五十年後の私
滝川零
第一章
<生命維持装置 オールクリア/活動再開年数 五〇年後/被験者番号七二三>
横たわった私の視界には天井に備えられた照明の眩い光と、覗き込むようにしている男性や女性の顔が多々あった。先程から響いてくる電子音声は私のこれからを告げているのだろう。
周りで沢山の人があちらこちらを行ったり来たりしている気配がする。
やがて、私は場所を移されて視界がガラス越しのものとなったことを理解する。
すると、一人の若い男性がガラスに顔を近づけて何か言っていた。
唇の動きからそれが何かを推測すると、
『頼む、人類のために生きてくれ』である。
何も言わずに小さく頷くと、全身を覆うかのような冷気が充満し始める。
そこで私の意識は途切れた。
1
雨野恵那は今日も普通である。
いつも通り、朝七時に起床。
一〇分後に自宅一回のリビングで母・頼子の用意した朝食を摂り、その後学校の制服に着替える。
玄関にある鍵かけから自転車の鍵を手に持ち、扉の脇にある愛車に差し込む。家から学校までの二〇分間をゆったりと走って行く。大規模な土地の開発によりビル群が並ぶ町まで一〇分とかからなくなった。
学校へ着いた恵那は駐輪場のいつもと同じ場所に停め、昇降口で上履きに履き替える。
そこで友人の嘉島愛理と会うのも日常であった。
二人で昨日観たテレビ番組などの話をしながら教室へ向かう。
教室に着いてからも鞄を置いた愛理が恵那の元へやってきて話が終わることはない。
都立学園高等部。彼女たちの通う学校であり、今年二年に上がった。
一限目開始のチャイムが鳴ると同時に二人の会話は終わる。
起きてから二時間と経たない内からの授業など頭に入ってこない。ペンを動かすことで徐々に目が覚めていくことを自覚する恵那である。
いつも通りの毎日だ。
四限目まで同じ調子。昼休みには中庭にあるスペースで愛理と昼食を摂り、放課後にどこかへ寄り道するかなどの会話をして過ごす。
部活が休みなので、放課後は自由時間。
今日は家の近くにある山へ向かった。土地の開発が急速に進んだ日本でも自然は存在する。それは心理状態の維持の為に必要な道具として。
そのため、山と言っても緩やかなハイキングを楽しめる程度のものなのだ。
道も舗装されており、軽々と登っていける。
町が一望できる場所まで一〇分ほどで着いてしまった。
「ここに来ると、少しだけど気分が良くなるよ」
恵那の何気ない一言に愛理は不安だといった表情をしてみせる。
特に深い意味はないのだと彼女に告げた恵那であったが、普段の生活の平坦な感覚に少し飽きを覚えていたのだ。
何とも贅沢な話だと愛理以外の人が聞いたら言われるんだろうな、と彼女は思った。
恵那たちの住む世界はシステムに統轄されていた。
システムと言うのは少し語弊がある。正確にはシステムを運用する新政府による統轄だ。
新たに書き換えられた法律と常識の元で生きることを余儀なくされた生活は彼女たちが生まれる前からである。
老人は今の時代を良いと言うときもあれば、そうでないと言うときもある。
今の人々は新政府によって日々を生きる操られた人形のようなものであるのだと訴えかけるのもやはり老人の世代であった。
だが、大半の人間は逆らわない。
逆らえないと言うのが正しいのかもしれない。
統轄されている恵那たちの頭には、心理測定用のプログラムがインプットされたメモリースティックが差し込まれている。システ名『アドミニストレータ』。
それが日本の中心として東京にある議事堂横に建てられた管理局で制御されている。
だから恵那たちは生きた心地がしない。でも死にたくはないといった不安定な船の上に立ったままの状態で、誰も口には出さないでいるのだ。
