第10話

 那生が本家に呼び出されてから五日が経った。

 自分が何をなすべきか、わからなかったわけではないが、やはり、あの家に戻るには抵抗があった。

 見かねたのか、どうなさるおつもりですか、と雨月は食後にコーヒーをいれながら那生にきいた。

 一体どこで何をしているのか、雨月は那生が不在の間は家を空けていることが多いようだった。学校から戻る頃には、何事もなかったかのように家にいるのだが、それでも那生の方がほんの少しだけ早く帰宅することもある。しかし雨月は、悪びれた様子もなく

 「お帰りでしたか」

 と、いつものように微笑する。

 どこに行っていた、ときいたところで、まともな返答は期待できない。知らせたいと思う時、雨月は自ら口を開く。そして、それ以外では、何も答えはしない。執拗に尋ねたところで、呆れるようなセリフではぐらかすだけだった。

 二人だけの食卓の、向かいの席についた雨月を那生は見つめた。

 「気になるのか?側近らしいことなんて、言ったこともないのに」

 「ずいぶんな言われようですね……。これほどあなたに尽くしておりますのに」

 雨月はいささかおどけたような表情で切り返す。皮肉の矛先をかわすことなど、雨月には造作もないことだ。那生はふと息をつき、それから雨月のいれたコーヒーを飲んだ。

 「ああ、そう言えば……」

 雨月は何かを思い出したのか、そう言いながら席を立った。いったんキッチンへ姿を消し、戻ってきた手には淡いピンク色の小さな箱があった。

 「何だ?」

 「もらい物ですが、ドラジェという菓子です」

 小さな包みの中には、同じく淡い色をした細々としたものが入っていた。

 「珍しいな……」

 那生は一つつまんで口に入れた。

 「アーモンドが入っておりますでしょ?おめでたいもので、ヨーロッパでは誕生祝にも、結婚祝いにも使うそうですよ」

 雨月は自身も一粒手に取り、小さな卵型のそれを見つめた。

 「どこでこんなものを?」

 砂糖の中にアーモンドを埋め込んだような、特段珍しい菓子のようには思えない。しかし、気になったのはむしろ雨月がどこでこれを手にいれたかだった。誕生や結婚の祝いなど……自分たちからはひどく縁遠いと那生は感じる。

 雨月は菓子を頬張ると

 「たまには甘いものもいいですね」

 二つ目に手を伸ばした。

 「雨月?」

 雨月はドラジェをつまむと、那生の唇に押し当てた。仕方なく那生は雨月の手から砂糖菓子を食べた。

 雨月は満足そうに微笑して

 「いいじゃありませんか。どこかの誰かが幸せになったということなんですから……。我々も幸福のおこぼれにあずかりましょう」

 那生の唇についた粉砂糖を指先で軽く払う。

 「那生さま」

 唇から頬へと滑る雨月の手。それはじっと、那生の瞳をのぞく為。

 くっきりとした二重を彩る、長く密な睫が、雨月の目元に深い陰影をつける。

 「……あなたも、生まれ変わりたいと思いますか?」

 「雨月?」

 突然の問い。

 那生を襲った違和感の正体は、思わぬものだった。

 「何いって……」

 微笑んで、目を細めた雨月。

 あ、と、那生は声をもらした。

 「どうなさいました?」

 頬を撫でる手をとらえ、那生は雨月から目をそむけた。

 何故か……雨月に叔父の面影が重なった。誰かに似ている、直感した時の違和感を、那生はゆっくりと理解した。そして、忘れていたことを不意に思いだす。

 「今日は」

 席を立ちながら呟く那生。

 「叔父さんの、誕生日だったな……」

 「そうでしたか」

 雨月は音もなく立ち上がるとテーブルを回り込んで那生を抱きしめた。

 「ご自分に感情がないなんて」

 低い声が、耳元で囁くのは

 「いつまでそんな嘘をつくおつもりですか?」

 「うげつ……」

 いつにない力で抱きしめられ、雨月の言葉に、那生は瞠目した。

 「誰が何を言おうが、私は、ずっとあなたの傍におりますよ。誰にも、傷つけさせはしない。私はあなたを守る為に……今までずっと傍にいたんです」

 それは、晴天の霹靂。那生は自分の耳を疑った。笑いの消えた雨月の声には、何か深い、決意めいたものが感じられた。

 「どうした?」

 雨月、と呼んで、那生は男の腕の中で顔を上げた。

 あれは人形だと、本家の大人たちが自分を評していることを、幼いながらに那生は理解していた。そして、それは正しいのだろうと、次第に考えるようにもなった。自分には感情がない、なんて……そんなこと今さら言い出すまでもない。それを否定することには、さらに意味がない。雨月は、どうしてそんなことを言い出したのだろう。

