Cruel Love

西條寺 サイ

第1話

 シャツ越しに透けて見える白い背。いつ頃からだったか、綾瀬あやせは悲鳴を上げなくなっていた。それでも、行為の後にタバコを吸うのは止めなかった。

 この細い体の一体どこに、彼の強靭さは隠されているのだろう。知り合った冬からもうすぐ六回目の春を迎えようとしているのに、綾瀬は相変わらず謎めいていた。

 「……何見てるの?」

 大した興味もなさそうな声で、振り向かない綾瀬が問う。

 「綺麗な背中」

 藍輝あいきの答えに、綾瀬がふふっと笑った。

 藍輝は横になったまま、綾瀬の背へ手を伸ばす。シャツの裾からその手を忍び込ませると、そっと愛撫を始める。くすぐられるような感覚に、綾瀬は軽く首を仰け反らせた。

 「綾瀬」

 藍輝は上体を起こし、綾瀬を背後から抱いた。

 「あ」

 唇を唇で塞がれて……綾瀬はされるがままに抵抗しない。そして、瞳を閉じない藍輝の両目を白い手で覆う。

 くすくすと笑いながら、綾瀬が藍輝をベッドに押し倒した。吸い始めたばかりのタバコは、サイドテーブルの灰皿へと消える。綾瀬のゆったりとした動きに合わせ、その長い髪が藍輝の頬に一筋かかった。

 「いつまで、続けるつもり?」

 綾瀬の手が、藍輝の目蓋から頬へと滑り落ちていった。首をわずかに傾げた綾瀬は、じっと藍輝の瞳を覗き込んだ。吐息のような声は物憂げで、甘く、言葉の内容に反してうっとりとしていた。

 「足りないな、全然」

 「あいき……」

 今度は藍輝が綾瀬を押さえ込んだ。

 足りない……繰り返した唇は、綾瀬の唇を再び求めた。

 「俺がつけてない跡がいくつもあった」

 耳元で囁くギリギリの声。藍輝の囁きは低く、殺気立っているようにも聞こえる。

 「ソファの香水は、僕のじゃなかった」

 綾瀬は見惚れるほど綺麗な笑みで藍輝の言葉を封じた。

 恍惚とした沈黙。互いに何を思うのかわからないところが、二人には心地よかった。しかし、それと同時に、互いの思いは、今自分が感じているものの中に留まっていることもわかっている。だから見つめ合うことは最高の快楽。

 奪って、裏切って……全ては茶番だ。何もかも把握されたシナリオの上を滑らかに滑っていく物語と何ら変わりない。

 誘拐、監禁、強姦……そんな遊びから始まった二人の関係。全てはまるでママゴトのようなものだった。

 もがいて見える互いの中の自分、そして相手。苦しげな表情に見え隠れするのは、現実に飽き果てたという贅沢な痛み。どこか現実離れした関係も、遊びも全て一時の快楽でよかった。しかし、最近はそれにさえ飽き始めている。

 綾瀬が別れ話を切り出すようになったのは、いつからだったか。

 「ねぇ……もうすぐ六年も経つよ」

 快楽の在処を綾瀬の白い肌の上に探しながら、藍輝は柔らかで陰鬱な声を聞いていた。

 「だから?」

 「もう、僕を逝かせてくれない?」

 「……何度でも、いかせてやるよ」

 藍輝は冗談めかして笑う。笑わなければ、失う……。もう、ずっと前からそんな予感があった。綾瀬は、あるいは、とっくに自ら命を絶っていたとしてもおかしくなかった。

 「……飽きたよ。この世の快楽は全て知り尽くした」

 いつになく澄んだ瞳で、綾瀬は言った。吐息のように密やかな声には、底知れない絶望が滲む。

 純粋な愛情にも、背徳的な遊びにも、そしてこの世界に星の数ほどある、誰かにとっては価値のある諸々の出来事や、様々な物にも。

 生という、孤独な遊戯に綾瀬は飽き果てていた。

 ありえない遊びを体現してきた。それでも、まだ足りない。

 「……生きることに、飽きたって?」

 藍輝は綾瀬の虹彩に映る自分の姿を認めながら言葉を紡いだ。

 肯定の沈黙。物言わぬ綾瀬の唇は美しく、いつにも増して妖艶で、そして何故か、神々しくさえ感じられた。

 「人として生きることに飽きたんなら、もう一つしかない。物になればいい。一生、俺の玩具でいればいい」

 「あいき……」

 何という傲慢な囁き。衝撃的な言葉とともにもたらされた肉体的苦痛。綾瀬は首を仰け反らせ、小さく喘いだ。

 「どうして生きているだけでよしとしない?そこにあるだけで満足しない?快楽さえ拒絶するなら、一生苦痛だけを与えられて生きていくんだな……。俺が与えてやるよ。飽きたなんて言わせない。一生奴隷だ。いや……人間でさえない。死ぬまでお前は物になるんだ」 

 ぞくぞくするだろ?綾瀬の耳元にそう囁くと、藍輝は華奢な白い腕を捻り、きつく締め上げた。

 「ああっ!」

 綾瀬の悲鳴が空調のきいた室内に響く。

 「声を出すな。物が音を立てていいのは、壊れる瞬間だけだ」

 優しく諭すように微笑んだ藍輝を、綾瀬が見上げる。反抗的でも、憎しみに燃えるような眼差しでもない。苦痛を感じてはいるのだろうが、ひどく穏やかな色を綾瀬の瞳は湛えていた。

 隔てなくどこまでも心を許しあった恋人同士のように、二人は口付けを交わす。愛しげな仕草で互いの背に回された腕は、いつまでも離れなかった。

 やがて、唇が静かに離れた時、二人の口元を何かが赤く染めた。

 「……」

 無言で微笑みあった二人。綾瀬は乱れた長い髪を整え、藍輝は鮮血の滴る唇の端を手の甲で拭ったその時、突然の電子音が静寂を破った。

 ベッドサイドのテーブルに手を伸ばし、携帯電話を手にしたのは綾瀬だった。

 「もしもし?」

 「綾瀬?何してるんだよ?さっき電話したらすぐ行くって言っただろ?」

 「ごめん。行くよ、今から……。近くまで迎えに来てくれない?」

 「今からって……」

 「ね?お願い」

 媚びるような視線は目前の藍輝へ。遠い電話越し、仕方ないな、と声がした。綾瀬は藍輝のマンションからの最寄駅を指定し、電話を切った。

 それから二人は一言も口をきかず、それぞれに身支度を終えた。別れ際、藍輝の唇を綾瀬が舌先で軽くなめた。名残を惜しむことなく離れた二人。藍輝は呼び止めさえしない。別れは、いつもそれだけだった。

 エレベーターホールに綾瀬が着くと、見覚えのある顔とすれ違った。少年は露骨に顔を顰めると、綾瀬がやってきた方へ足早に向かった。

 なるほど、藍輝の好きそうな顔立ちをしている。目元が、誰かに似ていて……。綾瀬は口元だけを歪めるようにして微笑し、ゆっくりとエントランスを抜けた。


 綾瀬が駅に着くのと、雨が降り出したのはほぼ同時だった。迎えを待ちながらぼんやりと空を見上げると、寒い雨の日を思い出した。

 藍輝と初めて出会った日は、冬には珍しいような嵐だった。叩きつけるような雨と、横殴りの風。天上で何かが起こったのではないかと思うほど、雷鳴も稲妻も凄まじい午後だった。

 当時綾瀬は高校生で、藍輝もまた医大に通う学生だった。藍輝は仙台では有名な総合病院の院長の次男で、兄同様医大を出、医者になる予定だった。しかし、何を間違えたのか、実習の合間に書いた小説が文学賞を受賞し、そのまま文壇へと進むことになったのだった。

 当時のことはよく覚えている。藍輝はいつも眼鏡をかけ、白衣を身に着けていた。髪は真っ黒で、自然に伸びたような、それでいてだらしなくは見えないような長さだった。普段は無口で、何を考えているのか表情からは伺えない。ミステリアスで、どこか退廃的な色気を漂わせた藍輝は、男女問わずよくもてた。

 あの頃の藍輝はヘビースモーカーで、一日二箱はタバコを空けていたが、現在はタバコをやめている。もっともその影響は、綾瀬の方に残ったが。悪戯に綾瀬にタバコをすすめたのは、藍輝が初めてではなった。けれど、綾瀬がその誘いにのり、軽度の喫煙者となったのは他でもなく藍輝のせいだった。

