第5話
ドアが軋む音。それさえ、夢だろうか。雪人が覗き込んだあの瞬間の寝室。聞いたことのないはずの音。玄関のドアが開く音を、その幻聴を、藍輝はあれから繰り返し耳にしていた。
「あいき」
誰かの声がした。よく知る誰かの……綾瀬の声。
「藍輝、大丈夫?」
「……綾瀬?」
「寝てた?」
綾瀬の体温の低い手が、頬を撫でている。夢なのか、未だぼんやりとした視界の中で、見慣れた顔はじっとこちらを見つめている。
「綾瀬」
無意識か、頬に触れていた自分の手を掴んだ藍輝に、綾瀬は僅かに目を細めた。
「ちょっと、痩せたね」
吐息のような声で呟き、綾瀬は藍輝の手をそっと剥がした。
「何か食べる?」
いつもの会話の中に微かな思いやりを見せる綾瀬。あるいは、責任を感じているのだろうか。
「ああ」
わかったと、綾瀬は藍輝の元を離れた。藍輝は何度か瞬きをし、ソファから起き上がった。
キッチンでは綾瀬がパンの塊を切っているところだった。食材も全て用意してきたらしい。
「お前でも、責任感じるのか?」
「責任?」
藍輝の口から洩れた皮肉な声に綾瀬が肩越しに振り向く。
「責任ね」
どうかなと、悪びれた様子もない。綾瀬は藍輝に背を向け作業を再開した。
「責任感じて、のこのこ来たんじゃないのか?可哀そうな俺が腹を空かして欲求不満にでもなってると思って」
自分で感じている以上に、藍輝は疲弊していた。顔を見るまでは漠然とどうしているかということだけが気がかりだった綾瀬が急に憎くなった。何故ここまで陥れたのか。互いの関係を思えば、一体何の権利があってこんなことをしかけたのかと怒りが湧き上がってくる。
「飯の次は、身体も提供してくれるんだろ?」
綾瀬を背後から抱きしめ、藍輝は耳元で囁く。その声は酷薄で、凶悪なものを滲ませていた。
「先にやらせろよ」
綾瀬の首筋に歯を立てて、藍輝は言った。
綾瀬は観念したかのように黙ってキチンナイフをまな板に置く。そして小さくため息をついたようだった。
「藍輝……逃げないよ……」
藍輝が引きずるようにリビングへ連れ戻し、フローリングの床に押し倒すと、その荒々しさに怯えたように綾瀬が言った。
噛みつくように口づけ、引き裂くように服を脱がせても綾瀬は抵抗しなかった。これも負い目からかと藍輝は冷めた目で綾瀬を見下ろす。藍輝自身は既にひどく猛っていた。こういう行為が久しぶりだからなのか、あるいは怒りとも焦燥ともつかない激情の為か、藍輝自身にもわからなかった。
「や……待って」
初めて綾瀬は抵抗らしき言葉を口にした。それはまだ触れていない乾いた綾瀬の後ろに、藍輝が自分のそれをあてがった時だった。
「無理……いやっ、藍輝、お願いやめて……ああっ!」
強引に狭い入り口を引き裂かれる痛みに、綾瀬は悲鳴を上げた。
「何もかも失くしても、お前だけは残るのか?それとも、お前も全部、失くすべきか?」
無理やり綾瀬の中に身体を沈めながら、うわ言のように藍輝が言った。綾瀬は初めて経験するような激痛に身もだえ、顔からは完全に血の気が引いていた。
「あい……いたいっ……あっ!」
「どうしてだ?どうしてこんなつまらないことをした?」
激しく身体を打ちつけながら、藍輝が綾瀬に問う。
この身の破滅より何より、耐えられなかったのは、綾瀬の裏切りだった。恋人以上の、親友以上の、家族以上の、そんな仲だと信じてきた。そう意識することなしに、どこかでそう思ってきた。
「綾瀬……俺が、憎かったのか?」
「なにいって……」
