第3話
安らかな那生の寝息に雨月は目を細めた。
本家にいる頃から、そうだった。雨月が無断で部屋に入ろうと、枕辺に立とうと、那生は決して目を覚まさない。廊下からの足音にさえ目を覚ます那生が、雨月の存在にだけは寛容だった。
雨月はそっと、ベッドの傍らに腰をおろした。
那生の寝息は静かだった。途切れることも乱れることもない。普段の彼の呼吸のように、あるいは存在そのもののように、淡々と続いている。
事あるごとに、那生は雨月に告げる。
「お前なんて、信用してない」
今まで何度同じことを口にしたのか。
一回り以上も年の離れた雨月に対し、那生は主然としていた。
こんなに、と雨月は呟く。
「こんなに無防備な顔をして」
微笑みを浮かべる口元と、悲壮感の漂う眼差しと、これほど不安定な表情を雨月が持つと知っていたら、那生の張り詰めた神経は彼を目覚めさせたかも知れない。
雨月に対し、那生が抱いていないものは信頼ばかりではない。那生は信頼と同じように疑いさえ、抱いていない。
信頼も、疑いもなく、雨月は那生の体の一部のように、ただ常にそこにあった。ある日目覚めた時、夢のように消え去っていることなど、那生は考えもしないのだろう。
主従であるという関係は、既に遙かに超越している。
自分は、那生の中に存在しているのだと、雨月はとうに知っていた。善悪では語れない。是非もない。
那生は、気づいているのだろうか。
愛情は、無関心よりはるかに憎しみに近い。けれど、憎しみも愛情も超え、人間は時により高い次元での繋がりを手に入れることがある。それは、一見して、互いへの無関心を装う。
根拠のない否定と確信のない肯定と、ただ曖昧な表情を表向きは見せて。その根底には、決して揺らぐことのない他者がいる。信頼では足りない。外側からは計り知れない。それは他の存在の中に根付く別の存在であり、自己と切り離すことさえ既に困難なほど、深く重なり合った二つの魂だった。
那生にとっての自分を、雨月はそう確信している。
どんな拒絶も、否定も、それは用をなさない。
雨月は知っている。自分の中の那生という存在と、那生の中に息づく己という存在を。
生きる意味を見出した時、那生は自ずから包含された。今さら那生だけを切り出すことは到底できなかった。
那生を自分の内から切り出すことは即ち、自己の生の放棄に等しいものだった。
生きる意味を、幼い那生に見出した。あるいは真に愛しいとさえ感じられる者として那生を認め、己の生き方を定め、己を律した。
那生は確かに、自分の庇護の下にある。それは事実であり、そこには那生の自分への甘えがあり、傲慢があり、成り立つはずのない、仮にそう呼ぶことが許されるのであれば、信頼があった。
今も無防備な姿をさらし、いささかの悪意でも命を落としかねない状況に那生は甘んじている。
殺すことはたやすいと、雨月は思う。
那生のあごに左手をかけ、柔らかく閉じられていた唇を僅かに開かせる。右手を那生の唇に寄せ、小さな注射器から数滴、液体を注ぐ。
この儀式のような行為をこれまで何度繰り返してきただろう。
「那生さま」
そう呼びかけて、ほっそりとした首筋に指先を這わせる。
暗殺という、この国の冷たく暗い歴史を引き受けてきた一族の、かれはカルマの最前に立つ者だった。
雨月が、肥大した正義感にかられれば、またはつかの間の感興に酔いたいさえと望めば、御雲という一族の歴史ははかなくも終焉を迎える。
歴史と、社会と、それが何と呼ばれるものであれ、彼らの所業と現在は、たった一人の人間、それも膨大な記憶と時間とを背負うにはあまりにも頼りない少年によって、結ばれているに過ぎない。
倒錯と、呼ばれる感情なのかもしれなかった。
那生を殺すことは容易い。生かしているのは自分の意思であると、そう断言することもできるのかも知れない。
守ることも容易い。
膨大な時間、罪、歴史、そんなものは一瞬で吹き飛ぶ。暗澹たる、偉大なる一族の終わり。
こうして、柔らかな首筋に指先を遊ばせるこんな瞬間にさえも。
人間のはかなさを、雨月は知っていた。あの一族の中にあって独特の地位を得ているのも、本来は誰もが持っているはずのそうした確信の為かも知れなかった。
世に、永劫などという言葉はない。
一回限りの生が、それぞれに用意されているだけだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
生はその一回性によってのみ、尊くまた美しいのだと、そう説く人もいる。
幼い日の那生を抱きながら、雨月はその腕に、多くの失われた魂をも抱いていた。そして、一人の人間には生き切ることのできない、長い長い時間をも。
それが心地よいと、そういうことは簡単なのかも知れない。
だが雨月は違う。
