5.



 対妖魔開発省。


 巷に当然の如くはびこる妖魔、それらによって生じる問題の解決策として、現代の日本に設立されたいくつかの国家機関。首都にそびえるこれは、国家から与えられた集約的な権限の保持者として、それらの司令塔に位置している。


 国の掲げる妖魔対策に振り分けられる予算の大半が投じられ、防災設備完備、空調も最新型。職員が職務に集中できるよう可能な範囲で究極的な配慮がなされ、事細かに整備された近代的な廊下に、革靴の音。


 報告の為の書類と電子タブレットを抱えた女性が規則正しい歩みで廊下を渡る。すれ違う壮年の役員や別の部署の職員に会釈をしつつ、自分の目的の部屋まで進む。



「ふぅ」


 肩までのゆるく巻かれている髪をかき上げて、中にこもっていた熱をはらう。目元は少し垂れて穏やかな表情をしているが、纏っている厳しいスーツの影に不器用さは一切見えない。


 本部に戻ってくるのは、実に久方ぶりだった。パソコンを開けば新たな案件やその情報整理の催促メールが山積みだろうと予感しながら、細腰に紺のビジネススーツを着込んだ女性、桜庭 舞子(さくらば まいこ)は歩き続ける。


『特務部 調査室』


 部屋のドアに刻まれた文字は今更確認するまでもない。見慣れた場所の見慣れた位置にあるプレートをひと目だけ見てドアを開く。と、同時にスナック菓子の封を切る音が中から聞こえてきた。


 時計をちらと見る。ちょうど正午、今は休憩時間だから間食などはなんの問題もない。やや散らかったデスクで気ままにスナックをほうばっている後輩を尻目に、女性は部屋の奥へと進む。


「おっ、舞子先輩。おかえりっす!」


「ただいま、一週間ぶりね」


 背後からの後輩の声には微笑みかけて答え、積もる話もあれど、ともかく部長への報告が先決だと、舞子は歩みを止めなかった。


 自分たちの事務机とは一味違い、横長の精巧な作りの机。その上には他のデスクのようにパソコン、ファイリングされた資料、ペンケースなどが立ち並び、角には三角面のネームプレート。


 特務部 部長。役名の横には縁田 江(えにしだ こう)の名が刻まれていた。そして机の向こう、やや厳しい目つきの中に若さを覗かせ、短く無造作な黒髪をしている。舞子が前に立つと、手に持っていた書類をそっと置いた。


 報告の前に、緩やかだった顔を今一度引き締める。目の前に座る男は、舞子の属する特務部において最高位の上司である。 


「縁田部長、ただいま戻りました」


「あぁ、ご苦労だった」


 最奥にある部長席の前にて、姿勢を正し敬礼。舞子は頭を傾けつつ、抱きかかえていた書類を部長へと手渡した。


「予定より早く終わったので戻りました」


「さすがだな。移動も含めて二週間はかかると思っていた」


「もう新米じゃいられませんから」


 低い声で感嘆を示し、縁田は口元を緩ませる。舞子に与えられていたのは地元民からの苦情から成った依頼であり、地方の寺院に憑いていた怪奇現象の払拭だった。


 縁田は書類を確認するや、承認の判を押して自分のデスクに直した。


 舞子もまた、再び一礼して自分のデスクに戻ると、電源を入れて自分のパソコンを立ち上げる。昨日までは都会を離れた田舎町に滞在していたものの、この部屋に戻ってしまえば次の任務の支度をこなしていかなければならない。