町を眺めるための場所として設けられた柵に手を置いて、暮れる日を眺める。今日もいつも通りの一日の終わりだと思うと、彼女は心底ほっとするのであった。
愛理と分かれた後、恵那は自宅に戻り制服から部屋着へと早々に着替えた。
ノート型パソコンの電源を入れ、立ち上がりを確認したところで検索エンジンを使って、いつも見ているニュースサイトへとアクセスする。
すると、目を惹く記事を発見した。
『実在したコールドスリープ技術』というもので、コールドスリープという部分をドラッグで選択した恵那は、別のウィンドウで検索エンジンを開いて貼付ける。
コールドスリープ、人体を低温状態にすることで老化を防ぐ装置であり、肉体を保ったまま未来へ向かう一方向タイムトラベルの手段。
ニュースサイトに戻り、記事を読み進めていく。
米国にて、三日ほど前に記憶喪失の女性が発見されたという。その女性が出てきたのも突然のことで、地下に続く道があると証言したので調査に向かった研究員たちが目にしたのは、巨大な施設。
そこにはいくつかの人が眠ることのできるカプセル型の生命維持装置が置かれていて、稼働できるものが大半だという話だ。
ネットのニュースなので、信憑性が高いとは一概に言うことのできないものだ。
しかし、興味を持つには十分な記事の内容であったので、満足した恵那はリビングへと向かった。
夕飯、入浴と済ませた彼女に残された選択肢は再びニュースサイト閲覧か就寝の二つ。
彼女は明日も学校があることを考え、寝る方の選択肢を選ぶ。
照明を落とし、ベッドに横になった彼女。数分後静かに眠りに就いた。
放課後に登った山に立っていた。夕暮れなので帰ろうとした時、誰かが自分の名前を呼び止めることに気が付いた恵那は歩みを止める。
振り返るとそこには何もない。ただの茂みであったのだ。気になって近付く。
目が覚めた。まさしく誰が自分の名を呼んだのか確認しようとしたその瞬間に目が覚めてしまったのだ。
いつも通りの七時に目が覚める自分の体に少し後悔を覚えながら、夢のことを忘れるように顔を洗いに洗面所へと歩いていった。
学校へ向かう途中、家の裏にあるあの山を少し見つめる。
放課後に行ってみようと。
* * *
<生命維持装置 オフ/活動開始状態/冷却停止/現在時刻二〇八〇年六月>
電子音声の響いた後、カプセルのガラス製の蓋がゆっくりと開かれる。
数十秒が経過したところで中から手を突き出し、側面を掴んで立ち上がる女性の姿があった。
胸元のネームプレートには番号が振られており、服装は手術でも受けようかという患者のそれであった。
カプセルの中は冷たかったため、冷却装置の切られた今、彼女は熱気を感じて汗をかいている。
もっとも眠っていたので寒いという感覚すらあまり感じてはいなかったのだが、温度差が出るとやはり変わってくる。
おぼつかない足取りで自身の立っていたカプセルの中から出た。
薄暗く視界も悪い状態で歩くのは更に困難であったが、壁まで辿り着くことができたので、壁伝いに移動する。
円形に作られた部屋なのでぐるぐると一周するだけになる。しかし、途中で扉のようなものを見つけた。よこには生体認証の液晶パネルが嵌め込まれている。
そこに指を当てると、先程カプセルの中に響いたのと同じ電子音声が聞こえ、ロックが解除されたようだ。
彼女はそこで自身がこの施設に関わりを持っていたのではないかという考えに至る。
部屋から抜けると薄暗い廊下になっていた。
しかし、彼女が歩き始めると一斉に照明が点灯する。目が眩み、倒れそうになったが壁に手を付いて耐える。
長い一直線の廊下の先には扉が見える。
足もようやく慣れてきたのか、先程よりも早く歩けるようになった。
鉄製の壁と床は冷たい。急激に体温の上昇している彼女にとってはそれの方が有り難かった。
