第5話
夕暮れの住宅街。日向と夕食の買い出しに出かけた帰りだった。もうすぐ家に着くというところで、リズミカルに繰り返される不思議な音に尚矢は辺りを見回した。
「どうした?」
「いえ、何か、音、しません?」
「ん?」
日向も尚矢と同じように辺りを見回し、それからふと動きを止めた。
「日向さん?」
「ボールだな」
「え?」
「ボールを壁に投げてんだろ」
日向の言葉に尚矢は耳を澄ませてみた。そう言われてみれば確かに、壁に向かって野球ボールを投げつけているような音だった。
「子どもですかね」
いや、と日向は軽く唸った。
「あれは……まぁ、いいや。こいよ」
「え?どこ行くんですか?」
「いいから、黙ってろよ」
そう言うと日向は家の裏側に回り込んだ。
「あ……て、あれ、豹さん、ですよね?」
「ああ」
家の裏手にある路地の突き当たりに向かって、無心でボールを投げていたのは豹だった。尚矢たちからは後ろ姿しか見えなかったが、豹はひたすら単調な動きを繰り返し、今さら野球選手になる夢でも追いかけ始めたのかと疑いたくなるほど真剣に、ボールを壁に投げ、跳ね返ってきたボールを拾い、また力一杯に投げつけていた。
「何してるんですか?」
そっとその場を離れた日向を追いかけながら尚矢が小声で尋ねた。
「何か、嫌なことでも思い出したんだろうな」
「嫌なこと?」
「俺らくらいの年になれば、それぞれ何かしら抱えてるんだ。豹がああやってる時は、だいたい、昔のこと思い出してんだよ。だからもし見かけたとしても、そっとしといてやれ」
いいな、と日向に念を押され、尚矢はわかったと頷いた。
確かに豹の様子は妙だった。
楽しげな雰囲気は一切なく、ただボールを投げ続けるということにだけ意味を求めているような、そんな必死な気配だけが漂っていた。そうすることで、まるで何かを追い払おうと、あるいは打ち壊そうとしているかのようで。
日向に言われなかったとしても、きっと自分はあんな豹に声はかけられないだろうと尚矢は思った。
いつでも底抜けに明るい豹を、そこまでさせるものは何なのか。その夕暮れの光景はいつまでも尚矢の心に残った。
それから数日後、店の手伝いを終え、豹からタトゥーシールの切り出し方を教わっている時、尚矢はそれまで疑問に思っていたことをついに口にした。
「豹さんて、いつから日向さんと一緒に仕事してるんですか?」
「いつだろうな。もう、5年くらい経つんじゃないか?」
「へぇ。もっと長いのかと思ってました」
意外そうな尚矢に、作業の手をとめ、そうか?と豹が首を傾げる。
「はい。だって、もう兄弟みたいな感じだし。幼馴染かなんかかなって勝手に思ってたんです」
「口うるさい弟だろ?図体ばっかでっかくて」
「え……豹さんの方が年上なんですか?」
「いや。ヒナのが上。全然上。あいつ、ぼちぼちおっさんだぞ」
「ぼちぼちおっさん、って……」
「本人に言うなよ?そういうのにナイーブなお年頃だからな」
にやにいやする豹に尚矢もつられて笑う。
確かに尚矢も見た目から、日向の方が豹より年長だということは想像していた。しかしどこまでいっても日向は豹に頭が上がらないような雰囲気がある。尚矢から見ると二人は、溺愛したい飼い主と気まぐれな飼い猫のようでもあった。
「どこで知り合ったんですか?」
「ロンドン」
「ロンドン?すげぇ。それって、留学とかしてる時に知り合ったってことですか?」
んー、と豹は首を傾げた。
「まぁ、俺はあっちで学校も行ってたけどな。あいつは、誠一さんと一緒に旅行で来てただけ。そん時、たまたま知り合ったんだ」
「運命?」
「お前キモイ」
笑いだした豹は、しばらくすると、あー、と声を上げた。
「でも、まぁ、そうだな。あいつに会わなければ俺は死ぬまで向こうにいただろうし」
「どうしてですか?」
