第4話

 『恋人が自殺未遂!人気作家の乱れた私生活』『男子高校生と援助交際?人気作家の秘密』『元恋人が激白・作家遠藤藍輝』そんな見出しが週刊誌の表紙を賑わせた。毎日のように押し掛ける取材とひっきりなしにかかってくる電話。その中にはゴシップ専門の記者からのものも、対応に追われる出版社からのものも、一言物申したいらしい一般人からのものも、複数の恋人からのものもあった。

 さすがの藍輝も精神的に参っていた。雪人の見舞いには行ったが、当然彼の家族からは悪鬼のごとく罵倒され、門前払いを食った。雪人は風呂場で手首を切ったらしい。大事には至らなかったものの、現在も面会謝絶だという。実家からは母親が恐ろしい剣幕で電話をよこしてきた。父は勘当したいらしく、兄からは海外にでも行ったらどうかと持ちかけられた。連載のあった新聞や雑誌の仕事は当然打ち切りとなり、出版社からも見放されるのは時間の問題だと思われた。破滅というのはこういうことなのかと、藍輝は身を持って知った。雪人の容態も気になったが、藍輝は自分の今後についても初めて深く考えることになった。

 作家生命が絶たれようと、生きていくことはどんな風にもできる時代だ。しかし、ここまで社会的にも精神的にも追い詰められたのは初めてだった。確かに相手は、未成年だ。誰から見ても雪人をいいように扱い傷つけたのは自分だ。今日までに届けられた絶縁状は、それがどんな形であれ一体どれくらいになるのか。数え上げる気もないが、その中にはまだ、気にかかる人物からのものはないようだった。しかし、いずれ彼の元にも加熱した取材が向かうかもしれない。その時に、綾瀬は何と言うのだろう。

 あの日以来、綾瀬からは何の連絡もない。昔から緊密に連絡を取り合うような仲ではなかったけれど。

 藍輝はソファに身を沈め、ゆっくりと目を閉じた。家の電話はコネクタを抜いてあるし、携帯はもう何日も電源を入れていない。マンションの下には、いまだ多くの取材陣が押し掛けているかも知れないが、最上階のこの部屋まではさすがに喧騒も届かない。そうだ、外出さえしなければそれ程外の世界に煩わされることもない。

 骨身まで染み込んだような疲れが、傷口を与えられた血液のように溢れだし、藍輝は途方もない疲労感に突然襲われた。眠りたい……ただ静かに眠りたかった。


 ああ、夢を見ていると、藍輝はその光景を静かに眺めた。レンガ造りの校門に、大学名が記されている。

 綾瀬の通う美大の門を、藍輝はゆっくりとくぐった。医大とは雰囲気の違うキャンパス。綾瀬を尋ねてそこを訪れたことは何度くらいあっただろう。休日のキャンパスに人気はほとんどなかった。藍輝は記憶を頼りに似たような建物の並ぶ敷地内を進み、17と書かれた校舎に入った。中は吹き抜けになっており、建物の中心にエスカレータを備えた近代的な作りだが、休日なのでエレベータしか稼働していない。ゆっくりとガラスの箱に運ばれながら藍輝はキャンパスを見下ろした。綾瀬は後何年ここにいるつもりなのかと、訪れるたびに思った。自分にとってそこは、綾瀬がいるという一点を除くとひどく退屈な場所に思えた。

 エレベータを下り、真っ直ぐに続く廊下を進む。製作用の個室はそれぞれ広さが異なるようだが、見た目はどれも同じドアだった。突きあたりの部屋には、A.Hironoとプレートが入っていた。物音はしないが、ここで間違いないのだろう。軽くノックをすると聞き慣れた声が、はいと応じた。

 「藍輝?わざわざごめんね」

 「社会人を使い走りにするなんていい身分だな」

 ドアを開けた綾瀬は油絵を描く時用のエプロン姿で藍輝を迎える。

 ちょっと待ってて、綾瀬はそう言うとキャンバスごとイーゼルを窓側に寄せ、手早くエプロンを脱いで手を洗いはじめた。藍輝は手近だったデスクにコーヒーの入ったペーパーバッグと、綾瀬に頼まれていた画集を置き、そっと綾瀬の後ろに立った。

 「まだ絵の具が付いてる」

 藍輝は背後から抱いた綾瀬の手を取り、右手の小指についた青い塗料を爪先で擦った。

 「ほんとだ。綺麗に洗ったんだけどね」

 綾瀬は大した興味も示さず、そんなんじゃ落ちないよと笑って手を引く。

 綾瀬はいつまで絵を描き続けるのか。何度か問いかけその度に諦めた質問を声に出すことなく、藍輝は軽く息をついた。

 父は大企業の会長、母は元モデル。婚外子として認知はされているようだったが、綾瀬には家族がいないも同然だった。日本と海外を行き来しながら生活していた母親は、綾瀬が高校の頃から帰国しても家には戻らなくなったという。両親から潤沢な生活費と学費が毎月振り込まれているらしいが、それが綾瀬本人にとって幸か不幸か藍輝にはわからなかった。私立美大の大学院まで進み油絵の勉強をしてはいるものの、強烈な創作意欲のような物を感じさせることもない。綾瀬の絵は確かに緻密で上手いが、見ているとどこか虚しくなるような悲しみを湛えていた。

 「博士までいくのか?」

 「どうかな。そうなるともう研究みたいになるからね。僕はただ絵描きたいだけだし」

 僅かに首を巡らせ、どうしてと綾瀬が藍輝を見上げる。藍輝は曖昧に首を横に振った。

 母親似の綺麗な顔。過不足なく整った芸術的な美貌を、本人はあまり好きではないらしい。この顔を、と藍輝は綾瀬の頬に手をかけながら思う。もし自分が描写するとすれば、どれだけの言葉を尽くし表現しようとするだろう。