扉に着くと、同様に生体認証によるロックがかかっていたので、指紋を読み込ませて開ける。
次は左右に分かれた廊下であった。
見取り図が壁に描かれているので確かめるとかなり広い施設であることは分かったが、右側に進むとエレベーターがあるようなので、彼女はそこを目指すことにした。
ここが地下なのか、それとも地上なのかは分からない。
エレベーターがあるということはどちらかには行けるのだろう。
ゆっくりと歩みを進め、途中いくつかの個室を見つけた。
扉は全て同じ認証性のロックがかけられており、これは開くことができなかった。
これほどの広い施設なのだ、何かの研究所に違いないと彼女は確信したが、誰一人として人と出会わないうえに、自分が何故このような場所にいるのかが分からない。
エレベーターに着いたところで、ボタンを押すとすぐに開いた。乗り込んでボタンを見ると、一階のボタンがある。
ここは地下であったのだ。つまり一階は地上へのボタンとなる。
彼女が静かにそのボタンを押すと、扉を閉じたエレベーターは上昇する。
数分後、ようやく停止した。
かなり地下にある施設にいたようだ。扉が開くと、目の前には草木が広がっている。見上げると橙色の空が隙間から確認できる。
今は夕方の時間帯だなと、胸の内で思いながら歩き始めた。そしてここはどこか森の中。素足で歩くのは危険であるように思えたが、意外にも整備されているのか、柔らかい草の上を歩いていける。そうしてしばらく進んだところで、開けた場所に出ることができた。
彼女の目に映ったのは、一人の少女の姿であった。
* * *
授業中も夢のことが気になり、山のある方向を眺めていた。
授業終了のチャイムが鳴っても気付かないままであった時は、さすがに周りから声をかけられた。
「今日の恵那はどこかおかしいね。何か気になることでもあるの」
愛理に言われ、夢のことを話そうか迷う彼女であったが、やはり止めておいた。単なる寝不足だと誤摩化して、その場をやり過ごす。
その日最後の授業が終わり、帰り支度を始めた恵那のもとに愛理がやってきた。
すると、申し訳なさそうな顔をした彼女であったので、何があったのか恵那が問う。
両手を合わせて一言謝罪をした愛理。
「ごめん、今日家の手伝いしなくちゃいけなくて、早く帰らないといけないの」
それは、一緒に帰れないといった内容のもの。別に気にすることではないが、そのまま言うと彼女に嫌な思いをさせてしまうのではと考えた恵那は、笑みを作り、仕方ないと言った。
「私に気を遣わなくてもいいよ。今度は一緒に帰ろう」
愛理は少し安堵したように頷いて教室を出て行った。
対して恵那は大きく息を吐く。本心でなかった訳ではないが、嘘でもない訳でもない。
だが、愛理がいないということはあの夢の通り、一人で山に向かうことができるのだと気付いた時には、私の心の内はどこか高揚していた。
自転車を漕ぎ、学校から家までの道のりをいつもより早く走る。近未来の町から一世代前の自分が住む町へ移るのに一〇分もかからなかっただろう。
家に向かう途中の道を方向転換して、例の山へと向かう。
その間にも日は落ちていき、あの夢に近い状態が再現されているように恵那は思った。
正夢になるのだろうか。
だとすれば自分の前に現れるのは誰なのかがとても重要になってくる。
町を一望できる場所に着いた。
完全なまでに夕焼けになった空にいるのは恵那一人。
しばらく待ってみることにして、近くのベンチに座る。両手を顎に当てて支える形を作った彼女は夕日を眺める。
一〇分ほど待っても何の変化もない。こういう時の一〇分は、嫌なお説教をされている時、体育祭で徒競走の順番待ちをしている時のような緊張感で長く感じるのだと恵那は思う。
