第四章 しどくろ

       1


 どうかしている、と中小野はかぶりを振る。ありえない。インターネットには日本中どこからでもアクセスすることができる。ともすれば海外からアクセスしている可能性だってある。半径一キロメートル圏内にしどくろがいることなどありえないのだ。

 ──ニコニコ動画って見たりしますか? そこでゲーム実況をやってるみたいで。

 そんな、まさか。

 ネックレスの棚が並べられたフロアの中央、店員らしき女性の後ろ姿が見えた。方向から察するに、先ほどの声の主だろう。百五十センチメートルくらいの身長、紅茶色のショートボブ、白地のノースリーブワンピース。それらの情報をひとつひとつ認識していくに連れて鼓動のギアが上がっていく。落ち着け、と自分自身に言い聞かせるも、溢れ出る水を手で押さえつけるように、高まる緊張はまるで歯止めがきかなかった。

 中小野にとってしどくろの声を間違えることこそありえないのだ。毎晩ヘッドフォンで聞き続け、その音声波形までも手に取るようにわかる。

「優!」

 声に、びくっと肩を震わせる。隣を見ると眼鏡女子が大袈裟に手を振っていた。「優」と呼ばれた女性がこちらを向いて目を見開く。

 全てのパーツを丸で描けてしまうような気さえする柔らかい顔立ち。コンマ二秒でそんな感想に至ってしまう。

「どうしたの?」

 困惑しながら、優が近付いてくる。この「どうしたの?」は聞き覚えがある。ライブ・ア・ライブのシナリオのひとつ、原始編では言語が存在しないため、キャラクターはアクションで感情表現をする。「どうしたの?」と優しく問いかけるしどくろの声にぴたりと重なる。

 ふっふっふー、と眼鏡女子が〝ドヤ顔〟を見せる。

「遊びに来たよ」

「連絡くれればよかったのに」

「それじゃサプライズにならないでしょ?」

 えっと……と優が中小野、眼鏡女子、中小野、眼鏡女子、と視線を往復させる。その様子に気付いて眼鏡女子が「ああ!」と中小野のシャツの袖口を掴んだ。

「こちらの方は私をここまで案内してくれた紳士です」

 紳士、と中小野と優の声がユニゾンになり、一拍置いて笑いが起こる。

「友達がご迷惑をおかけしました」

 と頭を下げた優に対し、ライヴ・ア・ライブの原始編よろしく、眉毛をふわりと持ち上げながら手を細かく振ることで「いえいえ、気にしないでください」という意思を伝える。

「はじめまして。北坂優です」

 北坂優。

 しどくろに関連する文字が入っていないな、と思う。

 小さく息を吸い込んで、「どうも」と軽く会釈をする。きちんと発音できたことに胸を撫で下ろす。

「中小野翔です」

 えっ! と今度は優と眼鏡女子の声がユニゾンになる。

「変わった苗字ですね」

 お決まりの感想を眼鏡女子が口にする。「よく言われます」とやはりお決まりの返答をする。

「真ん中に小さい野原、と書きます」

 宙空に視線をよこし、二人に対して答えたのだが、どうやら優のリアクションは眼鏡女子のそれとは異なるようだった。「あの……」とまっすぐに中小野を見つめる。

「中小野さんって、ニコニコ動画の、なかこのさんですか?」

 フリーズしたように表情が固まる。

 今、なんて?

「優、この人知ってるの?」

 眼鏡女子が首を傾げる。優が「知ってる」と頷く。

「どこかで聞いた声だなあ、と思ってたんですよ。ニコニコ動画でゲーム音楽を演奏してるなかこのさんですよね? 私、生放送もよく拝見させて頂いてるんですよ」

 溢れ出る水が洪水の勢いを伴う。心臓を、そこに根を張る血管ごとごっそり掬い上げる。

「私、しどくろです。ゲーム実況をしてるしどくろ。わかりますか?」

 そしていよいよ津波の規模になった。思考回路そのものがぐしゃりと潰され、どこか遠くへ流されてしまった。


 目の前にしどくろがいる。

 しどくろは中小野を知っている。


 頭の中で何度も反芻する。しかし、理解が現実に追いつかない。「ああ」と声にするのが精一杯だった。

 動揺する中小野をよそに、眼鏡女子が「世間ってほんと狭い」と笑う。

「優、中小野さんに案内してもらったお礼にアクセをプレゼントしたいの。見繕ってくれない? ちょっとトイレ行ってくるから。よ、ろ、し、く!」

 言い終えるや否や、眼鏡女子が歩き去る。しばらく二人でその後ろ姿を呆然と眺めた。


「中小野さん」

 名前を呼ばれた。しどくろの声で。それだけで得も言われぬ幸福感に包まれる。録音したい、と思った。〝エンドレスリピート〟したい、と思った。それはきっとどんなチップチューンよりも心地好いことだろう。

