第2話

 本家を辞したのは正解だったと、遺品に囲まれた小さな部屋で高見沢は思う。全て、如生の持ち物は譲り受けた。とは言え、生前の主人は極端に持ち物の少ない人間だったので、全てといっても決して膨大な量ではない。

 見知らぬ、未だ慣れない自分一人が暮らす部屋で、今は亡き人の面影と一生を共にするのも、そう悪くはないと……心のどこかには、そんな思いが確かにあった。

 復讐などという言葉を、後生大事に抱え込むつもりなどないのに、最愛の人を奪った全てのものが憎く、許しがたかった。それは、既に痛みを超えた苦しみだった。

 那生は……如生に似た、美しい目をしていた。今度の当主は感情のない人形だと、本家では囁かれた那生。それでも黙って対峙した瞬間の那生の瞳は、あの家の誰のものより澄み切って、偽りとは無縁。

 御雲の血は自分で終わりだと語った言葉に、嘘はないのだろう。しかし、それだけで許せたわけでもなかった。居場所を突き止め、目的もわからないまま、那生の元へ向かった。あるいは、彼に殺されるのなら本望だったのかもしれない。主人をこの世界から消し去った手にかかるのなら、それはこの上ない幸福であったのかも。

 もうすでに、那生を許しているのだろうか。ふと、そんな考えが胸を過ぎる。あるいはこの憎しみは、行き場のない絶望がもたらしたものか。

 苦しみを和らげる為の憎悪は、哀しいほどに弱い。いつか、そんなことを如生は高見沢に教えた。自ら人を殺める為の毒を作り、あるいは実際見知らぬ人間を手にかけたこともあった主人を、それでも、この世で一番清らかな人間であるかのように高見沢は感じていた。

 何の証拠も残さない毒。殺意の痕跡さえ消しされる薬。日本という国が成立する以前より闇のと呼ばれた御雲の生業として、歴代の当主は、毒薬を研究し、作り続けてきた。一子相伝と言われる膨大な量の毒薬に関する知識を継ぐには、血の繋がりのある前当主を抹殺するしかない。如生も、そのしきたり通り、実姉を手にかけた。血塗られた家に育ち、自らもその手で何人もの命を摘み取ったことは、事実だった。それをどれだけ嘆き、憂えていたとしても、高見沢の主は、一族に望まれるままに働き、望まれるまま生きた。

 苦しみの中に息をつく主を、傍らでただ見守るだけだった自分。そして、死にいく主の姿をも、ただ見守っていた。呪うべきは、自身なのかもしれない。そう気付いた瞬間、諦めは、誰より、高見沢の心に根ざしていた。



 「お前には、何をあげようか?」

 主の突然の言葉に、部屋の片隅で控えていた高見沢は顔を上げた。その困惑を受けとめる優しい微笑で、如生は再び問いかけた。

 「お前は何が欲しい?」

 「如生様?」

 如生は文机から立ち上がり、障子を開け放った。凍えた外気が流れ込み、室内の温度が急激に下がる。月光に浮かび上がるその影は美しく、しなやかで、高見沢は思わず視線を落とした。

 「那生も、大きくなった。近頃、身の回りの片付けを始めたんだ。私は大したものなんて持ってないけれど、お前が欲しいものがあれば言って欲しい。本当に、大したものはないけどね」

 衝撃と、まさかという思いが、稲妻のように高見沢の内に閃く。

 小首を傾げ、如生は影の中で微笑んでいる。はっきりと確かめることは叶わなかった。けれどそれは、いつもの翳りとは異なった、暗い微笑なのだろう。

 「如生様……それは、まさか」

 「それ以上、言ってはいけない。ただ、お前は本当によく私に尽くしてくれた。それなのに、私からは何一つあげたこともなかったから……。お前は何も欲しがらないし、ずっと考えてはいたけど、結局わからなかった」

 「如生様、そのようなことをどうか仰らないで下さい。私がこの命に代えましても必ずお守りいたします。ですから」

 「潤一郎、御雲の家に生まれついた人間は、皆自分で自分を守らなくてはいけない。私も今までそうやって生きてきたし、これからもそれは曲げるつもりはない。那生が力をつけてきて、私を凌ぐというなら、逆らうことはできない。……それに、私はあの子から母親を奪ってるんだ。当然の報いだろう」

