月曜日は一週間の始まり。社会人は会社、学生は学校と憂鬱な場所へ飛び込んでいく中、西園理緒だけは気持ちが軽かった。

 スーツではなく、カジュアルなワンピースに軽くメイクを施して家を出た。

 切りそろえられた短い黒髪を揺らしながら、白いサンダルで舗装されたアスファルトを踏み、音を鳴らす。

 電車に乗る最中、彼女は何をするでもなく、ただ目的の場所に着くことだけを考えた。

 途中で路線を一本乗り換え、更に一〇分ほど走ったところで降りる。

 駅から直結するショッピングモールへの入り口を抜け、エスカレーターに乗り、三階まで上がる。

 そこは一フロア全てが映画館となっていた。

 先日公開したばかりの映画の半券を購入し、上映時間まで館内の告知用モニターなどを見て回る。

 ほんの少しだが、面白いと期待の寄せられる作品を見つけた所でアナウンスが入場の案内を始めたので、理緒はスタッフに半券を見せてスクリーンへと歩いていく。

 スクリーン内の見取り図と上映する映画の小さなメインビジュアルのポスターが入り口前の壁に嵌め込まれている。

 通路を抜けると目の前には大きな白いスクリーンが広がり、反対には自分の指定した座席に着き始めている人たちの姿があった。

 月曜の朝、客は当然少ない。

 映画というコンテンツ自体、もう人があまり触れるものではないのだ。

 面白みを感じない、上映数は多くない、場所も限られているとなると、物好きな人間ぐらいが残ってくるのだろう。

 などと考えながら、理緒は座席横の階段になっている通路を歩き、自身の座席がある列を見つけた。

 J—18番という、スクリーンが真ん中で観れる場所。

 特等席だと彼女は思っている。

 そのため、他の場所で観る時も大体真ん中をキープしているのだ。

 映画が始まるまで、次に公開される映画の宣伝や、このショッピングモールの宣伝などが流れる。

 端末の電源を切り、しっかりとした体勢で鑑賞に臨む。

 照明が落ち、完全な暗闇となった後、物語が始まった。


 およそ二時間後、照明が点くと座席の客が帰る仕度を始めている。理緒とて例外ではない。足下に置いた鞄を取り、立ち上がる。

 混雑するほども人がいないので、足早にスクリーンから出た彼女は、館内の券売機付近で立ち止まる。

 やはり失敗であったか、と先ほど観た映画の内容を順に思い出しながら、次はエレベーターへと歩いていく。

 早めの昼食を摂ることにして、飲食店の並ぶエリアに入った。

 有名なチェーンのパスタ専門店があったので、そこに決めた。

 夏の野菜を使った冷製パスタを注文し、食べ終えると即座に店を出る。

 他にも店をいくつか見て回ったが、特に彼女の気を惹くものはなかった。

 帰路に着いた彼女は、夏と言ってもおかしくないほどの日差しを背中に浴び、汗をかいていた。

 普段から体を鍛えている分、その量は少ないが、体力の消耗は感じられる。

 顔を赤くし、顎からながれた汗が首筋を伝う彼女の姿は、男性の目からどう映るのだろうか。

 ようやく自身の家に着いた頃には、午後三時を回っていた。

<お帰りなさい。今日は暑いわね>

 生活支援システムの声と共にエアコンの電源が入る音を理緒は聞き取った。

 脱衣所へ向かった彼女は、ワンピースと下着類の全てを洗濯機の中に入れ、浴室に足を踏み入れる。

 シャワーをぬるま湯にして頭から全身へと浴びる。

 汗は全て洗い流され、同時に彼女の体温はクールダウンしていくのが分かった。

 シャワーを止め、システムが用意してくれたのであろうバスタオルを手に体を拭いていく。

 水を含んだ髪が肌にはりついている。

 リビングに戻った彼女は、服を着てから片付けを始めた。

 いらないものは捨ててしまおうと唐突に始めたそれは、自然と彼女を集中させた。

 普段から整理整頓には気を配る彼女であったため、一時間もかからずに終えてしまった。

 家でトレーニングをするのも悪くはないと思った彼女であったが、読書に時間を使うことにした。

 映画は祖父からの、読書は彼女が見つけた趣味である。

 高校の頃、祖父に映画という趣味があることから自分も何か持ちたいと思ったのがきっかけだ。

 一時期は自身で書くこともしていたのだが、いつしか読むことばかりになっている。

