第9話

 「有生あきさま?」

 自分の姿を認めた途端、床から体を起こそうとした男を、有生と呼ばれた人物は片手で制した。

 「そのままで」

 「申し訳ありません。このような姿で」

 老人というにはまだ若い、病床に横たわる男は、客人から顔を背けて咳込んだ。

 「西岡にしおか

 「ご立派になられたのでしょう……。せっかくお目にかかれたというのに、もうぼんやりとしかお姿が見えません」

 辛うじて窓はあるものの、息が詰まるほど狭い部屋だった。3畳ほどしかないだろうか。床を延べると、傍らに人が侍るのもやっとという狭さだ。

 色あせた西日が差しこむこの部屋に半ば閉じ込められるように暮らす男は、もう長くはないだろう。本人も、とうに覚悟を決めている。

 「年を取ったな」

 有生の目には、惜別ともとれる悲しみが横切る。その表情を西岡が知ることはもうないとしても。

 西岡は乾いた声で笑った。

 「もう、二十年以上です。有生様がここを離れてからも、十年は経ちますね」

 ああ、と有生は頷き、枕元に置かれていた手拭いで、病人の額に浮かぶ汗を拭った。

 「どうぞ、お捨て置きください。こうして、またお目にかかれただけで、私には過ぎた幸せです」

 やせ細った手が、有生の手に震えながら触れる。

 有生は西岡の手を取り、そっと手のひらを自分の方へと向けた。

 手のひらは、ケロイド状にただれていた。西岡はいつか、雨の日はむず痒くなると言って笑った。

 この手に、と有生は目を閉じる。

 「有生様」

 西岡は有生の聞きなれた穏やかな声でその名を呼んだ。

 「まだ、私を恨んでいらっしゃいますか?」

 「……」

 思いもしなかった言葉に、有生は突かれたように西岡を見た。

 乾ききって色をなくした頬も、ひび割れた唇も、輝きを欠いた眼差しも、絶えていく人のものだった。けれど西日を受けた、その顔は穏やかで、慈父のような大らかさを湛えている。

 「私のようなものには、有生様のお考えなど、まるでわかるはずもないのですが……ただ、有生様には、きっと、生きる理由が必要なのだと、そう、感じておりました」

 私は、と言いかけ咳込んだ肩に有生は思わず触れた。

 「もういい……」

 何も言うな、呟いた有生を、西岡は見えない瞳で見つめる。

 「憎しみならば、どうか、西岡一人に向けて下さい。あなたご自身を、どうか、うらむことがありませんよう」

 有生は、スーツの布越しに、西岡のぬくもりを感じた。あの日も、西岡の手は、こうして自分の腕を掴んだ。この手が、腕が、業火から幼い自分を救い出した。

 「私には、ずっと、恐ろしかったんです」

 腕を掴む西岡の手に、わずかに力が込められる。有生にとって、それはささやかなものとして感じられたが、今の西岡には渾身の力なのかも知れなかった。

 「有生様が、いつかご自身でお命を断つのではないかと、そればかりが気がかりでした」

 有生の目が細められる。家の命令に忠実に従う、愚直なだけのこの男が、まさかそんな憂慮を抱いていたとは、有生は想像もしていなかった。

 「有生様の、ご成長を、近くで見守ることができたのは、私が、この家にお勤めを始めてから、なにより、幸福なお役目でした」

 「西岡?」

 西日はさらに傾いていく。それは有生の目前に横たわる男の命のようにも思われる。夏の日のように、残照が目を射ることもない。その光はただ、穏やかに絶えていく。

 「私一人を、お恨みください。西岡が、有生様の憎しみも、悲しみも、全て背負って行きますから……私が死んだら、もう、その苦しみは、遠くへ去ったのだと、そう思ってはいただけませんか……」

 有生は息を飲む。

 自分にとって西岡は、養子に入った家のただの世話役に過ぎないとそう信じてきた。死の床に着いたと知らせを受け、十数年振りにこの家を訪ねたことさえ、感傷に似せた気まぐれからと自分に言い聞かせていた。

 「あなたは、お母様の、ご家族のところへ、行きたかったのでしょう?」

 半ば閉ざされた西岡の目には、涙が溜まっていた。

 「私は、引き離して、しまいました。子どもながらに、あなたが、望んでいたものから、あなたを、連れ去ったから……それをずっと、悔いておりました……」

 「もうやめろ」

 力なく滑り落ちた西岡の手を、焼けただれた手のひらを有生はじっと見つめた。

 あの日、狂乱した母の声が叫んだ言葉を、忘れる日はないだろうと、有生は知っていた。かつては優しい母だったものが、火の塊となって自分へ迫った。

 お前なんて、生まれてこなければよかったのに。

 火に焼かれる苦しみよりそれは、壮絶な憎しみなのだと、幼い有生は知っていた。

 恐怖心は不思議と沸いてこなかった。ただ静かに、すぐに母のような姿に自分もなるのだと、それで全てが終わるのだと、あの時包まれていたのは、うっすらとした安堵だった。

 火の手に、腕を掴まれた時、口をついた悲鳴。その瞬間、すさまじい力で自分を背後へ抱きよせたその腕が、西岡だった。

 「お母様の、お言葉も、すべて、にしおかが、せおっていきますから……」

 知っていたのか、と驚いた有生は西岡の顔を見た。

 見えているわけもないだろうに、西岡は微かに頷いた。

 「どうか、もう、有生さま、じしん、許して、さしあげてくだ……」

 まだ言葉を綴ろうとしていたのだろう。ひび割れた唇は開かれたまま、閉じきらない瞳から一筋涙が流れた。

 枯れ木のような腕を取り、有生は脈を探った。

 「……」

 腕時計に目を移し、西岡の瞼に手を添える。

 白い髭もまばらな頬は、温かかった。撫でるように顎に触れると、口は一文字に結ばれた。

 自分の恨みを、憎しみを、すべて背負って行くと告げた男の死に顔は、生前と変わらず静まり返っていた。

 これほど穏やかな顔をしていたのかと、有生は嘆息した。そして、何より安堵する。

 自分の思いを知るものが、存在していたことに。そして、もう存在しないことに。

 西岡の思いは、わずかでも自分を救っただろうかと、他人事のように思う。

 くしくも自分に看取られることになったこの男は、わずかでも幸福だっただろうかと、二度と物言わぬ寝顔を見る。

 消え行く残照に急かされるように、有生は立ち上がった。

 行かなければならない。

 今を生きている自分にはすべきことがある。

 有生は振り向くことなく部屋を後にした。

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