第10話

 その日、夕食に誠一は現れなかったが、急患でも入ったのだろうと日向は気にする様子もなく3人は食事を終えた。

 後片付けを終え、少し仕事がしたいと店に出ようとした日向を豹が呼び止めた。

 「これ、新しいの」

 「ああ」

 キッチンから出てきた尚矢も、豹が日向に手渡した図案を後ろから覗き込んだ。スケッチブックから切り取られ、端も綺麗に処理されている。それはそのまま額縁に入れられそうなできの、炎に焼かれる蛾の絵だった。

 何度見てもすごい絵だと、尚矢はため息が出そうだった。タトゥーの下絵とは思えないダイナミックなデザインと色彩。それは一枚の絵画だった。

 豹は特に感想を求めるでもなく、日向も黙って一枚ずつ絵を見つめた。尚矢はふと、いつにない緊張を感じた。豹が日向に新しいデザイン画を見せているところに居合わせたことは何度かあった。しかし、これほどぴりぴりした空気を感じたのは初めてだった。言葉にならない険悪な沈黙を最初に破ったのは豹だった。

 「それで、990枚。よく描いただろ?」

 いつもと同じ声の調子で、豹は軽くそう言った。しかし、ゆっくりと顔を上げ豹を見つめた日向は、これは、と低い声で呻いた。

 「これは、図案じゃねぇ」

 「何でだよ?」

 「これは図案じゃなくて、ただの絵だ」

 「下絵におとす時には線をもっとシンプルにする」

 「そういう問題じゃない。これはなしだ」

 「なしってなんだよ?」

 これは図案ではない、日向が言ったのと同じことを尚矢も感じていた。しかしこれまでにもそのままではタトゥーにならないようなデザイン画もあった。いつもなら早々に諦める日向が珍しく、今夜は譲る気がないらしい。二人は尚矢の目前で言い争いを続けたが、二人の主張はことごとくかみ合わない。これほど不毛な口論を二人がするのは、尚矢が知る限り初めてだった。

 膠着状態が崩れたきっかけは、豹の一言だった。

 「約束は約束だ。それで990枚だ」

 「約束?そんなのお前が勝手に決めたことだろ?」

 「ああ。俺が勝手に決めた。で、それの何が悪いんだ?」

 「悪いとは言ってないだろ?下らねぇって言ってんだよ」

 こんなもの、と日向は紙の束を宙に投げた。

 「日向さん!」

 「てめぇ……」

 絞り出すような豹の声。激昂するかと尚矢は思った。けれど豹はそれ以上何も言わず、日向が投げ捨てたデザイン画を一枚ずつ拾い始めた。尚矢も自分の足元に落ちていた分を拾って集め、豹に手渡した。豹は尚矢の思いの外落ち着いた様子で、礼を言うように軽く頷いた。

 「何か言えよ」

 豹に背を向けたまま日向が掠れた声で呟く。

 「……何か」

 再び重苦しい沈黙が訪れた。尚矢にはどちらにかける言葉も、その場をおさめる為の言葉も、何一つ浮かんでこなかった。ここに誠一がいてくれればと、これほど願ったことはなかった。

 「お前、これ何だか知ってるか?」

 「え?」

 豹は紙の端を揃えながら尚矢にきいた。

 「命だ。俺の」

 豹は笑って絵の束を尚矢の手に押し付けた。

 「豹さん」

 追いかけられることを拒絶した小さな背中。豹はそのまま家を出ていった。

 無言で立ち続ける日向と二人で取り残され、尚矢は仕方なく、豹が持ってきた缶に蛾と炎の絵を戻した。焼き菓子が入っていた大きな缶だ。これと似たような入れ物が他に4つあり、それぞれ豹の描いたデザイン画でいっぱいになっている。この缶には、あと10枚しか、新しい図案は追加されないのだろうか。蓋を閉めながら不意にそんなことを思った。

 「おう、どうした?今豹が出てったぞ?」

 ちょうどその時、尚矢が待ちわびてやまなかった男が現れた。遅きに失した感は否めなかったが、その登場に尚矢は少しだけ救われた気がした。

 「何だ?喧嘩でもしたのか?おい、日向」

 誠一を押しのけるようにして日向も部屋を出ていく。豹を追いかけてというわけではないだろうが、やはりそのまま家を出ていってしまった。

 「どうした?」

 缶を抱えて立ち上がった尚矢に誠一が問う。それでも何があったかは察しがついているという顔をしていた。尚矢は誠一がやってくるまでの出来事を手短に話した。

 「まぁ、そんなことだろうと思ったけどな」

 誠一はやっぱりかという顔でため息をついた。

 「最初から、わかってたことなのにな。まぁ、そん時になってみなきゃ、人間には覚悟なんてできない」

 そんなものかと、尚矢は俯いた。豹と日向は、何だかんだ言いながらも兄弟のように、家族のように仲が良かった。いつもは豹のわがままを日向が全て受け止めている。日向があんなに怒ったのも、豹がそれに対して怒らなかったのも、尚矢には意外だった。

 「お前さっきから何抱えてるんだ?」

 そう言えばと尚矢の腕を覗き込んだ誠一。

 「あ……これ、豹さんが描いた図案です」

 「ああ。1000枚まで描くって言ってたあれか。そんなもんにしまってたんだな」

 誠一は缶の上の方に指先をかけ、撫でるようにそっと動かした。

 「急患で、飯まだ食ってないんだ。何かあるか?」

 「ありますよ。夕飯、誠一さんの分もあったから、残ってると思います。今用意しますね。茶の間で待ってて下さい」

 「おう。悪いな」

 大切そうに缶を抱えて店の方に向った尚矢を誠一は見送った。尚矢がここにやってきたことによって、豹と日向の関係は少し変わった気がする。豹は、あるいはそれを望んでいたのかも知れないと不意に思う。

 わかってたことじゃなかったのか、と誠一は内心でため息をついた。しかし、日向がその時になればきっと、受け止められない現実に苦しむだろうということも想像はついていた。

 だからと言って、どうすることもできない。豹の病気を治すことも、日向の願いをかなえてやることも。手を尽くしても亡くなる患者はいる。医師になったばかりの頃はその度に自らの無力さに打ちひしがれていた。今は、よくも悪くも慣れてしまったと、自分でも感じている。一つの命が失われる、それは大きな出来事だった。しかしそうだとしても、毎回泣く訳にも、落ち込むわけにもいかない。そうしている間に、救わなければいけない命も、助けなければいけない人間もたくさんいる。

 別れは、確かに、いつまで経っても、何度繰り返しても悲しいものではあるけれど、それは乗り越えなければならないものだった。自分の為にも、相手の為にも。そして、自分を待ってくれている誰かの為にも。

 日向も、どこかで理解はしているのだろう。だから苦しんでいる。豹のように全てを受け入れることができないから、どうしようもなくて豹を責める。

 どちらの方が可哀そうだというわけではないが、二人とも苦しいだろうと誠一は思う。別れが避けられないのならせめて、その時が訪れるまでは笑って過ごしたい。死期を間近に控えた患者や家族が願うのと、その気持ちは同じはずだった。豹の穏やかさは、アパシーなどではない。満ち足りた人間だけが感じることのできる静穏だった。その感情を日向が共有できれば、あるいはもう誰も苦しまなくてもいいのかも知れない。

 難しいだろうなと、頭を掻きながら誠一は茶の間に向った。

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