 業務用に支給されているのは常に最新式のパソコンだ。起動時間にそれほど煩わされる事はなく、肩を回して伸びている間にホーム画面が開かれていた。


 やはり、メールボックスのアイコンには「12」と光っている。


「舞子さん、お疲れさんでーす」


「あぁ、ありがと」


 それでも、随分と使い慣れたデスクに座ってほっと一息。と、背後にいた後輩がガラガラとキャスターのついた椅子を滑らせてやってきた。

 手には開封されたスナック菓子の袋。ちらと見た舞子は手を伸ばし、ひとつとってそれを口に運ぶ。


「大変っしたよね~、リニアで半日って。ホテルとか、何もなかったんじゃないっすか?」


「いいところだったわよ? 空気もきれいだし。あぁでも、風呂場にコオロギがいたのはびっくりしたけど。タイルとか、ひび割れてたし」


「うへぇ、ありえねっすね。ジブン一週間とか絶対もたないですよ」


 茶に染めた髪をたてていたり、ピアスの穴がいくつも空いていたりと、都会の若者を絵に描いたような目の前の後輩、瀧丘 虎吉(たきおか とらきち)が口を尖らせるのに、舞子はスナックを噛み砕きつつ、口元を少し隠して笑った。


 自分などは地方出身の「おのぼり」であるから田舎の風情ある自然などにはなんの躊躇いも覚えないのだが、都会生まれ都会育ちのこの後輩においては、ネット環境も不安定ならコンビニ、タクシーもなし。おまけに枕元に虫が這ってきたりする状況なんてのは発狂モノなのかもしれない。


 右手でマウスをスクロール、画面にちらと目をやりつつ、舞子は口を開いた。


「でも、虎くんもいつかは地方に繰り出されることもあると思うわよ。特務部って言っても、殆ど便利屋さん扱いだから」


「経費でキャンピングカーとか……」


「まさか。現場の安宿に決まってるじゃない」


 冗談めかした言い方をしたが、自分もそうであったし実際にはそうなるだろう。公務員の公金不正使用のスキャンダルが立て続き、最近は査察が一段と厳しくなって不審な領収書はまず受理されない。必要不可欠と押し通せれば許可が降りるかもしれないが、接待ではないのだ。交通・滞在費ならばともかく、快適な旅費の供給までは望み薄だろう。


 苦笑いしつつもどこか遠い目をしている虎吉を見やりつつ、舞子はアイコンをクリックしてメールボックスを開いた。


「あ。それで……」


「うん?」


 送り主の名は殆どアドレス帳に登録されている。並んでいる未開封メールの送り主は殆どが別の部署の采配担当だったり、且て特務部に属していた上役だったりする。

 どれもその内容には思うところのある人物ばかりだ。画面をスクロールしながら目を通していれば、虎吉が再び声をかけてきた。何か言いたそうにしているもどかしい言い口に、舞子は首を回して振り向く。


「頼んでたの、ありました?」


「?」


「ほら、アレっすよ。アレ。パイナップルなんとか」


 アレだアレだと繰り返している辺り、虎吉本人も正式な名前を思い出せないでいる様子だ。それでも本人にとっては重要なことなのか、要領を得ない説明でも熱意ばかりはひしひしと伝わってきた。


 指を宙で振り回し、あたふたと続くジェスチャーをぼんやりと眺めていれば、舞子はふと目を見開いた。あぁ、そうだった。目の前の後輩が言わんとしている心当たりを思い出す。


「あぁ、これでしょ?」


 指をもじつかせながら言う後輩に、舞子はカバンの中から袋を一つ取り出した。ビニールをはがし、中身である四角い紙箱を渡してやる。期間滞在の任務が下り、地方に渡ると決まった時からかねがね頼まれていた土産で、帰還途中に立ち寄った道の駅で約束通り購入したものだった。


 パッケージにはこう銘打ってある。『稲田村名物 パイナップル豆腐』。正直、手を伸ばすのには一抹の躊躇いを覚えたものだが、自分が食べるでもないしとレジに並ぶのを割り切っていた。


 絶対、ビミョウだ。ヘルシー思考の女性観光客をターゲット視し過ぎてやりすぎてしまったパターンだ。しかし……、受け取る後輩のこの喜びようを見て、そんな正直な感想は呑み込んでおくことにした。


「ひゃっほぅ!! ありがとうござっす!!」


「……また、彼女へのプレゼント?」


 答えは見え透いていたが、舞子は優しい先輩の笑顔を取り繕いつつ尋ねてみる。


「彼女がどうしても食べたいって、俺に頼んできたんすよ。いやぁ男としてはやっぱ叶えてやりたいっていうかー」


 照れた仕草で頭をかきながらのろけはじめる後輩を尻目に、舞子は小さな嘆息をついた。脇目もふらずに言いふらすものだから最初は嫌味かと癪に触ったものだが、今ではそんな後輩に対する憐憫すら湧いてしまう。