 ──それ、まじで言ってんの? 気持ち悪いやつだな!

 確かに。

「お会いできて光栄です。ツイッターでリプを頂いた時もすごくびっくりしたんですけど、ひゃあ、こんなことってあるんですね」

「ねっ」

 ねっ。

 最悪である。「ねっ」という相槌を置いてしまったがために「僕もです」という言葉を乗せられなくなった。全力で平静を装うばかりに、無愛想な振る舞いをしてしまっている。

 まずい、と思って優の顔を見た。厳密に言うと、髪を見た。やはりたったそれだけのことで、うわあ……というため息が漏れそうになる。声だけの存在である者の実体を視認するインパクトは凄まじいものがある。その圧に押されて言葉が引っ込んでしまう。

「中小野さんは、この辺にお住まいなんですか?」

 ナイスパスが来た。名誉は挽回するためにある。

「うん、ここから井の頭公園を跨いだ所。すぐそこだよ。本当にすごい。こんな近くにしどくろさんがいるなんて夢にも思わなかったよ。ネットでしか見られない人を目の当たりにして今すごく感動してる」

「私もです」

 この子には敵わないな、と思った。

「しどくろさんもこの近くに住んでるの?」

「私、横浜なんです」

「それはまた……随分遠いね」

 八王子の比ではない。通勤に一時間以上かかる。どうして吉祥寺のアクセサリーショップに? という中小野の疑問に先回りして優が「違うんですよ」とやや語気を強める。

「普段は横浜のピルエットで働いてるんですけど、ヘルプでこっちに駆り出されてるんです。最低、って思ってたんですけど、中小野さんにお会いできたのでよしとします」

「人助けをするといいことあるんだな、って僕も思っていたところ」

 優がおどけるように両目をぎゅっと瞑った。中小野はこれを「両目ウインク」と名付けた。

 どこを切り取っても絵になる秋の京都のような子だ。

「そうだ、中小野さん。うちの店、メンズのアイテムは置いていないんですけど──ピアス、開けてます?」

「開けていないよ」

「むう、困ったなあ」

「いいんだよ、本当に。『人助け』なんて大層な言葉を使ったけれど、京王井の頭線の改札口からここまで来ただけなんだ。散歩にもなっていないよ」

「じゃあ……ちょっと待っててください」

 そう言って、優はレジカウンターに引っ込んだ。しばらくして、一枚の紙片を手に戻ってきた。

「これ、私のLINEのIDです。よかったら今度食事に行きませんか。私が中小野さんのお話を聞きたいっていうのもあるんですけど、駄目ですか?」

 二〇〇七年公開の日本映画『ALWAYS 続・三丁目の夕日』の最大の見せ場、主人公が「駄目なわけないだろう!」と叫ぶシーンを再現したい衝動をぐっと抑える。

「しどくろさん、通勤は車?」

「いえ、電車です」

「このあと、軽く飲みに行かない?」

「このあと、ですか」

「駄目ですか?」

 優が、ふっ、と笑った。

「いいですよ。じゃあ、九時半に交番のところで」

「よかった」

「私、待ってますね」

 LINEのIDが書かれた紙片を受け取る。レアアイテムを手に入れた高揚感で、手が拳を作ろうとする。折り目がつかないように注意しながらポケットに仕舞った。


 小走りに眼鏡女子が戻ってきた。随分遅かったな、と思う。

 ──うんこ。

 和瑞の闇アカウントに書き込んでしまった悪戯書きを思い出し、消しゴムを滑らせるように右手でごしごしと両目をこする。

「遅かったね」

 優があっけらかんと尋ねる。言っちゃうの? と面喰らったが、眼鏡女子が「それがさあ」と両手を腰に置いて仁王立ちになる。

「帰り道がわからなくなっちゃって。あれって不思議よね。帰り道ってまるで景色が違うんだもん」

「帰り道」や「景色」というほど広大なフロアではないが、方向音痴の人の視界にはそう映っているのかもしれない。

