第二章 土山和瑞

       1


 吉祥寺のダイヤ街にある居酒屋、不思議草の扉を開ける。店内に足を踏み入れるや否や、「あっ、お兄さん!」と声が飛んできた。赤みがかったアッシュグラデーションの髪をふわりふわりとさせながら店員の美里が中小野に駆け寄る。

「久しぶりじゃないですかあ」 

「美里ちゃん、働いてる?」

「働いてます!」

 お決まりのやり取りで挨拶する。中小野の知る限り、美里ほど仕事大好き人間もいない。月に三日程度しか休みを取らない、と聞いた時は思わず「ええ!」と大きな声が出た。「ブラック企業」という単語が台頭して久しい昨今、「ずっと職場にいたい」と付け足した彼女の笑顔にいよいよ閉口した。更に聞くと、八王子から電車で三十分かけて通勤しており、十二時間労働の日もあるのだとか。明らかに労働基準法違反だが、美里に限っては必要のない制度のようだ。

 週に一日は必ず休みを取るようにしている中小野だが、今日のようにつらい日もある。自業自得だが──。そんな日は一人でふらっと不思議草に出掛ける。美里のバイタリティーを目の当たりにすると、自分も頑張らないと、と気合が入るのだ。元気は感染する。つい十日ほど前もそうして訪れているのだが、毎日ここにいる美里には「久しぶり」と言われてしまう。

「今日もお一人ですか?」

「いや、今日は二人。すぐに来ると思う」

 そう言って、テーブル席に案内してもらう。一度厨房に引っ込んだ美里が、おしぼりを持って戻ってくる。「はい、どうぞ」と二つ折りに畳んで差し出す。

「お連れの方はいつものお姉さんですか? あのノリのいい」

「そうそう。──ああ、ありがとう」

 言いながら、おしぼりを受け取る中小野に、美里が「やっぱそうなんだ」と人の悪そうな笑みを浮かべる。

「彼女さんですか?」

「あいつは」

 親友だよ、という言葉を飲み込む。男女の友情は成立するのか、というお題は意見の別れるところだ。けれど、中小野にとっては、成立する、というのが揺るぎない持論だった。アメリカの心理学者、ジック・ルービンの調査によると、男性より女性のほうが友情と恋愛感情をはっきり区別しているとのこと。男性である自分がはっきり区別している自覚を持っているのだから、少なくとも和瑞に対しては友情を高らかに宣言することができる、というわけだ。しかしながら、近しい人以外に「親友」という言葉を使うのは、やはり抵抗がある。無難に「友達だよ」と答えた。

「昔のバイト先の後輩で、二年くらいの付き合いになるかな」

「へえ。なんのバイトしてたんです?」

 コンビニ、と言おうとしたところ、「美里!」と厨房から声がして、美里は片目を瞑りながら「ごめんなさい」のジェスチャーをして去っていった。可愛い。吉祥寺にもガールズバーは何件かあるが、美里の接客が一番だろうな、と思う。そのうち吉祥寺界隈で「不思議草の美里ちゃん」は有名になるのではないだろうか。

「ああ、美里ちゃんと付き合いたい、付き合いたいよお」

「……そんなところでなにをやってるんだ、和瑞」

 背後のテーブル席から、ひょこっと和瑞が現れた。「よっこらせいのすけ」と言いながら、中小野の向かい側に腰掛ける。

「中小野さんの心の声、CV土山和瑞」

「そんなことは考えていないし、そんなねっとりした喋り方はしない」

「後頭部に書いてあったんですけどねえ」

「顔に書いてあった、みたいに言うな。後頭部にそんな表現力はない。──そんなことより、どうやって侵入した? 美里ちゃんも知らない風だったけれど」

「侵入って……。本当にゲーム脳ですねえ、中小野さんは。玄関から入ってきたに決まってるじゃないですか。──いいですか、中小野さん。中小野さんは先輩なんですから上手に座っていないと駄目じゃないですか」

 ああ、そういうこと。玄関に背を向けているため、和瑞の来店に気付かなかったのか。しかし、女性と飲むのに上手に座る、というのはどうにも落ち着かない。世の先輩男子はどうしているのだろうか。

「まっ、女子力マックスのなごみんが『後輩』よりも『お姉さん』に思えてしまうのは致し方ないことではありますが」

「なにが女子力マックスだよ。頼むからシーザーサラダなんて注文しないでくれよ」

「すんませーん! シーザーサラダくださーい!」

「フードを先に頼むな」

 はっはっはっは! と和瑞は哄笑する。元気は感染する……が、物事には適切な量や適切な値というものがある。薬も大量に摂取すれば毒になる。ああ、しんどい。


 テーブルにビールとお通しのキャベツの浅漬けとシーザーサラダが並んだ。

「野菜ばっかりじゃねえか」

 シーザーサラダのオーダーがしっかり通っているところを見ると、美里も悪ノリが嫌いではないらしい。不思議草には飲み放題はないが、和瑞のやりたい放題があるようだ。

「写真撮るからジョッキ持ってください」

「こうか?」

 ジョッキ同士を軽くくっつけると、かしゃ、と和瑞のスマートフォンが鳴った。ん? と思う。和瑞のジョッキのほうが高い位置にあったような気がした。「上手に座れ、と言うなら、グラスを下にしろ」と言ってやろうと和瑞が顏を上げるのを待っていたが、スマートフォンを操作する指が止まる気配はない。おそらく今撮った写真をツイッターに載せるために加工しているのだろう。

「僕の名前、載せるなよ」

「わかってますよ。有名人ですもんねえ、中小野さんは」

「有名人ではないけれど、ある界隈ではちょっとな。ある界隈というのはネットだ。ネットには〝特定厨〟というのがいて、既に僕の本名を特定している人もいるかもしれない。ネットでの名前は本名を平仮名にしているだけだから容易かもしれないけれど、確証を得るにはそれなりの労力を必要とするはずだ。それだけの情熱を注ぎ込んでいる人が、ツイッターに書き込まれた僕の名前を見落とすとは思えない。つまりお前のツイートが見つかる。すると、どうなるかわかるか? お前がマークされるんだ。僕の本名を特定した動機が好意にしろ嫌悪にしろ、連中は過激だ。お前に迷惑がかかると困るから言ってるんだよ」

「困る?」

「親友だからな」

「わかってます、わかってます。女の嫉妬が怖いのは私が一番よくわかってます」

 和瑞はすっくと立ち上がった。なんだ? と目だけで見上げる。

「おしっこ!」

 歩き去る和瑞の背中に、「自由すぎるだろ」と声を投げる。和瑞はこちらを振り向かないまま、拳銃のような形にした左手を頭の横で二度揺らして見せた。……かっこよくねえから。

 やれやれ、とテーブルに向き直る。そのテーブルの向こう側に光るものを見つけた。

 ──あほめ。

 和瑞のスマートフォンが椅子の上に転がっている。中小野は素早く向かいの席に移動し、スマートフォンを手に取った。

「抜かったな、和瑞」

 ディスプレイを見ると、思った通り、ツイッターが開いていた。羽根ペンのアイコンをタップしてツイートを書き込む画面に移動する。おや、と思った。アイコンが変わっている。しかし、じっくり見ている時間はない。「うんこ」と入力し、うんこの絵文字を無数に並べ、送信する。任務完了。中小野が自分の席に戻り、ワンテンポ遅れたタイミングで、和瑞が戻ってくる。

「どうしました、中小野さん。今日はなんだか機嫌がいいみたいですね」

「こうしてお前と飲むのも久しぶりだからな」

「その割には、さっき私が写真を撮っている時、中小野さんは撮らなかったじゃないですか」

「僕は風景写真専門なんだ。一般的に景色というと、田舎のほうが美しい、と言われているけれど、個人的には東京の景色のほうがおもしろいね。渋谷なんて最高だよ。例えば、空を撮る時に電線やビルのシルエットが入っている構図が僕は好きなんだ。作られた景色、と揶揄されるかもしれないけれど、そういった人間界と自然界が融合した景色にこそ魅力を感じるんだよね」