待つだけに飽きた彼女は鞄の中をあさり、薄型のタブレットを取り出す。
これは恵那たちの通う学校が生徒全員に入学と同時に購入を義務づけるものであった。
用途は様々で教科書のデータをインストールする他に、図書館に置かれている書籍も貸し出しは端末にデータを送ることで行われる。
紙で出来た本は時代の進展に連れ、資源の消耗を促すだけだと判断され、ごく一部のものに抑えられている。
そのため、図書館といっても紙の本はほとんど置いておらず、データファイルがひたすらに並べられているだけなのである。
本は持ち出し禁止、貸し出し期間が終了すればダウンロードされたファイルは、自動的に削除される仕組みとなっている。
そのため、形こそあれど利用する生徒は少なくなってしまった。
恵那は数少ない生徒の一人で、今日も一冊ダウンロードしてきたところだ。
古い作家が書いた物語である。
過去には凄い人間が沢山いたのだと、物語を読む彼女には分かるのだ。
中でもSFが彼女の好みで、そこには未来への期待を抱いた者が綴ったもの、案じた者が綴った物語など様々である。
現実ではどの物語の世界も存在しない。
だからこそ楽しめるというものなのだろう。
画面にそっと触れ、映し出されたページを捲る。
すると、いつの間にか夜へと空の色が変わり始めていることに気が付いた。
好きな物語はSFなのに夢が実現するかもしれないなどと、ファンタジーな思考をしてしまったことに少しの恥ずかしさを覚えた彼女が、タブレットを鞄に戻した時だ。後ろの茂みで音がした。
鞄を手に、ベンチから離れて茂みを凝視する。何が出てくるのか、緊張が増してきた。
やがて恵那の前に影が現れた。
更に近付いてくる影の姿が露になってくると、それが人であることが分かり、そして自身と同じ年の頃の少女であることがはっきりとした。
酷く疲弊していることが顔色から分かる。また、肌も髪も恐ろしく白い。
「あなたは」
恵那の口から自然と漏れた疑問の言葉。
彼女は口を開きはしているが、声が出ないのかその場にゆっくりと倒れたのであった。
* * *
目覚めた場所はカプセルの中。
そこは恐らく何かの研究室で、地上へのエレベーターを見つけて上がったまではいいが、気温の変化と共に急上昇した体温が水分を汗へと変え、脱水症状を引き起こした。冷静な分析を見覚えのない薄いピンク色をした部屋の中で繰り広げる。
ここはどこなのか。上半身をゆっくりと起こした彼女は少し暑い部屋のベッドに座り、見回す。
動物のぬいぐるみなどが置かれた棚に机とは別にもう一つのテーブルがある。誰かの家だと言うことは分かった彼女であったが、脱水症状の後遺症か、考えると頭痛に襲われて思考が停止する。
再度ベッドに寝込む形になり、右手の甲を額に置く。自分の体温も温い感覚に陥っている。
しかし、地上の気温に慣れてきた。
そこで部屋に誰かが入ってくる。
白いシャツに赤のリボン、紺色のスカートが視界に入る。
その人物はベッドに寝込む彼女を見ると、ほっとした表情の後、笑みを浮かべた。
「良かった。凄い汗だったから病院に連れて行こうかと思ったんだけど、持ってた水を飲ませたら少し和らいだみたいだったから」
そう告げた少女は、ベッドの横に座り込み、横たわる彼女の額に手を置いた。「熱も引いたみたいだね。山で会ったの覚えてるかな。あの時は凄く体が熱かったんだよ」
まったく覚えのない彼女は、必死に記憶を呼び戻そうとするが、激しい頭痛に教われ、今度はそちらの心配をされてしまった。
落ち着いたところで、次に彼女が口を開く。
「助けてくれてありがとうございます。何とお礼をすればよいか」
「別に気にしなくていいよ。私、雨野恵那っていうの。あなたの名前は」
問われた彼女は、戸惑いながら自身の胸元にあるネームプレートを見た。
