第6話

 豹と尚矢が買い物に出ている間、甥と叔父は夕暮れの縁側に腰掛けてビールを飲んでいた。昔ながらのブタの形をした瀬戸物から、蚊取り線香の香りが漂ってくる。何を話すでもなく、二人は何もない庭をぼんやりと眺めていた。

 日向の祖母、誠一の母が生まれた一軒家は、建てられてから半世紀以上経つ、古い平屋だった。庭の植物や生垣は日向と誠一がたまに世話をしている。豹を日本に連れて帰った時、豹はこの家を見て大喜びだった。長らく海外にいたせいで、古き良き日本に対する憧れが子どもながらに育っていたらしい。祖母が亡くなってからは更地にしてしまう予定だったが、親の期待する道から諸手を上げてドロップアウトした息子と、その風変わりな友人が暮らす為に、そのままの形で残されることになった。そして、同居人がまた一人増えて今日に至る。

 「あいつをイギリスに連れてった男、ぶっ殺しとけばよかったって、今でもたまに思う」

 唐突に物騒なことを言い出した甥に誠一は肩をすくめた。

 「おいおい……訴えられなかっただけましだと思えよ?豹を日本に連れて帰ってから俺が毎日どれだけ不安だったか。アウトだな、未成年だとわかってて連れて帰ってきたんだ。俺は犯罪者だ、ああ、だめだ、完全にアウトだ。そう思ってしばらく落ち込んでた」

 「間違ったことはしてない」

 「結果的にな?だけど方法は決定的に間違ってた」

 ため息をついた誠一。

 「見ただろ?俺よりちゃんと、あんたが診たんだろ?豹の……」

 「ああ。確かにあれは虐待の痕だった。それは間違いない。だからその男も警察に訴えてまで豹を連れ戻そうとしなかったんだろ。被害届さえ出さなかったのもそのせいだ」

 それだけじゃない、と日向は何かを言いかけて止めた。

 「何だ?」

 「あん時、あいつの家から、豹は写真を持ち出してた」

 「写真?」

 「日本に帰ってきてしばらくして、庭で焼いてるとこ見かけて……ロンドンから持ってきた写真だって、でももう必要ないから焼いたって、そう言った。俺やあんたに見せられるようなもんじゃなかったって……たぶん、証拠写真だったんだろうな……。あいつの家出る時、豹がまず壊したのが、あの男のPCだった。それから、周りにあったディスクとか、とにかく片っ端から壊してた」

