3.




(なんだったんだ? 一体……)


 先ほどの突拍子な話について、一人で考え直してみても全く理解を見いだせそうにはなかった。


 風呂上がり。


 ゆるゆるのTシャツを着て、髪にバスタオルをかけたままで自分の部屋へと戻る。水気とシャンプーの匂いが残った髪をかきながら、未だ納得を得ていない先ほどの出来事について思い返した。

 家路について、家庭教師を称する見知らぬ人がいきなりリビングにいたかと思えば、夕飯だけ食べてあっという間に帰ってしまった。

 その人との出会いがあまりに衝撃的だったからか、食事が終わった直後にして、病をぶりかえすかのように喧嘩の名残を思い出し、その青痣の鈍痛に麻雄は顔をしかめていた。湯船に浸かっている間にも、体中の傷がひりひり痺れてゆっくり温まってはいられなかった。


 ジュースのペットボトル片手にバスタオルをそこらに放り、冷房を付ける。秋の口で涼しくなってきた時期とはいえ夜はまだまだ蒸し返す。クーラーから放たれる清々しい冷気を浴びながら、ベッドに腰を下ろした。


「……ていうか、なんで今更……」


 それが不思議で、麻雄はぼそりと呟いた。ふと、先ほどの想とかいう謎の男との会話と、その中に出てきた祖母の本についての記憶を思い返す。


 腰を落ち着けたのも束の間、麻雄はジュースを置いて直ぐに立ち上がり、思いつきのままに自身のクローゼットへと歩み寄った。


 (確か、この辺に)


 戸を開け、吊られた学生服などの下にある収納コンテナを開く。


 先ほどの見知らぬ男は無論のこと、誰にも触られたくない故に、その本は、自身の卒業アルバムなどの下に重ねるようにして、密かに保管されている。


 思い出の品を次々掘り返していけば、それは見つかった。自分が祖母から受け取った、大切な本だ。祖母が亡くなった際の遺品は全て祖父に手をつけるまもなく整理されてしまったので、今ではこれだけが、自身の手元に残る大好きだった祖母との具体的な思い出である。


 コンテナを開いて物をどかせば、そこにある。当たり前の場所に隠した当たり前にある本を見つけて、それでも麻雄は安堵した。今日まで誰の目にも触れさせず、大事にしまっておいたのだから無くなってしまう訳がなかったが、それでも、この本を失ってしまうことは今や亡き祖母との唯一の繋がりを失ってしまう気がして、それを想像すれば身が震える思いだった。


 本を手に取り、軽く埃を払う。丈夫で厚い和紙で出来た表紙には達筆な祖母の字で筆がうねっており、何と書いてあるのかは読み取れなかった。


(あの人。なんとか辞典だか言ってたけど、勘違いだよな?)


 手の中にある本に目を落とし、麻雄はそのまま虚ろな目で表紙を見つめ続けた。どうしてあの人がこの本の存在を知っていたのかはともかく、何故あの人がこの本を譲ってくれ等とのたまったのか、その意味が未だに分からない。故にあの人は多分勘違いをしているのだろう。この本を「辞典」などと呼んでいたのもその考えを助長させた。


 あの人は魔祓いだ。と、潮江さんは言っていた。何かの本を探している理由があるとすれば、多方、呪われた書物などを回収する為だとか凶悪な妖魔が潜んでいるだとか、そんな理由に違いない。だからこそ、勘違いだと断言できるというもの。この本は呪われてなどいないし、そもそもにして、文字すら記されてはいない。


「はぁ…………」


 麻雄は息を吐き、無意味だろうなと悟りながらも、古めかしい綴じ方をされたその本をパラパラとめくってみる。


 そして……、やはり無意味だった。


 十年以上も前から相も変わらず、目を通すはその殆どがまっさらな白紙で、文字があるのは最初と最後ののみ。最初のには、自分に宛てた祖母からの手紙。


 そして最後には、表紙に同じくミミズがのたうったような読み取れない文字がびっしりと並び、円や三角形を組み合わせた複雑な謎の紋様、一番上の列には『懐古』という文字がかろうじて読み取れる程度。


 何故、祖母がこのような謎めいた本を自分に残したのかは分からない。当時は白紙ばかりのこの本を、造りの立派な落書き帳だと思ったくらいだった。少なくともこの本には読みふけるべき内容はない。故に辞典などとはとても言えないだろうし、男が狙っている本というのもおそらくこれではない筈だ。


 この本は、且つて言葉や文字遊びが大好きだった祖母が、自分の為に残した本なのだから。


(……もう何年経ったんだろ)


