第四話

四、大阪

「ふうむ、美味い。やはり美味いですなぁ」と、小浜信蔵は、細い脚の付いた硝子ガラスの杯を唇から離して云った。店内の青い光を受けて、その不安定な器にたたえられた琥珀色の液体は、うっすらと緑がかって見えた。

「私はこの「イムプルーヴ」というコックテイルが大好きでしてなぁ。ジンにアプサントとマラスキーノ、それにレモンピールを加えて作るのですが、私はこれをギロン商会のジンで作るのが好きなのです。これを出してくれる店は少ないですぞ。ましてや、カフェーでは。昨今のカフェーは、最早もはやどこもかしこも女の色気を売りものにする店になってしまっていて、嘆かわしい限りですな。いや、別に私も聖人君子ではありませぬ。女を売りものにする店があること自体は、まぁ褒め称えるようなことではないにせよ、わば世の常、存在そのものを否定は致しませんが、何もカフェーと名乗ることはありますまい。仏蘭西フランス人がこれを見たらば、一体カフェーにてこのようなことが行われるとは、日本人の淫欲なること如何いかばかりかと腰を抜かしますぞ。ですので、かく私は、カフェーという名を変えてほしい。何故にカフェーなどと名乗るのか。昨年からでしたかな? 警察が監督し始めたのは。まぁ恥部まで見せるような店まで出たと聞きますから、警察が監督せねばならぬのはもう仕方ないことでしょうが、警察も、取り締まるなら名前も変えるよう指導すればよかったのですぞ。名乗るなら、破廉恥はれんち酒場で良いじゃありませぬか。まぁそもそも、こう云ってはなんだが、大阪人が悪いのですぞ。「赤玉」やら「美人座」やら、破廉恥なカフェーを最初に創ったのは大阪人ですからな。それが、大阪の資本とともに、全国を席巻してしまった。刑事さんは、東京に行かれたことはありますかな? 今や東京の銀座も、破廉恥カフェーだらけですぞ。尤も、最近は、本物の珈琲を楽しむ店も「純喫茶」などという珍妙な名を掲げて神保町辺りに増えているそうですがな。いや、兎に角、外国人に誤解されるのが私は怖い。もし仏蘭西人が間違えてカフェーなどに行ってしまったら……」

「じゃあうちは、「仏蘭西人御断り」の看板を出そかしら」

「いや、マダム。ここは別だよ。まぁここも、仏蘭西で云う処のカフェーとは違うが、それを補える程酒が美味い。仏蘭西人も満足すると、私が太鼓判を押すよ。それに何よりマダムが綺麗だ」

「まぁ、料理長ったら。私への御世辞は兎も角として、大阪一の料理長からそう云うて頂けると、光栄の限りですわ。まぁ何のことはない、うちみたいに小さい店やと、可愛い娘はすぐ大きい店に引き抜かれるし、何か色気以外に売りが必要やいうだけなんですけどね。でもそれやったら安心して、「仏蘭西人大歓迎」って看板出そかしら。「新京ホテルの料理長、御墨付き」って大々的に書いて。ねぇ、仏蘭西語で「歓迎」って、何て云うの?」

Bienvenuビアンヴニュだよ」

「ビアン……何? ああもう、ええわ。私、洋酒売ってんのに横文字なんてさっぱりなんやから。御代わりは如何いかが? そちらは本当に要らないの? 今も料理長が云うてくれはったみたいに、うちは御酒が売りなんですけどねぇ……」

 薩摩上布に銀鼠色の無地の帯を締めた女は、郷田が酒の薦めを固辞したので、至極しごく残念そうな様子でその前を離れ、小浜の御代わりを用意しにカウンターの奥へ引っ込んだ。

 カフェー「青蘭」は、繁華な島之内にある。新京ホテルから遠かったが、昨年大阪市年来の宿願であった地下鉄御堂筋線が開業してからというもの、歩く時間を含めても三十分も掛からず往来することができた。郷田としてはわざわざそんな処まで足を延ばしたくはなかったが、小浜の馴染みの店があるとのことで、是非にと連れてこられたのだった。御堂筋線終着の心斎橋駅(註1)から地上に上がれば、西に文楽座が見えるから、それを背にして、十合と大丸の両百貨店の隙間を抜け、大宝寺を東へ進む。心斎橋筋、畳屋町筋を越え、そのまま真っぐに行けば堺筋の高島屋へと出る処を、大宝尋常小学校の手前で右へ折れると、そこは薄暗い笠屋町筋である。この裏通りをしばらく南へ真っ直ぐ行き、玉の井湯の赤い暖簾を右手に見越して周防町筋を少し過ぎた辺りに、青いネオンで「カフェー・青蘭」と書かれた看板が出ているのだった。

 閉店時間は過ぎていたので、女給達の姿も、住み込みの二人を残して既に無く、客も郷田達だけだった。しかし、どうやら小浜は本当にここの常連らしく、マダムは快く二人を迎え入れた。官服時代の郷田なら、営業時間違反でとがめ立てる処だが、今は風紀の取り締まりよりも、殺人事件の手掛かりが優先であった。女給達は疲れた様子で、営業用のひらひらとした蝶のようなリボンの付いたエプロンを脱ぎ捨て、郷田らに目もくれなかったが、それでも小浜がジェットのミント・リキュールを御馳走すると、現金なもので郷田らの陣取るカウンターの隣席へと寄ってきた。とはいえさすがに相手をする訳ではなく、若い娘同士でそのエメラルド・グリーンの液体を飲みながら、当代一の銀幕スタア林長二郎の噂話に花を咲かせた。

 マダムも既に仕事終わりの一杯を口にしていたので、郷田だけが、苦い珈琲をすすっていた。この処ずっと飲んでいるので、もういい加減に飽いていたが、「レストラン ラ・ヴィ・アン・ローズ」よりも遥かに安く、その点は有難かった。目の前で、マダムから渡された御代わりをぐいぐいとあおる小浜を見て、少しは遠慮しろよと恨めしさを感じたが、それで小浜の口が軽くなるのなら良いかと、郷田は自分を納得させた。

「ううむ、美味いです。美味いですなぁ。結局、私は酒が好きなんですなぁ。刑事さんも、珈琲ばかり飲んでおられず、一口くらい如何です? それで酔っ払ってしまう訳でもありますまい」

「駄目です」郷田は素気そっけ無く拒絶した。「まぁ、私も酒は嫌いではありませんがね。でも普段は洋酒など到底飲めませんな。ビヤーなら安くて良いのですが」

「ははぁ、確かにビヤーは安いですな。しかしいけません。あれは独逸ドイツの大衆酒、云わば田舎者の飲む安酒です。独逸は成長著しいとはいえ、やはり諸文化の面では佛蘭西や伊太利イタリアに劣りますな。まして料理となると。洋食の本来あるべき姿からすれば、不于的ブルゴーニュ風に煮込んだ牛肉に、血のような赤い葡萄酒ですぞ。佛蘭西では、料理と酒の相性がいいことを、面白いことに料理と酒の「結婚マリアージュ」というのですが、この「結婚」は最上のものです。それもその筈、不于的風煮込みとは、赤葡萄酒で煮込んだものなんですな。それで出来上がった料理が赤葡萄酒と合うのは道理、元々同根なのだから、云わば近親結婚です。私はこれを、修業中の巴里パリで、無け無しの金を叩いて初めて味わったのですが……」

 酔漢の語りは、ここから欧羅巴ヨーロッパ各地をあちこちと彷徨さまよっていく。佛蘭西、英吉利、独逸……そして露西亜ロシア。御蔭でこの小浜という男の素性はよく分かった。

 小浜信蔵は明治九年に、長崎の鳥鍋屋の次男として生まれたらしい。その所為せいか、年少の頃から料理に興味を持っていたようだ。十三歳の時に熊本地震のあおりで実家が倒産。小料理屋へ住み込みで働きに出るが、そこも倒産。立て続く店の倒産に、これからは西洋料理こそ当たると考えるようになったらしい。長崎の洋食屋に住み込みで働くようになり、料理の腕を磨き、また店にしばしば訪れていた仏蘭西人司祭の手ほどきによって、仏蘭西語の勉強も重ねた。料理修行そのものは順調であったが、研究熱心さが仇となって、料理の方針を巡り料理長と衝突。地方で西洋料理を極めることの限界を感じた若き小浜は、故郷を離れることとなる。しかし、ここからがこの明治人の真骨頂。普通ならば東京か横浜へ行くであろう処を、一足飛びに渡欧することにしたのだ。明治三十年、それまで大事に貯めていた金を叩いて、小浜は二十一歳の若さで単身欧羅巴に渡り、仏蘭西を初めとして、伊太利や独逸など、西欧諸国での料理修行を始めた。そして明治三十六年、巴里にいた処、当時の外務大臣小村寿太郎御抱えの料理長である宇野弥太郎と知り合って、その縁故で二十七歳の時に、露西亜のカウナス市にあった日本領事館の領事付き料理長として奉職するに至った。翌年、日露戦争の開始と共に、カウナスの人員は墺匈オーストリア=ハンガリー国のレンブルクに移動し、戦争終結まで同地で腕を振るった。明治四十四年に帰朝した小浜は帝都ホテルの料理長として迎えられる。五年後、自分の店「レ・トロワ・クロッシュ」を開業、本場仕込みの料理人が独立した店を開くとして話題になった。小浜の本場仕込みの料理と洗練されたサーヴィスによって、当初「レ・トロワ・クロッシュ」は繁盛し、その経営は順調であった。しかし小浜は本格的なフランス料理にこだわり、食材にも一切妥協をしなかった為、その調達費が徐々に店の経営を圧迫するようになる。しかも本場そのものの小浜の料理は、目新しくはあったものの、必ずしも日本人客の舌に好評ではなかった。それでも舌の肥えた贔屓客や外国人客によって経営を成り立たせていたが、そこに大正一二年の関東大震災が降りかかる。店はなんとか無事だったものの、震災後の客の激減に耐えることはできなかった。大正一三年、小浜は店を箱根に移転し、再出発するも客足が伸びず、これも昭和三年に廃業。それでもなお数年間は自分の店を再建する夢を捨てられなかったが、昭和八年、遂に御堂筋に新規開業する新京ホテルの料理長に就任することを承諾し、縁のない大阪へとやって来たのだった……。