 「しおさま……」

 それ以上の言葉は、見つからなかった。高見沢の絶望は、その時何よりの真実だった。主人は、音もなく従者に歩み寄った。

 「教えて欲しい。お前は何が欲しい?今夜呼んだのもその為だ。着物でも、本でも、後は……時計か、少しなら抹茶茶碗もあったと思う……」

 そこまで言うと、如生はふっと笑った。

 「本当に情けないくらい何もないな。今あげた物だって、どれも価値のあるものじゃない……。こんなことならもっと早く聞くべきだったな。それとも、私の持ち物全てをお前に譲ると書き残しておこうか?今夜は渡せなくなるけど」

 如生の足元に跪いたまま、高見沢は声もなく、ただ頭を左右に振っていた。穏やかな主の声は、優しく残酷に響いた。いっそ、その手で殺してくれればと、真摯に願っていた。

 「潤一郎」

 顔を上げない従者の名を呼び、如生は静かに膝をおって屈みこんだ。

 「どうした?なぜ黙っている?顔をあげて……」

 白く、ほっそりとした如生の指が、震える男の肩に触れる。ゆっくりと耐えるように面をあげた高見沢。蒼白な顔の、血の気の失せた唇が小刻みに震えているのを、如生の瞳が認めた。

 この人は、もうすぐ死ぬ。今年の春を待たず、きっとこの世から消えていく……。高見沢は、主の瞳の中に、幾許かの慰めを、救いを見出そうと、迷いのない美しい眼差しを、不躾にも見つめ返した。

 如生は、それでも穏やかな表情を湛えていた。

 「わかってるはずだ。人には、いつか必ず別れがくる。遅かれ早かれ、誰にでも。……でも、私はお前の中に残りたいんだ。この身が灰になってこの世界から消えても、全ての人間が私のことを忘れても……それでも、お前にだけは、忘れられたくない。私のような人間が生きていたことを、覚えていて欲しい。もし……覚えていてもらえなくても、せめて思い出して欲しいと、そう思っていた。年に一度、私が死んだ日にだけでも……。いや、本当はそれも、お前にとっては迷惑なのかも知れないな……」