 本を手に開いたまま、麻雄はベッドに寝転がった。そっと目を瞑れば、今でも目蓋の裏に鮮明に思い浮かぶ。

 

 大好きだった祖母との記憶の数々。祖母は自分がまだ幼い時に亡くなってしまった。だから思い出の量で言うなら父や母程に多くはないが、だとしても、他の何でも埋め合わせることのできない貴重な思い出には違いない。


 幼い頃、自分はよく祖父母の家に預けられていた。古風ながら立派な屋敷で広い枯山水に踏み込んではよく怒られていたっけか。当時から祖父は何事にも厳しく自分にとって畏怖の対象だったが、祖母は違った。両親と離れ、広い屋敷の隅で戸惑っていた自分にいつも朗らかに笑いかけてくれた。魔祓いを引退した祖母は、まるで親と離れた寂しさを紛らわせてくれるかのように、しりとりをしたり白玉団子をこしらえてくれたりした。夏には庭の軒でスイカを食べて花火もした。冬には初詣に連れて行ってくれた。


 幼稚園には通わず、遊び相手の友人も多くなかった自分に優しく接してくれた祖母が、幼い心の中で大きな存在となるのに時間はかからなかった。


 自分は生粋のおばあちゃんっ子だった。麻雄は自己をそう分析して、鼻で少し笑っておいた。少し照れくさいが、間違いではない。祖母は亡くなって尚も、自分の胸の中では今でも両親程に大切な人だ。


 だからこそ、その臨終に立ち会った時には胸が張り裂けそうに傷んだ。あの優しくて快活だった祖母が死ぬなど信じられず、数日はずっと泣き続けていた。


 今思えば、この本を受け取ったのは、祖母が亡くなるほんの数日前だった。体調を崩したと言って寝床についていた祖母から受け取ったのだ。祖母自身は、その頃にはすでに自分の死期を悟ってしまっていたのかもしれない。


(マジで、懐かしい)


 この本を引っ張り出したのも実に何年ぶりだろうか。先ほどの出来事がなければ思い出すことはなかっただろう。昔は幼い腕で抱えるのもやっとだった本を片手にて開き、麻雄は本の一目を開く。


 自分がこの本をただの落書き帳にせず、親にも黙って大事に隠していた、たった一つの理由。既に何度も目を落とした祖母からの手紙に、麻雄は再び集中した。





『この本が、無事にアサちゃんの手元に残っていることを信じて、綴ります。


 アサちゃんへ。


 まずは、おめでとう。文字が読めるようになったのね。アサちゃんがこの手紙を読めるようになる頃には、おそらくもう、おばあちゃんはアサちゃんの元にはいないと思います。アサちゃんと過ごす日々は毎日がとてもきらきらと眩しくて、とても、とっても楽しい日々でした。だから、ランドセルを背負った立派な姿を見れないのはやはり残念です。


 おばあちゃんの家にいたアサちゃんは、本当に素直でいい子でしたね。お父さんとお母さんが忙しくって中々会えない日々が続いても、我が儘を一つも言わずにいたアサちゃんをおばあちゃんは誇らしく思います。アサちゃんはとっても強くて優しい男の子です。

 これから先、大人になればいろんな苦労が待っていると思うけど、どうかそれを忘れないで? おばあちゃんにこんなに元気をくれたのだもの。きっとどんな辛いことにも耐えられると思うから』



 まだ途中だが、言葉にならない感慨深さに息を吐く。手紙は次のページにも続いた。



『さて、この本については、アサちゃんが一番不思議に思っていることだと思います。どんなを開いても、難しい文字ばかりが並んでいてびっくりしたでしょ?


 この本は、『魔祓い』という、妖魔さんとお友達になる仕事をしていたおばあちゃんの、そのお友達の家なの。妖魔と聞いたらアサちゃんは難しい顔をしていたけれど、本当は全然、そんなことはないのよ? この世には、お話の中にあるような悪さをする妖魔ばかりじゃなくって、人と手を繋いでくれる妖魔もたくさんいます。アサちゃんにも、きっといつかは妖魔のお友達ができる日が来ると思います。そうしたら、おそらくこの本は必要なくなります。おばあちゃんとしては、その方がいいのかと思いながらも、この手紙を書いています。


 この本に住んでいる不思議な妖魔たちは、不思議な力を持っていて、それ自体にはなんの区別もありません。言葉と同じね、使い方や言い方で意味は全く変わってしまう。正しく導けば沢山の人を救うことができるし、自分の為だけに使ったならそれは悪にも働くでしょうし、誰かの心を傷つける。でもおばあちゃんは、おばあちゃんのお友達にそんな悪いことをさせたくはありません。