「……相変わらず、いいように転がってるのね」


「へ?」


 哀れな、そしてそれにまるで気がついていない後輩……虎吉を少し冷めた目で見据えて、舞子はもう一度嘆息を重ねた。


 転がされている……今この後輩が彼女と呼んでいる存在が、今年に入って何人目の相手なのか、尋ねるのはもうやめてしまった。使い古されては捨てられて、貢がされては捨てられる。女運のなさというか、そんな相手ばかりを選んでしまっているのが問題か。こちらがいくらアドバイスを送ったところで、この後輩は目の前の恋に盲目で、そしてせっかく稼いだ給料をすぐに失い、そしてまた自覚もなしに泣きを見るのだろう。


「でも、急いでるなら使い魔に頼んだらよかったのに。それか、有名ならネットでも買えたんじゃない?」


「それが~。カマ次郎のヤツ、面倒くさがって行ってくれなかったんすよ。それにネットだとなんか紛いもん多いらしくって。彼女が絶対に現地で買って来てって……へへ」


 最後の照れを隠すはにかみ笑いを見れば、相変わらず今の相手にベタ惚れであるのは明白であり……まぁ、どうせ他人の口から何を言おうと聞く耳を持たないか。舞子はもうひとつスナック菓子をほうばり、思いついたように立ち上がった。


「虎くんもコーヒー飲むでしょ? ポットの電源入ってる?」


「あ、俺淹れてきますよ。部長はブラックでいいっすか?」


「あぁ、頼む」


 口笛混じりに土産を自分のデスクに直し、意気揚々と給湯所へと消えてゆく。舞子は力ない笑みで虎吉を見送って、再び体ごとパソコンに向き直った。


 仕事を要求する数々のメール郡。自分のタブレットでなくこのパソコンに宛てているということは緊急性はないのだろうが、改めて宛先の名を確認してゆく。


「……また、懲りずに貢いでるんですね~」


「いつか学ぶかとは思っていたが……、あの馬鹿には無理かもしれないな」


 給湯所を訝しげに睨んでいる部長に向けての言葉だった。名前の列に目を通しながらクスリと笑う舞子に、縁田はファイルに目を通しつつ、先ほどの舞子と同じように嘆息を吐いた。本人同士のことだからどうしようもないとは言え、やがて訪れる必然的な別れの折に、何度も何度もこのオフィスでやかましく喚かれるのはたまったものではない。


「まぁ、前みたいに露骨な金品でないうちはまだマシかな。……ん?」


 苦笑いしつつ、マウスをスクロール。と、一番上の欄……届いて間もない未開封メールにとある差出人の名を見つけて、舞子は少し目を丸めた。


「部長、虎くん。ちょっと」


「?」


「え、なんすかー?」


 手招きして二人を呼ぶ。縁田はすぐに立ち上がり、虎吉も給湯所のカーテンからきょとんと首を覗かせた後、不思議がりながらも湯気の立つマグカップを乗せたトレンチを持ってすぐに寄ってきた。


「どうした?」


「さっそく報告が届いてます」


 同僚二人が背後からディスプレイに釘付けになる中、舞子はその名前をクリックし、メールを開封した。


 差出人の名は、佐々守 想。数日前まではこの部屋にいた特務部のメンバーであり、現在は長期の機密任務の為、一時的に任務の受託者から外れている。見ればメールが届いたのはほんの一時間前だ。

 想が任務の開始、終了、その他にも特務部の指示をあおぐべき状況に直面した際には、舞子のパソコンにその趣旨の報告が届く手筈になっている。


「今日からでしたっけ? 想先輩の潜入。あ、藤ヶ谷センセーのお孫さんの件っすよね?」


「えぇ、麻雄くんと交渉する手筈だったんだけど……」


 答えつつ、舞子は「臨時報告」の文面から始まるメールの本文に目を這わせてゆく。短的に読み取れば、交渉は難航しているとある。気さくに近づいたつもりが存外に警戒されており、今朝になってやっと本に触れることが叶ったようだ。