ある意味を持った、非常に大きな意味を持った生命の、生殺与奪の権利をその身が秘めていることを悟ってなお、平常心を失わない。
闇の中でさえ青白い細首を、雨月は愛撫する。生命への愛撫を。そうして驕ることもない。
那生は知る由もない。雨月の心に息づくものを。消えることのない希望は、本能としての生への希求だろうか。
雨月の手中には希望がある。
「あなたに出会えたから……」
囁きは低くかすれ、那生は目を覚まさない。
聞こえてなど、いないのだろう。それでも、雨月は愛しげに声を発する。
「あなたがいたから、私は、ここにいるんですよ」
わずかに寝乱れた主の髪をそっと撫で、雨月は腰を上げた。
那生はいまだ安らかな眠りの内にあるようだった。
「昨日の夜、何をした?」
おはようございますという言葉を無視し、無遠慮に、那生が雨月を見る。
「何のことです?」
夢でも見たのか、と雨月は微笑む。
「ごまかすな」
主人の口調で那生は雨月を制した。雨月はそっと那生の頬に手をかけた。
「寝顔を見たかったんです」
癖のない那生の前髪を撫でながら囁くように雨月は言う。
「なぜ?」
「何故、ですか……。困りましたね」
「雨月?」
ゆっくりと抱き寄せられる間、那生は雨月の瞳をじっと見つめる。
「素直に、那生様をずっと見つめていたいと申し上げても、許してくださらないでしょう?」
「何を言ってる?」
片腕で腰を抱き、空いている方の手で雨月は那生の頬を包み込んだ。
「わからなくていいんです。あなたは、知らなくていい」
ぎゅっと抱きしめながら、雨月は那生の耳元で告げる。
「いつか、私は、那生様を悲しませるかもしれない」
破綻するしかない愛情も世の中には存在するのだと、いつか雨月は那生に教えた。
報われない、実らない、そんな思いもこの世界にはたくさんあると。
「もっと違う形であなたを愛せればよかった。ずっと、そう思っています。これまでも、それに、これからも、きっと、ずっと」
子どもにするように優しく、雨月は那生の髪に口付け、そっと腕を放した。
「お前……」
雨月はいつも通りの微笑で、申し訳ありません、と告げる。
「私から那生様に何かを求めるようなことは、決していたしません。ですから、たまには寝顔くらい見せてください。それが、私のささやかな喜びなんです」
「何がおかしい?」
不意に笑った雨月に那生は疑わしげな眼差しを向ける。
「いえ……ご自身ではご存じないでしょうが、那生様はいつも本当にぐっすりお休みなんです。子どものようですよ、本当に。夢はご覧にならないんですか?」
「夢?」
ええ、と頷いた雨月。
「覚えてない」
那生はそっけなく告げたが、そうですかと、雨月には残念そうな様子もない。
「どうしてそんなことを?」
「何故でしょうね。あなたの寝顔はいつもすごく静かなんです。子どもの頃からそうでした。だから、どんな夢をご覧になっているのか、気になったのかも知れません」
「お前はどんな夢を見るんだ?」
「私ですか?私は」
雨月は少し考えるように首を傾げ、ご存じですか、と不意に那生に問いかけた。
「夢の終わりには、2種類しかないそうです。暗転して目が覚める夢と、光が差して眩しさに目覚める夢と。正確には、夢ではなく、夢を見る人間の種類なのだそうですが」
「お前はどっちなんだ?」
「私は……そうですね。後者でしょうか」
そういって自分に微笑みかけた雨月の顔は、どこか寂しげにも見える。那生は口を開きかけ、そして思いとどまった。
「長い悪夢の終わりに差し込む光を、いつも待ち望んでいる……それが、私かも知れません」
暗く冷たい孤独の底に、一条の光が降りてくる時、この世の果てにある自分の居場所にも、ようやく朝が訪れたのだと、そう悟る。雨月は、あるいはそんな瞬間に安らぎを覚えるのかも知れない。
「朝食にいたしましょう」
その背に軽く触れて、雨月は那生を促した。いつもと何も変わらない朝なのに。違和感以上の不安が那生の心に漂う。
日常の歪。それはいつも些細なことがきっかけだった。滑らかに廻っていく日々が、微かな衝撃とともに軋む。
雨月のことを知りたいとは思わない。知る必要もない。それなのに何故か、自分が雨月を知らないことが、時折心を乱すことも知っている。
雨月は語らない。自分のこと、本当のこと。大切なことは何一つ。それが雨月自身の意思であれば、一族から彼に託された意思であれ、自分には伝えられるべきではないと判断されたことなのだろう。
だから、知らなくていい。そして、きっと知ることはできない。雨月が傍にある時、自分の限界を感じるのは、そのせいなのかもしれないと那生は不意に思った。
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