 後悔がないわけではないが、今は少なくとも書こうという気にはなれないのだ。

 もし、小説家という職種が絶滅危惧種になる前の時代なら、第二の選択肢として上がっていたに違いない。

 夕焼け変わりそうな空を横目に、窓際でページを捲り続ける。

 たまに入り込んでくる風は生温いのに理緒は心地よさを覚えていた。

 大方読み終えたところで、休憩を挟むことにした。

 システムを呼び出すと、いつも通りの女性の電子音声が響く。

 夕飯の準備を頼んだ彼女は、ソファに移動してテレビの電源を点けた。

 特に面白い番組はやっていない。

 CMも倫理カウンセラーを管理する会社や健康に関する呼びかけばかり。

 今の時代は、ある意味で前の時代より最悪の状況に陥っていると理緒は思う。様々なものが規制されたことにより、健全で優しい世界を実現しようという考えに至るのは無理もない。

 現にそれで納得している人間が大半だ。

 しかし、納得していない者がいるのも事実である。

 万人に享受されるものなど存在しない。

 前の時代を知っているわけでもないが、話に聞く限りでは、今よりも明るかったのだと思う。

 犯罪が今よりも多く、毎日が悲惨なニュースにまみれていても、どこか明るい時代であったと彼女の祖父は語っていた。

 夕飯を終えた後は、再び本を読むのに窓辺へと歩み寄る。

 先ほどの生温い風よりも冷たくなっているそれが肌に触れると、更に心地よさを覚えた。

 およそ一時間ほどで、残りを読み終えた理緒は、体を大きく伸ばす。

 明日の仕事に備えて早めに寝るのも悪くないと思い、入浴を済ませた。

 ベッドに入り、端末のアラームをセットしておく。

 いつも通り七時に起きることができるように枕元にそれを置くと、目を閉じた。眠りに就くまでの間、いつも考え事をする。

 昨日観た映画のような、今日読んだ本のような出来事が起きてから、または夢の中で起きないだろうかと。

 知らない誰かに変わっていたり、町を巨大な生物が襲ってきたりなどと考えている自身に気が付いた彼女は大人。

 無意識の内にそういったことを考えられた時に戻りたいと思う部分も、                                                                                 大人であると言われている気分になる。年を取るのは嫌なものだと再確認しながら、彼女は眠っていた。



 帰ってきた恵那はどこか楽しそうであった。肩までの髪を一つ結びにしてキッチンに立つと、ブレザーを脱いで椅子の背もたれにかけ、エプロンをつけている最中であった。

「お帰り」

 物陰から顔を出したナナの声に彼女は振り返って笑みを浮かべた。

「何か嬉しいことあったの?」

 彼女に影響されてか、ナナも笑いながら問う。

 気分の良い恵那は、夕飯の仕度をしながら、今日の話をした。

 明の書いてきた小説が自分の好きな分類で、誰よりも上手い文章であったこと。

「彼の文書で私の好きなSFが読めるとは思ってなかったからね」

 それが一番の理由だ。

 今日も両親の帰りは遅いようで、二人は早々と順に入浴まで済ませた。

 自室に戻った恵那は、今日も同じようにしてパソコンの前に向かっている。

 キーボードを素早く叩くことで、文書ソフトのページには文字が打ち込まれていき、それに伴う形で黒く染まっていた。次々と言葉を繋いでいく光景にナナは、やはり何も言うことが出来ずに目を奪われるばかりであった。

 部活で修正された箇所と新たに書き始めた部分がある。

 ようやく完成させることが出来たと彼女は、大きく息を吐いた。

 集中していた為に時計を見ていなかった彼女は、既にいつも寝る時間を過ぎていたことに少しの驚きを覚えつつ、パソコンの電源を落とした。

 床に敷いた布団にはナナが寝息を立てて眠っている。部屋の電気を消して、ベッドの上に横たわると目を閉じた。

 日曜に行けなかったナナの記憶探しにはいつ行こうか。考え事をしている内に恵那は眠りに就いていた。


 それから数日の間、ほぼ毎日のように同じ日が続いた。いつも通りの時間に学校に行き、家に帰り、また次の日になる。そんなことを繰り返して、ナナとの出会いが一週間になった。