 あと、言霊辞典に内容されていた言霊の一切は行方知らず……本は既に空っぽである、とも。あたかもおまけのように文末に書き足されていたが、これほど重要なことを文末に追いやった辺り、こちらが新たに送るだろう指令にもあながち察しがついているのだろう。


 確かに、行方知れずの妖魔の探索は手がかりを得ることすら容易ではなく、厄介極まりない。魔祓いなら誰しもが極力関わりたくないと願う案件ではある。



「やはり『言霊』は逃げ出していたようですね」


「あぁ。そうだろうなとは聞いていた」


 あくまで可能性の範疇であった為に、この案件の担当になった想には黙っていたものの……縁田はどこか納得した様子でその画面を睨んだ。特務としてこの案件が流れてきた際、同時にその可能性は上から示唆されている。


 妖魔と人との契約、その大原則について紐解いて考えれば、何もおかしいことはなく道理に叶う話だ。契約主が死んで十数年。いつまでも律儀に本の中に残ってくれる妖魔もいるだろうが、それよりも既に何処かへ去ってしまっていると考える方が妥当といえる。強制契約……封印や仮封印ならばともかく、言霊は普通契約で縛っていたと聞いている。


 だとすれば、契約当事者の死は契約更新の機会に十分なり得るし、その契約の継ぎ目に、妖魔の側から契約を解除したというのはなんの理不尽もなく合点が行く話だ。


 だが、『言霊』とは単一の妖魔ではなく、何体も種類があって無数に存在するとも聞いている。それら全てが死去した契約主をさっさと見限り、辞典から逃げ出してしまうとはさすがに思えなかった。最近の妖魔はそういった面にドライな傾向にあるのは確かだが、主が亡くなり契約が形骸化したとしても、そんな契約を尊重する『言霊』が数体くらいは残っていて、それらから情報を引き出せばいいと甘く考えてはいたのだが……。


 それ程までに、前の『言霊』の契約主だった藤ヶ谷婦人は軽んじられていたのだろうか? それとも、何か別の解除要因を取り決め、あらかじめ『言霊』たちと交わしていた? 


 『言霊』は計り知れない未知の妖魔。 不確定な憶測をいくら繰り広げたところでキリがない。事細かな真相は未だ闇の中にある。


「逃げちゃったって……んな簡単に」


「予測は出来てたみたいだけどね」


「想先輩、これからどうするんすかねー?」


 虎吉が気楽な口調で言うのに、縁田はやや表情を渋らせつつも口を開いた。


「任務に変わりはない。言霊が逃げたなら追跡が必要になるだろう。だが、これ以上人員を割る余裕もない」


「うわ……面倒くさくなりそうっすね。俺、知らねっと」


 あくまで他人事。どこ吹く風と口笛を吹いているのを横目で睨みつつ、縁田は再びメールに目をやった。


「麻雄くんの説得もうまくいっていないみたいですね」


「ま、藤ヶ谷センセーは何も遠慮しなくていいって言ってましたけどねー。

 ちょっと脅かしてやればいいんじゃないすか?」


「そうはいかないだろう。いざ強制執行になっても、相手は何一つ罪のない子供、しかも藤ヶ谷院長のお孫さんだ。配慮は必要になる」


 そして、『言霊』以上に不思議だったのが、『言霊辞典』の情報追跡の末、その青年に繋がった事だった。


 現在の言霊辞典の持ち主……最近になって判明した事実だが、言霊辞典は、特務部に辞典の収容の指令を下した藤ヶ谷 信玄、そして辞典の前の持ち主、藤ヶ谷 シノ、その夫妻の孫、藤ヶ谷 麻雄という少年の手にあるらしい。藤ヶ谷婦人の死後、婦人の妖魔に関わる遺品は全て対妖魔開発省に回収されている筈なので、いつ、どのタイミングで、どうして言霊辞典だけが例の少年の手に渡ってしまっているのか……経緯は全くの不明だった。


