第5話
「先日の香席、見事な点前だったと亭主から礼状が届いた」
厳かに響く低い声に、恐れ入りますと雨月は軽く頭を垂れる。手元の茶碗から茶筅を引き上げながら老年の師へ微かな笑みを向け、
「大伯父の名代が私では力不足と恐縮しておりましたが、鎌倉のご名家だけあって、素晴らしい香木をお持ちでいらっしゃいましたよ。桃源郷という銘の伽羅ですが、先代のご依頼をお受けしたお礼にと少しだけ分けて下さいました。その名が暗示する通り、なのか、モルヒネなどの含有量はアヘンより多いかも知れません」
「お前の見立てでは、こちらで引き取るに値する品か?」
「そうですね……。詳しい解析は必要ですが。ただ薬品と異なって生成することの難しい素材ですので、今後どれだけ生かせるかは、まだ何とも申し上げられません」
そうか、と頷いた老人は雨月が畳に置いた茶碗を手に取った。
「お前は」
主客席から老人が低い声を上げる。落ちくぼんだ暗い目はじっと、碗の中の一点を見つめているようだった。
「見どころのある男だと、信じている」
その言葉に、雨月は微かに笑ったようだった。
袱紗を畳む手を止めず、恐れ入ります、と応じる。
「あれは、那生は、お前の言葉を聞き入れるか?」
茶碗を手のひらに乗せた大伯父はじっとした眼差しを雨月に向けた。何の感情も見出せない、闇のような目だった。
「私は那生様の側近、僕です。進言申し上げることなど憚られます」
ふん、と老人は鼻を鳴らして殊勝にも聞こえる雨月の言葉を一蹴する。
「臆面もなくそのようなことを」
畳に戻された茶碗をゆっくりと取り上げる雨月。
「血の通わない人形のようだと、皆が言うが、お前の前では時に人間らしいか?」
老獪な眼差しに微かな光が、まるで好奇心のような閃きが束の間現れる。
さぁ、と雨月は口元だけで笑みを浮かべる。
「私にはあの方が人形とは思われませんので」
「もし、那生は使えないとお前が判断したなら、早々に切ってかまわん。面倒は全てこちらが引き受ける。才能は惜しいが、役に立たないなら意味がない。それに、如生の方が、私も御しやすい。あれは従順だった」
「お二人の処遇については、どうぞ私にご一任下さい」
「いいだろう」
口を引き結んだ一族の長に、雨月は、大伯父様、と呼びかけた。
「昔、私に、おっしゃったことを覚えていらっしゃいますか?」
「お前に?」
ええ、と落ち着いた表情で頷いた雨月。
「私に、人形になれと、そうおっしゃったこと、お忘れですか?」
「そうだったな」
感情の交流を伴わない、見つめ合い。互いの腹を探り合い、どちらが優位かを見極める為の沈黙。先に表情を崩したのは雨月の方だった。
「人形に、人形遣いをさせようなどとお考えになったのは、御雲の歴史の中でも大伯父様がきっと初めてでしょうね」
「一子相伝などという非効率なやり方では、一族の繁栄は望むべくもない。遅すぎたくらいだと、私は考えているが。現に、お前は独学で得た知識で如生を救えた。医師としての腕だけではあるまい」
「そうですね。一度データ化されてしまえば知識の共有は難しくはありませんし。私がどれほどお役に立てるかはわかりませんが、ご期待に反することがないよう、尽力いたします」
そうか、頷きながら大伯父は目を伏せる。
「もう一服、いかがですか?」
「頂こう」
「かしこまりました」
雨月は畳に片手をつき、頷くように頭を下げる。
「後ほど、那生様をお迎えに行って参ります」
顔を上げずそう告げた雨月に大伯父は黙って頷く。雨月は何事もなかったかのように静かに点前を再開した。
流れる車窓に那生は微かに目を細めた。たどり着く前から、嗅ぎなれた香りに包まれているような気がしていた。それは古い柱に、くすんだ天井に、磨き込まれた長い廊下に染み付いた、人の死を司ってきた一族の巣の匂い。二度とあの香りを嗅ぐつもりはなかったが
「顔を見せに来ないのなら力ずくで連れ戻す、と大伯父様からのご伝言です」
黒塗りの車でわざわざ学校まで迎えにきた雨月の第一声に、従わざるをえないことを悟った。
如生が死んで、那生は本家を出た。叔父に対する罪悪感や感傷からではなく、それは叔父の意思を継ぎたいという思いによるところが大きかった。
あの家で生まれ、最期の瞬間を迎えるまで、一族に生かされ続ける歴代の当主たち。
家族という、身内という意識を超えた、そんな宿命を背負った者同士の絆だったか。那生が叔父から受け継いだものは、膨大な毒と薬の知識でも、その歴史を守り続ける一族の長としての重責でもなかった。
「お顔の色が優れませんね」
小型のベンツを運転しながら、雨月が那生を横目に見た。本家に向かう道、雨月も黒いスーツをまとっていた。あの陰鬱な家の内で一人、何にも染まず暮らしていたこの男は、今何を思うのだろう。乾いた心に皹でも入ればまだ人間らしいが、雨月は無関心をさらに主人を労わる言葉に変える、そういう男だった。
那生は雨月の声に応じず、雨月もそのまま沈黙を守る。
