第4話

 如生がレースのカーテン越しに感じた光は既に冬を越えた、新たな季節のものだった。

 死に限りなく近い眠りから覚めたその目に最初に映ったのは、思いもよらない意外な人物だった。何に対してだったかは、今となってはもうわからない。しかし、如生は目前で微笑する男にただ、どうして、と問いかけた。

 どのくらい眠っていたのか、その間には何があったのか、男は曖昧に笑い、真実を話そうとはしなかった。

 「私が生きていると知ったら……あの子はどんな顔をするだろうな……」

 目覚めてからというもの、如生はそればかりを思っていた。他に気になるものがないでもなかったが、唯一の肉親である甥のことは、何より気がかりだった。

 「どうでしょうね……。まだまだ未熟だとお叱りになるおつもりならば、私もお止めいたしますが」

 慇懃無礼な雨月の物言い。如生は微かに顔を顰める。

 「やっぱり、私はお前を好きになれそうもない」

 男の華やかな顔立ちを一瞥し、如生は窓の方へ視線を投げる。

 「弱っていらっしゃるというのに、手厳しいですね」

 皮肉でさえないのか。雨月は微笑んだまま

 「ですが……本来ならこれはあなたの犬の役目。私にはあなたに感謝こそされても、批難されなければならない理由はないのですが」

 「雨月」

 如生は傍らにやってきた雨月をにらんだ。

 「さぁ、お薬の時間ですよ」

 「……」

 「如生様」

 水の入ったグラスに伸ばした如生の手は、震えていた。自分でと言いかけた如生を雨月は短く制した。

 「さあ」

 楽しげにも見える雨月の表情に如生は苛立ちを募らせる。さらにその手を借りずに何一つできないという状況が、何より不本意だった。

 自らの手から水を飲んだ如生の様子には全く気付かぬふりで、雨月は、わずかに開いた口に数種類の薬を押し込んだ。

 「もういい」

 如生の濡れた唇を、雨月が指先で拭った。 

 「どうかなさいましたか?」

 悪びれた様子もない。雨月は口元を歪めるように微笑をたたえ、グラスをサイドテーブルに置きながらベッドに腰かけた。

 「……潤一郎なら……」

 如生は雨月から目をそむけ、小声で呟いた。

 「きっと、とどめを刺しただろうな」

 「主人の恥を、生かしておくわけにはいかないと?」

 ああと、如生はかすれた声で頷く。

 潤一郎なら……そう考えると、如生の脳裏には懐かしい精悍な面影が浮かんだ。出会ってから、こんなにも長い時間離れたことはなかった。潤一郎は、いつでも自分の傍にいた。

 「残念ですが、私と如生様の犬は違いますからね。あなたを殺すつもりなら初めから匿ったりしませんよ」

 「お前は……」

 怒りにも似た感情に任せ、如生は雨月を睨んだ。雨月は、何ですかと冷静に先を促す。

 「那生を、何だと思っている?」

 その悪しき伝統故に身内さえ信頼できない当主と側近の間には、本来家族以上の絆が生まれるものだった。如生と潤一郎のような関係ではなくとも、側近は常に主の影であり、一心同体も同じだった。それは、那生も同じこと。特に那生には、感情が欠落したようなところがある。雨月はもっと、もっとと言うより何より那生を優先させなければならないはずだった。いくら助けられたからと言って、那生に対する雨月の背信を黙って見ていることが如生にはできなかった。