 だから、おばあちゃんは未来のアサちゃんを信じ、この本の末路をお願いしました。燃やすことも隠すことも出来るでしょう。ただ、この本が、決して相応しくない人たちの手元に渡ることが無いように。それだけがおばあちゃんの願いです。


 そして、もしもだけれど。アサちゃんが、おばあちゃんのお友達の新たな主になる未来があったなら……。そのたったひとかけらの可能性の為に、この手紙を残しました。アサちゃんには『魔祓い』の家系に囚われず、自由な生き方をして欲しいのだけれど、アサちゃんが己の意思で『魔祓い』を志すことだってあるものね。


 おばあちゃんのお友達。この本のもっと深い秘密は、別のにてお話して貰うことにします』



「ふぅ……」


 最初は目を通すたびに涙ぐんでいたものだが、祖母が亡くなった無念さは、何度もこの手紙を読み直すうちに、胸に温かいものが篭る感覚に変わっていった。


 そこまでで、手紙の内容は終わっている。次のに続くかと思われていた手紙は、しかし他の全てののいずれにも見つけられなかった。


 結局、祖母がお友達と呼んでいた妖魔の正体は分からず終いだった。祖母の手紙では、まるでこの本が白紙ではなかったかのような語り口であり、初めて手紙を読めたときは嬉しかったし悲しかったが、何度も読むうちに当然ながら困惑もした。


 本を初めて開いたのは祖母が亡くなった直後であり、がほぼ白紙だと気づいたのもその時だ。手紙の内容までを読めるようになったのはその数年後。それまでは祖母と実際に遊ぶ時が楽しくて、それほど面白そうでもなかった本には正直見向きもしなかったから……。


(そうそう、最初はちょっと怖かったんだよな)


 祖母との記憶の折、いざ本を開いてみた当時の心境を思い返し、麻雄は再び自嘲した。

 祖母から、この本が『お友達』の家だとかいう話はそれを受け取る前から聞いていた。幼い心ではその言葉を疑うことはできなくて、実際にその本を開くときには、びっくり箱をそうだと知っていて開くような、少しばかりの勇気を振り絞った記憶がある。それから後、その手紙を読んでから、この本が妖魔に関する何かではないかと疑ってかかった時もある。あくる日に凶悪な怪物が飛び出してくるのではと肝を冷やしたことも。


 だが、冷静になれば祖母がそんな危険なものを自分に渡すはずがないし、いつになってもこの本に特殊な予兆が垣間見える日は訪れなかった。


 この本はただの本だ。開いたとしても妖魔が飛び出てくる事はない。理解した上でそれでも引っかかったのは、やはり手紙の最後の一文だった。

 まるで、本のが口を開いて、自ずと語ってくれるかのような、そんな書き方だ。祖母は昔から不思議な言い回し、比喩表現、韻を踏んだ言葉や回分などが好きだったから、これもまた深い意味などない言葉のあやと断ずればそれまでだが……。


(でも……)


 だが、麻雄はそうだと割り切れない自分を一方に感じていた。


 この本の中に不思議な力を感じるような、このページを覗く自分と同じように、ページの側からも自分の顔を見つめ返されているような、そんな視線の感覚を否定できない自分がいる。


 祖母の手紙に書かれていなければ、全く気にならなかった程度の違和感だ。妖魔がこの世に実在する以上、本が生きていることにいちいちど肝を抜かれていては逆に馬鹿馬鹿しいとは思うが、流石にこの本自体が妖魔であるとも思えない。となれば、祖母の言葉は全て妄言か? ……そんなことは考えたくもなかった。


 だとしても、本当に……少なくとも自分は、この本からは何も感じないのだ。手紙への違和感と、ほんの些細な感覚以外の何も。もし、他の誰かならば容易く感じられるような魔力めいたものがこの本から放たれていたとするなら、自分は本当に『魔祓い』への才能が皆無なのだろう。


「あ、そういえば……」


 久しぶりに祖母からの手紙を読み、また本を畳んでしまう、その寸前。麻雄は次に、本の最後のを開いた。


 白紙ばかりで綴じられたこの本だが、祖母からの手紙とは別に、もう一枚だけ、内容のあるが存在する。この本の中では貴重な何かが書かれてあるだが、それは生憎と祖母からの手紙ではなかった。あたあも大昔の古文書のような。ただの高校生では解読不能な謎めいた文字ばかりがずらりと並ぶ不可思議な。


 最後のそれは、手紙よりもっと単純に意味不明で今も首を傾げた。その中で唯一読み取れるのは、『懐古』の二文字だけ。一体何の意味があるのか、その二文字だけはの上部に大きくはっきりと書かれていた。



 『懐古』。その意味は携帯の辞書アプリ等で何度も調べた。今自分が祖母の手紙を読みつつ思いふけっていたように、懐かしい記憶を思い浮かべるという意味の言葉である。


(……ん……)


 やはり、久しぶりに見たとしても、何も……。頭の中で再考して、麻雄はふと、そんなを睨む視界が霞んでくるのを悟った。


(……やべ。今何時だ……?)


