第2話
「またあの人来てたの?」
綾瀬が出て行く時間と雪人がやってくる時間は、藍輝がわざと合わせた。ささやかで残酷な悪戯といったところだろうか。もっとも、ささやかなのは綾瀬にとってだけで、雪人には相当悪質な嫌がらせととられても仕方ない。
「どうして?もう会わないって言ったよね?」
雪人は唇を尖らせ、拗ねたような口調で藍輝を責める。その表情は初々しく、雪人を少女のように見せた。
雪人は、藍輝の恋人たちの中で一番若い。顔立ちも元々童顔なので、制服を着ていると中学生に間違われることもあるという。学内ではアイドル的な存在なのだというが、藍輝にとっては手のかかる子供同然だった。
「ゆき」
藍輝は優しく名前を呼び、滑らかな頬に手を添えた。雪人は相変わらず、上目遣いに藍輝を睨んでいる。
確かに、雪人は雪人なりに自分の置かれている状況を理解してはいるようだった。が、幼さゆえの純真さからか、藍輝に自分以外の恋人がいることが許せないらしい。しかも、雪人が一番嫌っているのが綾瀬だった。理由は、藍輝にもわからなかったが。
「あいつじゃなきゃいいのか?」
藍輝は雪人を抱きしめ、微笑んでその愛らしい顔を覗き込んだ。
「そうじゃないけど、あの人が一番いや」
こんなことでは懐柔されないぞ、といわんばかりに、雪人は大きな瞳に力を込めて藍輝を睨む。
「どうしてそんなに嫌いなんだ?雪の次に気に入ってるのに」
「うそ……。雪があの人に似てるから、だから藍輝は……」
「泣くなよ」
泣いてないもん、と叫ぶ雪人は藍輝の腕を振り払った。顔を背けはしたものの、肩が小さく震えている。
(可愛い奴……)
だからつい泣かせたくなるのだと、藍輝は自分自身に言い訳を続けている。素直な雪人が愛しくて、だから悪戯が過ぎてしまうのだと。
「雪、俺はお前が一番好きだよ。本当に」
先ほどよりずっと優しく、低くかすれた声で囁きながら、藍輝が雪人の背を抱く。
「もう、しないよ。あいつと会わないって言うのは、友達だから難しいけど……。いつも言ってるだろ?雪人が、一番だって」
「……ほんと?」
濡れた瞳を上げて雪人が藍輝を仰ぐ。そう、この顔が見たくて、自分はつい意地悪をしてしまうのだと、藍輝は自身に言い聞かせる。
「ほんと」
羽を触れ合わせるようなキスをしてから、藍輝は雪人をソファに座らせた。さすがに綾瀬との行為の末に寝乱れたベッドを見せるわけにはいかないだろう。
実のところ、藍輝は、綾瀬の次に雪人を気に入っていた。雪人の顔は、確かに好みだったし、何より雪人は、出会った頃の綾瀬にどことなく似ている。もっとも、二人の性格は、比べようもなかった。雪人は、子供っぽいといえるほど素直だし、綾瀬は昔から少々屈折していた。雪人との関係が温い雨のようなものなら、綾瀬との関係は慢性的な嵐と言えるだろう。六年近くも吹き止まない、慢性的な大嵐だ。他の誰とも、他の何とも比べられない……それが、藍輝にとっての綾瀬だった。
互いに、自分以外の恋人がいる。しかも不特定多数の。互いに満足していないというのではない。おかしな感情だ。二人がともに抱いている。自分だけを愛する相手を見たくない、というか……ありふれた恋愛に落としたくない、というか。
分かり合っても、愛し合ってもいる。しかし、それだけでは決定的に何かが足りない。まるで、酸素不足のようだ。
すっと、室内が翳った。二人は同時に窓に目をやる。
ブラインド越しの空はにわかに曇り、今にも雨が降り出しそうな気配だった。
「雨になるね……」
藍輝の下で小さく体を丸めていた雪人が呟いた。
「ああ」
綾瀬はもう駅に着いただろうか……そんなことを藍輝は不意に思った。目の前に誰がいようが、気付けば綾瀬のことを考えている。
雪人に気付かれない程度に苦笑し、藍輝はついに降り出した雨音を聞いた。
外の雨とは違う、絶え間ない水音。温く緩やかに体を伝う雨を、藍輝は感じていた。腕の中には、成長しきれないしなやかな体がある。白い肌を桜花のような色に染めた雪人は、バスルームの温められたタイル張りの壁に背を押し付けられながら、時折少女のような嬌声を上げた。
「やだ……くすぐったいよ、藍輝……」
細い首を仰け反らせ、大きな瞳を潤ませた雪人には、幼さからくる独特の色気がある。
そういえば……初めて会った時の綾瀬は、雪人と同じ年だった。
ああ、と悲鳴を上げた雪人の首筋を、藍輝は甘噛みし、舌を這わせて耳の後ろをくすぐった。
