第18話

 腕の中の那生は、半ば眠り半ば目覚めた状態だった。

 彼が、安静時狭心症であることに気付いたのはいつだったか。それ以来、彼が眠りについた後、その舌下に投薬を続けてきた。幸か不幸か、那生の症状は深刻なものではなかった。大伯父に進言し、まともな検査を受けさせることも、治療を受けさせることも、やろうと思えばできたはずだった。しかし、それをせずにここまできたのは、あるいは病によって那生が不運にも命を落とすような状況を想定し、どこかで望んでいたからなのかも知れない。それに反して、毎晩脈をとり、胸の音を聞き、薬を与え続けてきたのは何故なのか。那生自身にさえ気づかれないようにそっと。那生に与えるニトロには特殊な化合物を加えていた。それは、自分がまとう香りによって眠気を催す作用を持っていた。そうまでして、那生自身にまで隠し通したかったのは、忠誠心なのか、背信なのか。自身の考えを、感情を、分析することをいつしか雨月は止めていた。そんなことに意味などないと、ある時気付いたからだった。自分がなすべきことと、自身の感情とは、何の関係もない。自分の感情など、必要ではなかった。

 自分がいなくなった後、那生は自身の抱える病に気がつくだろうか。あるいは何も知らないまま、いつか眠りから戻れない朝を迎えるのかも知れない。その時、彼は一人なのだろうか。

 「なぜ?」

 那生が問う。目を閉じたまま、微かに眉根を寄せている。

 何の話をしていたのだろう。夢と現の合間で、那生は自分と会話を交わしている。

 「目には見えない意味の変化が、ただそれだけが世界を変えるのだと、信じられますか?」

 雨月が問うと、那生は微かに首を振った。わからないのか、信じられないのか。

 雨月の手指は優しく、幼子に触れているかのような柔らかさで那生の髪を撫でる。

 目覚められない悪夢から逃れようと、那生は無意識にもがいているようにも見えた。

 最後の時をこんな形で費やした自分を、那生は責めるだろうか。臆病だと、卑怯だと罵るだろうか。

 この体温を、この重みを、一縷の疑いもなく自分に預けてくれる魂の、何と優しいことだろう。

 この魂に、ここまで、どれだけ癒されてきたのか。それでも癒しきれない傷口の奥に、青白い顔をした希望が冷たい光を放っている。

 「那生様……」

 いつか告げた言葉は真実だった。

 「私は、あなたを、愛したかった」

 ただ慈しみ、ただ守りたかった。

 「なぜ……?」

 那生の瞼が微かに震えた。雨月は微かな笑みを浮かべ、那生の髪を撫でる。

 しかし、怖かった。

 那生の中にある自分への信頼を見出すことが、思慕を見出すことが、何より怖かった。本人さえ自覚してはいなかった。信頼も愛情も、どこにも存在していないと那生はそう信じ切っていた。

 「怖かったんですよ」

 聞こえるのか聞こえないのか、雨月の言葉に那生は反応を返さなかった。怖かったと雨月は繰り返す。

 「あなたを心から、愛しいと感じてしまうことが……あなたに必要とされることで、自分の存在を許してしまうことが」

 受け入れてしまえば、自分の全てが崩れると、そう気付いていた。自分にとっての唯一の希望を断ち切る行為を、認めるわけにはいかなかった。そして瞬間的に楽になったとしても、その先で待っているのは、過去の繰り返しだけだということもわかっていた。

 「もう、夜が明けますね……」

 壁にもたれた雨月の視線の先には、暁を受け入れる東向きの障子があった。

 明け方の冷え込みが畳の硬さを伝って那生の体内に忍び込む。

 目覚めた時、那生は、いつかのように雨月の膝に頭を乗せ、畳に仰向けに寝転んでいた。

 小さく震えた那生に気付いて、雨月は微笑んだ。ゆっくりと那生の身体を抱え起こし、そっと抱きしめる。子どもの頃はよく、こんな風に雨月の膝に抱かれていたと、那生は不意に思い出した。

