夜明けの星

藤原遊人

夜明けの星

ぼうようと眺める先の海には、ふつふつと夜を照らす光が浮いている。

星一つ見えない夜空に時おりのぼる龍のような姿はコンビナートから上がる炎だ。


無性にいろんなことがうまく行かないときに、家や色んなしがらみから飛び出して走ってみる。途中で疲れてあるいて、それでも疲れたときには、誰も見ていない気に止めないこの汚い街に座り込む。


道を行き交う人を見ても私が知る人なんて一人もいない。


私の住む川崎では、家から10キロもないぐらいで街も、人も急に私を知らんぷりする。それが心地よい。ここを通りすぎる人にとっては、仮にここに座り込む私が石ころであっても別にいいと思っている。そういう感覚が私の気を楽にする。


この街で今の瞬間、私は「私」ではない。県の期待のルーキーでも、部活のチームエースでもなく、単なるこの街の景色の一部だ。だから肩は重くない。



「お前は強いからなぁ」



不意に聞こえてきた幻聴を頭をふって払いのけた。いつから私は強いと言われるようになったのかもうよくわからない。

試合に勝ったからか、基本ができているからか、何が強いのかその基準すら不明だ。

でも、その不明瞭な言葉は確実に「私」のレッテルになったとわかる。

それが嬉しいと思わずに重いと感じはじめたのものも、いつからだかもうわからない。練習も試合もどうにもならないぐらい息苦しくて逃げ出したいと思うときがある。


ただ「私」にそれは許されない。だから、私は時々「私」を知らない街へでかけて、その街を眺める。何をするわけでもなく、ただ見るだけだ。


目の前の通りを見れば、今日の夜を楽しむひとと、生活のために働く女たちが入り交じる。

着崩したスーツの男たちが通りすがりの人の手をとってビルの中へ消えていく。道端に落ちた私なんか見えないように、彼らはいつも通りだ。



きたない街だ。



私はそう思う、それに事実そうだろう。

道端には大量のゴミと行き先を失った人が居座り、この道の真ん中ですら虚栄を彩る人々の交流地点でしかない。


私の目の前で極彩色を放つネオンの灯りとおなじだ。この輝かしい舞台だって朝になったら飾り立ててたあかりもなくなり、暗闇で隠していた古くて壊れかけのそのみすぼらしい姿を朝日の元にさらす。


道端に転がっている缶は誰かに買われて必要とされて、きっとそのときは輝いていたのだろう。

ふと指先に触れた缶を持ち上げる。特に変哲のない普通の空き缶で、まごうことなきゴミだ。


缶は中に甘ったるい炭酸を詰め込まれて、汚れないように、傷付かないように管理されていたに違いない。

でも今は道端に転がって誰にも気にされない。缶にとってはどちらが心地よかったのか。私は知らないし、知ることは二度とない。


いつの間にか握りしめていた薄汚れた缶を持って近場のビルを登った。空を遮る私にとってはどうでもよいビル群がある。その反対はぼうようと浮かぶ工場夜景、その隙間に詰め込まれた小さな家が窮屈そうに並んでいる。

近くにエステの店でもあるのか、ハーブの混ざったアロマの独特の臭いがする。大きく吸い込むと、いい匂いで覆われた何かを取り込んでしまった気がする。



「あれ、先客がいる」

「冷たい海風がちょうどいいよ」



後ろからやってきた男は近くで働いているのか、塗り固められた髪の毛に、ネオンを反射するアクセサリーが鎖のように巻き付いている。そういうのが、売りこみの店なのかもしれない。



「それ美味しかった?」

「さっき拾っただけだから知らない」

「ゴミ拾いか殊勝な心掛けだねぇ」



揶揄ともとれる言葉に思わず笑みがこぼれた。気安くこういう言葉を「私」にかけてくれる人はいない。

作られた「私」という人物を知らない人と出逢えるこの街は狭いのに広いと感じる。


誰かのために大事にされて商品であることも時には楽しい、例えその代償に息苦しくても、そんな息苦しささえもこの街は覆ってくれる。



「おにーさんは楽しい?」

「その時次第だな」



そんな適当な答えが許されるこの街の適当さが心底ありがたかった。

工場と繁華街、それの隙間に詰め込まれた住宅は決してキレイとはいえないけど、私と「私」の居場所を矛盾なくくれる。居心地のよい街だ。



「さてと、帰ろうかな」

「縁があればまた」

「お元気で」



来るもの拒まず去るもの追わず、見送る気すらなく私に背を向けたままのその人の態度はこの街にぴったりな気がした。

もしかしたら、彼のその在り方はこの街で培われた性質なのかもしれない。


ここを去りたいと思いはじめた私は空き缶を握りしめたまま、帰るべき家に、「私」の元に向かって走り出した。

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夜明けの星 藤原遊人 @fujiwara

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