 藍輝は……それでも、優秀な学生だったらしい。単に抜け目がないのか、あるいは綾瀬の想像以上に勤勉だったのかは定かではないが、藍輝は彼のゼミの中でも特に優れた成績で卒業したらしかった。

 綾瀬にとって藍輝は、初めて出会った理想の男性だった。知的で、品があって、しかし、ふと気付く遠いな目をしてどこかを見ている。他人にも世界にも自分にも興味はない、まるでそう言うように。ただの孤独とは違う、独りの世界に藍輝は住んでいるようだった。最初に惹かれたのは、たぶん自分の方なのだろうと綾瀬は密かに思っている。

 出会った頃、綾瀬は藍輝の友人の恋人だった。藍輝の高校からの友人で、女医を目指す遊び好きの女子大生。それが、潤子じゅんこだった。潤子は年下の綾瀬を綺麗な人形のように扱い、周囲に自慢したいが為にあちこちへと連れまわしていた。

 潤子はショートカットの、背の高い、細身の女だった。しかしやはりどこかに知的な雰囲気を漂わせていた。潤子と藍輝は高校からの友人だと聞かされていたが、その時の二人には遊び仲間という似通った空気は全くなかった。むしろ、対照的とも呼べるほどの隔たりさえ、綾瀬は感じていた。が、潤子が綾瀬を連れて行く先には、いつも藍輝がいた。藍輝はひっそりとタバコをふかしながら、珍しいものでも見るように、それでいて悪びれない微笑で綾瀬を迎えた。

 年下をオモチャにするなんて悪趣味だと、藍輝はいつも潤子に言っていた。もっともその口調には何の非難がましさも感じられなかったが。

 しかし、綾瀬は常に見られていることを意識していた。藍輝の視線はどこにいても、何をしていても、綾瀬を捕らえ、同時に戒めてもいた。他人にそうとは気取られないくらいそっと……。秘密を共有するような快感は、次第に綾瀬を虜にしていく。それは、一過性の好奇心だったけれど、それに慣れる前に、藍輝は二人の間に新たな遊びを提案した。藍輝は機転が利くし、何より頭が良かった。そして、創造のエキスパートでもある。