 意味を知っているところで、久しぶりに開いたところで、その謎が都合よく解けてくれる筈もない。このままではどうしようもない意味不明なにはそれほどの興味を持てずに、麻雄はぱたんと本を閉じ、そのままベッドに身をうずめてしまった。


 心地よい感触の枕に頬をこすりつける。柔いシーツの上で寝転がっていれば睡魔の到来は早いもので、落ちかけた目蓋をくすり、力を振り絞って腕を伸ばす。寝相の下敷きにしてしまう前にと、本をすぐ傍らのラックの上に押しやるようにして逃がした。


(……課題、朝やればいいか……)


 明日一限目にして提出する課題がまだ手付かずで残ってあったことを、今になって思い出す。ベッドに寝ころがったままで本を読んだのが失策だったかもしれない。別段後悔はないが、今更机に座すのは無論、冷房を消しに立つのでさえ億劫になってしまった。


 喧嘩に体力を使ったのも手伝っただろう。涼しい部屋にベッド、そして程良い疲労感。麻雄の意識が暗転するのは早かった。








【懐古……昔の記憶を懐かしむこと。また、その心】








 自分が今を生きている以上、亡くなった祖母と再会することは最早叶わない。だからこそ、今、眼前に広がる光景はかつての記憶だったものに他ならない。


 自分は雲で、空を漂っている。もしくは鳥か、風か。とにかく、自分の体と意識はとろけて空に浮かんでおり、雲の上から地上を見下ろしていた。視界に広がる全ては紅茶をこぼした写真のように色味に欠け、これら全てが過去のものであることを言い聞かせるように強調する。


 そんな茶ばんだ世界には、花柄の和服を纏った祖母がいる。その近くには、幼い自分の姿もある。


 祖父母の家だ。庭の軒先で膝枕をしてもらっているようだ。懐かしい目で眺めるその風景はそれだけで完成しており、現代の自分は取り入る余地もなくあくまで部外者である。祖母に甘えているその幼稚な顔をぼんやり眺めては、あたかも今の自分の名残りを残した他人を見ているような気分になって奇妙な感覚を覚えた。


 これは夢だ。間違いない。夢の中でそう断言できるというのも珍しい。



『……懐かしきあの日々を……』


 空にふわりと浮かびながら、それをなんとなしに眺めていれば、背後から声がかけられた。


 聞きなれない声だった。すぐに振り返ろうとしたが、その時に気づく。背後に振り向けるような首が自分には備わっていない。返事を返したくとも声すら出ない。


 あぁ、そうか。おそらく自分は人の形すら成していないのだろう。妙な感じだとは思ったが、そんな感想すらもとろけてどこかに消え失せた。決して悪い気分ではなく、それに、どうせ夢なのだから気にすることはない。


 また、声は響いてきた。


『思い返してしておいでですか? お孫様』


 声は続く。脳の芯にまで染み込むような、丁寧で低い男の声色だった。これは記憶で、自身の夢の中だというのに極めて謎めいた登場人物だったが、誰なのかと尋ねることさえもできなかった。

 言葉は一方通行で、会話がまるで成立しない。お孫様? そんないい口に疑問符を浮かべたとしても、こちらから質問を投げることはできなくて、男の声は更に続いた。


『しかしながら、シノ様はまだあなたの御心の中で生きておられる。物言わぬセピアに染めるには早いかと存じますが、如何でしょう?』


「ん?」


 パチン。


 指が軽快に鳴らされた音。


 そして。ふとした拍子に、声が出た。それから手が伸びて、足も生える。取り戻した感覚を持って前を向けば、舞台の垂れ幕が引かれるように、周囲の景色が彩度を取り戻して挿し替わっていく。


 何事にも虚ろな感触しか得なかった先ほどとは違い、肌身に確かな感触が蘇ってくる。自らの頬を触ってみて確かめて、自分が「藤ヶ谷 麻雄」であると指先から実感する。

 そして、視界に広がる光景にも驚かされた。いつの間にやら、周囲は紅茶色の空ではなく、鮮明な色合いの屋内になっていた。天井には豪華な細工のシャンデリア。それから周りを見渡せば、壁の代わりに延々と本棚が立ち並び、赤い絨毯の廊下には高い場所の本を取るための梯子が立てかけられてあった。パソコン、自動貸出機完備の近代的な公営図書館とは違う、どこか古めかしい造りの図書館を思わせる。


