4.




 間違いなく、この闇の先。自分の一寸先には危険が待ち受けている。


「はぁ……っ、あっ、はぁ……」


 人気などないと思われていた路地裏で、背後から駆けてくる靴の音。荒れた吐息。


 店の勝手口に積まれていた空き瓶を派手に蹴り飛ばしてまで、男が息を切らして細い路地を走り抜ける。首筋に必死さと焦燥の表れである汗を垂らし、それをいちいち拭うような余裕もなく。

 闇世の中、突如にしてやってきた激しい喧騒に、電灯に留まっていた蛾は羽ばたき、集まっていた野良猫たちは一目散に逃げ惑った。


 屋根からむき出しで吊るされていた錆だらけの豆電球が、男の影を一瞬だけ照らす。男は紺のスーツを着てはいたが、裾はところどころ傷でほころんでいて、全体的に泥にまみれてみすぼらしい姿になっている。不健康そうに痩せこけた頬に、髪は金たわしのように傷んでしまっている。長らく続けた逃亡生活の末に成り果てた姿だった。


 逃げろ。逃げなければ。今や自分は魔祓いから狙われる存在だ。自分は人間だが、国から守られる側ではいられなくなった。諸手を上げて向き直ろうが無意味に違いない。

 追っ手に捕まれば、全てが終わる。向こうはもうこちらの弁明に耳を貸しはしないだろう。


「はぁ、はぁ……。ひぃっ!!」


 薄暗い路地の間を、激しく脈打つ胸に鞭打ってでも走り続ける。精神的な緊張も手伝い、さして運動が得意でない男の疲労はすでに限界に達していた。壁に肩をぶつけ、よろよろと、それでも不安定な走りを続ける。不意に見つけた古い街灯を前にして、家の壁に映えた自分の影にさえ慄く羽目になる。

 肩を震わせたとしても、いちいち立ち止まってなどいられなかった。こちらに向かって迫りくる足音は、確かな敵意を持って背後から絶えず聞こえてくるから。


 日を挟み、なんと逃亡先のホテルまで突き止めて。執拗に自分を追い回してくる連中。それも一人ではなく、「人間だけ」でもない。

 使い魔がいるのだ。堅苦しい制服を着込んだ数人は、しかしその全員が銃や刃以上の凶器となりうる妖魔を従えている。そして連中は、自分をその妖魔に殺させる公的な理由も持ち合わせている。


 しかし、切れ切れの息もすでに限界だ。そこのゴミの影に隠れて連中をやり過ごすことを一瞬だけ考えて、男はすぐに切って捨てる。妖魔の鼻は容易く自分の居場所を暴いてしまうだろう。


 走り、走って逃げ続けて……、やっと、路地の終わりが覗けてきた。


 射し込むネオンの明かりが眩しく輝いている。散々に翻弄されてきた迷路の終わりのような、救われた気分で男の口元が僅かに緩む。うまくいけば人だかりに紛れて、追跡から逃れられるかもしれない。


 地下鉄……うまく連中をまいて、若しくは時間を稼いで、駅にまでたどり着ければこちらのものだ。なんでもいい、電車に飛び込み、終点駅かその手前までとにかく逃げて、一息ついてから海外へと高飛びすればいい。個人のパスポートは使えなくとも、会社名義のそれはまだ生きている筈だし、流石に海外までは追ってこれまい。


 それだけの金は手の中に用意してある。男は汗だくの焦燥の中に、小さく笑みを輝かせた。


「っ!!?」


 頭の中で自由へのシナリオを描く。だが、男は足を止めた。


 立ち止まってなどいられない。それを理解しつつも、息を呑んで一歩だけ下がり、焦燥の面持ちで路地の入口を凝視する。


 誰かがいる。それがそこいらの通りすがりの民間人なら押しのければ済むだけだが、すぐにそうではないと悟った。


 この期に及んで、救いなどないというのか。その格好は後ろから追いかけてきていた連中とまるで同じであり、よって、その場で立ち止まる他なかった。平和に暮らす民間を妖魔の驚異から守り、そして今や自分の敵を意味する。そんな意味合いの制服をその人影は着込んでいる。


 人ごみに紛れるまで、もう少しだったのだ。だが男は路地裏の入口の、その手前にて立ち竦む羽目になる。家々の隙間を曲がりくねるようにして逃げ回っていたつもりが、この路地に逃げ込んだ時から既に回り込まれていたというのか。

 目の前のその顔は、散々に追い回されたのだから苦いほどに知っている。自分の退路を塞いでいる青年こそ、自分を捕らえようとしている連中のリーダー格。


「はぁ……ぐふぅ、はぁ……」


 細い筋の浮かぶ手で自分の胸ぐらをぐしゃと掴み、苛立ちや焦りの入り混じった猥雑な心を瞳に浮かべて、男は行先に仁王立ちするその影を睨んだ。それでも、青年は悠々とした態度を崩さなかったが、かといって突けるような隙は全く見つからなかった。

 相手はたったひとりの、若い男だ。それでも、その顔にはこちらを卑下するような笑みを浮かべている。



「うっ、うあああぁぁぁっ!!!」


 若い、即ち、うまくいけば押し通せるかもしれない。男は自分の目の前を塞ぐ若者の、捜査官としての未熟さにかけた。

 どうせこのままでも、背後からくる連中に追いつかれるのだ。囲まれればそれこそ終わり。

 男は今にも挫けそうになる心を奮い立たせる。声を張り上げ、コンクリートを蹴り、突き走った。進む先は塞がれている。それでも止まらない。衝突を覚悟の上での突進だった。


 捕縛対象がいくら近づいてきても、余裕の笑みは変わらない。青年はポケットに手を突っ込んだままで、拳を構えて身構えることもしなかった。


 いよいよ、接触。男はままならない体勢のままで、拳を振りかぶって殴りかかった。

 その時になって、青年の目がほんの少し絞られる。


「よっと」


「ごおっ!! ごほっ……」


 青年はあくまでつまらなそうな顔のまま、上体を逸らして拳を躱し、迎撃として曲げた足を勢いよく突き出した。

 鳩尾を狙って繰り出された膝が男の腹にねじ込まれる。


「はい。死にたくなけりゃ無理しなーい。分かったか?」


 躊躇いのないその一撃で、男の拳は儚く解けた。膝が震えてくずおれて、瞬く間に地面にうずくまる。


「これ以上逃げんなよ? 残業代でねぇんだから」


 路地の入口から差し込むネオンに照らされて、青年の顔の半分に影が映える。小刻みに震えながら横たわる男を見下し、笑う。制服の襟に指を差し込み、ネクタイを解いた。

 男は腹を抱えながらも地面を貼って逃げようとするが、想は口笛混じりに腰を下ろした。街中の不良がするように路上に座り込んで……腕を勢いよく伸ばし、男の髪を鷲掴みにした。


「ぎゃっ!!」


「聞いてんのかオッサン。逃げんなって」


「ひ、ひぃい……っ!!」


 髪を引き、男の顔を無理やりに上向かせる。想のいい口は冗談めいており真剣味は皆無だが、男にとってはただの軽薄な不良という認識では済まされない。痛みと恐怖に男の顔は歪みきっており、それをしかと見て想は立ち上がった。


「がっ……!」


 更に男を蹴り上げる。靴先で顎を突き上げ、強制的に体ごと仰向かせる。苛烈な暴行を繰り出した直後であっても、青年……佐々守 想(ささもり そう)の表情に大した変化はない。