 触れた頬は温かい。那生は雨月の血潮を感じた。

 「雨月?」

 背中を撫でる大きな手のひらが、いつもより優しく感じられるのは……一晩中、冷たい畳の上に寝転んでいたからだろうか。

 「少しは、温かくなりましたか?」

 「ああ……」

 どのくらい抱き合っていたか、雨月は飽くことなく、那生の背中や腕をさすり続けていた。原始的で、それ故に愛情に満ちた、そんな行為だった。

 朝の光は、不思議と青白い。雨月の肩に顔を乗せて、那生は床の間に飾られている大きな青磁の壷を見るともなく見ていた。その時

 「車?」

 雨月は黙って顔を上げた。表から聞こえてきたのは、静かな朝には不似合いな自動車の音。こんな朝早くに一体誰が、と那生も耳を澄ませた。

 雨月が、微かに笑うのが気配でわかった。

 やがて……人の走る音がばらばらと響いてきた。足音は、二つ。あちらこちらと、部屋を開けているらしい。襖を開ける音が、次第に近づいてくる。

 雨月は那生の目を見、それから……哀しげにも見える顔で微笑んだ。

 雨月には、きかなければならないことがたくさんあったと那生がようやく思い出した時、雨月は那生の髪にそっと唇を押し当てた。

 「雨月?」

 無言で那生の髪を撫で立ち上がった雨月は、迷わず床の間に向かった。

 足音は、すぐ傍まで迫っていた。

 かちんと、青磁の壷に何か硬い物が触れた。振り向いた雨月の手には、鈍い光を放つ金属が握られていた。

 「那生!?雨月!?」

 それを、銃だと那生が理解した時、背後で襖が開いた。

 声の主は叔父だとわかったが、那生は……振り向けなかった。

 「雨月!」

 高見沢の声。

 那生を見て雨月は笑った。いつもと同じ、華やかで綺麗な目を細めて……。

 「雨月、何をしている……?」

 ニケ月以上も前に死んだはずの叔父の声は……ひどく震えていた。那生はその声によって、ただ、叔父は生きていたのだと、それだけを理解した。

 「これで、そろいましたね」

 雨月は、さきほどまで那生を抱きしめていた時と同じ表情でそう言った。

 「御雲の生き残りは、全て」

 「全て?」

 向けられた銃口と、雨月の穏やか過ぎる微笑。そして、自分に迫っているはずの現実。それは、全てがひどくちぐはぐで……那生には、奇妙な夢のように思われた。

 「大伯父は亡くなり、親族会議の出席者も今頃はみな、虫の息でしょう……。もう、誰も、この家を継ぐ人間はいませんよ。表も、勿論裏も」

 如生の言葉に雨月はそう答え、銃口を上に向けた。

 「私にお尋ねになりたいこともいろいろとおありでしょう。私自身のことを、少しお話させていただきましょうか……」

 雨月は如生と高見沢を室内に招きいれ、自らは主柱にもたれかかった。

 そして、ご存じないでしょうが、と前置きし

 「私の本当の父は、御雲生司と、申します……如生様のお父様と、那生様のおじい様と同じです」

 「何言って……」

 雨月の告白に、誰もが言葉をなくした。

 「私の母は、本妻ではなく妾でしたので……私は、御雲姓を名乗ることを許されてはおりませんが、名前には、生の文字を頂きました。亜貴という名ですが、本来は、有るに生きると書きます」

 冷酷な、しかし見る者の目を奪う雨月の微笑み。

 「私は、あなたの腹違いの兄です。初めまして、如生。それに、あなたにとっては叔父ですね、那生」

 「そんな……」

 冗談などではない。雨月の表情から、仕草から、全てから那生たちはそれを悟った。いつか、雨月と叔父がひどく似ていると思ったが……あれは、気のせいなどではなかったのだと那生は気付いた。

 那生の傍らで、如生は口元を手で覆った。完全に血の気の失せた横顔には、驚愕とそれ以上の恐怖。

 「知って、いたのか……?知っていたのに……お前、は……」

 如生がそれ以上を続けることはなかった。如生は、ただ雨月を凝視した。

 「ええ。かまわないでしょう。異母兄弟ですから」

 何事でもないというように、雨月は応じた。そして

 「それにあなたは男性ですから。女のように私の子を宿す心配もないでしょう?さすがに私にも、これ以上血縁関係をややこしくする気はありませんでしたが」

 「貴様……」

 主を愚弄されたせいか、あるいはまた別の感情からか、高見沢が低く呻いた。

 「この家の人間ではないお前には、一生かかっても理解できないだろう。御雲の家がどんな風に受け継がれてきたかなんて……まぁ、この通り、歴代の当主でさえ把握していなかったのだから、無理もないが」