「いただきます」

「へえ、くらい言ったらどうだ」

 しどくろからもらった〝いいね〟を思い出す。爪の垢を煎じて飲ませてやりたいものだ。


       2


「他人がゲームしてるのを見てなにがおもしろいんですか?」

 カラオケに向かう道すがら、ニコニコ動画のゲーム実況にのめり込んでいる、と話すと和瑞に一蹴されてしまった。すぐに返答しなかったため、気分を害したと思ったのか、「自分で遊んだほうが楽しいと思うんですけど」と付け足した。難しい質問だな、と頭を回転させていた。けれど、自分で遊んだほうが楽しいと思う、という意見に関しては、別物だな、と即答することができる。見ることもまたひとつの遊びなのだ。野球中継をテレビ観戦する感覚に似ている。ゲーム実況者は大多数がプロではないから、さしずめ高校野球といったところか。では、自分ではできないような上手なプレイを見て楽しむものか、というとそうとも限らない。技術がなくても話術に長けていればいい。見る人の求めているものにより、その動画の価値は変動する。そして、今やゲーム実況というのはあらゆるニーズに応えられるだけの一大カテゴリーなのだ。自分はどうだろうか、と中小野は考える。しどくろのゲーム実況のなにがおもしろいのか。

「好きな声質、口調、感性の人が、好きなゲームをしている。耳に楽しいお喋りが聞けて、目に楽しいゲームが見られる。おもしろいさ、そりゃあ」

「恋だな、そりゃあ」

「なぜそうなる」

 と言いながらも、これはいい線を行っているのではないか、そんな風に思う。思えば、中学一年生の時、隣でゲームをしていたのは紛れもなく恋人だ。他人がゲームしている、というのとは少し異なる。根本的に認識が食い違っているのだ。例えば、しどくろがスマートフォン向けゲームを実況プレイしたらどうだ。その動画は見ないのか? ──見るだろう。自分が「しどくろの視聴者」であることを自覚する。ゲーム実況にのめり込むということは、すなわちゲーム実況者にのめり込むということなのだ。

「和瑞、好きな芸能人は?」

「なんなんですか、いきなり。デリカシーに欠ける人ですね。無礼者、卑怯者、偽善者、西川響介です」

「言うのかよ。さらっと言えよ、じゃあ。──西川響介がゲームをする、という番組があったらどうだ。見たくないか?」

「ええ!」

「いや、実際あるわけじゃねえよ……。もしそういう番組があったら見ていて楽しいだろ? つまりそういうことだ。僕はゲーム実況界において、お前で言うところの西川響介を見つけたんだよ」

「なるほど、ゲーム実況者もエンターテイナーというわけですか。──さて、着きましたよ」

 ふと妙な気がして顎に手をやる。話が上手くまとまりすぎて、逆に腑に落ちない。返事も忘れて頭を回転させられるようなお題にしてこのあっさりとした着地はなんだ。和瑞との長い付き合いが成せる、培われたコンビネーションの賜物だろうか。

「中小野さん、行きますよ?」

 エレベーターに乗り込んだ和瑞が、扉が閉じないように手で抑えながら呼びかける。うん、とも、ううん、とも付かない間抜けな返事をしながら、中小野も乗り込んだ。


 そういえば、和瑞はよく西川響介の歌を歌う。カラオケでもそうだし、音楽コラボアプリのnanaにもアカペラで歌ったものをよくアップロードしている。

 大人びた、いい歌声だな、と思う。黙っていれば美人、なんていう言葉があるけれど、和瑞の場合は、歌っていれば美人、といったところだ。

「ニコニコ動画に歌ってみた動画は上げないのか?」

「私のは鼻歌みたいなものですからね。そもそも動画が作れません!」

 なぜか威張るように語尾を強めた和瑞の言葉に、そっか、と独りごちるように返事をする。確かにニコニコ動画というくらいのもので、動画──つまり映像は重要なファクターだ。中小野も映像の編集には知識が乏しいながらも力を入れている。複数のパートを演奏している場合は、そのぶん画面を分割する。ピアノ演奏の場合は横からの映像に真上からの映像を織り交ぜる。見ていて飽きないよう、工夫は怠らない。見て頂く、という姿勢でもって動画としておもしろいものを作らなければいけない。それはゲーム実況者も同じことだろう。録画環境、録音環境を整え、更に映像編集も行っている。紛れもない、彼らもまたエンターテイナーである。そういう視点でもしどくろの動画を見てみたい。帰宅後、見る時間はあるだろうか、とiPhoneを手に取る。