 「さて……何でしょうね。考えたこともありませんでした。……少なくとも、あなたとあなたの犬のように愛し合っているわけではありませんが」

 お前、と思わず声を荒げた如生の身体がバランスを失ったように揺れる。傾いだ上体を支えたのは、雨月の腕だった。

 「はな、せ……」

 如生は吐き気を堪えるように、自らの手の下で呻くように告げるが

 「本当に困った方だ」

 僅かな抵抗などもろともせず、雨月は力の入らないその体をベッドに横たえた。そして、意地の悪い笑みを向ける。

 「そんなに私を意識されているのは、高見沢を思い出すからですか?」

 囁くような声音で問いかける。

 「一人寝がお寂しいなら、お相手して差し上げますよ」

 如生の髪に指先で触れながら、雨月は楽しそうに微笑む。

 「触るな」

 如生は雨月の手から逃れようと無理に身を捩った。嫌悪感も露に自分を睨んだ如生に、雨月は声をたてて笑い、両手首を片手だけで軽々と捉えた。

 「痩せましたね。首も、手首も本当に細い……。少し力を入れたら簡単に折れてしまいそうだ」

 それに、と雨月は微笑んだ。

 「病身は美しいと言いますが、本当ですね……。しどけなく横たわっているあなたがどれほど魅力的か、ご自身ではお分かりにならないでしょう」

 長い指が、如生の首筋に触れる。

 「やめろ」

 その感覚に耐えられなかったのか、如生は大声を出した。

 雨月は笑うのを止めた。そして怖いほどの無表情になって如生に問いかけた。

 「如生様が私の質問に全て正直に答えてくださるなら、何もしないと誓ってもいいですよ」

 「答える?」

 不穏な空気を感じながらも、如生は抵抗するのを止めた。

 「ええ。いたって簡単な質問ばかりです。如生様になら、全て答えられるはずのね」

 「……」

 よろしいですか、確かめるように雨月が如生に問う。

 「先にこの手を放せ」

 「かしこまりました」

 雨月は言葉通り如生を解放した。

 「如生様は素直でよろしいですね……。では、教えていただきましょう。如生様と、潤一郎さんのことです」

 「何?」

 雨月の口からその名を聞かされ、如生はわけもなく狼狽した。雨月は、くすりと笑うと言葉を続けた。

 「あれは、あなたの初めてのお相手でしたか?」

 「……」

 突然の雨月の問いに如生には返す言葉もなかった。雨月は、それ以上何も言うつもりはないらしく、黙って如生の回答を待った。

 「どうして、そんなことを?」

 「如生様、質問をしているのは私の方ですよ」

 雨月の手がゆっくりと伸びてくる。如生は顔を背け、そうだ、と答えた。

 「そうですか。それでは、あれが初めてではなかったこともご存知でしたか?」

 「……知っていた」

 あの時、潤一郎は自分の問いに答えなかった。しかし、それが肯定の沈黙であることは如生にも伝わった。けれど、雨月はどうしてそんなことを知りたがるのか。不安と、不快感から、如生は眉根を寄せる。