「七二三」
そう三桁の数字を短く告げて沈黙が訪れる。恵那は不思議そうに首を傾げて、口を開く。
「そういえばネームプレートに書いてあるね。服装も何だか病院の患者っぽい。でもそれが名前じゃないよね」
再度問われても、七二三はそうとしか答えることができない。
腕組みをした恵那は唸るように数秒考えた後、思いついたように腰に手を置いた。
「じゃあ、ナナって名前はどう。これなら人前で呼ばれても変じゃないし、可愛いと思うけれど」
「ナナ」
そう口にしてみた彼女は、小さく笑って頷いた。
恵那はナナが何かしらの事情を抱えていることを感じ取っていた。
しかし、それを口にしてしまうことは野暮であると分かっているため、敢えて言うことはしなかった。
「じゃあ、ナナで決まりね。私のことも恵那でいいから」
差し出された恵那の手をナナは少し戸惑いがちに握った。
握手なんてものをするのは何年振りだろうか。
「恵那、今って西暦何年か分かる」
唐突なナナの問いに彼女は何ともないという感じで、二〇八〇年の六月二八日だと答えた。
その時、ナナの表情が固まるのが恵那には確かに分かった。
二〇八〇年、と小さく口に出した後、彼女はまたベッドに寝転がってしまった。
心配になった恵那は声をかけてみたが、ナナは彼女の枕に顔を埋めて何も言わない。
今はそっとしておく方がいいだろうと判断した恵那は、夕飯の準備のため静かにゆっくりと一階へ向かう。
共働きの両親に代わり夕飯を作るのは日課である。たまに早く帰ってきた父親か母親のどちらかが作るときもあるが、大体は恵那の役目である。
ナナには体調のことを考えて、おかゆがいいだろうと別に作ることにした。
キッチンに立ちながら、山でナナに出会ったことを思い出す恵那。
およそ二時間前のことである。家に彼女を連れ帰るために抱きかかえた時、驚くほどに軽かった。
真っ白な髪も何かしらの理由があるのだろうか。
しかし、とても端正な少女であることに違いはない。
この後、少しでも話を聞ければいいだろうとナナのための料理を盆に乗せて二階へ向かう。
もう枕に顔を埋めてはいなかった。
恵那が入ってくると同時に体ごとこちらに向ける彼女。
「体調が良くないようだし、おかゆだけでも食べておいた方がいいと思うよ」
心配そうに言う彼女に向けて、ナナは申し訳なさそうな顔で恵那の名を呼ぶ。「何で私を助けたの。恵那と会ったのってさっきの山が初めてでしょう」
確かに初対面の見知らぬ相手に親切過ぎる気もした。
「こんなこと言うと笑うかもしれないんだけど」
恵那は夢であったことを話した。
短い説明だが、恥ずかしさに顔を隠す恵那に対し、ナナは真剣な表情で最後まで聞いていた。
「だから、ナナのことを放っておけなかったんだと思う。夢を見てなかったとしても、目の前で倒れる人を放ってなんておけないし」
苦笑してみせる恵那に対し、ナナは笑顔であった。
「恵那は命の恩人だね。信じてるよ」
その言葉が何故かとても嬉しかった恵那は、おかゆを再度勧めておく。
まだ手がおぼつかないナナを見ると、恵那がスプーンでおかゆをすくい、ナナの口へと運ぶ。
とても会って数時間の関係とは思えないだろう。
だが、あの夢で会っていたのはナナであったのかもしれないと思うと、恵那には時間など関係のないように思える。
ナナが食べ終えたところで、恵那も食事のために一階へと下りる。
一人部屋に残ったナナは、考えていた。自身の記憶というものがないことを。
断片的にはある。あのカプセルには見覚えがあり、施設自体にはない。
物の名前などは分かり、自身の名前は分からない。
思い出そうとすると頭が痛む、これが記憶喪失というものだろうかと彼女は考えていた。
