第三話

三、京都

 ――五月蠅うるさい。五月蠅い五月蠅い五月蠅い。まだ睡眠の痺れるような快楽に浸っている蕗屋の脳髄に、何かが小刻みに振動する音が、我慢できない程のけたたましさで響いた。頭蓋骨の内側でも痙攣しているのか、幾重にも幾重にも折り重なって振動し、まるで脳の中を小さな羽虫の大群が行き交っているようだった。何という悪夢だろう……。しかし、徐々に聴覚が睡眠の麻痺から回復していき、それにつれて、嫌な残響は決して頭の中で発しているのではなく、現実の外界、隣室か上の部屋で、コイルと振動板が意味の無い電波を受けて震えているのだと気付いた。悪夢めいた不愉快さからは解放されたものの、より現実的な不快感がせり上がってくる。

 次に、じっとりと汗ばみながら触覚が目覚めていった。音に続いて、じりじりと熱が蕗屋を苛み始める――暑い。四方から、包まっている布団を貫き通して、自分の肉体に向かって熱い光線が注ぎ込まれているのが分かる。その熱にいぶされて、肉汁のように、肌から不快な水分がぬらぬらと染み出てくる。そういえば、昨夜下宿に帰り着いたのが遅かったので、引き幕をしっかり閉めてなかったじゃないかと、浅い記憶の層が一枚捲れた。恐らくは、そこから高くなった日の光が差し込んでいるのだろう。二週間程前から、関西一円に居座っているという馬鹿みたいな陽気が、巨大な凸レンズとなって、太陽から降り注がれる光線を自分の部屋一点にめがけて集めているのではないかとさえ思えた。息もできぬ熱に、蕗屋は目も鼻もない芋虫のように体を蠢かして、布団を脱ぎ捨てる。そのまま俯せで丸まるけれども、今度は孵化したての柔らかい背中を、直接日光が炙り始めた。季節外れの強烈な陽光が細胞の隅々まで充満していくようだった――植物なら、さぞやよく成長する処なのだろう。彼の背中の、成長を止めた肉体の細胞の中で、春の日差しが暴れ狂っている。その余りの炎熱に、影を求めて、まだ満足に動かない体をモゾモゾと這わせた。 

 文机の下に無理矢理上半身を潜り込ませると、背中で暴れていた熱は大人しくなった。周囲の照度も下がったような気がする。けれども、瞼の内側がすっかり橙色に発光していることに蕗屋は気付いた。春の陽光の残像が、網膜に焼き付いているのだ。視覚も、遂に目覚め始めているようだった。それに伴って、意識も徐々に自分自身の姿を取り戻していく。頭に次々と湧き上がる画像が整理され、睡眠中に見ていた夢と、前日までの記憶とが急速に仕分けられていく。うう……と、息とも声ともつかない音を喉から絞り出し、さぁ目を開けようかどうしようかと、蕗屋は思案する。気温や日光、隣室の住人がラヂオをつけていることから察するに、もうかなり遅い時刻になってしまっているようだった。目を開けて、そのことを我が目で確認したなら、そのまま起きてしまわざるを得ないだろう……。しかし、時間さえ確認しなければ、このままもう一度眠ってしまって、途方もない朝寝坊をしたとしても、さして罪悪感を覚えずに済むような気がする――そんなことを思いつつ、睡眠中にこびり付いた涙の痕をぱっくりと割って、いつの間にか彼の瞼は自然に開いていた。それは、明るい処で目覚めようとする動物的な本能が、人間の意識を上回った瞬間のように蕗屋には思えた。

 蕗屋はもぞもぞと文机の下から這い出て、薬缶やかんを手に取ると、注ぎ口に直接唇を付けて、前夜汲んだ水の残りをぐびぐびと飲んだ。早春らしく、気温は高くとも、まだ水は冷たい。その冷たさは新鮮で、ぶるぶると胃が興奮して震え上がるようだった。寝惚けた頭で思っていた通り、引き幕は半分程しか引かれておらず、そんなものは何の意味もないと云わんばかりに、南向きの格子こうし硝子ガラスははち切れんばかりに日光を浴びている。蕗屋は立ち上がり、引き幕と窓を全て開けた。狭い四畳半の部屋に、とても目を開けてはいられない程の青い空が侵入してくる。真っ青な視界を阻むように、蕗屋は眼前に手をかざし、その指の間から、外界の様子を捉えようと目を凝らした。いつものベランダ、いつもの物干し台。その向こうには、いつもの生け垣。外には、いつもと同じ初雁荘一階一〇六号室から知覚できる音と景色があった。頭上には、ここ数日続いている驚く程の快晴――。ぼんやりと時刻を確認すると、午前十一時半だった。大体、予想通りの時刻ではあった。

 蕗屋が住むのは、京都市の左京区である。左京区とは、京都市の人口増加に伴い、五年前に上京区の東部を分離して設けられたばかりの新しい区で、成程新しく開けた地らしく、割合最近に平安遷都千百年を記念して造営された平安神宮や、内国勧業博覧会跡地の岡崎公園、更に明治の大事業たる琵琶湖疎水の分線など、旧都の近代化に当たって開発開業された多くの施設がある。この新規の区のほぼ中央に位置するのが百万遍知恩寺で、これは、その号を後醍醐帝より下賜されたと伝えられる古刹ながら、その門前には、第二代京都市長西郷菊次郎が華々しく打ち上げた所謂「三大事業」の一つである、京都市電の拡充によって敷設された鉄路が通っている。京都市電といえば、昨今の京都人がこぞって誇りとする、本邦史上初の電気鉄道会社「京都電気鉄道」の路線を引き継いだものであり、この内、今出川線と東山線との二線が古刹の前で交わっているのであるから、旧都の伝統と革新とが相混じる様を実によくあらわしている地と云えよう。そのまさに「百万遍」と名付けられた電停から西北へ細い路地を暫く進んでいった処、住所で云えば田中上柳町に、蕗屋が寝食する玄人くろうと下宿「初雁荘」があった。

 木造二階建十二室、男子専用、朝夕二食付き。間取りは、部屋によって差があるけれど、四畳から六畳で、各部屋には一間の押し入れと天袋、六畳の部屋にはそれに加えて小さな床の間があった。経営しているのは、六十になろうかという人好きのする女性で、蕗屋は、入居時の契約書に「大木初枝」という名が書かれていたのをうっすらと覚えているが、下宿人からは専ら「おかみさん」と呼ばれるばかりで、蕗屋もそうとしか呼んだことはない。蕗屋が住んでいるのは一階四畳の部屋で、家具は文机と、前に住んでいた誰かの手作りらしい茶箪笥だんすしかない。生活上の規則は色々とあって、酒を飲んで騒いではいけない、知人を泊める際は大家の許可を得ること、食事が要らぬ時は前日に必ず届けること、などなどあったが、蕗屋自身はそれで特に不自由を感じていない。

 寝起きの蕗屋が暫くの間ぼんやりとしていると、開け放たれた窓から入ってくるラヂオの音は、いつの間にそんなに時間が経ったものか、正午の時報を告げた。蕗屋は慌てて旅行中からずっと着たままだった服を新しい物に着替え、簡単に身繕いをすませると、いつもの背嚢を背負って部屋を出る。一昨日、宮瀬邸から電話で取り付けた京都帝国大学助教授との約束の刻限までもう一時間程しかない。一階に降りて「おかみさん」に挨拶をし、取り置いてもらった朝飯を急いで食べ、「今晩も遅くなるかもしれないから夕食を取り置いてほしい」と告げると、「おかみさん」は「あらまぁ、忙しいんやね。でもあかんよ、できるだけ早よ帰ってきて、ちゃんと早寝早起きせな」と小言を云いつつ見送ってくれた。前夜遅くに特急「桜」の三等車両で、はるばる九時間も掛けて東京経由で京都に帰ってきたばかりなので、下宿へは本当に寝に帰っただけであった。


 京都帝国大学の敷地は、先程述べた百万遍知恩寺の南側にあったので、蕗屋の住む下宿からだと、彼の通う三高よりもむしろ近いくらいである。とはいえ、帝大そのものがかなり広い上に、彼がそこに本格的に足を踏み入れたのは初めてだったので、寧ろ敷地に入ってからの方が、彼としては大変であった。道案内を請おうにも、春期休暇中なので人も少なかった。蕗屋は勿論もちろん、三高を卒業した後は、この西の最高学府へと進学するつもりであった。高等学校高等科を卒業した者には帝国大学への進学資格が与えられるから、三高での成績さえ良好なら志望は叶う筈である。蕗屋は、蛮カラか、そうでなければ酒や遊びや女にうつつを抜かしがちな当世風の学生達の中では割合に真面目な方であり、また、生来好奇心が高かったので、その勉学への意欲も常に一定程度に高く保たれてはいた。しかし、この好奇心の高さは両刃の剣でもあって、関心があちらこちらへと――しばしば、勉学以外の文学や音楽、映画、演劇、芸術などに――飛ぶので、成績については、その時々でバラつきがあって、全体としては必ずしも芳しくない。真底からは勉学に専心し切れずにふらふらしている点では、蕗屋もまた当世風の学生と云えるだろう。そういった性分であるから、間も無く三回生になるというのにまだ蕗屋は志望する帝大の学科や講座を定めていない。三高の文科丙類に在籍しているから、帝大でも文学部に進学するのは確実であったが、それ以上細かくは何も決めていなかった。京都帝国大学文学部には、哲学、史学、文学の三学科に、哲学・哲学史、心理学、倫理学、教育学・教授法、宗教学、社会学、美学・美術史、国史学、東洋史学 、史学・地理学、考古学、支那語学・支那文学、西洋文学、国語学・国文学、言語学、梵語学・梵文学と数多くの講座がある。この内、自分はどこを志望すべきなのか、自分の真なる関心はどこにあるのだろうかと、蕗屋は決め兼ねていたのだ。

 しかし、この日の蕗屋が目指す処は決まっていた。それは、史学科の史学・地理学講座である。その第四講座の小城栄次郎助教授こそが、最近の本邦における欧州中世史学の新鋭であり、一昨日、桂子や弓子の要請を受け止めて意を決し、直接電話を掛けて、約束を取り付けた相手であった。史学・地理学講座は他の史学科諸講座と同様、「陳列館」と呼ばれる京都帝大の収蔵資料館を兼ねた建物に設けられているとのことだったので、蕗屋は、春期休暇中で人の少ない帝大の敷地内をきょろきょろと惑いながら、そこを一心に目指していた。

 さてこの陳列館であるが、大変目立つ建物であったので、心配していたよりは割合に早く、彼はこれを見付けることができた。陳列館は、各講座の教官らが銘々めいめいに収集している資料類の安全な保管場所が必要であるとして、京都帝大の創立当初から構想されていた施設である。実際の建設は明治四十四年に決定され、大正三年、帝大附属図書館の北隣に完成した。わば文系学部の宿願として創られたものであるから、その設計建設にも大変力が入っていた。建物自体は煉瓦造りの二階建てで、破れ破風に流麗な楕円形の窓を配した屋根部分が特に際立って美しい。これは、帝大営繕課の山本治兵衛と永瀬狂三が、新バロック様式を取り入れて設計したものであり、帝大構内を不安な思いで歩いていた蕗屋の目にも、遠目ながら真っ先に飛び込んできた施設だった。やがてそれが目指す陳列館であると知ると、蕗屋は安心すると同時に驚いたものである。近付くと、全体にモルタルが塗られ淡香うすこう色の柔らかな外観になっていたが、窓枠や扉など、随所には明るい緑色が使用されて、何とも鮮やかであった。曲線主体の細部の装飾も驚く程流麗で、蕗屋の目を楽しませたが、これはウィーン分離派様式を取り入れたものであるらしい。

