朝の散歩を終えて帰宅する頃には、七時前であった。音を立てぬようにして玄関を開け、靴を戻しておく。

 二階への階段に足をかけ、ゆっくりと上る。

 恵那はまだ寝ていた。ベッドに腰掛け、彼女の寝顔を見つめるナナは、いつ彼女に記憶の話をしようかと迷っていた。

 彼女なら話を分かってくれるだろうと、出会って一日も経っていない関係なのに思えてしまうのは、やはり恵那の優しさに甘えている証拠だろう。

 その時、恵那の側に置かれていたアラームが鳴り響いた。突然の音にナナは体を小さく弾ませ、恵那は自然と手を伸ばし、それを止めた。

 まだ眠そうに目を擦りながら、起き上がった彼女は、ナナの方を見るとおはようと短く言う。

 我に返ったナナは挨拶を返す。

「よく眠れたかしら」

 敷いていた布団を畳みながら言う恵那に対し、ナナが申し訳ないといった風な返事をしたので、恵那は何があったのかを問う。

 彼女が起きたら謝ろうと思っていたことをナナは言い切った。

 勝手に眠った上にベッドを占領したことで恵那を床に寝かせてしまったという罪悪感を覚えているのだ。

 だが、恵那は気にすることではないと笑ってみせる。ナナは彼女にとって客人である。ならばそのようなことで謝罪をしてもらう必要もないのだ。

 まだ何か言いたげな彼女に対し、恵那は隣に座り込む。

「こうしましょう、ナナ。しばらく家で暮らすんだから、隠し事はしない。お互いに何かあったら話し合うっていうのはどうかしら」

 その提案に逡巡したナナが了承する。早速、何があるのか言ってほしい、と恵那が告げる。

 ナナは深呼吸を繰り返し、自身の記憶がないことについて打ち明けようとした。

 しかし、それを阻止するかのようにまた甲高い音が鳴った。

「ごめん、ちょっと待ってて」

 立ち上がった恵那が、机に置いてある端末を手に取る。

 彼女が画面に触れてロックを解除した後、慣れた手つきで操作する。

 そして、一つのアプリケーションを起動させた。

<おはようございます。雨野恵那さん、本日のメディカルチェックの時間です>

 電子音声が響くと、先ほどまでの表情を打って変わった恵那の姿があった。

 ナナには今から始まるそれが彼女にとって、あまり快いものでないのが感じ取れた。

 恵那は姿見の前に移動し、シャツを脱いだ。その行為に同じ性別であるはずのナナですら少し驚いてしまう。

 続いてショートパンツも下ろす。

 端末のカメラを姿見に映る自分自身へ向けて、左胸に当てた。

<心拍数、体温ともに正常。睡眠八時間の理想的な健康体です。心理状態も良好です>

「そう、じゃあ終わりね」

<健康な体は健全な精神に繋がります。日々の管理が――>

 電子音声がまだ話しているにも関わらず、恵那は端末を体から離してアプリケーションを終了させる。

 下着姿のまま、ようやく終わったという風に肩をなで下ろす。

 再び服を着直した彼女は、ナナの方を向くと苦笑しながら謝罪する。

「今のは、何をしていたの」

 ナナに問われて、手に持っていた端末を見せる。

 ホーム画面には幾つかのアプリケーションが並んでいるが、中でも一つだけ目立つものがある。

『アドミニストレータ』というその文字がナナの目に鮮明に映り込む。

「私たちを管理しているアドミニストレータが一日一回、健康管理サーバに個人のデータ更新を義務づけているの。ナナもやっているでしょう?」

 問われた彼女は、返答に困る。

 それよりもアドミニストレータという名前を聞いた瞬間から、どうも頭に違和感を覚えていた。

 そして、それは次第にはっきりとしてくる。

 襲いかかってくる、頭痛。

 何かが頭蓋骨を突き抜けるかのような感覚に陥り、思わず悲鳴を上げていた。

隣にはナナの様子に取り乱す恵那の姿がある。

 しかし、彼女はそれにも気付かないほどの頭痛に襲われていた。

 痛いなどという言葉で片付くものではない。倒れ込み、頭を押さえ込んで踞るナナの姿に、今にも泣き出しそうな恵那が呼びかけるばかりであった。


* * *


 強烈な頭痛に気を失ったナナ。

 目を覚ましたのは、およそ六時間後であった。目蓋をゆっくりと開けた彼女は、部屋の照明の眩さにより、まだ微かな頭の痛みを覚えていた。

 ようやく慣れてきた目を動かすと、側に人影が見えた。

 今にも泣き出しそうな恵那の姿がそこにある。ナナが意識を取り戻したのを確認し、何度もその名を呼んだ。

 眠ったままの姿勢で抱きしめられた彼女は、心配をかけたことを申し訳なく思い、謝罪する。

 お互いの気持ちが落ち着くまで、数分の時間を要し、沈黙が訪れた。

 そこに頼子が入ってくる。

「恵那がとても慌ててたわ。もう起きても大丈夫なの?」

「もう大丈夫です。すみません、私、話さないといけないことがあるんです」

 ナナの言葉に二人は居住まいを正す。「何でも話して。出来る限り力になりたいの」

 恵那の言葉はナナにとって嬉しいものであった。

 しかし、これから彼女が話そうとしていることに協力できるかは分からない。

ナナは語った。自分が目覚めた時にいたカプセルの中と、地下施設のことを。

 そして、自身には記憶がないことも。恵那から今が何年かを教えてもらった時に覚えた違和感は、自分がこの時代の人間でないと彼女に確信を与えた。

「私はずっと眠っていました。とても永い間。でも何のために眠っていたのか、どのようにして眠っていたのかも覚えていないんです」

 今話せることはそれで全てであった。ナナの話を聞き終えた二人は、何も言えないままであったが、先に口を開いたのは恵那の方であった。

「分かった。ナナの記憶を戻せるように協力するよ」

「恵那の気持ちはありがたい。けど、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない」

 どういう意味、と問う恵那にナナは嫌な予感がすると告げた。

 それは単なる勘に過ぎないが、今の彼女には当たる気がしてならないもの。

 しかし、ナナの言葉を聞いて、口を開いたのは意外にも頼子であった。

「困っている人がいるときは助ける。それが家のルールで、人としての常識よ」

 ナナを抱き寄せると、言葉を繋ぐ。

「あなたの過去は辛いものかもしれないし、良いものであったかもしれない。いずれにせよ、何故失うことになったのか知っておいた方がいいと私は思うわ」

 彼女を話した頼子は、真っ直ぐにその目を合わせる。力強いその目には意志が宿っているのが分かる。

 ナナは胸の奥から込み上げてくるものいより、今にも両目から涙が溢れそうであった。

 二人に向けて居住まいを正した彼女は、両手を揃えて付き、深々と頭を下げる。

「私の記憶を戻すのを手伝ってください。お願いします」

 丁寧な願いに恵那は喜んで、と返す。

 その日から、彼女たちの記憶を探す日々が始まりを迎えた。


* * *


 ナナの記憶を取り戻すため、恵那と彼女はある場所へと向かうことを決めた。二人が出会ったあの山の頂上。

 彼女が使ったというエレベーターを使い、地下の施設を共に調べることができれば、何か手がかりになるものがあるかもしれない。

 しかし、その前に恵那の母・頼子が告げたことは、当面のナナとの共同生活において必要なものの買い出しに行くことであった。

 昼過ぎの時間帯のため、同じく買い出しに行く人間は多いだろう。一苦労しそうだが、ナナのために必要なものを用意するのも大切なことだ。

 頼子は二人に交通費も含め多すぎるほどの金額を渡した。

 永く眠っていたナナでも、それが他人である自分に使うには大きすぎる額であることは分かったため、遠慮した。

 しかし、頼子が引く様子がなく、恵那もせっかくだからと押し切られてしまった彼女は、出かける準備を始める。

 恵那はナナに合う服を選び、自身も着替えた。

 頼子も共に行くのかと思っていた二人であったが、急ぎの仕事があるために家を出られないという。

 そのため、二人で町にあるショッピングモールへ向かうことにした。

 家から徒歩で二〇分ほど歩くと、そのショッピングモールがある。

 その間、二人は話していた。

「ナナにとって今の時代ってどう? 何か変わったって思うこととかある」

「携帯とかは変わってないね。目が覚める前の私が使ってたのと同じ。景色が変わったとかはあまり分からないけど、何だか寂しくなる」

 寂しい、と彼女の言葉に対して持った疑問を口にする。

「前はこんな町じゃなかったって言うのかな。恵那の家がある場所は落ち着くんだけど、そこから町に行くと急にね」

 それも失くしている記憶に関係があるのだろうかと、辺りを見回している少女を見て思う恵那であった。

「さっきお母さんが言ってたナナの記憶が辛いものかどうかって話だけど、私はそうじゃない方がいいな」

「何故、そう思うの」

「だって、失くしていたのに戻ってきたものが持っていて辛いものだなんてショックじゃない?」

「私はあまりそう思わないかも。なんて言うのかな、それも前の私を作っていた素材の一つとして必要だったんだと思えば、何となく乗り越えられる気がするの。でも、本当に辛い記憶が戻ってきたらどうなるか分からないけどね」

 苦笑する彼女は、しかしどこか楽しげでもあったように思え、本心から述べられた言葉だと分かる。


 ショッピングモールに着く頃、二人の体温は体力の半分を削がれるほどにまで上昇していた。

 自動ドアの先に進むと、冷房による涼やかな風が服の上から全身を冷やしてくれる感覚に浸った。

 顎から滴りそうになる汗をタオルで拭き、体温が低下するのが伝わってきた。フロアマップや店舗一覧の情報を表示しているタッチパネル式の掲示板を操作して、現在地に近い店から入っていくことにした。

 始めは衣類。いつまでも自分の服を着せるのは彼女にとってもあまり心地よいものではないだろう。

 そう考えて、何着か買っておく必要がある。ナナに自由に選ぶよう言った恵那であったが、最近の流行などが分かっていない彼女のため、結局は自身が選ぶことになっていた。

 その次には雑貨を見に行く。

「可愛いものがいっぱいあるのね」

 ナナは目を輝かせ、棚に置かれている小物に目をやり、店のあちらこちらを素早く移動する。

 服を選んでいる時よりも楽しそうにしているのを見ると、彼女はこういうものを好むのが分かる。

 その店で買ったのは、色違いのマグカップであった。それを大事そうに抱えているナナの姿を見た恵那は嬉しくなった。

「ちょっとお腹空いてるし、どこかで何か食べようか」

 恵那の提案に笑顔で同意の頷きをするナナは、カフェに入るとメニューに釘付けとなっていた。

 名前だけだと想像の出来ないものばかりで、それが彼女を楽しませる要素の一つであった。

 ナナは生クリームとイチゴを盛大に盛りつけてあるパフェを、恵那はメープルシロップとバターが彩りを見せるパンケーキを注文した。

 一口目を口に運び、二人共に体の疲労を癒すかのような甘さを感じ、体を震わせた。

 その様子を冷徹な鉄とレンズで形成された無機質な目が見ていることを二人は知らない。


* * *


 多種多様なトレーニング器具が並ぶ、公安局の訓練室。

 一人の女性の荒いが、一定のリズムを刻んでいる呼吸の音が聞こえる。

 この場所を活用する人間は限られている。アドミニストレータに体型の指摘をされた者か、単に自分を鍛えたい者。

 器具によって足を固定し、腹筋を繰り返すこの女性は後者である。

 上下に分かれているウェアの間には鍛え上げられた体が伺えた。

 すると、側に置いてある端末に通信が入った。女性は、高めていた集中力を削がれたことに体する怒りを覚えたが、それ以上の邪魔を防ぐため、体を動かすのを止めずに応答ボタンに触れた。

「トレーニングの邪魔はしないでと、何回も言ってるはずだけれど」

 通信が繋がってすぐの一言。

 相手は誰かを見なくても彼女には分かっていたのだ。

『ああ、悪いな。と言っても、君はいつもそこにいるじゃないか』

 男性の声がする。申し訳ないという気持ちがあまり伝わってこない謝罪に、女性が口出しをしなかった。

 更に集中力が削がれるだけだからだ。

『早速だけど、用件を話そう。奇妙な人物が西区のショッピングモールにいるんだ』

「奇妙ね。奇妙じゃない人間なんているのかしら、今の時代に」

 腹筋を続けながら話す彼女は、さらに乱れた呼吸を整えつつ返している。

『そんなこと言うもんじゃないよ。冗談抜きで今回のは奇妙なんだ』

 男性は一呼吸置いてから続きの言葉を発した。

『監視カメラによる定期チェックで、アドミニストレータに登録されていない人間が見つかった』

 女性は止まりそうになった体を抑え、体を動かし続ける。

『二人でいるんだがね、一人の身元は分かった。もう一人が認識されない。アドミニストレータは脅威と判定して、身柄の確保と登録という命令を下している』

 最後の一回で五百回の腹筋を終えた。この後は別メニューを予定していたが、切り上げなくてはならない。トレーニング器具から離れた彼女は端末の脇に置いてあったペットボトルを手にし、水を一気に飲み干した。

「なるほど、それは確かに奇妙かも。まだショッピングモールにいるんでしょうね?」

『ああ、既に自律型のドローンを向かわせてる』

 女性は空になったペットボトルを握り潰すと、離れた場所にあるゴミ箱へと投げ入れた。

「私も行こう。ドローンだけじゃ、少し不安が残るわね」

『助かるよ。僕は書類の整理で追われてるからね』

 男性の方がそう言うと、通信は切れた。端末を手にし、汗を拭いた彼女は更衣室に向かう。

 トレーニングウェアを脱ぎ、備え付けの洗濯機に放り込み、自信の荷物が入るロッカーを開けた。

 ハンガーにかけられているインナーを着てからシャツを羽織、ボタンをかける。

パンツスーツを着こなし、乱れがないかチェックを行って更衣室を後にした。


* * *


 ホットコーヒーを飲んで落ち着く恵那とナナは、もう少しだけ休憩することにして席に着いたままであった。

「ナナって何か好きなものとかあるの」

 唐突に恵那が問う。問われた彼女は、頭に手を当てて考え始める。

 恵那は、またナナが頭痛を覚えているのかと思ったが、特にその様子ものなかったため、考えているだけなのだろうと分かった。

「可愛いものが好きなんだと思う。さっきのお店に入ると自然と楽しくなっちゃって」

「記憶を失くす前のナナがそれを好きだったのかもしれないね」

 ナナは自身の両手を見下ろし、そうなのかなと呟く。

 落ち込んでいるわけでも、喜んでいるわけでもない。

「記憶の話はちょっと止めようか。ごめんね」

 恵那の謝罪に対し、ナナは少々焦るようにしてフォローをする。別にこの話は嫌ではないのに、と彼女は思った。

 そろそろ出ようということになり、レジで会計を済ませた二人は、夕飯の食材を買いに下りた。

 野菜、肉、魚とコーナーを回り、鮮度や値段を確かめながらカゴの中へと入れていく。

 その光景を見ていると、自分が見たことのある気がする眺めだとナナは思った。

 となれば、自分が眠っていた時から今はどれぐらい経っているのだろうか。

 一通り必要なものを買い揃えたので、帰ることにした。その頃にはもう時刻は一八時を示している。

 今から帰って準備を始めれば、一九時半には夕飯を食べられるだろうと恵那は考える。


 帰り道を歩く二人をゆっくりと追う姿があった。

 自律型のドローンがステルスモードにした状態で背後をゆっくりと着いていく。

 そこへ一台の車が停まる。

 下りてきたのは短く切りそろえた髪に黒のパンツスーツ、サングラスをした女性であった。

「様子はどうなの」

 彼女の声に気付き、追うのを停止したドローンが振り返る。

 彼女がしているサングラスはステルスモードでもドローンの姿が分かる。

「あれが認識されない者ね。何だ、まだ子どもじゃないの」

 女性の言葉に対し、ドローンが言葉を発する。

『対象が誰であろうと油断はしちゃダメだぜ。足下をすくわれるぞ』

 彼女に認識されない人物がいると通信をしてきた男性の声であった。

 ドローンの通信機器を使い、連絡を取ろうというのだ。

「分かってるわよ。でも、今日のとこは様子見でしょう。別に何か悪さしたってこともなさそうだし。認識できない人物なんて、多分一部の区画に行けば沢山巡り会えるかもしれないわよ」

 冗談めかした彼女の言葉に男性は何も返さなかった。

 彼女は肩を竦めてみせると、再度二人の少女に目をやる。

「まあ、どんな人物かは確認できたし、もう帰ってもいいでしょう」

『まあ、君がそう言うなら。来たのに何もしないなんて、今日はらしくないな』

「別に。あの子たち楽しそうに話してるだけでしょう。いずれ脅威になることがあれば対処するけれど、それまでは好きに泳がせといて問題ないと判断したまでよ」

 しかし、それはアドミニストレータの意志とは反したものであった。

 男性は止めることはせず、ただシステムから何らかの罰が下されないかという心配だけが残る。

『じゃあ、今日は終わりにしよう。ゆっくり休んでくれ、西園理緒刑事』

「そっちもね、間宮義宏刑事」

 理緒と呼ばれた監察官は、無線通信代わりにドローンを使う間宮に手を振ると、車に乗り込んだ。


 自宅に戻った二人は、早速買ってきた物を分け始める。

 今晩の料理に使う食材が入った袋は、リビングのテーブルへ。残りのナナの服などは恵那の部屋へ置く。

 リビングに戻った二人はグラスに入れた麦茶を飲む。

「少し休憩したら準備するから。お父さんもその内帰ってくるだろうし」

「そういえば、恵那のお父さん見たことない。挨拶しないといけないんだけど」

 彼女は父が何の仕事をしているのか、詳細を聞かされたことがない。

 帰ってくるのは二日に一回ほど。

 洗濯物に白衣が混ざっていることから、医者か研究員では彼女は想像を膨らませている。

 一度聞いたこともあったが、うやむやにされてしまったので、教えてもらうことはできないのだろうと思っているのだ。

 その時、玄関の開く音が聞こえた。

 ただいま、という男性の声が聞こえてきたので、間違いなく恵那の父親である。彼女の父・忠弘はリビングの扉を開けると、スーツの上着を脱ぎながら入ってくる。

 ナナと目を合わせると、柔和な笑みを浮かべ、恵那の友達かいと訊ねた。

 すると、恵那が彼女のことを説明し、ナナは深々と挨拶をする。

 忠弘はナナの記憶がないということに驚きはしたが、意外にも家で生活するということにはすんなりと了承した。

「母さんも事情を知っているのなら、問題ないさ。ゆっくりしていくといい」

 笑顔で言う彼は、自室へと向かう。

 すると、彼はズボンのポケットから端末を取り出すと、ある場所へと電話をかけた。

「どうも雨野です。ええ、彼女は私の家にいます。娘との関係は良好のようです」

 誰にも聞かれまいと、自室の鍵を閉め、電話の相手にのみ聞こえるほどの声量で会話する。

「しばらくは経過を見守ります。それでは」

 端末を切った彼は、机にそれを置いた。


 その頃、リビングではナナが恵那と夕飯の支度を行っていた。

「恵那の家族は優しいね」

「お母さんが前からよく言ってたんだよね、娘が二人ほしかったって。だから、ナナは二人目の子どもみたいに思ってるんじゃないかな」

 真っ赤に熟れたトマトをくし切りに、レタスをボールに入れ、土台に見立てたそれへとトマトを置いていく。

 キュウリも添えていき、ドレッシングをかけてサラダを作る。

 隣に立つナナは恵那に任された鍋をおたまでゆっくりと混ぜている。

 人参のオレンジとジャガイモの黄色、肉も一緒に入ったカレーが出来上がった。

 皿によそったご飯の横にカレーをかけていく。

 恵那が父と母、それぞれの部屋のドアを叩くと、二人が出てきた。

 部屋着に着替えた忠弘と仕事を終えた頼子が席に着く。

「仕事は済んだようだね。休日もお疲れ様」

「あなたもね。明日は一日休みだし、体を休めて」

 二人の会話が終わったところで、恵那とナナが皿を運んでくる。

「今日は二人で作ったからね。いつもと味が違うかもよ」

 恵那の言葉にナナも笑顔でいる。

 全員で合掌した後、料理を食べ始める。カレーを食べたことにより上昇した口内の温度を水水しいサラダで中和していく。


 食後の片付けも恵那たちが行った。

 忠弘も頼子も自室へ戻り、リビングに二人だけとなった。

 食後のコーヒーを飲もうと提案した恵那にナナは今日買ったマグカップを渡す。

 色違いのそれを使い、コーヒーを飲む。

「明日も私休みだし、さっそくあの山に行ってみない?」

「いいの? 折角のお休みなんでしょ」

 別に気にする必要はないと返す恵那は、軽く準備をしておこうと提案した。

 その前にお風呂に入りたいとナナが述べたため、恵那は先に部屋へと戻った。持っていくものを鞄に入れている最中、端末が鳴ったので応答した。

 相手は友人である嘉島愛理であった。急に電話をかけてくるのは珍しいことではない。

「愛理、どうしたの?」

『明日空いてる? 一緒に遊びに行きたいなって思って』

 残念ながら明日は既に予定が埋まっている。

 そのことを伝えたところ、声から落ち込んでいることが分かった。

 逡巡した結果、愛理も山に誘おうと考え、ナナのことは言わずに話してみた。すると、二つ返事で彼女も行きたいと返してきたので、明日は三人で例の山に向かうことになった。

 ナナには戻ってきてから伝えればいいだろう。

 通話を終えた恵那は、端末を机に戻し再び準備を始めた。

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