第7話

 それは、いつ以来だったか……如生は姉の夢を見た。

 「今は、殺さないで」

 そう、目を閉じたまま告げた女の声は、哀願の内にも気高さを忘れてはいなかった。闇に響いた凛とした声。彼女の傍らには、生まれて間もない那生が眠っていた。

 「如生……お願い、三年待って」

 「姉さん?」

 「この子を……親の顔を知らない子どもにしたくないの」

 母子の枕元に膝をついた如生は、爪の先に忍ばせた針をそっと抜いた。

 「ありがとう」

 気配を感じ取ったか、女はそう言って微笑した。

 「……」

 闇に流れる沈黙の川に、姉弟はずいぶん長い間流され続けた。

 彼岸にも此岸にも、どんな言葉も転がってはいないように思えた。

 殺さないでと訴えた女の声が、沈黙の彼方に木霊する。

 姉は闇の中でそっと目を開いた。

 「哀しいでしょ?」

 子どもの髪を撫でる白い女の手を、如生は暗い夜の内に舞う蝶のようだと感じた。たおやかな、緩やかなその動き。自愛に溢れた柔らかな舞は、ほんの一瞬の出来事だったはず。しかし如生はそこに、母性と言う名の普遍を見た。

 「私たちの運命は……。如生は私を殺して、この子はいつかあなたを殺す……。ねぇ、御雲の命は何故続いていくんだと思う?」

 「姉さん、その子は」

 誰の子ですか……静寂に紛れるか細い声で、弟は姉に問いかけた。それを知ったところで、何が変わるわけではなかったけれど……連綿と続く耐え難い宿命を断つ強さを、如生は父親のいない赤ん坊に望んでいた。

 「わからないの。求められて愛されることが、私にとって生きている証だったから……誰でも良かった。ただ、愛して欲しかった。私を一人の人間として、一人の女としてだけ見て欲しかった」

 那生、と姉は柔らかい声で子どもの名を呼んだ。

 「私は後悔していないし、あなたを産んでよかったと思ってる。今、とても幸せなの……私は一人じゃない、今なら、そう信じられる」

 ゆっくりと、女が如生を見つめた。

 「あなたは、幸せね」

 「え?」

 瞠目する弟に、横たわったまま姉は微笑して見せた。

 「高見沢は、いつでもあなたの傍にいてくれるでしょ?側近とはいっても、あそこまで主人に尽くせるのは、この家でも彼くらいよ」

 切なそうな表情を、その時の姉はしていたと思う。如生は黙って立ち上がった。

 「大事になさい。人は取り返しがつかなくなってからじゃないと後悔できない。みんな、そんな風にできてる」

 闇の中で自分を見上げる女の顔は、姉ながらに美しく感じられた。姉は振り向いた弟に再び笑いかけ、ゆったりと寝返りを打った。

 波打つたわわな髪の、闇よりまだ深い黒が、如生の目に焼きついた。

 そっと……遠くから風の音が高まってくると、場面は変わり、そこは麗らかな春の、ある日だった。

 産後間もない浴衣姿の姉は、純白の包みの中に那生を抱いていた。如生は濡れ縁に腰かけ、高見沢はその背後に控えていた。

 「いい天気ですね……」

 「ねえ……」

 如生は柔らかな陽光に誘われるまま、庭に降り立った。にわかに、那生がむずがる声が聞こえた。

 如生と高見沢は驚いて美生子と那生を見つめたが、母親は慌てることなく我が子の顔を覗き込んだ。そして……

 「高見沢」

 と、如生の側近を呼んだ。

 「はい」

 高見沢は驚いて姉の傍に膝行する。

 女は、微かに笑ったようだった。

 「那生を、抱いて欲しいの」

 突然の申し出に高見沢は戸惑っていたが、泣き出した那生を差し出されると、恐る恐るといった風情で、赤ん坊を抱き取った。

 「美生子さま……」

 如生は困りきった様子の高見沢の傍によって、那生の柔らかな頬に指先で触れた。

 那生はふと泣き止むと、真っ白な包みの中で小さな小さな手を振って、何かを探すように顔を動かした。

 姉は梳いたままだった長い髪を後ろで一つに束ねると、浴衣の前を少しだけくつろげた。

 「ありがとう」

 高見沢から那生を抱き取り、二人の目の前で那生に母乳を与え始める。

 如生と高見沢は赤面して顔を背けた。如生は、姉ながらに気恥ずかしさを覚えた。

 露になったはれた胸の白さは、生まれたばかりの那生の、頬の白さと同じ。

 ふと、横目にとらえた姉の顔は……本当に幸福そうだった。

 それからの三年は、本当にあっという間だった。無邪気な那生は、殺伐とした家の中を明るくした。自分もまた、那生の無垢な魂にどれほど癒されたかわからない。それでも、姉は自らが言い出した三年という約束を反故にしようとはしなかった。一日を、一時間、一秒をも惜しみ、那生に愛情を注いでいたのは、きっと実の弟と交わした約束のせいだったのだろう。

 姉と幼い甥の姿を見守っていた自分。そしてそんな光景を見ていた高見沢……。錯綜する思いに、誰一人として気づいてはいなかった日々は……たぶん、至福の時間だったのだろう。

 時は過ぎた。

 幸福な家族の肖像は、音もなく崩れ去っていた。

 夜の闇に紛れながら、高見沢と互いを求め合っていた時……確かに幸せだった。このまま、壊れていくのではないかと思うほどの痛みと快楽に見舞われながら、ようやく自分の生を感じられた気がしていた。