「そんなことより優、中小野さんにお礼のアクセ」

「それならもうお渡ししたよ」

「そっか、ありがと」

 えっ、と思い、優の顔を見る。両目ウインクが炸裂した。


       2


 待ってますね、と言われたが、女性を待たせるわけにはいかない。ピルエットを後にすると、すぐさま吉祥寺駅東口交番前にやってきた。一時間程度待つことになったが、LINEの「友だち」のページに加えられたしどくろのアイコンと「ゆう」という文字を見つめていたら、あっという間に時間は経過した。約束の時間ちょうどに優は現れた。

「ごめんなさい。お待たせしました」

「ううん、僕が早く来ただけ」

「どこに連れていってくれるんですか?」

 少しは楽しませてくれよ、とせせら笑う屈強なエリート兵士の目で、優が中小野を見上げる。ファイナルファンタジーに出てくる魔法「ライブラ」でステータス数値を覗き見られているような気がしてやや腰が引ける。例えば、雑学65みたいに。

 店の知識であれば、一ノ瀬の足元にも及ばない。吉祥寺の程近くに二年間住んでいる中小野よりも吉祥寺の店に詳しいのだ。

 食通は〝イケメン〟の重要な要素のひとつだろう。人間の三大欲求は食欲、睡眠欲、性欲。この中で、恋愛関係が成立する前の男女が共有できるのが食欲だ。基本的には──。おいしいものを食べていると人は幸せを感じるので、女性においしいものを食べさせてあげることは、幸せを提供してあげることになる。一ノ瀬がなぜもてるのか、今更ながらにそれを実感する。

 しかし、と中小野はほくそ笑む。誰もが舌鼓を打つ寿司屋があったとして、相手の女性が生魚が苦手であれば、その時そこはおいしい店ではない。ラーメン屋でラーメンが食べたい、と思っているかもしれない。ケースバイケースだ。その点で、中小野は相手の女性を熟知している。優が喜ぶ場所を知っている。それは──。

「ゲームの世界」

「異世界転生でもするのですか?」

「まあ、そんなところ」

 ふふん、と鼻を鳴らし、吉祥寺の駅前を三鷹方面へと歩き出す。優は吉祥寺をゆっくり歩いたことがないらしく、時折「ここはなんですか?」と尋ねてきた。ひとつ、ふたつ交わす会話は、オレンジ色の街灯に吸い込まれ、穏やかに膨張して二人を包み込む。本当に異世界にいる気分がした。


 一人分の幅しかない左曲がりの細長い階段を地下へ降りるとハリーズ・ロンドン・パブは現れる。ウッディな内装、大きめのシーリングファン、アイボリー基調のテーブル席。そう、なんの変哲もないバーだ。ほとんどの人にとっては。

「ここはハリーズ・ロンドン・パブ。とっておきの場所」

「イギリスが好きなんですか?」

「違うよ、キャサリンが好きなんだ」

「キャサリン?」

「うん、ゲームの」

「ゲームのキャサリン?」

 あれ……。

 知らないのか、キャサリンを。プレイステーション3のソフト、キャサリンを。確かにそれほどメジャーなタイトルではない。けれど、現在もプレイステーション3で遊んでいるゲーム実況者のしどくろがキャサリンを知らない、というのは思いも寄らなかった。

「知らない……? アトラスゲーなんだけど……?」

「アトラスゲー?」

「アトラスのゲーム。女神転生やペルソナでお馴染みのゲーム会社」

「あっ! ペルソナ4はやりました!」

「キャサリンはペルソナの開発チームが制作したアクションアドベンチャーゲームで、アドベンチャーパートはストレイ・シープっていうバーが舞台なんだけど、ここがそこにそっくりなんだよ」

「へえ、そうなんですね」

 にっこりと笑う優の笑顔に安堵しながらも、同時にうっすらとした違和感が込み上げる。本当にしどくろが、あのしどくろが、目の前にいるのか? 動揺はかなり落ち着いたが、未だに心の整理はできていないようだ。