 この建物二階の一隅に、小城栄二郎助教授の部屋はあった。蕗屋は、実の処、西欧中世史を専門で研究するとは、いかなる奇人変人の類だろうと、半ばおっかなびっくり、半ば好奇心一杯でやって来たのであるが、意外や小城は、イングリッシュ・ドレープの三つ揃いを粋に着こなすような小ざっぱりとした男で、歳は四十代といった処だろうか、顔立ちも歌舞伎役者――とまでは云わないものの、新劇の端役くらいにはなれそうで、なかなか端正である。蕗屋がかしこまって名前を名乗ると、そんな形式ばった振る舞いは馬鹿らしいと云わんばかりに肩の張らない挨拶を返してきて、ぐに応接用の椅子に腰掛けるように促された。厳めしい人物を想像していた蕗屋としては、安心するような、それでいて肩透かしを喰らったような、少し不思議な心地になった。

「それで……三高生の君が、僕に何の用事なのです?」

「あぁ……ええと、それなんですが……」

 小城の合理的でスマアトな応対によって――もしかすると、学生と話し込む時間が勿体ないと思っているだけなのかもしれないが――蕗屋は驚く程あっさりと話しの本題に入るよう促された。ところが、いざ、話しをする相手を目の前にして、彼の中で逡巡が首をもたげてくる。葛瀬村での出来事を、どこから、そしてどこまで話していいものか迷いが出てきたのだ。初対面の歴史学者に、いきなり古里の集団自殺事件について打ち明けるというのは、どう考えても不躾だし、筋違いに過ぎる。話しは限った方がいいように思えた。そこで、自分は、ゆくゆくは帝大文学部への進学を考えているが、まだ学科を決めかねているので、参考に話しを聞きたいのだと、そう蕗屋は切り出した。それ自体は偽らざる真実であるので、口がすらすらと動く。その真実性が功を奏したのか、全く不思議がる様子もなく、小城はさらさらと、そして案外と丁寧に答えてくれた。

「歴史学というのは、単に過去を当て推量するものではないのです。信頼できる史料を揃え、それらを科学的に――科学的にという言葉が誤解を生むのなら、合理的、論理的に――分析して、過去を再構築していく、云わば刑事事件の捜査にも似た作業なのです……」

 思いがけず、帝大で行われている文系の研究の最先端に触れることができて、蕗屋は嬉しくなる。自分も後一年も経てば、こうしたアカデミズムに直接触れることができるようになるはずなのだと。当初の目的から外れてはいるが、いずれ自分に関わるものであるから、急場凌ぎで切り出した話題ではあるけれど、蕗屋は大いに関心を持って素直にふんふんと聴き入り、持ってきた手帳に要点を控えもした。勿論、このままこの話しをずっとしている訳にもいかないのだが。すると小城の方が、何故か少し奇妙な笑みを浮かべて、話しの流れを自ら変えた。

「しかし、僕の処へ来るなんて、君は珍しいと云えば珍しいし、幸運と云えば幸運ですね」

「はあ。そう……なんですか?」

「うん、まず幸運の方ですが、自分で云うのも何なのだけれども、こんな風に研究というもののあり方を、学生――しかもまだ帝大にも入ってない者に、詳しく分かり易く説明しようという人間は、きっと帝大の教官達の中でも、必ずしも多くいないでしょうからね。アカデミズムは、難解であれば難解である程い、一般の人間が近付き難ければ近付き難い程高尚なのだと、いまだにそんな風に考えている、カビが生えたような頭をした先生方も多いんですよ。僕に云わせれば、そういう不合理な考え方こそ全くもって研究に不要だと思いますがね。勿論、研究の内容が高尚でなくなっては困りますが、内容さえ高尚であれば、わざわざ分かりにくくする必要なんてどこにあります? 理解できない学生を何度も何度も指導しなければならない方が、遥かに無駄な気がしますがね。そう思いませんか? まぁだから、君が既に他の先生方の処へ行っているのかどうかは知らないし、別に知りたくもないが、僕の処へ来たのは、君にとって幸運だったのじゃないかと思いますよ」

「……はあ」

「いずれ入学したら分かりますよ。帝大の教授陣なんて、奇人変人だらけですからね。一方……」

「僕が珍しい……?」

「そう、珍しい。これは単純です。中世欧羅巴ヨーロッパに興味を持つ人間は、そんなに多くはない」

 この小城の一言は、話しの流れを変えるいい切っ掛けを蕗屋に与えた。歴史学の方法論などは、勿論それ自体、蕗屋の興味を引く話しではあったが、いつまでもそれを聞いている訳にもいかない。聞き続けたい欲求をぐっと抑え、この好機を逃すまいと蕗屋は切り出す――実は自分は、目下の処、基督キリスト教の異端審問に興味があるのだと。すると小城は、一瞬、眼を大きく見開いたかと思うと、椅子に深く座り直して、ふっと口元に笑みを浮かべたのだが、不思議なことに、その様子にはどこか失望したような処があって、明らかに先程までと違って不機嫌そうな態度になるのだった。

「君、そうか。異端審問か。そんなグロテスクなものに、どうして興味を持ったんだい?」

「いや、それは……」蕗屋は、小城の予想外の反応に少し面食らった。

「ふん……いや、構わんよ。他人が何を好きになるかなんて、僕の知ったことではないからね。さっきは、中世欧羅巴に興味を持つ人間は少ないと云ったが、それは真に学術的な中世欧羅巴社会の在り方などに興味を持つ者が少ないという意味でね。本当の処、一部の分野については、全くもって不本意なことだが、少数の熱烈な愛好家を持っている。錬金術とか、人物で云えば青髭ジル・ド・レエとか、今、君が云った異端審問とかだね。そうした不気味なものにばかり関心が持たれがちなのは、君、何故なのだい? 推測するに、そうしたグロテスクなものに引かれるのは、どこか人間として根源的な処に欠陥があるんじゃないのかね? ふうむ……今度、心理学の研究者にでも聞いてみようか。まぁいい、さっきも云ったが、人の好みなんて僕に関係ないからね。とはいえ、やはり君は少し面白いね。大体そんな理由で僕の処に来る人間は、皆、多かれ少なかれ幻想に目を輝かせているものなのだが……つまり何と云うか、些か所謂いわゆる猟奇的な雰囲気を漂わせた者が多いのだが、君のように、そんなに遠慮がちに、済まなさそうな顔をした人間は初めてだよ」

 それはそうだろうと蕗屋は思った。自分は必ずしも異端審問に引き付けられている訳ではないのだから……。しかし、その話しが聞きたくてここに来たのは紛れもない事実であるから、かくその話しが聞きたい旨を述べた。

「ふむ、まぁ仕方がない。聞かれたからには異端審問の話しをするとしよう。ただし、実の処、僕は必ずしもそちら方面の専門家ではないのだよ。中世欧羅巴と一言で云っても、そこに含まれる研究対象は数多ある。政治、経済、社会の在り方、宗教、文化……それぞれの時代や国、地域によっても様々だ。中世初期の英吉利イギリスと中世末の伊太利イタリアでは、もう全く別の分野と云っていい。僕は中世盛期から中世後期にかけての、仏蘭西フランス王権が専門分野でね。最近はマルク・ブロックという中堅の歴史学者の研究に大変注目しているんだが、まぁそれは君には関係ないようだ。かく、そういう訳で、君が満足できる話しができるかどうかは知らぬよ。しかし取り敢えず、始めよう」

 そう云うと、小城はすっくと立ち上がり、恐らく講義の時もこうした具合なのだろう、歩を進めながら語り始めた。但し、書棚でぎゅうぎゅう詰めの小城の部屋は決して広くないので、歩き廻るというよりは、蕗屋から見て机の後ろ側に立って、その場でゆらゆらと揺れているような感じだったが。右手は、普段の教室なら思いつくまま黒板に色々と書き付ける処なのだろうが、今はそれがないので、時折ときおり窓硝子に指先で何かを書くような仕種をしながら、所在なさそうにぶらぶらさせている。

 そうして曰く――基督教異端の歴史は、正統な基督教の歴史と同じくらい長い。何故なら、「正統」というのは、ある意味「異端」を排斥することで成り立っているからだ。例えば、三位一体などの基督教の主な教義が定められたのは、西暦三二五年のニケーア公会議でのことだが、この時、同時に、それに異議を唱えるアリウス派が異端として排斥された。そしてその後も基督教内部で見解が別れる度に、数多あまたの異端が生まれた。ネストリウス派、ドナティスト、キルクムケリオーネス、ペラギウス派云々。そうした意味で、基督教異端は、正統な基督教の歴史と共に、常に存在してきたと云えるだろう……

「しかしね、基督教異端の歴史と、それを取り締まる異端審問の歴史とは、少し別物と考えた方がよい。どういうことかというと、基督教の教会組織は、必ずしも常に自ら率先的に動いて、積極的に異端を探して弾圧していた訳ではないのだ。いや勿論、見付かれば容赦なく弾圧されるのだが……。何と云うべきかな? ああ、そうそう、例えばちまたの喧嘩を思い浮かべてみたまえ。たまたま見つかったり訴えられたり、或いは重大な怪我や殺人に至れば確かに厳重に取り締まられるだろうけれども、だからといって、街中で起こる些細な喧嘩の全てを洗いざらい調べ上げようとは、今日の警察でもしていないだろう?」

 聞き手が専門外の人間であることを改めて思い出したと云わんばかりに、小城は現実的な喩えを挟み込んだ。蕗屋は、自分の経験を思い浮かべる。確かに、柳小路通で友人と飲んだ後、八兵衛明神の前辺りで酔漢といざこざになった際に、つい手を出してしまったことがあったが、別段警察沙汰とはなっていない。異端の摘発が喧嘩のそれと同じだというのなら、成程なるほど、教会から禁止されてはいたとしても、実際に見つかって罰されるか罰されないかは時の運といった処なのだろう。

「しかし一三世紀になると、そうした云わば生温い状況がすっかり変わるのだよ。切っ掛けは、今日、カタリ派ともアルビジョワ派とも称される異端の興隆だ。この異端は、一二世紀頃から南仏蘭西に登場し、同地で猖獗を極めた。その教義は、古代波斯ペルシア摩尼マニ教の影響を受けているとも云うが、本当の処はよく分からない。兎も角この異端の出現に対し、羅馬ローマの教皇庁は、当初これを説諭によって回心させようとする。しかし、一二〇八年、当地で説諭に当たっていた教皇特使が暗殺されたことで、一転して加特力カトリック教会は、堰を切ったように、形振なりふり構わない異端の徹底的殲滅へと狂奔していくのだ――」

 それから続くことは、蕗屋にも容易に想像ができた。宗教の名の下の殺戮。いつの時代、どこの地域にでもある、余りにおぞましい人間の所業だ。そして勿論この時は、基督の名の下に行われた。教皇庁はこの異端者らの殺戮を呼び掛けたのだ。仏蘭西中、欧羅巴中から夥しい軍勢とならず者共が雲霞うんかの如く、飛蝗バッタの如く、彼の地に押し寄せ、その至る処にて、老若男女を問わず、行き会う者を見境無く、奪い、犯し、殺し尽くしていく――

