西園理緒は公安局に勤める警察である。

 公安局の中でも特殊捜査を担当する部門に所属している。

 同僚である間宮義宏も同じく公安局の人間だ。

 システムに認識されないという謎の少女を確認した後、そのまま自宅へと帰宅した彼女はベッドに倒れ込む。

 トレーニングの疲労によるものだ。まだ若い年齢ではあるが、彼女の一日のメニューは男性のそれよりも多いものであった。

 二人の少女のことを思い出しながら、部屋の天井を眺める。

 彼女自身はあの二人をおかしいと思いはしなかった。

 そもそも、日本全員の個人情報が登録されたシステムなど無理があるように彼女は考えているのだ。

 認証されない人物がいたとしても別段おかしな話ではない。

 身柄の拘束などせずとも、役所で正式に情報の登録を促せばよいだけである。

しかし、間宮はシステムが脅威と判定したと、そう言っていたのだ。

 その時は滅多にないケースなので、無理もないと思ったが、冷静になって考えると過剰な気もする。

 システムによって管理されている今の世界は前に比べれば平和なのも間違いはない。

 しかし、どうにも生きた心地のしない世界になってしまった。

 システムがない時代を生きた者の中にはそう思っている者もいるだろうという理緒の考えなだけであるが。

 起き上がって、最近の捜査ファイルを整理する。

 明日も同じく出勤になっているのだ。仕事を怠ることは彼女のプライドが許さない。

 今日あったことはもう忘れることにして、いつも通りに過ごそうと思っていた。

 堅苦しいスーツから、半袖とハーフパンツのスタイルに着替える。

 生活支援用のシステムが彼女に話しかける。

<お帰りなさい、理緒。今日の夕飯は何がいい?>

 これはアドミニストレータを開発した会社が作成した、共有ソフト。

 アドミニストレータに登録している情報をこの生活支援システムに組み込めば、家のことは大体行ってくれる。

 そして、パートナーの役割も担っている。

 理緒が生まれる前から問題視されていた少子化は、その足を止めることはない。未婚の男女が増える理由の多くは、経済的な面もあるが、自分の時間を失いたくないという精神的な面が大きいのだろうと学者は見解を出した。

 自分の時間を夫、または妻、または子どもに捧げる人生など真っ平なのである。

 生活支援システムは良き友であり、パートナーであると開発者は謳った。

 理緒は誰かと暮らしを共にすることが嫌なわけではなかった。

 一言で言えば、相手が見つからない。二五になる心は乙女の彼女はたまに誰かと暮らすことを考えるばかりであった。しかし、無い物ねだりは仕方ないとその度に言い聞かせるようにしていた。

 システムの問いに数秒考えてから口を開く。

「そうね、昨日は魚だったから、今日はお肉がいいかな。でも、脂肪をあまりつけたくないから、ささみ肉でお願いするわ」

<じゃあ、それでレシピを探すわ。すぐに作るから待っていてね>

 この口調も理緒が設定したもの。

 というよりも、これは学習型AIなのだ。利用者の性格、年齢、性別と私生活の様子を元に人に対する知識をつけていく。

 キッチンでは調理器具を巧みに扱う二本のアームが下りてきていた。

 最近は生活支援システムを元から導入している家が増えている。

 理緒の場合は後からリフォームを施してもらうことで、システムが操作するロボットアームを用意したのだ。

 調味料の香りや肉の焼ける音が聴こえてくる中、彼女はテレビの電源を入れ、その前で腕立て伏せを始める。

 立派に肉の付いた胸がそれぞれ手の甲に当たるまで腕を曲げて状態を下げて、上げる。

 汗が額から頬を伝い、顎の先へ来たところで床に落ちる。

 上下運動にリンクするようにしてそれが行われるのを気にもかけずテレビ画面に集中していた。

『中東では未だ“管理者”の導入に抵抗する武装勢力が政府との争いを繰り広げています。現地からの映像は倫理規則に基づきお見せすることはできないのですが、武装勢力のトップから送られてきた映像は公開の許可を得ることに成功しました』

