ドット絵は操られていることを知らない
宇城和孝
第一章 中小野翔
1
かちっ、という音を立てるだけの小さな板をポケットに押し込む。
iPodが壊れた。
ディスプレイをタッチするタイプではなく、ボタン操作の旧型──つまり使い古した代物なので多少の覚悟はしていたけれど、多種多様な音色を鳴らしていた機器が、乾いた単音を鳴らすだけの板に成り果てたことに愕然たる思いを禁じ得ない。
あれはどこだっただろうか、と中小野翔は回想する。幼少期に展望台に連れていってもらったことがある。望遠鏡に顔を目一杯くっつけて景色を眺めることに没頭していると、突然目の前が真っ暗になった。どうやらその望遠鏡は、百円で一分間見られる、という仕組みらしかった。あの時の衝撃と余韻に似ている。
急行吉祥寺行きの電車に人が吸い込まれていくのを見ていた。今日は普段より早く退社できたので、帰宅ラッシュに巻き込まれずに済むかもしれない、と早足で改札を通り抜けてきたが、そこは渋谷。結局のところ満員電車の構成員になりそうな気配だった。
「まいったな……」
呟くと同時に、ツイッターに書き込む。各駅停車吉祥寺行きの電車に乗り換える永福町までは身動きが取れない。音楽も聴けずに、ただただ窮屈な思いをしながら揺られるだけの時間を想像すると、他人の重力まで請け負ったかのように足取りが重くなった。そうしてのろのろとホームの端まで歩き、いくばくか混み具合がましであろう先頭車両に乗り込んだ。ポケットに仕舞う前にツイッターのアプリを終了させようと再びiPhoneに目をやった瞬間、はたと気付く。
これで音楽が聴けるじゃないか!
バッテリーの消費を嫌って音楽プレイヤーとして使ったことがなかったため、ミュージックのアプリの存在をすっかり忘れていたが、着信音やアラームで使用するためにファミコンソフトのサウンドトラックがいくつか入っている。iPodからイヤフォンを抜き、それをiPhoneに差し込んだ。ふう、と息を吐く。
最先端デバイスからぴこぴことチップチューンが鳴る、というのはやはり不思議な感じがする。近年はYMCKを筆頭に、現代音楽にチップチューンを用いるアーティストが数多く活躍しており、古臭さこそ払拭されてはいるものの、旧時代的な印象は拭えず、ちぐはぐが楽しい。
中小野はファミコン世代とは少しずれていた。ゲームはスーパーファミコンから始めたので、童心に返ることもなければ、〝思い出補正〟もないが、短形波二音と三角波一音の合計三音とノイズの四チャンネルのみという制約の中で構成された楽曲、というものに感動せずにはいられないのだ。
ドラゴンクエスト3の戦闘曲が流れている。この楽曲を初めて聴いた時は仰天した。六小節目から七小節目にかけてのフレーズがなにをやっているのか全くわからなかったのだ。ゲーム音楽鑑賞及び演奏がなによりの趣味である中小野はいても立ってもいられず、音源データを音楽制作ソフト──いわゆる〝DAW〟で読み込み、採譜を試みた。六連符の分散和音だった。こんなのよく思い付くなあ……と感嘆した。大学卒業後、定職に就かずに時間を持て余していたことも相まって、それからしばらくの間、取り憑かれたようにファミコンの音楽をコピーした。ノウハウを手に入れたつもりになって、三音で作曲をしてみたりもしたが、自分の作曲の才能の乏しさを確認するだけの作業に終わった。
他人の音楽で遊ぶほうがおもしろい。
ここが中小野の人生の分岐点だった、と言えば大袈裟だろうか。後方には株式会社パステルミュージックがある。そこで業務用通信カラオケの制作をしている。そして、前方には自宅のマンションがある。そこでゲーム音楽を演奏した動画を動画投稿サイトのニコニコ動画に投稿している。そんな毎日だ。
『お降りの際、お足元にご注意ください。永福町です』
と曲間を車内アナウンスが埋めた。
各駅停車吉祥寺行きの電車は空いていた。ぽつぽつと空席があったので座ることにした。発車する前にツイッターをチェックしようと、ポケットからiPhoneを取り出す。乗り物に揺られながら細かい文字を読んでいると酔ってしまうのだ。ツイッターを開く。
なかこの @nakakono2525・15分
まいったな……。
♥12
なごみ @Nagomin_Klein・11分
@nakakono2525 私はパンケーキ食って幸せな気持ちでいっぱいです! チーーーーース!