 自分の存在は無駄だと、いつか綾瀬は言った。二度とその言葉を聞くことはなかったが、よほどの才能がなければ金にもならない絵描きの道へ、情熱もなく進もうとしていること自体、親への反発のように藍輝には思えた。無駄な金と時間を費やし、人生を浪費し、何も生み出すこともない。かと言って自堕落なわけでも不真面目なわけでもない。綾瀬は不真面目を勤勉に演じているかのようだった。

 本人にその気はないのかも知れない。けれど形のいい、張りのある唇が物言いたげにうっすらと開いているだけで、藍輝は触れたいという欲求を抑えきれなくなる。誘っているのかと何度か本気で綾瀬に聞いたが、本人は不思議そうな顔をして笑っただけだった。

 長く静かなキスの後で、綾瀬の指先が藍輝の唇に触れた。

 「久しぶりに、テレビに出てたよ」

 「母親か?」

 そう、綾瀬は藍輝の唇を見つめたまま呟く。

 「子どもがいた。小学生くらいの。あのマネージャーと結婚したみたいだね」

 「そうか」

 それ以上どんな言葉をかければいいのか、藍輝にはわからなかった。

 「母親の男と寝てたなんて……今でも吐き気がする」

 言葉に反してうっとりとした微笑み。綾瀬と藍輝が呼ぶ。

 「まぁ、どうでもいいけどね」

 綾瀬はその容姿に反して激しい気性をしていると藍輝は思っていた。そうならざるを得ない環境だったのかも知れない。綾瀬が初めて付き合った相手は母親のマネージャーだったという。しかも当時は母親と相手の男が恋人同士だということも知らなかったらしい。母親とともに海外へ去った男を恨んだ日もあったのかも知れないが、今は本人の言葉通り、どうでもいいことなのだろう。綾瀬は強くて、冷たくて、美しくて、ひどく悲しい。

 「どーでもいいよ、ほんと」

 藍輝の腕から逃れるように綾瀬はそう言って身を翻す。

 「何かいい臭いするけど、コーヒー?」

 「ああ」

 「ありがとう」

 綾瀬は微笑んでデスクに腰掛けペーパーバッグを開けた。

 「あ、それから、画集ね、ありがと。どうしても見つからなくて。いくらだった?けっこうしたでしょ」

 そう言って本を取ろうとした綾瀬の手を藍輝が素早く掴んだ。

 「藍輝?」

 「ここでやらせろよ。それはタダでいい」

 腕を掴まれたまま綾瀬は藍輝を見上げ、何かを言いかけて止めた。ゆっくりと口元だけで笑い、いいよと投げ出すように応じて立ち上がる。抵抗しないことを告げるように両手を上げて見せた綾瀬の背をドアに押し付けながら藍輝は、その白い首筋に歯を立てた。

 「いつもさぁ、思うんだよね……」

 窓を見つめたまま目を細める綾瀬。藍輝は綾瀬のシャツのボタンを外しながら何をと聞いた。

 「僕のほとんどは、嘘と裏切りでできてる」

 「何だよそれ」

 「だから光は、絶対に、僕に触れない」

 「綾瀬?」

 藍輝が顔を上げると、綾瀬はいつも通りうっすらとした微笑を湛えていた。自分こそ絵の題材にふさわしい存在だと、綾瀬は気づいていないのだろうか。あるいは、それに気付きながらなお、自分を否定し続けているのかも知れない。

 「してあげるよ。お礼だし」

 そんな露骨な言葉を囁いて、綾瀬が藍輝のベルトに手をかけた。いつもなら藍輝に望まれない限り自ら進んですることはない行為。

 「藍輝?」

 綾瀬の手を掴んで藍輝は、いいと短く告げた。そうじゃないと、言いたかったのかも知れない。しかし、そうやって否定したかったのは、本当は何だったのか。

 「綾瀬、俺は」

 綾瀬の絶望を癒せる言葉を、ずっと探していた。言葉という物に誰より依存しながら生きる自分だからこそ、知っているはずだとそう思っていた。けれど。

 「同情なんてしなくていい。もっと傷つけて……もっと踏みにじって……僕には、そういうのが似合う」

 綾瀬は囁いて微笑む。そんな言葉、一度も綾瀬の口から聞いたことはなかったけれど。それが彼の真の望みのように思えたことは確かにあった。

 「どうせ、僕たちの間には何もない。何もないんだよ……信じるなんて、馬鹿げてる」

 「綾瀬?」

 綾瀬に柔らかく唇を塞がれる。どこまでが記憶の再現で、どこからが完全な夢なのか。

 綾瀬が笑っている。その顔が、狂おしい程愛しいと感じる。けれど、触れられない。ただ優しく、ただ慈しむだけの愛では足りない。足りなくて、互いが虚しくなる。

 「僕なんか、信じちゃダメだよ。そんなの幻想だ」

 綾瀬が囁く。

 「知ってるくせに。痛みだけが、現実なんだ。痛みは、僕を裏切らない……痛みは、藍輝も裏切らないよ」

 「綾瀬?」

 別れの言葉を、綾瀬の唇が綴る。いつもと同じ微笑みで、何も感じていないかのような静かな眼差しで。綾瀬が去っていく。今よりずっと暗い場所に、消えるように遠ざかる。

 こんな終わり方、望んでなどいなかった。苦しくて声が出ない。その名をもう一度呼びたくて、藍輝は息を大きく吸い込む。鈍い痛みが、胸を押しつぶした。

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