 郷田は、小浜の話しを捜査用の手帳に書き付けていく。それは、西洋料理人を目指した若き明治人の一大記であった。人の好さそうな見た目とは裏腹に、なかなかに驚くべき人間である。彼の年齢でこれだけ欧羅巴で経験を積んだ者は少ないだろう。その頃は本邦もまだまだ東亜の小国であり、洋行するだけで莫大な費用が掛かったはずだ。しかし、本場の洋食技法を身に付けた料理人となれば、今よりも遥かに重宝されたに違いない。云わば、自分自身の腕に人生を賭けて大博打を打ったのだ。そして色々あったものの、結局小浜はそれを引き当てたのだ。

 ただ、詳細に語ってくれる分には至って有り難く、興味深くもあったが、如何せん冗長だった。話しの筋は行きつ戻りつし、話すごとに要点が不明確になっていく。おまけに顔はいよいよ赤く、息遣いは荒くなっていた。このままでは肝心な処で要領を得ぬ話ししか聞けぬようになるかもしれぬ。ゆっくり話しを聞き出すつもりが、郷田はいささか慌てて、語りを止めようとしない小浜を手で制し、懐中の隠しから一葉の写真を取り出して見せた。

「申し訳ない。いや、貴男の御苦労並々ならぬこと、重々承知致しました。貴男のような開拓者がいることは、同じ日本人として誇りに思うばかりです。ただ、本当に申し訳ないが、私も時間の都合があるし、余り遅くなっては貴男の明日の用事にも差し障りましょう。急かすようで悪いが、この写真、ホテルでも軽く見てもらったものだが、改めて、よくよく見てはくれませんか?」

「はい? ああ、何やら事件の捜査でしたな。いやいや、御苦労様なことです。私共が安心して暮らせますのも、貴男方の御蔭ですからな。はいはい、見ますよ。犯罪捜査に協力するのは、善良な国民の義務ですからな。どれどれ……。これは……先刻さっき見た御婦人ですな」

「そうです。先程と比べて、何か思い出したことはありますかな?」

一寸ちょっと手に取ってよろしいですかな? ああ、どうも、かたじけない。ふむう……覚えております、覚えておりますぞ。客です。間違いない、レストランの客です」

 郷田は、また話しが逸れぬよう、立て続けに質問を重ねていった。いつ来たか覚えているか? 日にちは? 何時頃? それ以前にその女を知っていたか? 他で見たことはあるか? 女は新聞記者だが、何か思い付くことはあるか? 女と何か話しをしなかったか?

「私が覚えている分には、やって来たのは夕刻くらいだと思いますが、日にちは覚えていませんな。いや、女が誰なのかは、知りません。前にあったことはありません。他で見たこともないですな。ほう、新聞記者。いや、全く心当たりはありませぬな。分かりません。私のことを雑誌か何かで読んだんでしょう、『必携美味通誌』とか『大日本食べ歩き飲み歩き』とかで。帝国新聞の「続々食道楽」にも載っておったと思いますが。そうか、新聞記者だというなら、私のことを新聞で取り上げる気だったのかな? 本格的な西洋料理に興味がある者の間では、私はこれでも一寸した有名人ですからな。その辺りの、凡百の洋食料理人と一緒にされては困ります。あんなのは、本場の正真正銘の料理を口にしたことがない者共です。何ですかな、オムライスとは! あんなもの、佛蘭西人が見れば腰を抜かしますぞ! カツレッツは、本場では、仔牛肉が基本です! ああ、もう、恥ずかしい。私は如何なる御大尽だいじんに懇願されても、決してそうした日本風洋食は作りませぬぞ」

 どうにも話しが逸れていくので、郷田は時になだめすかし、時に語気をやや強めて、川手妙子の記憶を手繰らせようと努める。けれども小浜信蔵は、酒の所為なのか、それとも何かの魂胆があるのか、何を聞いてものらりくらりしてらちが明かない。その上まだコックテイルの御代わりをしようとする。郷田は半ば呆れて、もう匙を放りたいような心持ちとなって、聊か投げ遣りに放言した。

「はぁ……貴男は料理人としては一流かもしれんが、私に云わせればアル中の役立たず同然やな。よくそれで、女の顔を覚えてたもんや」

 すると不思議なもので、この乱暴な物云いが、かえって目の前の酔っ払った脳髄には刺激になったらしく、これまで言葉を尽くしても引き出せなかったものが、するりと小浜の口から飛び出したのだった。

「そりゃあ、そうです。何やら変なことを私に聞いてきましたからなぁ」

「……変なこと?」

「あぁ、そうです。本だの何だの……金がどうのと」

「金? それ、それ。そこを詳しく。一寸、マダム、御冷やや、御冷や。この酔っ払いにしこたま飲ませるんや」

「御冷や……?」

 聊か酔っている様子のマダムは、突然興奮し始めた郷田の様子に戸惑って、指示の意味も通じていないのか何ら動こうともせず、きょとんとした顔で可愛らしいゲップを出した。小浜もまた事態が理解できず、関帝のような赤ら顔を更にぼんやりと緩めて、惰性で硝子杯を手に取ろうとした。ところが郷田がその手を押さえたものだから、びくりと大層驚いた表情になった。小浜を制した郷田は、空いている左手で彼の杯を横取りして、中の液体をぐびりと飲み干す。もうこれ以上小浜には飲ませないという意志表示だったが、この日初めて口にしたアルコホルは爽やかな香気が心地好く、普段郷田が飲んでいる安い並等へいとう酒の甘ったるい味とは随分違った。

「あ、ああ、御冷やですね、御冷や……」

 そこでマダムもやっと郷田の言葉を飲み込んだ。


(註1:当時の大阪地下鉄御堂筋線は心斎橋駅が終着駅だった)



「はぁはぁ、一寸待ってください。飲みますから、飲みますから。急に人が変わったみたいになりましたな。いや、分かっとります、分かっとります、大事な御仕事なのは。しかし、私、そんな大層なこと云いましたかな? 本ね、何でしたかな? いや、分かっとります、飲みます。そんなに酔ってはおりませんよ。本、本……ああ、そう、そう」

 立て続けに飲ませた御冷やと、郷田の怒気を含んだ顔が功を奏したらしく、小浜信蔵は急速に醒めていった。自分の目の前にいるのが府警察の刑事だと改めて思い出したのかもしれない。目をぱちぱちと瞬かせながら、ぶるっと身震いして、ようやく本気で自分の頭の中を探るような顔になる。

「ええと……「本壱冊」とは何かと聞かれましたな。その「本壱冊」の、古い納入記録みたいなのを見せられて……。いや、どんな本かは知りません。そこには「本壱冊」と書かれているだけだったので、そもそも何のことかさっぱり。ただ、その納入記録に書かれた「本」の値段は、えらく高かった。確か、三十年程も前の日付なのに、「本壱冊参千五百円」となっていた。そう、おかしいんですよ、高過ぎる。何故、私の処に来たかって? ええ……あ、そうそう。その「本」の送り先がね、さっきも云ったレンブルクの領事館だったからですよ。ほら、さっきも云ったでしょう? 私はこの道ではそこそこ有名だって。だから、どこかで読んだんでしょうな、私がレンブルクで料理長をしていたと。とはいえ、変ではあったんですよ。住所は確かに、レンブルク市シュリックプラッツ通り三〇番という、領事館のある通り名と番地なんですが、「領事館宛て」とはどこにも書いてないんですな。いや、受け取り人の名前はありましたよ。確か、ヤマダ某とか何とか。しかしね、私の記憶の範囲では、そんな駐在員はいなかったんですよ……。何か変な伝票でしたな。ああ、御婦人には、「本」のことは分からんから、ただ分からんと答えましたが、住所は確かに領事館のものだと云いましたよ。但しヤマダ某はいなかったと思う、とも。要するに、今、刑事さんに云ったことと同じことを云った訳ですが、御婦人はそれらをノオトに細かく書き込んでましたな。送り主? 何て書いてあったかなぁ……。何か会社の名前でしたな。そんなに変わった名前ではなかった思うが……。ああ、この御婦人、何て名前だと云っておられましたかな?」