基本的に病気 @kihontekini_・10分
@nakakono2525 どうしたんですか? なかこのさんにいいことありますように!
ツイッターをすぐに閉じたのは、和瑞のリプライが鬱陶しかったから、という理由ではない。鬱陶しいことに変わりはないが──。隣に座ってきたスーツ姿の眼鏡女子がiPhoneの画面を覗き見ている気がしたからだ。視線を確認したわけではなかったが、腰を下ろしてから微動だにしない所作に少しばかり嫌悪感があった。電車は混んでいても空いていても落ち着かないことに変わりはないらしい。再び流れている音楽に耳を傾ける。
自宅の最寄駅である井の頭公園駅に着き、辺りがまだほんのりと明るいことに面喰らった。普段より早い時間の帰路ということもあるけれど、季節は真夏を迎え、随分と日が長くなった。改札を抜けて空を仰ぎ見ると、「井の頭公園駅」の文字が視界に入ってくる。今風の、美しい駅だ。改装される前の、田舎の駅のような雰囲気を醸し出していた頃のほうが隣接する井の頭公園に合っていてよかったと思う。〝懐古厨〟ではない。インターネットで散見される、ファイナルファンタジーは6で終わった、という論争は目を通すことすら億劫だ。7以降、どれもが名作RPGであることは疑いようがない。
遠回りになるが、井の頭公園の敷地内を通って帰宅するのが好きだ。話題沸騰中のポケモンGOに勤しむ群衆を縫うように歩く。大勢の人がゲームを楽しんでいる光景は大変に微笑ましく、自然と笑みがこぼれた。けれど、その中に混ざりたい、という思いはなかった。スマートフォン向けゲームには全く興味が湧かない。ゲームはコントローラーを握って遊ぶもの、という固定観念があるのだ。〝懐古厨〟ではない。たぶん。
2
部屋の電気を点けて、「ただいま」と口にする。煙草の煙のように静かに壁に溶け込むだけの声を、今夜も発する。くしゃくしゃになったラッキーストライクの箱をデスクに置いた。
シャワーを浴びる前にニコニコ生放送で配信をしようと思った。エレクトリックピアノの電源スイッチを押す。その接続先であるオーディオインターフェースの電源スイッチを押す。更にその接続先であるMacBookの電源スイッチを押す。OSが立ち上がる間、ヘッドフォンを装着する。この一連の流れが、ロボットのコックピットにいるようで気分を高揚させる。
ニコニコ動画にアクセスしたついでにランキングを流し見する。おもしろそうな動画があれば、あとでご飯を食べる時に見よう。そんな程度の心持ちだった。ドットで描かれた青色のキャラクターを認め、画面をスクロールする指がぴたりと止まる。『【実況】しどくろ的ロックマン2その一』のサムネイルに目が釘付けになった。──ファミコンだ。ロックマン2は音楽が秀逸なので中小野にとっては比較的身近に感じるファミコンソフトといえる。ニコニコ動画で、ロックマン2のBGMに歌を乗せた『思い出は億千万』は七百万再生、ロックマン2をテーマにした同人音楽『エアーマンが倒せない』は五百万再生を超えている。有名なアクションゲームなので内容はある程度知っているが、未プレイなのでプレイしているところを見てみたい。思うよりも早く、動画を再生していた。
『一九八八年……私まだお母さんのお腹の中にもいませんね』
黒背景に「1988」とだけ書かれたゲーム画面に、女の子が、あははは、と笑う。
女の子が。
アクションゲームは男性が好むイメージがあるので女性ゲーム実況者であることに驚いた。しかも、一九八八年に母親のお腹の中にいないということは、二十六歳以下ということになる。「生まれていない」ではなく、そんな言い回しをするということは、実際の年齢はもっと下なのだろう。ファミコン世代ではない中小野より更に若い女の子がニコニコ動画に投稿するゲーム実況にロックマン2を選ぶというのはなかなかに興味深い事象だと思った。ページの右上に視線を移す。
投稿者、しどくろ。
朱色の髪をした少女がこちらに満面の笑みを向けている。水彩画のような、淡い色彩のイラストアイコン。しどくろという名前から、なんとなく「死」や「どくろ」を連想していたので強烈な違和感がある。自分で描いたのかな? そんなことを考えていると、ゲームのほうは「200X年」から始まるプロローグが終わり、タイトルロゴが表示されていた。
『みなさん、こんにちは。はじめましての方、はじめまして。しどくろと申します。ロックマン2のプレステ移植版をやっていきたいと思います。ロックマンに触れるのはこれが初めてなので、とっても楽しみです』
なるほど、プレイステーション3でレトロゲームが楽しめるゲームアーカイブスを利用してのプレイのようだ。現行の家庭用ゲーム機であるWii Uにもバーチャルコンソールがあり、やはりレトロゲームが楽しめるようになっている。そう考えると、ファミコンソフトのゲーム実況は特段珍しいものではないのかもしれない。
