第3話
いつも繰り返す失敗を、人は後悔できるのだろうか。
「故意に繰り返す過ちを……」
ワイングラスを片手に振り向いた綾瀬はため息がちに呟いた。
「恋故ならば」
そんな洒落にもならない戯言を藍輝はまんざら冗談でもなさそうに口にした。
一瞬、驚きに目を見開いた綾瀬は、その直後に表情を崩し、珍しいほど盛大に笑い始めた。
「そんなにおかしいか?」
「おかしい」
綾瀬はカウンターにグラスを置いた。激しく体を捩じっているので、取り落とすところだった。
「おい」
藍輝はいつにない綾瀬の様子に、いささか不信感を覚えたらしい。揺れ続ける肩を軽くつかむと、大丈夫かと綾瀬の顔を覗き込む。
藍輝は、と綾瀬が言う。
「絶対、いい死に方しないよ」
そんな恐ろしげなセリフを笑ったままで告げ、綾瀬は藍輝の胸を押し返した。
そして、藍輝の薬指に輝く指輪に目を留める。
「雪ちゃん?」
「ああ」
雪人は綾瀬を毛嫌いしているが、その逆が必ずしも同じとは限らない。綾瀬は取り立てて雪人のことを気にしてはいないし、せいぜい気の毒程度にしか感じていないのだろう。
「悪趣味だよ」
綾瀬は髪をかきあげながら藍輝を見た。
「何が?」
唐突な綾瀬の言葉に、藍輝は眉をひそめる。
「藍輝がしてること、全部。今に、始まったことじゃないけどね……」
「そういうお前こそ……そんな悪趣味な男から離れられないんだろ?」
綾瀬の細い腰を挟むようにカウンターに手をつき、藍輝は綾瀬の動きを封じた。
「どうしてだろうね……。自分でも不思議だよ。藍輝のことだけじゃなくて……僕自身がしてることも、何もかも」
踊らされてるみたいだ……綾瀬は白い首筋を仰け反らせると、かすれた声で囁いた。
「誘ってるのか?」
藍輝が綾瀬の耳元で息をつく。
「さあ。僕にもわからない……。もう、あれからずいぶん時間が経った……。いつまでも、続くと思わないほうがいい」
濡れた音を立てて、藍輝の唇が綾瀬の首筋に触れた。
「何もかも……どうでもよくなる瞬間がある」
綾瀬の独白。
藍輝は穏やかな遊戯を繰り返しながらその声を聞いていた。
「思いやりのかけらもない。同情も、もうしない……。人間としてサイテーだと思うよ……」
それは自身に対する告白か。あるいは自分と向き合う人間への忠告か。
「つまらないね……人間て……」
綾瀬はそれきり口を噤んだ。
澱んで、清らかな瞳を間近に見つめ、藍輝は綾瀬に唇を重ねた。
もう、数え切れないくらい繰り返されてきた行為。今さら、何も変わらなくて……。今さら、あっても、なくても。
藍輝は綾瀬を抱き上げると、そのまま寝室まで運んだ。人形のようにぐったりとした綾瀬は、ベッドの下ろされてからも沈黙を守った。
「綾瀬」
藍輝は呼ぶ。
「綾瀬、俺を見ろ」
「……藍輝、どこに行くの?」
空ろな眼差しの、壮絶な美しさ。ひっそりと漂う幻に藍輝は引き込まれそうになった。
何もかもどうでもいいと思える瞬間は、藍輝には、今ここにある。
「天国、とでも言えば、満足するか?」
藍輝の答えに、綾瀬はようやく微笑した。
「藍輝は、僕の顔が好き?」
「何?」
綾瀬は濃密な空気を断ち切るように、冷めた声でそう尋ねた。戸惑う藍輝の問いには応じる気配を見せず、綾瀬はじっとした瞳を藍輝に向ける。
「お前の顔は、好みだ。それに、体も」
藍輝が綾瀬の髪を撫でながら言うと
「雪ちゃんと僕……似てるもんね。体は」
「体は全然違う。雪はお前よりよっぽど素直だ。勿論性格も」
綾瀬は何に対してかふふっと声を上げて笑った。
「あの子一人を愛してあげればいいのに……。素直じゃない僕なんかより、可愛がりがいもあるでしょ?」
「さっきから何を言ってる?」
「……ナンセンス……」
投げ出すように綾瀬は言葉を切った。
藍輝はいよいよ不安を覚え始めた。勿論それを綾瀬に悟られるようなことはしないが。
綾瀬は相変わらず、何を考えているのかわからない微笑で藍輝を見上げている。
やがて……
「抱いて」
綾瀬が何の前触れもなく囁いた。考えることも話すことも、全てが面倒になったらしい。
藍輝は黙って指輪を外そうとした。
「そのままで」
「ケガするぞ。これでも石がついてる」
綾瀬の目前に手をかざし、藍輝が言った。決して罪悪感や綾瀬への配慮から外そうとしたわけではない。もっと、実質的問題の為に外そうとしただけのことだ。
「いいよ」
笑みを含んだ声を震わせ綾瀬が言う。
「は?」
綾瀬の言動は、明らかに不自然だった。しかし、藍輝がそれを口にするより一瞬早く