 アドミニストレータは人をより良い存在に高めるべく、新たに倫理規則を塗り替えた。

 それは今まで以上に規制を厳しくするものである。

 だから、私たちの娯楽は大幅に削られているのだ。

 残虐な映像、性的な表現は勿論、テレビ番組のちょっとした演出でも注意が入ることがある。

 流石に大げさではないだろうかと、訴える人間も少なくはないが、賛成派の人数が多い以上は口出しを許されなくなった。

 理緒もこれに関しては過剰に反応し過ぎではないだろうかと考えている。

 彼女の最も好きなもの、それは映画であった。

 それも規制により、今ではあまり数がない。

 昔は一年に洋画、邦画と何本もの作品が公開されていたという。

 月に一本の映画を観に行くことが楽しみであるが、内容はどれも単調な気がして、結局観た後の心境は曇り空なのであった。

 腕立て伏せを終え、汗を拭った。

 洗面所に行き、顔を冷水で洗い流す。目の前の鏡に映った自分の顔からは、感情を感じられない。

「ちゃんと笑ったのって、いつだっけ」

 何気なく漏れた独り言を誰も拾うことはなかった。

 ダイニングに着くと、生活支援システムが声をかけてきた。

<理緒、今日のも美味しいよ。何だか元気がないみたいだから、多めに作った>

 警戒に告げる女性の声に何となく落ち着きを取り戻した彼女は、苦笑して、自身の姿を映す天井隅のレンズへありがとうと述べた。

 席に着くと、運動後により空いていた腹が早く何かを詰めろと鳴り出した。


 食後はいつも彼女の楽しみな時間の一つ、映画鑑賞。

 テレビはこのために大画面のを購入し、再生機器もそれ専用と化している。

 棚には数多くのパッケージが並べられていた。ジャンルも綺麗に分けられているのは、彼女の性格からくるものだろう。

一度だけ義宏を家に招待したが、几帳面な彼女の一面を意外だと述べていた。

 今日は何を観ようかと吟味する。

 これは彼女が祖父から受け継いだものだ。

 彼の趣味も理緒に受け継がれている。

 いつも理緒が遊びに行くと、彼は映画を観せてくれた。

 アドミニストレータは、元からの所有物に手を出すことはしなかった。個人の所有物に手を出すことは何人たりとも許されざる行為だと開発者も認識したのだろう。

 そのため、祖父が他界した際、理緒は不要とされる前に彼の遺産をもらった。

彼に関して、理緒は知識人というのが合っていると今でも思う。

 彼女が知らないことを聴くと、何でも答えてくれた。その知識の元がどこから知ったのは、この映画の山に触れたからである。

 その日観る映画は恋愛物にした。

 アニメーション映画も豊富にある。

 中でもこの作品は、齢一六の時の理緒に鮮烈な衝撃を与えたに違いない作品なのである。

 何度も観て、台詞も覚えているけれど楽しいと思わせてくれる作品なのだ。

 主人公は一組の男女で、どちらも初めて観た時の理緒と同じ一六の高校一年生。

 二人はある日入れ替わる。まったくの見ず知らずであった彼女たちは、それを機に互いの心を深めていく。

 少年が少女に会いにいく決意を決め、様々な人の助けを借りながら少女の元へと辿り着き、その思いを告げるシーンでいつも理緒は涙を流す。

 過程があるから。

 少年が少女の元に辿り着くまでの物語が観るもの全ての心に残っているから泣かせられるんだと、何度目かの鑑賞を終えてから彼女は気付くことができた。

 今日も同じだ。何度も泣いた場面で理緒は涙を流し、画面の中にその少女も泣いていた。

 ここにある映画は何十年も前の物語ばかり。理緒の生まれる前に創られた。

「良かった」

 泣き笑いながら、一組の少年少女の恋を見送る。

 これをもし、当時の映画館で観ていたとすれば私はその余韻で二日ほどは寝込んでいただろうと思う。

 今ですら、この映画を観た後は何もしたくない気持ちにかられる。