『じゃあ、もうやっちゃおう。レッツラゴー』
イングリッシュホルンを連想させる、低く、牧歌的な声。さりとて、女の子らしくないということはなく、いちいち跳ねる語尾があどけなく、可愛らしい。二十歳くらいかもしれないな、と顎に手をやる。
その恰好のまま、動画を最後まで見た。
──いいな、この子。
プレイ内容は、とにかくよくゲームオーバーになった。操作するロックマンの挙動は、まさに現代のロボットのそれで、「下手すぎ」「これクリア無理だろ」等、辛辣なコメントが目立ったが、終始楽しげにプレイするので見ていて全くストレスを感じなかった。むしろ、「あぶないあぶない!」「うがあ!」等、笑い声を添えたリアクションに、見ているこちらまで楽しい気分になった。それに、絶望的とも思えた滑り出しも、繰り返しプレイするたびに上達していき、ボスの撃破で動画は締め括られた。ひとつのステージに三十九分という時間を要したが、結果的に「これクリア無理だろ」というコメントがお膳立てする形となり、大きなカタルシスを味わうことができた。
中小野にとって特に印象的だったのは、「ライフ結構あるから、今はいいかしら?」「やだやだ、待って待って、嘘でしょう……」等、女性特有の言葉遣いだった。ゲームをする若い女の子は「くそお」とか「おらあ」といったような、江戸っ子顔負けの語調の子が多いイメージを持っていたので意外だった。女の子が女の子らしい喋り方をするのは惹かれるものがある。「ジェンダー・ステレオタイプ」などという単語があるようだが、中小野はこれを「ないものねだりの法則」と呼んでいる。
──私はパンケーキ食って幸せな気持ちでいっぱいです! チーーーーース!
誰かさんとは大違いだ。
そう思った瞬間だった。手元で、てけてん、と音がした。LINEだ。
和瑞 : ああああああああああああああああああああ
iPhoneを一瞥すると、動画説明文に添えられているしどくろのマイリストをクリックする。他にどんなゲームをしているのか気になった。すると、ロックマン2の他にもうひとつ、ゲーム実況動画があった。ライブ・ア・ライブ。今年いよいよ発売されるファイナルファンタジー最新作の音楽を手掛ける下村陽子がかつて担当した名作RPG。こちらはスーパーファミコンソフトだが、やはりレトロゲームだ。
レトロゲーム好きの女性ゲーム実況者。
俄然興味が湧き、『【実況】しどくろ的ロックマン2その一』のページに戻り、今度は同じように添えられているツイッターのURLをコピーする。こちらは外部サイトなのでクリックすることができない。アドレスバーに貼り付けた。
しどくろのツイッターのプロフィール画面。名前もアイコンもニコニコ動画と同じ。アイコンに、もう違和感はなかった。「ニコニコ動画でゲーム実況をしています!」と書いてある。実にシンプルだ。中小野は自分のツイッターのプロフィールをいまひとつ気に入っていない。どうしても短くまとめることができず、靴の中の小石を取り除けずに歩いているようなところがある。それというのも、ニコニコ動画で活動する際の肩書きに明確なものがないせいだ。例えば、ゲームを実況プレイする人はゲーム実況者 、ボーカロイドで作曲する人はボカロP、ダンスを踊る人は踊り手──。では、楽器を演奏する人は? 弾き手……これでは管楽器や打楽器を演奏する人が除外されてしまう。演奏家……これではまるでプロのようでおこがましい。結果、「ニコニコ動画にゲーム音楽の『演奏してみた』動画を投稿しています」という、若干間延びした文章になってしまっている。歯痒い。
ある数字が目に飛び込んできて、口が、お、と発音する形に開く。
「フォロワー数、三千。僕と同じだ」
しどくろのマイリストから鑑みるに、ニコニコ動画に投稿を始めてそれほど年月は経っていないだろう。三千はすごいと思う。
「フォローしておくか」
続きが見たいし、とフォローのボタンを押したところで、iPhoneが独りでにチップチューンを鳴らした。電話だ。
「〇八〇……」
着信画面に表示されたのは名前ではなく、電話番号だった。つまり知らない番号だ。知らない番号からの電話は迷惑電話と相場が決まっている。これも無視することに決めたが、切れるまで静かに待つ。静かに、ファイナルファンタジー3の『悠久の風』を聴く。LINE通話ではなく、電話がかかってくるのは久しぶりだった。もちろん、『悠久の風』はミュージックのアプリに入っているわけだから、いつでも再生することはできるけれど、なんだか貴重に思えた。
ひとしきり余韻に浸ったあと、不在着信を既読済みにし、ツイッター画面に視線を戻す。すると、通知が来ていた。クリックする。
しどくろ @sidcro・1分
@nakakono2525 フォローありがとうございます!
