第9話
「先生、結果、よくなかったんだろ?」
午後の診療を終えた誠一の元を訪れた豹は、恐れる様子もなく、まっすぐに医師の目を仰いだ。
「豹……進行は、考えていたより緩やかだった。ただ、お前の思ってる通り、血液検査の結果はよくはなかった」
「ヒナには話した?」
「まさか。これでも医者だからね。守秘義務は守るよ」
「そっか」
どこかほっとしたように豹は笑った。
「そろそろ、絵も描き終わりそうだから……ちょうどいいかも知れない」
気負いのない豹の表情。死を覚悟した人間の中にはたまに、こういう顔をする者もいる。そういう人間は決まって、悔いはないと笑って言う。
「あいつには……日向には、それに尚矢にも、まだ、お前が必要だと、俺は思うよ」
決断を急ぐことはない、誠一の言葉に豹は、そうかなと呟いた。
「必要としてたのは、俺の方だよ。ずっと、ヒナも、尚矢も、先生も……必要としてたのは、俺の方だった」
「意外だな」
「何で?」
「お前は自由に見えたから。いつでも気の向いた時にしたいことだけして。ふらっとどっかに出てったり、一人が好きそうだった」
「それは、そうだけどさ」
何て言うかな、と豹は首を傾げた。
「居心地はよかった」
俺なりに、とはにかんだように微笑む。
「あそこが、俺の家だと思ってた」
「思ってた、か……寂しいこと言うなよ」
「家は、俺にとっての家って意味では、ずっと変わんないのかな」
豹は診察台に腰を下ろすと足をぶらぶらさせながら窓の方に目を向けた。その方向には、豹たちの暮らすあの家がある。
「心の故郷って、言ったりするだろ?」
「あ、それいいじゃん」
ぱっと明るい顔になった豹は、誠一の言葉を楽しげに繰り返した。
豹の晴れやかな表情を見ていると、誠一には、柄にもなく引きとめたいと思っている自分が恥ずかしく思えてくる。弱いのは、病魔と闘う豹ではなくて、ただ見守ることしかできない自分たちの方だ。
「医学の歴史は、いつも、未知の、不治と呼ばれる病気との闘いだった。お前の病気もいつか、治る日が来るかも知れない」
そうだね、と豹は静かに頷く。
「なるべく、長生きする」
もしも、生きている間にそんな日が来るなら……、口にはせず、豹は笑って見せる。儚い期待など、覚悟を持って日々を生きる豹には、もう必要のないものなのかも知れない。自分が想像している以上に豹は、今、幸せなのかも知れない。誠一には、ふとそんな気がした。
「じゃ、俺、先帰る。また飯の時に」
「ああ。また後で」
「ありがとーございましたー」
部屋を出る時、子どものような口調でそう言いながら豹は深々と頭を下げた。
豹がいなくなった診察室は、見慣れているはずなのに何故か、いつもより無機質に、いつもよりがらんとしているように誠一には感じられた。
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