 怪奇の目で周囲を見渡すのを止めて、前を向く。


 戸惑いの中で、移り変わった状況を麻雄は何とか呑み込んだ。一枚の白紙と、ペン立てに立てかけられた万年筆。それだけが置かれた机の前に、いつの間にやら自分は座っている。


『夢とは、記憶に浸り省みる日記のようなもの。『懐古』の舞台には、現実よりもずっと相応しい』


 それが、悪夢だとしても……また、同じ声で話しかけられて、麻雄は目を見張りつつ声の主を探す。


 すると、すぐにそれらしい影をすぐに視認した。先ほどから語りかけてくる声の主もまた、自分と向かい合うように座っており……。


 ! いや、麻雄は見間違いではと刮目した。


(う、うわっ……)


 声に聞き覚えはなかった。てっきり中年か初老の男性を想像していたから、その意外すぎる姿に麻雄は息を呑む。


 その影は、その低く渋みのある声色からは想像できない容姿をしており……なんというか、机の上に小さく収まってしまっていた。


「うわ……」


 刮目。


 尚も再び見間違えかと思ったが、そうではない。何度も確認すれば次第に胸の中のどよめきが強くなっていき、感嘆が声にも出てしまった。


 机の上に、立派な燕尾服をまとった、されど人形のような愛らしい姿を見つける。あたかも自分と向かい合っているつもりのようだが、身の丈がまるで違う。机の上に飾られているミニチュアの机と椅子に座って足を組み、手にはどこか風格を醸し出すステッキ。それらとは裏腹の、黒い瞳、長く太いふさふさの尾っぽ。


 だが、それは人のように顎を動かして喋っているではないか。


「リスっ!!」


『いいえ、お孫様。私は動物ではございません』


 リスだ。


 リスが立派な身なりをして、机の上にある机と椅子に腰を下ろしている。帽子の影から、豆粒のような黒い瞳でこちらを見上げてきて、口まで聞いている。当の本人がなんと言おうとその外見はリスそのものだ。


 だが、肩を跳ねさせた麻雄の張り上げた言葉に、その小動物は首を横に振って断じてきた。獣の瞳に感情は伺い辛いが、こちらの言葉に呆れている様子が垣間見える。


『あなたの知るその動物は言葉を解しますか? こうやって、お茶の相手をすることもできないでしょうに』


「わっ……!?」


 するとリスが、爪楊枝程度の大きさをしたステッキで机を叩く。コツンと一度。それとほぼ同時に、紙風船でも割れたかのような軽快な音色が弾け、麻雄は目を見開いた。


 手品でも披露するかのような仕草の後に、麻雄の目の前、広いテーブルの上に、白い煙に巻かれてティーカップが現れた。


 驚嘆は続く。カップに続き、手品めいた煙の出現は続く。ポン、ポンと、几帳面に並べられた銀食器や角砂糖の積まれたシュガーポット、それから綺麗な細工の菓子皿も。

 ちらと目をやってみれば、カップは鮮やかな朱色の紅茶で満たされており湯気が立ち込めている。手前の皿に盛り付けられているのは、洋風の皿や紅茶にはどこか不似合いな、砂糖ときな粉をまぶした白玉団子だった。


 麻雄は突然の事に怯む、と同時に、目を少しばかり輝かせた。肩をびくつかせた後に唾をごくりと呑み込んで、図らずも手を伸ばそうとした欲求を押さえ込む。


「あの、どうして、俺の好物を……?」


『失礼ながら、あなたの夢を隣の席で拝見しておりまして』


 夢の中の……、しかもリスの姿をした何者かに話しかけて良いものなのか。麻雄は戸惑いつつも、おそるおそる口を開く。すれば、そのリスは人並みに平然と返事を返してきた。

 だが、意味はわからなかった。それでもそれ以上の質問を一旦引っ込めて、口を閉じる。


 こんな、愉快で奇っ怪な現象を目の当たりにして、それを疑心無く受け入れるのはそう易やすとはいかない。それでも……それでも。夢の中とは言え、目の前の好物に反応する気持ちは本物だ。


「……いいんですか?」


『どうぞ、冷める前に』


「でも。夢ですよね?」


『されども、味を感じないとは限りません』


「…………」


 なんとも不可思議な夢だ。話の茶菓子に好物を進められるとは。そんな夢の住人である小動物に対して敬語を使うのはどうかと思ったが、身なりは立派で、その紳士然とした態度を前にすれば馴れ馴れしい態度をとる気にもならず、麻雄は肩を固めて訝しげに答えるしかなかった。目を閉じてその語り口と声色だけを聞いたなら、自分よりも遥かにしっかりした年長者に思えてならない。