 座ろうか、と言って、キャサリンの主人公とその仲間がいつも座っている辺りのテーブル席を目指す。「でも素敵なところですね」と優が言うので、「うん」とだけ答えた。前途多難である。


 お目当てのテーブル席を前に、どうぞ、と手でエスコートすると優は上手の席に着いた。

 和瑞の声が〝脳内再生〟される予感がしてすぐさま「なに飲む?」と尋ねる。

「しどくろさんはどういうのが好きなの?」

「甘いやつ」

 おっけー、と笑ってカウンターに向かう。ハリーズ・ロンドン・パブはその名の通りパブ形式なので、飲み物はカウンターで注文し、お金を支払ってから受け取る。

 背中に優の存在を感じながら、カウンターに身を乗り出す。

「ビールと──」

 今度こそ間違えないだろう。「甘いやつ」という言葉にはふたつの重要な意味が含まれている。ひとつは、文字通り甘いお酒が好きだということ。もうひとつは、それほどお酒に頓着がないということだ。具体的な言い方をしないのはそれにこだわりがないから。この場合、お酒らしくないお酒が正解ということになる。すう、と息を吸い込む。

「グラスホッパー」

 勝った……と中小野は確信する。しどくろのツイートでチョコミントアイスの写真を見た覚えがある。

 ドリンクを受け取ると、やや広い歩幅で、優の元に戻った。「はい、これ」とグラスホッパーを差し出す。

「飲むチョコミントことグラスホッパー」

「おいしそう!」

「名誉は挽回するためにある」

「へ?」

 いや、こっちの話、と言いながら椅子に腰掛ける。次いで、パイントグラスを宙に浮かせる。「奇跡的な出会いに乾杯」と言おうとしたが、「乾杯」より前の部分は発音できなかった。

 重なるグラスを見て、繋がった、と思った。インターネットではなく、リアルで。

 店内には大きなモニターが壁に一台設置されていて、ジョーン・オズボーンの『One of Us』のミュージックビデオが流れている。ポップスでは珍しい、神様を讃える歌。「God is good」と中小野も口ずさんだ。

 カクテルグラスをテーブルに置いた優が「あの……」と口を開く。

「お願いがあるんですけど」

 なにかまずいことをしてしまったのか、と焦ったが、優の表情は柔らかかった。一呼吸置いて、ん? と軽く目を見開く。

「しどくろさん、って呼ぶの、やめてもらってもいいですか?」

「うわあ、ごめん! そうだよね、誰が見てるかわからないもんね」

 早口に言って、前髪をぐしゃっと掴む。「いえ、そうではなくて!」と優が慌てて両手をぶるぶると振る。

「こうして面と向かって話してるのに、なんだか遠いな、と思ってしまいまして。私、中小野さんとはもっと近い距離でお付き合いしたいと思ってるんです。感情を表に出すのが下手なのでわかりにくいと思うんですけど、めちゃくちゃ喜んでるんですよ、実は。私、お友達が全然いないので、こうして外でお酒を飲むなんてこと滅多になくて、あの、これからも一緒に遊んでくれませんか? って、今来たばかりなのにもう次の話……。すみません、スーパー構ってちゃんで」

 おや、と思う。もしかしたら優も同じようにモニター越しに憧れのような感情を抱いていたのか? と期待してしまう。

「じゃあ、優ちゃん──でいいのかな? 僕からもひとつお願いが」

「なんでしょう?」

「タメ口で喋ってほしいんだけど」

「いいんですか? 私、二十二の小娘ですけど」

「しどくろさん──じゃなくて、優ちゃんの喋り方がすごく好きで。それが敬語になるといいところが死んじゃうんだよね」

「わかりました──わかった」

 あははは、と二人で笑う。

 それからいろんな話をした。最初、話が聞きたい、と言われた時はてっきりニコニコ動画での活動のことだと思っていたけれど、プライベートな内容が大半を占めた。おかげで緊張は消えた。自分の中で大きな存在となっていたしどくろと話す感覚から、北坂優という一人の女性と話す感覚にシフトできたからだ。横浜で一人暮らしをする、二十二歳の、普通の女の子だった。