信号で車が止まる。街を抜けたら……五月の深い緑が二人を迎えるだろう。鎌倉の山の緑は、若竹も美しい林を呼び、やがて檻とも古城ともつかない不可思議な館へ二人を送り届ける。
あの屋敷は、無想庵と呼ばれ、表向きは香道御雲流の本家と称している。ムショウアンは、恐らく無生庵と当てるのが本義なのだろうが、「御雲流宗家 無想庵」と看板には掲げられていた。
「何を、考えてる?」
再び車窓から流れ始めた景色に目を向けたまま、那生は雨月にきいた。
傍らで、雨月がふと笑う気配がした。
「那生様のことを」
那生はちらと運転席の雨月を見やったが、雨月の横顔には静かな微笑の名残が留まるばかり。何をきいても、この男から得られることはない。雨月は語らない男だった。
あの家に行ったところで、大伯父がする話はわかりきっていた。いずれにせよ、仕事の話に他ならない。那生が初めて手にかけたのは叔父だった。そしてそれまで続けていた研究を、叔父が亡くなって以来那生は止めてしまった。莫大な量の薬と毒に関する知識は、御雲の当主たちが何百年もかけて築いてきたものだ。物心ついた頃には瓶に入った様々な液体や粉末をおもちゃ代わりに与えられ、薬の名前や薬効などを遊びの代わりに覚えていく。一通りの知識を得てからは、文献を紐解きながら自身の研究に取りかかる。如生は、無痛で、体内の組織を破壊することもない、そんな毒薬の研究をしていた。それには、針や、それこそ東洋医学といったものについての知識も必要だったが、残された資料にはそういった煩雑な事柄も、全て記されていた。
如生が、自分の運命を、御雲の宿命を、全てを憂えていたことは那生もよく知っている。
優しい人だった。だからこそ、苦しみのない死を与えたいと願い、針などという外傷が残りやすい、本来好ましくない手段であっても研究を続けたのだろう。
那生は静かに叔父のことを思った。
母が死んでからは……本当の家族のように、叔父は自分を育ててくれた。いつか、自分の命を狩る為に、教え与えた薬と毒の知識。
いつもどこか悲しそうな顔をしていた。肩越しに振り向いて、何かを言いかけて止めた時の、崩れそうな微笑み。諦めだったのか、叔父の口元に漂う柔らかな失望を、那生は何度となく目にしてきた。
弱みや泣き言などは当然聞いたことがなかったが、あるいは、高見沢だけには、何もかも打ち明けていたのかもしれない。
高見沢は……何をしているだろう。那生は叔父の影のように、常に傍らにあった物静かな男のことを思い出した。あの日、自分の前に姿を現した高見沢は、その身におさまりきれないほどの怒りと悲しみを持て余しているようだった。
主人を失った側近には、暇が言い渡される。しかし御雲の家を辞すもよし、あるいは留まることも許されていた。そして例え御雲を出たとしても、彼らには一生涯守らねばならない秘密と恩給が与えられる。つまり……死ぬまで、あの家に縛られ続ける。それに甘んじられない者は、自ら死を選ぶ。本家は一切関知しない。死んでしまえば、本当にそれで終わりだった。
高見沢は本家を辞し、今も一人、どこかで生きている。
如生の遺品は、遺言通り全て高見沢に与えられた。叔父の持ち物がどれ程の物だったのか那生は知らなかったが、高見沢は、遺品全てを受け取り、あの家を後にしたのだという。
雨月は、叔父と高見沢は愛し合っていたのだと揶揄するように言ったが、それは恐らく正しいのだろうと思う。高見沢は、自分を許すことができないと、告げた。叔父を慕っていた、守りたかったと、そう真摯な瞳で訴えた言葉に、一片の嘘もないことは確かにわかった。
何を、思うのか……。高見沢は、自分の知らない感情を知るあの男は、今、何を思っているのだろう。
雨月と、那生は傍らの男を見た。
「どうなさいました?」
雨月は主をちらりと見、また正面を向いた。
「僕が死んだら……お前はどうする?」
「突然ですね」
信号で、再び車が止まった。雨月はゆっくりと那生に顔を向け、それから少しだけ困ったように首を傾げた。
そうですね、と目を伏せ
「世を儚んで、あなたの後を追いますよ」
再び那生に視線を返しながら、囁くように告げる。
「聞いた僕がばかだったな」
那生は雨月から窓の外へ視線を移した。信じられないのは、雨月の言葉か、彼自身か。雨月は微笑し、正面に向き直った。
「どれだけ真摯に訴えても、あなたは所詮戯言と、私の言葉なんて聞いてくださらないでしょう」
微かな苦笑を口元に湛え、私も報われないですね、そう呟く。
言葉に反した楽しげな響き。那生はため息さえつくことなく、雨月の言葉を黙殺した。
いつしか山は深くなり、鬱蒼とした緑の中を車は走っていた。
竹林のざわめきが耳に蘇り、染み付いた古い香の匂いが蘇る。
那生は目を閉じ、叔父も、高見沢もいなくなったあの家を思った。
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