「お前けっこう人のプライバシーに土足で踏み込むよな」
「すみません」
きいてはいけないことだったのかと慌てた尚矢に、別にいいよと豹は笑う。
「俺の親、割と早く死んだんだ。俺がまだ小学校ん時」
言葉を詰まらせた尚矢に気にするなと豹は告げた。
「で、遺産とかの分配で、それまで会ったこともなかった親族なんかも押しかけてきて、すっげぇ面倒なことになってさ。それで結局、大学の准教授してた男が俺を引き取ることになった。親がいないからこそ、将来の為に勉強させた方がいいとか何とか言って。怪しいだろ?独身の男がガキ引き取るなんて。でもそいつに連れられてイギリスに行った。俺に選択の余地なんかなかったし。行くしかなかったんだけど。いっこだけ感謝してるのは、周りが俺とそいつの養子縁組をさせなかったってことだな」
「その人のこと、嫌いだったんですか?」
「嫌い……嫌いか。そうだな。簡単に言えば嫌いだ。すげぇ、嫌いだ。むしろ死ねばいいのに、くらいには嫌いだな」
豹はいつも通りの口調でそう言ったけれど、実際に相手に抱いているのはもっとどす黒い憎悪のようなものなのかもしれないと尚矢は思った。
お前に話すようなことじゃないけど、と豹はどこか遠くの方を見た。
「考えられうる限り、サイテーの人間だった。だから俺の生活も、考えられうる限り、かなりの確率でサイテーだった」
まぁ、もう済んだことだけどさ。最後は尚矢を労わるように、そう言って微笑んだ豹。
豹はいつでも笑っている。尚矢はそのことに初めて気がついた。
「そう言えば、お前、俺たちのこと何も知らないよな?」
「俺たち、って?」
俺とヒナのことだ、と豹は少しだけ懐かしそうな表情をして、手に持っていた細工用のカッターを作業机の上に転がした。
「俺、その自称育ての親みたいな男にパスポート取り上げられてたんだ。だから日本に帰りたくても帰れなくてさ。で、たまたま知り合ったヒナとつるんで、そいつんち押し入って、ぼこぼこにして俺のパスポート取り返したんだ」
「それ……」
犯罪じゃないのか、と思いはしたが尚矢はあえて言葉にしなかった。
「そん時俺、本当は熱あってふらふらだったんだけど。後からヒナに聞いたら、部屋中めちゃくちゃに壊しながら喜んでたらしい」
それまで豹が抱え込んでいた鬱積がどんなものだったにしろ、その時の様子はありありと尚矢の脳裏に浮かんだ。
「それで、一緒に日本に帰ってきて、すぐ、俺はヒナに約束した」
そして何かを考えるように一呼吸あけ、転がしたのとは逆の手でカッターを拾う。
「約束っていうか……あいつはそんなこと望んでなかっただろうから、俺が、勝手に決めただけなんだけど」
どんな約束なのか。言葉にせずにじっと自分を見つめる尚矢に豹はゆっくりと口を開いた。
「図案を、1000枚描いたら、ホスピスに行く」
「え……」
尚矢には、豹の言っていることがわからなかった。前半も、後半も、何一つ。
戸惑う尚矢に、豹は初めて、少しだけ寂しそうにも見える微笑を向けた。
「ビョーキなんだ」
「豹、さんが?」
「ああ。見えないだろ?」
大きく頷いた尚矢にそうだろうなと豹も頷き返した。
「俺の病気は、一気に進行する。一つ症状が現れれば、もう末期なんだ。次から次にいろんな合併症を併発して、たぶん、すぐに死ぬ」
「そんな」
驚きに掠れた尚矢の声。そんな顔するなと豹は優しく笑う。
「ヒナに出会った頃、俺はもうその病気にかかってたんだ。死ぬ覚悟も、その頃からしてた。だから、今も怖いとは思ってない。自分の、死に対しては」
切り出していた下絵に目をやって、豹は何気なくその図案を指先でなぞった。
「怖いのはさ、自分がいなくなることじゃない。それで、誰かを悲しませることだ」
微笑みが悲しみで少しだけ歪んだように、尚矢には思えた。いつでも底抜けに明るい、前向きでパワフルな豹。それでも彼のどこかにはやはり、悲しい、寂しい感情が住んでいるのだろう。