 そこまでを高見沢に向けて告げると、雨月は那生に微笑みかけた。

 「せっかくですから、あなたのお父様のお話でもしましょうか」

 「親父の?」

 那生は思わぬ言葉に眉をひそめた。

 「雨月、やめろ……」

 弱弱しい声を放った如生を一瞥し、雨月は冷たく言い放った。

 「これ以上、何を守りたいんですか?それにこのままでは不公平でしょ?当人たちだけが事実を知らされないなんて……。ここで、親子の感動の再会が果たされるんですよ」

 「雨月?」

 雨月の言わんとすることを、那生はつかみきれなかった。あるいは……認めることを躊躇させる可能性に、目を閉じたのかもしれない。

 「顔色が変わったな、高見沢。もしかしたらと、思ったこともあったということか?」

 「雨月、何を言ってる?」

 那生は、まさかという思いの中で、雨月を見つめた。今、ここで見つめるべき誰かを見ることが、どうしてもできなかった。

 「自分で、名乗り出るか?それとも、私の口から告げられたいか?」

 「嘘だ」

 高見沢は低い声で呟いた。

 「嘘じゃない。信じられないというのなら、DNA鑑定でもしてみればいい。もう、おわかりになりましたか?那生様、あなたのお父上は、ここにいる男ですよ。高見沢、潤一郎です」

 「高見沢……?」

 那生は眉を顰め高見沢を見つめ、高見沢は目を伏せた。

 「狂ってる……」

 そう呟いた如生の顔面は蒼白で、今にも倒れそうだった。

 「大丈夫ですか?」

 「触るなっ!」

 労しそうな声とともに、触れようとした雨月の腕を如生は拒んだ。

 「現実は、何一つ変わっていないのに……見えない意味の変化が、それほど大切ですか?」

 雨月は、哀れむような笑みを浮かべながら差し伸べた腕をそっと引き戻した。

 「……高見沢、本当なのか?」

 那生は、傍らの男に問いかけながらゆっくりと立ち上がった。

 「……わかりません」

 「わからない?」

 高見沢は苦しげに那生を見返した。その言葉は本当に、那生から逃げる為のものでも、現実から目を背ける為のものでもないようだった。

 「美生子様には、恋人がいらっしゃると、そう、伺っておりました……。ですが、私は、美生子様と、一度だけ関係を持ちました」

 如生は、高見沢の告白に驚いてはいないようだった。

 雨月は、きっと……叔父に話していたのだろう。雨月が、叔父を助けた、そして、ここまで匿っていた……那生はそう理解し、しかし、何の為に、と雨月を見た。

 「聡明なお方でしたよ、あなたのお母様は。……高見沢がご自分の弟に特別な感情を抱いていることもご存知だったし、ご自身の気持ちが報われないことも、全てご承知の様子でした。それに……私のことも」

 「お前の、こと?」

 雨月がええ、と呟くと、如生も顔を上げた。

 「私の母は、十九の時、御雲生司に見初められ私を身ごもりました。しかし、それほど思いいれもなかったのか、父は身重の母を見限ったそうです。早くに両親を亡くしていた母は女手一つで私を育て、三年後にある男と結婚しました。彼女の夫は、優しい人でしたよ。誰の子どもかもわからない私まで、本当に大切にしてくれて……それから1年して、私には妹が出来ました。自分の子が生まれても、義父は優しかった……。わけ隔てなく慈しんでくれましてね……幸せでした」

 雨月は手中の銃を弄びながら、それでも表情だけは柔らかだった。そんな雨月の顔を、那生は初めて見た。

 自身の言葉を噛みしめるように黙っていた雨月が不意に、妹は、と如生に顔を向けた。

 「あなたと、同じ日に生まれたんです」

 如生の目が微かに見開かれた。

 「そして、四年後の同じ日に亡くなりました」

 誰も何も言えなかった。

 雨月は、手の中で鈍色の光を放つ銃に目を落とした。

 「原因は不明でした。朝は元気にしていた妹が、家に帰ると冷たくなっていたんです。顔も、体も腫れ上がって……小さな手が……化け物のように腫れ上がって……この世界に、これほど愛しいものはないと……私は、あの日まで本当にそう思っていた……。アナフィラキシーショックのようだと、医者は言いました。食物アレルギーかも知れない、と。その二日後に、父は交通事故で亡くなりました」

 「それ……」

 那生の脳裏に浮かんだのは……暗い、穴のような目をした男の顔だった。アナフィラキシーだと、雨月が言った、大伯父は……。

 「父の喪が明けないうちから、雨月の家からは何度も使者がきました。母ともども私を引き取りたい、とね。母は勿論拒みましたよ。拒んで、拒んで……自ら、命を絶ちました」

 「雨月?」

 那生たちの声が重なり合ったのは、雨月がゆっくりと銃を構えたからだ。哀しげな微笑。雨月は、それでも微笑んでいた。

 「優しかった母が……半狂乱で叫びました。お前なんて生まれてこなければよかった、と……。四人で暮らした私たちの家に火をつけて……全てが燃え落ちていく中で、私は、自分も死ぬんだと、そう、信じていました。そして、ここで死ねば……生まれた罪は消えなくても、少しは贖えるんではないかと、子ども心に思ったんです。でも……雨月の使者は、私を死なせてもくれなかった……」