「あの子に、傷つけられてるんだと思うから」
綾瀬は綺麗に笑って見せた。
これには藍輝も閉口した。そして、ならばそうしてやると、藍輝は綾瀬のシャツのボタンを外し、素肌に唇を寄せる。熱く濡れた舌の這う感覚に、投げ出されたままだった綾瀬の手指が微かに震えた。綾瀬の身体は、どこか甘い。唇も、首筋も、胸も、指先も。ムスクに似た温かみのある香りの香水をつけているせいなのか。藍輝はいつも考えることをまた思い出し、次第に行為に没頭していった。やがて指輪をしていることも忘れた。
何をしても綾瀬はほとんど声を出さない。いつからそうなったのか藍輝にも定かではなかったが、微かに眉根を寄せて、時折ため息をつく。その吐息を耳元で感じると、藍輝の全身に痺れのように快感が走る。その日も綾瀬はいつも通りだった。
「雪ちゃんは」
「何?」
綾瀬の腰を引き寄せながら藍輝が身体を繋げると、綾瀬は少しだけ震え息をついた。
「藍輝が、本気で好きなんだろうね」
「だったら何だよ?」
「んっ……」
綾瀬は苦しげな声を上げ、ゆっくりと手を伸ばして藍輝の頬に指先で触れる。
「本気で愛しても、裏切るの?」
「何言ってんだ、お前……」
綾瀬は痛みに耐えるように、目を細め、それから微かに笑った。頬を撫でていた指が、藍輝の唇に触れ、そっと口内に滑りこむ。繊細な指先に口内を蹂躙され今度は藍輝の方が苦しげに喘いだ。
「よせ」
あごを突き上げながら藍輝が顔を背けると綾瀬は笑って濡れた指先を舐めた。
「綾瀬」
「もっと」
「もっと?」
「もっと痛くして」
綾瀬が囁く。藍輝はその表情の艶めかしい美しさに魅入られたように激しく腰を打ちつける。綾瀬は背を反らせ肘で身体を支えた。
「ああっ!」
久しぶりに聞く綾瀬の悲鳴。この瞬間の痛みは快楽に勝っているはずなのに、綾瀬の表情は恍惚としてさらに穏やかだった。
何を望んでいるのだろう。何も映さない、けれど熱帯び潤んだ瞳に藍輝は綾瀬の思いを見出そうとしたけれど。
「もういいよ」
何に対してかそう告げた綾瀬は目を閉じてベッドに身体を預けた。
倦んでいく時間というものがこの世には存在する。藍輝にとって徐々に冷えていくベッドは正しくその象徴だった。
変わることがない白い背中。長い髪に隠された美しい肌。たばこの煙がうっすらと見える。藍輝の手は吸い寄せられるように綾瀬の腰に伸びる。
「みみず腫れになってる」
小さな石でも強くこすれればキズぐらい残ることは行為の前からわかっていた。しかしそれを望んだのは綾瀬自身だった。
「血が出てた」
綾瀬の白い腿に一筋の血が真っ赤な道を引いた。
綾瀬は肩越しに振り向いて微笑む。タバコをベッドサイドのテーブルの上にあった灰皿に押し付けると体を捩じって藍輝の腹に乗る。
「どうした?」
長い髪がゆったりと藍輝の胸に落ちかかる。
綾瀬はやはり無言で藍輝の唇に舌を這わせた。
不意に玄関の方で物音がした気がした。しかし珍しい綾瀬の様子に藍輝は夢中だった。綾瀬からキスをしてくることなど、これまでほとんどなかった。巧みなキス。それは藍輝の知らない綾瀬の一面だった。
「藍輝?」
軋んだドア。一条の光が差し込んだ時、彼は既に全てを見ていた。
「……雪人?」
綾瀬に両肩を抑えつけながら藍輝は不自然な姿勢で首だけをもたげた。暗さに慣れた目を射るような光。眩しい光を背にしたシルエットは、幼い声からもすぐに雪人だとわかった。
「うそつき……」
雪人の呟きが、不思議なほどはっきりと聞こえた。雪人はそのまま部屋を飛び出していった。
綾瀬はゆっくりと藍輝を解放し、追いかけないの、と静かな声で問いかけた。
何故、と藍輝は心中にその問いを繰り返す。どうしてこんな時間に雪人がやってきたのか。マンションの入り口はオートロックで、玄関にも鍵がかかっていたはずだった。合鍵を雪人に渡したことはないし、合鍵を唯一持っているのは……。
「綾瀬……?」
「何?」
振り向かずに応じた綾瀬は身支度を始めている。藍輝は面と向かってなじる気にもなれず、ただベッドの上でぼんやりとしていた。
「いいの?雪ちゃん」
綾瀬は何の感情もうかがえない声でそうきいた。身支度を済ませるとようやく振り向き、帰るよと言った。
どういうつもりかと尋ねようか迷っている間に綾瀬は寝室を出ていった。やがて、玄関が開閉する音がした。
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