 だが、一方、麻雄の視線はずっと、眼前に晒されている白玉団子の皿を刺し貫くかのように向けられていた。好物を前にして鼻をひくつかせる気持ちと、食べても大丈夫なものかと怪しむ気持ちを天秤にかけて揺らしている。


 机の下で手の甲を揉んで、ずっとそわそわしていれば、リスに手を差し伸べられて促される。麻雄は不思議がりながらも、共に用意されたフォークを取り、恐る恐る一つ目を突いてみた。


 確かな弾力。夢だとは思えないほどに、きな粉がこぼれ落ちる様すら鮮明だった。


(あ、美味い)


 そのまま口にほうばってみれば、足して、歯ごたえや味でも本物だと理解できる。きな粉に混ぜられた砂糖とニッキのほのかな甘み。団子は作りたてのようで温かく、前歯で噛めば引き伸びる程にもちもちと柔らかかった。紛れもなくこれは実物であり、何故だろう、コンビニやスーパーマーケットなどで市販されているものより遥かに懐かしく感じた。祖母が過去に作ってくれたものと味がよく似ている、気がする。


 ふと、杖を付く音が響く。皿ばかり凝視していた麻雄が首を上げれば、自分の椅子から立ち上がったリスが帽子をかぶり直し、顎を開いた。


『「五歳の時の白玉団子」。思い出の品でもお召し上がり頂きながら、お孫様には私の話を聞いて頂きたいのです』


 まさか、夢の中で自分の大好物にありつけるとは思わなかった。しかもかなり美味しい。もう一つ、もう一つ……。手を止めずに食べ続けていれば、団子を用意してくれたリスは満足そうないい口でそんなことを言ってくる。


 そうは言っても、紅茶の茶菓子程度の量では大した間は持たない。あっという間に皿は空っぽになり、麻雄はきな粉で少し汚れてしまった顔を上げた。


 ホントはジュースか緑茶が良かったものの……だが、せっかく用意された紅茶で団子を呑み込み、一服。息をひとまず落ち着けたところで、されとて、この状況の不可解さが解決するはずはなく。


『ですがその前に。お孫様には何かと戸惑いの影が伺える様子。私でよければ質問にお答えしましょう』


 疑問符が顔に浮かんでいたのだろう。実際、聞きたいことは山積みだ。一体何から尋ねてやろうかと考えながら、今一度、辺りの壁などを見渡してみる。部屋を仕切る壁はその全てが本棚に覆われおり、出口も入口も見当たらない。リスが喋ったり茶菓子が現れ出たりするのは勿論のこと、なんとなくこの空間自体に現実味がないように感じて、違和感ばかりが心に残っている。夢なのだから現実とのギャップは仕方がないのかもしれないが、まるで子供が読む絵本の中にでも飛び込んでしまったかのような感触だった。


 だからこそ、質問をどうぞと言われれば、まず気にかかっていることは目の前の正体。だが、いきなりお前は誰だと問いかかるのは気が引けて、麻雄はまず一枚噛ませることにした。自分を指で示しながら手短な質問を呟いてみる。


「あの。さっきから俺のこと、お孫様って。それに……ここ、夢、ですよね?」 


 すると、リスはまたステッキをひと振り。今度は麻雄の目の前に三角におられた紙のナプキンが現れた。無言の指摘に麻雄は苦笑いしつつ、それをとって口の周りを拭う。


『失礼。あなたは我らが主だった藤ヶ谷 シノ様のお孫様故にそう呼ばせて頂いております。それからここは、我らの住処……『藤ヶ谷 シノの言霊辞典』、巻末の『懐古かいこ』の中にございます。

 正確には、本のに設けられた空間の入口をくぐり、その中にある言霊の部屋にお招きしたのですが』


「へ? えっと……」


「つまるところ。夢見る貴方の意識のみを、今、貴方の身体の傍らにあるこの本の中の空間にご案内させて頂いたのです。貴方が久方ぶりにこの本を開いたのは、ちょうど都合の良い機会でした』


 噛み砕かれてもよくわからなかったが、麻雄はしっくりこない顔ながら頷いておいた。


「あ、ああ……。ていうか、そういえば。ばあちゃんのこと知ってるんですか? というか、そんなこと出来る? ……あー何から聞けば……」


「細かな説明は後でお話しますが……私はその手の術が得意な『妖魔』ですので」


 口元に運ぶ寸前にて、麻雄は茶をすするのを止めた。ダメだ。こちらの質問に対する答えが次なる質問を呼び、疑問符がぐるぐると浮かびすぎて頭の中でまとまらなくなってきている。