 しかも、この報告を鑑みるに、彼は祖母を重々に敬愛し、言霊辞典にも愛着を抱いている様子だ。強制執行ともなればそれを取り上げる羽目になる。賠償金で埋め合わせられるなら安いものだが、果たしてどうか。交渉に失敗した末のそんな結末ならば、後々尾を引く裁判沙汰の不法行為となりえない。公共の福祉を害する要因を取り除くというならまだしも、妖魔が関わるとはいえ、たった一冊の本を青少年から取り上げるのがそうだとする体裁を取り繕ろう事は非常に難しい。

 そして、体裁すらも無視したそんな行為は、国家権力を盾にした暴圧的な搾取だ。対妖魔の重鎮たる藤ヶ谷 信玄の孫ではなかったとしても、そんな愚決は視察や裁判所から咎められて然りである。よって必然、強制執行はあくまで最後に選びうる手段となる。


「そうよ。それに彼、シノさんをすごく慕ってたんでしょ? おばあちゃんの形見を無理やり取り上げるなんて可哀想よ」


「えー……。冗談ですってジョーダン……」


 腰に手を当てた舞子にすらも注意され、おちゃらけた様子で逃れようとする虎吉を尻目に、縁田は息を吐いた。マグカップをとってコーヒーを一口すする。


「しかし、まさか全てが逃げてしまっていたとは。おかしな辞令だとは思っていたが」


 「危険物と断じられた書物を一冊収容せよ」一目には簡単そうに見えた依頼書の書き出しであったが、打ち合わせを重ねれば重ねるほど、案件の達成が遠く思えてしまってならない。やはり特務部に案件が回ってきたということから、顕著な危険はないにしろ、特殊で完遂が難航する任務であるに違いないということか。


 しかも、高校に潜入せよ、だなんて無理難題をふっかけられる始末。暴力団絡みのアンダーグラウンドや悪徳企業に忍び込むのとはわけが違う。公然且つ平然と、自分たちが教師か学生かを演じなければならない。そんな指令は特務部が設立されてから前代未聞であり、それを踏まえても極めて特殊な案件だといえる。

 目的の少年である藤ヶ谷 麻雄の通学している高校、熊野前第一高校の現校長が対妖魔開発省の上役と面識があったのは不幸中の幸いであった。一応、編入学の手続きや形式だけのクラスの特設は要請によりセッティングしてもらえたが、それの説得にも随分時間をかけたと言っていた。


 それほどに、「藤ヶ谷 シノの言霊辞典」を危険視する理由とは何か。……『言霊』という名称や分類を受けた妖魔は対妖魔開発省のアーカイブや国立図書館の蔵子を調べても殆ど情報が浮かび上がらず、その影響力は一向に推し量れない。



「それにしたって、いくらなんでも普通の高校に潜入だなんて……やはり藤ヶ谷先生もこの状況を見越していたんでしょうか?」


「間違いないだろうな」


 結局は、特務部の管轄下、人員の負担でこの『言霊』というのを探し出す羽目になった。だとしたなら、自分たちはまんまと担がれたということか? 舞子が神妙な様子で唇を抑えながら言うのに、縁田は目を細めながら答える。


「失踪した妖魔の回収。ひとりの負担には重いが、佐々守なら上手くやるだろう」


「想先輩、高校の制服着るんすねー。ぷっ、覗きに行って写メとってやろっと」


「あ。そこに溜まってるの空にしてから行ってね? こっちが終わらないから」


 指で示す先には虎吉のデスク。さらにその上。どれほど溜め込んだのか倒れんばかりに山積みになったファイルが示されている。出張から帰ってきたばかりで自身も仕事にまみれている舞子にとって、むざむざサボり症の後輩を手伝ってやる義理はない。


