第8話
大がかりな図案の施術が終わったのは夕方近い時間だった。さすがに疲れたのか、手を洗って施術着を脱いだまま、日向はぼんやりと椅子に座っていた。
「日向さんのテクニックって、やっぱすごいですね。俺、今日の施術見てて、彫の勉強もっとしたくなりました」
興奮気味にそう言った尚矢に、そうか、と日向は頷いた。口元に浮かんだ微笑みは一瞬で消え去った。
尚矢、と日向が珍しく名前を呼んだ。どうしたのかと自分を見つめた尚矢に、日向は力なく笑った。
「今でも、いや……今だから、思うことがある。あの時、彫師じゃなくて医者になってればって」
日向の思わぬ告白に尚矢は何も言えなかった。
「俺が医者になってれば、あいつを救えたのかも知れない。そんな可能性があったのかも知れない」
弱音などはかない日向のそれは、秘められた本音だったか。何と声をかければいいのだろう。何と言えば少しでも、日向の気持ちを癒せるのだろう。尚矢は無力な自分を苛立たしく思い、どうしようもなくて唇の裏を噛んだ。
「ひいじいさんの時から家は医者なんだ。やぶ医者がやってるあの病院は、本当は俺が継ぐはずたった」
「そうなんですか?」
ああ、と日向は少し自虐的に笑って、視線を落とす。後悔しているのだろうか。尚矢にはそんな風に見えた。
「親に決められた道なんてくそくらえ、そう思ってたくせに結局医大に進んで……豹に会ってやっと、自分がしたかったことを見つけたと思ったのに……今度は、やっぱり医者になればよかったなんて思ってる。何もかもハンパで、自分が嫌になる。だからお前に、何か教えてやれるとも思えなかった」
「そんな……そんなことないですよ。俺、日向さんからいろいろ教えてもらってるし、日向さんの仕事も、仕事に対する考え方もすごい尊敬してます。全然ハンパなんかじゃないですよ」
「買い被りすぎだ」
日向の苦い笑い。それはゆっくりと消えて、悲しみに変わる。
「自分でもわかってる。実際はもっと単純な話だ。俺は、豹に、死んで欲しくない。どこにも行って欲しくない。それが、全てだ」
尚矢にかけられる言葉はなかった。日向は自らが吐き出した言葉をかみしめるように、じっと壁の一点を睨みつけた。
「何の為に、俺は豹を日本に連れてきたのか、あれから、ずっと考えてた」
「あれから?」
「ロンドンから戻ってから」
それはきっと、豹と日向が出会ってから過ぎたのと、ほとんど同じ長さの時間なのだろう。それだけ長い間、日向は苦しんできた。それは、尚矢の知らない日向の思いだった。
日向は、何に対してか、悪いなと告げて店から出ていった。後を追いかけようかとしばらく尚矢は迷っていた。しかし入れ違いのようなタイミングで奥から豹が顔を出した。
「ヒナは?」
「あ……今、ちょうど出てちゃったとこで」
「何だ。新しい図案見せようと思ったのに」
「何を描いたんですか?」
んー、とスケッチブックに視線を落とした豹は尚矢に応じた。
「蛾」
「ガ?蛾ですか?蝶じゃなくて?」
「ああ」
驚いたように自分を見つめる尚矢に豹はようやく顔を上げた。
「飛んで火にいる夏の虫がテーマだ」
得意げにそう言った豹。豹の発想自体がやっぱりアートだと尚矢は改めて思った。
「何だよ?」
「いや……何て言うか、すごい斬新て言うか、ちょっとびっくりして」
ははっと、豹は明るい声で笑った。
「虫に限らず、生き物は何でもテーマにしやすいんだよ。蝶なんかに比べれば人気ない昆虫だし、斬新って言われれば、まぁ、そうかも知れないけど」
でも、とスケッチブックを目の前に広げながら豹は満足そうに頷いた。
「でも……いいんだ。今は、これが俺だと思える」
見るか?と上目づかいにきいた豹に、見たいです、と尚矢は飛びついた。
「ほら」
その手に乗せられたスケッチブックに、尚矢は声を失った。
炎の中に、舞うように、苦しむように、狂ったように飛び交う蛾が、ページいっぱいに描かれている。
モノクロが多い豹には珍しく、その絵は鮮やかで激しい色彩によって描かれていた。
地獄絵図のようにも見えるほど、激しく壮絶な図柄にも関わらず、尚矢の心は潮が引くように静まり返っていく。
安堵するような絵では、決してない。それなのに、何故だろう。心を持っていかれそうになる。それほど鮮烈で、悲しくなるほど心を打つのに。自分の中の何かを許されたような、肯定されたような安心感をも同時に与えられて。
ページを繰る度に、尚矢は動きを止めて、じっと一つ一つのデザインに見入った。燃え尽きようとする命の熱に触れたような気がした。
「すごい」
全てのページを時間をかけて見終えた尚矢がそう言いながら豹の目を見た。
「好きか?」
「はい。すごく。俺、これ入れたいです」
「お前にはまだちょっと早いなぁ」
本気とも冗談ともつかない豹の微笑に、尚矢は微かな違和感を覚えた。
「日向さん、早く戻ってくるといいですね」
「いや……やっぱ、あいつに見せるのまたにしようかなとか、今急に思った」
「え、だって見せに来たんですよね?」
「それは10分前の予定だろ?今はもうあん時じゃない」
豹の様子は、やはりどこかおかしい。ゆっくりとスケッチブックを閉じて、邪魔したなと立ち上がる豹を尚矢は思わず呼びとめた。
「あの、その虫は、どうなるんですか?」
「虫?」
「火に飛び込んで、どうなるんですか?」
そうだな、と豹は首を傾げ、少し上の方に目線を向けた。何を考えているのだろう。しばらく沈黙が続いた後、豹はまたまっすぐに尚矢の目を見た。
「燃え尽きるんだろうな。そのまま」
豹の言葉は、何より真摯で、何より重かった。
「助かりたいなんて、思わないんじゃないか?本能で火に飛び込んで、そうやって燃え尽きるんなら……何を、後悔すればいい?」
その絵に描かれた虫に、豹は自分自身を重ねているのだと、尚矢は悟った。そしてそんな豹を前に、日向の気持ちが痛い程わかった。
「さっき、日向さんと話してたんです。日向さんは、彫師じゃなくて、医者になればよかったのかもしれないって言ってました」
「ヒナが?」
意外そうに豹が尚矢を見返す。
「そしたら、豹さんを助けられたかも知れないって」
あいつは何もわかってない、豹は閉じられたスケッチブックに視線を落としながら、微かに笑ったようだった。
「あいつに出会った時、もう、俺の運命は決まってた」
ゆっくりと尚矢を見上げた豹。その表情はどこまでも穏やかで、見ている尚矢の方が苦しくなった。
「あの街で、誰も知らないところで、のたれ死んでもいいって、そう思ってたんだ。明日の朝はもう、目が覚めないかも知れない。この景色を見るのは、今日が最後かもしれない。それでもいいって、そう思いながら生きてた。絵を描いてる間だけ、自分のことも周りのことも忘れられた。逃げるために描いてた絵だったのに、あいつはそれを認めてくれた」
それが、嬉しかったんだ。少しだけ照れくさそうに、それでもとても幸せそうに豹は笑った。
「自分が飛び込んだのが、火でも水でも、本能がそれを求めるなら、俺はそれでいいと思う。何もない場所をふらふら死ぬまで飛び続けることだけが幸せだとか、俺には思えない」
いつかのようにまた泣き出しそうな顔になった尚矢の頭を乱暴に撫でて、豹は部屋の奥へ引き返して行った。
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