 「あなたの苦しそうな表情は、いいですね……。あれには、何度抱かれましたか?」

 「雨月?」

 如生は思わず雨月を見た。何を考えてそんな質問をするのか。雨月には不似合いな無用な詮索。その先に、何があるというのか。

 「お答えは?」

 「……覚えていない」

 「覚えていないほど、という意味ですか?」

 雨月は、考える間を与えずそうきいた。

 「ああ」

 「そうですか。それで、あなたは幸せでしたか?」

 「……」

 この状況下で、黙秘は認められないことなど如生にもわかっていた。しかし、意図のつかめない問いの繰り返しは、無意味な問いの内容以上に気分が悪かった。

 「わからないとおっしゃるなら、私と比べて下さってもかまいませんが」

 雨月はなかなか答えようとしない如生に上からそう声をかける。

 「触るな……。幸せだった、そう答えれば満足か?」

 「私は、正直に、と申し上げたはずですが」

 「……ああ。幸せだった」

 「本人が聞けばさぞかし喜ぶでしょうね」

 「っ」

 不意に伸ばされた雨月の手。指の長い綺麗な手は、如生にとって力と、屈辱の象徴だった。何をされるのかと一瞬身構えた如生に、どこか寂しそうに微笑した雨月。

 「……」

 雨月は、如生の額に触れ、張り付いていた前髪を指先で軽くはがした。そして如生を見つめたまま目を細めた。

 「さて、本題に入りましょう。あなたは、高見沢を愛していましたか?」

 それは穏やかさの中に鋭さを秘めた、雨月独特の表情だった。如生は今までにない、嫌な予感を抱き始めた。

 「愛していた。それで?」

 「今でも、愛していらっしゃいますか?」

 「……ああ」

 なるほど、と雨月は呟いた。そして、不意に沈黙した。

 「雨月?」

 無言に堪えられなかったのは、やはり如生の方だった。どうして雨月は、こんな埒もない問いばかりを繰り返したのか。彼になら、わかっていたことばかりではなかったか……如生は、雨月と再び呼んだ。

 「どんな秘密を抱えていようと、あなたは、高見沢を愛しているとおっしゃいますか?」

 「秘密?」

 雨月は意地悪く微笑んでいる。優しいような、酷薄な笑みは……それは、まさしく雨月の表情だった。

 「例えば、潤一郎は、私のものです、そうあなたに言ったら、信じますか?」

 「まさか……」

 高見沢と雨月の険悪な関係は、本家の中では知らない者がいないほどだった。まさか、そんなことがあるわけなどない。そう悟りつつも如生は沈黙した。

 (お前は……私だけを愛しているといった……)

 口数の少ない、潤一郎は、優しい男だった。精悍な面影は、これまで何度となく愛を囁いた。

 お慕いしております。

 あなたを、愛しています。

 普段は聞くことのなかった熱帯びた声で……潤一郎は、何度となくそう繰り返した。

 しかし、目前の雨月を見れば、相変わらず何を考えているのかわからない表情でこちらをじっと見つめている。

 「……冗談ですよ。私はあんなつまらない人間にかまっていられるほど暇ではありません」

 やはり、仲が悪いだけだったかと、こんな状況にも関わらず如生は安堵した。性格を悪く言えばきりはないが、雨月はその容姿といい、身に纏う雰囲気といい、明晰な頭脳といい、人を惹きつける何かを持っている。好悪の感情を抜きにすれば雨月は、魅力のある男だと如生も認めていた。

 「安心したと、お顔に書いてありますよ」

 雨月は如生の瞳を覗き込みながら、また意地悪く微笑した。

 「ですが」

 本意を読み取らせないいつもの表情で、雨月はゆっくりと切り出した。

 「彼には、子どもがいるんです。さて、これはご存知でしたでしょうか?」

 「子ども……?」

 如生にとって、晴天の霹靂とは、まさにこのことだった。今の今まで、本人はおろか誰の口からもそんな話は聞いたことがなかった。

 目の前の男は一体何を言っているのか……如生には何の言葉も浮かんでこなかった。

 「ご存知、ありませんでしたか……。まあ、本家においてもこの話はタブーですから。致し方ありませんが」

 「お前は知っているのか?」

 「ええ。一応」

 だからと言って、何が変わるわけでもなかった。潤一郎に子どもがいようが、妻がいようが……自分たちの関係が変わるわけではなった。それはわかっていた。そう、それに自分は一度死んだ身なのだ。潤一郎は、今もそれを信じている……そこまで考えながらも、如生は雨月に問わずにはいられなかった。

 「潤一郎は……結婚していたのか?」

 「いいえ。もし、そんなことになっていれば、秘密にはしておかなくてもよかったはずです」

 唇は、何かを言おうと動きかけたが、如生自身、何を言うつもりだったのかわからない。雨月はそんな如生の様子を楽しげに見守っていた。

 しかし、如生はある違和感に気付き始めてもいた。雨月の話は、どこかしらおかしい……。それを明らかにしようと、言葉を探しながら口を開く。

 「お前の言っていることは、おかしいと思わないか?潤一郎は、本家はおろか、御雲の筋とも縁のない人間だ……。それならどうして潤一郎個人の問題が本家のタブーになる?本家に関わっている人間と……」