言葉の合間にも眉根を寄せ、苦痛を訴える綾瀬。藍輝がこれほどまで綾瀬を責め苛んだことは一度もなかった。
二人が繋がった部分の潤滑油は綾瀬の血液だった。床にまで流れるその量が決して少なくはないことを藍輝は知っている。しかしそれでも止めることはできなかった。
藍輝のシナリオが完全に崩れた瞬間だった。常に望み、望まれる関係だった二人。描くことも語ることもできなかった二人の関係。この世界に二つとない、二人だけの世界。それが、今崩れていく……。
「……」
悲劇的な行為の後で、藍輝はぐったりとしたままの史瀬を助け起こそうともしなかった。ただ傍にあったバスローブを投げるように綾瀬の身体にかける。
それからの時間は、悪い夢のようにゆっくりと過ぎた。藍輝にはいつ綾瀬が起き上がったのかさえ定かではなかった。気付くとソファの傍らに綾瀬が立っていた。
「ごめん、少し休ませて……」
藍輝を責めるわけでもなく、綾瀬は消え入りそうな声でそう言った。
藍輝は黙って場所を譲った。綾瀬をそれで許せたわけではない。ただ今の綾瀬は、藍輝の目にも痛々しく映った。出血が治まらないのか、白い首筋を伝う真っ赤な鮮血が、藍輝の視界に焼きつく。
その時、突然インターフォンが鳴った。藍輝は綾瀬を見たが、綾瀬はソファに蹲ったまま反応を示さなかった。藍輝は重たげな足取りでインターフォンに向う。
「由利子?」
画面に映し出されたのは、つばのある帽子を目深に被った女だった。その顔は見えなくても、人目を忍ぶ様子から、すぐに彼女だとわかった。
「何しに来たんですか?」
インターフォンを取ると藍輝は低い声でそう聞いた。由利子はようやく顔を上げ、出てきなさいよと告げる。
「もう、話すことなんてないでしょ」
由利子とは雪人との一件の前にわかれていた。女優だけあって美しいが嫉妬深く何かと自分に干渉する年上の愛人に藍輝は辟易としていた。由利子はモニター越しに鼻で笑う。
「またあの男が来てるの?こんな時なのにお盛んね」
「言いたいことはそれだけですか?」
切りますよと藍輝が言ったのと、玄関の方で物音がしたのはほぼ同時だった。それは紛れもない、鍵が開く音だった。ドアが開く音に続いて、ドンという鈍い音がしたのは、ドアガードがかけられていたからだろう。普段藍輝はドアガードをかけない。綾瀬が気を利かせてくれたのかも知れないとその時気が付いた。
「由利子……」
赤く長い爪をした手が、中に押し入ろうとドアガードに伸びている。ドアの隙間からは、恐ろしい形相の女がこちらを睨んでいる。それは寒気を催すような、すさまじい光景だった。
「私が、あの子に合鍵あげたのよ。あんたに気付かれないようにスペア作ってたから。あんたのお気に入りの綾瀬くん、いつも決まった時間に来てたじゃない?だからあの高校生に教えてあげたの。でも、ここまで上手く行くなんて思わなかった。言ったでしょ?私と別れたら死ぬほど後悔させてやるって」
何もかもこの女の仕業だったのかと、藍輝はようやく理解した。
「そうだったんですか……。でも、もう俺はいい。失うもんなんてたかが知れてる。あいつに払う慰謝料くらいならもう稼ぎましたからね。困るのは、貴方でしょ?旦那が監督する映画の主演決まったとか。こんな時に俺なんかとの不倫が表ざたになったら、貴方こそ失うもん、大きいんじゃないですか?」
「なっ」
「帰れよ。二度と俺の前に顔出すな。あんたがもし綾瀬や雪人に近づいたら、今度は俺があんたの人生ぶち壊してやる」