 如生は初めて見せるような思いつめた眼差しで語った。そして、哀しげな微笑とともに目を伏せた。

 「すまない。何か一つでも、形として残るものをお前に残したかった。そうすれば、お前が私を忘れずにいてくれるんじゃないかと思って……潤一郎?」

 「私が、あなたを忘れるわけがない。忘れられるわけなど、ないでしょう?」

 激情とともに、高見沢は強く如生を抱きしめた。

 終わりを感じた瞬間は、全ての箍が外れた瞬間でもあった。

 「私は、あなたを、如生様を、お慕いしております。誰より、何より、大切に思っております。この気持ちを、どうかお許しになってください」

 「……」

 瞠目した主人。しかしすぐにいつもの穏やかさを取り戻し、囁くように告げる。

 「ありがとう。私はお前を忘れない。お前の言葉を……。御雲の家に生まれた私の、お前は唯一の救いだった」

 「もったいないお言葉です……」

 如生は高見沢の腕の中でわずかに身じろぎし、ゆったりと宣言した。

 「お前に全て残すよ。私の持ってる物は、全部。今から書こう」

 立ち上がろうとする如生を、高見沢は放さなかった。

 「どうした?」

 思いつめた眼差しに、如生は一瞬驚いたように目を見開いた。

 「全てを下さると、仰いますが、本当に全て、私に下さいますか?」

 「あげるよ。私の持っている物は全部」

 「それなら……」

 間近に見つめあいながら、従者は静かに問いかける。その声は震えても、怯えてもいなかった。ただ、しんとした月光の部屋に滴のように落ちる。

 「あなた自身を、私に下さいますか?」

 「私自身……?」

 目を見張る主人を、これ以上ないほど真っ直ぐに、間近に高見沢は見つめた。

 叶わなくとも……それでも、この思いを伝えられるのなら、どんな叱責も非難も、あるいは軽蔑さえ、甘んじてその身に受ける覚悟が高見沢には既にあった。

 高見沢には永遠にも感じられた長い沈黙。やがて言葉の意を解したのか、如生はいつもの落ち着きを取り戻し、従者の背にゆっくりと手を回した。

 「それこそ、一番価値のないものだよ」

 哀しげにさえ聞こえる声は囁きのように密やかで。でも、と如生は続けた。

 「お前が、それでも欲しいというなら、あげるよ。いくらでも」

 うっすらとした微笑みがこの世のものとは思えないほどに儚いのは、今夜の青白い月明かりのせいだろうか。

 高見沢は眉間にしわを寄せ、主人の双眼を仰いだ。

 誰より優しい主が、自分のただ一つの願いを撥ねつけるわけはないと、心のどこかで悟っていた。主は、やはり、高見沢の思う通りの人だった。

 月の明かりが室内を覗き込んでいる。二人以外、誰もいない。生の気配が絶えた、静かな夜。音を立てるもののない世界の中で、潤一郎と如生が呼んだ。腕の中から響く、厳かにさえ聞こえる声音に、高見沢は自分の世界は全てここにあると感じた。

 「障子を、閉めてくれないか」

 「はい」

 立ち上がり障子を閉めた高見沢が振り向くと、如生は着ていた羽織を脱ぎ、肩にかけた。如生は、自分を抱く腕を待っていた。

 その光景に高見沢は思わず息をのんだ。いったん身を離すと、再びどうやって触れればいいのかわからなくなった。高見沢にとって主の手は、その存在はあまりに清らかで崇高なものだった。

 「どうした?」

 如生は座ったまま顔を従者に向けた。

 障子を通した白い月明りが、如生の表情を描き変える。高見沢は目を見張った。見覚えのある光景がそこにはあった。

 何もかも見透かしたような、何もかも承知したような、優しげでも冷酷でもある、静かな表情で、じっと自分を見上げる眼差し。高見沢の遠い記憶の中で、女の物言いたげな口元が笑みを浮かべる。

 宙に差し伸べられた如生の手は白く、透き通っては消えてしまいそうだった。

 「如生さま……」

 絞り出すような声とともに、高見沢の両腕が主を力強く抱き取った。肩から滑り落ちた如生の羽織を褥に、二人はその場に倒れこんだ。

 従者は、主人の頬に、鼻に、額に、目蓋に、触れ、最後に唇を指先でなぞった。仮初にも表に出すことのなかった愛しさをどう伝えればいいのかわからないのか、躊躇いがちな仕草には隠し切れない焦燥が滲む。

 わずかに開かれた如生の唇が言葉をつむぐ前に、高見沢は自らの唇を重ねた。触れ合うだけの口付けは、それでもずいぶん長かった。

 如生の腕が、高見沢の背を抱く。

 「震えてるね」

 吐息のような如生の声。高見沢の全身に閃くような快感が走る。

 「ねぇ」

 初めて聞く、媚びるような主人の声。高見沢は、自分が初めて主を見下ろしていることに気がついた。見つめた主人は、いつになく幼い表情をしていた。

 「お前は、女性と寝たことがある?」

 突然の問いに面食らう高見沢は、その問いに答えることができなかった。

 閉ざされていた記憶の扉が再び軋む。光がさすその向こうに、憂い帯びた微笑みを見せる女が佇んでいる。

 「そんな話、一度もしなかったけど……私は人と触れ合うのはこれが初めてだ」

 「如生さま……」

 眼を見開いた高見沢に、如生は微笑みかけた。

 「お前が最初で、お前が最後だ」

 震えるほど、目も眩むほど激しく、如生の言葉は高見沢を喜びで満たす。

 この日が、この夜が、始まってしまった終わりへの布石だとしても、主の唇に自分の名が宿る度、何を悔いるべきかわからなくなっていく。

 この日を、ずっと待っていたの……?

 自らの思いと重なるように、女の声がそう囁いた気がした。

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