「この時、カタリ派の殺戮と並行して創設されたのが、君が関心を持っている処の、専門的な異端審問官の制度なのだ。彼らは異端を狩り出すために、民衆の暮らしの中に侵入し、人々の脳の中を覗き込み、暴き立てていった。もし誰かがそれを隠そうものなら、拷問を用いてでもそれをじ開け、覗き込んだ。審問官らが改悛の見込みなしと判断したなら、異端の被疑者たちは容赦なく火刑に処されていくようになる。こうして、陰惨な密告が、脅迫が、拷問が、火刑が、組織的かつ徹底的に、神に仕える敬虔な者達の手で遂行されていくようになるのだ。悍ましい時代だね。そして最早もはや標的は、カタリ派だけではなくなる……」

 と、そこまで云うと、小城は、蕗屋が訪れる前から机の上に置いてある、すっかり冷め切った珈琲をすすった。合理的なることを良しとする小城のことだから、喉を滑らかにしてくれさえすれば、味などどうでもいいのだろう。一方の蕗屋は身を乗り出した。ここからが、彼の関心の、核心と云えた。誰が標的にされ、誰が逃げ、誰が己の信条を隠したのか……。葛瀬村で不二夫が読んでいたあの「本」の手掛かりは、そこにあるように思われた。あの「本」は何で、誰が書き、隠したのか……。蕗屋は思わず、頭の中で湧き上がる言葉を口にして問うていた。

「……どんな人たちが異端審問官の標的になったのですか?」

「ふむ。余りにも数多い。カタリ派は勿論だが、ワルドー派、ドルチーノ派、パタリーノ派、謙遜者派フミリアーティ、フランチェスコ会心霊派、自由心霊派、ベギン会などなどが異端として訴追された。余りに数多いので一々細かく説明はしないが、多くは清貧思想の教派だ。他にも多くの者が狙われているよ。猶太ユダヤ教徒から基督教に改宗した者たちも標的となった。いたかどうかも分からない悪魔崇拝者なんかも訴追の対象になっている。まあ、調べればまだまだあるんじゃないかな。兎に角、加特力の教義とは異なるものを信じていた――というよりも、異なるものを信じていると疑われた者達が片っ端から標的にされたんだ。全くの濡れ衣も多かったようだね……。また異端審問とは別に、この時期には猶太教徒に対する弾圧も強まっているね。猶太教の教典『タルムード』も各地で燃やされた。一三世紀は、宗教的な不寛容性が、西欧羅巴で狂ったように燃え上がった時代だったのだよ……」

 ここに至って蕗屋は呆然とした。そんなに沢山の人々が標的になったのか、濡れ衣で弾圧された者までいたのかと。その狂ったような時代の恐ろしさに蕗屋は驚愕し、そして困惑した。ここまで種々様々、多くの者が標的にされていたのでは、あの「本」を書き、隠した者が、一体何者なのか、簡単には手掛かりが得られそうにない……。

 それから少し沈黙が続いた。蕗屋は、次にどう話を持っていけばいいのか考えていたし、小城は、もう取り敢えず話すべきことは皆話し終えたという感で、冷めた洋茶碗に残っている液体を口の中に注ぎ込みながら、そんな蕗屋の表情を読み、反応を見定めていた。短いものではあったが、ここまでのやり取りから、小城が合理性を大層好む人間であることはもう重々分かっていたので、この沈黙は危険だと蕗屋は直観した。今、恐らく小城は質問を発する猶予を自分に与えてくれているのであって、もしこのまま沈黙が続いたなら、時間の無駄と判断して、きっとあっさり面談を終了させてしまうだろう。とはいえ、意味のある質問を発しなければ、やはり時間の無駄と判断されるかもしれない。そうなれば、折角、欧羅巴中世史の専門家に会っておきながら、「本」について何の有用な情報も引き出せないまま、すごすご帰る羽目になってしまうかもしれない。初め、人当たりが良いと感じられた小城の合理性と率直性も、こうなってくると何とも云えない重圧となった――この助教授に師事する学生もなかなかに辛そうだ。

 案の上、「じゃあ、そろそろ……」と小城の口が動いたので、蕗屋は「あのう……」と言葉を被せた。兎に角、思い切って何か云わないと。

「あ、あの、じゃあ、ステファヌス・アウレリアネンシスという人物をご存知じゃあないですか?」不二夫が残したノオトに書かれていた固有名詞を、蕗屋は口にしていた。それが意味のある質問になり得るのかどうか、彼にはさっぱり見当が付かなかった。ただ思い浮かんだものを咄嗟に発しただけで、「知らない」と答えられたら、それまでだった。ところが、

「ステファヌス・アウレリアネンシス? 君、羅典ラテン語を読むのか?」と、蕗屋にも思いがけないことだったが、小城は良い反応を示した――といっても、特段に強いものでもなかったが。蕗屋の口から羅典語の人名が出たことを意外に思ったらしく、少なくとも、この日会って以来、一番、蕗屋の発言に関心を示したようであった。

「いえ……文法を一通り知ってるくらいで、そんなに積極的に読むという程では……」

「ふむ。オルレアンのステファヌ、またはエティエンヌか。……確か、一三世紀後期の巴里パリ司教にオルレアン出身のエティエンヌという人間がいたと思うが……ちょっと待ちたまえ」蕗屋には全く分からなかったが、有名な人物なのだろうか? しかし、小城の反応を見るに、専門家でも直ぐにそれと分かる人物でもないらしい。小城はぎゅうぎゅうに書物の詰まった棚へと向かい、慣れた手付きで、縦一四寸横一二寸程もある巨大な本を抜き出すと、自分の机に戻ってきて、どすんとそれを置いた。渋鞣しぶなめしの重厚な装丁で、背表紙には『Nouvelle encyclopédie de l’Europe medieval』と書かれていた。

「Etienne、Etienne……」

 ステファヌスという名前を問うたのに、小城が「E」の項目を引いているのが不思議だったが、兎も角それを見守った。すると、程無ほどなく小城は目当てのものを探し出したらしい。

「ああ、やっぱりそうだ、エティエンヌ・タンピエ、またの名をステファヌ・ドルレアン。やはり、一三世紀後半の巴里司教だね。巴里一帯を管轄した、高位聖職者だよ」

「……何故、エティエンヌなんですか?」

「ふむ。かつて羅典語でステファヌスと呼ばれていた名は、今日の仏蘭西語ではエティエンヌになるのだよ。随分形が変わってしまうが、長い年月の中で訛っていってしまったんだね。……ははぁ、成程、君が知りたいのはこれか」

 そう云うと、小城は事典の項目を指差して蕗屋に示した。

「……学者に対する異端審問に関わった人間だな」


 ――Étienne Tempier, aussi connu comme Stéphane d'Orléans, fut évêque de Paris de 1268 à 1279. En 1270, Il a émis une condamnation formelle de treize propositions philosophiques ou théologiques. En 1277, il a développé sa condamnation, augmentant le nombre de doctrines condamnées à 219……


「三高の文学丙科なのだから、仏蘭西語は読めるのだろう? ……そう、「ステファヌ・ドルレアンとも呼ばれるエティエンヌ・タンピエは、一二六八年から一二七九年まで巴里司教だった」と書いてある。……彼は、異端審問の時代に、取り分け学術的な分野での弾圧を主導して、当時の学術界を震撼させた人物だ。一二七〇年と一二七七年の二度に渡って、condemnatio――『断罪』と呼ばれる恐るべき文章を発表し、その中で取り締まるべき学者達の学説や考えを一覧にまとめて糾弾した――と、書いてあるね。さっきも云ったように、私は異端審問の事は詳しくないから、この事典に書かれている内容以上に語るべきものを持ち合わせてはいないがね。しかし……そうだ、確か、が持っている稀覯本の中に、『断罪』とかいう題のものがあったのではなかったかな……」

「え、このエティエンヌ何とかが書いた本を持っている人がいるのですか?」

「うむ。今日僕が語った処の、少数の熱烈なる愛好家の一人だよ。旧雨きゅうう堂の支倉喜平氏と云って、まぁ全くの奇人変人の類だが、色々と古い西欧の稀覯本を蒐集していてね。彼の蒐集品はどちらかというと近世のものが多いのだが、中には中世史研究の学術上価値のあるものも含まれているから、正直な処余り関わりたくはないのだけれども、しかし時折拝見させてもらっているのだよ。確か、彼の蔵書の中に、『断罪』と題されたものがあった筈だ……。いや、題が似ているからといって、同じ本かどうかは私には分からんがね。どちらにせよ、僕にはもうこれ以上何も云うことはないから、これより先はそちらに聞くといい……」

 支倉とは寺町二条辺りにある古書店の店主であり、小城が電話を入れてくれた処、どうせ暇だから、今直ぐ来てもらっても全く構わないとのことであった。


 面談の時間を作ってもらい、紹介までしてくれたことに謝意を示して、蕗屋は小城の部屋を辞去することにした。その際、最後だからと、蕗屋は思い切って、ずっと気になっていたもう一つの質問を口にした。

「最後にもう一つだけ聞きたいのですが、よろしいですか……。では、その頃、異端審問が激しかった一四世紀頃に、地動説は異端になりますか? 確か、ガリレオ・ガリレイは、宗教裁判で裁かれたと聞いていますが……」

 しかしこの質問は、面談の最後を締め括るものとしては大失敗であった。

「……君、何を云っているんだい? 勿論、地動説は聖書の記述と矛盾するから異端になるだろうけれども、ガリレイにしてもそうだが、地動説が出てくるのはコペルニクスの後の時代じゃないか。いかに文科とはいえ、これはむしろ常識の範疇だろう? じゃあ、コペルニクスの著作は何世紀に書かれたんだね? 知らないのかね? そう、一六世紀だ。エティエンヌ・タンピエらが異端を弾圧していた時代よりも、ずっと後の話しじゃないか。一体これまで、何を学んできたものか、呆れるね、全く……」

 最後の最後に蕗屋は小城の心証を決定的に悪くし、ただ軽蔑するような目を向けられて質問を一蹴された。小城は、蕗屋の別れの言葉にも返答しなかった。かくして、大変後味の悪い中、蕗屋は逃げるように小城栄次郎の部屋を辞去した。蕗屋が小城と面談したのは、結局一時間にも満たなかった。


 強い自己嫌悪の念に囚われつつ、蕗屋は帝国大学の敷地を南へと突き抜けて、東一条通りに出た。寺町二条へ行くには、一旦いったん北側の百万遍電停に戻り、今出川線と河原町線を乗り継ぐという手もある。しかしこれは大回りであって、一方、直線で結ぶなら、帝大と寺町二条はそれ程離れてはいない。市電の乗り継ぎでもし時間の取り合わせが悪かったなら、かえって時間が掛かるかもしれないと、蕗屋は歩いていくことにしたのだ。歩くことで、小城の部屋で最後に味わった屈辱と後悔とを、幾らかは紛らわせるかもしれないとも思っていた。かくて蕗屋は、そのまま東一条通りを西へ向かって、荒神橋から鴨川を渡り、歩いて寺町通りへと向かった。