 「そうか……」

 誠一はため息をつくように呟いた。

 「あいつの精神力には恐れ入る。どうすれば、あんな風に笑えるんだろうな。見た目からは想像もつかない。強い男だ」

 ああ、日向は頷いて物思いにふけるように黙り込んだ。そんな甥を横目で見て、

 「ひとつ、豹のこと、教えてやろうか?何で尚矢を弟子にしたか……」

 知ってるか?叔父に問われ、日向は驚いたように首を横に振った。

 「あいつがいたら、お前は寂しくならないだろうと思った。そう言ってた」

 「豹が?」

 ああ、と誠一は甥の顔から庭へと目を移した。

 「お前らいつもそうだな。心配掛けないように意地張り合って。どっちの方が大人か競い合ってるみたいで。俺から見たらガキ同士かっこつけ合ってるだけなのに」

 やぶ医者、と日向が呼びかけた。庭を見つめる大きな背中が、ひどくしょぼくれているように誠一には感じられた。

 「豹、治らないのか?」

 蜩の鳴き声に、夏は更けてゆく。時が流れていくことを怖いと、日向は感じていた。

 「今の医学じゃ、治らない病気だ。進行を遅らせることも、人によっては難しい。せいぜい症状が出ないように薬で抑えるしかない」

 腕を組んで、誠一は戸袋にもたれた。

 「何とかしろよ。何のための医者だよ」

 苛立つ甥の声はいつになく弱弱しい。頭を両手で抱え、さらに小さくなった後ろ姿を叔父は静かに見つめた。

 「やぶでも、何でもいい……豹を、助けてくれ……」

 「何か、あったのか?」

 確信を持って問われ、日向は沈黙した。

 「日向?」

 「ノラがいなくなったんだ」

 「ノラ?ああ、あの白いネコか」

 そうだと応じた日向は肩を落としたまま顔を上げようとしない。

 「豹が、一番可愛がってた。なのに……」

 「どうした?」

 「何でもないって、顔すんだ、あいつ」

 「お前なぁ……。過保護なんだよ。お前の目にどう映ってるかは知らんが、豹も一人前の男だぞ?猫一匹いなくなったくらいでそんなに騒ぐわけないだろ」

 呆れたと呟きながら誠一は座りなおしてビールを飲む。

 「ノラは飼ってたわけじゃないし、またふらっと戻ってくるかも知れない……あいつにもそう言った。だけど、そういうことじゃなくて」

 そうじゃなくて……、日向はいっそう肩を落としてゆっくりと口を開いた。

 「結局、俺は、あいつの何もわかってないんじゃないかってそんな気がしてきたんだ」

 どういう意味かと問う叔父を、日向は初めて真正面から見据えた。

 「死ぬのが、怖くない人間なんているのか?」

 「なんだ急に」

 「100年も生きてない。その半分も。それなのに……これで満足だとか、これでいいんだとか、人間ってそんな風に思えるもんなのか?」

 「知らんよ」

 知らん、医師はそう繰り返した。投げやりにも聞こえる言葉だったが、甥に向けるその眼差しはいつになく真摯だった。

 「他人の人生を外からはかることなんかできると思うか?そりゃ相手に対して失礼だ。お前だって臨床の経験あんだろ?」

 「それはわかってる。だけど、あいつが本当は平気じゃないのに平気そうな顔してるのが、すげぇ嫌なんだ。何で一人で抱え込むのか、理解できない」

 「豹からしてみたら、お前だって同じなんじゃないのか?」

 「どういう意味だよ?」

 日向の微かな苛立ちを誠一は感じ取った。そしてそれが他人ではなく、日向自身に向かうものだということも同時に感じた。

 「豹は、自分のことで他人を悲しませたくない。それが、お前や尚矢ならなおさらだ。だから平気なツラして、何でもないって笑うんだろ?その方が、お前たちが悲しまないと思ってるからだ。自分が悲しみを感じるより、他人が自分の為に悲しみを感じることの方が、豹にとっては耐え難い。だから耐えられる方を、耐えやすい方を選んでる。お前は、それを責めるのか?」

 俺は、と言いかけ、日向は叔父から顔を背けた。

 「どっちが悪いってわけじゃない。お互いに、思い合ってんだろ?家族でもない、恋人でもない、幼馴染って程付き合いも長くない。そんな奴らが一つ屋根の下に一緒に住んで、相手の為に自分にできることは何かって何年も考え続けてる。俺から言わせりゃ、それ自体奇跡だぞ?」

 そんなもん、日向は俯いたまま呟いた。

 「そんなもん、奇跡でもなんでもねぇよ……だったら、何で……何で起こって欲しい奇跡は起きねぇんだよ」

 日向は庭を睨んだ。そこにいた誰かの姿を見出そうとするように。じっと苦しげな眼差しを注いだ。

 庭の真ん中に、豹はぼんやりと佇んでいた。共用のサンダルをひっかけて、何をするでもない、ただじっとして動かない。

 「豹?」

 どうした、と呼びかけた日向の方に、豹はゆっくりと顔を向けた。

 ああ、と曖昧に微笑んだ顔が心なしか寂しげだった。

 「何かあったか?」

 「うん」

 「うんって……」

 「ノラ、最近来ないなと思って」

 「ああ、そういえばそうだな」

 「あいつ、最近ここで飯食わなかったから。最初はどっかよそでもらってるんだろうって思ってたんだけど」

 豹は言いながらぶらぶらと縁側の方に向ってきた。

 「ちょっとずつ痩せてきてたみたいだし、捕まえて獣医に診せた方がいいのかとか、ちょっと考えてて……でも」

 つっかけを脱いで縁側に上った豹はぽつりと、遅かったかなと呟いた。

 「野良だろ?また急に戻ってくるかも知れないし」

 「そう、なんだ。それは俺も思った」

 「だろ?」

 そんなに心配するな、そう言いかけ日向は口をつぐんだ。豹が優しい目をしてこちらを見上げている。それは、悲しみを昇華したような眼差しで、泣き顔よりずっと見る者の胸を締め付けるような表情だった。

 「本当は、もう、死んだんじゃないかって。1週間も現れなかったことなんて一回もないし、縁の下に置いといた餌も食ってない。この辺でも全然見かけないしさ」

 少しだけ唇を尖らせて豹は肩越しに庭を振り向いた。

 「豹……」

 どんな言葉をかければいいのだろう、戸惑う日向に豹はまた少しだけ笑顔を見せた。

 「まぁ、仕方ないよな」

 気にすんなよ、と日向の肩を軽く叩いて豹は部屋に戻っていった。まるで自分の方が慰められたようだと、日向は立ち尽くした。

 辛いのは、豹の方なのに。いつでも自分は平気だと、そんな顔をして見せる。

 いっそ泣いてくれればいいと、そう思うことが日向にはあった。泣いてくれれば、慰めようもある。それなのに、豹はそんな時ばかり甘えもしなければわがままも言わない。平然を装って誤魔化そうとする。

 もっと頼って欲しい。もっと信じて、何もかも預けてくれれば、どんなことでもできるのに。豹は決して、それを許さない。そこに、豹と自分との壁があり溝があると、日向はもう長い間感じていた。

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