 如生はそこまで言いかけ、自らの言葉にはっとした。御雲の家と関係のない潤一郎、その子ども、本家のタブー……それを、繋ぐと、あるいは一つの可能性が導き出せる。

 「そんな……まさか……」

 信じられない、できれば、信じたくない。もしも自分の考えが正しいなら……。雨月は、優しいような笑みを浮かべ

 「やはりあなたは聡いお方だ」

 そう、皮肉な賛辞を送った。

 「うそだ……」

 「如生様」

 強引に上体を起こした如生を、雨月は労しげに見つめた。

 「安心して下さい。本人さえ知らない秘密ですから」

 ですが、と雨月は唇の端を軽くつりあげるようなアルカイックな微笑を湛えた。

 「高見沢は、もしかすると、あなたを恨んでいたのかも知れませんね」

 これ以上何を言うのかと不安げに瞳を揺らす如生に、雨月はゆっくりと語りかけた。

 「思いませんか?愛する女性を殺されたのだとしたら、それが主人であったとしても、高見沢は、あなたを恨んでいたかも知れない。あるいは、如生様に、お姉さまの面影を求めていたのかも知れない。面影を求めるなんて、言い方が綺麗すぎるなら、あなたをただ、身代りにしたかっただけなのかも知れない。そんな風には、思われませんか?」

 違う、と悲鳴のような声を如生が上げる。

 「違う。高見沢は、私を……私を、ずっと慕っていたと、愛していたと、そう言った」

 「いつから読心術を?」

 「どういう……」

 「人は、口先では、何とでも言えるものです。あなたより先に、高見沢は、あなたのお姉さまと結ばれていたんですよ。それが、事実です。あなたを愛情故に求めたのであれば当然、美生子様に対しても同じ気持ちだったのではないですか?あなたは、高見沢の、最愛の女性の身代わりだったのかも知れない」

 「うそだ……」

 如生は項垂れて弱弱しく頭をふった。

 信じたくない。

 信じられるわけもない。

 そんなこと……知りたくもなかった。

 「ご心配なく。何も変わりませんよ。美生子様はもうお亡くなりになっていらっしゃるし、那生様はご自分のご出生をご存じない。高見沢も本当のことは知らされていないはず……その上、あなたを死んだものと思い込んでいる。これ以上何が変わりますか?」

 「……ばかな……どうしてこんなことを私に知らせた?」

 「いずれまた、お会いになるおつもりだったのでしょ?それなら生まれ変わったのだと思って、新たな視線を手に入れるべきだとはお考えになりませんか?」

 「……」

 如生には何も言えなかった。信じていたものを奪われたような、信じていたものに裏切られたような……それは、絶望だった。

 「如生様は」

 音もなく、雨月の気配が動いた。

 「似ていらっしゃいますからね。お姉様に」

 あごを捕らえた雨月の指。吐息がかかるほど間近に囁かれても、如生は動けなかった。

 「お美しい方でした……美生子様も。あなたも、女性にお生まれになれたらよかったのに」

 「っ!」

 男の言葉が、如生の心を深々と抉る。

 「……して」

 「何です?」

 「どうして……?」

 如生の意志とは関係なく、乾いた唇はひび割れた声を発していた。

 「如生様」

 覚醒の合間に如生を襲う、突然の深い眠り。全ての感覚器が、全ての神経が、一瞬にしてその働きを停止する瞬間。その体を雨月が柔らかく抱きとめた。

 思考が、働かない。

 たった今耳にしたのは、衝撃的な、しかしどんな話だったのかも思い出せない。

 混濁する意識。剥離する記憶。全てがばらばらに、深い闇へと如生を引きずっていく。

 自分という固体が、霧散し、飛び去り、千切れ去る。それはやがて、暗い水溜りを作っていく。

 それでも誰かが起こした波紋は、いつまでも水面を揺らし続けていた。

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