「だから、決めたんだ。ヒナと出会ってから。デッサンを、1000枚描こうって。大きいのも小さいのも、何でもいいから1000枚。それで、描き終わったら、それがいつだったとしても、ホスピスに入ろうって、そう決めた」
「ホスピスって、病院のことですか?」
「ああ、そうだよな。知らないよな。ホスピスは、まぁ、病院っちゃ病院だな。ただ、終末医療が専門専門なんだ。要は、病気を治す為に行くとこじゃない……」
わかるだろ、と豹が尚矢に目できいた。尚矢は何も言えず、ただ頷いた。
「そういうわけだ」
他人事のようにあっさりと、豹はそう言って頷く。尚矢の目前の豹からは、焦りも不安も感じ取れない。ただ、ほんの僅かな危惧。自分が、誰かを傷つけてしまうのではないかという、微かな怯えが、瞳の奥に揺れている。
「それ、日向さんは知ってるんですか?」
「ああ。知ってるよ」
「それでも……止めないんですか?」
「止める?」
豹は初めて驚いたような顔で尚矢を見た。尚矢は何かまずいことを言ってしまったのだろうかと戸惑ったが、黙っていられず口を開いた。
「えーと、何て言えばいいのか、上手く、言えないんですけど……どうして、最後まで日向さんのところにいないんですか?俺、だって、豹さんの為にできることがあるなら何でもしたいし……勿論、日向さんも誠一さんも、みんなそう思ってると思うし」
「……」
尚矢の言葉に、豹は少しだけ目を細めた。
「だってさ、悲しいの、いやじゃん」
「だけど」
「いや、わかるよ。お前が言いたいこと。俺も逆の立場だったら、最後の最後まで一緒にいてくれって、思うだろうし。最期まで、見届けてやりたいだろうけど。でもそれを相手が望まないなら、元気なうちに送りだしてやると思う」
何か言いたいことがあるのか。尚矢は唇を震わせて、しかし思いとどまったように豹を見つめた。
「短くても長くても、一生はそいつのものでしかない。生き方も死に方も自分で決めるしかないだろ?俺は、ヒナに救われたんだ。氷点下に蹲って動けなかった俺を、あいつが救いだしてくれた。あいつと初めて会った時、ぶ厚い雲の隙間からほんのちょっと太陽が射しこんできたみたいな、そんな感覚だった。だけどあん時の俺には、ちっぽけな日溜りでも十分だったんだ。俺は俺の人生を勝ち取らなきゃいけないって、そう思って日本に戻ってきた。どうなるかなんて、本当に何もわからないままだったけどさ。それでも、どうなっても、何があっても、きっと後悔しないだろうって何だか確信してた」
「豹さん」
「だから、怖くなかったし、今も怖くない。これが俺の人生だって、誰にでも言える」
満足げに微笑む豹には、気負いも虚勢もなかった。
だけど、と尚矢には豹に伝えたい言葉がたくさんあった。
「安心しろよ。俺がいなくなっても、ヒナはお前を放りだすような奴じゃない。誠一さんもいるしな。お前は俺の弟子だから。お前が望む限り、ここでやりたいことやらせてやる」
「そんな……俺のことなんて、いいのに」
「バカ。俺なんか、なんて言うな。お前が自分を否定したら、師匠の俺まで否定してるのと同じだぞ?」
すみません、と俯いた尚矢は半ば泣き声だった。
「泣くなよ。泣いて楽しいことなんていっこでもあったか?楽しくないことで、例え一時間でも一分でも一秒でもお前の時間を無駄にするな。俺は、そんなこと望んでない」
尚矢の頭を掌で軽く叩いて、ほら、と豹はその手に切り出し用のカッターを優しく握らせる。
「ちゃっちゃとやれ。時給下げるぞ」
「それは嫌です……」
少しだけ鼻をすすってそう言った尚矢に豹は笑った。いつもと同じ翳りのない綺麗な目だった。
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