 一ノ瀬冬馬 : ナカ、なにしてる?


 コンビニでアルバイトをしていた時の先輩である一ノ瀬冬馬からLINEのメッセージが届いていた。視力が悪いこともあるけれど、文字を認識するのにやや時間を要した。「見る時間」よりも「体力の余裕」が懸念される。不思議草でたらふくビールを飲んだあとに入ったカラオケで、目の前にあるカクテルが既に三杯目。これがなんのカクテルかも、もうよくわかっていない。

 一ノ瀬、中小野、和瑞は職場でも特に仲がよかった三人で、それぞれコンビニのアルバイトは既に辞めているが、こうして今も連絡を取り合っている。和瑞に一ノ瀬から連絡が来たことを伝えようと思ったが、なにか歌いたい曲が思い付いたようで、一心不乱に電子目次本を操作していたのでやめた。LINEを開き、「和瑞と飲んでる」と返信する。すぐに「どこで?」というメッセージが届いたので、この場合は位置のことだろうと、「吉祥寺」と答える。そこで会話は切れた。この時間帯なので、どこそこで飲んでいるので合流しろ、といったところだろう。この時間帯。そうだ、時間を確認するんだった、と思った瞬間に「中小野さん!」と大きな、必要以上に大きな声で和瑞に呼びかけられた。頭が痛い。

「なにか一緒に歌いましょう!」

「なにかって?」

「凛として時雨」

「馬鹿言うな。あんな難しいの歌えるわけないだろ。『3年目の浮気』とか『別れても好きな人』なんかのデュエット曲かと思ったら」

「……中小野さん、ほんとに二十代ですか?」

「もうすぐ三十代だけどな」

「わかりました。『男と女のラブゲーム』で手を打ちましょう」

「さっきの言葉、そっくりそのままお前に返すよ」

 ──散々たるものだった。有名な楽曲とはいえ、二人ともまともに聴いたことがないようで、うろ覚えも甚だしく、歌の八割は適当なメロディーだった。「飲みすぎたのはあなたのせいよ」のワンフレーズだけ自信満々に歌う和瑞が可笑しく、笑ってしまってサビすらまともに歌えない有様だった。

 はしゃいだせいで一段と酔いが回った気がする。飲みすぎたのは自分のほうだ。頬を膨らませながら息を吐く。

「中小野さん、水いりますか?」

「ああ、いいよ。それより、今何時だ?」

「〇時ですね」

「和瑞、お前、終電は?」

 和瑞がスマートフォンで調べ始める。調べ慣れていないのか、なかなか返事が来ない。カラオケのモニターに目を移すと、アイドルと思しき女性グループが「片思いあるあるが詰め込まれた曲になってます!」と自らの楽曲をPRしていた。

「〇時五十分ですね」

「そうか」

「そうですよ。ラーメン食う時間は充分にあります。さあ、中小野さん、行きますよ!」

 へいへい、と腰を上げながら、中小野は己の近い未来をシミュレーションする。〇時五十分に吉祥寺を出発。徒歩十五分だから、帰宅は一時五分。シャワーを浴び、髪を乾かし、歯を磨いたら一時半。今日、しどくろの動画を見るのは、無理だ。


       3


 ラーメン屋を出たのが〇時四十分。いい頃合いだった。鉛筆を使い切ったような満足感で、中小野は改札口の前に立っていた。隣には同じように和瑞が立っている。そして、なにかを棒読みするように、なんの感情の起伏もなく、こう言った。「間違えました」と。中小野は事態が飲み込めず、きょろきょろと辺りを見回した。間違いない、ここはJRの改札口だ。和瑞は練馬区に住んでいるのでここから中央線か総武線に乗る以外にルートはない。電光掲示板を見上げる。

