第8話
「雨月」
失望。その時の感情を表現するには、もう、それしかなかった。
全てがままならず、何一つ進展しない。如生は男の名を呼んだ。
「何でしょう?如生様」
「私は一体いつまでこうして暮らせばいい?」
ホテルを、あるいは雨月所有のマンションを点々とする生活が、もう二カ月も続いていた。ソファに蹲っていた如生は眉間にしわを寄せ、雨月に眼差しを注いだ。
「さて……いつまでかと仰いましても私には何とも。如生様に何かお考えがおありでしたら話は別ですが」
さすがの如生も、慇懃な雨月の口調に慣れた。慣れるというより……自分を世界と繋ぐのがこの男の存在だけであるという事実が、何より雨月の必要性を感じさせていた。
持て余す焦燥を和らげる術さえ、自分は持たない。そんな現実に、自分自身に嫌気がさすという状況は、もうずいぶん前に過ぎた。今はどこかで……全てがどうでもよくなり始めている。自暴自棄がどれほど危険で、事態を悪化させることしかないとわかっていても、諦めという偽の静穏を甘受することが、それだけが、この失望感から逃れる手段には思えた。
「困りましたねぇ……」
如生の手をゆっくりと口元から引き剥がし、雨月は幼い子どもを相手にしているかのような声音で囁いた。
曲げた人差し指の間接を噛む如生の癖。それは雨月と行動を共にするようになってからついたようだった。
これを自傷と呼ぶのだと、いつか雨月は如生に教えた。
「一生、このままかもしれませんね……いっそ、死んだ方がよかったと思われますか?」
雨月から目をそらし、如生は俯いた。
生きてさえいれば、また会えると目覚めたばかりの頃信じていた自分の考えがいかに甘かったかを、今になって、痛感している。そして……もう会えない方がいいと思う自分を打ち消すこともできない。
「高見沢の腕が、恋しくなりましたか?」
雨月は、低い声で囁きながら、そっと身を屈めた。
「そんな……泣きそうなお顔をなさらないで下さい」
長い雨月の指に促され、如生は顔を上げる。
「いくら私でも」
と、雨月は、息がかかるほど間近で囁いた。
「心配になってしまいますから」
「雨月……?」
いつになく優しい仕草で、雨月は如生の髪を撫でた。
「おかしいですね……私は、那生様のものであるはずなのに……」
微苦笑といった雨月の表情に、如生は目を見開いた。一体何を言っているのだろう……直感し、認めることを拒んだ考えが、胸の中で激しく渦巻いた。
「近頃……那生様が、不思議そうにしていらっしゃるんです」
「那生が?」
激しい鼓動を、さらに駆り立てたその単語。如生は、思わず身を引いた。
「ええ……僕をおいて、お前はいつもどこに行くのか、と。ご自分以上に大切な何かが、私にあるのではと、思っていらっしゃるようですね」
「どうして……」
雨月から顔を背けた時、如生は自らが激しく動揺していることを認めざるを得なくなっていた。
「どうして、私にそんなことを……」
雨月は、小さく笑ったようだった。
「どうしても、私の口から言わせたいと、そう仰るんですか?」
「だから何を」
勢いよく顔を上げた如生の頬を、雨月の指先がくすぐるように撫でた。
「お分かりになりませんか?こんなに、お傍におりますのに」
「うげつ……」
唇は、あと本の少しで触れ合う。如生が、雨月に拒絶の言葉を向けることはなかった。そう、できなかったのか、する気もなかったか、あるいは……したくなかったのか、自身にも、はっきりとはわからない。ただ、稀有で華やかな瞳を、吸い込まれそうな雨月の目を、如生はじっと見返した。
「あなたが嫌がることを、無理強いはいたしませんでした。それだけは、認めてくださいますか?」
「……ああ」
如生が息を呑む音が、一際大きく聞こえた。かすれた声で応じた如生に、雨月は満足げに微笑した。
「それでは……これを諾とおっしゃいますか?」
初めて見せる雨月の……それは、艶めいた美しい表情だった。雨月に唇を重ねられる間、如生は瞬きさえ忘れた。
雨月の手は、頬から首筋を滑り、もう一方の手は如生の手に触れた。
「震えていらっしゃいますね……私が怖いですか?」
微かな笑みと、甘くかすれた声音で、雨月は柔らかに如生に触れた。
「雨月……」
半ば呆然と如生は雨月を見つめた。
「……あなたでも、そんなお顔をなさるんですね。私の一方的な思いではないと、自惚れてもかまわないんですか?」
困った様子など微塵も見せず、雨月はそう言ってのけた。そして、柔らかな力で如生を抱きしめる。
「あ……」
唇からもれたのは、驚きの声だったか、溜息だったか。雨月は、優しく、ただ優しい力で如生を抱きしめた。
雨月の香りが強くなった。官能的で、痺れるような、雨月らしい香り。如生は、全身の力を抜いて、雨月に体を預けた。
雨月は、悪戯に、まるで嫌がらせのように触れてくることはあったが、いつもぎりぎりのところで、一線を越えるような真似はしなかった。如生がやめろと言えば、やめたし……あれ程自分を毛嫌いしていた人間が弱っているのを見ても、それに乗じて何かをするわけでもなかった。
「如生様?」
自らの腕に大人しくおさまった如生に、雨月は声をかけた。如生は、雨月の肩に額を押し当てた。