 那生に、如生に、高見沢に、順に向けられた銃口。雨月は口元だけで微笑んで銃口を自らの方へと向けた。

 カチっという音とともに、銃口の先端には火が付いていた。

 「おもちゃですよ」

 雨月はそう言って小さな火を愛しげに見つめた。

 「雨月の家に引き取られて間もなく、焼け跡から見つかったと、私の面倒を見ていた西岡という男が拾ってきてくれたんです。家は焼けてしまいましたし、何一つ、持ち出すことは許されなかった私に、せめて何か家族の思い出になるようなものが残っていないかと、こっそり探しに行って見つけてきたのが、このライターでした。父が生前、海外にいった土産に買ってきてくれたんです。私を驚かそうとして。子どもだましもいいところですよ。下らなくて……微笑ましいと思いませんか?」

 でも、と雨月は優しい顔になって手元のライターに目を細める。

 「これだけが、私に残された、私の家族との絆です」

 「雨月?」

 そう呼びかけたのは誰だったか。

 雨月は火のついたままのライターを、ゆっくりと青磁の壺の中へと投げ入れた。何かが焦げるような音がした後、激しい火柱が上がった。

 「危ないっ!」

 爆音とともに上がった炎。立ち上る臭いは、何かの薬品のようだった。

 爆風に煽られた如生と那生を、高見沢が抱きとめた。

 雨月は、静かに那生たちを見つめた。

 「御雲の一族を根絶やしにすれば、あるいは自分は救われるのかも知れないと、そう思っていました。そう、思い込もうとしていたんだ……。わかりますか?失えないものを失くす、この苦しみが……。自分の存在の為に全てをなくす宿命が……私には何より、自分が呪わしかった……」

 「雨月、もういい!わかったから、こっちにくるんだ!」

 如生が叫んだ。

 床の間から上がった炎が、天井をなめていく……。雨月は誰に対してかふと微笑んだ。

 「絶望じゃない……。いつか許されるという、つまらない希望が、私を生かし続けてきた……」 

 那生、と雨月が呼んだ。ゆっくりと、炎に揺らぐ空気の中、雨月は那生の傍までやってきた。

 「あなたは、生まれ変わるんだ」

 雨月は囁き、その手を伸べて頬を包み、那生の額に額を重ねた。

 「うげつ……」

 言い知れない感情に、涙だけが一筋頬を伝う。

 「生きて、生きて、生き切って、必ず幸せになるんだ」

 微笑んだ雨月の、疲れたような表情。

 那生の中で、何かが弾ける。

 「嫌だ……行くな、雨月、僕の傍にいろ!僕にはお前がいる!」

 「危ない!」

 高見沢が叫び、那生は雨月から引き離された。

 雨月は崩れ落ちた梁の向こうに、黙って佇んでいた。

 炎は、一本の直線のように、那生たちと雨月を隔てていた。

 「雨月……」

 如生が、追いすがろうと歩を進めたが

 「いけません!」

 高見沢が叫び、背後から抱きとめた。

 「雨月……雨月!!」

 激情に身を投げ出した叔父の姿。この人は、と那生は目を見張った。

 再び、梁が一本崩れ落ちた。

 「放せ、潤一郎……」

 「あなたを行かせるわけにはいかない!」

 激しく揉み合う二人を尻目に、雨月が消えていくのを那生は認めた。一瞬遅れてそれに気付いた如生は、渾身の力で高見沢の腕を振り払った。

 「これは命令じゃない……私の願いだ……」

 「如生さま」

 不意に静けさを取り戻した叔父の言葉に、高見沢は絶句した。

 「どうして生きていられる……?私は罪もない人間ばかり何人も殺めてきた……全て、自分の運命と割り切って。でも……この家が無くなれば私の運命も消える……潤一郎、私は選び取りたい……自分の手で、心で……もう、何にも縛られたくない」