あいき、と雪人が呼んだ。
「藍輝は、雪が好き?」
猫に似た大きな瞳は、熱っぽく泣き出しそうに潤んでいる。雪人の柔らかで、ふっくらとした唇が、藍輝にはひどくエロティックに見えた。
「好きだよ。こんな風に洗ってやるのなんて、お前だけだ」
微苦笑といった表情で藍輝は雪人に応じた。そして雪人の腰を抱いていた手を、そっと内腿に滑らせた。
「他の誰にも?誰にもしない?」
雪人の目は……何故か必死だった。ああ、と答えた藍輝に
「あの人にも?」
と、雪人は繰り返した。
「しないよ」
濡れた髪が張り付いた雪人の頬に手をかけ、藍輝は花弁のような雪人の唇に、啄ばむようなキスをした。
藍輝の片手は雪人の腿を這い上がり、くすぐる様に脚の付け根に触れた。キスの合間に短い息をつく様子を観察しながら、藍輝の指が雪人の一番敏感な場所にたどり着いた。
「やっ……」
雪人は怯えたような眼差しで、目前の藍輝を見上げた。いつもなら雪人の方からせがんでくるのに、と、藍輝は湯気に満たされたバスルームの中で目を細める。
「どうして?嫌なのか?」
雪人を愛撫しながら、藍輝は雪人の瞳を間近に覗き込んだ。
雪人は子供のような仕草で、首を左右に振り、いやいやをした。その様子があまりにも可愛らしく、藍輝は雪人の腰を引き寄せた。
「ゆき……したいよ、お前と。雪の中に入りたい……」
耳元でそう熱く囁かれると、雪人は苦しそうに目を閉じた。そして
「約束して……もう絶対あの人としないって。あの人じゃなくても、もう雪としかしないって……。雪は藍輝が全部だよ。藍輝がほんとに好きだから……だから、藍輝も……あぁ」
雪人は恨みがましい目で藍輝を見上げた。
「雪……かわいいよ、ここも……すごく……」
「いやあ」
雪人は今度こそ悲鳴を上げた。雪人はいやいやを繰り返しながら、それでも
「やくそく、して」
と、切れ切れに訴えた。
「ゆき」
「嫌……やだよぉ、あいき……こんなの、やだ……」
ついに泣き出した雪人に、藍輝は驚いて動きを止めた。
「どうした?どうして泣く?」
雪人の気持ちを、藍輝は完全に把握しているつもりでいた。雪人がどうすれば喜ぶか、怒るか、悲しむか。子供の機嫌をとるのも損ねるのも、造作もないことだと、そう信じていた。しかし、雪人はいつになく思いつめた眼差しで嗚咽を殺そうともしない。
「こんなにすきなのに」
と、雪人は言った。
「雪は、藍輝が一番好きなのに……なんで……」
なんで、の後は言葉にならなかった。雪人は崩れるようにバスルームの床に座り込んだ。
「ゆき」
そう呼びかけて、藍輝は眉を寄せた。
「どうした?泣くようなこと、ないだろう?」
藍輝もそっとタイルに膝をついた。視線を合わせ、じっと雪人の顔を覗き込む。
「いや……」
雪人はいやの一点張りだった。藍輝がどう声をかけようが、いつものようには懐柔されてくれない。
藍輝は仕方なくシャワーを止め、座り込んだままの雪人を抱き上げた。
「藍輝?」
これにはさすがの雪人も不思議そうに藍輝を見上げた。
「でかけよう……。どこでもいい。雪の好きなとこ連れてってやるよ。青山に、買い物にでも行くか?」
バスルームを出ると、藍輝は優しく雪人を下ろした。そしてバスタオルで雪人の体を包みながらできるだけ優しく囁く。
「どこに行きたい?」
恋人たちにわがままなど言わせない藍輝にとって、それは破格のサービスと言えた。
雪人も、藍輝の人となりを知らないわけではない。藍輝の提案に、あるいは気遣いに驚きを覚えるとともに、機嫌を直したようだった。それでも泣き濡れた瞳はまだもの言いたげに潤んでいる。
「雪に泣かれると、どうしていいかわからない」
藍輝は雪人の額に軽く口付けると、濡れた髪をタオルで拭いてやった。
「……約束、してくれる?」
雪人は、大きな瞳でじっと藍輝の目を見据えた。これだけは譲れないと、雪人の眼差しは、表情は、いつになく頑なだった。
「……わかったよ。約束する」
藍輝は、負けた、と言わんばかりに、ふっと表情を緩めてそう宣言した。
「絶対?」
雪人は顔を強張らせたままそう念を押す。
「ああ……」
「絶対、だよ」
「わかったよ」
藍輝が苦笑しながら頷くと、雪人はおずおずと藍輝の首に腕を回した。そして
「あと……」
と、甘えるような声で藍輝の頬に頬を寄せる。
「あと?」