 幸いにも明日は非番だ。まだ少女時代のままの自分を出していられるのだと、徐々に重くなる目蓋を閉じながら彼女は思っていた。


* * *


 翌日、恵那の家には愛理がやってきた。午前中にインターホンが鳴り、応じた恵那は彼女を部屋に招く。

 すると、部屋には愛理にとって見知らぬ少女がいた。

 恵那が二人に軽い自己紹介をする。

 嘉島愛理は自分の友人であること。

 ナナは二日前に出会った少女であること。

 彼女の白く染まった髪を見て、愛理は興味を示した。

 どのようにしてそうなっているのか、外国から来たのかなど、様々な質問を繰り広げる。

 それは、恵那が止めに入るほどに多くの質問であった。

 落ち着きを取り戻した愛理がナナに謝罪したところで、恵那は本題に入りましょうと切り出した。

 ナナという少女に記憶がないことを愛理に説明する。

 夢のことは頼子に話した時と同様に語ることはしなかった。

 気まぐれで山にもう一度登った時、彼女が倒れているのを見つけた恵那が助けたということにしておく。

 ほとんど間違っていない。嘘をつくには少しの真実も織り交ぜる必要があるのだ。

 もっとも、学校で一番仲の良い彼女に嘘をつくこと自体が恵那にとってはあまり気の進むことではない。

 本来なら夢を見たからと言ってもいいのだろうが、その気になれなかったのだ。

しかし、愛理は意外にもすんなりとそのことを受け入れている様子であった。

 何故山で倒れていたのか、どうすれば記憶が戻るのかなどを考え始めている。

その彼女にこれから、ナナの記憶を取り戻すため、山へと向かうことを告げると快く了承してくれた。

 その間、何も言葉を発さなかったナナは、本当にいいのかと愛理に問い直す。

本当ならば、彼女は恵那との時間を過ごすために家へと来たのだ。

 それは二人の様子から伺うに、ナナにも分かっていた。彼女たちは友達同士、それも自身と恵那よりも当然深い関係である。

 だが、愛理はそんな彼女に笑顔で答える。

「気にする必要ないよ。困ってる人がいるのに自分の都合を優先するなんて、私がしたくないだけなんだ」

 その言葉にナナが思うのは、本当に温かい人ばかりだということであった。

 こんなに優しくされたのはいつ以来だろうかと彼女は考えさせられた。

 紹介が済んだところで、早速例の山へ行こうと恵那が提案した。

 二人も賛成の返事を返す。

 だが、外から何やら大きな音が聴こえてきた。

 カーテンを開けると、雨が降っていた。それもかなりの強さで。

「雨なんて予報なかったのにな。私が来るときも曇ってた気配はなかったし」

 窓辺に来た愛理が不満そうに呟く。

 ナナが二人に向けて提案をした。

 今日は家から出るのを止め、何か他に出来ることをしないかと。

 確かに雨が降る中、山へ行くのは危険だろう。

 すると、愛理が思い出したように自身の鞄から何かを取り出す。

 一冊の本であるそれは、催眠術に関するものであった。

「これに確か、忘れていたことを思い出すための催眠術が書かれてたよ」

 言いながら開いたページには、確かにそのような見出しが書かれていた。

 しかし、恵那はこの手の話はあまり信じていない為、あまり関心がないうえに、下手に試してナナに異常が起こったりしないだろうかという心配もある。

「じゃあ、恵那が試しにやってみる? 元々恵那にかけてみようと思って持ってきたの」

 自分に催眠術をかけるという言葉に引っかかりを感じたが、本当に効果があるのか試してみるのもいいだろうと思い、試すことにした。

 催眠術の中には確かに記憶を取り戻すことのできるものもある。

 それは術でなく、『催眠療法』という一つの医学的な面で考えられており、これには感情というものが絡んでくる。

 感情の強く絡むものは思い出しにくいのだと。

 また、忘れているということは思いださない方がいいのではと自身が考えたからではないかという説もある。

 つまり、『記憶』というのはとても重要なのだ。

