第12話
5つ目の缶に1000枚目のデッサンをしまったまさにその次の朝、豹は誠一にもらった中古のスーツケース一つだけを持って玄関をくぐった。
いつもと何も変わらない朝の、いつもと何も変わらない豹のあくび。二度と会えなくなるということが、尚矢には信じられなかった。
涙は出なかった。豹はまたふらりと戻ってくるのではないか、そんな気がしてならなかったから。気まぐれな猫のように。ほんの少しだけいつもより長い散歩に出かけるだけで、ほんの少しだけいつもより遠くへ遊びに行くだけで、本当に、ただそれだけのことに思えた。
「これ、お前にやるよ」
そう言って豹が差し出したのは、既にぼろぼろになった野球ボールだった。
「これ……」
「何かムカつくことあったら裏の壁に投げてみろよ。意外とすっきりする」
「……ありがとう、ございます」
「お前荷物そんだけなの?」
誠一がそう確かめると、豹はうんと明るく頷いた。
「いらないもんはだいたい処分したから。紙と鉛筆と、あと着替え?そんだけあればどうにでもなるし。俺、元々路上生活してから。だいじょぶだいじょぶ」
「おい」
心配させるなと表情を曇らせる日向に平気だよと豹は告げた。
「じゃ、ちょっと行ってくる」
何でもないことなのだと、豹は無言で囁く。それは永遠の別れではなくて、束の間、お互いの顔が見られなくなるだけのこと。本当に、ただそれだけ。
「気をつけて行ってらっしゃい」
「おう」
「無茶すんなよ」
「へいっ」
「豹……ほんとに」
言いかけた日向は少しだけ苦しそうに言葉を飲んで、多くの中からたった一言を選び出した。
「元気で」
「お前もなー」
豹の底抜けの明るさが、湿っぽくなりそうな雰囲気を和ませる。どこまでも付いてきそうな3人に、ここでいいって、と豹が笑う。
「またな」
翳りのない豹の笑顔に、それ以上何も言わずに三人は、それぞれ旅立つ人を見送った。
ガラガラと音を立ててスーツケースを引く後姿が少しずつ遠ざかっていく。しばらく行ってから豹は片手を高く突き上げて、振り向かずに腕を大きく振った。
小さな日溜りの中にいるような心地で、尚矢は大きく手を振り返した。
〈完〉
氷点下の日だまり 西條寺 サイ @SaibySai
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます