第7話

 初めて豹と出会った日のことを、日向はよく思い出した。3月のロンドンの、春には程遠い凍えるほど寒い午後だった。今よりもっと痩せていて、半ば浮浪者のような格好をしていた豹。今のようには、笑わなかった。自分を諦めて、ただその日を生きていた。

 その広場では路上で楽器を演奏する者、似顔絵を描く者、パントマイムを行う者、いろいろな人間が誰かの気を引こうと躍起になっていた。豹はそこにいた。けれど、その中の誰にも、その場にさえ馴染むことなく、広場の片隅で黒いシートを広げて蹲っていた。

 「それ、何?」

 微かな太陽さえ遮る大きな人影に、豹はスケッチブックから顔を上げた。

 「シール。タトゥーシール」

 日向は、もう豹の顔を見ていなかった。ただ足元に並べられた細かな図案に見入っていた。

 すげぇな、と日向は呟いた。

 「画家?」

 大きな体を丸めるようにしゃがみこんだ男の目を、豹は初めて真っ直ぐに見詰めた。暗いロンドンの町で、初めて温かな日溜りに触れたような気分だった。

 「そんなんじゃない」

 「いや、マジすごい。こんなの、初めて見た……」

 日向は豹の許しを得て、大きな掌に一枚ずつシールを乗せた。トライブや和彫にありそうな東洋的な図案、西洋的でゴシックな絵柄、日向は名画を鑑賞するかのように丁寧に、一枚一枚を手に取った。

 「全部買う。他にもある?」

 「シールは、これでほとんど。後は、デッサンとか。作品になってない」

 「見せて」

 日向は強引に豹が手にしていたスケッチブックを取り上げた。呆気にとられる豹には気付かず、日向はシールを手にした時と同じように丁寧に、1頁ずつ長い時間をかけてスケッチブックをめくった。

 「まじすげぇよ。大英博物館とか、くだらないと思えた」

 「褒めすぎ。かえって嘘くせぇ」

 ようやく顔を上げた日向は、子どものように目を輝かせて豹を見つめた。やめろよ、と豹はスケッチブックを取り返した。

 「あと、1日だけロンドンにいるんだ。明日もここにくるのか?」

 「さぁ……。お前が買い占めたらここに来たって売るもんないし。しばらくそれで食いつなげるから別にいいけど」

 「こっちに住んでるのか?」

 「ああ」

 「日本には帰らないのか?」

 「うっせーな。帰りたくても帰れない人間だっていんだよ。売ってやるからさっさと行けよ」

 何が相手を苛立たせたのか、日向は困ったような表情で豹を見つめ、何かを言いかけた止めた。

 「お前、まじうぜー」

 それは、豹が吐き捨てるようにそう言いながら立ちあがった瞬間だった。

 「おい!」

 目前で、突然崩れ落ちた身体を日向が咄嗟に抱きとめた。

 「おい、大丈夫か?おい」

 「うるせ……ほっとけ」

 抱きとめた身体は想像以上に軽く、ひどく熱っぽい。眉を顰めて豹の額に手を当てた日向は驚いた。

 「お前、すごい熱あんのに何してんだよ?家は?誰かと連絡取れるか?」

 豹は日向の手を邪険に払おうとしたがほとんど力が入らない。うるさい、と微かな声で繰り返す豹を日向は見下ろした。よく見ればまだ幼さが残っている。人を呼ぼうと日向が顔を上げた時、広場の反対から走ってくる叔父と目があった。

 「お前、また勝手に……何やってんだ?」

 「こいつ急に倒れて、熱がすごいんだ」

 病院に、と言いかけた甥を押しのけて、誠一は豹の額に手を当て、脈を測った。

 「ここならホテルが1ブロック先だ。俺が診る。いったん連れて行こう」

 「わかった」

 日向は豹を抱きあげてホテルの部屋まで運んだ。誠一は日本から持参してきた診療セットを開いて、意識を失った豹を見下ろした。

 「ずいぶん、うなされてるな」

 「熱のせいか?」

 「恐らく」

 豹のシャツのボタンを外していた誠一の手が不意に止まる。どうした、と背後から覗き込んだ甥を見上げ、

 「洗面器にお湯入れて持ってこい。あと、タオルと」

 「洗面器?そんなもん風呂場になかったぞ?」

 「フロント言ってきいてこい。それくらいあるだろ」

 わかった、と渋々日向が出ていくと、誠一は豹の身体に残る細かい傷や怪我を観察した。肩、腕、腹……転々と残る痣は、服の上からではわからない。虐待か、あるいは何らかの暴力か。いずれにせよ、この少年には何かしらの脅威があるという証拠だった。

 誠一は戻ってきた日向に、そのことを伝えなかった。しかし何か感じるところがあったのか、日向は朝まで自分が看病すると言いだした。その夜、二人が何を話したのかはわからない。ただ一つ明らかなのは、翌日の朝には、二人とも部屋から消えていたということだった。豹が寝ていたベッドサイドのテーブルには、乱雑な日向のメモが残されていた。

 「フライトまでには戻る」

 何か大変なことが起こったのではないか。誠一はホテルの部屋で甥の帰りを待った。本来ならすぐにでも警察に事情を話すべきなのだろう。しかし、あまりにも情報が少ない。それに、日向ももう子どもではない。フライトまでには戻るというのだから、もう少しだけ待ってみようか。そんな葛藤の中、刻々と時間は過ぎていき、ついにホテルを出る時間になった。仕方ないと、誠一は立ちあがった。警察に連絡する為だった。最初にホテルに申し出た方がいいだろう。フロントへの内線は何番だったか……そうして受話器を上げた時、激しいノックの音が部屋中に響いた。

 「叔父貴!俺!」

 安堵と、それ以上の怒り。

 「どこ行ってた!?」

 ドアを開けた時、そこには日向と、雪村豹という少年が立っていた。

 「悪い。後で話す。だから今は空港に。こいつの分もチケット取ったから」

 唖然とする誠一の耳に、またしてもとんでもない会話が飛び込んできた。

 「いって……右手皹入ったかも」

 「俺、左。素手は失敗だったな」

 誠一の不安をよそに、革命でも成し遂げたかのように、二人は妙に誇らしげだった。

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