 それを考慮した上で恵那は愛理の指示に従う。

「失くした物がどこにあるか思い出したいの。失くす前の記憶をお願い」

 椅子に腰を下ろし、目を閉じた状態で恵那が言う。愛理は陽気に返事をし、彼女の額に指を当てた。

「じゃあ、失くした物のことを強く念じて。それをいつも何のために使っていたのかも」

 深い思考の海へと意識が落ちるように、集中していた。失くした物は『時計』だ。家の中に置いていることは間違いないのだが、どこにそれを置いたかを覚えていない。

 高校入学前に自身へのお祝いのつもりで買った腕時計だ。

 子どもが買うものなので、高価ではないが、自身にプレゼントしたということが思い入れの強い理由の理由である。

 すると、目蓋を閉じているために真っ暗な視界に腕時計の形が現れる。

 色、形、大きさまで完全にそれであった。それが、自身の手首から外される瞬間を監視カメラにでも映った映像を観ているかのようにして眺める。

 確か机に置いていたに違いない。

 そこで過去のものであろう自分が部屋の外へと出て行った。

 しばらく経っても戻ってくる気配がない。

 すると、空いていた窓から何かが入ってきた。猫だ。

 恵那の家で飼っていたわけではないが、よく彼女の家にやって来る猫がいた。

 その猫が窓から彼女の机へと、跳躍してみせた。すると、机の上にあった腕時計は弾かれ、地面を滑り、本棚の下へと入り込んだ。

 そこで当時の恵那が部屋へと戻ってきた。猫を見つけるなり、笑顔で抱きかかえる。

 何とも危機管理能力の欠けていた過去の自分に辟易としている最中、突然目が覚めた。

 正確には、催眠が解かれたことにより覚まさせられたと言う方が正しいだろう。

 愛理は恵那の顔を覗き込み、結果がどうであったかを訊ねる。

 彼女はそれに答えるよりも先に本棚の下を、端末のライトで照らす。

 そこには失くしたはずの時計が落ちている。

 すっかり埃にまみれていたが、使う分には問題はなさそうである。

「まさかと思ったけど、綺麗に思い出せたわ。過去の自分を今の自分が第三者視点で眺めている感じかしら」

 愛理は興味深そうに首を縦に振っている。

 実験が終わったところで、いよいよナナの番であった。

 先ほどと同様に椅子に腰を下ろし、大きく深呼吸をしている。

 それでもやはり緊張しているのか、小刻みに手が震えていた。

 横から、恵那がそっと手を握る。

 彼女が怯えるのも無理はない。

 どれほどの期間の記憶が抜けているのか分からないのだ。

 それほど時間は経っていないかもしれないし、もしかすると膨大な時間分の記憶を失くしているのかもしれない。

 それが全て思い出されるとなると、相当なものだろう。

 いよいよ愛理が準備を始める。

 ナナに語りかけ、元のことを思い出せるよう意識の奥深くを覗くかのような。催眠術にかかっているのか、目を閉じたままのナナを外部の人間が見ても当然分かるはずはない。

 しばらくの間、沈黙が部屋を支配した。二人は目を閉じたまま微動だにしない彼女を見つめていたが、一〇分近く経っても反応がない。

 彼女は何を思い出せばいいのかが分からず、迷っているのではないだろうか。

「もう止めた方がいいんじゃない」

「途中だったりすると余計に危ない気もするけれど」

 言いながらも愛理はナナの額に手を当てた。

 目を覚ましてと一言呟くとナナの目蓋がゆっくりと上がる。

 本当の眠りから覚めた後のように両の目を擦る彼女へ二人は記憶のことを問う。

 だが、彼女は首を横に振った。

「ごめんなさい、何も思い出せなかった。多分、恵那のように呼び戻したい記憶が定まっていないからだと思う」

 やはりそうであったのかと、恵那は自分の予想していた可能性が半ば的中していたことに落胆した。

 彼女には失くした物として腕時計を見つけたいという思いがあったが、ナナにはそれがない。

 