       3


 地上に出ると、雨が降っていた。

「まじか。雨の予報じゃなかったのに」

 iPhoneで天気予報のアプリを開く。傘のマークが目に飛び込んできた。

 ……後出しはなしだろう。

 鞄から折り畳み傘を取り出そうとして、隣で棒立ちになっている優が視界に入る。

「傘、ある?」

「ない」

 中小野は折り畳み傘を勢いよく取り出すと、優の眼前で振り子のように揺らしてみせた。

 備えあれば憂いなし、ということなので、折り畳み傘は常備している。しかし、これまで一度も活躍の場はなく、本当の意味でのひみつ道具と化していた。それでも、持っていてよかった。

 二〇一五年公開のアメリカ映画『マイ・インターン』で、「ハンカチなんて必要?」と尋ねられた主人公が「必需品だ」と答えるシーンがある。「ハンカチはいざという時、女性に貸すために持つもの」と言い放った。きっとこの折り畳み傘も、今日この日のために持っていたのだろう、と思える。

「入っていく?」

「いじわるー」

「親切でしょ?」

「逃げ道のない質問はいじわるだよ」

 ごめんごめん、と開いた傘を優の頭上に掲げる。優の微笑んだ顔を確認すると、中小野は二人三脚のスタートのように慎重に歩を踏み出した。

 雨は強くもなく弱くもなく、帰り道を演出するように優しく降り注いでいる。ここまでの都合のいい展開を鑑みて、この雨は自分たちの周りにだけ降っているのではないか、とさえ思う。

 傘に当たる雨音が耳に心地好い。そんなことを考えていると、優が言った。

「傘に当たる雨の、ととん、っていう音、好き」

 独特の擬音語を交えた愛らしい言い回しに、堪えきれず吹き出す。

「えっ、どうして笑うの?」

「僕も今、同じこと思ってた」

「おお、やったー」

「やったー?」

「なんか、クイズに正解したみたいだから。──じゃあ、今度は中小野さんの番ね。私は今、どんなことを考えてるでしょうか?」

「ラーメン食べたい?」

「ぶぶー」

「なんだろう? 正解は?」

「楽しい時間がもう終わっちゃうなあ、って」

 その通りだ。意識して考えないようにしていたことだ。別れの時は近い。またすぐに会えるのだけれど、今生の別れのように感じてしまう。夜の帳が下りた暗い景色に、ゲームのエンディングを見ているような感覚があった。ただ、クイズは不正解だったものの、寂しさを優と共有している事実に、気持ちが舞い上がる。

「次はどこに行こうか?」

 このゲームは、続くのだ。


 吉祥寺駅のJRの改札口。中小野は電光掲示板を見上げた。

「快速 23:36 東京」

 新宿、品川経由で横浜駅には〇時四十四分に到着する。

 いろいろあったけれど、間違いはなかった、と思える。

 優が鞄の中に手を突っ込んでなにかをごそごそと探していた。ああ、Suicaか、と思っていた中小野は出てきたピンク色のそれをアニメのギャグシーンのようなわかりやすさで二度見した。

 折り畳み傘。

「確信犯でした。ごめんね」

 その言葉を合図に世界は切り離され、虚空に二人だけが取り残された。全ての時間が早送りになり、己の行動に思考が付いていかなかった。自我を取り戻して初めて思ったことは、優の瞳がものすごく綺麗だということだった。

 中小野は優にキスをした。

 駅構内の喧騒がゆっくりとフェードインしてくる。それに比例するように冷静さを取り戻していく。二人を横切っていく人々が「TPOをわきまえろよ」「バカップルかな?」と口々に毒づいているような気がして隠れるような気持ちで俯く。