 とぼとぼデスクへと戻っていく後輩の背中を眺めつつ、舞子はふと、思いついたように口を開いた。



「でも、そうよね。子供のことだし、高校への潜入なら私が行ったのに」



「えっ……?」


 本当に、何気ない思いつきで言ったつもりだった。


 しかし、そんな一言で目の前の後輩は足を止めてしまう。目を見開き、もの言いたげにした口を抑えて隠す。この部屋の部長たる縁田はそれほどまでに露骨ではなかったが、二人して似たような顔をちらちらと見合わせている。


 悪意ではないかろうが、限りなくそれに近い、キョトンとした瞳。


 実に不可解な、奇妙な間だった。



「え、でも舞子さん。今年で」


 その語の続きに潜む意味を悟り、麻衣子は静かに膝を曲げた。


 心がどれほどでも、あくまでさわやかな微笑みは崩さない。苛立ちを露骨に浮かべれば、それを認めてしまう気がしたから。


「ぎゃっっ!!」


 黒く硬い靴先は十分に凶器になりうる。思い切りよく脛を蹴り上げられ、途端に虎吉は悲鳴を上げた。無言の無礼を働いた若造の口が苦痛に歪むのを堪能した後、舞子はくるりと椅子を回してパソコンに向き直った。


 何もなかったかのように座り直し、清楚な空気を醸して同僚への返事を打ち込む。少しすれば、背を丸めて悶絶していた虎吉がよろよろと立ち上がってきた。


「ま、まだ、なんもいってねぇのに……」


「言ってたら、鼻潰れてたかもね」


 未練がましく呻く後輩に吐き捨て、舞子はちらと目をやった。

 いつの間にやら、縁田は難を逃れるように自分のデスクに戻っている。何もなかったかのような物言わぬ顔で自らのパソコンと向き直っていた。


「……部長ー、一人だけ逃げるなんてずるいっすよ」


 虎吉の恨めしげな声には素知らぬ顔で無視を貫き、集中している、話しかけるな、こちらはそんな空気を醸し出す。余計な火の粉を被らぬようにあくまでしらを切り通そうとする態度。

 同罪である筈の縁田のそんな態度を尻目に、ようやく虎吉も諦めたようにうなだれ、デスクへと戻っていった。


 昼休みももうじき終わる。他の特務部の面々も戻ってくるし、情報部の視察官も資料を受け取りにやってくるだろう。いつまでもぐうたらした雰囲気を晒してはいられない。





『ジリリリリリリリ!!』


「ん?」


 全員がそう思っていた、矢先のこと。


 部屋の中に耳障りな音が響き始め、舞子と虎吉は少し肩を跳ねさせた後、顔を上げた。


 着信、それも固定電話の呼び出しにしてはけたたましい電子音。初めて聴く者には一体何事かと不安を煽るような、非常時に似合うサイレンを思わせる。

 だが、その場の三人は少し肩で反応しただけで、そのうちの舞子と虎吉はまたかといった具合にちらと目を見合わせた。


「これ、変えてくんないっすかね? いちいち心臓に悪いんすけど」


「まぁ、本当に非常事態の時もあるし……」


 その音の意味は、この部屋に配属されてある程度経っている者にとっては既に明白だった。縁田がデスクの受話器をとることで、やっと悲鳴のような音色が鳴り止む。


「こちら特務部 部長の縁田だ」


『縁田部長。至急、特務部出動の要請が入りました』


「妖魔か?」


『はい。出現位置のデータを転送します』


 非常事態を予感させるような音色の意味。それ即ち、予測できない情報体勢の中で突発的に妖魔が出現し、それの最優先での対応を特務部に命じられたという事を意味している。よくあること……ということでもないが、特段珍しいことでもなく、唐突なサイレンに慌てふためくような新人は既にいない。


 そして、非常用の回線が使用されたということは、対処すべき存在がただの妖魔ではないということをも意味している。だが、いかに強力な力を持つ妖魔でもデータや対策歴さえあれば、使用する道具やあてがわれる魔祓いを相応しく選んで対処することができる。故に、ターゲットがただ強力な妖魔というだけでこの回線が使用されることは殆どない。