そのことを恵那にどう説明すればいいのか、それも含めて頭痛の種であることは明白であったのだ。
更に一時間ほど経った後、食事を終えた恵那が自室へと戻ってきた。ナナはベッドから窓越しの月を眺めている。
「もう少ししたらお風呂が沸くから、汗もかいてたし入った方がいいよ」
短く告げられたナナは、静かに頷く。その様子に恵那は特に何かを感じることはなく、彼女を浴室へ案内した。
給湯器のアラームを止め、ナナに入るよう促して出た。
脱衣所で服を脱ぎ始めたナナを見た恵那の目には一瞬だが確かにあったように思えるものがあった。
ナナの右腕に彫られた数字。
あのネームプレートに書かれていたものと同じであった。
先程までは服の袖が隠していた部分だったため、彼女が服を脱ぐことでようやく気付くことができたのだ。
自室に戻り、着替えを用意する。
脱衣所にそれを置き、先程までナナの着ていた服を手に取る。
番号の振られたネームプレートは気がかりで仕方ない。一体ナナは、何者なのだろうか。
だが、それを聞けるのはもっと先のことだろうと恵那はその場を後にした。
* * *
勢いのあるシャワーの湯を浴びながら、ナナは考えていた。あの施設のことを。カプセルに自分が入っていたことには、少しだが覚えのある気がする。
しかし、あの場所のことを思い出そうとするとまた頭痛を覚え、それがまるで思い出すなと邪魔しているように彼女は感じていた。
そして、脱衣所にあった姿見で自分の姿を見た時、確かにナナは違和感を覚えた。
自分の容姿がまだ恵那と変わらぬ少女のそれであることと真っ白に染まった髪。
先ほど恵那に教えてもらった西暦で自身がこの時代にこの容姿でいることはおかしいことをどこかで感じ取っている。
だが、何故こうなったのかは思い出せない。
まるで長い間、何もせずに眠っていたかのような感覚だ。
このことを恵那に話そうと決めたナナは、シャワーを止め浴槽に足を付ける。敏感になっている今の肌に湯の温度は刺激が強かった。徐々に慣らしていくことでようやく肩まで入ることが出来たときには、疲労の全てが体から抜け出していく感覚に陥った。
浴室から出たナナは自身の服が置いてあったカゴの横に別の服を見つけた。
扉の開く音で彼女が浴室から出たのを理解したのか、恵那が入ってきた。
「私のだけど、それ着ていいよ。多分サイズも合うだろうし」
戸惑いを見せながら感謝の言葉を述べたナナは、恵那の服を着てみる。
彼女の言っていた通り、サイズはちょうど合っていた。
恵那は置いてあるドライヤーを手にし、ナナを洗面台の前に立たせる。
彼女の髪を乾かし始めた。手櫛で彼女の髪を整えながら、恵那は口を開く。
「ナナの髪は綺麗ね。何か特別な手入れでもしてるの」
問いの答えは別にという短いものであった。互いに口を開かない時間が過ぎ、髪を乾かし終えた恵那は、ナナと共に脱衣所を出る。
その時、玄関の方で扉の開く音がした。恵那が駆け寄ると、そこにはスーツを着こなした女性の姿がある。
彼女の母親の雨野頼子であった。
恵那に気が付いた彼女はハイヒールを脱いで揃えると名前を呼ぶ。
「恵那、今日はお出迎えしてくれるのね」
そう笑顔で告げると頭に手を置いて廊下を歩いていく。
「ちょっと話があるの」
娘の言葉に彼女は振り返り、用件を聞いた。リビングで説明をすると、頼子を連れて行く恵那。
戸を開けると、椅子に座る見知らぬ人物に挨拶をした頼子。対するナナも慌てて椅子から立ち上がり、丁寧に挨拶を返す。
ナナの横に座った恵那が、二人の向かいに座る頼子へ今日の経緯を話す。
夢のことは話さなかった。
何となく山に遊びに行ったのだと真実と嘘を織り交ぜて話す。
仕事で疲れているにも関わらず、突然人を拾ってきたなどという娘の話にもこの母親は冷静であった。