 しかし、何度となく、愛しているのだと繰り返した高見沢の声も、今は遥かにかすれている。

 「如生さまは」

 そう、囁きかけた誰かの声。

 「似ていらっしゃいますからね……お姉さまに」 

 間近に見つめあいながら、雨月は言った。 

 「お美しい方でした……美生子様も。あなたも、女性にお生まれになれたらよかったのに」 

 そんなことを言って聞かせた男は……この身を死の淵から救い出した人間だった。しかし、何を考えているのか、想像もつかない。 

 眠りと覚醒を繰り返す生活は、現実と夢の区別を曖昧にする。何度も……高見沢の夢を見た。 

 目覚めると、そこには雨月がいる。 

 雨月の声を聞きながら眠りに落ち、夢路では……高見沢の元へ通う。時折……思い出したように過去を夢に見て、どこまでが現実だったのかと疑いながら目を覚ます。 

 夜も昼もなく……ただ時間だけが過ぎ、それこそ自分一人が、世界から取り残されたように感じている。

 如生はそれまで見たこともなかった夢を繰り返し見ていた。

 高見沢が、姉である美生子を愛する夢。

 まだ若い二人が互いを恋し合い、結ばれ、子をなす夢だ。

 生まれた子は、那生という、美しい赤ん坊だった。

 如生は姉を愛していた。

 姉の子である那生を、実子のように慈しんでいた。

 高見沢とは、確かに愛し合っていた。

 高見沢は、美生子を手に掛けた自分をあの日、恨んだのだろうか。自分を身代わりとして欲する程、姉を愛していたのだろうか。

 夜毎囁いた愛の言葉は全て、自分ではない、けれどよく似た、誰か別の女性に向けられたものだったか。

 考えることは億劫で、思い煩うことは辛かった。

 体内に残った毒は未だに消え去ることなく、血流に乗って、時として如生を苛んだ。吐き気と眩暈に見舞われながら、それでも眠れない時は……死というものを、今までにないほど激しく強く意識する。

 死を恐れたのは、初めてだった。

 死ぬことを宿命付けられた人として生まれ、また短命を運命付けられた御雲の本家に生まれ……如生にとってそれは、ひどく身近なものであったはず。

 諦めていたものがこの手に残れば、なおいっそう惜しくなる。そして……失うことに、恐怖さえ抱くようになる。

 怖いものが増えた。それを恥じ入る前に、ただ……自分の弱さに憤りを感じる。闇が怖い。孤独が怖い。何かを、ほんの少しでも失うことが怖い。恐怖で、気が滅入る。二度と帰ることのない夢に涙する。悲しい、と……ただ寂しいと心が震えた。

 生かされるのではなく、自ら生を希求することを初めて知った。

 生きたいと思えばこそ……人間はより多くの負を抱え込む。怒り、悲しみ、憎しみ、恐怖。

 那生は、元気にしているのだろうか。そんなこと案じるまでもなく雨月に問えばいいのだが、今となってはそれさえ憚られる。自分は、雨月のそばにあってはならない人間だった。

 那生は静かな子どもで……物心ついてからは、泣きもせず、我侭も言わず、本当に手がかからなかった。やがて、周囲は……あの子には感情がないのだと囁き始めた。那生は恐れない。彼は、自分を人形だと、幼くしてそう悟っていたのかもしれない。

 母もなく、父もなく……気付けばたった一人で……あるいは、失うことの意味さえ知らないのだろうか。

 自分は那生から両親と……そして心までも、奪ってしまったのかもしれない。

 あの時、那生に殺されていれば、これほど思い悩むことも苦しむこともなかったのだろうか。自らの死よりも辛いことがこの世界にはあると、自分に教えてくれたのは、姉だった。あれは、まだ那生が生まれるずっと前のこと。今と、同じくらいの季節だった。

 屋敷に戻ると、ちょうど玄関が開いた。中から現われたのは、美生子だった。彼女は見知らぬ少年と手を繋いで外に出てきた。しかし自分を乗せた車に気付くと少年の手を引き、足早に門の方へ向かった。

 自分が車を降りた時、既に姉と少年は背中を向けていた。

 ガラス越しに見えた少年は自分よりもいくつか年上に見えた。少女的な愛らしさはなく、少年らしい顔立ちながら、すでに造形的な美しさを漂わせていた。彫りが深くて、異国の血が混じっているようにも見えた。暗い目をして、表情は硬かった。

 傍らの姉はいたわしげな様子だったが、友人というわけでもないだろう。

 その時子どもながらに思ったのは、自分程の年齢の人間がこの家に一人で尋ねてくることなどあるのだろうかということだった。

 その少年を見かけたのはそれが最初で最後だったが、以来長く記憶に留まり続けることとなる出来事だった。

 あれは誰かときいた自分に姉は曖昧に笑うだけだった。そして、どうしてあんなに悲しそうだったのかと重ねてきいた時、初めて答えてくれた。

 「自分が死ぬより、辛いことってあるんだよ……」

 当時は何のことか理解できなかったが、今ならはっきりとわかる。自分の死が、ただの終わりでしかないなら、この世界にはそれ以上の悲しみも苦しみも、確かに存在している。

 姉は自分より多くのことを知っていた。同時に、多くの秘密を抱えていたと思う。彼女はたくさんのことを自分に教え、そして隠したままこの世を去った。

 唐突に訪れる、夢の合間の覚醒。

 如生がはっと目を覚ますと、雨月が穏やかな顔で自分を見つめていた。彫の深い、甘い顔立ちが微かな笑みを湛えている。

 「お目覚めですか?」

 そう問う声はひどく遠くから響いてくるようだった。

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