 ここでいう、異常な妖魔とは、未だデータの収集や対処法が確立しきっていない、しかもその出現が先見不可だったと判断された妖魔を指している。そういった妖魔の、あくまで突発的な出現に限り、教本通りにいかない妖魔に対する観察力、対応力に秀でている特務部が緊急的に対応する。情報的に未知数で前代未聞な妖魔に対する最も最優先すべき手は、それの説得でも討伐でもなく、その後に教本を生み出す為の情報収集。

 そして情報収集こそ特務部の業務の要であり、相応しい人材が選出されている都合、他の部署では対応が難しいのは言うまでもない。


「被害は? 街の損壊はどれほどだ?」


「……いえ。それが……目立った損壊などは全く……被害者も確認できません」


「何?」


状況を聞いて救急車の手配などの指示を下そうとしたつもりが、思いもよらない返答を受けて、縁田は訝しげな声色を隠せなかった。


 予測できないほど唐突に妖魔が現れて、実害をもたらし、そしてそれは全く未知の存在だった。

そんな状況でしかこの緊急用の回線を使うことは許されていない。どれか一つでも条件が外れたなら、それは特務部の管轄ではなく、妖魔対策本部が処理する案件となる。


「妖魔はまだ姿を現していないのか? それなら……」


「お、お待ちください、確かに被害は出」


ブッ……。


「……?」


…………。


「……もしもし、おい? 応答しろ」


 待てども返事はなく、通話が途切れた。


 会話が断ち切れ、それを悟った瞬間。尚も縁田は声を張るが、受話器の向こうから帰ってくるのは会話が終了した後の引き伸びた電子音だけ。


 報告は中途半端で要領は全く得ていない。電波の通りが悪かったか? 縁田は不審げに受話器を睨みつつもそれを置き、こちらからすぐ折り返すべく、再び受話器を持ち上げた。


「了解、直ちに対応します」


「はーい了解です。すぐに誰か派遣しますねー」


 ふと、縁田は回線番号を打つ指を止めた。自らのデスクでも受話器をとっていた舞子と虎吉がほぼ同時に受話器を置く。


「どうだ?」


「都内で、不自然に交通が麻痺している地区があるそうで。妖魔の影響かと」


「あと、通信機器の電波が途切れ途切れになっているみたいっすね。今受けた報告では、反応はあるけど存在が捉えられない、みたいな……」


「これもその妖魔の仕業か? 随分と賢しいな」


 冷静な表情は変えず、縁田はパソコンの画面へと目を落とす。


 特務部の本部であるこの部屋との連絡を取り合い、指示を得て行動したい現場の人間にとって、それを妨害されるのは足を奪われかねない痛手である。どういう力を働かせているのかは不明だが、そこまで頭の回る妖魔が意味不明な事件の元凶というのも珍しい。目的を持っての行動ならば、政府へのアプローチや犯行声明のようなものがとっくに展開されていてもおかしくないはずだが。


 とにかく、本当に特務部で対処すべきか確認するためにも、ひとまずは特務部の人間をその現場にやる必要があるだろう。現在、謎の異変が生じている場所、特定されたポイントは既に縁田のパソコンに送信されていた。


「こちらでも反応を補足しだい、近隣に待機している特務部職員を派遣する」


「了解」


 舞子と虎吉は再び受話器を取りつつ、比較的ポイントの近隣に待機している特務部管轄の職員を検索していく。縁田はより細かく状況を把握する為、被害箇所として提出されたデータを解凍し、簡易報告書、データなどに注意深く目を通していく。具体的な損害、被害人数、いずれも空欄だ。未だ確認は取れていないらしい。


 今、こちらの手元にある正確な情報は、異変の起こっている大まかなポイントのみ。その中心近くの住所を改めて確認した、その瞬間。


 頭によぎるものを覚え、縁田はふと目を見張った。


(これは……いや、偶然か?)


「桜庭くん」


「はい?」


 詰所の番号を引こうとした指を止め、舞子が首を向ける。



「藤ヶ谷 麻雄くんの情報を確認したい。データを開いてくれ」

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SPELL COLLECTION 1 豊 蛙(ゆたか かえる) @yutakaeru

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