 余裕の笑みを浮かべたまま、振り上げた足を戻す。嗜虐も苛立ちも何もない。


 勢い余って男の口から白い何かが飛び出た気がしたが、そこは気にしないでおこう。

 想は口笛混じりに口を血まみれにしてのたうちまわる男の腹を、地面に捻り込むようにして踏みつけた。


「さて、この体から出て行く気になったか?」


「ぐぇっ……。ま、待って……、私は……妖魔じゃ……」


 苦しげな声色での返答に、想が朗らかに口角をあげ、それとは裏腹に体重を前に傾ける。

 腹を踏まれている男にとっては、それだけで内臓が圧迫され、息がむせ返るような拷問となった。


「ぐぇあっ!! うあっ……」


「返事はイエスかノー。ま、どっちでもそんなに変わんねぇけど」


 涼しい顔で男の腹を踏み込みながら、想は制服の内側から何やら取り出し、男に突き出した。

 ひらひらとしたそれを、想は男の眼前にて、指で挟んで立てる。


「前触れは、あったんだよな?」


「っ……! それは……?」


 見せびらかしているのは、写真だった。想にとっては、行き過ぎにも思えるこの暴行を肯定してくれる免罪符にして、この男には、己の言い訳が完膚無きまでに封じられる忌むべき証拠品。それに鮮明に写っているものをしかと見て、男の表情が真っ青に変わった。


「いい趣味してんねぇ。ま、こうい《《》》うヒトもいるけどな」


 皮肉たっぷりに言いやって、舌を出す。そのむごたらしい光景には、現場調査の折、証拠の撮影を担当した女性は吐きそうになっていたっけか。

 一見すれば、決して精神に問題を生じているような顔つきには見えない。そしてこんな男が、且つては動物愛護の非営利法人にて教本を握っていたのだからお笑い種だ。見るも無残に虐待死した動物の写真を再び胸の中にしまいこみ、想は芝居がかった悩ましげな素振りで首を傾ける。


「んで、アンタはなんで俺らに追い掛け回されて、今足蹴にされてるのか。理解は間に合ってるか?」


 想はわざとらしくとぼけた様子で、自分のこめかみを指で差して言う。


 理解だと? こっちは蹴られのめされているというのになんて言い草だろう。奔放ないい口には殺意が湧いたが、それを上回る恐怖に怖じけてどう答えることもできず、男は抜けかけの奥歯を噛んで聞いているしかなかった。


 闇の中、自分を見下ろす若者の冷たい目と、嗜虐を匂わせる笑みがネオンの反射光に照らされていた。路地を通り抜ける夜風で赤い前髪が揺れ、想は首を上げれる。


 笑みで歪んだその頬の刺青は、背後からの電光で照らされており鮮明だった。



「いよいよ一線越えちまったな。今朝、首がちょんぎられた子供が市街のゴミ箱の中から見つかってよ。聞き込みや下調べを重ねて重ねて、俺らはやっと犯人を絞り込んだってワケ」


「い、いや、私は……」


「あんましらばっくれんなよ、まるで俺らの捜査が見当違いだったみたいになるだろ? なぁ?」


 想が気楽に声をかける。


 だがそれが自分に向けられた雰囲気ではないと悟り、そこで男は、今までには聞こえていた背後からの足音が、いつの間にか途絶えていたことに気がついた。


 想の足により地面に仰向けに貼り付けられたままで、男は周囲に焦燥の瞳を転がした。


 すれば、幾人もの膝から下が見える。中には、人間ではない、犬のような前足もある。そこで男は、自分の置かれた状況が危険を超え、不可避の絶対絶命であることに気がついた。

 この若者だけなら、まだ奇跡を期待出来たかもしれない。

 だが自分は、いつの間にやら逃げ場なく取り囲まれていた。自分を捕まえる為にやってきた連中と、その連中が扱う使い魔たちに。


「ひ、ひぁぁぁ!!!」


 自覚して……己の終わりを予感して、男は真っ暗になった目の前に身を震わせた。


 そこで、想がやっと男の腹から足を離す。それと同時に、周りに控えていた使い魔たちが男に牙を向いた。


 長い舌から唾液を振り乱し、獣の唸り声で吠え猛る。その姿は狼に似たような犬。制服を纏った捜査官の傍らに控えていたり、大型犬程度の図体をして警察犬を思わせたが、今まさに襲われている最中にある男は、それらを絶対的に妖魔だと認識した。


「オ、オルトロス……!」


 テレビや新聞でも見たことがある。公的機関の手足として有名であるそれらを目の当たりに、男はぼそりとその名前を呟いた。


 ただの警察犬だったなら、男の恐怖の色はここまでではなかった筈だ。男の絶望をどす黒く上塗りしたのは、まずはその異形の容姿。

 連中の使い魔。それらには、犬に似た首が二つ備わっていた。足して、針のように尖った尾。溢れ出す唾液に浸かりつつも鋭利に揃った牙。悪魔のようなそれら特徴を備える当たり前の犬などこの世にはいないだろう。


 それらが、何匹も。異形の妖魔たちの二つの首に同時に噛み付かれ、組み敷かれる。暴れようとすれば牙が皮膚を裂いてさらに食い込んだ。苦痛に悶絶する男は無抵抗を余儀なくされ、瞬く間に身動きを封じられる。


「ぎゃっっ! ぐあぁっ!!」


 喚く男に目もやらずに、想は寄ってきた後輩に耳打ちして指示を送る。


「んじゃ、炙ってみるか」


「現場執行でよろしいですか?」


「がっ!!、ああぁっ!!! ぎゃあ!」


「署まで引っ張るのも手がかかるしな。人目もないしいいんじゃね?」


「うわっ!! あぁっ! ぎゃあぁぁっ!!」


 追ってに取り囲まれ、使い魔に襲われて……怯えきって喚き続ける男を尻目に、気楽な調子で想がとなりの制服と話している。

 男は自らの悲鳴に耳を奪われつつも、その会話にしかと聞き耳を立て、目を見開いた。


 安易に決められたその結論を聞いては、されるがままにじっとしてなどいられなかった。食い込む牙や爪の痛みに叫びつつも激しくもがく。男の中で、その意味には苦々しい心当たりが浮かんでおり、従って抵抗をやめることはできなかった。


 それを大人しく受け入れるなどできない。しかしさせじと、使い魔たちが牙と爪で男を押さえ込み続ける。男の抵抗は必死さこそ振りまいているものの、まるで意味をなしていない。


 心の準備など叶う筈もない男が観念するなんて、まさかだろう。そんな期待感を持つことはせず、想は首を振って合図をした。

 

 すれば、想と同じ制服を着た、背後にいる一人が抱えていたケースを置き、開く。

 厳重な封の中身は、金属製のボトルが鍵と掌紋パス付きで保管されていた。それの蓋をねじって開ければ空気の抜ける音がして、蓋の隙間から白い煙が吹き出ていく。


 それを目の当たりにして……恐怖で顔が歪みきっていた男が更に目を見開いたかと思えば、そんな男に向かって、ボトルの口が向けられる。



「ぶわっ!!?」


 なんの遠慮もなく、ボトルの内容物である透明の液体が男目掛けて振りまかれた。男は目を瞑り、口にまで入り込んだ液体の苦さを吐き出す。


 顔を痣だらけで血まみれにして、髪に謎の液体を滴らせて、男は地面から顔を上ずらせた。


「や、やめ……」 


「ヒア。行け」


 男の言いかけた懇願を聞かずにして、制服を着た一人が、液体を服や顎に滴らせた男を手で示して合図を送る。


 直後。男に噛み付いていた使い魔……オルトロスの一匹が、小さく顎を仰け反らせ、かと思えばくしゃみのように体を跳ねさせる。その顎先から、緑色で淡く光る小さな火の玉が吐き出された。


 ささやかでも、それが灯火となる。


「ひぎゃあああぁぁぁぁっ!!!!」


 まるで灯油でもかぶっていたかのように……男の体は、またたく間に燃え広がる緑の炎で覆われた。

 静かな夜の空を裂くかのような悲鳴があがり、オルトロスたちの牙から解放された男は、火だるまのままで頭を抱え、苦悶の顔で地面をのたうちまわった。


 想や他の制服たちは、身の竦むような光景を目の当たりにしても特に口を開けることはなく、ただ、この状況下に誤って一般人が入り込んでしまわぬよう、各々警戒を張り巡らせていた。