「……川手妙子」

「ああ、それです、それ。川手商会ですよ、川手商会」

 川手商会――それは、川手妙子の実家が営んでいた、倒産した会社の屋号だった。


 翌日、郷田は久しぶりに午前の書類を片付けた後で、川手妙子の実家に向かった。住所によれば天満青物市場の近辺である。これは大阪城の西北、大川北岸に位置し、天満橋北詰から天神橋にまたがって面積およそ五千坪にも上る大市場であった。二、三百メートルを隔てて天満魚市場及び裏街市場とも近接し、以上合わせて、一帯で食料品を扱う業者は実に一千戸を越える。関西各地とは、淀川水系並びに大阪湾を通じて直接水運によって繋がり、また梅田、天満、片町、難波の各停車場とも水上の便によって連絡していた。今宮、天王寺の両停車場からも、牛馬車や肩担ぎ、或いは自動車によって、運送屋或いは市場付属の小廻しが荷を搬入している。水陸共に良好な輸送の便があったので、北は北海道の林檎から、南は台中の杏桃まで、日本国中の産品がここに集まっていた。

 この天満青物市場の起源は古く、石山本願寺隆盛の頃まで遡るという。川手家は本来、代々この市場で荷駄の運送をしていた家系であった。幕末の頃よりその運送範囲や商品の種類などを拡げ、遂に海外をも商売相手として商社を称するようになったのだ。それに伴って店は大川の対岸にある近代的な商業地北浜に移転したが、居宅は職住一体の頃のまま、青物市場に程近い天満天神界隈に残された。そうした先祖代々の家屋敷であり、両親が亡くなった際も幸い売り払わずに済んだにも拘わらず、妙子は、大阪時事朝報社に入社して以来「星花寮」に住んで、事実上これを放棄していた。家族を思い出してしまうからか、それとも一人で住むには広すぎて何かと不便があるのかと、郷田は推測したが、実際に目にすると、どうやらもっと実際的な理由があるようだった。

 単に人が住んでいないという以上に荒れているのである。切妻屋根、漆喰塗籠めで背の低い木造二階建てのその建物は、如何にも昔ながらの商家という趣きであったが、瓦は剥がれ、二階の壁を中心に雨水が染み込んで変色し、一部はひび割れ崩れ、各処の連子格子もへし折れて外れていた。老朽化し過ぎているのだ。いくら先祖代々の家屋敷とはいえ――いや、先祖代々の家屋敷だからこそ、こうなってしまったのだろうが――ここまで傷んでしまっては、再建する資金が用意できないことには到底住めるものではない。いやむしろ、妙子は何故にこれを手放さなかったのだろうかと、郷田には不思議に思えるくらいだった。家屋は兎も角、土地には充分な売値が付くだろうに。しかし、歪んだ引き戸を無理矢理にこじ開けて、中に足を踏み入れるや、間もなく郷田は妙子の心中を理解した。雨水に侵された外観から想像される、カビ臭い嫌な臭いはなく、寧ろかすかに香の薫りさえする。肌を冷やすような嫌な湿気も感じなかった。壁に触れた指にはほこりが付かなかった。天窓からの光でぼうっと浮かび上がる奥の台所――大阪弁で「へっつい」――も綺麗に整頓されている。どうやら、最近まで掃除されているようだった。

 郷田は帳場に上がり、格子戸を引いて座敷に足を入れた。畳の上には、川手家の家族が使っていたと思しい道具や食器などが、行李こうりや長持ち、或いはボール箱に詰められて、綺麗に整頓されて並べられている。それら一つ一つも清潔そうな油紙に包まれていて、勿論もちろん埃を被っていない。使おうと思えば、恐らく今直ぐにでも使える状態だった。成程なるほど、寮に住むようになっていたとはいえ、妙子はこの屋敷のことを諦めてはいなかったのだ。直ぐには再建できなくとも、いずれはと思い、空いた時間などに手入れをしていたのだろう。郷田はさらに家の中をくまなく見て廻る。さすがに、人の手が最近まで入っていたと思えるのは一階だけで、二階の壁は内部も処々割れ落ちて、崩壊が進んでいるようだった。それでも、これは期待できるぞと、郷田はほくそ笑んだ。北浜の川手商会はうに畳まれ、それどころか建物さえ取り壊されて跡形も無かったが、この家は生きている。いや、勿論、家族は死に絶えているのだが、その思い出が生きていた。置かれた行李や長持ち、箱類の数は、親子三人暮らしだった川手家からすると多い。川手商会に置かれていたものも、こちらに持ち込まれて保管されている可能性が高そうに思われた――勿論伝票や帳簿も。

 川手商会の記録類を収めた箱は沢山あったので、存外簡単に見つかった。しかし、前日の雨雲が残る空は、この時点で既に暗くなり始めていた。細かな字で書かれた記録一つ一つの確認は、さすがに明るくないと無理である。電灯はあるにはあったが、電気が流れておらず点けることができない。電気を再度通すには、上司の許可を得て大阪市電気局に協力を取り付ける必要があったが、相変わらずの単独行動だったので、それもはばかられた。そこで、この日はこれ以上の捜査を諦めて帰り、郷田は翌日の明るい時間から、一つ一つの確認を始めた。川手妙子は、商会の書類を総ざらいで見境なく持ってきたらしく、記録類は箱の中にぎゅうぎゅうに詰められて、しかもそのようなものが幾つも山と積まれていたから、その総数は膨大なものと思われた。しかし、その膨大な記録を前にしても、郷田の気力が挫けることはなかった。それと云うのも、漸くどうにか、郷田にも妙子が追っていたものの正体が分かったからだ。それは、日露戦争時に行われた、川手商会の不明朗な取引であったに違いない。三十年前の「本壱冊参千五百円」――余りにも異常な金額であり、到底まともな取引だったとは思えない。一体、その「本壱冊」という言葉は何を意味しているのか? 一体、何の為の、誰との取引だったのか? 川手商会が廃業に追い込まれ、妙子の両親が自殺に追い込まれた原因である不明朗な借財と関連があるのかもしれない。もしそうであれば、妙子が異様な執念を燃やして追っていたのも理解できた。だから、郷田はただただ「本壱冊」や「レンブルク」、或いは「露西亜」といった言葉のみを求めて目を皿のようにし、砂場から一粒の数珠じゅず玉を探すが如き仕事を懸命に続けた。


 ――こうして、川手家の居宅を調べるようになった郷田だったが、この頃には彼自身、既に監視され始めるようになっていた。彼を見つめる男の目は、時には、街の片隅に停められた、排気量一〇五六立方センチメートルのスミダ九型乗用車の四角い窓の奥にあった。時には、天満青物市場の商人達の声が飛び交う雑踏の中にあった。時には、日が落ちつつある街中で、ずっと遠くの廃寺の門前から覗き見た。男は、郷田の草臥くたびれた背広を見逃さぬようじっと目で追い、しかし目立たぬよう付かず離れず、こちらからは見えても向こうから見えぬよう、適度な距離を保ち続けていた。郷田は、天神天満界隈での用事を終えると、空心町一丁目電停から市電曽根崎天満橋筋線に乗り込み、谷町線に乗り継いで谷町二丁目電停で降りた。その間、黒い革外套を着た男は、大胆にも郷田のほぼ真後ろから見ていた。市電の中は人が多く、気付かれずに済むからだ。そこから郷田が西へ歩き、府庁の中に入るのを見届けると、スミダ九型に拾ってもらい、車の中で待機した。そうして、郷田が再び府庁から出てくると追跡を再開し、玉造の長屋に帰っていくまでを見届けた。暗かった二階の部屋に電灯が点くのを確認して、その男は笑うでもなく、一息くでもなく、ただむっつりとして帳面に書き込んだ。


 三月五日月曜、

 登庁時刻 午前八時十三分

 外出時刻 午前十時八分

 行先 天満天神川手家廃宅

 再登庁時刻 午後六時四十三分

 帰宅時刻 午後八時二十五分


 長屋住まい、独身、実家は奈良磯城郡多武峰村の農家、次男坊で、一三歳の時に丁稚として大阪に出てきて、一八歳の時に警察講習所入り――。黒外套を着たその男が、郷田に注目するようになった切っ掛けは、堀越貞三郎から、婦人記者殺害事件に関して日露戦争関係者に捜査を行っている刑事がいるという話しを聞き付けたからであった。