「各駅停車 00:50 中野」

 あるじゃないか、〇時五十分の中野行きが。

 中野行きが。

 練馬駅に行くには中野駅のもうひとつ向こうの東中野駅から大江戸線に乗り換えなければならない。この電車は、中野駅までしか行かない。

「まじか」

 中小野は財布の中身を覗き見る。所持金、二千円。普段はクレジットカードを使うので最低限の現金しか持ち歩いていない。恰好はつかないが──二千円を和瑞に差し出す。

「少ないけど、タクシー代」

「だっさ! こういう時って普通、万札を握らせるもんじゃないですか? しかも練馬まで乗るのに二千円じゃ全然足りないんですけど」

「終電の時間を勘違いするミスを犯しておいてよくそんな物言いができるな」

「中小野さんだって確認を怠ったじゃないですか」

「なんで僕が責められなきゃいけないんだよ」

「まあ、いいんですよ、中小野さん。私、明日休みなので介抱がてら中小野さんを家まで送り届けますよ」

「僕はそこまで酔っていない」

「酔っ払いはみんなそう言うんですよ」

 かくして、中小野と和瑞は吉祥寺駅を辞した。一寸先は闇を絵に描いたような夜道に、四つの足音が響く。聞こえてくる。からぽこ、からぽこ、と。


 ばたん、と音がした。玄関の扉が張り詰めた糸を切ったようだった。部屋に入った瞬間、体全体に疲れが押し寄せてくるのを感じた。ベッドに腰掛けるつもりが、プッシュパペットのようにぐにゃりと横になってしまう。

「中小野さん、水いりますか?」

「ああ、いいよ。それより、今何時だ?」

「〇時ですね」

「無限ループって怖くね?」

 和瑞がペットボトルの水を頬に当ててくる。帰ってくる途中、「一瞬待っててください」とコンビニに寄っていたのでその時に購入したものだろう。冷たい。その冷たさが心地好く、意識が遠のいていく。「大丈夫そうですね」と和瑞の声が聞こえた気がした。


 肌寒さに目が覚めた。エアコンがついている。和瑞がつけたのか。

「和瑞?」

 姿が見当たらないので部屋の向こう──キッチンの方向に声を投げてみる。ひどく掠れた声に、すぐそばに置いてあったペットボトルに手を伸ばす。和瑞が買ってくれたものだ。底の辺りになにか付着していると思い、指先で払おうとしたそれは、油性のペンで書かれた数字だった。

「7.23」

 昨日の日付。なんのために? と訝しげに見つめながら、水を呷る。次いで、壁時計を見上げる。午前六時。いよいよ妙だと思い、立ち上がってキッチンを覗きにいく。が、やはりいない。

「始発で帰ったのか? 休みって言ってたのに」

 言い終えた瞬間、それもそうか、と思う。ベッドを占領してしまったので眠れるはずもないか。「ごめん、寝ちゃったよ」と和瑞にLINEを送る。まだ移動中なのか、既読が付かない。

 午前六時に目が覚めたのはラッキーだった。出勤の時間まで随分余裕があるため、中小野はゆっくりシャワーを浴びた。昨日の疲れがお湯と一緒に流れていく気持ちよさを感じる一方で、シャツを着たままシャワーを浴びているような、なにかがじっとりと貼り付いている気持ち悪さもあった。

 どうして和瑞は黙って出ていったのだろう。

 髪を乾かし、コーヒーを煎れる。一息ついたところで、もう一度LINEを開く。家に──少なくとも練馬に着いていないとおかしい時間だった。既読は付いていなかった。


       4


 今日はグラディウス2のBGMを聴きながら帰ることにした。これもまた衝撃的な音源だった。リズムセクションがドラムの音を奏でており、バスドラムの重低音までも再現されているのである。他と一線を画す迫力のあるチップチューンを楽しむことができる。