 金曜日の夜、記憶を探しに行くことについての話をする。

 先週行くことが出来なかったあの山に向かうこと。

「あの山に行けば、記憶を取り戻す何かがあるんだよね?」

 問われたナナは、多分という曖昧な答えしか返すことができないが、それを問い質すのは無意味だと分かっている恵那にとっては十分な返答であった。

 あの日、出会った時の彼女は頂上に中心部から出てきた。

 ということはあの場は何らかの重要なものがある。

「明日、行ってみよう。私もナナの記憶が戻る手助けをするって決めたから」

「ありがとう。あの場所に行けば記憶が戻るとも分からないけれど、何かは分かると思う」

 自信がないと言った風に答える彼女にあそこで何をしているのかを聞いたが、記憶には既にないという。

 あの時、気絶したショックで自分がどこから来たのかも忘れてしまったということか。

 いずれにせよ、彼女の重要な部分があの場所にはあるのだろう。

 考えれば考えるほど、恵那も緊張を覚えてしまうのであった。


* * *


 翌日、土曜は快晴であった。

 七時に目を覚まし、アドミニストレータのアプリによる定期検診。

 姿見の前で露になった自身の胸に端末を押し当てるのには、やはりうんざりする彼女。

 服を着直し、一階へ下りると既に頼子が朝食の準備を始めているところであった。

 今日も両親は出勤なのだ。

 ナナは既に起きていて、彼女の横で忙しなく動いている。

 忠弘も身支度を済ませて食卓に着いた。

 四人が揃って朝食を摂るのも、この一週間で慣れてしまった。

 両親が仕事に行くのを見送った少女二人は、さっそく準備を始めた。

 自転車なら一〇分ほどの山も歩いていくならば、それなりに必要なものはある。

動きやすいようにと服装も合わせ、二人してまるで険しい登山でも行うかのような装備だ。

 二人揃って、リュックを背負う。

 家を出て、山までの道のりを歩くが、今日は最近でも一番気温が高い一日であった。

 ナナは暑さに弱い。初めて出会った時から恵那は知っていた。

 そのため、彼女の体調にも気を遣う。目的地に着く前に倒れてしまうようでは、この先が困る。

 しかし、暑いことには変わりない。

 気を紛らす為に学校であったことや、他にも最近あった出来事を話す恵那である。

 歩き始めて一〇分で麓には着いた。

 舗装された道を歩いていくのだが、太陽の光が照りつけた地面は、熱を反射させているかのような熱気を感じさせた。恵那の顎から汗が滴り落ちる。

 それはナナも同じことであり、彼女達にとって今日のこの場所は、とても険しい壁のように思えてならない。

 歩くこと三〇分ほど、ようやく二人の出会った山頂に着いた。

 ベンチに腰掛け、持っていたミネラルウォーターのペットボトルを口に当て、冷水が一気に体を冷ます感覚が広がる。

 冷たいものを体に含んだ際に起きるあの頭痛に襲われた恵那は、額に軽く手を当てて抑える努力をした。

 対してナナは、動かない。

 先ほどからどこか一点を集中して見ていた彼女の目線に合わせた恵那は、それが街であることを理解する。

 ここからは、住宅地と自然の多い『町』と企業や学校が集結する『街』に分けられる。

 ナナの見ていたのは後者の方で、そこに何かがあると言いたげな視線に問いかけた。

「あそこに何かがあるの」

「見覚えがあるはずなんだけど、どこか違うの。私の知っていた場所と何かが」

 もう四半世紀以上前から町と街の景色に分かれていることに変化はない。

 恵那が生まれる前からの話だ。

 気にしないでほしいと、ナナは小さく述べて、持っていたペットボトルを口に当てた後、額を軽く抑えていた。


 数分間の休憩を取り、ナナが来た山の中心部へ向かって歩き出す。

 それほど高い山でもないが、意外にも幅はあったようで、反対側の景色は一向に見えてこない。

 見渡す限り木々しかないこの場所は、小さな樹海のようにも捉えられる。

 ナナはよく出てこられたものだ、と恵那は前を歩く彼女に言ってみたが、あの時は何も考えずにただ歩いていたと、息を切らした彼女の返答がなされる。

 彼女は倒れるまでの記憶を一切失くしていると言った。

 そのため、やはり全てが手探りである。草むらをかき分け、木々の間を通り、ぐるぐると歩き回るうちに、それはあった。鉄の開閉扉。このような山奥に一体何故このようなものが。