「しばらく家で住まわせてあげたいの。ナナがちゃんと帰る場所を見つけれるまで」
“いつになるかは分からないのでしょう”、という言葉は頼子の喉元で止まってしまった。
考えるように頭に手を当てながら、口を開いた。
「ナナちゃんって言ったかしら。何だか事情がありそうね。でも、私は別に構わないわ。恵那には一人で寂しい思いをさせているから、誰か一緒にいてあげることのできる人がいるのは悪いことではないと思うし」
告げられた本人よりも、隣に座る自分の娘の方が喜んでいる姿に苦笑した彼女は服を着替えに自室へ向かう。
残された二人であったが、恵那は母の分の夕飯を用意し、浴室へと駆けていった。
ナナは何もすることがないので、恵那の部屋へと戻ることにする。
優しさを感じさせる薄ピンクの壁紙が今の彼女にとっては、特に効果を示さないただの壁紙となっていた。
窓から外を眺めると、明かりの点いた家がすぐ側に何軒かある。
時計に目をやると、デジタル表示のそれは二一時を示していた。
ベッドに寝転がり照明を見つめる。
すると、昔のことを思い出しそうな気がした。
覗き込んでくる人の顔。
若い男性の顔がそこにある。彼の口が何かを発しているがあまり聞き取れない。
動きで何を言っているのか知ろうとした時、目を開いた。
どうやら眠っていたようだ。時計を見ると、時刻は五時半。閉め切られたカーテンの隙間から外の薄い明かりが差し込んでいる。鳥の小さな鳴き声が聞こえてきたことから、早朝であるのはやはり夢ではなかった。
反対側を見ると、床に布団を敷いて眠る恵那がいた。
いつの間にか眠りに就いてしまった自分を起こすこともなく、部屋の主である自分が床に寝ることを選んだ彼女の優しさに申し訳ない気持ちで胸が満たされている。
彼女が起きたらしっかりと礼を言わなくてはならない。そして、自分の記憶がないことも。
流石にもう一度寝る気にはなれなかったので、ナナは静かに恵那の部屋を出る。彼女の母親もまだ眠っているのだろう。音を立てぬように一階へと下り、玄関へ向かう。
恵那のものと思われるスニーカーを借り、外へ出た。
六月の終わりの朝は、もう薄らと汗をかくほどに暑い。
ランニングウェアで走る若者、このような早朝から犬の散歩をしている老人など、見覚えがある景色がそこにあった。二〇八〇年とは思うことのできない自分に気が付いて安心する。
少し歩いてみると山が見えた。
自分が恵那と出会ったのはあの山だろうとナナは思う。
そして、もう一度あの施設に戻れば何か分かることがあるかもしれないとも。更に歩き続けると、世界が一変した。
先ほどまでは民家の並んだ住宅街であったのが、一瞬の内にして近未来を表したかのような都市に移り変わったからだ。
昇り始めた日に照らされるビルのガラスはそれを反射させ、鮮やかな光景を作り出している。
しかし、ナナにとってそれは何故かとても悲しいものであった。
どうにも生きた心地のしない町だと思えてならない。
早朝でも行き交う車の群れに彼女は呆然と立ち尽くすばかり。
踵を返し、家に戻ることにした。
そんな彼女を見つめる視線があることを本人は知る由もなく歩みを進める。
「遂に目覚めましたね。彼女が」
高層ビルの最上階、一面ガラス張りの壁面から小さな少女の背中を見つめる若い男が言った。
彼の背後には車椅子に座る老人がいる。
「長い間、無事でいてくれた。しかし、頑張ってもらうのはこれからだ。彼女のことを頼むよ」
老人の嗄れた言葉に男性は頷くと、部屋を後にする。
残された老人は少女に語りかけるかのようにして、
「また会える日を楽しみにしていたよ」
そう静かに呟くのであった。
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