 愛理が帰った後、恵那は机に向かいノート型パソコンのキーボードを叩いていた。

 文書ソフトが全画面に開かれ、原稿用紙のテンプレートへと文字が打ち込まれていくその光景は彼女にとって至福の時間の一つであった。

 ヘッドフォンを付け、音楽ソフトからお気に入りのプレイリストの音楽をランダムで流し、集中力を高めている。

 キーを叩く音も彼女の好きな音の一つである。

 窓から聴こえる雨の音に負けないように静かな部屋の中を満たしていたのはそれの音だ。

 ベッドの上で本を読むナナは、恵那の画面を見る目が真剣そのものであることを悟り、たまに彼女の顔を見ては文字へと視点を戻すのであった。

 二時間ほど続いたそれは、唐突に終わりを告げる。キーを叩く音が止まったのだ。

 体を伸ばしている恵那へ向けてナナは何をしていたのかと、ずっと喉まで来ていた言葉を口にした。

 回転式の椅子を半身だけ背後へ向けて本棚を見た彼女は、まるでそれが答えだと物語っているかのような目をしていた。

「私ね、夢があるの」

 真っ直ぐに視線を本棚へ向けたまま彼女は口を開く。

「小説家。表現の自由が規制された今は絶滅危惧種と言われている創作者になりたいの」

 そこで、ナナの顔を見る。今度はナナが本棚を見た。

 これは雨野恵那という一人の人間を形成した要素なのだ。

 かつて名作として大衆の人間から評価を得た作品も、一部の人間にしか受け入れられなかった作品も彼女の本棚の中には詰められていた。

「今度読ませてくれない。恵那が書いた作品、読んでみたい」

 互いに顔を合わせたまま自然と口から漏れた言葉。

「いいよ。読んでもらえると思うと、多分作品も喜ぶ」

 文書ソフトのデータを保存した彼女は、パソコンの電源を落とすと、本棚の前に立って一冊だけ手に取った。

 ベッドに座り込むと、未だ机の側に立つナナを呼び寄せる。

 恵那が手に取ったのは、意外にも恋愛小説であった。

 先ほどから本棚を眺め、試しに手に取ったものを眺めていたナナは、ほとんどがSFであることに気が付いていた。

 だから、恵那の選んだ一冊が意外に思える。

「これ、お気に入りなの。幾つか同じ作者の本を持ってるけど、これが一番面白くて。登場人物に自分を照らし合わせれる作品って素敵だと思うの。物語は理想や希望が溢れているものだから、自分も主人公やヒロインと同じように喜べて、泣いて、怒ったり出来るのは貴重だよ」

 そう語る彼女の顔は、喜んでいるようにも見え、また悲しんでいるようにも感じ取れたナナである。

 夕食は頼子が作ることとなっていたため、二人は一階からかかる声で食卓へと集まった。

 週末の休みには夕飯の準備を頼子が行うのは、決まり事のような形になっていた。

 食後、少しの休憩を取った後に入浴を済ませた恵那は、自室に戻り再度パソコンの前に着く。

 締め切りが近い上に明日の月曜は週に一度の原稿添削の日なのだ。少しでも完成に近い状態にしたものを持っていきたいと思っている。

 そこへ湯上がりのナナが白く長い髪を手櫛で整えながら部屋へ入ってきた。

 恵那が小説の続きを書いているのを見るや、物音を立てないように移動する。彼女の邪魔をしたくないという思いやりであったが、音楽を聴くことで集中力を高めている恵那の耳に多少の音は届かない。