 熱の為にか咳き込んだ如生が悲しげに微笑した。

 「私は罪深い」

 如生は呟き、ゆっくりと甥を見た。

 「那生、生きるんだよ……。雨月がお前に与えた命を、無駄にしてはいけない……私は、本当に何も、何も、してあげられなかったね……」

 どこにそんな力があったのだろう。如生は驚くべき力で那生を抱きしめた。

 「生きるんだよ」

 「叔父さん……」

 「如生さま」

 「生まれ変わったら……きっとお前たちに会いに来る……」

 「叔父さん!」

 「だめだ……もう崩れる……!」

 火を超えていく後ろ姿を、那生は高見沢の腕に抱き取られながら見送った。

 あの人の一体どこに、これほどの強さがあったのだろう……。あるいは……叔父もまた、生まれ変わったのか。

 高見沢は、泣いていた。泣いていたけれど……悲しみより強い感情で、自分を表へと引きずり出した。それが、何であれ……高見沢を恨みはしない。しかし……

 「ああ……」

 炎の館……。そこで、燃えているものはなんだろう。

 那生は地面に座り込んで、灼熱の風を正面から受けていた。

 竹林はざわめき乱れ、那生の傍らには、涙を流す男が呆然と立ち尽くしていた。

 音を立て、崩れていく家の中で……燃え尽きようとしているもの。

 「あああー!!」

 生まれて初めて絶叫した那生の喉を、熱の刃が切りつける。

 三日前に、傷ついた時那生を癒した人間は……もう、隣にはいなかった。



 燃え盛る炎よりまだ鮮烈な赤が、雨月の口元を伝って落ちる。

 灼熱の風に背を押されるようにあるいはただ雨月に引かれるように、如生は雨月の傍らに膝をついた。

 雨月はひどく穏やかな顔をして目を閉じたまま背後の支柱に身体を預けていた。如生はそんな雨月の表情を知らなかった。

 震える指先で、如生は雨月の頤を撫でた。

 何を飲んだのか、雨月は動こうともしない。

 如生は自らの手を見た。あれほど血塗られていると呪った手指には、僅かな血痕しかない。それさえも、今は清らかに感じられる。炎は燃えて、すべてを灰に返すだろう。

 消えることのない地獄の業火に、永久に焼かれ続けたい。魂さえ焼き尽くされて、灰燼さえ残らなければいいと願う。

 雨月、とその名を呼びながら如生は熱く火照った男の頬に手を伸べた。

 「雨月?」

 半ば微笑んだまま、雨月は如生の手をつかんだ。

 ゆっくりと開かれる双眸に如生は呼吸を止める。

 「こんなに……」

 震える雨月の唇を如生は茫然と見つめた。

 「安らかな気持ちは、初めてだ……」

 安堵の表情を雨月は浮かべていた。初めて見る雨月の穏やかな顔に、これまで彼が見せていた微笑みが全て偽りだったことを如生は知った。

 何に対してだったか、なぜ、という埒もない言葉が如生の口をつく。

 如生の目を見つめたまま、雨月が、本当は、と呟いた。

 「一人で死ぬのは、寂しいだろうと思った……ただ、それだけだ」

 それが、雨月の心からの本音なのかも知れない。如生はそう感じた。

 「もう、いいだろう……?」

 絶望も希望も、そこにはなかった。憎しみも悲しみも、愛情も、裏切りも、全て浄化されていくことを静かに待っている。

 「もう、いい……もう、いいから……」

 雨月の言葉を繰り返した如生は小さく頷いた。



 夏。

 人ごみの中でひとり、那生は夜空を見上げていた。星も輝かない都会の空に、火の花が咲く。鼓膜を震わせる破裂音と、鼻をかすめる火薬の臭い。やがてまだ熱を帯びた灰が空から静かに降ってくる。花弁より雪片より細かなそれは、微かな温度によってのみ、その存在を知らせる。

 屋敷と蔵の焼け跡から、二人の遺体は見つからなかった。あらゆる場所に可燃性の薬剤が撒かれていたようだった。延焼は瞬く間に広がり、あまりの火勢に駆け付けた消防隊も騒然としていた。

 あの日、火の粉とともに舞う灰を被りながら、那生はその熱の中に雨月も如生も見出せなかった。

 灰になっても、それがあなたであれば、私にはわかる気がします。

 「那生様」

 背後からかけられた控え目な声に、那生は僅かに首を巡らせる。

 「ここにも、いないな」

 音につられるように高見沢も空を仰いだ。花となって咲く火は、那生にとって絶望の象徴なのか、あるいは希望の証なのか。

 二人は黙って夜空を見ていた。燃え尽き、舞い落ちる命を見ていた。


〈完〉

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生なる家族 西條寺 サイ @SaibySai

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