 一方、見られている方の郷田がそれに気付くには、もう暫くの日にちが必要であった――


 ところで、郷田は自分に出来得る限りでレンブルク領事館の関係者の跡も追った。取り敢えず小浜から聞き出した、領事館の元使用人らを当たっていったのだ。幸い、当時のレンブルク領事肝付兼重は薩摩閥だったが、元々大坂江戸堀の中屋敷に詰めていた一族であったので、彼が連れて行った使用人も大阪出身の者が多かった。また、関東に在住していた者の中にも、関東大震災以後、関西に移り住んでいた者が幾人かおり、その話しを聞きに行くことができた。朝から明るい間は川手家で記録類に当たり、夕刻近くなるとこうした聞き込みに向かったので、この頃には、府警察部での書類仕事は明らかに停滞しており、郷田はしばしば苦情を訴えられるようにもなっていた。しかし、最早独自の捜査に夢中になり始めた郷田には蛙の面に小便で、一方周りの同僚たちの間では、「郷田が何か掴んだらしい」との噂が立ち始めていた。司法主任小保内精一は、勝手な行動を続ける郷田に怒り狂っていたが、彼が指揮する捜査そのものが完全に行き詰まっていたから、内心では、郷田の捜査から突破口が開けることにも期待し始めていた。といっても、郷田に手柄を上げさせるつもりはなかったから、成果が上がりそうになった時には、郷田を改めて命令違反で懲罰し、手柄だけを刑事課の――ひいては自分の―― ものにしようと考えていたのだが。そんなことは露知らぬまま、郷田は彼独自の捜査活動にますますのめり込んでいった。

 郷田が聞き込みを進めていく中で、領事館の元使用人の中で居処が分からない者がいた。北田卓一という名で、他の元使用人たちに聞いても、唯一、消息がようとして知れぬ。何人かは、暫く年賀のやり取り程度はしていたようだが、十年程前に、肝付領事が亡くなった時に連絡を取ったのが最後で、北田は領事の葬儀に現れることもなく、その後暫くすると、送った郵便物も「居所不明」で返ってくるようになり、連絡は全く途絶えたと云う。その完全な消息の絶ち方が、逆に郷田の強い興味を誘った。何か雲隠れしないといけない事情でもあったのか――しかし、元々使用人達の中でも親しくしていた者はおらず、その使われなくなった住所を控えていた者さえいなかった。ただ、物持ちのいい元女中の一人が、古い年賀を残していた。それに依ると、消息を絶つ前、北田が郵便に記していた住所は、大阪市西区本田三番丁。郷田は取り敢えず、その番地へと向かってみた。そこの新しい住人が、以前の住人の行き先を知っているかもしれないと思ったからだ。

 ところが、そこにあったのは昨今大阪市内にも増えてきた近代的なアパートメントハウスで、五年程前に新聞紙上で「本田御殿」「だい大阪モダニズムの粋」と大いに称えられた、五階建ての堂々たる高層鉄筋住宅であった。木造家屋がひしめく一帯に出現した巨大な鉄筋住宅は、新しい物好きの間で、盛んに話題になったものである。特に高層階は官吏や弁護士、医者に文化人、起業家などが住んでいるとかで、庶民の羨望の的であった。単に北田がこの住所に住んでいないというだけでなく、どうやらもう北田の家そのものが無いらしい。唖然としながらも、郷田は居並ぶ洋扉を叩いて、顔を出した奥様方に話しを聞くも、その地の以前の住人のことを知っている者は唯の独りもいなかった。それどころか、この巨大鉄筋住宅の中では、隣に誰が住んでいるかも知らないと云う。ああ、何ということか、隣に住む者の顔も分からぬとは、これが都会暮らしの酷薄さなのか。御一新ごいっしん以来、遮二無二しゃにむに文明開化の道を邁進して来た本邦が落ち込んだ一つの陥穽であるのやもしれぬ。近い将来、人からの聞き込みに頼った警察捜査は今よりも遥かに困難になっているやも知れぬぞと、郷田は慄然とした。

 ともあれこうして、いきなり行き詰まる。近代建築の奥様方から聞き込むのは諦め、郷田は、更にその周りに広がる一帯の住民達から、集められる限りの情報を集めた。すると、北田の所在などはさっぱり分からぬが、ぽつぽつとその容貌についての話題は出てきた。七、八年程前まで、事故か何かで顔に怪我をした男が近隣にいたが、確かそれが北田という名であったはずだ――云々。顔の怪我の所為で、ぼんやりとでも覚えている者が多かったのである。兎に角、唇がねじれていたらしい。なかなかに特徴的ではあったが、如何せん、実物を見たことがないので何とも頼りない。郷田は思い浮かべようとしてみるが、のっぺらぼうの顔に捩れた唇がくっ付いたようなものしか思い浮かばぬ。

 なお手掛かりはないかと、本田三番丁近辺をぶらぶらと歩き回っていると、西電話局を過ぎた辺りに「森川写真館」と大書された看板が目に入った。これはいやもしれぬ――。表の飾窓には、中央に軍装厳めしい壮年の男の大型の写真がどんと置かれていて目を惹くが、その周りには洋装洋髪のうら若き令嬢の写真が幾葉も並べられていて、恐らくは館主の思惑とは裏腹に、まるでハレムのようで一寸可笑しい。入ると直ぐ突き当たりに幅の広い階段があって、「御写しの方は二階に上がってください」という札がある。指示のまま上がっていくと、広い洋風の待合室になっており、階段を上がる音を聞き付けたのか、直ぐに奥から主人が現れた。

「いらっしゃいませ。どないな写真を御所望ですやろ? 当館で写真を写しはったら、貴男もたちまち嵐寛寿郎、将又はたまた阪東妻三郎、映画スタアの仲間入り間違い無しでっせ」

「いや、すまない。写真を撮りに来た訳やないんや。実はこういう者なんやが……」と、郷田は肩書付きの名刺を渡して、事情を説明した。

「ははぁ、要は、その北田っちゅう男の写真が必要なんですな。この辺りやったら、うちしか写真屋は無いはずやから、うちにあるんちゃいまっか。え、七、八年前? はぁ、どうやろなあ。あ、わては二代目でしてな、三年前に後継いだばっかりやから……。あ、でも一寸待って下さい。うちの親父、几帳面で物持ちは良かったさかい、客の種版たねばん捨てたりはしてへんのちゃうかな……。一寸時間掛かるかもしれへんけど、良ろしおすか? せやったら、物置探してきますから……」

 こうして郷田は小一時間ばかり待たされることになるのだが、待たされた甲斐はあって、「キタダタクイチ氏ゴ依頼シャシン種版」と書かれた、埃を被った封書が出てきたのであった。


 種版から北田の写真が焼かれ、遂にその姿が明らかになった。それは何かの記念写真らしく、正装して椅子に座った姿を正面から何枚か撮ったものだったが、そこに写っている顔貌は奇態であった。四、五十歳と覚しいその男は、全体としては精悍な顔をしているものの、左顎から頬にかけて火傷らしい痕があり、成程、唇が捩れている。不思議なもので、相手の姿形が判ると、探す分にも甲斐というものが感じられるようになる。問題は、これを手にどこを当たるかということであった。大阪市民その数実に二九八万人、八方手当たり次第に当たるなど郷田独りにできよう筈もない。そこで取り敢えず、郷田は次の日から、市内各処の所轄警察を巡って、親しい官服数名に写真を示して北田卓一捜索の協力を内密に仰ぎ、一方自らは西区内で不動産取引仲介業と引っ越し屋とを廻る日々を始めた。転居したのは七、八年も前であるから聊か古い話しではあったが、顔貌に特徴があるので、浮かんでくる線もあるだろうと思われたからだ。しかし、幾日か西区内方々を歩いたが、現在の北田卓一の所在につながる情報は上がってこなかった。郷田は、別の可能性を考えるようにもなっていった。即ち、既に北田がこの世に無い可能性である。四日目で西区内での探索を打ち切り、郷田は一転して大手前の府警察部の倉庫に積まれている、変死体の記録に当たり始めた。しかし、唇の捩れた変死体の記録は見付からず、その間も、昼間は天満の川手家廃宅にて、川手商会の記録に当たり続けていた訳であるから、郷田の眼はほとほと疲れ果てていった。


 さて、変死体の記録と顔を突き合わせ始めてから三日目、正午までに川手家廃宅での探索を終えて府警察部に戻り、午後からは丸々倉庫の中で過ごさんと、疲れた目をしばたたかせて廊下を歩く郷田に、またもたまたま行き交わした悪友竹谷義作が声を掛けてきた。

「よう。忙しい忙しい云うてたんは、影で周りを出し抜いてたからやったんやのう。噂になっとるぞ。どうも何か掴んでるらしいって。せやけど、俺にも内緒とは、冷たいやっちゃな」

「いや、別に内緒にしてた訳でも、出し抜いた訳でもないんやが……。おかしな経緯でおかしなことになっただけで……。まぁ、俺は、自分の仕事を、自分でできるようにやってるだけや」