 床に座り、キーを叩く彼女の姿をナナはずっと見つめていた。


* * *


 翌日、いつも通り七時に目を覚ます恵那。姿見の前に立ち、下着だけを身につけた自身の胸に端末のカメラを向けて近づける。

 耳障りな電子音声の結果報告を途中で切断し、端末を机に置き直す。

 そのまま制服を着た彼女はリビングで食卓に着く。

 キッチンにはナナの姿があった。

 家に置いてもらうのだから、何かさせてほしいと手伝いを申し出たのは彼女の方からであった。

 朝食も頼子と彼女が二人で準備したものらしい。

 忠弘は先に済ませて家を出ている。

 いつもとなんら変わらない。学校のない土日だけがいつもと違っている。

 再度自室へと戻った彼女は、通学用の鞄を探り、忘れ物がないように確認する。端末の充電もきっちりと出来ていた。

 家に残るナナへ今日は帰りが少し遅くなることを告げて、自転車に跨がる。

 学校へ向けてペダルを漕ぎ、町から都市へと変化する風景に溜め息が出るのを堪えながら、信号待ちをする。

 同じく都立学園に通う生徒がぞろぞろと歩いている。

 自転車に乗る生徒より遥かに多い。

 駐輪場に自転車を置き、昇降口で上履きに履き替える。

 そこで愛理に声をかけられた。

 二人で昨日のことを話しながら、教室へ向かう。

 教室でも鞄を置いた愛理が恵那の机までやってくる。

「そういえば、小説は完成した」

「もう終わりそう。でも肝心の最後をちょっと変えようかなって」

 昨日書いていた作品は当然元からの終着点を決めていた。

 だが書いている内に何故かそのような終わり方ではないと、気が変遷したのだ。それを聞いた愛理は、また読ませてほしいと言う。

 完成したらね、という半ば決まりの返答になっているそれを告げる。

 授業開始のチャイムが鳴り、愛理は自分の席へ戻り、教室全体が静まり返る。一時限目の担当教員が黒板に書いていく文字をノートに記していく。

 たまに窓の外を見ると、ゆったりと流れる雲が青い空に無数に浮かんでいる。


 その日最後の授業終了を宣告するチャイムが鳴ると、恵那は荷物を纏めて愛理の席の前を通る。

「じゃあ、私部活に行くから。愛理もバイト頑張ってね」

 短い言葉に対し、彼女は礼を述べて恵那を見送った。

 二年の教室から部室棟への道のりはそれほど長くはない。

 運動系、文化系のどちらもが同じ棟に部室を持っている。

 そのため、ユニフォームに着替えた生徒が行き交うのが頻繁に見られる。

 恵那は自分が所属する部室の扉を叩いた。

 誰からの返答を待つこともなく、扉を開けて中に入る。先に来ていた部員が何人かいる。

 皆が口々に挨拶し合う中、一人だけ何も言わない部員がいた。その男子部員は恵那が近寄るまで来ていたことに気が付かないほど、目の前のプリントされた誰かの原稿に釘付けになっていたのだ。