 この寺町通りは、京都御苑の脇を通っている為、そのかん至って静謐であるが、そこを過ぎ去って仕舞うと、寧ろ京の町衆の息遣いが濃厚な、至って庶民的な通りである。多くの商店が軒を連ねていて、「進々堂」からパンの焼ける香りがしたかと思うと、直ぐに「一保堂」からは茶葉の香りがしてくる。その近くの「菊新」では蒲鉾が美味いと評判だ。「古梅園」に行けばすずり、墨、筆が揃うし、「柿本」では紙が揃う。「ふなはしや総本店」の前を通ると鮮やかな五色豆と売り子の娘に誘惑され、「村上開新堂」の前に行けば乳脂たっぷりの洋菓子に蠱惑される。「精華堂」の銀器を見ながら、「富屋商店」の輸入食材を頭の中でそこに盛り付けてみるのもなかなかに楽しい。無論、寺町というからには社寺も多い。五月には露店も並ぶ下御霊神社はこの辺りの町衆に親しまれている。革堂こうどうは西国三十三ヶ所の第十九番札所で、今も二人連れの男が、衣装こそ黒い外套で遍路のものではないが、何かの願掛けでもしているのか、神妙な面持ちで佇んでいた。太閤秀吉によって移転させられたという顕本法華宗総本山の妙満寺もあった。寺院街らしい落ち着いた風情と、市井の活気ある賑やかさとが不思議と調和していて、その人間らしい穏やかな情景が、自己嫌悪に陥っていた蕗屋の心を程好ほどよく和ませた。

 古美術商や書店が多いのもこの界隈の特徴であった。古典籍を扱う「藝林荘」に、手摺木版本を出版している「芸艸堂」。「若林春和堂書店」では叩きを持った丁稚が、軒先の縁台に腰掛けて、陽気に誘われたか居眠りをしていた。三年前に武蔵野書院より梶井某の某書が刊行されて以来、全国的に話題になった某書店はもう少し先の三条まで行かねばならないが、この辺りでも、一時期、檸檬を手にした若者がよく見られるようになったとか……。そうした街並みを抜けて、蕗屋は、小城に教えられた住所へと着く。寺町二条から少し奥まった、人通りの無い処で、厨子二階の典型的な表屋造りの家屋がひっそりとそこにあった。正面の引き戸は開け放たれ、日避け暖簾が外界と家屋の中とを分かっていたが、その暖簾はただ真っ白で――というよりはいささか黄ばんでいたが――屋号は書かれていない。蕗屋は少しの間店の前に立ち尽くし、しばらく様子を窺った。脇の犬矢来は処々折れたままで、直された様子はない。その上に張り出した出格子には、元々赤い弁柄ベンガラが塗られていたようだが、今はほとんど剥げ落ちてしまっているようだ。頭上を見上げると、ひさしの上、丁度ちょうど「鐘馗さん」の足元辺りに、すっかり日に焼けた小さな看板が乗っていて、文字も殆ど褪色してしまっているが、辛うじて「旧雨堂」と読めた。

 「旧雨」とは、確か、「古い友」という意味であった筈だ。古書を旧友に例えているのだろうと、蕗屋は屋号の意味を読み取った。


「思ったより早うはりましたなぁ」と支倉喜平は、来るのが遅いという皮肉とも、来るのが早過ぎるという厭味とも、どちらともつかない口調で云った。蕗屋は、自分が早かったのか遅かったのか分からなくて、「はぁ…」と目をしばたたかせて困惑する。

 支倉喜平は、奇妙な男だった。歳の頃は三十代半ばという処だろうか、顔だけ見ればそれなりに整っているのだが、ひょろりと病的に青白く、しかも神経質そうな仕草をしているので魅力的とは云えそうにない。口髭は立派で、かなり丁寧に手入れしているらしく、また、眼鏡も国産の丸型ロイドではなく舶来の高級なものをしているようだったが、髪の毛となると処々寝癖が残り、着物となると、到底客相手の商家の人間が着るものとは思えないくらいり切れていて、しかも洗った後、無頓着に扱ったらしく皺だらけだった。どうも近視眼的に顔には身嗜みに注意を払うものの、そこから遠ざかれば遠ざかる程関心が無くなるといった様子で、何もかもちぐはぐな印象を与えるのだった。

 家屋の中に視線を向けると、支倉が正座している見世みせの間は、けっこう広いようなのだが、『呉氏西斎書目』や『遂初堂書目』、『直斎書録解題』、『郡斎読書志』、『四庫全書総目提要』、それに『夷堅志』や『捜神記』、『古今説海』、『唐人説薈』、『述異記』といった漢籍の書物が処狭しと並んでいて、その中で主人が肩身を狭そうにしているのが可笑おかしい。蕗屋は見世庭の縁台に腰掛けているのだが、こちらにも商品の漢籍は山と積み上げられていた。

 一方の支倉も、初めての訪問者を繁々しげしげと眺めた。

「貴男が『断罪』に興味を持たれたとは、意外ですなぁ」と支倉は暫く時間を掛けて蕗屋を観察してから云った。昨今の学生は勉学に不熱心と聞くから――という何とも単純な理由が、支倉の云い分だったが、蕗屋に云わせれば、こんな漢籍を取り扱っている店に中世欧羅巴の『断罪』があることの方が不思議である。しかし、あらかじめ小城から、「支倉は変わり者で癖がある」と聞いていたので、機嫌を損ねないよう何も云わない。すると支倉は、蕗屋に一言も云わずにいきなり立ち上がると、どうやら下肢が悪いらしくかなり大きく体を揺さぶらせ、足を引き摺りながら玄関の奥に消えた。蕗屋は驚いてどうしようかとまごまごしていると、再び支倉が顔を出した。

「何したはるんです? 『断罪』が見たいんやあらしませんのか?」

 蕗屋は慌てて靴を脱ぎ、見世庭から上がった。そして支倉に促されるまま、商品の漢籍が無造作に積まれた玄関を通り抜け、続く部屋まで入った。


「……まぁここにあるのんは、私のコレクションの一部でしかあらしませんねんけど」

 通された部屋は何とも異様かつ、何とも素晴らしいものであった。六畳の和室だったが、畳そのものは処々藺草イグサが毛羽立ち、かなり傷んでいた。それもその筈、この間では、畳の上に直接椅子などが置かれ、純和風の造りであるのに、全く洋間のように扱われているのだ。象嵌模様が施された猫足の卓子テーブルに四脚の肘付き椅子、大きな銀製の燭台と古めかしい地球儀を乗せた楢材の脇机。天板に青いタイルをあしらった花台には、両手付きの薊文花瓶が飾られているが、花は生けられていない。畳と障子、襖、壁土からなる部屋の和風な造りとは全く合っていなかったが、一つ一つの家具類は実に見事なものであった。

 しかし、真に圧巻なのは書棚であった。恐らくは床の間があったと思われる壁側に、天井まで届く西洋風の巨大な書棚が二棹置かれていた。天板や側面、引き出しの前板は桃花心木マホガニーの突板で、杢目もくめがとても美しい。全体に美しい装飾――支倉によれば、チューダー風とジャコビアン風を折衷した様式の――がなされていて、処々に黄銅製の金具が取り付けられている。観音開きの扉には、斜めに格子状の装飾が施された硝子が嵌められていた。そして、表の出格子や通り庭の天窓から入ってくる光が、障子越しに柔らかく、硝子の中に整然と置かれた本を照らした。それらはまるで壁のように並び、数十冊もあるだろうかと蕗屋は推測した。何冊かはその美しい装丁が見られるように、表紙を硝子の面に向けて置かれており、その皮革の質感に施された一面の花形装飾と金鍍金ときん文字が美しい。どれも兎に角古そうで、その意味で貴重そうではあるのだが、一方でボロボロに破損し汚れたものも多く、それらが美術的、或いは史料的に価値があるのかどうかは、蕗屋にはまるで見当も付かなかった。

「私にしてみたらこれぞ眼福でおしてな……」と、支倉は蕗屋の様子に満足そうに呟く。但し、笑っているのは口先だけで、目は蕗屋を寝踏むように油断なかった。

「素晴らしいコレクションですね」蕗屋は何か云わなければと感じて、取り敢えず目の前の男の、蒐集の戦果を褒め称えた。

 すると好事家は、そんな反応面白くもないとばかりにさして喜ばず、とはいえ悪い気もしていないらしく、何とも微妙な表情を浮かべた。そして、支倉は人差し指をすっと唇の前に立て、どうしようかと少し考え込むようにしてから、足を引き擦って書棚の方に向かった。そして硝子戸を引き開け、並べられた本の一冊を引き抜いて猫足卓子の上に置いた。

「これは一六二三年の二つ折版『沙翁シェークスピア作品集』でおす」

 そこに開かれたのは確かに見覚えのある沙翁の肖像を描いた挿画で、蕗屋にとっても興味深いものであった。元来の知的好奇心旺盛な蕗屋であれば、案外喜んでその本にまつわる支倉の薀蓄うんちくを聞いたかもしれない。但し、この時の蕗屋は、明確な目的を持っている訳だから、支倉の回り道そのものの口上がもどかしくて仕方ない。だからどうしてもその本に強い興味を持つことができなかったが、再び小城の助言を思い出して、熱心に聞いているかのように相槌を打つ。さらに自ら書棚の硝子戸を覗き込んで、何冊かの本の背や前小口に印刷されている題を眺め、その内幾つかを全くの適当に――しかし、あたかも興味があって選んだかのように装って――口にしたりもしてみた。

「なるほど、『Malleus Maleficarum』に『Formicarius』、『The Discoverie of Witchcraft』、『De la démonomanie des sorciers』、『De praestigiis daemonum』ですか……」

「ほう、やっぱりその辺の本に興味が御有りなんどすか?」

「え? ええ、まあ」支倉が大層喜んだ様子でそう云ったので、蕗屋は危うく笑ってしまいそうになるのを堪えた。蕗屋の当てずっぽうにもし意味があるとするなら、それはただ並びの順に挙げていっただけだったので、元々の支倉の配列に意味があったというだけにすぎない。しかし蒐集家は、全くそれには気付いていないようで、明らかに先程までより上機嫌になっている。本当の処をこの蒐集家が知ったなら、どんな反応をするだろうかと思いつつ、蕗屋は好機を見過ごすまいとした。

「あの、それで……小城助教授からお聞きになっていると思うのですが、僕はエティエンヌ・タンピエの『断罪』を見せてもらう為に御邪魔させていただいたのですが……」

「ああ、勿論、聞いてますえ。勿論、御見せいたします」

「それでは、この中のどれが……」

「いや、ここにはございません」

「え?」

「いや、勘違いせんといておくれやす。この部屋には無い、という意味です。先程も云うた通り、ここにあるのんは私のコレクションの一部でおすさかい……」そこまで云うと、突然支倉は見世の間の方、それも少し上方に顔を向けて、途方もない大音声を発した。

「おぅい! いつまで時間掛けてんのや! 御客様が御待ちなんやさかい、早よ持って来ぃ!」

 いきなり支倉が、考えられない程の大声を張り上げたので、蕗屋は大いに肝を潰したのみならず、支倉の正気を疑いさえしたのだが、しかし直ぐに、その声に反応して、天井がぎしぎしと軋んだので、状況を納得した。家人か使用人かは分からぬが、もう一人いたのだ。考えれば、商品にせよ趣味にせよ、書籍は大変重い訳だから、支倉の足が悪いことを踏まえると、これを助ける者がいて寧ろ当然といえる。

 やがて、先程の見世の間にあった、二階の厨子に繋がる階段を軋ませて、まだ十二、三歳の頬の赤い丁稚が、大きな箱を両手に抱えて潰されそうになりながら降りてきた。そのまま蕗屋らのいる部屋に運び込まれた箱には、「一六世紀雑本」と書き殴られていた。