 祖母が主? リスの? ここは本の中? そんなことを聞いて尚、のんびり茶を飲んでいるような場合でないのは確かだろう。麻雄はカップを置き、リスの正体とその言葉について、リスとの会話を後から追いかけるようにして考えた。

 最も引っかかったのは、このリスと祖母との関係だ。置かれた状況より何よりも、今まで謎の多かった祖母に関する話の内容が気にかかる。


 そもそもと考えを巻き戻せば、これは自分の見ている夢。しかし、目の前の小さな存在までを単なる夢の住人に過ぎないとは、とてもじゃないが思えなかった。


 目の前のリスは、自分の知らないことを語ろうとしているのだから。そのいい口の通り、この存在は自分以上に祖母について知っている? 不思議な力を操るといえば、この現代においてわかりやすく思い浮かぶのが妖魔だ。妖魔は人にはできない、あらゆる不可思議を巻き起こす超常的な存在。もしかしたら、人の夢に入り込むような力を持った種類もいるのかもしれない。


 ならば、聞きたい。祖母についてそれ以上をもっと詳しく知りたい。麻雄は詰め寄るようにリスへと首を伸ばした。


『お孫様。ときに貴方は、私のことをどのようにお考えですか?』


「え?」


 自分より遥かに大きな瞳が近づいてこようと、リスはなんら動じることはなく、逆に小さな爪の生えた指を立てて尋ね返してくる。

 麻雄は少し呻いたあと、随分と小さな声になって答えた。


「どのようにって……夢の中の……妖精、とか? はは……」


 自分で言って、図らずもはにかんでしまった。


 他人の趣味まで否定する気はないが、自分はもう、妖精が飛び出てくるような夢を見てもいい年ではなかろう。それでも、小奇麗な格好で品のある振る舞いをするリスの姿、今しがたしかと見た紅茶や菓子皿を出す魔法のような力も含めて、目の前の小さな小動物はそういった存在にしか思えなかった。現実の世界で言うならば間違いなく妖魔の類なのだろうし、けれども、悪い存在であるような気配は第一印象では得られなかった。


 するとリスは、自身のサイズにあつらえたような椅子の上で指と足を組み、これまた自分用らしき可愛らしいティーカップで茶をすすりつつ、黒い瞳で見上げてくる。


『なるほど。ではもう一つ。お孫様は『言霊』とは何か、ご存知ですか?』


「こ、言霊?」


「おや、では聞いたことは?」


「えっと……」


 小さな爪を備えた小動物の指を向けられ、これまた謎めいた質問を投げかけられる。


 麻雄は口ごもりつつ、心当たりを頭の内に探した。言霊……聞いたことは、ある。その本来の意味合いなどは知ったところではないが、ゲームやアニメでいつかに見聞きしたような気がする。だが、「何か」と問われれば何なのか? 悩ましくも返答に詰まってしまった。


『その様子だと、この本を譲渡なされる時、シノ様は何もお話にならなかったようですね』


 その、言霊とやらが、祖母から受け取った本と何か関係しているのだろうか? 自分はまだ幼かった。今言われた通りで実際に祖母から何も聞いていなかった麻雄は、目の前の妖魔を自称するリスが何者であるかはともかくとして、説明を求める意味合いでこくりと頷いた。


『では、私から全てをお話しましょう。此度、サインを頂きたい事柄にも関係してくる内容ですので』


 言うや、リスはステッキをくるくる回し、小動物の歩みではさぞ広いだろう机の上を、慣れた足取りの二足歩行で歩き始める。


 その様は、本当に英国の紳士がするような振る舞いだった。対してよれよれの寝巻き姿である麻雄はどうしていいやら分からず、丸めた目でじっとその姿を見つめていた。


『お孫様が相続された本……今回、夢の中の麻雄様をお招きしたこの世界は、私共『言霊』を封印しておく辞典、『言霊辞典』と呼ばれています。その手の者の間では、『SPELL COLLECTION』という名の方が浸透している模様ですが』


「すぺる、これくしょん……。はぁ……」


 聞き慣れない名だ。だが、なんとなくいつかに聞いたような気がする。そういえばつい先ほど、白紙の本がだなんて言われ方をしていたのを思い出した。あぁ、そういえば家庭教師のあの人も、会話の途中何やらカタカナを並べていたような気がする。


 この本が、家? 妖魔とはそういう生き物なのだとは学校の授業で習ったりした記憶がある。だから、巻物などに封印された怪物などはなんとなしに想像できるが、このリスもそういう類であったというわけだろうか。妖魔にもいろんな形態があるんだなと、理解もそこそこに麻雄は感嘆の息を吐く。