 触媒が尽き、ぷすぷすと煙が立ち上がる。緑の炎が落ち着いた後には、男はぐったりと動かなくなっていた。


 その体には噛み付き痕や引っかき傷はあれど、火だるまにされた筈が火傷などの外傷は微塵も見られない。


 想が口笛を吹けば、訓練飼育されたオルトロスは即座に男から離れ、大人しくその場に座り込んだ。


「よーしよし」


 仕事をこなした後には、条件づけ……ご褒美のペット用ジャーキー。想が封を切った袋を放り投げると、オルトロスたちは勝手にビニールを食い破り、我先にと二つの首で餌を取り合った。


「執行中でないときは、可愛いもんですけどね」


 餌の獲得に必死なオルトロスを尻目にした新入りの言葉に、想は控えめに笑っておいた。


 これらオルトロスは、魔祓いの公的組織の中心戦力、機動力として北欧から輸入・繁殖されたものであり、神話の中にあったとされるオリジナルのその末裔に当たる。オルトロスの吐く火は身体を傷つけることなく魂を焼き、実態の無い妖魔や、人の中で芽吹いたばかりの妖魔の種子をも攻撃することができる。

 不定形の妖魔や妖魔の潜在した犯罪者を生きたまま確保出来るその特性から、数多の使い魔を従える対妖魔開発省でも大きく重宝され、妖魔を追い詰める為の訓練に力を注がれている。だから、正確には彼ら個人の使い魔ではなく、彼らの属する対妖魔開発省が構成員全員の名で契約書を書き、全体で管轄している使い魔である。



「『種子』の消滅、確認しました」


「ご苦労さん」


 死んだように横たわる男に近づき、目蓋をつまみあげて意識測定。そして戻ってきた部下からの報告を聞いて、想は投げやりな笑顔で答えた。


 種子。人の内部、精神の深層に宿った妖魔の幼生、または卵などを指して自分たち「魔祓い」はそう呼んでいる。この男はこの後、心療内科を併設した総合病院に搬送され、意識が回復され次第裁判にかけられる事になる。


 大筋の争点は、この男が引き起こした殺人に関し、この男の認識能力と妖魔からの誘導との割合がどれほどであったか。


 あの男は、捕縛令状が発行された時点で既に末期だった。すぐに解呪を受けられなかったのだろう。「予防接種」や「定期検診」を受けなかった人間や、そうであっても暗鬱で心的異常のみられる精神の持ち主は、現代社会のどこに隠れようとも妖魔の関心に触れる。それらの囁く甘言に乗ってしまった人間は、このように妖魔の器となって凶悪な犯罪を働くケースが多い。


 目の前に横たわる男はその予備軍に過ぎなかったが、今朝方に起きた事件との関連が確認され、警察には逮捕状、対妖魔開発省には『悪魔祓い』の執行命令が降りた。


 「炙る」とは、自分たち魔祓いの使う業界用語であり隠語で、オルトロスなどの吐く妖魔払拭に効果を示す炎で中の妖魔を、対象者の精神ごと攻撃して祓う事を意味する。勿論妖魔だけを狙って燃やすことなどできず、大抵は宿主もダメージを負う。この男もまた、次に目を開いた時には何かしらの精神障害を患っているだろう。病院まで男を逮捕しにきた警察が対妖省に悪態をつく図が目に浮かぶ。


「んー、完了ぉー。」


 これまで幾度となく行ってきた作業に関し、想は特別に罪悪感を抱くではなく、あっけらかんと伸びをして仕事の終わりに歓喜していた。

 この男。ほうっておけば、どうせ妖魔となって人ではなくなる。想に言わせれば、この結末は早いか遅いかの違いである。


 そして、この男は妖魔から何かしらのアプローチを受け、それを承諾してしまった。妖魔からの誘導があったといえど、現在の法律ではそれを実行した本人にも罪の追及は行き届く。場合によっては捕縛と同時に悪魔祓いの執行を認められた捜査官が、対妖魔開発省の職員である自分たちだ。


 それよりも、いま検討すべきはこれの事後処理か。事件の数ヶ月前、この男の口座に不審な大金の振込が数度あったことが確認されている。出所には検討がつくし、それを洗わせていけば細かな証拠はすぐに上がるだろう。


 想は肩に腕を回し伸びをして、大きな欠伸を一つ吐いた。


「あ、そうそう」


 周りの連中がオルトロスの送還や、男を運ぶ為の車の手配などを進めている最中、想は肩をすくめて口を開いた。


「もう言ったけど。俺、明日から暫く別の任務入るから。安原市の雑魚は任せるぜ?」


「はい、聞いてます」


 自分と同年ほど、だが部下である男の肩に手を置いて、想は男を蹴り飛ばした時に跳ねてきた頬の返り血を手の甲で拭った。


 ねぎらいの言葉と共に部下からガムを差し出され、想は礼を言って、それを口に放り込む。


「例の、言霊辞典の回収……もう顔合わせは終わったんですよね?」


「そっ。ちょっと熊野前で高校生やってくるわ」


 部下の言葉に自らの今後を思い出して、想は笑いながらも顔をしかめた。


「子供から本を取り上げるだけなら簡単ですけど。でも、取り上げた後はどうするんでしょうね?」


「入れ物は所詮入れ物だしな、『言霊』どもさえ回収できりゃ問題ないだろ。なんなら中身だけ抜き取って、抜け殻の本はくれてやってもいいし?」


「え、いいんですか? そのまま言霊の封印具として利用するんじゃ?」


「いんや。手に入ったら間違いなく、もっと厳重な別の封印具で管理させるだろ。

 ……あーでも、どのみち空の辞典も持っといたほうがいいかもな。どちらかといえば」


「後でケチつけられたら面倒ですしね」


 今しがた妖魔殲滅の執行を終えた男と違い、何の容疑もかかっていない民間人の所有物を無理やり剥ぎ取るのは、流石に国家機関の一端とて権限の外である。しかも、辞典の所有者である子供は、その本に愛着を持っていて手放したがらないと聞いていた。


 事実だろう。部屋に上がると言った時のあの慌てようを見れば一目瞭然だ。


「んでも、まぁ」


 成功は見据えている。所詮は子供。適当にアメとムチで懐柔して「譲って」もらえばそれで済む。思春期のガキが考えていることなど大概は先読みできるし、コンプレックスを抱いている人間程思い通りに躍らせやすい。


 使い魔がいない。この時代では、それは世間ズレしたどうしようもないコンプレックスだ。後になってずるずる文句を垂らさせないよう納得させるには一工夫必要だろうが、手に入れることはすぐにでも出来るだろう。

 空の言霊辞典でも渡しておければまぁいいだろうが、それができないとなれば、それの代わりとなる偽物でも用意しなければならないか。


「ちゃっちゃ終わらせて、連休取りてーわ」


「ははは」


 いつも通り、任務の完遂は見え透いている。あたかも滑稽なコメディドラマを笑うかのように藤ヶ谷 麻雄を思い浮かべ……想は部下と賑々しく談笑した。



● 



 喧騒の夜を乗り越え、妙なことを言い出す人と出会い、夢の中で祖母の友達の妖魔と会話をしたとしても……、いつも通りの朝はやってくる。


 いつも通りの、心地よい朝。窓の外で小鳥のさえずりが聞こえてきて、今日も快活な晴天なのだろう。


 だが、いくら外が軽快な天候だとしても、不思議な感覚ばかりは否めない。うつろな脳裏に引っかかるのは、今でも鮮明に思い出せる謎めいた夢。寝起きの余韻にぼーっとしながら、麻雄は布団の中でのそりと背筋を逸らした。


「ん……」


 疲れがどんよりと響く。疼くような痛みはまだ骨の節々に残っており、丸めた背を逸らすだけでかすれた声が漏れ出てしまう。枕を押しのけ、布団の中から覗かせた目で目覚まし時計を見る。今日は平日であり高校生として学業がある。よって、いつまでもベッドに甘えてはいられない。


 のだが……うん、7時前。家を出るまでにはまだ三十分もある。今日提出の課題が残っていたような気がするが、変な夢を見たし昨日の今日で体はボロボロだし、二度寝を決め込むのに何の躊躇いはなかった。


 いつものように、ギリギリになれば何も言わずとも潮江が起こしに来てくれると信じて、揺らめく意識で麻雄は再び目を閉じる……。



 ガチャ……。


「おう。秋口だってのに、冷房つけっぱとか贅沢だなー」


 ふと、部屋の扉が開かれ、何か言われた。


 布団の中に埋まりながら、誰かが部屋に入ってくる気配を悟ってそっと聞き耳を立てる。大人の男の声だった。父ではない、では誰だ?