 ハイキングコースを作っているため、何らかの手が加わっていてもおかしくはないが、果たしてこれは何の意図があるのか。想像力の豊かな少女の目には、この扉がどこか別の次元に繋がるワームホールで、ナナという少女はそこから来た過去か未来の人間であったりして、などと先走る考えを抑えるので手一杯であった。

 しかし、ナナは扉に触れたまま動かない。先ほどから彼女の意識がどこかへ飛んでいるのには、やはり何がしかの理由があるのだろう。

 その背中へ名前を呼びかけると、半身をこちらへ向けたナナの目は恵那を捉えていた。

「思い出した。ここから来たんだ。私、このエレベーターで地下から――」

 途中で言葉を区切り、片手を頭に当てる。もしかして、また頭痛があるのではないかと心配になった恵那は、彼女の側に寄る。

「ごめんなさい。これ以上のことは思い出せそうにない」

 申し訳ないといったその瞳に、謝る必要のないことを告げた恵那は、扉の先がエレベーターで、地下が存在することを示唆したナナの言葉をしっかりと覚えていた。

 扉の側に草や苔が生えていることから、随分と前から存在していたものだというのが分かる。

 草を掻き分けると赤いボタンを見つけた。唾を飲み込み、ナナの方を一瞥した恵那の意図を読み取ったのか、彼女は頷いた。

 人差し指がボタンを押し込むと、およそ三〇秒ほどで鉄の扉が左右に開いた。中は本当にエレベーターで、湿気などの影響でか黒ずんでいる部分が見受けられる。

 二人の他にもう数人は乗れそうなほどの大きさだ。壁面には、階数を記したボタンが並んでいる。

 ここが最上階として扱われるため、後は全て地下行きだ。

 およそ一〇階ほどに分けられているボタンの一つを押す。

 始めに、最も近いB9のボタンを押す。扉が締まり、下降を開始したのが体を包む一瞬の無重力で分かった。

 停止したエレベーターが開くと、目の前は暗がりで、漏れている明かりでようやく足下の地面が見えるほどであった。恵那は端末のライトを点灯させ、下から上へとゆっくり照らしていく。

 ナナは背中のリュックを前に持ってきて、中から懐中電灯を取り出す。

 二人して光源を持ちながら移動する。

 空気はひんやりと冷えていて、何とも不気味な雰囲気を覚えさせた。

 歩き始めて気付いたことは、扉が開かれたままの部屋が幾つもあることと、中には机と椅子、そして医療器具などが置かれていることであった。

「ここ、病院か何かだったのかな」

 恐怖を覚えていた恵那は、ナナに身を寄せる。彼女も同じく体を寄せていた。一体何が行われていた場所なのかという疑問よりも、何かがで出てくるのではないかという緊張感が勝っていた。

 続いて、下の階へと向かって行く。

 下に向かうに連れて、部屋の数は減り、中に残っているものの数も同時に減っていく。

 そして、ナナの体にも目に見える異変が感じ取れた。動悸が激しく、顔も赤い。彼女の名前を呼びながら、体を支えた恵那は、エレベーターに戻る。

 迷わずに地上へのボタンを押した恵那に対し、ナナは息を切らしながらも下に向かうように言った。

 しかし、彼女の様子を見れば誰でも同じ行動をしていただろう。

 地上に戻ったエレベーターの扉が開くと、木々の間を抜けた熱気が二人の顔に当たる。

「ナナ、しっかりして」

 半ば叫ぶようなその声で呼びかけるも彼女は一人で歩くことも出来ないほどに疲弊している。

 エレベーターを出ると、再度あの木々の中を歩くことになるのだが、一度来た道を脳か、はたまた体が覚えていたのか早くにあのベンチが置かれた場所に戻ってくることが出来た。

