しても良いという話しが、いずれやの筋からか持ち込まれたらしい。それ、露帝は当時みだりに猶太系を圧迫しておっただろう……今の者は知らぬか。まぁそうしたことがあったから、露帝をたおすのに利用できるなら売却してもいい、とのことであったようだ。尤も、相当な高額であったようだから、単に金に困っていただけかもしれんが……。兎に角、これを切っ掛けに大尉の中で構想が生まれてくるのだな……」

 郷田は、ここで老人の話しを遮って、おたおたと狼狽うろたえている学生に、房枝を呼びに行くよう云い付けた。いくら小声で話しているとはいえ、明らかに老人の体力に限界が見え始めたからだ。その顔色は青いというよりも白くなり、息は浅く小刻みになっていた。郷田同様、老人の身を案じ始めていた学生は、云い付けに「はい」と素直に答えて、彼自身、勝手の分かっていない屋敷の中へ、女を探しに行く。その間、郷田は老人の体をゆっくりと敷布団の上に横たえさせた。

「そんな世話はいらん、蕗屋君はどこだ、話しの続きを……」

 と、呻く老人の言葉を再度遮って、もう一度寝巻の襟元を直し、掛け布団を丁寧に被せた。蕗屋と共にやって来た房枝は驚き、老人の顔を優しく拭いて、医者を呼ぶことを主張したが、自身の雇い主に拒否された。しかし、砂糖水を飲ませるという提案だけは決して撤回せず、これには老人も折れて、吸い口からそれを吸った。水分と糖分が効き目を現したのか、老人の顔色が茶色程度にはなった。

 それから房枝は、座敷の下座にこそ移動したものの、部屋から下がろうとはしなかった。床に臥してただ天井を仰ぐ老人に、果たして彼女の姿が見えているのか、いないのか、本人以外の誰にも定かには分からぬが、兎も角それを気にするでもなく、再び彼は語り始めた。郷田は、老人の体力をこれ以上削るのは忍びないながらも、一方でその老人の様子から、今聞き出さなければ二度と聴取の機会がないように思われて、良心と職務の間で葛藤しつつ、結局はそれが老人の意志なのだからと、語るに任せることを自分に納得させた。とは云え、目の前の学生が、しきりに不安そうな目を郷田に送っていたので、それが彼の良心をどうしようもなくうずかせた。それら全てを飲み込んで、老人の話しは進んでいった。

「君達も、明石将軍の活躍は勿論知っているだろう? 最近、伝記も出たからね……そう、六年前に小森徳治が台湾日日新報社から出した『明石元二郎』上下巻だ。明石将軍――当時の明石大佐は、元々露西亜の聖彼得斯堡サンクトペテルブルクの公使館付武官の長だったが、日露開戦による公使館の閉鎖に伴い、瑞典スウェーデンのストックホルム公使館に移動し、そこから露西亜の共産主義者など反体制派を扇動支援してこれを内部から揺さぶり、我が国の勝利に貢献したのは、近年よく知られていることだと思う。ところで、露西亜の日本公館閉鎖の受け皿になったのはストックホルムだけではない。カウナス領事館の職員は墺匈オーストリア=ハンガリー国のレンブルクに移動して、そこを代替地として活動を続けた。露帝国内の小露西亜ウクライナに近かったからだが、ただ、所詮しょせん墺匈国の地方都市なので、如何せん規模が小さく、ストックホルムに比べても、飽くまで補助的な役割にすぎなかったようだが。しかし才気に富む木戸大尉は、ストックホルムの向こうを張って、このレンブルクを対露工作の一大根拠地にしようと考えていたのだよ。そこから露西亜農村部に――特に小露西亜地方には広大な農地が広がっているからね――扇動工作をしようという構想を持ったのだ。素朴に神を信じる露西亜農村部の善男善女こそは、露皇帝の権力の源泉と云えるからな。云い方を変えるなら、ここに騒擾を起こせしめれば、露皇帝の権威に、場合によっては体制そのものに大きな打撃を与えることができる。そしてその為に、云わば過去において幾度となく一神教圏において騒擾を引き起こした実績のある、ハッジャールの「本」を用いて、神への不信仰を広め、農村部に動揺を起こし、露帝国を揺るがさんと構想したのだよ。何という大胆さであろうか! 私は後にも先にも、研究者にしろ学生にしろ軍人にしろ、あれ程不敵な男に出会ったことがない。何と驚嘆すべき着想であろうか! あれ程途方もない構想、並々の者で思い付くものではない。あれ程に、困難な企てに当たって、独創の才を閃かす者を見たことがない。いやまさに、彼こそ非凡、彼こそ異才であった……」

 黒岩は、語る内に、徐々に過去を思い出して賛美するような口調になっていった。それは、並ぶものなき異能の戦友を思い起こして、武者震いを引き起こしているかのようであった。落ち窪んだ両の眼は、つかの間、若き日の情熱の残滓に爛々らんらんと輝き始めたかに見えた。