 ぼんやりした頭での思考はそこまでに終わった。引きずった眠気を前にしては大抵のことなど取るに足らない。枕を抱き寄せ、にんまりと頬を緩めて身を預ける。暖かな布団の温もりに包まれて、微かに浮かんだ疑問符すらいずこかへと溶けていってしまう。


 ……こちらに近づいてくる足音。それから、時計の針の音だけが布団の外から聞こえてくる。


 それで…………。 え? 布団が掴まれた?



「っらあぁぁぁぁっっ!!」


「っ!!?」


 身も心も、すっかり二度寝の体勢を決め込んでいた。しかし次の瞬間、肌を撫でるような冷めた外気に身を震わせ、目を見開く羽目になる。


 慌てて上半身を起き上げた。勢いよく自分の布団が引っ剥がされたのだ。その時になって、自分の部屋に誰かがやってきていたことを、今度ははっきりした意識でもって改めて認識する。

 素早く目をくすり、何者かとその顔を探す。目を上げればすぐに見つけた。やはり父ではない。そもそも父にも母にも潮江にも、布団を無理に剥がれるなどされたことはない。


 呆然と震える瞳で、麻雄はその人物を見つめた。少し垂れた目、それから意地悪くにやついた顔。たったの一夜で忘れようがない、その顔は昨晩目の当たりにしたばかりだった。


「うああぁぁっ!!! な、な、な……っ」


「よっ、麻雄!」


 悲鳴をあげ、それからわなわなと丸くした口を震わせていれば、こちらの気などまるで意に介さず、手をかざして陽気な挨拶で答えてくる。


 昨日、唐突に家に上がりこんできて、自分の家庭教師を名乗った男、佐々守 想が、どうしてこんな朝っぱらから自分の家に、もっというなら自分の部屋にいるのか。どうして自分の布団を剥ぐという暴挙に出たのか。向こうの愛想笑いなどでごまかされる筈もなく、全く状況が把握できなかった。


 まだ、夢の続きなのか? しかし目の前にある人を食ったようなにやけ面は、頬をつねって確かめるまでもなく本物だ。


「な、何なんすかっ!! なんでっ!!?」


「え? 起こしてきてってママさんに頼まれたから? はは」


「違っ! なんでここにいるんすかっ!!」


 本気か? そんなことを聞いてるのではないと口で言わねば本当に分からないのか? だが呆れる気持ちより唐突な出来事への戸惑いが圧倒的に勝っており、麻雄は掴みかかるような勢いで疑問を吐きつけた。


「い、いや。家に来るのも、そもそもあれだし! ていうか、勝手に部屋に入ってくるとか……」


「しょうがねぇだろ。起こしてこい、つって言われてんだから」


 さも当たり前のように言われようと、納得には到底難しい。この人が今、こんな朝早くに自分の家にやってきた意味を考えて、麻雄は気まずいながらも口を開いた。


「……昨日のことなら、悪いんですけど。俺、祖父から何も聞いてないっていうか。いきなり家庭教師とか言われても、困るっていうか……」


「おっ、PF4あるじゃん。今度やろうぜ」


「……聞いてます? 俺の話……」


 部屋のゲーム機を横目に歩き回りながら、想は勉強机の上に置いてあった冷房機のリモコンを見つけ、電源を落とした。


 喋る口調に、どこまで本気かその本心は読み取り辛い。性分の軽薄さは相変わらずで、昨日会った人で間違いないということを重ねて実感する。目立って違う点といえば、昨日着ていたラフなシャツとは違い、どこか近似感を感じる高校の制服に袖を通している。

 それもその筈、見覚えなど当然だ。自分と同じ、熊野前第一高校の男子の制服だった。


(マジ、意味分かんね……)


 胸の中で悪態を吐いて、麻雄は剥がされた布団を再び手繰り寄せる。半身ほどを隠しながら、ベッドの上で少しでも距離を稼ぐべく壁際へ後ずさりした。


「……ホントに、家庭教師で来たんですか?」


「とりあえず降りてこいよ。朝飯できてるぜ?」


「…………」


 麻雄が怪しむ眼差しで尋ねても、想は意地悪そうな笑みを深くするばかりだった。それだけ言い残し大した説明もよこさないまま、気楽な口笛を吹きながら部屋から出ていってしまう。


 勝手に入って来て、かと思えばあっという間に勝手に出ていく。残された麻雄は呆然として、暫くベッドの上から動くことができなかった。




 

「母さんっ!!」


 勢いよく階段を下る途中にも声を張り上げながら、扉の手前に垂れたカーテンをぴしゃりと開き、麻雄はリビングへと飛び込んだ。

 唐突なことに母親は少し目を丸めている様子だったが、気にしている場合ではない。眠気で覆われていた頭はすっかり覚めてしまい、いち早くこの事態の説明を聞かなければ気が済まなかった。


 あの人は頼まれたとか言っていた。自分を起こしてきてとあの人に頼んだ辺り、間違いなく母があの人を家に招き入れたのだろう。



『翌日未明、「金字塔」に所属するとされる青年二人が他人の使い魔を暴行、契約権利者法違反の疑いで対妖魔開発省に書類送検されました。「金字塔」広報代表 村山氏はこれの関連について否定的な発言をしており……』


「まぁこわい。これじゃ夜中にお使いも頼めないわね~」


 物騒なニュース。そんなテレビの傍らに、小さく手を振る微笑みがあった。


「おはよう~、アサちゃん」


「……おはようございます、麻雄さん」


「お、おはよう!!」


 見渡してみれば、いつもの朝の風景のように思える。すでに朝食が用意された食卓。仕事に行く化粧をしつつ挨拶を返す母親、エプロンを着た潮江、ここまではいい。


「よっ、おはようさん」


 見渡し、そしてその人影に目が止まって、麻雄は口をあんぐりと開いた。


 どうして、当たり前のように我が家の食卓にこの人がいるのか。母の隣、茶碗を片手に笑顔で手をかざしてくる想を見つけて、ちくりと痛むこめかみを抑える。


「母さん、この人……」


「えー? なにー?」


 ひとまずは、自分が落ち着く為の深呼吸。そして、鏡を睨みながら口紅を塗っている母に目をやって、麻雄は尋ねた。


 こちらを向いた母は、祖母によく似た顔つきをしている。祖母がいつもしていたようにいつも朗らかな笑みを浮かべていて、自分の親ながら化粧の必要もなく若々しいと思う。だが、その笑みも、この時ばかりはなんて能天気さだと断じざるを得ない。


 家族でない他所者が知らずのうちに食卓に混じり込んでいる。かように異様な事実に対し、何ら疑念を抱いていない母は一足先に朝食を終えているらしく、出かける準備を進めながら一息ついている様子だった。


「そんなに知らない人が、普通にウチで飯食ってるんですけど……」


「あら、いいじゃない。せっかくアサちゃんのために来てくれたんだから。おじいちゃんの言ってた家庭教師の先生なんでしょ?」


「いや、そうだけど……」


 家庭教師の件は、それを知らせる書き置きを残した母も当然に知っている。だからおっとりした母はそれだけの理由で、それほど見知らぬこの人を家に招き入れたのだろう。


 まんまと乗り込んできたこの男を横目に……麻雄は疑るように目を細めた。馴れ馴れしく自分の布団を剥がすという暴挙に出たのは言うまでもなく、まさか朝から乗り込んでくるとは思わなくて。