「お疲れ様、橘君」

 橘と呼ばれたその男子部員は、近くに恵那がいることにようやく気付き、慌てたように挨拶を返す。彼が何かを読み始めた時は集中していることを恵那は分かっていた。

 橘明、恵那と同じ文学部に所属する一年の男子。今年の四月に入部してきたのだが、都立学園は部活動において少し特殊な決まりを持っている。

 中等部からそのまま進学する生徒が大半なので、入学前の期間から体験入部といったように参加することが出来るのだ。

 そのため明のことは入学より前から知っている。

 文学部では週に一度、原稿の添削を行う日が活動日とされており、今日はその活動日なのだ。

 毎月部誌を発行するのだが、そこに載せる作品を読み合うことで間違いを指摘し合うのが活動の主な内容。

 彼はプロの作品であろうが、学生が書いた作品であろうが真剣に取り組む好印象な存在であった。

「先輩、今日は早いんですね」

「締め切りが近いし、皆の作品のページ数増えてるだろうから。早めに読まないと完全下校の時間にされちゃうからね」

 文学部の部誌には決まりがある。

 一〇ページ以内の短編で書き上げること。しかし、一ページに入る文字の量は多めに設定されている。

 そのため、短編と言っても一人分を読むのには時間がかかってしまう。

 締め切りが近い日は特にだ。

 恵那は部室にあるプリンターで自身の原稿を印刷した。

 誰か空いている部員がいないか探していると、明が手を上げる。

 先ほどの原稿の添削はもう終えていた。

 部室の中央には長机が二つ繋げて置かれている。そこに向かい合う形で椅子を設置することで、原稿の添削を行い易くしているのだ。

 恵那と明は互いの原稿を交換する。

 ペンケースから赤いボールペンを取り出して、手元に置いた恵那は原稿を読み始める。

 他のペアは添削を行うところもあれば、読み終わったので相手からの指摘を待っている部員など様々であった。

 一〇分ほどが経った頃、原稿を読み終えた恵那は体を伸ばす。明の書く物語は毎回大幅に分類が変わる。

 前回はファンタジーの要素が多かったが、今回はSFの要素が多い。

 そのため、恵那も添削に力が入っている。

 ふと、彼女は明を見た。

 片肘を立て、顎を掌に乗せたままもう片方の手に持った原稿を眺めるようにして読み進める彼の姿に、窓から差し込んだ夕日が当たる。

 少し茶色がかった髪、潤いを持った瞳に筋の通った鼻。

 まるで物語にでも出てきそうな人だと前々から彼女は考えていた。

 原稿を読み終えた明は視線に気が付き、恵那と目を合わせる形となった。

 何かおかしな所でもあるのかと、制服の襟元を正してみせる。

 それでも視線を外さない彼女に明は、咳払いを一つしてから声をかける。

「ごめんなさい。少し考え事をしていたわ」

 彼には気付かれないようにと、恵那は半ば願いながら告げた。

 明の様子が特に気にしているようには思えなかったので、成功したと彼女は思う。

 添削した箇所の説明を始めた。

 彼女と彼はお互いに自身の感性を持って話の内容、登場人物、文法などの気にかかった部分へ指摘を行う。

 そして、お互いに自分で気が付くことのできなかった間違いを知り、頭を抱えるのであった。

 完全下校の三〇分前、帰宅の準備を始める部員達。鞄に添削された原稿を入れ、閉じる。

 部長の声がかかり、部室から全員出たところでそれぞれが昇降口へ向かう。

 上履きから登校用の革靴に履き替えて、明の元へと歩み寄った彼女は声をかける。

「橘君、一緒に帰りましょう」

 部活の後に彼と帰るのは、よくあることであった。

 恵那は自転車通学だが、彼は電車を使っている。

 そして今日も恵那は自転車を押して彼の隣を歩いている。

「今回の作品、面白かったよ」

 唐突に部活で読んだ作品の感想を彼女が述べると、彼は照れ隠しのつもりか後頭部に手を当てる。

「普段あのジャンルで書いてる先輩に言われると嬉しいですけど、やっぱりまだまだ自分では納得出来ないんです。今日も指摘多くされてたし」

「面白いからこそ、より添削が捗ったのよ。橘君、話の構成と表現の方法が私の好みに合ってるし、多分他の子もそう思ってるんじゃないかな」

 すっかり褒められたことに気を良くした明は、赤信号の横断歩道を渡ろうとしてしまうほどに気が抜けていた。

 逆に恵那の物語に触れようと思った彼であったが、自分より目上の者に対して、上手い、面白かったという中身の感じられない言葉だけで感想を告げることに抵抗を感じていた。

 言葉に出すとなると、からきしである。そんな自身の不甲斐無さに辟易とする明であったが、駅までの道のりを止まることなく歩いている。

 初夏の今は、一九時に近い今でも薄らと夕焼けの余韻があった。

 黄昏時、まるで何かが出てきそうな色をした空が明は一番好きで、一番辛い気持ちになるのだ。

「黄昏時って、素敵だと思わない」

 自分と同じことを考えていたのかと、口を開いた恵那に驚きの目を向けた。

 しかし、すぐに冷静を取り戻す。

「でも、この時間って、一日の中で一番寂しい時間だと僕は思いますね」

 薄暗くなったガラス張りのビル郡を見上げるようにして、その歩みを止めることなく彼は言った。

「その気持ちも、確かに分かるかも」

 笑いながら言う恵那は自転車に跨がった。

 目の前に駅があることに明は気が付かずに歩いていた。いつも行き帰りで通る道なのに、上を見るだけで景色が変わり、どこにいるのかも分からなくなる。

「じゃあ、また来週ですね」

「そうね。橘君なら心配ないだろうけど、締め切りに遅れないようにね」

 地面を蹴り、自転車を走らせた恵那は片方の手を上げて振りながら遠ざかっていく。

 明も小さく手を振って返したが、彼女は気付いていないだろう。

 広い構内に足を踏み入れて自動改札機を抜けると、自分が乗る路線まで歩く。三番ホームに停まった行きと逆方向の各駅停車に乗り込むと、帰宅ラッシュに巻き込まれることがなく、空いている座席に座る。

 鞄から一冊の文庫本を取り出した彼は、栞の挟んであったページを開き、栞は後方のまだ読んだことのない適当なページに挟む。

 電車に乗る時間はおよそ一時間ほど。

 急行や特急などに乗り換えれば早く済むが、電車で本を読む時間が彼にとっての安息であった。

 彼の乗る一車両には、二人組で話す別の学校の制服を着た学生、居眠りをする人と様々であったが、中でも多いのが端末に視線を落としているものであった。紙の本を読むのは明だけである。