「雨月……」
命を救われて以来、何度この男の名を呼んだだろう。それまで……片時も離れず傍にいた人間の名は、いつしか口にすることもなくなっていた。
「私に触れられるのは御嫌だったのでは?」
雨月は穏やかな声で問いかけた。
「ああ……」
如生は目を閉じ、雨月にもたれながら応じた。
「それなのに、もう抵抗はなさらないと?」
「……ああ……」
雨月の指が如生の髪を撫でる。愛撫と呼べる程に優しい行為に、如生の思考がゆっくりと停止していく。
高見沢ではなく、とどこかに棘のある皮肉な声で雨月はさらに問う。
「私を選んで下さいますか?」
「……ああ」
ゼンマイの切れかけたオルゴールのように、散り散りになっていく思考に、雨月の告げた名がひっかかる。けれどそれさえ一瞬のこととして、途切れ行く旋律を妨げはしない。
雨月は再び、微笑した。そしていったん如生を解放する。
「私は、きっと、高見沢ほど優しくはない」
そう、視線を合わせて囁いた。
「ああ」
臆することはなかった。もう、何をも恐れてはいない。だから、ただ、ひとつ、教えて欲しい。
「うげつ」
「何ですか?」
髪をかきあげながら顔を上げた雨月。如生は、自分を見下ろす男の顔をじっと見つめた。
「私は、狡いか?」
「あなたは、素直なだけだ」
雨月はそれだけを答えた。
高見沢のことを、完全に忘れたわけではなかった。ただ……彼が那生の父親だと知ったとき、明らかに何かが変わった。そして……今自分の傍にいる人間は、この男だとわかっていた。主人である、高見沢の子どもを裏切って……雨月は、今自分の元にいる。何重にも裏切りを重ねた悲しい運命の内に、如生はそれでも安らぎを見出していた。一番の被害者は、一体誰だろう。そして、一体誰が被害者で、誰が加害者なのだろう。
「如生さま」
ふと如生の脳裏に高見沢の顔が浮かんだ。自分には、彼が生涯でたった一人の相手になるはずだった。お前が最初で最後だと、自分も誓った。
高見沢が愛したもの。慈しんだもの。それを他の人間に与えるのをよしとするのか。自分でもわからない。
「何を考えていらっしゃるのか、当ててさしあげましょうか」
雨月が、ゆっくりと顔をあげそう言った。髪を撫でる温かい手のひら。如生の目に不意に涙がこみ上げた。
「あなたは、あなた自身を汚したいと思っていらっしゃる……。高見沢が愛したものを汚したい、と」
違いますか……そう目を細めてきいた雨月には、何を隠せるとも思えなかった。どこからやってきたのか、自分のものとは思えない笑いがこみ上げ、如生は雨月に微笑んだ。
「どうして、わかる?」
その問いに、雨月の口元が寂しそうに歪む。
「あなたのことなら」
何でもわかる。雨月は確信を込めて囁いた。
いけないと、如生の本能に近い場所で何かが叫ぶ。
「……にも」
「何です?」
「那生にも……おなじことを……?」
如生の胸に宿ったのは、嫉妬だったか、あるいは何かに対する危惧だったか……。雨月は小さく笑った。
「意地悪ですね」
艶やかな笑みで雨月は言い、如生の瞳を覗き込みながらはっきりとした口調で告げた。
「那生様にこんな風に触れたことは、一度もありません」
驚いたように、如生は雨月の胸を押し返した。
意外ですか、と雨月は笑う。
「本当、なのか?」
何故そんなことを確かめるのだろうと、自分を訝しみながらも如生は言葉を抑えられなかった。いつ頃からか、那生からは雨月の気配を感じるようになっていた。
まるで、那生は雨月のものであると、そんな空気を感じていた。しかし、それは那生の皮膚から漂う残り香などでなく、那生の魂にしみついた雨月の体温だったのかも知れない。
雨月は優しげな仕草で如生の髪をすいた。
「あの方のお声は、時々、如生様に似ていらっしゃるんですよ」
何もかも見透かすような雨月の眼差しが、如生を戒める。それは言葉にならない心地よさにも似て。
「ですが、主人を自分の欲望の為に利用するなんて、考えられませんでした。それに、身代わりなら、欲しくはない」
雨月の言わんとすることは如生にも伝わった。高見沢に対する軽蔑ははっきりと感じられたが、如生は黙って雨月の言葉をきいた。
「似て、いらっしゃいますよ」
呟いた雨月は眉間に微かなしわを刻み、如生の髪を撫でる。
「似ていらっしゃる……わかりますか?私がどれほどあの男に嫉妬していたか……。那生様のお側にありながら……私はあなたのことを思っていた……どれだけ、あなたに焦がれていたか……」
「うそ……」
嘘なら、と吐息のような声で雨月は囁く。
「ここまで……あなたを欲することもなかった。こんな危険、好き好んで冒すほど、私は愚かではありません」
それでもなお戸惑う如生に雨月は初めて見せるような柔らかな微笑を浮かべた。
あなたを、
「愛しています。そう、申し上げれば、信じて下さいますか?」
どこから来たのだろう……涙が一筋如生の頬を伝う。
如生は、一体誰の為に、あるいは何の為に、その涙を流したのだろう……。雫は、音もなく、雨月の唇に吸い取られた。
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