 すぐにナナをベンチに寝かせ、水の入ったペットボトルを口に宛てがう。横になったままの彼女の体内を冷水が流れ込んでいくが、様子が変わる気配がない。額に手を当てると、熱があるのが分かった。

 先ほどは高く昇っていた日も徐々に傾いていることで、気温は多少下がっているようだ。

 しかし、ナナの体温は依然下がる気配がない。

 彼女を担いで山を下りることがまた起きるとは、恵那は思いもしなかった。


 夜中、ナナは突然目を覚ました。

 体中が汗で濡れていた彼女は、不快感を覚えてゆっくりと上半身を起こす。

 見回すとそこは恵那の部屋で、眠る前の経緯をまったく覚えていなかった。

 ベッドの側に人の気配を感じたナナが見ると、自身の両腕に頭を乗せて眠る恵那の姿があった。

 似たような光景が彼女と出会ってすぐの頃にもあったのを覚えている。

 自身の記憶がないことにナナは、呆れと苛立ちを覚えながら、汗に濡れた服を着替えるべく、ベッドから下りた。

 恵那が貸してくれた衣装ケースの中から、一週間前に出かけたショッピングモールで買った服を手元に置き、今着ている服を脱いだ。

 横を見ると、そこにはいつも恵那が遣う姿見があった。

 毎朝、アドミニストレータというアプリによる自身の心理や体調を管理局という場所に送ると彼女は言っていた。

 思い出すだけで、軽い頭痛を覚える。恐らく、自身はアドミニストレータという存在と何かしらの関わりを持っているのではないか、という思いが彼女の中に渦巻いている。

 服を着替え、時計に目をやると午前五時を示していた。

 朝焼けの時間、カーテン越しに差し込む淡い光がどこか哀愁を覚えさせる。

 ベッドに寄り添う形で眠る恵那の元に腰を下ろした彼女は、その体を後ろから抱きしめる。

 寝息を立てる彼女の温かみに安心を覚えた。

 ナナにとって、恵那の温度は単に体温によるものだけでなく、親切にしてくれる思いが大きかった。

 小さな声で感謝の言葉を述べた彼女は、大きな欠伸をする。ゆっくりとベッドに戻ったナナは横になって、目を閉じた。


* * *


 恵那が目を覚ました時、まだナナは眠りに就いていた。服が変わっていたように思ったのは、気のせいだと考え直した。七時。端末を手に姿見の前に立つ彼女は、いつものように服を脱いでそれを胸元に近づけた。

<おはようございます。雨野恵那様。心拍数、体温ともに正常。しかし、睡眠時間が少ないようです。日々の疲れを取る為に休息は必要と――>

 煩わしい電子音声の言葉を途中で切断した彼女は、服を着直して一階へ下りる。

既に朝食の準備を終えようとしていた頼子がナナの様子を訊いてきたので、眠っているとだけ告げた。

 不安を思わせる顔を見せた母親を背に蛇口から出た水道水を一杯分飲む。

 学生、社会人共に喜びと悲しみが同時に襲う、週末の日曜日。

 恵那の心は深海に沈んでいくようであった。

 自室に戻り、ベッドに横たわるナナの顔を見つめ、時折名前を呼ぶ。反応がないことを分かっていながら、翌日が締め切りの課題と部誌に載せる小説を終わらせるべく進めた。

 起きない少女と二人一部屋。淡々とキーボードを叩く音だけが連続して響く。休憩を挟み、ベッドの方へ目を向ける。自分が彼女にどうしてほしいのか、ということを改めて考える恵那。