「私服は大変やのう。その点、わしらは使われるだけやから、そういう意味では気楽なもんや。偉うなるのも考えもんやな」

「……もうええか? 先急いどるし」

「待て、待て、郷田。おい、三郎! やっと向いたな。なんで俺に頼まへんのや。波貝から聞いたぞ。御前、後輩の北村やら岩本やらに、写真配って探索させてるらしいな」

「別に探させてる訳やない。見掛けたら知らせてくれ云うてるだけや。御前に云わんかったんは、管轄がえろう違うし……。御前が巡邏してるの、法善寺横丁とかの歓楽街のど真ん中やろ? 住吉区とかの住宅地とは違うし。気ぃ悪うしたんやったら、すまんかったな。手伝ってくれるんやったら、また今度写真渡すわ。でも今、自分の分しか持ってないから……」

「だから待てって、人の話し聞けって! 写真は昨日、波貝からちらっと見せてもろたんや」今回の件で、郷田は竹谷に、北田の写真を見せてはいなかった。それは郷田自身が云った通り、探索範囲を一定水準以上の住宅地に絞っていたからであり、また、例の、竹谷に対して最近芽生えた苦手意識の故でもあった。しかしそれは、郷田の誤算だったのである。

「俺、知ってるぞ、あの写真の男――井崎為輔やろ?」


 翌日、郷田と竹谷は、雁次郎横丁に「井崎為輔」を訪ねた。大阪市電南北線難波駅前駅を降りて、寿司屋と易者で有名な精華小学校裏の通りを東へ進むと、少し行った処で、そこから北側にだけこっそり伸びる、目立たない細い路地がある。これが雁次郎横丁で、丁度千日前の歌舞伎座の裏手にある玉突き屋の横へと通じているので、知る者にはなかなかに便利な抜け道となっていた。とはいえ、この辺りの路地はややこしいから、地元の者か余程通じた者でなければわざわざ通ろうとは思わない。即ち、酒好きの中の最たる酒好き、酔っ払いの中の最たる酔っ払いが好むような処であり、小ぢんまりした天麩羅屋や河豚料理屋から、素人っぽい小料理屋、何を食わせ飲ますのかも分からないような飲み屋まで、大小様々色取りどりの看板が犇めいている。夜ならば、ポン引きの掛け声に酔漢や女の喚き声、汚い嘔吐物や立ち小便の臭いで、到底素面ではおれぬ処だが、にも拘わらず、何故だが処々、酒場や料理屋の間に挟まって間口の狭い仕舞しもた屋があるのが不思議である。そうした列びの中に、草臥れた小さな長屋があった。その二階の一室に「井崎為輔」はいるとのことだった。

 先に中に入った竹谷が慣れた様子で階上に向かって呼び掛けると、ギシリギシリと粗末な梯子段を軋ませて、衿を直しながら、着流しを着た壮年の男が窮屈そうに降りてきた。

「警察の旦那ですか。私ゃ近頃御厄介ごやっかいになるようなことはしてまへんが」

 竹谷を見てペコリと頭を下げ、再び上げたその顔は、生来のものらしく全体に色素が薄い。しかし頬だけが朱を差したようにうっすらと紅かった。幾らか酒気を帯びているようで、その所為か両の眼はてらてらと潤み、玄関の電球の光を映し込んでいた。そして頬にあざがあり、唇が確かに捩れていた。それこそが正に、聊か歳を重ねてはいたが、彼が郷田の求める相手であることを雄弁に語っていた。しかし、いくら使用人とはいえ、かつて領事館に勤めていた人物が、このような処で? しかも、何故「井崎為輔」などと名乗っているのか? 郷田は、竹谷に促されるままにここまで来たものの、実の処半信半疑であり、今、現に、探す顔を目の前にしても、狐につままれたような感覚を拭い去ることはできなかった。

「……それで、何の用なんです?」

「こちらが、御前に聞きたいことがあるいう話しでな。こんな格好してはるが、こちらも警察の者やから、失礼の無いようにな。私服の刑事さんや、儂よりよっぽど偉い人やで」

「……私服刑事?」

「なあに、心配するようなことやあらへん。内密にちょこっと話しを聞かせてもらうだけやから。何も悪いことしてへんにゃったら、何も嫌がる必要あらへんやろ?」

 竹谷はニヤニヤと笑いながら、目の前の唇の捩れた男と細やかな駆け引きをする。その口調は親しげなようでもあり、立場の強い者が弱い者を嬲るようでもあった。一方の唇の捩れた男も、年を重ねて枯木のようになった体は到底力強いとは云えないが、枯木といっても柳のそれのようで、飄々としてひるむ様子はない。

「……悪いようにはせん。これ、欲しいやろ?」郷田は、これまた竹谷に促されるままに買ったウィスキィの小瓶を懐から出した。

「あんさん、そんな露骨な。もう一寸洒脱たやり方いうもんがありまっしゃろ。あきまへんで、こんな悪徳警官から変なこと教わったら。……せやけどまぁ、悪い気はしまへんわな」

 唇の捩れた男は、自分の頭の中を覗き込むかのように両眼を上に向けて、少しばかり黙り込む。それは損得勘定をしている様子で、何と何を天秤の両皿に載せているのか、郷田には全く想像もつかなかったが、どうやら郷田に都合の良いように秤は傾いたらしかった。

「よろしおす。ほな、すんませんが上がってください。こんな玄関やったら御近所さんの迷惑や、上で話しましょ。えろう汚のおすが、これは今日たまさかでっさかい、突然来たあんたらが悪いんやさかい、その御つもりで」

 二階の一室は立てばたちまち頭を打つような窮屈さだった。剥き出しの曲がりくねった垂木にはどっさりと埃が積もっていた。

「……で、何の話しでっしゃろ?」

「御前が、墺匈国の領事館で働いていた時のことや」竹谷が、相手の虚を突くようにあっさり云い切ると、「井崎」と名乗る男は一気に顔を強張らせた。その様子から、郷田はこれが北田だと今度こそ確信する。

「……領事館? 何のことでっしゃろ? 刑事さん、なんかとんでもない勘違いしたはるんちゃいますか? こんな私が、こんなドブ板みたいなとこ住んでる私が、領事館? ちゃんちゃら可笑おかしゅうて、逆に笑えまへんわ。どっからそんな途方もない話し聞いてきはったんです?」

「話しを聞いた訳やない。写真を入手したんや。ほら、これ、御前やろ?」そう云うと、竹谷は郷田から預かっている北田卓一の写真を取り出した。

「……顔立ちは似とるようですが、他人の空似でしょう。そもそも若過ぎますがな」

「昔の写真やからな。せやけどこの顔の痣、どう見ても御前やないか」

「……顔に痣のある奴なんて、五万といますえ」

「顔立ちが似てて、同じ痣を持っとる奴はそうはおらんぞ」

「兎に角、こんな処までわざわざ来てもろて悪いですが、残念ながら人違いや。すんませんが、そうとなればっとと帰っておくれやす」

「あんた、北田さん――」郷田が二人のやり取りに口を挟む。

「北田ちゃう、井崎や」

「この写真見てくれ。この娘の顔を」

「……誰なんだす?」

「川手妙子。ひと月程前に、千里山で殺された娘や。……別に、俺はな、あんたのことをどうこうって詮索するつもりはないんや。あんたが過去に何をしていようと、どういう経緯でこういう処に住むことになったんやろうと、俺にはどうでもええんや。……まだ二十一歳の若い娘が殺されたんやぞ。両親に先立たれて、それでも一人で必死に努力して、男でもそう簡単にはなられへん、新聞記者にまでなった、頑張り屋で優秀な娘やったんや。誰か知らんが、それを犬コロみたいに、殺しよった。自分の為、御国の為、一人、必死で生きてきた娘が、そんな目にあったんや。これからまだまだ、色んな可能性があったやろに……。そんな、色んな未来を持った筈の娘が、何やよう分からん理由で、何や理不尽に殺されたんや。そんなこと、許されへんやろ? そんなこと、許したらあかんやろ? 何でそんなうら若い薄幸の娘が殺されなあかんのや? 痴情のもつれやない。今も、同僚の刑事たちは阿呆みたいな顔して、恋人の男がおれへんかと探しとるけど、見付かる見込みはない。金目当てでもない。現場から金目のものは無くなってへん。凌辱目的でもない。そうした痕跡は見付かってへん。誰が、何の目的で、この娘を虫けらみたいに殺したんか? その裏に何があんのか? 俺が知りたいのはそれらで、ほんまの悪事を働く悪人共に、その報いを受けさせたいんや」

「ちょ、一寸。その、その娘の殺しと私に、何の関係があると云うんや」

「あんたやない。関係があるのは海の向こうや。或いは明治三十七、八年の戦争や」

「……何や分かりまへんな」

「詳細は説明でけん。せやけど、この娘は、明治三十七、八年のレンブルク領事館について調べてた。何の為かまだ不明なことが多いけれども、兎に角調べてたのは間違いない。……小浜って料理長知ってるやろ?」