 海外の地理にはうとい郷田ではあったが、その構想の法外さは理解できた。「本」一冊で、三百年に及んで続いた欧亜に跨ぐ巨大帝国を揺るがそうというのだ。その企図の遠大さの、尋常ならざることは明らかであった。しかし郷田には、そこに聊か狂逸なるものさえ覚えて、寧ろ何か空恐ろしいものも感じるのだった。学生は、黒岩と同様に魅入られたらしく、「何という奇想でしょう……」と聊か声を上擦らせて、感嘆の言葉を漏らしていた。そう云えば、黒岩も先程「奇想」という言葉を使っていた。確かに、その表現こそが一番似合うだろうと、郷田は思った。

「そう、亜剌比亜の奇才と日本の奇才が、一千年の時と亜細亜の東西という地を越えて、この東亜の地で出逢うことで生み出された異形の構想だ。君達のように物質主義的で分別がある程度付いた者なら、どうってことはないのかもしれん。しかし、信仰心のある者や、思春期の少年少女なら、恐ろしい衝撃を受けるかもしれん。騒擾を引き起こす程に……。人間にも、命にも、この世界にも、何一つ意味はないのだということが、恐ろしい程に理路整然と論じられているのだ。だからこそ、『絶望の書』と呼ばれるのだ……」


「……木戸大尉自身、自分の構想に魅了されていたようだった。武官補佐官としてレンブルクに赴任した彼は、自分の構想が正式に採用される前に、何とか自前で借財をこさえてでも資金を工面して、工作を既成事実化しておこうと思ったらしい。手柄さえ上げてしまえば、後から金はどうにかなると思ったんだろう……。この時、工作資金を立て替えたのが、かねて木戸大尉と懇意にしていた川手商会だったのだ。川手商会にしてみれば、これを機に軍需などにも食い込もうと思ったのかもしれんが……。兎も角、木戸大尉は川手商会を通じて「本」を入手したらしい。レンブルクで翻訳と印刷の準備をするまではしたようだ。現地に露西亜語など、欧州諸語に長けた軍人を用意し、更に数ヶ国語に堪能な留学生を雇い入れたと聞いているが……」

「殿村昌一中尉と風間九十郎ですね。風間はテュルク諸語ができたようです。もう二人共故人ですが」

「そうなのかね……。私はレンブルクでの具体的な活動は知らんのだが、しかし、テュルク諸語に堪能な学生まで雇ったことを考えると、彼は回教徒への工作もやはり考えていたのか……。私としては、高架斯や韃靼タタール、西土耳其斯坦トルキスタンの回教徒らには独立国家の樹立が相応しいと考えておるから、寧ろ彼らを独立に導くような工作をして欲しいと考えていたのだが……」

 そこで言葉を切って、深く息をした老人の唇に、郷田は吸い口を付けた。乾き切った唇に、砂糖水が染み込んでいった。

「すまんな……。さぁ、しかし結局の処、彼は成功しなかったんだ。さしたる工作資金を認めてもらえなかったようだ。結局、ストックホルム組に競り負けてしまったのだな……。芬蘭フィンランド独立派の志士シリヤスクらの協力を得た明石将軍らストックホルム組は、いち早く露西亜内の共産主義者と気脈を通じることに成功し、その実績をもって参謀本部に強力に働き掛けたのだ。その結果、明石将軍が主導した、巴里パリ寿府ジュネーブに於ける、二度の露西亜反体制派会議の開催に、ポチョムキン号反乱への支援、それに何と云っても、露西亜反体制派各党への小銃二万五千挺、弾丸四百二十万発の秘密供与などで、工作資金の殆どは使われてしまった。無論、明石将軍の活躍は、明治三十七、八年戦役に於ける我が帝国の勝利に大変貢献したから、それ自体は全く至当のことであったのだが、しかし時の巡り合わせとは皮肉なもので、一人の天才の活躍の陰で、もう一人の奇才は埋もれてしまったのだよ……。だから、木戸大尉の構想は実行されなかった。結局「本」が訳されたのかどうかも分からん。それどころか、木戸大尉は戦争中に欧州で姿を消してしまった。気の毒なのは川手商会で、木戸大尉が姿を消したものだから、立て替えた分の借財の返済を一身に被ってしまった。それを取り返そうとしてさらに無理をしたのが、致命的なまでに借財を増やす原因だったと聞いている。まぁ元々、そういった話しに手を出すくらいだから、山っ気があったのかもしれんが……。郷田君、君の考えた通りだよ。恐らく、川手家の娘は、両親が追い込まれていった真相を調べようとしたのだろう……。兎に角、それ以後、木戸大尉は一切表に姿をあらわしてはいない。現在もなお、行方不明のままだ。彼の失踪の理由はよく分かっていないが、明石将軍の活躍と共に、どんどん冷遇されていったらしく、戦争中、彼が上にかなり強い不満を持っていたらしいことは、戦後に噂で聞いている。それが原因かもしれぬ。……或いは、読む者を狂わせると云う『絶望の書』を、彼自身、読んで、気が触れたのかもしれん……」