 記憶が戻ってほしいのか、戻らずにずっと一緒にいたいのか。

 記憶喪失の人間が以前の記憶を取り戻した際、次は失くしてから出来た新しい記憶が失われる。

 もしそれが正しいのならば、ナナはきっと恵那のことを忘れてしまうだろう。人格まで以前に戻るとなれば、恵那が知らない彼女の姿を見ることになる。

 表では彼女の記憶が戻る手伝いをしておきながら、裏ではそれを願わぬ気持ちが存在していた。

 余計な考えは振り払おうと額に手を当てる。

 それと同時にナナの声が聞こえた。

 ベッドの上で体を捻った後、大きな息を吐いて上半身を起こした。

 長く白い髪を下げたまま恵那の方を見た彼女の目は、まだ虚ろであった。

 徐々に光を取り戻したその目は、ようやく恵那を捉えたのか、名を呼ぼうと口を動かそうとする。

 それよりも先に体の動いた恵那であった。ベッドに倒れ込んだまましばらく動けないでいた二人だが、やがてナナが恵那の頭に手を置く。

「ごめんね。私、また忘れた」

「いいよ。何も言わなくていいから」

 一日話すことが出来なかっただけで、こうも不安に陥っていたことに恵那自身も驚きを隠せなかった。

 両親にもナナが目を覚ましたことを報告し、一段落する。

 一度目を覚ました時間があったが、再度眠気に襲われた為にずっと眠りに就いていたのだとナナは言った。

 山に登っていたことを話すと、やはり先ほど彼女自身が言っていたように覚えていなかった。

 土曜日の記憶はほとんど残っておらず、いつの間にか日曜になっていた感覚だと言う彼女。

 ベッドの側で眠っていた恵那の姿を見たことで、自分がまた何か迷惑をかけてしまったのだと理解していた。

「気にしなくていいよ。目が覚めて本当に良かった」

 恵那は言うばかりであった。

 自分はなんて悪い人間だと思いながら。


* * *


 月曜日。一週間の経過を最近早く感じるようになってきた明は、時間がないことを自覚していた。

 高校生活なんて、一瞬の内にして終わるというのが、彼の読んできた物語に出てくる人物が言う台詞のトップを飾っている。

 だから、彼は焦っている。

 今の内に出来ること。それが後々に繋がることなのかと。

 学校に行って、良い成績を納め、勉強すれば将来に困らないことが約束された今の時代に何を悩むことがあるのか。

 よく明が耳にする言葉だ。

 たまに顔を合わす父親は、将来の話をする。だが、明が何をするか定まっていないことが分かると、いつも同じ言葉を口にするのだ。

 父親の言い分は、悔しいが正しいものだと彼は分かっている。

 しかし、自分にはその生き方は合わないだろうという思いが勝っていた。

 だから、高校の内に何かやりたいことを見つける必要があると明は焦りを感じている。

 部活でもその思いを引きずったままの彼は、原稿を眺めていたが、その内容が頭に全く入ってこないことに気が付く。帰り道、恵那と駅まで歩く間に次回は何を書くのかを話し合っていた。