藍輝はバスタオルで包んだまま、雪人の体を抱きしめた。母親に何かをねだる時の子供のような雪人が……たまらなく愛しい。
「指輪、買ってくれる?」
「指輪、ねぇ……」
あまり人から物をねだられたことがないせいか、藍輝はちょっとだけ首を傾げた。が、
「ダイヤ以外な」
と、笑って雪人の髪を撫でた。
うん、と弾むように頷いた雪人は本当に嬉しそうだった。
二人は着替えを済ませ、藍輝の車で外出した。指輪を買う、という目的ができたので、藍輝はたまに訪れる表参道のブランド店に雪人を連れて行った。
「こちらへどうぞ」
得意客でもある藍輝は、店内の奥にある個室に通された。雪人はこういった店にくること自体がないのだろう。いささか緊張した面持ちだった。制服ほどではないにしろ、私服の雪人もやはり幼く見える。雪人にしても、藍輝といる時は、できるだけ暗い色の落ち着いて見える服を選んではいたが、元が童顔なのでどうしようもない。それでも、せめて、一緒にいる藍輝が恥ずかしい思いをしないようにと、精一杯大人びた風を装っている。
藍輝は、そんな雪人の思いを知っている。もともと観察力の鋭い人間だから当然なのかも知れないが、藍輝にとって雪人は……綾瀬とは別の意味で大切な存在だった。
藍輝は店員に指輪を見せて欲しい、と告げた。タレントほどではないにしろ、藍輝の場合、顔を知っている人間も少なくはないだろう。それがこんな高級店で、明らかに学生とわかる少年に指輪を買っていたとなると、あまり外聞はよろしくない。藍輝にとっても、個室をあてがわれるのは気が楽だった。そして雪人も、周囲に気兼ねなく選ぶことができるだろう。
ただ一つ、藍輝にとって予想外だったのは、雪人がペアのリングを欲しがったことだった。が、今さら嫌とも言えず、藍輝は雪人の選んだ指輪を自分の指にもすることにした。
「外しちゃだめだよ」
自分の誕生石であるアメジストが埋め込まれたシンプルなリングを、雪人はひどく気に入ったようだった。右手の薬指にプラチナを輝かせながら、雪人は藍輝に笑いかける。
雪人には、どうしても甘くなってしまう……藍輝は苦笑しながら店を後にした。
藍輝は雪人にせがまれるまま、横浜まで車を走らせた。ゆっくりと暮れていく春の夕。二人は何度か訪れたことのあるイタリアンレストランで食事を済ませ、再び都内に戻ったのは、9時を過ぎてからだった。
終始上機嫌で子供のようにはしゃいでいた雪人が不意に黙り込んだのは、藍輝が雪人を家の近所のファミリーレストランまで送り届け、車を止めた時だった。
「藍輝」
シートベルトを外しながら雪人は静かに藍輝を見つめた。
「ん?」
藍輝はどうした、と雪人を見返す。
「ね、忘れないでね」
何を、とは聞けず藍輝は沈黙を返した。雪人はそっと藍輝の手を取り、
「雪だけの、藍輝になって」
大きな瞳で縋るように、しかしどことなく緊張した面持ちで、雪人はそんな情熱的な言葉を口にした。
藍輝の口元が、僅かにほころんだ。
「ああ……」
「約束、だよ?」
「わかってる」
雪人はじっと藍輝の目を見つめていたが、ふっと微笑むと
「大好き」
そう告げて、藍輝に触れるだけのキスをした。
「今日は、ありがとう」
「ああ」
「楽しかった」
ああ……と藍輝は応じながら、雪人の手をぎゅっと握った。雪人は、藍輝でさえくらくらするほど愛らしく笑い、おやすみ、と言って車を降りる。
「お休み」
藍輝は軽く手を上げ、雪人を見送った。
あるいは……こういう感情を、真に愛しいと呼ぶのかもしれない。
角を曲がる時、雪人はまた振り向いて、藍輝に大きく手を振った。
(可愛いやつ……)
綾瀬が決して持ち合わせていないような雪人の表情や仕草。本当は、雪人のような素直でいじらしいタイプが、自分の好みなのかもしれない。
そんなちょっとした幸福感に浸っていた藍輝の携帯電話が暗い車内で光を放った。
着信画面には、先月別れた女の名前が表示される。毎晩毎晩飽きもせず、と、藍輝は女性の執念と言うものにある種の尊敬の念を抱き始めていた。それとも、これこそ妄執と言うべきなのか。
そういえば……彼女は舞台で六条御息所の役を演じたことがあったが、あれははまり役だったなと、藍輝は不意に思い出した。
留守番電話に切り替えていない携帯電話は、いつまでも震え続けていた。
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