「……黒岩先生は読まれたのですか?」ふと気になって、郷田は聞いた。

 すると老人は、

「……想像に御任せするよ」と云って、意味ありげに笑い、すっと目を細めた。


 老人の話しは、殆ど終わったかのようだった。今や老人は、寝息を立てるように規則正しく胸を上下させている。しかし、一つ重要なことを老人が云い忘れていることに、郷田は気付いていた。目の前の学生を見ると、何かを訴え掛けるような不安な面持ちで、半ば閉じられた老人の瞼の奥をじっと覗き込んでいた。彼も、老人が再び口を開いてくれるのを待っているのだろう。しかし、その時が来るのかどうか、郷田は半信半疑だった。もう、どう考えても老人の体力は限界を迎えていた。いや、限界を超えていたと云った方がいいのかもしれない。もう直ぐにでも、房枝がこの面会を御開きにして、自分達を追い返すのではないかと恐かった。しかしそれ以上に、自分達が、今も猶、老人の寿命を縮めてしまっているのかもしれないと考えるのが恐かった。

 ずっと下座で息を殺していた房枝が腰を浮かした。もう、これまでかと郷田は思った。諦めて、彼もまた腰を浮かせようとした時、急に学生が、老人の肩を揺すぶった。

「黒岩さん、まだ伺ってないことがあります! 黒岩さん!」

「一寸、学生さん、何しはるんですか!」

 若いとは、残酷だということなのかと郷田は思った。驚いて止めようとする房枝と共に、郷田も学生を制しようとした。

「黒岩さん、『悪魔との対話』は、どこに?」

「止めとくれやす!」

 しかし、学生は止まらない。郷田は、力ずくで学生を引き剥がさざるを得ないと思った。もう完全に立ち上がり、学生の両腕を羽交い締めにしようとする――が、病人のいる部屋で本気の立ち回りをする訳にもいかず、力を加減してしまい学生を上手く止められない。そうして房枝を含めて見苦しい揉み合いをしていると、すっと手を伸ばしてそれを制する者がいた。

「……分かっている。まだ云ってないことがあるのは……。房枝さん、一寸、暖炉の火を弱めてくれるかな……。暖か過ぎて、どうも眠くなるようだ……」

 大いに不服そうな房枝は、それでも云われた通りにした。郷田は、最早複雑な気持ちを通り越して、悲しくなり始めていたが、それでも黒岩の話しを聞かねばならぬと気を取り直し、まるでそれが自分にできる唯一の勤めとでもいうように、老人の唇に砂糖水を含ませた。

「そう、それなのだよ、問題は……。『悪魔との対話』は、今も、木戸大尉……いやもう今は大尉とは呼べぬか……兎に角、彼の手元にあるはずだ。そして、伊志田大尉は、私がその在り処を知っているのではないかと思って、ここに接触しに来たのだよ……」

「伊志田大尉は、何故そのような?」

「知らん……が、私と木戸が練った構想を、何かの参考にしようとしているのかもしれん。或いはまた、一神教を奉ずる国と戦争でもしようというのか……。兎に角、伊志田大尉は何としても「本」を手に入れ、その情報の一切を自分の下で管理しようとしているようだ……。諜報というのは、しばしば暴走すると手に負えんからな……。川手商会の娘が大阪で殺されたとラヂオ・ニュースで聞いた時、嫌な感じがしたのだ。もしかしたら、伊志田がやったのかもしれん、とな。だから、郷田刑事、大阪で刑事をしているという貴男から私に電話があった時、やはりそうなのだと確信したのだ。少なくとも、あの呪われた本の周りで、人が死んでいるのだと」

「……では、何故、僕の従弟がそんな「本」を読んでいたのですか?」

「分からん。分からんが……思い当たることがある。木戸の実家は、今はどうか知らんが、関東方面の山地……多摩だか甲州辺りに元々あって、親類もいた筈だ」

「……じゃあ、木戸が「本」をその親類へ送ったと?」

「そう……なのかも、しれない」老人は一端、言葉を切った。

「二人とも、何とか「本」を見付け出してくれ……。あれは、古の哲学者が狂える程の思索の末にたどり着いた、一つの智慧の結晶。いかに忌まわしいものとはいえ、人類の到達点の一つなのだ。それをこのまま、歴史の闇に埋もれさせてはならぬのだ……」

 そう云うと黒岩は、左右両方の手でそれぞれに郷田と蕗屋の手を取り、ぎゅっと握り締めた。郷田と蕗屋も、それぞれにその手を握り返した。すると老人は、とても満足そうにゆっくりと頷き、今度こそ全てを伝え切ったとばかりに満足そうな笑みを浮かべ、そのまま目を閉じて、再び静かな息を立て始めた。そしてこの日はもうこれ以上、何も語ることはなかった。


 ――この三日後、黒岩の容態は急変した。そして房枝と急ぎ駆け付けた息子達に看取られつつ、やがて息を引き取った。


                                  (続く)

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