 高校生である自分がこれから学校だとは知っている筈だし、自宅での授業の為ではなかろう。


 ……まさかとは思うが、昨日の晩飯で味をしめて、朝食まで食べに来たのだろうか。

 だとすればなんて無神経さだ。呆気にとられつつ、麻雄は訝しげな目で想を睨む。


 ずっと視線を突き刺していれば、こちらの様子を嘲るように想が肩をすくめてきた。


「ははっ。そうテレんなって。憧れのカテキョのセンセーに寝起きドッキリされて朝メシ一緒に食べられるからって」


「だから、俺断ったはずですけど!」


「つれねぇこと言うなよアサちゃん~、おんなじ高校どうし仲良くしようぜ?」


「あ、あんたがアサちゃん言うなっ!!」


「もう~、アサちゃんたら」


 すぐに拳を握って言い返した矢先、マイペースな雰囲気のままで母が会話に割り込んできた。


「せっかく来てもらったんだから、少しでも続けてみたら? この人が気に入らなかったら別の人に変えてもらったらいいんじゃない?」


「母さん、そういう問題じゃなくてさ」


「いや、そういう問題でもフツーに傷つくっすよ? 俺」


 柔らかな笑みでさらりという母に遠慮や悪意は覗けない。少し引きつりつつも冗談交じりに笑う想を見て、麻雄は嘆息を吐いた。


「……で。何しにきたんですか?」


「別に? 俺も今日から転入だから。どうせなら大大親友の麻雄クンと一緒に通学しよっかなって」


「転入……って?」


「想くん。お仕事でアサちゃんの学校に通うんでしょ? えらいわよね~」


(……あ、そういや……。マジでホントだったんだ……)


 睨んでみても、想はどこ吹く風と気ままな調子で朝食を進めている。母ものんきに同調する。そのままでは埒があかないと悟り、麻雄もまた、食卓に腰を落ち着けた。


 確か、昨日の夜……。高校生をするだとかなんとかのたまっていたっけか。

 対妖魔開発省。通称、『対妖省』 それも特務部といえば、日頃から目にするドラマの影響で敵国や犯罪組織に潜入するスパイ活動がやたら思い浮かぶが、やはり実物も潜入捜査などは日常茶飯事なのだろうか。


 だが、そんな非日常的な業務内容をただの高校生が理解できるはずもなく、昨日もそれが真に迫って本気だとは、実は最後まで思わなかった。


 自分と同じ制服を着ているのだし、まさか本当だとは……。表情には出さずとも驚いていれば、用意されていた茶碗に潮江がご飯をよそって出してくれる。麻雄はひとまず口を閉じ、眼前の食卓に目を落とす。


 今日は焼き魚に卵焼き、ご飯に味噌汁。中央には漬物や昆布の佃煮が置かれていたりと、我が家では定番である朝食メニューだ。


「一緒に登校するってことですか? 想さんと? ……祖父の命令で?」


「いんやー。ちょっとそっち系の仕事でな。まぁ麻雄は気にすんな。ぶっちゃけ悪徳企業とか暴力団組織への潜入とか、仕事ではよくあるこった。高校なんざ生易しいくらいのもんだしな」


「…………」


 想のいい口は真剣味に欠けて、どこかいい加減に響く。麻雄は頷いていいのかすら分からず、箸を取った。ご飯をほうばり、味噌汁をすすり、器を置く。


 ふと、想が振り向いてきた。


「んで、だ。わざわざ定時前の早朝に起きて寝癖まで整えてきた俺に、早速友情の証を示して欲しいんだけど?」


「金なら、祖父に言ってください」


「辛辣だねぇ、もちそうするけど。じゃなくてさ……」


 この人の派遣に祖父が絡んでいると知って尚、よろしくできる感情は最早なかった。どうせろくでもない話をされるだろうとは、企みを孕んだようなにやけ顔を見れば明白である。

 よって、次に何を言われようが突っぱねてやろうと心に決めつつ、麻雄は耳を傾けた。


「ぶっちゃけると。本、見せてくんない?」


「無理です」


「て、おいっ! 最後まで聞けよ、何の本とか言ってねぇだろ!!」


 予想に容易すぎて向こうの反応を伺うまでもない、どころか朝食の手を止めるまでもなく、麻雄は淡々と対応する。


「ばあちゃんの本じゃないんですか?」


「いや、あってるけど」


「はい。無理です」


「な、なんでだよ!? ちょっとくらい考えろよ! 一言で拒否るとか人として意味分かんねぇ! 人がこんなに頼んでんのに、ねぇお母さん!!」


「そんなに頼んでないし……」


「もう、アサちゃんたら~。そんな意地悪して」


 想の冗談めいた叫びに反応してか、コンパクトをたたむ音。


 母が鼻息を立てて声をかけてきた。ふとした麻雄は箸を止めて向き直る。怒ってはいないが、麻雄の態度を見て、頬を僅かにむくれさせている様子だった。


「せっかく来て貰ったのに、そんなこと言わないの。ちょっとくらい見せてあげたらいいじゃない」


「……母さん、何の話か分かってる?」


「うん? マンガとか?」


「…………」


 祖母から貰った本のことは、十年以上の時を経て尚、母にも父にも知らせていない。だからこそ、どうして目の前のこの人と祖父に、今になってそれがバレてしまったのかは分からないのだが。


 きょとんとしている母に、こんな状況でありのままの全てを説明することはできず、麻雄はやるせなく目をそらし、髪をかいておいた。


「まぁまぁ、いいじゃねぇか。ちょっとだけ! ここは俺の顔に免じて!!」


「……なんで、見たいんですか?」


「悪い妖魔がいないかとか、ちこっと確認だけしたいんだよ。な、な?」


 すぐ隣では想が手をすり合わせ、猛烈に催促を繰り返す。陽気な冗談を交えて話しかけてくる。母もニコニコして、みんな仲良くと言わんばかりの微笑みを向けてくる。潮江は少し離れて傍観を貫いていた。


 声を荒げるのは、自分だけ。丸くなろうとするその場の雰囲気を自覚し、麻雄は唾を呑んだ。一見友好的と言えなくもないこの人に対し、突っぱねるような態度ばかりとっている自分が悪者に仕立て上げられている気がして、落ち着かなくなった。


 ……この人も、立場があるのだろうし……。周りが産み出す空気というのは恐ろしいもので、自分だけがこの人を警戒しているのがバカバカしく思えてくる。この人はその陽気な態度ですっかり母と馴染んでいるようで、母もその様子に懐疑の目を向けている様子は見られない。


 ここで自分が態度を軟化させれば、母も納得してこの場は丸く収まるだろう。だからといって胸の奥深くの疑心までは捨てきれない。別段何かをされた訳ではないが、この人は祖父からの差金だ。決して口車に乗せられて流されてはいけない筈。


(……でも、まさか人んちで暴れたりとかはしないよな? 流石に……)


 本当に、見るだけか……? どこか怪しいとは思いつつも……すぐ傍らで微笑む母の目もあり、麻雄は小さく諦めの息を吐くに至った。


「……見るだけ、ですか?」


「おうっ、二言はねぇ。見せてくれたら特別に俺とタメ口張っていい許可をやろう」


「じゃあ、別にいいですけど……」


(……二つの意味で)


 途端に目を輝かせる想を現金だなと思いながら、麻雄は訝しげな顔で味噌汁をすすった。





 まだ時間に余裕があるとは言え、登校前の忙しない朝に違いはない。見るなら一刻も早く見て貰わなければ。


 朝食を終え、麻雄は約束通り、自身の部屋の前へと想を案内した。

 本当は誰にも読ませたくない。自分が祖母から本を貰ったことは今まで自分だけの秘密だったし、その中身の一、祖母が自分に宛てた手紙を他人に読まれるのにもあまり気乗りはしなかった。だが、本を見せなければこの人は延々と納得しないだろう。