「『断罪』でおしたな。あれは、余り私の気に入っている本やないので、こんな風にして二階に置きっ放しでおしたんや……」

 その箱の中にも沢山の、種々様々な古洋書があった。そしてその中から支倉は一つを取り上げ、蕗屋の眼前に開いて見せた。そこにあらわれたのは地獄と思しき光景を描いた絵で、老若男女あらゆる人間が責め苛まれていた。

「これが貴男の求めている本、エティエンヌ・タンピエの『断罪』でおす」


「どうぞ、手に取っておくれやす。これは、エティエンヌ・タンピエの『一二七七年断罪』の再刊本でおすな。再刊本というても、今から四百年近く前の、本邦で云えば戦国時代に当たる一五五九年に、リエージュのイヴェール工房が活版印刷で出版したものやから、これ自体骨董でおすねんけど。そこいらの普通の洋書と一緒にされては困りますが……まぁしかし、大したもんでもあらしません。紙の質も悪いし、印刷も八つ折りで黒洋墨インクの単色刷りやから、当時としてもまるで芸のないもんで、大層なもんやおへん。ただ、その工房の極初期に作られたものやから、その意味では面白おすな。別に、直接手に取ってもろてかましませんえ。ただ、綴じ糸だけは気ぃ付けておくれやす。古書いうもんは、ず糸から傷んでいきますのんや。紙は、質が悪うとも、案外に時の経過に強おすねんけど、糸はあきまへん。質の悪いもんやと、時の経過と共に、直ぐにぼろぼろに千切れて、頁がバラバラになってしまいます……扉頁に、印刷人章や工房の住所が書かれてますやろ。これが、この時期の印刷本の特徴でおすな。そして、浪漫ローマン体の活字が用いられて、算用数字による頁の番号付けがされてますな。これもこの時期以後の印刷本の特徴でおす。この時期以前なら、羅馬ローマ数字による紙葉フォリオ番号でおすな」

 それは、予想していた以上に、遥かに小さな書物であった。縦五寸半、横四寸といった処だろうか。表紙は革製でしっかりしているようだが、傷んで表題などは一切読めない。これが、あの序文に書かれていたステファヌス・アウレリアネンシス――エティエンヌ・タンピエが発布したものかと、蕗屋は感慨深くなる。その小さな古書を目の前にすると、奇妙な愛しささえ感じられるのだった。しかし、ただこの『断罪』に辿り着いただけで喜んではいられなかった。蕗屋にとって、これは単なる経過点であり、目指す目的ではないのだ。重要なのは、ここで標的にされている筈の、あの「本」の正体を突き止め、書いた人間を焙り出すことなのだ――それには、兎に角、先ずこの中身を知る必要がある。先ず読まなければ。 

 そう気を引き締めたつもりではあったが、改めて目の前の古書を手に取ると、小振りなのに意外と重い。一枚一枚はさしたることのない紙切れは、不思議と束になると異様なまでの重量となる。大きさとしては葉書といった程度だったが、その印象の割に分厚いのだ。一寸程もあるだろうか――試みに、ひっくり返して裏表紙を開けると、「336」との数字が上部に印刷されており、それは明らかに頁番号であった。本の判型が小さくなった分、頁数も増えたのかもしれないが、これだけに渡って他人を断罪する言葉が書かれたのかと思うと、何とも空恐ろしい。そして、そんな不快感よりも大きな問題に、蕗屋は直面せざるを得なかった。表表紙を開こうと裏表紙を開こうと、どこにも目次が無かったのだ。総勢三三六頁にもなる悪意の塊――このうんざりする分厚い羅典語の著作を一気に読み通すのは、今の蕗屋の能力では余りに困難であることに、改めて気付かされたのだ。短かめの文章ならば読めなくもない。しかしこれだけの分量の羅典語となれば、何日、いや何ヶ月掛かることか……

「これ、貴男は全部読まれたのですか?」先々の困難を予想して動揺した蕗屋は、そんなことを支倉に問うた。動揺したといっても、必ずしも弱気に駆られた訳ではない。どうしても読まねばならないとあったら読む気ではあった。しかし、葛瀬村の宮瀬家の人達――或いは弓子のことを考えたら、そんなに時間を掛けたくないのも正直な気持ちであった。

「いやぁ、私は簡単な羅典語しかよう読めしまへん。必要な時は小城先生に読んでもらうんやけど、さすがに一冊丸ごと読んでくれとは御願いしたことないなぁ……」

 古書蒐集家というのは、どうやら本の内容そのものを自分で読み通すことには関心がないらしい。本の持ち主に頼れないと分かって蕗屋は強く失望する。淡い期待はあっさりと砕け散り、彼にとっては全く残酷なことに、あれ程力強く引き受けた弓子の依頼に応えるのに、かなりの日数が掛かることはもう避けられないようであった。

 ところが、そこに一筋の光明が差す。それは、実際には支倉が相変わらぬ調子で自分の蘊蓄をひけらかしただけだったのだが、蕗屋には大いに助けとなった。

「――こちらには一七世紀の廉価な青本版がありますえ。『断罪』の内容を箇条書きで纏めて、他の幾つかの異端審問の手引書と合わせて一つにしたもんどす。実生活で、異端に陥るのを避けたり、異端にうた時にどう対処するべきなんか注意喚起する為の携帯用でおすな。もうこうなると、稀覯書としての価値なんて殆どあらしまへんが……」

 蕗屋は、支倉の手からその青本版を受け取った。その表紙は何も書かれていない青い粗悪な紙で、どうやらそこから「青本」と呼ばれるらしい。その粗末な表紙を捲ると、『異端の脅威』との題が素っ気なく書かれていて、先に渡された『断罪』よりも遥かに薄く、造りや中の頁の紙も至って劣悪で、支倉の云うように、廉価な携帯版といった感であった。本文は幾つかの部分に別れていて、それら一つ一つは別々の内容のようであり、複数の書籍の中身を合わせて一つの本にしたもののようであった。その二八頁目の処に、「Condemnatio Stephani Aurelianensi(ステファヌ・ドルレアンの断罪)」とあり、そこから六頁に渡ってずらりと箇条書きされている。

 試みに、蕗屋は箇条書きにされた最初の一つを頭の中で訳してみた。


 一、「哲学に専念することよりも良い人生はない」という異端的誤謬


 それから、先に受け取った分厚い『断罪』の冒頭の部分をなんとか訳してみる。


 ――哲学に没頭し、専念し、或いはそれを考えて瞑想に耽ることを、人間の情熱の最上のものだと考えるのは明らかな、異端的過ちである。これは、古代希臘ギリシアの高慢な多神教徒アリストテレスが、その悍ましい著書『ニコマコス倫理学』の中で説いたものである。この考えは、哲学の知恵に対する、基督教信仰と神学の真なる叡智の優越を否定する点において全くの誤りである……


 成程、支倉の云う通り、この廉価な青本版の『断罪』は、内容の殆どを省略して、ただ断罪すべき項目を簡潔に表題的に纏めて、箇条書にして並べて書いただけのものらしい。そこから細かな内容は知るべくもないが、分厚い完全な『断罪』と照らし合わせて使用するなら、実質的に目次として役立てることができそうだった。

 蕗屋は、支倉から許可を得て、羅和辞典を借りて、暫くその場で読ませてもらうことにした。他人にコレクションを見せることを愉しみとしているらしい支倉は、この蕗屋の不躾な依頼に気軽に応じてくれた。但し、延々と続く蘊蓄付きだが。支倉は、蕗屋が『断罪』に夢中になっているのを見ながらも、『断罪』とはまるで関係のない薀蓄を、自分の欲求の赴くままにぺらぺらと喋り続けた。しかしそれも、ラヂオがかかっているようなものだと思えばさして苦にならなかった。

 蕗屋の目は只管ひたすらに青本版の箇条書きを追った。

 二、「哲学者こそが世界を知る賢者である」という異端的誤謬

 三、「哲学は本質を探究するものであるが故に、凡ゆる学問は哲学の子であり臣である」という異端的誤謬

 四、「人は、常に疑問を持つ為には、権威に満足してはならない」という異端的誤謬

 五、「人はそれ自体明らかなこと、或いは明らかな論証によって証明されたものしか信じるべきではない」という異端的誤謬

 六、「結論の真実性は、凡ゆる人がそれを自然に認識できるような、それ自体の明白性に負っている」という異端的誤謬

 七、「論理的に議論しうるあらゆる疑問は、哲学によって解明できる」という異端的誤謬……


 箇条書きとはいえ、これはなかなか大変だぞと、蕗屋はげんなりする。段々とアルファベットの羅列が蟻の行列に見えてくる程であった……


 六一、「原因がなければ、物質からは何も生まれず、物質が無ければ、原因だけでは何も生み出せない」という異端的誤謬

 六二、「形質は、物質を変化させたその原因によってしか生み出されない」という異端的誤謬

 六三、「質量は、その本質において、何者によっても増減させることはできない」という異端的誤謬

 六四、「物質は、その本質において永遠であり、ただその現に存する形へと新たに生まれ変わるだけである」という異端的誤謬

 六五、「天球や天体を含む世界もまた永遠であり、ただ新たに生まれ変わるだけである」という異端的誤謬

  六六、「天体の運行について、論理に基づいて考察すれば、不動のものが動いていると証明でき、動くものが不動であると証明できる」という異端的誤謬


 ――あ。今、あった。

 ずらりと並ぶ項目に、いつしかただ、機械的に訳すばかりとなっていた蕗屋だったが、それでも何とか彼の鈍った意識に、「de motu orbium coelestium」という単語が触った。細かなアルファベットの文字列を追って、草臥くたびれ始めていた蕗屋の目が、しっかりと焦点を結んで輝きを取り戻す。これではないだろうか?――それは、青本版に挙げられた六六番目の項目で、「天体の運行について」と書かれていた。

 箇条書が並んでいるだけの青本版では、これ以上細かいことが分からないので、蕗屋は、それまで脇に置いていた八つ折判の分厚い『断罪』を掴み上げ、やにわにその頁をめくり始める。青本版では二一七箇条あった内の六六番目であったから、八つ折判の全体の三分の一より少し手前の辺り、大凡おおよそ百頁辺りを開け、「天体」や「運行」といった単語がないかと、目を皿のようにして探す。一方、急に勢いを増したその挙動に、支倉もぱたりと蘊蓄を語るのを止め、果たしてこの若い訪問客は何を見付けたのだろうかと、いぶかりながら見詰めた。

 やがて蕗屋は、「天体」や「運行」といった単語が頻出する箇所を見付けた。望みの頁と覚しきものを探し当てた蕗屋は、段落の切れ目を手掛かりとして、暫くそこから、書かれた羅典語の文章を黙読する。無論、簡単に読める筈もなく、辞書を片手に行きつ戻りつするぎこちないものだったが、それでも大意は確実に掴んでいった。嬉しそうに目を細め、自然と口の両端が上がってくる。

 ――見付けたぞ、これだ! 確信した蕗屋は、『断罪』の該当のページを広げ、まじまじとその文章を眺めた。


 ――Terram in centro univercitae ita fixam Deus constituit, ut perpetuum non movebitur, imperans circum terram revolvere solem, lunam celumque……

 ――神は、地球を永遠に揺るがぬよう、不動のものとして宇宙の中心に定めたのであり、その周りを、太陽や月や天が廻るよう命じたのであり、それ以外のことを云う者は人を惑わす虚言の徒か狂人である……