「……知りまへんな」

「……まぁ、いい。兎に角、この娘はレンブルク領事館の元料理長小浜信蔵と会って、色々取材しとった。その後間も無く娘は殺されて、その家から取材内容を書き込んだノオトから何から、ごっそり無くなっとるんや」

「……」

「なぁ、何があったんや、三十年前のレンブルク領事館で? この娘は何を調べようとしてたんや? 何で殺されなあかんかったんや?」

「……今の話し、ほんまでっか?」男はそう問うたが、小さな声だったので、興奮気味の郷田には届かなかった。

「なぁ。何でもいいから知ってること教えてくれ。俺の為やない、この娘の供養の為や思て」

「今の話し、ほんまなんでっか? なぁ竹谷さん、どないなんだす?」

「こいつは、口から出まかせ云えるような器用な奴やあらへん。それだけは保証したるわ」

「……参ったな」

 

「……ほな、しょもない昔話でも、一つ二つ……。私の話しやない、誰からとものう聞いた、他人の話しでっせ。その男の祖父やら父親やらは、御一新の前から、近所の御武家さんの家で、一寸した使い走りやら、危ないこととかを手伝わさせてもらっとったそうですわ。その縁で、ある時、その男は洋行するそこの旦那に同道することになったんやそうです。まぁその頃は、その男も若かったし、好奇心も強かったから、遠く異国に同道するには適任やと思われたんでしょうな。それに男の住んでた処の近くには、川口外国人居留区ゆうのがあったから、見よう見まねで外国語が一寸喋れたんですな。これが大きかったんでしょ。せやけど、いざ向こうに行ってみると、案外することものうて、割かし暇やった。そうしたら、却って一寸変わった御手伝いすることになったそうですわ。と、ゆうても、大したもんやない。子供の御使いみたいなもんですわ。何や出来損ないの伝令みたいなことばっかりや。頼まれた手紙やら持っていくだけの」

「伝令って……誰に?」

「さぁ。その男は細かいことは聞かされてなかったので。ただ、実際に会った相手は如何にも胡散うさん臭い奴らやったそうですわ。まぁ今の私みたいなもんやないですかな。まぁ兎に角、ろくでもなかった。碌でもないが、おもろかった。波蘭ポーランド小露西亜ウクライナか、それとももっと違う国から流れてきたのか、女達が呼び子や花売りしてるのはまだましな方で、一寸小路へ入れば、露骨に胸を肌蹴た女達が筍みたいに突っ立っている。キャバレーなんていったって、穴倉みたいなもんで、どこもかしこも落書きだらけ。よくよく見れば戸口の影にはベレー帽に赤いスカーフをでろりと巻いた兄ちゃん達が、気怠けだるそうに壁に持たれて暇つぶしや。酒飲みと博打打ちと好色漢と、それに群がる奴ばっかり。どこの国でも、この手の人種はおんなじですなぁ。兎に角そういう胡散臭い処で、男も女も色々おったけど、どっちにしろ胡散臭い奴らと繋ぎを取るのが仕事やった。そういう処に出入りする為の金は別途にもろてたから、まぁ何と云うか、若い男には刺激が強過ぎたようですな。そういう処に出入りしている内に、悪いことを色々覚えてもうて、帰国した後も止められず、結局身を持ち崩したらしいですわ」

「金を運んだりは?」

「さあねぇ……何しろ、えらい、前のことやし、その男も忘れてしもてるんちゃいますか」

「その伝令みたいな仕事は、その、同道した旦那から頼まれて?」

「それは違うんちゃうかな? 立場のある旦那がそんなことはせえへんやろ」

「じゃあ、誰から?」

「さぁ……その男から聞いたことはないな。あいつも、本当の処はよう分かってへんかったんちゃうかな。いっつも文書やら伝聞やらで指示されてばっかりやったから。せやから逆に、何を手伝ってるんやろうって、その男自身、怖くなったことも度々たびたびあったらしいですわ」

「井崎」と名乗る北田卓一は本当のことを云っているように、郷田には思えた。そして、北田に仕事の内容などについて全く何も知らせていない、その秘匿の徹底振りが、逆に北田の真の雇い主を示唆しているように郷田には思えた。

「御前……いや、そいつは、薄々自分に指示を出している者について、何か気付いとったんちゃうか?」

「あんた、それ聞かはるのんか? ……でも、まぁええわ。ここまで聞いたら、誰でもそうかなと思うわな。時期が時期やし……戦争中やしな。その男は、「どうも自分は、欧州で間諜の片棒を担がされてたらしい」と云うとったわ」

 間諜――一体、川手妙子はどこまで踏み込んだのだろう? 彼女を取り巻いていた危険な状況がいよいよ浮かび上がってきたことに気付いて、郷田は戦慄した。


 郷田が襲われたのは、こうして捜査に手応えを感じ始めていた矢先のことであった。その日、郷田は、川手家廃宅での探索を夕刻まで行った後、小腹を満たしてから帰ろうと、天満天神界隈から少しばかり北上して、桜宮橋を渡って大川沿いに屋台でも漁ることにした。桜宮橋は、銀橋とも呼ばれ、その名の通り銀色に輝く美しい橋である。四年前に完成したばかりの日本最大の弧形橋で、巴里セーヌ河畔の風景を彷彿とさせるその姿は、数多い大阪人の自慢の種の一つでもあった。郷田も、何とも異国情緒を感じさせるこの橋を通ることを好んでいて、さすがに完成から四年も経つと、用も無く通り掛かることはしなかったが、この日のように少しばかり回り道でもしようかという時にはぶらりと歩くのにうってつけであった。その冷たい金属製の橋梁を踏んでいると、日が完全に落ちて気温が下がった為か、大川から霧がもわりと立ち込め、鉄格子の欄干を越えて足元を舐めるように這い擦っていた。そのぬるりとした湿気の多い空気を、郷田は気持ち悪いと思ったが、それは何かの予感だったのかもしれない。彼方を見ると、大川沿いに黒々と並ぶ木々の影が見えた。今はまだひっそりとしているが、その名の通り桜の名所であるこの界隈は、もう一週間程もすれば、所狭しと露店が立ち並ぶ筈である。木立の一角に赤い灯りが覗けていて、郷田はそこを目指すことにした。

 川面にゆらゆらと提灯の灯りを映し、屋台は濛々もうもうと蒸気を上げていた。闇と霧と蒸気とで、たちまち視界が覚束おぼつかなくなるのを感じて、郷田は急にはっきりとした不安を感じた。先客のいない屋台の縁台に一人腰掛け、それで落ち着けるはずだったが、そうはならなかった。この処の疲弊で彼の神経はすっかり鈍っていたが、それを自覚しているからこそ却って小さいことが気に掛かり、一層警戒心を高めねばならないような、妙な焦燥感に囚われる。視界の効かない霧や闇、人通りの絶えた通りの中に、何か気を付けないといけないものが見えるように思えて仕方がなかった。その不愉快な気持ちを振り払うかのようにぐるぐると腕を回し、関東煮かんとだきを二、三見繕みつくろって注文し、ふにゃふにゃになった平天をつつきながら、二合のすずちろりをちびちびと飲んだ。温かいものを胃袋に収め、酒精を摂取すると、体温が上がってくるのを感じた。やがて鼻腔が膨らみ、呼吸が深くなるとともに、神経が粟立つような感覚は鎮まっていった。剥き出しの恐怖感は柔らかい綿紗で包まれたようだが、それでも不快感が無くなることはなかった。闇と霧と蒸気に加え、酒精による鈍麻という遮蔽幕が加わったことで、猶ぼんやりとした不安が残った。更に何品か関東煮を食い、二合の錫ちろりをすと、これ以上酔う訳にもいかないから、三人連れの客がやって来たのを契機に、郷田は手狭な屋台から退出する踏ん切りを付けた。僅かに残っていた酒の残りを錫ちろりから直接口に流し込んで、五〇銭を置き、外へ出た。とはいえ漠然とした不安は収まらない。郷田は周囲に目を凝らしながら、大川左岸に沿って、川岸の遊歩道を足早に歩き続けた。河畔に人気はなく、誰とも行き違うこともなかった。

 やがて遊歩道の端、川崎渡しの小舟が出る辺りに差し掛かる。そこから堤防に上がり、寝屋川橋を渡れば、幾らか人通りが増える筈だった。そこまで行けば、後は上町筋を南下すれば府庁へ辿り着く。けれども霧と酔いとが、周囲の景色に陰欝な影を与え、郷田をまるで安心させない。郷田は、ふと右手を空けておいた方がいいと思って鞄を持ち替えようとしたが、それ程酔ってはいない筈なのに、つい手落として、ひどくまごついて立ち止まり、辺りを見回した。考え過ぎだ――そう郷田は思った。多分それは、酒精によって作り上げられたまがいものの危険の感覚に違いないのだ。しかし、耳ははっきりと聞き取っていた。急速に近づいてくる足音が想像の産物でないと理解するのに、そう時間はかからなかった。ただし、体を反応させるまでには至らなかったが。ああ、遂に――と、郷田は覚悟を決めた。