 前髪の隙間から優の様子を覗き見た。同じようにただ黙って俯いている。

 なにか言わなければ……と思うけれど、言葉で説明できる気がまるでしない。だからこそ行動に出るしかなかったのだろう、とも思う。

 やっとの思いで出てきた言葉を口にする。

「仕返し」

「やられたらやり返す?」

「チュー返しだ」

 あまりのつまらなさに今すぐ殺してほしい願望に駆られる。ところが、「チュー返しって!」と優はお腹を抱えて大笑いした。中小野のお腹を抱えて──。

 聞かれたら恥ずかしいと思うくらいに心臓が大きな音を立てる。

「ちょ、ちょっと」

「もう行かなきゃ」

「あっ、うん、また今度」

「あとでLINEする」

 優が改札の向こうへと消えていく。

 最後の最後で、間違えたかもしれない。

 きっとこう言うべきだったのだ。

 好きです、と。

 中小野はiPhoneを強く握りしめた。


       4


 待ち合わせの時間を利用して一ノ瀬にLINE通話をかけたら和瑞と一緒にいるということだった。一瞬迷ったが、「今、ちょっといい?」と確認する。

「報告があるんだ」

『なんの?』

「しどくろと会った」

『しどくろ? 誰だ、それ』

 よし、と思った。そして、ずるいな、と思った。和瑞に優の話をする度胸はない。だけど、一ノ瀬の口を使って間接的に伝えることができた。

「ゲーム実況者だよ、この前話した」

『ああ、追っかけてるネットアイドルか』

「ゲーム実況者だって! 三日前に偶然会ったんだよ、吉祥寺で」

『嘘乙』

「嘘みたいな話だけど本当なんだ。ハリーズ・ロンドン・パブで一緒に飲んだ」

『それ、まじで言ってんの?』

 気持ち悪いやつだな、とはもう言わせない。モニターの向こう側にいる人に恋をしているのではない。多摩川の向こう側にいる人に恋をしているのだ。

「横浜に住んでる二十二歳の北坂優という名の女の子だよ」

『お前、まさか……ストーカーしたのか?』

「そんなことするわけないだろう! 本人から直接聞いたんだよ」

『わるい、冗談だ。こっちも引くに引けなくなってな。──で?』

「告った」

『すげえじゃん! いつも、女はもういいや、みたいなオーラを纏ってたお前が、この短期間で告白まで行っちゃうか!』

「彼女も僕のことを知っていたんだよ。話したいって言い出したのは彼女のほうなんだ。これさ、運命の出会いだと思わない?」

『ナカ、よく聞くんだ。それ、絶対優ちゃんに言うんじゃねえぞ』

「なんで?」

『まあ……それがお前のいいところだ。優ちゃんもきっとお前のそういうところが好きなんだろう』

「いや、まだ返事は聞いていないんだ」

『ああ、そうなのか。先走っちゃったな』

「飲みに行って別れた後、LINEで告ったんだよ。考えさせてほしい、と言われた。初めて会ったその日に告ってOKもらえるほど甘くないのはわかってるから、上々の返事だよ」

『そうだな。女もいろいろあるんだわ。軽い女って思われたくないし、みたいな。きっと上手くいくさ。──和瑞が喋りたそうにしてるから代わるな』

 えっ、というリアクションを一ノ瀬は待たなかった。がさがさ、とスマートフォンを手渡す雑音が耳に痛い。

 咳払いが聞こえて、どくん、と心臓が跳ね上がる。罵倒されても仕方がない。憎まれ口も受け止めるしかない。中小野は固く目を瞑った。

『中小野さん、告白の返事待ちなんですか? 大変ですね。気が弱い中小野さんのことだから不安で不安で夜な夜な枕を濡らしていることでしょう。──でも大丈夫ですよ。自信を持ってください。私、男を見る目はありますから』

 泣いた。

 涙が、iPhoneを伝った。

 ありがとう、と言いたかったけれど、声にならなかった。声に出そうと頑張るのだけれど、代わりに涙が流れてしまう。

『泣くなよ』

 と消え入りそうな声がして、それからiPhoneのバックライトが消えた。

 うう……と変な声が出た。RPGに出てくるアンデッド・モンスターのように上体が力なく折れ曲がっている。

「どうしたの?」

 声に振り返ると、すぐそばに優が立っていた。あれ? と思う。まだ約束の九時半にはなっていないはずだ。

 よく見ると、優の肩が一定間隔で揺れている。もしかしたら、急いで仕事を片付けて走ってきてくれたのかもしれない。

「私、疲れさせちゃった……?」

 ううん、とかぶりを振る。関係ないんだ、と笑う。「だけど……」と小さく、それでいて力強く囁いて、優の手を掴む。

「連れていきたい場所があるんだ」


 返事を急かすような、そんな子どものような真似はできないと思っていた。困らせたくはない。けれど、「考えさせてほしい」ということは、その時点では決めかねるということだ。つまり、決定的なものがない。ただ黙って待っていたところで、決定的なものが自然発生するはずがない。従って、こちらからアクションを起こすべきなのである。