 急行吉祥寺行きの電車の中、iPhoneを見つめる。しばらく新しいiPodは買わなくていいかな。そんな気になっていた。頑なに使わなかったミュージックのアプリも、一度汚した靴のように、必要以上に気にすることなく使えるようになった。なにより、ファミコンの音楽を聴きながら電車に揺られるのは楽しい。改めてファミコンの音楽が好きなことを自覚する。さあ! という気持ちで再生ボタンを押したあとで、一ノ瀬からLINEのメッセージが届いた。

「昨日、どうだった?」

 ん? と思う。和瑞と飲むのは珍しいことではない。もちろん、一ノ瀬も二人でよく飲みにいくことは知っている。感想を訊いてくるなんて珍しい。

 三人が仲よくなり始めた頃、一ノ瀬は、中小野が和瑞のことを好きなのではないか、と勘ぐっていたようで、二人で遊びに出掛けたあと、よく詳細を訊かれたものだった。一ノ瀬は男女と聞くと真っ先に恋愛を連想するような男だ。これはお酒の席での話だが、初めて会う女性が目の前に現れた時、コンマ二秒でキスできるかどうかを判断しているらしい。そんな男の前で和瑞に対する友情などとても主張できたものではない。そういうアンテナを張り巡らせているからか、どちらかというと冴えない容貌にも関わらず、一ノ瀬はよくもてた。会うたびに彼女が違う、というと大袈裟ではあるけれど、それに近いものがある。また友達同士を焚きつけてくっつけた、と自慢げに語るのを聞かされたことも何度かある。〝恋愛脳〟だ。一年以上友人関係を続けてやっと、中小野と和瑞の間に恋愛感情はない、と理解した様子だった。そう、三人の付き合いが一年を過ぎた頃、ぱたっとなくなったのだ。どうやら一ノ瀬の中で一年という期間が恋愛に発展するかどうかのラインらしい。

 いつぶりのことだろう、と懐かしい気持ちになりながら、「めちゃくちゃだよ」と文字を打つ。

「あいつ、今朝、始発で帰っていったんだよ」

「朝まで飲んでたのか?」

「終電逃して僕の家に泊まっていった」

「そうか」

 誇らしい気分だった。女性が家に泊まっていったという事実を、なんの含みもなく伝えられることに、男女の友情は成立するということを世に示したような、誇らしい気分だった。

 渋谷駅のホームに発車ベルが鳴り響く。それがグラディウス2のBGMと妙にマッチしていて、中小野はいつか見たグラディウス2のゲーム実況動画のプレイ画面を思い出す。どんな人がゲーム実況をしていたのかは思い出せなかった。


 新しい動画、『【クロノ・クロス】CHRONO CROSS 〜時の傷跡〜【弾いてみた】』を投稿して今日で一週間になる。けれど、一度もニコニコ生放送で配信をできていないことがずっと気がかりだった。

 配信をしていると、動画視聴ページに「この動画の投稿主は現在生放送中です」というアナウンスが表示される。そのテーブル内に「生放送を見にいく」というボタンがあり、クリックすれば、すぐに配信を見ることができる仕組みになっている。動画は投稿直後が最もいろんな人に見てもらえる期間になるのでニコニコ生放送の番組の集客、ひいては番組の発信元であるニコニコミュニティの集客が期待できる。動画の投稿直後、ニコニコ生放送で配信をするのは、継続して見てもらえる、新たな視聴者を獲得するのに非常に有効な手段だ。

 今日こそは、と意気込んで井の頭公園駅に降り立つ。ツイッターを開き、あっ、と思う。昨日、不思議草で和瑞のツイッターに悪戯書きしたことをすっかり忘れていた。ツイートを確認するため、友達だけで構成されたリストを開いてタイムラインを遡る。二度のスクロールのあと、和瑞のツイートが表示された。アイコンが元に戻っている、と思ったのも一瞬のことで、そのツイートの内容に、ん? と眉が持ち上がる。「さあ、始めっかああああああ! かんぱああああああい!」という文章にふたつのジョッキの写真が添付されている。これは悪戯書きをする前のツイートだ。