 ノブを回すのを少し躊躇ってから、自室の扉を開け、想を招き入れる。この人の目当ての本は枕元に出しっぱなしにしてあった。


 本を手に取り、かざすようにして想に見せる。


「あぁ、やっぱこれだったんだな」


「ホントに見るだけで。俺、渡す気とか全くないんで」


 想がすかさず手を伸ばしてきた寸前、麻雄はひょいと本を上げてそれを躱し、改めて口頭で確認する。

 想はハイハイといい加減な顔で答えるばかりだった。


「信用ねぇなぁ、わかってるって。あと、さっきも言ったけどタメ口でいいぜ? ちっとでも麻雄と仲良くなりたいからさ」


「…………」


 この人を完全に信用するのは難しい。だからその言葉に素直に親近感を覚えても良いものか……麻雄は複雑な顔をよそを向いて隠しつつ、本を手渡した。


「んじゃ、これ。なんていうか、佐々守さんが見ても意味不明だと思うけど……」


 受け取ると、想はすぐに本を開いてその内容に目を通し始めた。


 最初の、自分に対する祖母からの手紙に軽く目を通した後、その内容自体に興味はなかったのか、想はそれほど間を空けずに次のを開いていった。


「…………。ん?」


 同時に、想は表情をわずかに変える。


 それはそうだろう、と麻雄はなげやりに瞳を転がした。少しだけ目を見開き、それからをパラパラとめくっていく。


「んん??」


 明らかに納得していない想の反応だったが、麻雄は敢えて何も告げず、ただ本が返ってくるのを待った。


 そもそもにして、この人が驚くのはある程度見え透いていたことだ。実際に手にとって確認して、その本のほぼ全てのが白紙であると、今に気がついたのだろう。


 何度も開いてきた自分にとっては既に当たり前の事実だったが、何故だかこの本の存在を知り、そして散々にその内容を見たがっていたこの人にとってはこの本が何を意味するのか分からないので、麻雄にはかける言葉が思い浮かばなかった。


 暫くした後、想は本を閉じて、僅かに喉を鳴らす。


「……おいおい、すり替えっことかなしだぜ?」


「え?」


 途端に投げかけられた言葉の意味がわからなくて、麻雄は首を傾けて聞き返した。


「俺、本当に信用ねぇのな、こんなモンまで用意して。いや、マジで盗ったりしねぇから。いい加減観念してろっての~」


「す、すり替えって……。俺は別に、何も……」


 何かを勘ぐる言葉と共に、想が眉を斜めにして肩をすくめる。麻雄はその態度に怒るでもなく、呆気にとられてしまった。


 まさか、そんなことを疑われるとは思わなかった。この期に及んで偽物とすり替えるなど……、この本は紛れもなく祖母から受け継いだ本物で、身代わりの為の偽物を用意した覚えなどない。

 麻雄は目を丸めたままで釈明したが、想は受け入れずにため息をつく。これみよがしに本を持ち上げ、もう片方の指で表紙をつついてくる。


「あのさぁ……。『言霊辞典』が白紙なわけねぇだろ? 表紙はそれっぽいけどな。んでも俺の目はごまかせねぇぜ?

 つーか、どうせ作るならもっとやるき出して作れって」


「いや、元々白紙だったし……」


 断ずるように言ってやれば、想が僅かに表情をしかめる。相変わらずこちらの言葉を信じている様子はない。


 だが、真実なのだ。疑われようが問い詰められようが、自分は嘘は吐いていないのだから仕方がない。それで向こうが納得できないなら、それこそこちらが嘘を付かねばならないだろう。

 だが、それをする意味もないし、わざわざこの人を相手に気を遣う理由もない。麻雄は不思議な事を言い出す人だとぼんやり考えつつ、じっと想の顔を見つめ続けた。


「だからさぁ、いい加減……」


 想が髪をかき上げ、これまた見せつけるかのように大きく嘆息を吐く。その拍子に真っ直ぐ視線が重なった。

 呆れた様子で唇を尖らせている想の目を、じっと見つめ返す。なんといわれようがこれは本物だ。故に麻雄はきょとんと目を丸めているしかなかった。


 そして……。想の顔に変化が浮かぶ。向こうもやっと、こちらの言葉に大した詐術などないことに気がついたらしい。



「…………」


「…………」


「え……。マジ?」


「はい」


 麻雄は頷くが、想は本と麻雄とを何度も見比べ、手を震わせていた。


「え、え? いや……マジで、これ、本物?」


「最初から言ってるし……」


 最初から言っている。この人が何を期待して、そして何を落胆しているのかなど知れたところではないが、こうも疑われては付き合うこちらとて馬鹿らしく思えてくる。


 無意味に繰り返される問答にもいい加減飽き飽きで、答える口調もやるせないものになった。

 一方、想が慌ただしく刮目し、本の表紙と麻雄の顔をちらちら見比べている。


 その、直後のこと。


「おいっ!!」


「っ!?」


 その真実がよほどショックだったのか、途端に目を見開いた想ががっしりと肩を掴んできた。焦っている様子に遠慮はなく、唐突なことに麻雄は肩をびくつかせる。


「ホントに、マジで最初から白紙だったのか!? 他に一枚もなかったって?」


「ぐぇっ!」


 そのまま、雪崩のように質問を浴びせられる。まさかそんなと言わんばかりに動揺を隠していない想に余裕はなく、ままに肩を掴まれ激しく揺さぶられる。


(は、吐く……)


 目覚めたばかりの、しかも食後であるというのになんてことをするのか。口の端から呻きながら、麻雄はこみあげる吐き気に耐えつつも、小さく口を開いた。


 そういえば……。いや、今はそうだとしても、ほんの昨日までは完全な白紙ではなかったか。


「あ、あぁ……あ、そういえば、最後に一枚だけ……」


 とりあえずは何か答えねば。疎ましげに想の手をそっと払い、麻雄は思いついたばかりの事柄をごまかしでも口に出してみた。


 祖母からの手紙の他に、この本にはもう一枚、不可思議なが存在していたっけか。


「『懐古』って書いてあるページが」


「……最後? 何もねぇけど」


「いや、なんか消えちゃった、とかいって」


「は?」


 再び本を開いて確認し、尚も疑ってかかる想の疑問符に、麻雄はさらに追加の説明を余儀なくされた。


「こっちのほうが嘘みたいだけど……聞きます?」


「いいから、話してみろって」


「なんていうか、俺もまだ信じられてないんですけど……。

 夢の中で、妖魔に会った。っていうか……」


 最後のの存在。それから辿って、今朝見たばかりの不思議で唐突な夢について。


 立派な身なりをしたリスが現れて、茶を飲んだり、この本についての説明を受けたりしたことを大雑把に話す。この本は元々は白紙ではなかったこと。これの中には妖魔がいて、その中身の妖魔……この人や昨晩のリスが言う『言霊』という存在は、全てどこかへ散っていってしまったこと。


 夢の中での出来事を語り直すなど恥ずかしい思いがあったが、妖魔に関わることだし、この人は対妖魔開発省のエージェントだと言っていた。多分その点での理解は通じるだろう。


 内容が内容であり、何せ今朝見たばかりの夢だ。あまり綿密に説明するなどできなかった。昨晩のそれは本当に唐突で幻想的で、今になってみれば本当にただの夢だったと思えなくもない。


 が、リスにサインを求められたところまで話した時、想が一際表情を変えた。


「は、はぁ? じゃあ中身は? 中身の『言霊』はっ!?」


 明らかに焦っている様子の想に、今の話の何がそうさせるのかは分からないままで、麻雄は説明を繰り返した。

 リスとの会話の中でも『言霊』という単語は登場した。夢の中で会話をしたリスを含め、祖母が手紙で示していた友達は『言霊』という妖魔らしいというのも聞いて知っている。


「あー……えっと。そのリスは契約とか何かが切れたから、逃げてったって言ってたけど」


「それ、納得したのか!? 血判押したり名前書かされりしたろ!」


「えっ? ……えっ……と」


 想の指摘に、麻雄はすぐに返事を返すことが出来なかった。


 図星だった。心当たりは大いにある。しかし、それがなにかマズかったのだろうか? 例えそうだとして、この人に何の関係があるのか?