 次は思い切って今まで書いたことのない分類のものを書こうと彼は考えていた。

 何か日々の刺激があればと思うのは、彼が物語を書く者でアイデアを求めているからなのか、退屈な日々が繰り返されている証拠なのかは分からなかった。

 自宅の扉前で隣人の御崎と出会う。

 綺麗という言葉を体現した人だといつ見ても考えさせられる。

「明君、今度はいつ読ませてくれるの?」

 覗き込むようにして身を低くした彼女の問いに思わず顔を逸らした明は、近いうちにと答えを濁す。

 悪戯な笑顔の彼女は、踵を返して部屋の扉を開ける。

「いつでもいいからね」

 手を振りながら、入っていった。

 見送った彼も自分の部屋へ入る。

 眠る前、音楽ソフトから自分で作成したプレイリストの曲を再生していく。

 コンピュータに繋いだヘッドフォンから耳に届くそれに心地よさを覚えながら、次に書くものをどうしようか考えを練っていた。

 違う、これじゃない。面白みを感じない。面白いって何だ。楽しい、悲しいって。

 一人の頭の中に何人もの人間がいるようにして、考えがぐるぐると駆け回っている。

 今こうしている間にも、時間は減っていく。

 今日は終わりにしようと、コンピュータの電源を切り、電灯を消した明はベッドに身を投げ出す。

 明日はせめて、何か良いことがあればと彼は目を閉じた。


 翌日は朝から酷い雨であった。

 傘を使っても完全に水を防ぐことは出来ず、肩が濡れる。足下は地面が跳ねた水によって濡らされてしまう。

 学校に着いても雨は止まず、授業中に窓の外を眺めては何かないかと溜め息を吐くばかりであった。

 下校時間になり、友人は部活に行ってしまった。

 雨の日でも屋内トレーニングなどのメニューがある運動部は大変だな、と他人事のように考えながら、明は昇降口に着いた。

 靴を履き替え、まだ朝の雨で濡れていた傘を差して歩き始める。

 すると、駐輪場には恵那の姿があった。思わず声をかけてしまった明は、彼女が振り返ったのを確認してから、何故声をかけてしまったのか不思議に思う。

「今朝よりかは弱くなってるけど、やっぱり雨は嫌だね」

 苦笑しながら合羽を着た彼女は、明に合わせて自転車を押す。

 部活以外の日で帰るのは多分初めてであった。

 今日は授業が早く終わったからと彼女が言っていた。

 駅が近くなった所で、唐突に恵那が寄り道を提案した。

 時間も金銭面も問題ない明は、雨のことを気にしたが、せっかくの誘いと彼女がどこに行くのかという好奇心から、賛成した。

 五分ほど歩き、彼女が足を止めたのは喫茶店であった。店の横にある駐輪スペースに自転車と雨に濡れた合羽をその上に置き、店内に入る。

 二人の姿を捉え、一番に挨拶をしたのは同じ年の頃の女子であった。

 彼女はこちらへ近寄ると、恵那に親しげに声をかけて話しながら席へ案内した。

 そこで、恵那が明を友人である愛理へと紹介し、二人は互いに名乗った。

 ここは愛理のバイト先であったのだ。アドミニストレータは社会勉強の一環としてアルバイトを許可している。

 学校側は成績上位者と家庭の経済的な事情を抱える生徒の希望を優先している。

 愛理は前者だが、様々な経験をしたいからという理由の方が大きいと前に恵那に話していた。

「注文、決まった?」

 小型のタブレットを手にテーブルの傍に立つ。

 恵那はいつも頼むものとしてカフェラテ、明はアイスティーを注文した。

「よく来るんですか?」

「一週間に一回はね。愛理がいる時にだけ行くの」

 天井を回る木製のファンを見つめていると、ここが古風な喫茶店だというのが実感できる。

 トレイに乗せられた飲み物が運ばれてくる。

 一礼して一口飲むと、普段家で飲むアイスティーよりも格別に感じられた。

 それから二〇分ほど、恵那と明はただ話していた。

 学校でのことは勿論、家のことも。

 そこで、彼は自分が何を目指すべきか悩んでいる最中だと話した。

「今の世の中って、確かにアドミニストレータに従っておけば成功するかもしれない。でも、私は私の考えで生きたいなって思う」

 淡々と答えた彼女。自分と同じことを考えていることに少しの共通意識を持つことで喜びを覚えた明は、いくらか気持ちが軽くなった。

 外へ出ると雨は止んでいて、以前も二人で見たときと同じ黄昏時であった。

 しかし、今日は切なさを覚えない彼の足取りはそれほど重くはなかった。

 再度駅まで歩いていると、途中で恵那が誰かに声をかけた。

 スーパーから出てくるその姿は、白く長い髪をした、これもまた自身と同じ年の頃の少女で、両手には買い物袋を下げている。

「まだ寝てないとダメでしょう」

 困った顔でその少女に声をかけた恵那。

 背後から二人へ声をかけると、恵那が愛理を紹介した時と同じ口調で明にナナのことを説明する。

 訳があって、居候している同じ年の女の子がいるというのは、彼女も複雑なことに片足を突っ込んでいるのだなと明に解釈させた。

 どうやら、ナナは買い出しに来ていて、ちょうど鉢合わせしたということらしい。

 買い物袋を自転車のカゴへ移し、三人並んで歩き始めた。

 知りあいの知り合い、友達の友達といった関係の人物が溶け合うのには普通よりも時間のかかる気がする。

 明は二回もそれを味わっているのだから、今日は昨日願っていた通りに刺激のある日だと思ってよいのだろうかと考えていた。

 駅に着くと、二人は手を振って彼を見送った後に家へと向かって歩き始めた。明は電車に乗り込み、本を読み始めた。今日の出会いは何かしらの重要な出来事だったのだろうと胸の片隅に置いておき、ページを捲るのであった。

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五十年後の私 滝川零 @zeroema

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