なんとまめな。
この子は三千人に対してこういう対応をしてきたのか。フォロワー数が四桁ともなってくると、フォロワーのアクションひとつひとつにレスポンスすることは難しい。相当な作業量になる。中小野は早々に「リプライは全て目を通していますが、お返事は難しいのでご了承ください」という一文をプロフィールに添えた。ツイートすればするほどリプライに追われるようになり、気軽にツイートできなくなることを危惧して、そうした。しかし、しどくろはツイッターを始めた当初と変わらない使い方をしているのだろう。フォローしてもらったら、こちらもフォローする。その際に一言ツイートする。
ニコニコ動画で活動する一般人は、テレビで活躍する芸能人と違い、距離感の近さが売り、というところがある。その観点でいくと、視聴者との交流は重要ではあるけれど、大丈夫なのだろうか、と心配になる。世の中、頭のおかしい人が多いというのに。そこのところ、インターネットは顕著だと思う。匿名で一方通行の攻撃がまかり通ることをいいことに非常に暴力的で、他人の揚げ足を取ることが仕事であるかのような得体の知れない組織に監視されているような世界だ。そのような〝クソリプ〟を、しどくろはどうやって切り抜けているのだろうか。
けれど、いい機会だと思った。そんな世界だからこそ、動画がよかったことを伝えよう。しどくろのツイートに対してリプライを送る。
なかこの @nakakono2525・1分
@sidcro はじめまして。ロックマン2を見て。続き、楽しみにしています。
♥1
しどくろからの〝いいね〟に、ふっ、と笑い声が漏れた。
耳の輪郭が痛い。中小野はヘッドフォンをゆっくりと外した。配信は、また今度だ。
3
寝不足である。まごうことなき寝不足である。
右手を両目に押し当てながら、中小野はフリーター時代を思い出す。当時は夕方の出勤だったのでベッドに入る時間はばらばらだった。寝たい時に寝る。元々寝付きが悪く、夜型ということもあって、ひどい時は朝まで起きていた。いい大人なのだからこれではいけない、という意識はあったが、その背徳感もまた夜更かしが楽しい要因のひとつだった。
──馬鹿じゃないの。
引き金があった。快楽が指を伸ばして引き金を引いていた。
後悔先に立たず、ということなので、パステルミュージックに就職が決まった折、午前中の出社になったことを後押しに、堕落した生活から脱却しようと心に決めたのだ。心に決めたのだが──。
「目が痛い」
昨夜、晩ご飯を食べる時に見る動画に、しどくろの『【実況】しどくろ的ライブ・ア・ライブその一』を選んでしまったのが事の始まりだ。
ライブ・ア・ライブは中学一年生の時に、当時付き合っていた彼女がプレイするのを横でずっと見ていたので内容はよく知っている。『【実況】しどくろ的ライブ・ア・ライブその一』の冒頭に「なんだ女かよ、見る!」というコメントが流れた。この言い回しから、女性ゲーム実況者を毛嫌いする風潮があるということがわかる。このコメントはそれを逆手に取ったネタなのだろう。中小野は過去にそういった経験があるためか、女性ゲーム実況者に対してなんら抵抗がない。むしろ、RPGだとしどくろのお喋りがたくさん聞けるので楽しみでしかなかった。
『うわあ、ドキドキする!』と嬉しそうに、本当に嬉しそうにはしゃぐその声が、ゲーム開始のSEに重なる。そしてゲーム本編、主人公が馬に乗って駆けているシーンで、馬の足音を「からぽこ、からぽこ」と斬新な擬音語で表現したのだった。
しばしば耳に入ってくる愛らしい言葉に、鉱山を掘り進めるような気持ちで、その二、その三とクリックしていく。そのうちにすっかりやめ時を逸してしまったのである。
この動画で最後にしよう! と心の中で声を張り上げて再生したその七で、しどくろが泣いた。ゲーム内のキャラクターの死に、『すいません』と言い残し、十秒の沈黙。その後、実況プレイの立て直しを図ろうとするも、健闘虚しく声は震え、やがて嗚咽へと変わった。
──いいな、この子!