 ……やっぱり、妖魔の関わる契約に高校生が勝手にサインをするのはよくなかったのか? ひどく狼狽している想の様子はこちらにも嫌な予感を覚えさせる。何故それを、まるで見ていたかのように悟られているのか気にはなったが、こちらからそれを尋ねられるような空気ではない。


 なんというか。首を縦に振るのは気が向かなかったが、麻雄は目を逸らしつつも頷いた。



「……なんか、夢の中でサインさせられた、ような……はは」


「~~~~っ!!」


 気まずさに負け、さりげなくあのリスに強要されたかのように言ってみる。


 だが、絶句。自分が頷いたことで、想は言葉を失ってしまった。


 散々に声を張っていた想が数歩後ずさり、驚愕の顔で押し黙る。よって部屋には暫しの静寂が張り詰めた。見開かれた目でこちらを見つめ、肩を震わせている。何かとてつもない衝撃を与えてしまったのは明らかで、しかしその原因は知りようがない。よってこちらの立場からかける言葉もなく、麻雄は立ち尽くしているしかなかった。


 ついには気まずさに負け、麻雄が訳も分からず同情の台詞を口をしかけた、その矢先のこと。

 固まっていた想が咳払いをし、同時に、凍りついていた空気が弛緩した。


「OK。一旦落ち着こう、OK?」


 自信ありげに首を振られて親指をたてられても、意味不明だ。麻雄は戸惑いつつも、敢えて口を開かなかった。



「つまり。この本は空っぽになっちまってるってわけだ」


 本をくいとかざし、想が確認を求めてくる。今でも理解は追いついていないものの、麻雄は控えめに頷いておいた。


 元来、この本の中には、最後のの『懐古』のように沢山の内容があって、他にも『祖母のお友達』だったと言う『言霊』が封じられていたというのは、夢の中で既に聞いている。今までこれをただの本だと信じて疑わなかった自分にしてみれば随分と突拍子な話であったが、『他の』や『お友達』の記述など、それまでには不可解だった祖母からの手紙とも繋がって、なんとか納得できるというもの。


 それが、今ではこの本は白紙であり空っぽ。本を初めて開いたのは確か祖母が死んだ数日後だった筈なので、どのタイミングで白紙になっていたのかは実際のところ分からない。貰ってすぐに本を読もうとしなかったのは……そうだ、本を受け取った時に祖母に言われたからだった。



 「この本を開くのは、アサちゃんが大きくなってからね」。痩せて木の枝のようだが温かい、そんな手を重ねてきて、傍らに正座する自分にそう言っていたのを思い出す。結局は死んだ祖母への悲しみと好奇心に負けて数日後に開いてしまったのだが、その時には……今になってはうろ覚えだが、既に白紙だった記憶がある。


「……無意識の中とか、まんまとやられたな……。あーどうすっかな、これ。報告し直したほうがいいのかねぇ。空っぽ持ってってもしゃあねぇし……」


「あ、あの」


 ふと、麻雄は顔を上げた。髪をかきながらぶつぶつと独り言を呟いている想に向け、疑問を投げる。


「俺。サインしたのって、何か問題とか? この本が空っぽだったらマズイのか、っていうか……」


 空気の変化を悟れないほど鈍感ではなく、知らぬふりを貫ける空気でもないだろう。はっきりしなくても負い目を感じた麻雄は言い淀み、口ごもりながらも尋ねた。

 すれば、想は再び本を片手に持ち上げ、その表紙を指で示した。


「なぁ。麻雄はこの本についてどれだけ知ってる?」


 向けられた質問に、麻雄は一瞬返事に困ってしまった。けれども、夢の中であらかたにこの本について説明されたのは、先程話したばかりだ。


「……大体の説明は、聞いた。ホントかどうかは分からないけど」


「まぁ、その、夢の中で聞いた話? は殆ど間違ってねぇな。そのリスは間違いなく『言霊』の一体だろうし。でも、そいつも逃げちまったんだろ?」


「さぁ……。最後のの……『懐古』って文字も消えてるし。多分」


「んー? なんかやる気なさげだなー。麻雄のばあちゃんの使い魔だったんだぜ?」


「でも、そんな本だったとか、俺、知らなかったし」


 興味がないわけではない。だが、まんざらでもないような素振りを見せるのは気が引けて、麻雄はそっぽを向いて答えた。


 祖母の友達。一度会ってみたいとは思うのだが、だからといって逃げてしまったものを再び捕まえて、また本の中に閉じ込めておきたいとは別段思わない。それは自分には関係のない話だとさえ思える。

 自分にとってのこの本は、祖母から貰ったという時点で十分に価値があり、後からこれが妖魔の家だったと知らされようが実感はわかないし、その妖魔を取り戻したいとも考えられない。


 祖母が自分にだけ遺したたった一つの遺留品は、既に今の状態で完成しているのだ。今になってそれを誰かに奪われるのは許せないし、中にいた妖魔たちが出ていきたいと望むなら、どうぞ好きにすればいいと思う。


「逆に聞くけど、どうしてそんなに俺のばあちゃんの使い魔……だった妖魔を気にするんだよ?」


 この本はあくまで自分のものである。しっかりその線引きを見せつけるようにして、麻雄は想の手からやや強引に本を取り返した。


 それに、自分がその本の『内容』だったという『言霊』たちへの開放を認めるサインをしたとして、それにこの人が狼狽えている理由が分からない。


 『言霊』 祖母の友達だった彼らを自分たちの機関にスカウトしたいのだろうか? だがあのリスを一目見た感想では、昨日に揉めた同級の使い魔と比べて、世辞にもあまり強そうには見えなかった。「対妖魔開発省」なら、他にも強力な使い魔を沢山傘下に置いていてもおかしくないだろうに。


「ばあちゃんは……もう死んだし。ばあちゃんの友達がどこで何しようと関係ないだろ?」


「はは、そうはいかねぇな~」


 乾いた笑いで想が言うのに、バカにされた気がして麻雄は少し目を細めた。


「麻雄のばあちゃんは、対妖魔開発省の並列の……まぁようするに取引先みたいな関係の魔祓いだったから。死後の使い魔契約は権利的には対妖省のものになんの。

 ちょいと難しい話になるけど、分かるか? まぁとにかく、大人の事情な」


「んなの、そっちの勝手だろ。ばあちゃんは自分の友達をやりたくなかったから、俺に本を渡したんじゃねぇの?」


 細かな法律の文面などは分からない。だが、ささやかな悪態を交えて麻雄は言い返す。

 祖母が魔祓いだったというのは知っていたが、対妖魔開発省に属していたとまでは知らなかった。


 だが、だとしても、そんな理由でこの本までが祖父やこの人から狙われるなどたまったものではない。自分にとっては、この本が妖魔に関する何かだったなどとは後付けの理屈と大差ないし、到底黙って納得できることではない。


「おう、こっちの勝手。だけど麻雄も、ちっとは自分のことも考えたほうがいいぜ?」


「?」


 どういう意味か。何故だかニヤリと笑みを深める想に麻雄は眉をひそめた。


「『言霊』……まぁ未知の妖魔ってのが、今の世間にとってどれだけ危険なのかってこと。街中には子供や妊婦や老人もいる。麻雄がそんな大事なこと簡単に納得しちまったから、後々どえらい事になるかもしれねえんだぜ?」


「どういう意味だよ?」


 訝しげな目で麻雄が尋ねれば、想は悠々としたにやけ顔のままで手を翻した。


「まぁ、この際だから言うけどさ。俺、この本の中身の『言霊』を回収する為に、遣わされたとこあるんだよな」


「えっ?」


この人がこの本を欲しがる理由。昨日までは本の正体さえ不明瞭であり、その意味が全くわからなかったが、想はそれを自らあっけらかんと言ってしまう。


 麻雄は一歩後ずさって、辞典を自身の影にそっと隠した。この人のいい口はこちらが更に警戒することを全く意に介していないようで、少し気味が悪かった。


 部屋には二人だけ。図らずも離れた一歩分の間を、想はすぐ、詰め寄るようにして埋めてくる。


「な、なんで。俺にそんなこと……」


「んー隠してもいつかバレるし? さっきも言ったけど、麻雄のばあちゃんは元々うちに所属していた魔祓いだった。だからその使い魔だった『言霊』もこっちで回収する予定だったんだよ」