 間違いない――ここでエティエンヌ・タンピエが念頭に置いているもの、断罪しているものこそは、あの「本」に書かれていた記述そのもの、或いはそうした記述を導いた思想なのだと、蕗屋には思われた。しかし、その頁のどこにも、断罪されている人物や書物の題ははっきりとは記されていなかった。その付近の頁にも、具体的な人名や書名はなかった。蕗屋は、『断罪』の相当箇所を確かに見付けた筈なのだが、そこに蕗屋の手助けとなる具体的情報はなかったのだ。これでは、誰の、何を断罪しているのかさっぱり分からない。些か困惑した蕗屋だったが、直ぐにくだんの文に註が付されていることに気付いた。即ち「狂人」という単語の脇に小さなアステリスクが付いていて、その頁の枠外下方に小さな活字で目立たない文が刷られていたのだ。恐らくは一六世紀のこの『断罪』の再刊者が、出版に当たって、読む者の便宜の為に付した註だろう。その小さな活字で書かれた文を蕗屋は読み解く。それは至って短い文だったので、あっさりと訳すことができた。


 ――ここで云う狂人(insaniens)とは、「狂った哲学者(philosophus insanus)」のことを念頭に置いている。


 何だ、これは? それは全く意味の無い註のように、蕗屋には思われた。具体的な人名でも何でもなく、ただ「狂人」を「狂った哲学者」に置き換えただけでは、何の説明にもなっていない。これでは殆ど同義反復しているだけだ! この註を書いた人間は、ただ狂人の戯言だと強調したかっただけなのだろうか? 如何に賢明な哲学者とはいえ、狂ってしまってはどうしようもないと云いたかったのか? しかし、そんな読者が忖度しなければいけないような、回りくどい註があるだろうか? その上、もしそうだとしても、やはりそんな元の文意を強調する程度のことを、註でわざわざ書く意味が蕗屋には理解できなかった。

 少しの間悩んだ末に、蕗屋は自分が誤訳したのだろうと結論付けた。そこで、辞書を繰り返し繰り返し引き直し、語義の選択肢の中から、最も適したものを探した。「荒れ狂っている」「有頂天の」「熱狂している」「過度の」「法外な」、「哲人」「賢人」「賢者」……特に「insanus」には複数の語義が有り得たが、しかし、「狂った哲学者」以上に適したものが出てきそうにない。――狂った哲学者、狂った哲学者……

 そんな困惑する蕗屋の耳に、思いがけない言葉が聞こえた。

「狂った哲学者、あんさんは今、確かにそう云わはりましたんか?」

 意識せず、蕗屋はその言葉を口から漏らしていたらしく、それに支倉が気付いたのだった。

「「狂える哲学者」――あんさんは、「狂える哲学者」を知ったはりますのんか?」どうやら今度は、痩せた蒐集家が興奮する番のようであった。


「アブドゥッラフマーン・イブン・ジャービル・アルヤマニー。生業の石屋から、アルハッジャール、羅典語ではアルハザルドゥスとも云う、亜剌比亜アラビアの哲学者や。ほら、丁度ここに地球儀があるけど、亜剌比亜半島の西南端、嘗ては「幸福な亜剌比亜」と呼ばれ、今日では少し前に土耳古トルコより独立した也門イエメン王国の都市サナアの出身やと伝えられとる。希臘哲学を発展させた碩学やけど、奇矯な言動も多かったと伝えられ、「狂える哲学者」とも呼ばれる、伝説的な人物や」

「亜剌比亜の哲学者……。何故そんな人物のことが、中世欧羅巴の文献に出て来るのですか?」

「何を云うてはるんや。中世の欧羅巴では、丁度明治以来の本邦が西洋の諸学問を模倣吸収したように、亜剌比亜の学問こそが、手本となる先進的な文物どしたんやで」

 そう云うと、支倉は地球儀を再び指差した。

「ほら、見てみなはれ。現代の学問の起源は、その大元を辿れば、プラトンやアリストテレスなど、古代希臘に遡ることくらいは、三高生なんやからさすがに知ったはりますやろ。さて、この希臘やけど、区分上は欧羅巴に属するとされるものの、地球儀を見ての通り、実際には英吉利や仏蘭西、独逸などの西欧からは遠おす。一方、土耳古や亜剌比亜、或いは埃及エジプトなど、西亜細亜アジアや北阿弗利加アフリカに意外とちこおすんや。土耳古は希臘の直ぐ東隣やし、埃及は地中海を挟んで希臘の直ぐ南側や。せやから、距離が近ければ当然起こり得ることなんやけど、古代希臘の学問や文明は、寧ろ亜剌比亜や埃及などに広がっとったんやな。一方西欧は、古代に西羅馬帝国が崩壊して以後、野蛮な日耳曼ゲルマン人が跋扈したから、学問なんか顧みられへん時代が長う続いた。せやから西羅馬帝国が滅びた後に続く中世の時代では、概ね亜剌比亜や埃及の方が先進的で、西欧羅巴の方が野蛮やったんやな。今日とは云うならば逆やから、一寸ちょっと想像し難いかもしれまへんけどな。そうした状況にあって、一二世紀頃から、亜剌比亜の先進的な学問が西欧に入ってきて、丁度本邦が西欧を学ぶことで文明開花したように、中世の西欧は亜剌比亜や埃及に学ぶことで文明の曙を迎えるんや。アビケンナやらアヴェロエスやらの名前を聞いたことはあらしませんか? 中世の欧羅巴においては、亜剌比亜や回教の学者は、ちょっとしたスタアどしたんえ……」

 そう云うと支倉は、地球儀の亜剌比亜や埃及の辺りを指していた人差し指を、つつ……と北阿弗利加に沿って這わせ、ジブラルタル海峡を越えて、現在の西班牙スペインの辺りへと移動させた。どうやらそれが、亜剌比亜の学問が伝わった経路のようであった。

「十年程前に、米国のハスキンズちゅう歴史家が、この西欧の文明の曙を「一二世紀ルネッサンス」と呼ぼうと提唱したそうやが、まぁそれはええわ。兎も角、亜剌比亜の著作が中世欧羅巴の文献に出て来ても、何の不思議もあらしません。「狂った哲学者」とは、一般的な狂ってしまった哲学者のことやなく、亜剌比亜の「狂える哲学者」――アルハッジャールのことに間違いあらしませんやろ」

 蕗屋は羅典語の特徴を思い出していた。羅典語は、欧州の言葉には珍しく、冠詞がない。だから、「philosophius insanus」が、英語で云う処の「an insane philosopher」なのか、それとも「the insane philosopher」なのか区別が付かない。支倉の云うことが本当ならば、この「philosophius insanus」は、英語で云う処の「the insane philosopher」、即ち既にある程度は知られた、少なくとも一六世紀の「読者」には既知の「狂った哲学者」だったのだろう。そしてそれは、今、支倉が講釈を垂れている人物なのかもしれない……

「アルハッジャールの著作も、その頃に欧羅巴に入ってきてるんや。証拠がある、記録に残っとる。遅うても、一二二八年のパリ大学の蔵書記録に、ハッジャールの著作の題が記載されとるんや。同時期の、異端審問裁判記録にもその題が記されとる。一二七八年に、カンブレ出身の学生がハッジャールの著作を隠し持っているとのかどで告発され、逃亡の末にシャルトルで激しい異端審問に掛けられたとの記録が残っとる」

 カンブレ――それは、焼け焦げた不二夫のノオトの序文を書いた人物の出身地だった。「本」を持って逃亡しているとの状況も符号している。確かに、支倉の云うことに間違いはないように、蕗屋にも思われてきた。これまで、朝方のラヂオ体操の音声に等しかった支倉の蘊蓄が、急に進級を左右する教官の講義のように聞こえてきた。姿勢もおのずから良いものとなり、目の前の痩せた蒐集家に真っ直ぐ向き直って、背筋を伸ばした。そして、まさに教官に対するが如く挙手して質問した。

「それは――やはり地動説の所為せいで告発されたのですか? 地動説の本を書いたから?」

「地動説の本を書いた?」

「ええと、その、この、『断罪』には、「狂える哲学者」を非難する言葉として、このように書いてありますが……」蕗屋は、先程自分が訳した『断罪』の一説を語ってみせた。

「ははぁ、成程、確かにそこだけを読んだなら、そんな風に思えるかもしれませんな。せやけど、ほんまのとこ、ハッジャールがどんな本書いたんか、その全貌はよう分かりませんのや」

「よく分かっていない?」

「そう、何しろ彼の著作は何一つ残されてへん。亜剌比亜でも、欧羅巴でも、少なくとも判明しとる限りは、全て燃やされてしもてますのんや。確かに、そこには地動説が書かれてたんやないかという説もある。他にも、人体解剖をして、その様子を克明に記したとも伝えられとる。死体ではなく、生きた人間を、や。しかし、仮にそうやったにせよ、それらは彼の著作の一端にすぎない。というのも――」

 支倉はそこで一端話しを区切ると、一寸ぞっとするような笑みを浮かべて、陶酔するように天を仰いで、ほがらかつ高らかな声を上げて再び口を開いた。しかし、そこから紡がれた言葉は、天を仰いで謳い上げるよりも、地に向かって呟き掛ける方が似合っていた。

「ハッジャールにとって、天文学も、人体解剖も、あらゆる思索も、全ては一つの目的、彼の呪われた使命の為に行われたんや。ジョルダーノ・ブルーノはこう云うてる、「絶望の哲学者だ」と。ジョン・ディーはこう云うてる、「虚無の預言者だ」と。マルティン・ルターはこう云うてる、「呪われた狂人だ」と、「それを読んだ者に神の呪いあれ」と――。そう、彼の著作の真の目的は、神や霊魂の否定――徹底した、究極の無神論の書なんや」


「なんで、こんなに詳しいかって? ハッジャールの著作、Dialogus cum Diaboloつまり『悪魔との対話』は、我々稀覯本蒐集家の――というても、稀覯過ぎて駆け出しの者ではその存在すら知らんやろけど――少なくとも蒐集をある程度は極めた者達にとっての、見果てぬ夢なんや。奇書中の奇書と云われ、少なくとも一七世紀までは実在していたことが分かっている本なんやから。羅典語でも、亜剌比亜語でもどっちでもええから、何とか現存しているものを見付け出して、手に入れたい。もし手に入るんやったら、この蔵のもの全て、いや、家屋敷全て売ってしまってもええわ。いや、別に私が特別なんちゃいますえ。さっきも云うたけど、稀覯本蒐集家たる者、最後に行き着くのんがアルハッジャールなんや」

 支倉自身が、今や「狂える蒐集家」とでも云うべき目をし始めていた。蕗屋はそれに恐怖を感じつつも、彼自身、強烈な好奇心に突き動かされ、聴き入るしかなかった。支倉は、先程丁稚に持って来させた一冊のノオトを取り出した。それは恐らく支倉の手書きで、「アルハッジャール考」との題が付されていた。

「二年程前に、それまで私が調べた内容を纏めたもんどす。勿論、その後も調べとるんやけど、なかなか新しい情報はのうて。良ければ読んでみておくれやす――」。そう云うと、先ず支倉は一頁目を指差した。

「これは一七世紀の『哲学者総覧(Nova Bibliotheca antiquorum lectionum philosophorum)』に書かれていたハッジャールの評や。まだハッジャールの著作が間違いなく存在していた時期に欧羅巴で書かれたものやが、既に伝聞情報が多なってんのが分かる。もう既に幻の哲学者となりつつあったんかもしれまへんな。次は、一九世紀の東洋学者シルベストル・ド・サスィが、亜剌比亜の裁判史料を調査して記した評伝や……」