 長い付き合いだ。那生は四歳の時に雨月に引き合わされた。雨月は、二十歳くらいだったか。あれから、もう十二年が過ぎて……それでも、自分たちの間には、どんな絆も生まれてはいないはずだった。少なくとも、那生はそう信じていた。

 「本家に、お帰りになるおつもりなんでしょう?」

 雨月は、ゆっくりと視線を重ねながら、静かな声できいた。

 「ああ……よくわかったな」

 那生は、何も言わずにこの五日間を過ごした。それでも、主の思いに雨月は気付いていたらしい。

 「あなたのことなら、何でもわかる」

 そう断言した雨月は、あなたは、と静かに続けた。

 「私の生きる目的でした。あなたがいたから……私は生きることを選んだ」

 「そんなこと……」

 雨月の瞳の奥に見えるのは、暗く燃え上がる、黒い焔。

 「例え信じてくださらなくても、私はいつでもここにおりますよ」

 囁きは深く、那生の胸に響く。

 他人の声が、言葉が、これほど迫ってきたことはなかった。

 雨月はまた、その胸に那生の額を押しつけた。

 叔父と高見沢のように、愛し合っているわけではない。雨月の温もりに包まれながら那生は思う。

 抵抗も感慨もない。愛情も苦悩もない。そこには何もなくて、二つの存在だけがあった。あるいは……あったはずだった。

 「……」

 雨月の香り。どんな香水なのか、どんな香なのか、那生にさえわからない。不思議とその香りに触れると、那生は眠気を催す。幼い頃からそうだった。それは、あるいは、異形の母の香りなのか。身体が崩れていきそうになる。

 「大丈夫ですか?」

 那生は無意識に雨月の首筋に腕を回した。

 雨月は軽々と那生を抱き上げるとそのまま部屋へ運んだ。

 リビングの光を背に、辿り着いた部屋は暗く、ただ雨月の香りだけが闇の中に漂っていた。

 強烈な眠気を振り払おうとするように、那生はベッドにおろされると強引に上体を起こそうとした。

 「僕は」

 「那生様?」

 生まれ変わりたいと思いますか……不意に、先ほどの雨月の言葉が蘇る。

 訪れた、生まれて初めての混沌。

 自らの感情の渦が見えず、それ故に、自分には感情がないのだと那生は思い続けていた。

 「あ……」

 唇を突いて出た声は、那生の意思とはずっと別の場所から湧き出した。

 雨月の香りが強まっていく。麝香にも似た、甘くて……懐かしい香り。

 「いやだ……」

 初めて感じた、それはきっと恐怖と呼ばれる感情。

 「那生様?」

 眉を寄せた雨月が、那生の頬に手をかけた。

 怖い……。自分が、壊れていきそうな恐怖を那生は覚えた。

 「……いやだ……」

 何かにとりつかれたように那生は首を左右に振った。足元が崩れていく。信じていたものが壊れていく。全てが変化して……自分の中で、何かが生まれようとしている……それは言葉にはならない、破壊と再生が同時に押し寄せるような感覚だった。

 「那生様」

 自分の名を呼んだ雨月に那生は迷うことなく縋った。

 「私があなたのものであるように」

 雨月は那生と視線を通わせ、口元に微笑を湛えている。

 「あなたも、私のものなんですよ……。死んでもかまわないなんて、間違ってもお考えにならないで下さい」

 (誰だ?この男は……)

 見慣れた誰かによく似ていて……けれど、別人だ。

 「うげ、つ、か……?」

 那生は目前で微笑む男に問いかけた。

 男は、口元の笑みをいっそう濃くし、

 「ええ」

 と頷いた。

 「うげつ」

 那生は震える手を伸べて、その男の頬に触れた。

 「おまえも」

 自分のかすれた声が、遠くから響いてくる。遠く、それは……もう、戻れない場所。

 「お前も、生まれ変わるのか……?」

 昂揚しすぎて、気分が悪い。

 雨月は目を細め、那生の目じりに溜まった涙を指先に移し取る。

 ふっと、雨月が笑う。

 「今日は、私が那生様に初めてお目にかかった日です」

 お忘れですか?

 微笑んだ男の、その眼差しの美しさに、那生は震えた。

 何にも染まぬ、鮮烈な強さは、一体どこから来るのか。深まっていく倦怠感の中に身をおいて、那生は目前の男に降伏しようとしている自分に気がついた。

 そして……それもいい。

 雨月は、自分以上に、自分を知っている。

 「それに、今日は誕生日なんです。私の……」

 雨月の唇はさらに何か言葉を綴ったが、声にならずに消えていく。

 那生の記憶は、そこで途切れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る