 ──削除されている。

 よくよく考えてみれば、和瑞のほうからなにも言ってこないのは不自然だ。怒ったのか……? 和瑞が始発で帰ったのも、LINEの返信が来ないのも、合点がいってしまう。他人のスマートフォンを勝手に触る、というのはデリカシーに欠ける行為だった。

 謝らないと、と思うけれど、ひとまず返信を待つことにした。「ごめん、寝ちゃったよ」というメッセージに対する返信だ。思い出し、項垂れる。この上なく、間抜けだ。

 ツイッターを閉じる前に、一度ホーム画面に戻る。あっ、と今度は声に出た。


 しどくろ @sidcro・1分

 【動画】しどくろ的ロックマン2その二 nico.ms/sm29566013 を投稿しました。 #sm29566013

 ♥11


 帰宅後、いつものように「ただいま」と言ったところで、しまった、と思った。昨日も言えばよかった。そうしたら、なにかしら返事があったのに。

 中小野に迷いはなかった。MacBookを起動すると、ツイッターから『しどくろ的ロックマン2その二』のリンクをクリックした。元気も薄れていたし、気分を変えたかった。

「うぽつ」「しどちゃーん!」と既にたくさんのコメントが付いている。「投稿早くて嬉しい!」「クイックしどくろ」というコメントの流れに、口角が上がる。ロックマン2のボスの一体、クイックマンにかけたネタだ。

 初回の動画で、しかもランキングに載ると、多くの人の目に止まるため、〝荒らし〟も発生するが、そういう連中は次の回で一気に削ぎ落とされる。平穏な雰囲気の中、『みなさん、こんにちは。今日もロックマン2、やっていきたいと思います』としどくろが言った。

 モニタースピーカーから聞こえる声に、どこか物足りなさを感じ、動画を一時停止してヘッドフォンに切り替える。しどくろの落ち着いた声音はヘッドフォンでずっと聞いていても疲れよりも癒しが勝る。それはまるで、布団の中で付き合い始めたばかりの恋人と長電話するような、好きな人の囁きを耳元で聞くような、そんな幸福感だった。

『前回、プレイに夢中で言い忘れたんですけど、ロックマン2、めちゃくちゃ音楽かっこいいですね。かっこいい』

 さすが、よくわかっている。この子と話せたら楽しいだろうな。そんなことを考えていた。リプライも気軽に送れない現状、それは版権の一部が他社にあるライブ・ア・ライブのリメイクを望むくらい見通しの暗い話だ。

『ここで……しょいしょい投げる!』

 ロックマンが葉っぱの武器『リーフシールド』を連射している。

「しょいしょいって」

 今時珍しい言葉遣いに最初は驚いたが、どうやら最も特徴的なのは擬音語といえそうだ。語彙は豊富だし、語気もしっかりしているのに、擬音となると「からぽこ、からぽこ」だとか「しょいしょい」だとか、途端に幼稚っぽくなる。そのギャップに、笑ってしまう。昔から、不意打ちのように女性の可愛さを見せつけられると笑ってしまう癖があるのだ。

 今回の動画ではカット編集が行われていた。ステージをクリアするのに三時間かかったようだ。技術的なところも見たいと思っていたが、しどくろの話す言葉を聞いているうちにすっかり忘れてしまった。嫌な気持ちも、すっかり。

「おつかれさま」とコメントを打ち、ブラウザを閉じる。言いたいことは、もっと他にある。


 和瑞からLINE通話がかかってきたのは、中小野がシャワーを浴びようと服を脱いだタイミングだった。

 脱いだ服を再び着た。居住まいを正す。

 いつもの調子で「あ?」と出るわけにはいかない。かと言って、「はい」も不自然だ。逡巡の末、「もしもし」と出ることにした。「もしもし」をいい言葉だと思ったのは生まれて初めてのことだった。

 しかし、先に言葉を発したのは和瑞のほうだった。前置きは、なかった。

『中小野さん、好きです。付き合ってください』

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