第6話

 綾瀬の父親が所有する長野の別荘に、二人は全てから逃れるように辿り着いた。藍輝はこれ以上自分が招いたトラブルに綾瀬を巻き込みたくないと固辞したが、綾瀬は半ば強引に藍輝を外へ連れ出した。綾瀬の運転する車の後部座席に隠れ、マスコミの目を掻い潜って都内を抜けると、藍輝はようやくほっとしたような顔を見せた。

 戻ったら、雪人のことはきちんとする。自らそう告げた藍輝に綾瀬はそれ以上何も言わなかった。

 別荘の庭にあるイチョウは青々とした葉をつけ、空に向い真っ直ぐに伸びている。綾瀬はまだ半ば放心状態の藍輝を部屋に残し、その木にもたれてデッサンをするのを日課にしていた。しかしいつの間にか藍輝も庭に出て、綾瀬の隣に寝転びながら過ごす時間が増えていった。こんなに穏やかな時が互いの間に流れることなど、どちらも想像さえしていなかった。

 これは非日常だと、ある日藍輝が言った。そして、こういうのも悪くない。そう続けた。

 綾瀬の膝に頭を乗せ、藍輝はその長い髪に指先で触れた。

 あの時、囁くような藍輝の声音に綾瀬が静かに目を向ける。

 「お前が家に来る前、お前の夢を見てた」

 「僕の?」

 ああ、藍輝は頷いて、逆光になった綾瀬の綺麗な輪郭に手を伸ばす。

 「光は、僕に触れない。夢の中で、お前はそう言った」

 藍輝の手を取って、そうと綾瀬は笑う。その微かな表情に悲しみも諦めも潜んでいることを藍輝は知っていた。

 「お前には、光が似合う」

 「藍輝?」

 藍輝はゆっくり身体を起こすと、戸惑う綾瀬の頬に手をかけた。

 「俺が、お前を戒めてた。誰とも同じになりたくなくて……嘘とも裏切りともお前は無縁だったのに。苦しませて、悪かった」

 綾瀬を抱き寄せた藍輝。その腕の中で、少しだけ苦しそうに綾瀬は目を細めた。

 「そんなんじゃないよ。僕は……そんなんじゃない」

 「お前と知り合った時、俺は、お前の何もわかってなかった。ただ、お前の目に特別に映りたいって、そんなガキみたいなこと、考えてたんだ」

 藍輝の告白に綾瀬は目を見張る。そんな風に藍輝が考えていたとは思いもしなかった。出会った頃の藍輝には、全てがあった。藍輝こそ、若くして全てを手に入れた人間だと綾瀬はそう思っていた。

 「俺はずっとお前を否定し続けるようなことしかしてこなかった。けど、そんなことじゃお前の価値は損なわれないって、どっかで思ってた」

 「調子のいいこと言って」

 綾瀬は微かに目を伏せる。その気配に気づき、藍輝が綾瀬の顔を覗き込む。

 「お前は自分の価値をわかってない」

 「藍輝?」

 「他人がお前に何かしたくらいで、お前は変わらない。誰にも、お前は貶められないし、誰にも汚せない」

 初めて見るような静かな目をして、藍輝は綾瀬の髪を撫でた。綾瀬は耐えるように眉間を寄せ、何かを言いかけて止めた。

 「俺はたぶん、お前を繋ぎとめるのに必死だった。飽きられるくらいなら痛めつけてでも、刺激を与え続けられる存在でいたかった」

 何で、とかすれた声が綾瀬の唇から漏れた。

 「急に、そんなこと……」

 藍輝は綾瀬の頬に手のひらで触れ、そっと顔を寄せた。

 「何もなくなって、それなのに、明日の心配とかそんなことより、お前のことばっかり考えてた」

 藍輝は苦く笑う。後悔しているとでも言うのだろうか。綾瀬は信じられないものを見る思いでただ藍輝を見つめた。

 「やっとわかった。自分が、本当はどうしたかったのか。けど、そんなことはもうどうでもいい。お前を苦しめるだけなら、もう、離れてもいい。俺がいない方が、お前が楽なら。もらい過ぎるほどもらったんだ。いや、無理矢理奪ったって方が正しいのかも知れない」

 見開かれた綾瀬の瞳。何年も焦がれ続け、失うことを恐れ続け、見飽きることのなかった美しい目が、自分だけを見つめている。こんなに長い時間、見つめ合ったことなど一度もなかった。次に口を開く時、綾瀬は何を告げるのか。しかしそれが何であれ、全てを受け入れる覚悟が藍輝にはあった。

 「お前は全部持ってる。それに、何も失くさなくていい」

 僕は、綾瀬は目を伏せて、微笑みに似た表情で口を開いた。

 「そんなんじゃないよ……僕は、他人に求められることでしか自分を確認できなかった……藍輝が、どんな形でも僕を、離さずにいてくれたから、やっと生きてこれた。自分が存在することを、許してこれた」

 「綾瀬」

 「本当なんだ。親に捨てられたとか、男に捨てられたとか、別にそんなこと思ってなかったけど……どこかで、自分の価値が信じられなくなってた。価値がないから、皆離れてく、そう思ってた。だから他の誰とも違う形で藍輝と繋がれてることが、嬉しかった……誰とも違うから、今までみたいにはならないって、何だかそう思えた」

 藍輝は無言で綾瀬を抱きしめた。綾瀬は目を細め、藍輝の首筋に顔を埋める。

 どれくらいしてからか、藍輝が不意に笑いだした。

 「どうしたの?」

 「いや……考えられないなと思って」

 「何が?」

 顔を上げた綾瀬に軽いキスをして、藍輝は長い髪に指を絡ませた。

 「お互い、手の内明かすなんて」

 そうだねと綾瀬は掠れた声で応じると、藍輝から離れ芝生の上に大の字になって寝転んだ。

 「どうした?」

 寝転んだまま綾瀬は藍輝を見上げて笑う。

 「こんな日を、僕は望んでたのかな」

 藍輝は黙って綾瀬の隣に同じように寝転んだ。葉の茂った枝の隙間から光が幾筋となく差し込んでいる。綾瀬はその光を捉えようとするように、一条の光に向け右手を伸ばした。

 「こんな日を、僕は、本当は恐れてた」

 藍輝は顔を横に向け綾瀬を見つめる。いつになく穏やかな横顔はやはり微笑んでいるようだった。子どもの手遊びのようにゆっくりと手指を動かす綾瀬。その指先からこぼれるように光が落ちる。

 「誰かと同じ関係になれば、また同じ終わりが来る」

 「来るかよ」

 藍輝の言葉に綾瀬はわずかに首を巡らせた。僅かに涙を湛えた綾瀬の目が光を受けて輝いていることに藍輝はその時気付いた。

 「お前と俺が、他の奴と同じようになんてなるわけないだろ?なれるわけがない」

 綾瀬は一瞬驚いたように目を見開き、それから、そうだねとゆっくりと笑った。

 「こんなもん、世界中探しても、ここにしかない」

 宙に伸べられていた綾瀬の手に指を絡ませ、藍輝はその手を口元へ引き寄せた。

 「そうだね」

 綾瀬が再び目を上げると、静かな木漏れ日が降り注いでいた。終わらないと信じていた嵐はいつの間に去ったのか。

 「それもいいね」

 囁くような声で告げた綾瀬を、藍輝は眩しそうに目を細めて見つめた。


〈完〉

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Cruel Love 西條寺 サイ @SaibySai

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