 その瞬間、郷田の体が吹き飛んだ。もっとも、郷田は自分の身に何が起こったか分からず、地面に体を打ち付ける衝撃で、初めて自分の身に何か暴力的なことが起こったことに気付いた。草と石にぐちゃぐちゃに塗れながら桜の木立の中を転がっても、実の処、触覚や痛覚にはほとんど何も感じなかった。ただ余りに息ができないので、大川に落ちてしまったかとも思ったが、その割に体が濡れてはいないようだったので、なんとか自分が地上にいると理解できた。息はうめき声と共に漏れる一方だったが、肺の中の全てを出し切るや、血と土の臭いがする空気が逆流し始め、強烈な生臭さに何度もむせた。暫く藻掻もがいていると、漸く上下の感覚が戻ってきて、どうやら自分が顔面を土の中に埋めていると理解した。

 黒い革製の外套を着た男が、郷田を見下ろしていた。当初、郷田は全くそれに気付く余裕もなく、只管ひたすら土の中に突っ伏しているだけだったが、間も無くその男に右拳を痛烈に踏み付けられたことでそれに気付いた。甲の骨がぎしぎしと軋み、指に感覚が無くなっていく。やがて強烈な圧迫感を全身に感じた。どうやら相手は郷田に圧し掛かってきているらしく、その息は頭の直ぐ近くの空気を動かした。「余分なことに首を突っ込むからや。もうそろそろ、手ぇ引け」――低い男の声で、郷田の耳には確かにそう聞こえた。郷田は抵抗しようとして、男を振り払おうと地面を蹴るが、弱々しい足蹴りは地面を掠っただけだった。何とか相手の顔を見ようと目を開けるが、地面に頭を横向けに押し付けられている彼の視界には、ただただ地面が見えるだけだった。

 けれどもその地面にゆらりと動くものがあった。それは何かの影で、どうやら少し離れた川崎地蔵の祠の辺りから伸びているらしかった。そして郷田達の方に向かってそろそろと近づいてくるのであった。ゆっくりと接近してきたその影が、急に素早く動いたかと思うと、強い衝撃と、恐らくは骨か何かが砕ける音と共に、郷田の上に覆い被さっていた重い男の肉体が弾け飛んだ。そして惨めに地面に這いつくばっている郷田に向かって、影の主が声を掛けた。

「待たせたな、郷田」

 遅いぞ、竹谷――と郷田は云いたかったが、血と砂利が舌に絡み付いて、発声することはできなかった。


「やっぱり出てきよったな、胡散臭い輩が。ここんとこずっと暗い道歩いてた甲斐があったってもんやな、郷田。暴行傷害の現行犯や。これでこいつを空っ空になるまで締め上げられるってもんや。しかし――」紙巻き両切りのゴールデンバットの香りがしたかと思うと、炎の灯るオーリックのオイルライターが郷田に手渡された。「――こうも暗うてはつらも分からんな。御前、これ持ってろ」

 紫煙を立てる熱と、震える油の炎とで、官服を着た竹谷の姿がゆらゆらと浮かび上がった。その冷笑的な眼差しの先には、靴底をこちらに晒してうずくまる人間の体が、川岸に上げられた魚のようにびくびくと痙攣している。数秒の間、その背中は全くの無防備だったが、かすかとはいえ灯かりが点されたことと、竹谷がじわりと近付いたことで、びくりと跳ね起きた。

「おう、まだそんな力があるんか。さすが、伊達にええ体格してる訳やないらしいな」

 しかし郷田には、その男に然程さほどの余力があるようには見えなかった。こちらに向き直った短髪の男の顔面は、鼻が潰れて上唇が裂け、どうやら前歯も数本折られているようだ。よくは見えないが、恐らく歯の折れ抜けた穴からしとどに血が溢れているのだろう。自分のものとは異なる血の匂いを郷田は嗅いだ。そういえば――と、郷田は改めて気づいたが、官服の竹谷は、サーベルを腰から外して手に持っていた。さすがに抜いてはいなかったが、恐らくあれで鞘ごと、しこたま相手に打ち付けたに違いない。そうでなければ、一撃であれ程の怪我をすることはないだろう。

「歯ぁ三本ってとこか。まぁ饂飩うどん啜るには寧ろ丁度ちょうどええくらいや。大人しゅう観念せぇや。御前、誰やねん? 正直に答えたら、それで済ましたろ」

 黒革の外套の男は二歩三歩退こうとしたが、足がもつれて、上手く下がれない。敵手の状況を把握すると、郷田もオーリックを傍らの石の上に置いて、よろめきながらも立ち上がった。竹谷は少しやり過ぎなのではないかと思いつつも、攻守を一撃で逆転させたその手際を認めざるを得ない。よし、これで遂に事件の真相の尻尾を確実に掴んだと、郷田は溜飲を下げた。竹谷という護衛が付いているとも知らず、ノコノコ自分を襲ってくるとは。背広の隠しに手を廻し、用意していた捕縄とりなわを握り締めた。郷田は、もう相手が意気消沈していると思っているから、自分も竹谷と同時に躍り掛かって、この男を引っ捕らえようと待ち構えた。しかし、竹谷は動かなかった。郷田は不審に思ったが、その理由は間もなく分かった。いつの間に歩み寄ったものか、黒革外套の男の後ろ、オーリックの灯りが微かに届く辺りに、別の男が立っていたのだ。いや、もしかすると、暗くて気付かなかっただけで、元々そこにいたのかもしれない。それが、暗闇に目が慣れて、今漸く見えるようになったのかもしれない。郷田はじっと目を凝らして見てみる。表情などはまるで分からないが、姿形は把握できた。年の頃は三十歳位だろうか。どうやら口髭を蓄えているらしく、短く刈り込んだ髪に背広を着て如何にも紳士然としているが、この場にいて微動だにしないことが、却って素人でないことを物語っていた。腕組みをしたその姿からは、静かに澄み切った敵意と怒りが発散されているようだった。黒外套の男は、おずおずと背後を振り返り、小声で何か指示を仰いだ。

「……おや、そっちも相方の御出ましか…。上官の御成おなり、ってとこかな?」

 竹谷が挑発すると、鼻と口を砕かれた男は、さっと身構えて、暗闇の中でも顔を見られまいとするかのように、自分の眼前に手を翳し、両拳を握って腰を落とした体勢となった。明らかに訓練された人間の動きだと郷田は思った。しかし、その勇ましい姿勢とは裏腹に、どうも足元が覚束おぼつかないようだった。最初の竹谷の一撃によって、目の焦点が定まっていないのか、或いは予想外の反撃を受けたことからくる恐怖故かもしれない。

「おいおい、御前、官服に逆らうのか?」

 竹谷も、その生来の蛇のような嗅覚で、相手の動揺を見て取ったのだろう、口調が急速に嗜虐性を増し、相手を嬲るように甲高くなる。同じ方を向いているので郷田からは見えなかったが、嘲笑的な笑みを浮かべていることは容易に想像できた。

「そうかぁ、俺は構へんねんで、御前には公務執行妨害の罪が増すだけやし、抵抗したとあっては、歯ぁ三本くらいではすまへんわなぁ。官服が銃持たされてへんからって、舐めてたらあかんど」

 竹谷は、へらへらと笑いながら、無防備で革外套の男に近付いていく。誘っているのだ。相手の反撃を誘った上で、圧倒的な暴力で相手を完全にじ伏せる――竹谷がしばしば好むやり方だった。郷田は幾度と無く思ったことだが、生来の悪党とは、寧ろ竹谷のような人物なのではないだろうか? 幸いにも、彼の凄まじいまでの暴力衝動は、これまでの処、法を犯した人間相手にだけ向けられているが、もしこの男が犯罪者だったならと空恐ろしく思う。だが、こうした修羅場では滅法頼りになるのも確かだった。

 男は竹谷に何を云われても、何も答えなかったが、それがこの男の訓練の賜物なのがどうかはよく分からない。口の中がぐしゃぐしゃになっているだろうから、どのみち喋れそうになかったからだ。そうして、辛うじて立つその男に向かって、竹谷は悠然と近付いていく。その挑発に負け、男は拳を繰り出すが、眼も定まらず、歯も食い縛れない男の拳が竹谷に届くことはない。却ってその力を利用して、竹谷はサーベルの鞘を男の脚に絡めて倒す。そして倒れた男に向かってまた、無防備に近付き、反撃を誘うのだ。すると男はまた立ち上がり、また転がされる。それは西班牙スペインの野蛮で残虐な闘牛の遊戯のようでもあり、滑稽な道化芝居のようでもあった。そうしたことを数回繰り返している内に、遂に男の拳が竹谷に届いた。しかしそれは、竹谷がわざと避けなかったのであり、云わばそれはたちの悪い罠なのである。