 そこには、様々な著作に書かれた、「狂える哲学者」の評が引用して書き出されていた。


 ――アルハザルドゥス(Alhazardus)、またはアルハズラドゥス(Alhazradus)。独自のアリストテレス哲学の解釈から、遂に無神論に至る。但し、その思索には詩人的な霊感が働いている処も強く、純粋な合理性のみからそこに至ったとも云い難い。奇矯な言動も多かったと伝えられ、「狂える哲学者」とも呼ばれる。聖書やコーランの記述を否定する為に、数学的思索と詩人的霊感を駆使して地動説に至ったとも、人体解剖を行い、霊魂の不存在を立証したとも伝えられる。主要な著作は、『悪魔との対話』。精緻な合理的思索と奔放な想像が交錯する特異な著作。


 ――恐らくは九世紀末に亜剌比亜半島也門のサナアに生まれる。一七歳の時に白達バグダードで天文学者、数学者のヤアクーブ・イブン・イスハーク・アッタブリーズィーに師事。その後一時学問を捨てて、バスラの高名な回教神秘主義者であるサフル・イブン・アブドゥッラー・アットゥスタリーに師事し、麥加メッカ巡礼を果たし、印度インドで伝道を行ったとも伝えられる。しかしやがて回教神秘主義にも飽き足らなくなり、再び学問に戻る。草廬に篭って独自に哲学や自然科学を探究して遂に無神論に達し、神秘主義者の酔語シャタハートに似せて「神はいない」「死後の世界はない」「地獄は人の頭の中にこそある」などと公然と云い放ち始める。その過激な言動に、不信仰者宣告がなされ逮捕される(九二三年)。しかし、この頃にはそれまでの発言から一転して、自分の頭に住みついたと云う奇怪な悪神の存在に怯えるなど、言動の異常さが際立ち始めており、尋問でも支離滅裂な言動に終始したため、「狂人の戯れ言」として釈放された。しかし釈放後間も無く謎の失踪を遂げた。「取り憑いていた悪魔ジンに食い殺された」とも、「彼の言葉に怒った者達により、生きながら一寸いっすん刻みにされ、ティグリス河に捨てられた」とも伝えられる。その著作『悪魔との対話』は、アリストテレスの思想を発展させた点についてはしばしば高く評価されたが、無神論というその内容の過激さ故に、或いは「狂人の著作」との烙印が押されたために、全体としては正当に評価されることなく、奇書として伝説化していく。一二五八年の蒙古軍侵攻による白達陥落時に、亜剌比亜語の写本は全て焼失したと考えられている。


「毀誉褒貶、ありとあらゆる評判が揃っとるが、いやまぁ、しかし、その殆どは汚名やな。それ程に、余りにもセンセイショナルでおしたんや。何しろ昔は宗教の力が強おしたからなぁ、そこで、しかも一神教を奉ずる国々でこんな著作を出すなどというのは、現在の我々からは考えられへん程危険なことやったやろ。ルター自身は内容も読まんと、「それを読んだ者に神の呪いあれ」と記したらしいけど、実際にある意味でそれを読んだ者は呪われることになる。その緻密で説得力のある無神論は、一神教を奉ずる社会にあっては、それを読む人達――少なくとも、それを理解できる知力を持った人達の信心や価値観を破壊するんや。もう読んでしまっては、それまで通りではおれへんという訳や。それ程説得力をもって、徹底的に神や霊魂の存在を否定するんやな。せやから、しばしば『絶望の書』とも呼ばれ、欧羅巴でも亜剌比亜でも、兎に角忌み嫌われて、焼かれた。せやから兎に角、何も残されてへん。ただ、一七世紀のジョゼフ・エリゴーヌは、その著書『奇書大全』の中で、その目次を書き残しとる。あそこにあるんやけど、見てみはりますか?」

 そう云って支倉が蕗屋に見せた書物には、次のように記されていた。そこに書かれていたものは、不二夫のノオトに書かれていたものと同じだった。最早、不二夫が書き写したものは、このハッジャールの著作に間違いはないように蕗屋には思われた……


『悪魔との対話、或いは神の存在を否定する一六の命題と一つの結論』

 一、自由意思と理性について

 二、この世の善について

 三、この世の悪について

 四、悪魔の無罪性について

 五、善悪の無意味さについて

 六、人体について

 七、生命の維持について

 八、生命の起源について

 九、宇宙の構造について

 十、数について

 十一、死後の世界の不存在の数学的証明について

 十二、死者の不存在の数学的証明について

 十三、霊魂の不存在について

 十四、神の不在の数学的証明について

 十五、この世の全てが無意味であることについて

 十六、滅私の果てに無を見つけたことについて

 十七、神の不存在の最終的証明


 ――おかしなことになってしまったと、蕗屋は困惑していた。支倉は、アルハッジャールに明らかな興味を示しながら、自らは多くを語ろうとしない蕗屋自身に、強い興味を持つようになってしまったのである。もっと有り体に云うなら、『悪魔との対話』の蒐集に強烈な執念を持つ支倉は、蕗屋自身も実はそうであって、何か情報を持ちながらそれを隠して自分に近付いてきたのではないかと疑い始めたのである。支倉は、蕗屋が一応の目的を達した後も、彼を帰そうとはしなかった。彼が隠している情報を聞き出すのが目的であったが、その為に支倉が考える処の最大限の歓待を彼にし始めた。即ちそれは、秘蔵の逸品を見せることであり、さらに蘊蓄を語ることであった。

 こうしてとうとう、蕗屋は、秘蔵の品があるという旧雨堂の坪庭つぼにわの更に裏にある蔵へと、招き入れられてしまった。人を招き入れようというだけあって、大変綺麗に整理整頓されており、ほこり一つない。新たに改修されたらしく、目新しい多くの棚が作り付けられていた。そしてそれらの棚の上に、多くの古書が処狭しと積み重ねられているのだ。ゆくゆくは画廊のように改修したいとの話しであった。

「知り合えたことを祝福させてもらいますえ」と支倉は、先程台所――京ことばで「おくどさん」と呼ばれる――から取ってきた葡萄酒の瓶を開けて、手近な棚の上に置かれている、二つの硝子杯に注いだ。

「飲めへん訳やあらしませんやろ。これはなかなかええもんどすえ。葡萄酒の本場、仏蘭西産の逸品でおす。ほら、ここ――ああ、貴男は三高の文学丙科でおしたな。ほんなら読めますやろ、そう、そう、波耳多ボルドーどす。流石さすがでおすなぁ。国産の葡萄酒やったら、飲まはったこともあるかもしれませんけど、これはなかなか学生では飲めませんえ。さあさあ、どうぞ、どうぞ」

 支倉は蕗屋に長い脚の付いた硝子杯を渡し、まるで何かの入会儀式でも行うかのように、高く高く自分の杯を掲げた。蕗屋もそれに付き合って掲げると、嬉しそうに支倉は杯を触れ合わせ、そして一気に飲み干した。蕗屋も取り敢えず一口舐めると、成る程、これまで味わったことのない濃厚な果実の発酵した薫りの中に、微かに黒胡椒か丁子のような刺激的な香気を感じる。それが美味しいのかどうかはよく分からなかったが。兎も角、蕗屋が葡萄酒を口にするのを見ると、支倉はますます舌舐めずりをするようなのであった。蒐集家は、空になった硝子杯をまるで指揮者のように振り回した。それはどうやら、蕗屋を同好の士として歓迎するとの意をあらわしているらしく、支倉としてはそれで蕗屋の御機嫌を取っているらしかった。

「どうどす? 取って置きの葡萄酒の味は? いや、葡萄酒なんて、この際どうでもええ。如何いかがです、私の自慢の蔵の中身は? さあさあ、もっと近う寄って見ておくれやす。ここにあるのんは、揺籃期本とか、プランタン工房の初期の本とかどすのんえ。カルデリヌスの『マルチアリス注解』にグイド・デ・モンテ=ロケリの『司牧者の手引』、カシオドルス『詩篇釈義』、ルカ・パチョーリ『算術、幾何学、比例、比率全書』、シェーデル『ニュルンベルク年代記』、プランタン工房の『多国語聖書』……」

 支倉に勧められるまま、蕗屋は四方を取り囲む棚の方へ近付いて行った。それらは見た目にも古く、確かに先程までのものよりも装飾が立派で、極彩色の挿絵も多色刷りされ、珍奇なものらしく思われたが、母屋に置かれていたものとどれ程違うのか蕗屋には分からない。であるので、

「いやはや、まさかこれ程の逸品の数々を御持ちとは、想像もしていませんでしたよ――」と口にしたものの、実の処さっぱり分からない。そこで、

「しかし、何故蔵の中に、わざわざこんな棚まで作られたのですか? これでは他のものが置けますまい」と、ボロが出ないよう、話しの向きを変えてみた。

「あぁ、勿論、ほんまやったら風通しのいい二階の方が、書物の保管場所としては好適なんどすが、如何せん、御覧の通りこの足では、二階に上がるのんが聊か難儀でおすさかいなぁ……。一階の六畳間にはさすがに置き切れまへんし……。しかしせやからこそ、見ての通り、できるだけ高い処に棚も設けましたんや。その方が少しでも風通しがようなりますさかいな。梅雨時は電気扇風機で風を送りますし。無論、梅雨時に限らず、毎日手入れして、点検してますえ。湿気だけやなく、虫や鼠も要注意ですさかいな。はっきり云うて、表の見世にいるより、こちらに篭っている時間の方が長いくらいどす」と、微妙に蕗屋の質問の意味を取り違えながら、蒐集家は答えた。

「いや、僕もこれ程のコレクションを持っていたなら、毎日篭ってしまうでしょう」

「ほんまどすか?」支倉は嬉しそうな目を細めた。

「いやぁ、私のコレクションの価値を分かって貰える人に来て貰えて嬉しおすわ。なかなか正しゅう評価してくれる者はおりませんさかいな。さすが、小城先生の御弟子さんどす」

「いえ、それ程では……。それに僕は小城先生の弟子という訳では……」

「あぁ、そうそう。貴男はまだ三高生でしたな。さっき自分で云うたばかりやのに、ははは。けれども、京都帝大の文学部に進まはるんでしょ? あぁ、しかし、それなら残念どすな。十年程前やったら京都帝大には黒岩という大変素晴らしい、色々よう知ってはる亜剌比亜学の専門家がいはったんやんけど……。兎に角まぁ御覧あれ。こっちにはボーヴェのヴァンサンの『自然の鑑』がありますえ。それにヴォラギーネの『殉教者伝集」も……」

 ここで突然、蔵の天井辺りから、カランカランと音がした。表に来客が来たことを知らせる鳴子であった。支倉は、「まだ店のことは任せられぬから」と、丁稚を呼び、蕗屋の相手をして葡萄酒を勧めるよう云い付けて、ぶつぶつ云いながら蔵を出て行った。

 丁稚が葡萄酒を勧めるのを断り、蕗屋は待つ間、支倉自慢のコレクションではなく、彼が書いた「ハッジャール考」を更に読み進めた。それは、ハッジャールが書いた著作『悪魔との対話』に関わる出来事を纏めた年表だった。一体、何故、こんな本が不二夫の処に?――読み進めていく内に、『対話』が度々、騒擾や集団自殺を引き起こしていることを知って、蕗屋の背筋は寒くなっていった……

  