 このゲームは、失敗できない。

 どこか満足してしまっていた。伝えられたことに喜びを感じ、その場で断られなかったことに幸せを感じてしまっていた。けれど、それでは駄目なのだ。この告白は、成功させなければならない。この告白は、和瑞の「友情」の上にあるのだ。

「ご注文はお決まりですか?」

「あとで呼ぶよ。ありがとう」

「はあい」

 美里がテーブルを離れる。赤みがかったアッシュグラデーションの髪が揺れている。その後ろ姿を目で見送ったあと、優に向き直った。

「ここは不思議草。行きつけの居酒屋」

 そして、中小野の世界。

「優ちゃん、実は……」

 和瑞の声を思い出す。

 ──でも大丈夫ですよ。

 大丈夫。

「今日は返事が聞きたくて呼んだ」

 そういうことにした。

「びっくりしたあ……。私、中小野さんに嫌われてしまったのかと思った」

「嫌われる?」

「とてもつらそうだったから……。私に苦しめられてもう嫌になっちゃったんだと思った」

「そんな、ばかな」

「でもそうだよね。返事をしないと」

 優が忙しなく両手で髪を撫でる。

「気負うことはないからね。NOなら、このまま。友達のまま。二人の関係がマイナスになるわけじゃないんだ。ただ、OKなら、僕はすごく幸せだよ」

 最後のプレゼンテーションだった。中小野は真一文字に口を結んだ。

 優はこくりと頷いた。中小野の目をまっすぐ見つめ、そして言った。


 謹んでお受けします。


 まじか。

 両手で小さくガッツポーズを作り、そこに顔をうずめた。

 運命だ! と叫びたい気持ちを一ノ瀬の忠告で抑え込む。

「中小野さん、ごめんね。私、答えはもっと以前に出てたんだけど、言い出せなくて。今日、中小野さんが誘ってくれてよかった。それから、気負うことはない、って言ってくれて」

「こんなに幸せなことはないよ」

「ほんと? 私、お友達いないし、パソコンに向かって一人で喋ってるし、残念な子だけど、中小野さんが幸せでいられるように頑張るね」

 胸の辺りになにかが刺さったような、けれど、快感ともいえる痛みが走った。祈りのようにシャツを掴む。この痛みで死んでしまいたい。

「優ちゃん、ひとつ訊いていい?」

「なに?」

「優ちゃん、僕のこと、好きなの?」

「逃げ道のない質問は──」

「聞きたいんだよ」

「好きだよ」

 ビールを頭から浴びたい気分だった。本当にそうしてしまうような気がして、美里を呼ぶのはもう少しあとにしたほうがいいな、と厨房を一瞥する。

「じゃあ、私からはクイズ」

「またクイズか」

「ふとした瞬間に顔が浮かんで会いたくてしょうがなくなっちゃう女の子わーたし?」

「クイズになってないんだよなあ」

 あははは、と優が楽しげに笑う。落ち着いたところで、「ねえ」と大袈裟に顔を上げた。

「どっちが先に好きになったんだろうね」

 優はまだ知らない。ロックマン2の実況動画が始まったあの日から、好きだったのだ。ふっ、と鼻で笑う。

 付き合い始めたばかりのカップルのテンプレートのような質問に、優とカップルになったことを実感する。 

 同時に、静かに恐怖感が湧いた。

 事が上手く運びすぎている。

 中小野は運気というものを信じている。人生に運は付き物で、幸と不幸を行ったり来たりしてプラスマイナスゼロに帳尻を合わせる仕組みだと考えている。優との恋愛は奇跡的に成就した。そうなると、このあとものすごく不幸なことが訪れるのではないか……と気が沈みそうになった。

「乾杯しよう?」

 優が両目ウインクを見せた。

「美里ちゃん! ビールと甘いやつ!」

 どうでもいいじゃないか。

「僕は元々快楽主義なんだ。目先の快楽に溺れる男だ」

「へ?」

 いや、こっちの話。

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