そういう展開になることは知っていたのに、目頭が熱くなる。中小野と同じくドラゴンクエスト3の音楽に大きく感銘を受けたことを知り、より大好きになった下村陽子の音楽の懐かしさや改めて聴く楽しさも、文字通りバックグラウンドとなり、まるで今初めてライブ・ア・ライブをプレイしたかのような感動を覚える。
しどくろのゲーム実況は、すごい。
三十三分あるその七を二度、見てしまった。壁時計を見上げると、午前四時。寝ないと、寝ないと、と思うほどに眠れず、結果、三時間しか眠ることができなかった。
和瑞 : 今夜用事で吉祥寺に行くんすわ! 飲み行きましょうよぉおおお!
濃いめのコーヒーを片手にツイッターを見ようとiPhoneを手に取ると、和瑞からLINEのメッセージが届いていた。どうしたんだ、こんな朝早くに、と一瞬身構えた自分が馬鹿らしくなるようなひどい文章をタップしてLINEを開く。
──さて、どうしたものか。
突然の飲みの誘いは嫌いではない。社会人になると、人と会う時はアポイントメントを取り付けるのが基本になった。各々予定というものがある。飲みに行く時も然りで、「来週の金曜日空いてる?」といった具合だ。しかし、来週の金曜日に外で飲みたい気分かどうかなどわからない。最も理想的なのは、「今から飲みに行こう」と誘うことだ。だから、嬉しくなってしまう。こんな風に言い合える間柄を大事にしたい。……ただ、今日はしんどい。
何度か文字を打ったり消したりしたのち、送信したメッセージは「おk」という二文字だった。断れない性格というのもあるけれど、これは昨日の和瑞のLINEを無視した埋め合わせをしろということだな、という考えに至った。
和瑞から送られてきた「聞こえないんだ。耳にバナナを突っ込んでいてね」と喋る謎のLINEスタンプを見届け、今度こそツイッターを開く。通知が来ていたので確認すると、中小野は再び右手を目の位置に持っていった。
しどくろに送ったリプライがリツイートされている。
誰がリツイートしたのか確認すると、「一人の非公開アカウント」という文字だけが表示された。
「めんどくさ……」
あのリプライはすぐに消しておくべきだったかもしれない。中小野としどくろには共通のフォロワーがいないため、あのリプライが第三者のタイムラインに表示されることはないが、どちらかのプロフィール画面を開き、「ツイートと返信」を表示させれば誰でも見ることができる。見ている人は見ているのだ。どちらの視聴者だろうか。何れにしても、このリツイートが意味するものは、おそらく牽制だ。
ふわあ、と大きな欠伸をしながら家を出た。閑静な住宅街にあるマンションの前の通りは、乗用車同士がなんとかすれ違うことができる程度の狭い道。その道の真ん中をぬらりくらり歩いていると、前方、アスファルトの上に茶色い異物があるのが見えた。
──なんだ?
視力が悪いにも関わらず、風景がぼやけているほうが落ち着くから、と眼鏡もコンタクトレンズもしない中小野が、茶色い異物を確認するにはかなり接近する必要があった。通り過ぎる直前のところで歩行速度を緩める。ごしごしと涙を拭い、そして見下ろした。
「うわ!」
咄嗟に目を背ける。雀だった。車に轢かれ、潰れた雀の死骸だった。
なによりも先に浮かんだのは、「なぜ?」という疑問だった。餌が落ちていて、食べるのに夢中になって近付いてくる車の存在に気付かなかったのだろうか。中小野は悔しい思いと情けない思いが入り混じったような表情を雀に向けた。
「なにやってんだよ」
今度はお前が餌になる番だよ。
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