 九四一年、イブン・アルアスィール『完史』によれば、この年、アッバース朝バスラ街区内において若者達の集団自殺

 九四四年、アルクート街区内において、若者達が集団自殺。クートの法官イーサー・イブン・ヤフヤー・アルバグダーディーが、書簡において『悪魔との対話』の存在を示唆

 九四六年、サーマッラーで、神とカリフの権威を否定する若者達が出現して騒乱を引き起こす。ブワイフ朝大アミール、ムイッズが弾圧に乗り出し、数日の籠城の末、若者達は全滅(自殺したとも伝えられる)。遺品の中に『悪魔との対話』があったことから、所持者への不信仰者宣告がなされる

 九四六年、バクーバで若者達が暴動。『悪魔との対話』所持の摘発を恐れた為とも、自暴自棄になった為とも。

 九四七年、バクーバで二度目の暴動。ムイッズによる徹底的な弾圧

 一〇六四年、カイロでアズハル学院の学生らが集団自殺

 一〇六七年、アズハル学院で『悪魔との対話』が禁書指定。反発した学生三七人が暴動。神とカリフの権威を否定する言葉を吐きながら、市内各処を略奪。回教寺院に籠城の末、火を放って自死

 一〇七二年、生き残った学生の一人が、ファーティマ朝カリフ、アルムスタンスィルを襲撃。処刑される際の様子が、商人ムハンマド・イブン・アフマド・アッシキリーの『回想録』に記録されている。

「フサインというその若者は、自分は哲学者であり、無神論者であるからには死後に恐るべきものなど何もないと云い放って、落ち着き払って処刑の行われる広場へと向かった。己の誤った信念に固執した男は、死に際してもそれを大声で群衆に呼び掛けた。それは、彼の同調者を得ようと思っての行為であっただろうが、その余りにも呪われた言葉に、人々は寧ろ激昂し、皆手に手に石を持って、投げつけ始めた。場が余りにも混乱状態に陥ったので、処刑に立ち会った法官は、若者の舌を切り落とすことを命じた。彼はそれを嫌がったので、歯を全て打ち砕いて舌を引き出さねばならなかった。こうしてやっと刑吏が舌を断ち切ったが、その際、その若者が上げた叫び声は傷ついた牛の唸り声のようで、これ以上恐ろしい叫びを私は聞いたことがなかった。それから法に定められている通りに処刑が行われた」

  ――この後、目立った記録がないまま、一二五八年の蒙古軍侵攻による白達陥落を以って、回教圏における『悪魔との対話』の情報は途絶える。一方、一二世紀頃からは欧羅巴で『悪魔との対話』の記録が見られるようになる。

  

 一二世紀頃、西班牙(加須底羅カスティーリャ)で、他のアリストテレス注釈本などとともに『悪魔との対話』の一章と十章が羅典語訳される

 一二二八年、巴里大学の蔵書目録にその名が見られる

 一三世紀中頃、誰の手によるか不明ながら、『悪魔との対話』の全訳が巴里大学の学生達の間に密かに出廻る。 その際、これを読んだ学生の一人が自殺。「絶望したため」とも、「この世界に意味がないのなら、存在していても仕方ないと悟ったため」とも伝えられる。巴里司教座が警戒

 一二六九年、アルハッジャールの著作に言及したアデスタのミケーレが異端審問官に告発される

 一二七八年、巴里大学の学生らの間で再び『悪魔との対話』が流布、学生らが集団自殺。生き残った一人がシャルトルで捕縛され異端審問にかけられるも、嫌疑不十分で釈放

 ――この後、暫く『悪魔との対話』は歴史の舞台に出てこない。

『悪魔との対話』が次に歴史上姿を現すのは、一六世紀以後。少数が活版印刷され、学者のサークルの中で読まれていたと考えられる


 一六世紀初~中頃? 匿名人物により刊行

 一五七八年、ジョン・ディーがバーリィ領主ウィリアム・セシルに宛てた書簡の中で言及。「見事としか云いようがありません。この『悪魔との対話』という著作が六〇〇年以上前に書かれたことに、私は驚嘆せざるをえません」

 一六世紀後半、ジョルダーノ・ブルーノが入手。一六〇〇年のブルーノの処刑時に焼却。この時、枢機卿ロベルト・ベラルミーノにより再度禁書扱いされ、多くが焼却。以後入手が再び困難に

 一六一七年、里昂リヨンで若者達が神と教会の権威を否定して暴動・略奪。鎮圧後、伊太利出身の学者アウグスト・カルビーニが『悪魔との対話』を秘匿して若者らに読ませていたことが発覚。同年里昂の広場で、若者らの扇動と無神論の廉で、カルビーニが舌を切り取られた上で焚刑。その様子を記録した一六一八年の著作『奇譚集』にも、『悪魔との対話』らしきものが言及される。

「昨年九月里昂において、伊太利出身の学者が火刑にあった。この伊太利人は、サラセンの怪しげなる書物を真に受けて、聖書の記述は誤っているとか、我々の肉体に魂はないなどと、同市の若者たちに吹聴していた。若者達はこの虚言に惑わされ、これを信じて教会を襲い、暴動を起こしたので、これが市当局の知る処となり、罰せられたのだ。この伊太利人は、公の謝罪を行わせる為に、簀子すのこに乗せて市内を引き回され、その虚言の元たる舌を切って火刑に処されることになった。しかし彼は、その死においても人々を恐怖させた。というのも、彼は監獄から出る時も、「自分は学者らしく真理のために死のう」などと、まるでこれから降り懸かる刑罰を恐れていないかのように、快活な様子で虚言を吐き、刑の執行に際して神に許しを請えと云われると、「いないものにどうやって許しを請うのだ」などと千人もの聴衆の前で呼ばわった。更に虚言を弄し続けるので、遂に刑吏がその舌をやっとこで引き出した後、切り取り、するとさしものペテン師も野獣のような咆哮しか上げられなくなり、そのまま焼かれて灰になったので、ローヌ河に捨てられた――」

 一六二八年、三十年戦争中の独逸、ザルツギッター市近郊の村で、神の権威を否定する農民達が大挙蜂起。周囲の村や町、教会、修道院を、新教・旧教関係なく次々と襲っていった。首謀者トマス・ミュールハウゼンは、元新教徒ながら、『悪魔との対話』を読んで無神論に至ったとされる。新教・旧教両軍から挟撃され、農民蜂起は壊滅、ミュールハウゼンは捕えられて火刑。

 一六三五年、モンペリエ近郊の一寒村において司祭ジャン・ドルボーが自殺。その遺書的著作『死を選ぶ者の随想』に『悪魔との対話』らしきものが言及される

「あの至高存在なるものに人が認めている様々な属性を検討すればする程、矛盾と不条理とが次々とあらわれ、避けがたく迷宮の袋小路へと行き当たってしまう。そんな時に、あのサラセンの著述家は、その至高存在とされるものが全くの虚妄に過ぎないことを実によく私に知らしめてくれたので、私は笑いながら愚かしい迷いを捨てることができた。あのサラセン人が次のように書いている通りだ。「神もない、死後の世界もない。それらは我らの頭の中にしかない。我らは生きながら地獄にいるのだ」」

 ――これを最後に、ハッジャールの名も『悪魔との対話』も、歴史から姿を消すことになる……(支倉喜平、昭和七年八月四日記す)


 ……どれ程経っただろうか、短いようでもあり、思ったよりは長いようでもあり、それでも恐らく半時は経っておらぬと思われる頃に、再び鳴子が鳴った。客が帰ったらしい。間もなく支倉が帰ってくるだろう、そうすれば、さすがにそれを切っ掛けにいとまを切り出そうと蕗屋は思った。

 しかし、いくら待っても支倉は帰って来なかった。

 若い丁稚は、自分では何も考えることができないのか、それとも主人の気ままな行動に慣れているのか、云い付け通りやたらと葡萄酒を勧めてくるだけで、特に何か動じているということはない。そこで、少しおかしいと思いつつ、蕗屋はなお待つことにした。

「ハッジャール考」を改めて読み返しながら、それでもこれはやはりおかしいと蕗屋が思ったのは、とうとう、若い丁稚までがそわそわとし出したからだ。

「御主人は、こんなにいつも君を待たせたりするのかい?」

「……待たされることは……ようあるうたら、ありますけど……」

「それでも、いつもより遅い?」

「遅いと云えば、遅いような……」

 どうにも答えが要領を得ない。無論、普段時間を計っている訳ではないだろうし、そもそも蔵の中に時計が無かったから、早い遅いは感覚の問題でしかないのだが、もしかすると元々自分で答えを出すというのが苦手なのかもしれない。蕗屋は自分のネイション型腕時計を見てみる。五時近くになっていて、一般的な時刻としては遅いが、支倉が蔵から出て行った時間を確認していなかったので、それからどれくらい経っているのかは分からない。どうしたものかと、手にしていたノオトを膝に置き、思案に首を捻った蕗屋の目に、少し予想外のものが映った。

 それは、煙だった。蔵の上方の小窓から、かすかだが白く肉眼で見える気体が入り込むのが見えたのだ。蕗屋は少しばかり戸惑った――何故、今、煙が?

「ねぇ君、この家はまだ瓦斯ガスの契約をしていないのかい?」

「いえ、もううに瓦斯ですよ」

 その返答に蕗屋は大いに困惑したが、ある意味ではもう惑っていなかった――変事だ。母屋で何か変事が起こっているのは間違いない。

 蕗屋は若い丁稚に指で煙の侵入を示し、何も云わずに――いや寧ろ何も云うことができずに――慌てて蔵の外に飛び出した。幸い、思っていたよりも煙の勢いは大したことがなく、ただ風の流れでたまたま蔵の中に入ってきたものらしい。坪庭に異変はなく、そこは先程見たままであった――しかし、煙そのものは思ったより弱いとはいえ確かに立ち込めているのであり、それは「おくどさん」の方から棚引いて来ているようだった。

 蕗屋は転がっている水桶を拾い上げて、坪庭の手水ちょうず鉢から水を汲み、それを携えて母屋に戻った。蕗屋の予想は当たっていて、瓦斯が引かれて以来、恐らくはまるで使われていないだろうかまどから、何かが大きくはみ出して、濛々もうもうと燃えている。煙の量が少なかったのは、かなりの部分が「おくどさん」の天窓から逃げていっているからであり、また、幸いにも周りに延焼していないからでもあった。蕗屋は、携えてきた水桶を逆さまにして、その濛々と燃えている物体に思い切りよく水を掛ける。一瞬、一際煙りが上がったかと思うと、水が弾ける音をさせて、炎は鎮まった。

 炭を溶け込ませ、真っ黒くなった水の中に、同様に真っ黒の炭化した物体が、幾つも折り重なっていた。炭化した塊の、一番上に置かれたものを取り上げてみると、その辛うじて燃え残った頁の一部には、見覚えのある、地獄の業火に責め立てられる人々の苦悶の顔が描かれていた。――『断罪』だ。人を火炙りに追い込む為に書かれた本は、他の本諸共もろともに、自らも焼かれたのだ。

 いつの間にか、茫然とした表情の丁稚が横に立っていた。蕗屋はその少年に、「まだ火が残っているかもしれないから、手水鉢から水を汲んできて掛けるんだ」と指示して、水桶を渡し、自らは暗澹たる思いで、更に表の方へ足を進めた。

 蕗屋の陰惨な予想はその通りであった。見世の間では、支倉喜平が恐ろしい苦悶の表情を浮かべて死んでいた。首に残る跡とその姿勢から、誰かに後ろから首を絞められて死んだのだと蕗屋は思った。その時、身を屈めていた蕗屋の後ろで何かが動く気配がした。彼の頭頂に強烈な衝撃が走り、そのまま何もかもが暗転した。

                                  (続く)

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