 しかし、彼はもう没入していた。

 物語の世界に。

 前回まで読んだ内容を思い出しながら、徐々に今へと戻されていく。

 一駅、一駅と自身の降りる駅が近付いていることを認識しながらも物語へ引き込まれていくのを彼自身が一番よく理解していた。

 しかし、その時間はやはり短いものであった。

 彼はまだ電車に乗って一〇分ほどしか経っていないと思っていた。

 しかし、もう最寄り駅に着いたのだ。本をしまいながら急いで降りる。彼が扉を抜けると同時に閉め切られ、電車が再び動きだす。

 構内を出て、住宅街の道を歩いていく。二〇時前になるともう暗くなっているので、人も少ない。

 明は誰と言葉を交わすこともなく、駅を出た時から、内緒で持ち歩いている音楽プレーヤーの電源を入れていた。

 イヤホンを通して聴こえてくる、車の走行音。

 それも徐々に少なくなり、明は自宅のマンションへの自動ドアを通り越した。大理石の床は照明の光を反射させるほどに磨かれており、清潔感を覚える。

 壁には部屋の数だけ連なるポスト。彼の部屋番号が彫られたそこには特に何も入っていない。

 もっとも、ポストに何か入ることがあるなど稀有な光景となってしまったのだ。

 昔は『新聞』という紙のメディアがほぼ毎日のように発行され、購読者の家に届けられていた。

 朝と夕方の二回も。今や皆、インターネットのニュースで事足りるのだ。

 それは明の家とて例外ではなかった。丁度下りてきたエレベーターに乗り込み、六階のボタンを押す。

 地面から浮かぶ感覚は瞬時に消え、階数を刻むランプが六で止まる。

 開いた扉から真っ直ぐに伸びる廊下。そこに彼女がいた。

「あら、明君」

 彼の姿を捉え、名を呼んだ女性はビジネススーツのスカートと白い半袖のシャツといった夏を思わせるスタイル。

 長い黒髪だけは暑そうである。

「こんばんは、御崎さん」

 明が挨拶した彼女は、隣室に住む御崎心という女性。隣人ということもあり、よく話すのだ。

「学校からの帰り? 遅い時間まで大変ね」

「今日は部活があったんで。御崎さんは逆に早いですね」

 いつも彼女が家に着くのは、もう一時ほど後である。今日は仕事を早く片付けられたの、と笑顔で言う彼女。

 明は家の鍵を開け、もう一度挨拶をしてから足を踏み入れた。

 靴を揃えて脱ぎ、リビングまでの途中にある自分の部屋へと先に入る。

 鞄を机に置き、制服から部屋着へとすぐに着替えることで、ようやく解放されたという安心感から精神的にも軽くなった。

 リビングに入るとセンサが反応して照明が点く。ダイニングには家族で共有しているタブレット端末が置かれており、液晶の画面に触れるとメッセージが表示された。

 母からのもので、今日は帰りが遅くなるという文面。それは父のことも含まれているのだろう。

 冷蔵庫の扉を開け、何があるのかをチェックする。

 その日の夕飯の献立を決めて、近くに置いたタブレットには作り方を示したページを映している。

 出来上がった料理をダイニングに運び、テレビの電源を入れた。面白いと思える番組など特にないため、基本はニュースのチャンネルに合わせたままだ。

 食器を片し、入浴を終えると二二時を時計は示していた。

 両親の分も夕飯を作っており、冷蔵庫に入れてあると共有タブレットに書き残している。

 自室のベッドに寝転がり、数分は何もない天井を眺めていた。

 重い腰を上げて、デスクトップ型コンピュータの電源を入れる。

 部活で指摘された箇所を直してから終わりに向けて物語を進める。

 終点に向けて走り出した列車のように。

 たまに駅で停車する時の如く、手が止まるが、すぐにまた向き合う。

 物語の終わりは、読む方でも書く方でも少しの寂しさを覚える彼であった。

 最後の文字を打ち終えた瞬間、集中力が途切れ、手が止まった。

 完成したのだ。

 データを保存し、もう一度書いた部分を見直したところで、ベッドに入る。

 リビングから音が聴こえるので、いつの間にか両親は帰ってきていたようだが、彼はもう眠りに就きかけていた。

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