由利子がひるんだ隙に、藍輝はスペアキーを抜き取りドアを閉めた。しばらく息を殺してドアの向こうの気配を伺ったが、ドアスコープを覗いた時には既に由利子の姿はなかった。
悲惨な沈黙が室内には漂う。
「バカは、俺だ……」
藍輝の口元に自虐的な笑みが上る。取り返したスペアキーが手のひらに食い込んだ。痛い程強く握りしめるのは、綾瀬に与えた苦痛の一端でも、自分のものにしたいからなのかも知れない。
藍輝は意を決したようにリビングに戻った。酷い静寂が藍輝を打つ。脱ぎ散らかされた綾瀬の服。床にはところどころ血痕が残されている。
「聞こえただろ?」
そう声をかけたが、蒼白な頬をした綾瀬は既に意識を手放した後だった。死体のような身体を覆うバスローブにはやはり鮮血が染みていた。
「綾瀬」
力なく投げ出されていた手を取り、藍輝は跪く。
「あやせ」
耐えるように目を閉じ、その名を繰り返す。
悪かった……苦しげな懺悔の言葉が藍輝の唇をつく。誰かに謝ったことのない藍輝の、それは初めての謝罪だった。
藍輝は綾瀬を抱き上げると、バスルームへと運んだ、そして濡れることを厭わず、湯を張ったバスタブへそっと綾瀬の身体を沈めた。
「あい、き……?」
自分を包んだ不思議な感覚に綾瀬は目を覚ました。
「綾瀬」
藍輝はぐったりとした綾瀬の身体が沈み過ぎないよう、その肩を支えながらゆっくり顔を寄せた。
「俺を、慰めに来たのか?」
「気になったから来ただけだよ」
優しく、悲しい色を宿す藍輝の瞳に、綾瀬は全てを悟ったようだった。
「どうして何も言わなかった?」
未練がましく藍輝が尋ねると綾瀬は曖昧に微笑した。
「綾瀬」
咎めるように自分を見つめる藍輝。綾瀬は仕方なさそうに口を開いた。
「どっちでもいいと思ったから……藍輝が、どう思おうが」
お前と言いかけた藍輝を遮り
「僕にも責任がないわけじゃないし」
綾瀬はまたひっそりと笑う。
「大丈夫か?」
バスタブの縁に手をかけ身体を震わせた綾瀬は一瞬辛そうに顔を顰めた。
藍輝は綾瀬の髪に指を絡ませ、血の気の引いた頬に唇を寄せる。
「お前、だけだった」
「藍輝?」
初めて聞くような切ない藍輝の声。綾瀬はゆっくりとうな垂れた藍輝の頭を片腕で抱いた。
「許してくれ」
綾瀬の目が大きく見開かれる。それは綾瀬の知る限り藍輝が初めて口にした謝罪の言葉だった。
綾瀬は藍輝の髪にそっと唇を寄せ、細く長く息をついた。まだ辛いのだろう。藍輝の髪を撫でる指先が微かに震えている。
押し殺した綾瀬の低いため息が藍輝の耳についた。藍輝は顔を上げ、蒼白な綾瀬の顔を覗き込んだ。
「今日のは、そうとう痛かったよ」
見惚れるほどの美貌を歪ませるように綾瀬は微笑し、そう言った。恨みがましさのない、それはちょっとした悪ふざけのようにも聞こえた。
「悪かった」
藍輝は率直に謝った。そしてそれ以外に何の言葉も思いつかなかった。
小さな音を立てて綾瀬が藍輝の額にキスをする。
「どこか……行かない?」
「え?」
「しばらくここ離れるのも、悪くないと思うし」
「本気で、言ってるのか?」
うんと微かな声で応じ、綾瀬はゆっくり藍輝の顔を覗き込んだ。
「たまにはパパに甘えてみるよ。絵描くのに籠りたいって言えば、別荘の一つや二つすぐ貸してくれるだろうし……母親の再婚知って、ショック受けてたよ。年甲斐もなく」
最後は少しだけ笑って綾瀬は言った。
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