第11話
家を出てきたものの、日向には特に行くあてもなかった。先に飛び出した豹のことが気がかりではあったが、そのうち戻ってくるだろう。
風は生温かく、昼間の湿気を含んだまま、時折どこかの軒先の風鈴を鳴らした。見上げた空には月が浮かんでいる。満月から少し欠けたところか、間もなく満月になるところか、日向には判断できなかった。
豹が、もうすぐだと言って微笑んだ時、自分の中で何かが壊れた。自分でも触れないよう、壊さないよう、必死に守ってきたものが不意に崩れたような感覚だった。豹が描き続けている図案が、無性に憎かった。こんなものがなければ豹はどこにも行かないのに。そんな理不尽な怒りがこみ上げた。怒りにまかせて自分があの絵を放り投げた時、豹は怒らなかった。ただ、自分に聞こえるように、尚矢に話しかけた。
これは俺の命だと、そう言った。
自分は、豹の命を放り投げたのだろうか。寸前のところで、破り捨てようとしたのだろうか。そう考えると、喉の奥が締め付けられるように苦しかった。豹は、傷ついただろうか。
炎に惑い、焼かれていく虫の絵。あれは豹そのものだと見た瞬間に感じた。そこにあるのは生の苦しみであって、死への恐怖ではない。命が焼き尽くされるのではない。命に焼き尽くされていくのだと、そしてそれは悲劇ではないと、豹の声が聞こえてきそうで、豹に告げられるのが怖くて、これは図案じゃないと、つまらない言い訳をした。豹はそれを見抜いて、自分の気が済むまで不毛な言い争いに付き合ってくれた。それでお前が満足するならそれでいい、そう言いたげな目をしていた。
あてもなくさ迷っていると、小さな公園が見えてきた。駅の反対側まで来たのかと、不意に冷静になる。公園からは規則的に軋んだ音が聞こえてくる。豹がそこにいるのではないか、日向は直感した。
「……」
公園の入り口からはすぐ右手にブランコが見えた。座ってブランコをこぐ人影は遠くの一点を見つめているようだった。月明かりに浮かび上がる端正な横顔。一見しただけでは性別を判じ難い、どこか神秘的でもあるその横顔は、やはり豹のものだった。
いつからそうしていたのか、豹は飽くことなくブランコをこぎ続けていた。それは、彼が家の裏で壁とキャッチボールをしている時と同じ、孤独な遊戯だった。キャッチボールの時は、後ろ姿しか見たことがない。けれど今は月明かりの下、豹の表情がはっきりと読み取れる。
そんな豹の顔を見るのは、出会ってから二度目だった。初めて見たのは、日本に帰って半年ほど経った頃だ。あの時豹は庭で、何かを燃やしていた。泣き出しそうな顔をしていたから、声をかけることさえできなかった。後から何をしていたのかときくと、写真を燃やしていたと豹は答えた。パスポートと一緒に持ちだした写真だと言った。見たかったと言った自分に、見せられる写真じゃなかった、豹は冗談のように答えたけれど、あの時の自分の言葉は豹を傷つけたのではないかと、時折苦く思い返された。
日向は唇をかんだ。豹はいつも何かに耐えている。その重みも痛みも、誰に打ち明けることもなく、ただ一人で抱え込んでいる。そして、自分たちにはいつでも笑って見せる。楽しいと、幸せだと、無言でそう訴えかけてくる。
一人のキャッチボール。不規則に響くボールの音が、いつ止まるともないブランコの軋みに共鳴する。切なさが、日向の胸を覆った。
「豹!」
かける言葉を用意する前に、日向はその名を呼んでいた。
豹は驚いたように日向を見た。その顔は安堵するようにすぐにほころんだ。
「豹……悪かった」
自分に駆け寄ってきた日向を豹はブランコから飛び降りて迎えた。
帰ろう、日向の言葉に豹は黙って頷いた。
月が照らす夜道を二人はゆっくりと歩いた。何を話し合うわけでもない。静かな夜の散歩が暫く続いた後、ヒナと、前を行く豹が振り返らずに呼んだ。
「お前全然気づいてないみたいだけど、俺はヒナに生かしてもらったんだ」
「豹?」
ありがとう、豹は静かな声で告げた。
「何だよ急に」
不安げに掠れた日向の声に豹は立ち止まって振り向く。
「ずっと、言いたかった。俺が、どれだけ感謝してるか」
やめろよ……日向は豹から顔を背けた。それ以上聞きたくないと、無言でそう告げる。その言葉の先は全て、望まない未来に続いている。日向はうなだれて目を閉じた。