 学校からの帰り道、見慣れない車が綾瀬の行く手を阻んだ。

 運転手は、藍輝。乗れよ、と短く命じた声が、痺れるほどセクシーだった。ツーシーターの狭い車内にはタバコの微かな香りと、藍輝の香水。

 綾瀬は何を言うべきか、どう切り出すべきか戸惑って、藍輝の横顔を見つめていた。

 「潤子に……」

 視線を正面から受け止めることはせず、藍輝は思い出したように口を開いた。

 「潤子に、お前を迎えに行くように頼まれた」

 綾瀬の胸には軽い失望。突かれたような衝撃に、綾瀬は何を期待していたのかと、内心で自分を笑った。

 「がっかりしたか?」

 見透かすように藍輝は言った。

 いつになく楽しげな瞳で綾瀬を見る。

 「……」

 唇が触れ合うまでは一瞬だった。

 二人とも目は閉じなかった。間近に見つめ合い、互いに相手を観察している。藍輝は口元だけで微笑し、再び前を向いた。

 「お前、いい度胸してるな」

 野性的な表情は、藍輝を一番魅力的に見せる。しかしそれ以上何も言わず、藍輝は車を走らせた。

 行く先には、何が待っているのか、綾瀬には見当もつかなかった。向かっているのは、いつものラウンジ?レストラン?バー?ホテル?そしてそこに潤子たちはいるのだろうか。

 「どこに?」

 痺れを切らしそう尋ねた綾瀬を、藍輝はミラー越しに見た。

 「答えたら、誘拐にならないだろ?」

 冗談とも本気ともつかない藍輝の答え。綾瀬はそれ以上何かを聞き出すことを諦め、シートに深く身を預けた。


 どのくらい走ったか、綾瀬の知らない景色がまだの外を流れていった。藍輝は道路沿いの大きなビルの地下へ車を滑り込ませた。

 「降りろよ」

 短く告げ、綾瀬の先を歩いていく。藍輝は振り向きもしない。綾瀬がついてくることを確信しているかのように。

 エレベーターで二十階へ。藍輝は一言も口をきかず廊下を進む。綾瀬もただ、藍輝に続いた。

 突き当たりの部屋に、表札は出ていない。キーホルダーには、何本もの鍵。藍輝はその内の一本を迷わず選び出すと、ドアを開けた。

 「入れよ」

 そう綾瀬を促し、自分は後から続く。後ろ手に鍵を閉めると、藍輝は綾瀬を見下ろした。

 「ここは……?」

 綾瀬は自分を見つめる視線を振りほどこうと、室内を見渡した。玄関から続く広い部屋には、応接用のテーブルセットと、その奥に大きな机が置かれているだけだった。

 「事務所。俺の叔父貴の。今は使ってないけどな」

 「あ……」

 突然背後から抱きすくめられ、綾瀬は動きを止めた。

 「携帯、通じないんだ、ここ……。逃げられないぜ?」

 耳元に囁かれ、綾瀬は思わず藍輝の腕に抗った。

 「藍輝さん、待って……」

 室内に強引に引きずり込まれ、綾瀬もさすがに不安を覚えたが、藍輝はお構いなしといった様子で、綾瀬を奥の部屋へと連れこんだ。

 「待ってください、僕は逃げませんよ」

 薄暗い部屋。仮眠用なのか、狭い部屋の片隅にはパイプベッドが置かれている。

 「藍輝さんっ」

 綾瀬の制服のジャケットを脱がすと、藍輝は綾瀬を小さなベッドの上に突き飛ばした。

 「いやだ」

 「いやだ?」

 綾瀬にのしかかった藍輝は意地悪げに微笑む。

 「本当に嫌なのか?こんなこと、されたかったんだろ?」

 綾瀬は息をのむ。藍輝は、もう笑ってはいなかった。

 「お前はいつも俺を見てた。潤子といる時もだ」

 綾瀬のネクタイを丁寧に外し、今度はそれで綾瀬の両手を縛り上げる藍輝。

 藍輝の凶暴で恍惚とした眼差しを、綾瀬は呆然と見つめた。

 「男とは?」

 藍輝から目をそらした綾瀬。

 「経験済み、か」

 どこかがっかりしたような呟き。綾瀬が不思議に思って瞳を上げると、唇が重なった。

 「ん……」

 先ほどよりもずっと深い口付け。綾瀬が逃れようと身じろぎしたが、藍輝の力強い腕はそれを許さなかった。

 「っ!」

 顔を離すと、綾瀬の口元に赤い滴が伝った。

 切れた唇を舌で軽く舐め、藍輝は口元だけで微笑した。

 首筋、胸、腹、腰と、次第に下降していく藍輝の大きな手は、綾瀬をゆるゆると追い詰めた。

 「もう感じてるのか?」

 意地の悪い言葉を囁きかけながら、藍輝は綾瀬のベルトを外した。 声を聞かれることを頑なに嫌がった綾瀬のあごを、藍輝は片手で掴み

 「声を出せ」

 と、熱っぽく命じた。

 「ああっ」

 耐え切れずにもれた嬌声と、悲鳴を、綾瀬は恥じた。しかし、聞かれることによって自身がひどく興奮することにも気付いていた。

 「濡れてるな」

 藍輝は綾瀬の羞恥をいっそう煽るように、視線を合わせながら囁く。低くかすれた藍輝の声は、綾瀬にさらなる快感をもたらした。

 「……綾瀬」

 ふと瞳を細めた藍輝は、あごをつかんでいた手を、綾瀬の頬に滑らせた。

 「誘ってるのか?」

 「なに言って……あっ」

 「そんな目で……そんな潤んだ目で……何をねだってる?」

 「……何も」

 熱に潤んだ眼差しを可能な限り尖らせるようにして、綾瀬は気丈にも唇を歪ませて笑った。

 「そうか。お前には、手加減なんて必要ないな」

 藍輝は満足げに綾瀬の髪を撫で、

 「覚悟しろよ」

 そう凶暴な笑みを浮かべた。


 抗議の言葉を口にする間もなく、綾瀬は意識を手放してしまった。

 藍輝はベッドに腰掛けるとタバコを吸い始めた。

 乱れた髪、投げ出された手足。白い肌にいくつもの痕跡を残しまま……。

 綾瀬のことは一目見た瞬間から気に入った。潤子が自分と別れたことにも頷けた。

 そしてすぐに悪い癖が出る。欲しいと思ったものは手にいれずにはいられない。それもひどく回りくどいやり方で。相手からこの腕に、この手中に飛び込んでくるように仕向ける。いくつも罠を張って、待ち伏せる。最後は、きっかけだけを与えてやればいい。

 綾瀬は素晴しい逸材だった。退屈しない。そして、綾瀬が退屈することもないだろう。

 平手で打った頬が、僅かに赤くなっている。それでも綾瀬は逃げなかった。反抗的な眼差しに挑発されたのは藍輝の方だ。二人ともすぐに夢中になる。ゲームだと、お互いに確信していた。

 壊したくなる。けれど、愛したい。違う……本当は弄びたいだけなのかも知れない。

 ただ欲しい。細胞の一つ一つにまで自分の名前を叫ばせたい。

 綾瀬は今までで最高の素材。顔も体も声も性格も、何もかもが気に入った。

 「……わかるか?」

 藍輝は寝顔にそう語りかける。

 返らない答え。微かな寝息。静かな表情。綾瀬は既に知っているのだろう。藍輝に、心から愛されていることを。だから恐れない。だから怯えない。

 こんなにも分かり合える相手もいない……。

 どうしようもない、甘い疼きだった。

 意識のない綾瀬の綺麗な顔。藍輝は乾いた唇に何度となく舌を這わせた。悪戯だったか、ささやかな反抗のつもりだったか、綾瀬に噛み切られた唇の端が妙に痛痒い。

 床に脱ぎ捨てた衣類を身につけると、藍輝はタバコをくわえたまま立ち上がり、綾瀬の制服を拾ってハンガーにかけた。しかしシャツだけは、藍輝が申し訳なく感じるほどにシワだらけだった。責任を感じてか、あるいは根がまめなせいか、藍輝はクローゼットからアイロンとアイロン台を引っ張り出した。タバコを灰皿代わりの空き缶に押し込み、コードを差し込む。しばらく待つと予熱が完了したことを知らせるアラームが鳴った。

 薄暗い室内に、その電子音はひどく大きく響いた。綾瀬に背をむけたまま作業を始めた藍輝は、綾瀬が目覚めたことに気付かなかった。

 一方の綾瀬は妙な気配に目を覚ました。わずかに上昇した室内の温度を感知したのかも知れない。瞬きを繰り返し、ようやくはっきり見えたのは藍輝の後ろ姿。床に座り込んで一体何をしているというのだろう。

 「あい、きさん……?」

 「目が覚めたか?」

 かすれた声を聞き逃さず、背中で藍輝が答えた。

 「何して……?」

 綾瀬がそう問いかけると、藍輝はアイロンを片手に振り向いた。

 「何してるように見える?」

 「……」

 引きずるように上体を起こした綾瀬。藍輝は再び背を向けた。

 本の少し前に自分を犯した男が、今は目の前で自分のシャツにアイロンをかけている……。綾瀬は、かけるべき言葉も見つからず、ただ藍輝の背を見ていた。

 「よし」

 そう言うと藍輝は、シャツを片手に立ち上がった。そして手にしていた綾瀬のシャツを、制服をかけてあったハンガーに重ねた。

 「何だよ、その顔」

 ベッドに腰かけた藍輝は、綾瀬の顔を間近に覗き込んだ。

 「おかしな人ですね」

 綾瀬は思わず噴き出し、藍輝から視線を逸らした。

 「その顔」

 「え?」

 「すげぇそそる」

 藍輝が、また凶暴な表情をした。

 「ちょ……藍輝さん」

 抱きかかえられるように押し倒され、綾瀬は首を仰け反らせた。

 「お前、いい声してるな」

 首筋に口付けられた綾瀬の短い悲鳴を聞いた藍輝が、低く囁いた。

 「やめ……」

 「ぞくぞくした」

 「あ……」

 与えられた愛撫に逆らうことはできない。綾瀬は藍輝の腕をつかんだ。

 「どうした?」

 不意に顔を上げ、綾瀬を見つめる藍輝。

 「どうして?」

 眉間にしわを寄せた藍輝のかすれた声が問う。

 「どうして?」

 「どうして、こんなこと?」

 苦痛なのか、綾瀬の表情は歪んでいた。

 「愚問だな」

 「ん……藍輝さん……」

 慣れた藍輝の指が、悪戯に綾瀬の体を撫で上げる。綾瀬は身を捩り、しかし藍輝から視線を逸らすことはしなかった。

 「愚問だ。……わかりきったことをきくな、女じゃあるまいし」

 意地悪く微笑んだ藍輝。

 鼻先を触れ合わすように顔を寄せ、藍輝は綾瀬と唇を重ねた。それは、今まで一番優しいキス。藍輝の指は綾瀬の髪をくすぐるように弄び、ゆっくりと頬に触れた。

 身も心もとけそうに巧みなキス。綾瀬は目を細め、ぼんやりとした視界の中に藍輝を見つめていた。

 「行くぞ」

 「え?」

 唐突に体を離し、藍輝は綾瀬を見下ろしながらそう告げた。

 「言っただろ?潤子に言われて迎えにきたって」

 「本当、だったんですか?」

 「ああ。俺もそれほど暇じゃない」

 よくもそんなことが言えたものだと、綾瀬は呆れた表情で藍輝を見上げる。

 「立てない、なんて言うなよ」

 ベッドから降りる気配のない綾瀬へ、藍輝は片手をのべる。本気で案じているわけではないのだろう。口元の微笑は藍輝が面白がっていることの証だった。

 綾瀬はシーツで体を覆うようにしながら片手で藍輝の手につかまった。

 慎重に体を起こし、床に足をついた途端、あっと、呻いた綾瀬の体を、藍輝の腕が抱きとめた。

 「か弱い姫だな、まったく」

 嘲笑のようにも聞こえる声で藍輝は囁き、しかし一方では愛しげに綾瀬を抱きしめる。

 どれくらいそうしていたか、二人は薄暗い部屋の中で沈黙を守り続けた。やがて、耐えるように瞳を閉じていた綾瀬が目を開けた。

 「もう、平気です」

 そう、綾瀬が藍輝の胸を押し返した。間近で見上げた藍輝の瞳は、初めて見るような切ない色を湛えていた。驚いた綾瀬が声を発するより早く、藍輝の唇が綾瀬の唇をふさいだ。

 綾瀬は抗うことなく、藍輝の背に腕を回した。藍輝は、綾瀬の頬を撫で、いたわるように腰を抱く。

 それは綾瀬にとって、穏やかな時だった。誰より深く心を許しあった恋人同士のように、甘い、親密な時間。そしてそれは、藍輝にとっても同じだっただろう。

 藍輝の大きな手の温もりに綾瀬は安らぎを覚え、綾瀬の冷たい肌の感触を藍輝は楽しんだ。

 それでも二人は、いつの間にかごく自然に体を離し、それぞれに身支度を始めた。 

 車に乗っても、二人に会話は皆無だった。まるで、言葉はただ互いを空しくするだけだと、暗黙の了解がなされているかのように。

 「綾瀬」

 藍輝が口を開いたのは、目的地も間近になってからのことだった。

 赤信号で停止しても自分の方を向かない藍輝の横顔を、綾瀬は黙って見つめた。

 「辛いか?」

 「え?」

 思ってもみなかったいたわりの言葉に、綾瀬は耳を疑った。

 「顔色が悪い」

 ゆっくりと綾瀬を見、藍輝は言った。まるで別人のような真摯な瞳を、その時の藍輝はしていた。

 「平気です」