「……な、なんで?」


「これもさっき言ったよな? 危険だから」


「…………。あ……」


 そこまで言われて、やっとこの人の言わんとしていることを察することができた。夢の中では確かに、『言霊を相続の範囲外にする』、そんな言葉を添えられて、自分はサインを求められている。


 さっきの、少しトゲを感じさせる言葉は、妖魔にいいようにそそのかされてサインをして、『言霊』を世に解き放ってしまった自分を咎めたものだったのか。


「もっと細かく言うなら、その力を把握しきれていないから、だな。自由になった途端どこで暴れるか分からねぇし、ひょっとしたら人を殺っちまうかもしれない。


 どうでもいいけど、自分のしたサインはそういう意味も含んでるって、自覚はしとけよ? 麻雄は封じられていた使い魔を本から開放してやって気分がいいかもしれねぇけど、その使い魔が知らないところでどこかの誰かを傷つけてるかもしれねぇし。臭ぇもんの入った蓋は結局臭ぇんだから、無闇に開けるなってこった。


 強いて言うと、無差別的に危険と疑われる妖魔の開放及び契約は、立派な犯罪行為だぜ? 藤ヶ谷 麻雄クン?」


「! 俺は、そんなつもりは……」


 悪意も何も、本当にそんなつもりはなかった。あの書面の裏にそんな意味合いが仄めかされていたとはその瞬間には思いもよらない。だが、どういう釈明を並べていいのか分からず、麻雄は気まずさを堪えて頭を俯けた。


 すると、垂れるように下がった肩に、想の手がのしかかってくる。


「ま、過ぎたことは気にせず行こうぜ? ゴーイングマイウェイ、な? 俺はサツじゃねぇし、逮捕したりとかしねーよ。

 まぁ今度からは、そういうことがあったら自分で判断せずに俺に即相談、OK? とりま暫くは俺が近くにいるし、妖魔は人を騙してなんぼだしな。使い魔もきちんとした良いヤツ紹介してやるから」


「…………」


「な?」


 冗談を十二分に交えた物言いは相変わらず。だが、それでもこの人はエリートの魔祓いだということなのだろう。諭された言葉は納得に耐えうるものであり、この人が魔祓いとして培ってきた経験値を予測させる。


 使い魔すらいない、持ったことのない自分は当たり前の人以上に妖魔に関しては素人なのだから、ベテランの意見を聞いたおく事は重要なのだろうとは分かる。そんな心の揺らぎを見透かしたかのように、想はこちらの肩を握ったまま、ずいと顔を近づけてきた。


(…………、けど……)


 しかしながら、麻雄は胸の引っ掛かりに少し顔をしかめた。目の前のこの人はいいことを言っているようにも思えるが、しかし一方、あのリスが悪意を持って自分を騙したなどとは、とても思えなかったのだ。


 逆に、あのリス……言霊の『懐古』の言葉は今でも深く心に残っている、この人の言葉とは違って……。麻雄は少し黙った後、胸の奥に突き刺さった小骨のような、そんなリスからの訴えを胸に口を開いた。


「……でも、それだけじゃないんだろ?」


「ん?」


 もしあのリスが自分を騙していたというならば、夢で語ってくれた全ての話も嘘であったと疑わしくなる。しかし、とてもそうだとは思えなかった。

 何より、この本が祖母の従えていた妖魔に関する何かであることは紛れもない真実であり、だからこそこの人はここまでこの本に触れ込んできて、夢で見たに過ぎない話ですらこの人の関心を引いているのだ。


「あのリス……『懐古』っていうばあちゃんの使い魔が言ってた。自分たち『言霊』が組織の手に渡ると、戦いの道具にされるって。だからばあちゃんは俺に本を渡したし、言霊たちは逃げたんじゃねぇの?」


「……………」


 もしそうなら、気の毒な話だと思うし、目の前のこの人がますます怪しげに感じてならない。途方もない国家組織である対妖魔開発省、そして祖父の実力至上主義を思い出してはそれを疎ましく思って、麻雄は低い声で尋ねた。


 そして、少しの静寂。想は口を丸く開け、また微笑を取り戻す。


「……ま、最終的にはそうなるかね。手元にいる妖魔を研究だけして、後はほったらかしなんてもったいねぇ事はフツーしねぇだろ。かといってそこいらに逃すやけにもいかねぇし、組織の使い魔として働いてもらうのは、まぁ、当然の成り行きだよな」


「そんなの、俺なら……納得できない」


「おいおい。たかだか妖魔に同情してんのか? 麻雄クンやっさしぃ~」


 あざとく小馬鹿にしたようないい口に麻雄は目を細めて睨みつけたが、想はどこ吹く風と、余裕の態度を崩さなかった。


「本気で、俺からこれを取り上げるつもりかよ?」


「んな身構えんなって。何度も言うけど取り上げたりしねぇよ。今のそれは本当にただの本だし、意味ねぇもん」


「でも……」


「おい、アレアレ」


 更に食い下がろうとした矢先、想は本を指で示したあと、その指でそのまま部屋の時計を指した。

 つられるように時計の針を読む。そして、麻雄は途端に肩をびくつかせる。


「うわっ!! やべっバスがっ!!!」


「まぁ、今後については帰ってからゆっくり語ろうや。一応、俺は麻雄の家庭教師だしな」


 いつの間にやら、既に出発の時間まで追い詰められていた。間もなく家を出なければバスに乗り遅れてしまう。内申点は決して芳しくないだろう自分にとって、遅刻は一度だけでも致命的だ。


 問答をひとまずは呑み込み、麻雄は慌てて鞄を取った。にやついている想に分かりやすい悪意は見えない。もっと事細かに納得できるまで問い詰めたいが、このままでは遅刻する。ひとまずは訝しげな表情でその顔を見やっておくしかなかった。





 完全に予想外だ。


 簡単に終わる任務の筈が、状況は完全にとち狂ってしまった。これは偶然か? それともここまでの状況を見越した上で、俺はこの任務に抜擢されたのか?


 考えても見れば、書面にあったような簡単な内容だけで、わざわざ専用の教室を作ってまで俺が高校に潜入する理由はない。相手は子供。それも周囲の状況に左右されがちな高校生だ。

 状況を調査して本を取り上げるだけなら、その周りにいる同級生を数人でも買収すればいい話。しかしそうはせず、あくまで辞典の所有者自身に近づく為に回りくどい手法を選び、無理やりに取り上げるなとまで釘を刺された。だが、今ならばその理由は至極妥当なものとなっている。

 おそらくは、『言霊』との契約が本ごと当人との間ですでに再編されており、故に当事者の了承なしに『言霊』を組織の手元に置くことは叶わない。


 妖魔との契約は、いかに契約者の血縁者といえど他人の手で勝手に書き換えることはできない。そして『言霊』連中は既に契約上新たな主人を見定めており、こちらの命令を無視できる確実な口実を持ってしまったということ。


 それどころか、今や本の中にすら『言霊』はいない。逃げてしまった妖魔を再び捕らえるというのは非常に困難であり、妖魔側からの何らかのアプローチがなければ基本的には足頼みになる。


 面倒で、気が乗らない。だが、お上はひどく『言霊』という未知の力に執着していた。今のままでは現状を報告してから、また任務を受け直す事になるだろう。おそらくは『言霊』を回収し直さなければならない任務に置き換えられる筈だ。非常に厄介極まりない任務だが、嘆いていても仕方がない。


 『言霊』たちがいつ逃げ出したのか、どこまで逃げてしまったのか。数体でも回収は可能なのか。まずは、今後の為にも入口の情報から把握していかなければならない。万が一にも国外まで逃亡してしまったなら、今の国際法では、その妖魔はすでに日本圏の所有ではなくなってしまう。場合によっては処分してでも、それだけは回避しなければならない。


 取り入るような微笑を崩さないまま、頭の中で今後の算段を組み立てつつ、想は不審げな目をする藤ヶ谷 麻雄に軽い言葉をかけ続けた。


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