「お前とロンドンで会って、日本に帰ってこれて……あれって俺にとっては、革命みたいなもんだった。一人じゃ、絶対できなかった」
ヒナ、と豹が呼ぶ。彼にしか呼びえない、優しい余韻が夜の中に溶けるように広がる。ヒナともう一度呼ばれ、日向はゆっくりと顔を上げて豹を見た。
「認めてくれよ。あん時みたいに。俺が生きてたこと……ここに、いたこと」
言葉にならない思いで、日向は豹を抱きしめた。そんな風に二人が触れ合うのはそれが初めてだった。小さい身体だと、日向は改めて感じた。それなのにいつも、豹の笑顔は、存在は、自分の中の不安を打ち崩し、力強く、頼もしく自分を包んでくれる。それが、失われるなんて……耐えられるわけがないと日向は豹を抱く腕に力を込めた。
「ヒナ……俺がいなくなっても、悲しまないで欲しい。お前が悲しむことが、俺は一番悲しいから」
「だったら、どこにも行くなよ……どこにも行かないでずっと、ずっと一緒にいればいいだろ?尚矢はどうすんだよ?お前が弟子にとったんだろ?やぶ医者だって、患者が一人減ったら、きっと困る」
日向の大きな背中を豹が掌で優しく撫でる。
「一緒にいたら、最後はもっと悲しくなる」
「そんなことあるわけないだろ?」
勢いよく顔を上げた日向を、豹は優しい眼差しで見上げた。そこには、憐れみも悲しみも何一つ浮かんではいなかった。ただ全てを受け入れる穏やかな光が宿っていた。雲間から差し込む光が生み出す、小さな日溜り。そんな温もりを、日向は豹の眼差しからいつでも感じ取っていた。
「自分が少しずつ動けなくなってくのを、少しずつ弱ってくのを、俺はヒナに見せたくない。元気なうちに離れれば、お互いいくらでも想像できる。どこかで元気にやってる。どこかで楽しく暮らしてる。離れてるけど、お互いのこと考えて、きっと幸せでいる。そう思えることが、どんだけすごいか、お前わかってないの?お互いのこと考えれば、どこにいたって一緒だろ?考えた瞬間は、いつだって一緒だろ?」
違うのかよ、そう言って豹は日向の頬を両手で包み込んだ。
「だけど」
「尚矢も誠一さんも大丈夫だ。俺は、お前のことしか心配してない。お前が、ちゃんと俺の生き方を認めてくれたら、そしたら、もう安心して行ける」
「豹」
その小さな体に縋りつくように、日向はその場に膝から崩れた。
「俺たちは、ずっと一緒だ。どこにいても、何をしてても。ちょっと離れたくらいで切れるとか、マジ、なめんな」
いつもと同じ口調で、いつもと同じ声で豹は言う。そして蹲ったままの日向の背後にそっと回り込んだ。
「おい、何して……」
「肩車。家まで肩車で帰れ」
「ふざけてんのか?」
「ふざけてない。いや、これはふざけてるけど。いいじゃん、無駄にでかいんだからその身体、ちょっとは生かせよ」
立った立った、と背中を平手で叩く豹に日向はうなだれ、やがて少しずつ笑いだした。
「普通するか?20過ぎた男が肩車って」
「他の奴がしなくても俺はする。うわっ、たっけー。お前っていつもこんな視界なんだ」
「よく考えろよ……そんな高くねぇ」
頭の上でげらげらと笑う豹を乗せ、日向は本当に家まで走って帰った。途中、超楽しいと叫ぶ豹の声が住宅街に響き渡った。
家の前で出迎えた尚矢と誠一はさすがに唖然とした様子だった。
「奇声が聞こえたから何かと思えば……お前らいくつだよ?こんな時間に近所迷惑とか考えないのか?」
「だってヒナが俺をどうしても運びたいって言うからさ」
「言ってねぇし」
勢いよく日向の肩から飛び降りた豹が、その広い背を掌で叩く。
「ご苦労!」
「おい、お前こそなめんな」
日向の脇をすり抜けた豹が高笑いしながら家に入っていく。尚矢と誠一は顔を見合わせた。何があったかはわからないが二人は和解したらしい。
「家に入るのが一番遅かった奴、全員にガリガリくんおごりな」
「何だよそれ」
玄関から顔を出した豹がまた突然妙なことを言い出す。
ガキか、と言った日向を無視して尚矢は玄関に駆け込み、誠一がそれに続いた。
「よし。ヒナのおごり。そのまま右向け右でコンビニ行ってこい!」
「いい加減にしろよ」
うんざりしたような日向を、早くと豹が急かす。いつもが戻ってきたと尚矢は安堵した。この楽しい時間がいつまでも続けばいい。そう心から思った。
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