 竹谷は、またもサーベルで男を転がすや、もう無防備ではなかった。ぞっとするように楽しげな口調で、「よくも抵抗しやがったな、悪党の抵抗を抑え込んで、法を執行するのが警察官の職務や。よっしゃ、抵抗できんようしたろ」と云うと、倒れた男の口の辺りを靴の爪先で蹴り上げる。また一つ二つ白いものが飛んだように郷田には思えた。竹谷は何度も何度も同じ場所を蹴り上げる。男の口から血が泡のように溢れているのは暗がりでも分かった。なんとか窺えるその表情にはもう恐怖しかないようで、おそらく顔中のあらゆる穴から、涙や鼻水やら涎やら血やら、あらゆる体液をどぼどぼと地面にこぼしていることだろう。そして腰を抜かしたように這いつくばって、もう一人の仲間の処に後退した。

 竹谷の爆発的な暴力性は、今や完全に場を制していた。表情等は分からないが、奥にいる男の全身が、一瞬脈打つように動いたのを郷田は見逃さなかった。全身の筋肉に強い力を込めたらしく、その緊張感が伝わってくるようだった。その動き自体はそれほど大きいものではなかったが、しかし、それが意味する心の動揺は大きいように郷田には思えた。

「おい、見物人。御前も官服に逆らう気か?」

 竹谷も、奥の男の動揺を嗅ぎ取ったらしく、そちらに牙を向け出す。

「ええやろ。それやったら御前も同罪や」

「……御前ら、こんなことしてただで済むと思ってるのか?」

 遂に、もう一人の男の声が聞こえた。暗い中では、殆ど唇は動いているように見えず、その響きは低く細い。それは微かに震えていたが、恐怖からではなく、口調から判断するに寧ろ、抑え付けられた激昂が彼の体を揺さ振っているのだろうと郷田は思った。

「ほう、警察官に向かってただで済まさないという御前らは誰なんや? ただの強盗やないんかな? よう聞かせてもらおやないか」

 竹谷も、男の怒りを感じ取って更に挑発する。しかし、さすがに男は強い抑制を備えているようで、それ以上竹谷の挑発に乗って激することはなかった。竹谷も、何故かそれ以上挑発も格闘もしようとはしなかったので、男は郷田らと睨み合ったまま、仲間に肩を貸し、闇の中に消えていった。


「……大丈夫か?」桜の木立の中にぺたりと再び座り込んだ郷田に、竹谷が珍しく優しい口調で聴いた。郷田は体のあちこちを動かして、自分の調子を確かめる。どこかの筋を捩じったらしく、首が途轍もなく痛い。

「すまん。ほんまに助かったわ……。まぁ骨は折れてへんやろ。向こうの方は大怪我やろうけどな。せやけど、ほんまに、あそこまでやって良かったんか?」

「ええんや。寧ろあんだけやったった方がな、恥ずかしゅうてよう警察官にやられたとは云わん筈や。絶対、表沙汰にはならん。あいつら、三度の飯より体面って奴が大好きやしな」

「……しかし、ほんまにのこのこ出て来よったなぁ」

「御前が「付けられてる」と気付いた時から、まぁいずれこうなるんちゃうか思てたわ。それだけ御前の追っている線がええとこ突いてるてゆうことやろ。これで自信持って捜査を続けられるやないか」そんな竹谷の言葉に、郷田は少し嬉しくなる――一体、良い奴か悪い奴なのか、どっちなのだ?

「ああ……。しかし、二人いるとは誤算やったな。捕まえて白状させられへんかったんが残念や」

「阿呆か、御前。捕まえたかって、そう簡単に白状させられるかい。あんな糞弱い奴でも、一応軍人の端くれやろ。そう簡単に口割りよらへんで。それに、下手に捕まえたりしたら、上の方で大問題になって、圧力掛かって全部御終おしまいや」

「え、でも、「誘き出して罠に掛けたろう」って云うたんは竹谷やないか。ただ、あいつらを引っ張り出して殴り倒すんが、御前の云う罠か?」

「ちゃうちゃう。あの大立ち回りは時間稼ぐ為や。御前はどうも考え方が優等生過ぎるのう。もうそろそろ出て来てもええぞ!」

 そう云って竹谷が振り返ると、丁度通り掛かった京阪電気鉄道本線の灯りを背に受けて、労働者風の一人の小男が暗闇の中から姿を現した。

「旦那、すんまへん。気付いてましたんか?」

「俺を誰や思てんねん。郷田、紹介するわ。こいつは戸川弥一や。まぁ偽名やけどな」

「どうも。竹谷の旦那には、いつも御世話になっとります」

「偽名……?」

「それで、首尾はどうや?」

「へえ。まぁ上々ですわ。あの軍人、車に戻ったら、中空っぽやから、二度腰抜かしますえ。軍人なんてあれですな、戦場じゃあどうか知らへんけど、夜の街では、わてらに云わせりゃおぼこい娘みたいなもんですわ。あんな人の目の無いとこに車止めて……。あれじゃあ盗んでくれ云うてるみたいなもんですわ。ありゃあ、スミダ九型。純国産や云うてますけど、実際の中身は、英吉利のウーズレー・ナインですな。英国車いうんは、まぁ、鍵の開け方に一寸したコツがあって、まぁこれ以上は云いませんけど、へへ」

 そう云って、小男は二つの書類鞄を竹谷に渡した。それは黒革の丈夫なもので、二人の会話で、郷田もそれが何かを察した。

「じゃあ、御前、最初からあいつらの持ち物を奪うのが目的で?」

「夜の街は、俺やこいつらの河岸かしやゆうこと分からせんとな……」

「御前、本当にえげつないな……」やはり竹谷は悪い奴だったと、郷田は結論付ける。

「御前が甘っちょろいだけや。阿呆揃いの街を取り締まろ思たら、自分も阿呆にならなやってられん。さぁ、取り敢えず中見てみよ。一体、何が出てくるか……」

 竹谷は、遠慮なく鞄の中身を漁り出した。軍隊手帳や、書類を纏めた封書、文具、それに身の回りのものなどが出てくる。そして中にあった金を戸川に、手帳や封書を郷田に渡すと、空の財布や何やらを書類鞄に戻して、全国中等学校野球大会の投手のように大きく振りかぶり、竹谷はそれらを大川に放り込んだ。


 郷田は渡された手帳や書類を長屋に持ち帰り、濡れた手拭いで首を冷やしながら、それらに目を通した。軍隊手帳から、郷田を襲った二人の男が、伊志田鉄郎大尉と山田源次郎少尉であることが分かった。封書の中には沢山の書類が収められていたが、その殆どは他ならぬ郷田自身を調べ上げたものであり、よくこれだけ調べ上げたなと思うものの、勿論それらは郷田本人にとって意味のあるものではなかった。ただ、調査されるとはこういうことなのかと、改めて不愉快になる――奈良の実家まで調査するなんて。

 軍隊手帳とは別に伊志田が使用していた革手帳には小さな暦が付いていて、各日付の欄には、その日その日毎の予定や、その結果と覚しきものがごく簡潔に書き込まれていた。余りに簡潔過ぎて、その殆どについて郷田には意味する処が分からなかったが、幾つかは推測も可能だった。例えば昨日の日付――三月一五日の欄に、「G、天満天神ヘ。これ確認後、交代ス」とあるのは、恐らく郷田自身を監視した結果を記したものだろう。交代とあるのは、山田との監視役の交代を指しているのかもしれない。そうして注意深く、過去から振り返って暦の日付の欄を一つ一つ確認していくと、郷田の強い関心を引く書き込みが幾つかあるのだった。それは何人かの人間の消息を確認したと思われる書き込みなのだが、その脇に、目立つように赤字で「本」と強調して書き添えられているのだ。「本」――勿論、今の郷田がこの言葉を目にして思い出すものはただ一つである。ここでいう「本」とは、あの、川手妙子が追い、今、自分が追っている「本」なのだろうか? そこに書かれた特別の情報は、ただ「本」という一つの文字だけであるから、郷田には何とも判断が付かない。しかし不意に、竹谷が発した、「御前の追っている線がええとこ突いてるいうことや」という言葉が、思い出された。そうだ、自分が襲われたことこそが、皮肉にも自分の進んでいる方向性が誤っていないことを示す最大の傍証ではないか。そうであれば、この「本」は、恐らく自分が追う「本」と関係あるに違いない――少なくとも、調べてみる価値がある筈だ。

 それは一種の直感のようなものだったかもしれない。しかし後日、実際にそこに名前の挙がっていた四人の内、三人までが嘗て墺匈国にいたことを確認して、次々と合致していく符合に、郷田は府警察部にいることも忘れて声を上げる程に打ち震えたのだった。そして郷田は確信した――伊志田が接触を持ったと覚しい、これらの人物達こそ、自分が追う「本」の関係者に違いない、と。

 ――伊志田の暦に書き込まれていたのは、以下のような記述であった。


 十月八日の欄……木戸黄太郎大尉、未ダ失踪。是確認ス

 十一月十三日の欄……殿村昌一中尉、シベリアデ戦死。是確認ス

 十一月二十五日の欄……風間九十郎、自殺。是確認ス

 一月九日の欄……黒岩周六元京都帝国大学教授、存命。会見成ル


                                (続く)

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