 綾瀬は驚いたように正面を向き、早口にそう言った。

 そうか、と藍輝の呟きが微かに聞こえた。そしてそれが、二人が車内で交わした唯一の会話だった。


 「遅かったじゃない」

 藍輝たちが溜まり場にしているカフェバーには、綾瀬もよく見知った顔が並んでいた。赤いルージュも艶やかな唇を尖らせるようにそう言いながら二人を迎えたのは潤子だった。

 「俺もそれなりに多忙でね」

 「そう。ご苦労様、ドライバーさん」

 潤子は指にタバコを挟んだまま立ち上がり、目を細めて藍輝を見た。と、傍らの綾瀬に目をやった将人が 

 「お前、どうしたんだ?そっち側、赤くなってるぞ?」

 綾瀬の頬を見咎めてそう声をかけた。

 「やだ、どうしたの?顔に傷なんて……見せて」

 潤子は年下の恋人を自分の隣に座らせると、わずかに腫れているような綾瀬の頬に手をかけた。

 「藍輝、あんたまさか何かしたんじゃないでしょうね?」

 潤子はきつい眼差しで元恋人を睨んだ。

 藍輝は軽く肩を竦め、ソファの背もたれに寄りかかった。

 「藍輝さんは関係ないよ。ちょっと……学校で」

 険悪になった空気に居たたまれなくなったように、綾瀬が言った。

 「だ、そうだ」

 藍輝も我関せず、といった様子でタバコを吸い始めた。

 「お前でも喧嘩なんかするのか?」

 将人は可笑しそうに綾瀬を見、隣の晋司も

 「女にひっぱたかれたんだろ?」

 と、茶々を入れた。

 周囲は、二人の間にあった出来事など想像もつかないようだった。潤子でさえ、もう……と言ったきり、それ以上追求しようとはしなかった。

 「……どうした?」

 綾瀬に皆の意識が集まった時、藍輝だけは無表情に携帯電話を相手にしていた。藍輝は携帯の着信音が煩わしいらしく、常にバイブレーションモードに設定している。その上、電源を切っていることも多く、なかなか繋がらないと苦情が耐えない。その理由は、放っておくと着信が鳴りっぱなしになるからだ、と仲間内では実しやかに噂されていた。かかってきた電話には出たがらない藍輝が、画面を見、表示された名前を確認してから電話をとったのは、珍しい出来事だった。

 「何だよ、新しい女か?」

 「マジ?いいよな。もてる奴は。俺なんか医大って肩書きなきゃ女がついてこねーよ」

 「ばか、んなもんあったてついてくるかよ」

 昔の男にも多少は関心があるのだろうか。潤子は冷めた目でじっと藍輝を見つめた。そしてその傍らで……綾瀬は不思議な苦痛を感じていた。

 「いや、別に……」

 藍輝はタバコを灰皿に押し付けながら、そう言った。

 一番傍にいた晋司が藍輝の携帯に耳を近づけ

 「やっぱり女だ」

 と、仲間たちに告げた。

 「ああ」

 藍輝はふらりとその場を離れると、相槌を打ちながら店の壁にかけられていた時計を見た。

 「藍輝あんだけ遊んでんのに恨まれないって言うから凄いよな」

 「俺恨まれても可」

 「俺も」

 綾瀬は今更ながら、自分がいかに藍輝のことを知らないかを痛感した。それこそ先ほどの出来事は……藍輝の気まぐれで、単なる遊びだったのかもしれない。そして、今、他の女たち同様、あんなことがあったにも関わらず、藍輝を憎めない自分自身にも気付いていた。

 「今日、帰るわ」

 藍輝はまたふらりと戻ってきて、それだけしか言わなかった。

 「どこの女?」

 晋司が問うと

 クラブと、藍輝は短く答えた。

 「はぁ?お前どうやって知り合うんだよ?」 

 「クラブ?クラブじゃなくて?」

 「そう。ホステスの方」

 事も無げにそう言うと、藍輝は行ってしまった。綾瀬に声をかけるどころか、視線さえ向けはしなかった。

 「やーな感じ」

 「お前人のこと言えないじゃん」

 多少なりとも気分を害されたらしい潤子に、将人が笑いながら言った。

 「まあ、そうなんだけど。あいつ、昔から派手な女好きなのよね」

 潤子は新しいタバコに火をつけ、

 「でも今はアヤがいるからいいの」

 と、片目をつぶって見せた。

 綾瀬は曖昧に笑い、藍輝が消えていったドアに視線を向けた。置き去りにされたような絶望感が、その時の綾瀬を支配していた。

 あの腕が、あの声が、これから別の人間を抱くのだろうか……。そんな意味のない考えを綾瀬は抱き、それから隣の潤子を見た。形のよい、少し厚めの女の唇に綾瀬が覚えたのは、紛れもない、嫉妬だった。

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