「あの、じゃあなたは……『言霊』っていう妖魔ってことですか? ……童話とかの妖精じゃなくて」


『あしからず、私は時計うさぎの類ではありません。ですが流石はお孫様、呑み込みが早い』


 リスは麻雄の前までてくてくやってくると、テグスのような髭をいじりつつ、かぶっているシルクハットの位置を整えた。


『今は亡き我が主のご子孫。親愛なるお孫様。


 私めは、言霊の一語、『懐古』と申します。お孫様がお生まれになる昔から、他の語どもと共に、使い魔としてシノ様にお仕えしておりました』


「ばあちゃん、の……使い魔……?」 


 ……これは、これは本当に自分の夢なのか?


 それを聞いて、頭の中を何かが通り抜ける感覚を覚えた。


 隠れていた答えの線と点がつながったような、そんな痛快な感触だった。動物が口を聞く時点で随分と不可解な夢だとは思っていた。だがたった今、自分の夢の中にいる存在からそんな言葉を聞き、それ以上に胸の底から湧き上がる衝動を感じて、麻雄は口をあんぐりと開けていた。今の台詞を聞くまでは、目の前の存在が妖魔であるという話すらも、半分ほどしか信じてはいなかったから。


 だが今になって、その話を疑う倫理はない。もしこれが本当に自分だけの夢だというなら、祖母の使い魔の事など、ましてや本の秘密など、これまで謎めいてきた全ての過去と情報が明かされるわけがない。そんな謎が自分の頭の中の出来事だけで解決する筈はないのだ。少し頭を捻れば分かったこと。本の謎、祖母が友達と呼ぶ存在の謎。それらは全て、今までには知りたくとも知り得なかった情報なのだから。


 だが、自分が今までにどうしても解けなかったそんな秘密を、今、目の前のリスは悠然と語っているのではないのか?


 もう、夢がどうとかなどと構ってはいられない。夢だからどうたらとか理性に反するだとかのたまうのは二の次であり、質問の手を休めることはできなかった。


「手紙に書いてました。あの、この本はばあちゃんの友達の家だって」


 何度も読んだ手紙の内容を思い返しつつ、麻雄は机の下で拳を強く握り、それとは逆に息を整えてから口を開く。


 祖母の友達……祖母の使い魔が目の前の小さな存在であると、たった今その存在自体の口から説明されたばかりだ。


 夢の中の妖魔は、顎に手を置いて思案の仕草を見せる。


『主であられるシノ様が我ら使い魔の語どもを友人と呼んで下さるのは、私には光栄至極にございます。他の語たちがどう思っているのかは知れませんが』


(じゃあ、やっぱり……)


 丁寧ないい口の後に、凛とした姿勢で洋式のお辞儀を見せてきた。その礼は本当の意味では自分に向けられたものではない筈だが、麻雄は自然と首を垂らす程度に挨拶を返し、改めて確認の為に口を開く。


「じゃあ。あなたがばあちゃんの友達? ……使い魔?」


『そのうちの一語でございます。言霊たちは、他にも沢山この辞典には備わっておりました』


「そしたらっ、この本はやっぱり……」


 やっと叶った祖母の友達との出会いを自覚して、麻雄は図らずも声を張る。


 未だ状況の把握は追いつかない。だが、やっと祖母の手紙にあった内容の意図が理解できた気はする。


「おばあちゃんのお友達」。目の前の妖魔こそが手紙に綴ってあった祖母の友達であり、不思議な力で夢の中の自分の前に現れた。妖魔と世界を共にする現代人にとっても、突拍子もない奇天烈な出来事に変わりはないが、妖魔の仕業と前置きすれば、大抵のことは納得できてしまうのもまた、妖魔のはびこる今の世の中の常識だ。


 だから、不納得を長々引き摺ることはしなかった。それよりも、やはり祖母の手紙は妄言でもなんでもなかったのだと悟り、麻雄は自然と笑みをこぼしていた。


 そして祖母の笑顔と同時に、脳裏に浮かぶ顔がもう一つ。


 今思えば、家庭教師を称するあの人も、確かに辞典がどうたらと言っていたっけか。


 (ん……?)


「おりました?」


 次に何を聞こうかと口先を悩ましていた時、ふと、先ほどのリスとの会話を思いだす。過去形で締めくくられた言葉に疑念が生まれ、麻雄は首を傾げて呟いた。


「あの、他にはいないんですか? 他のその、言霊……さんたちもここにいるんですよね。挨拶、だけじゃないけど。ばあちゃんの話を聞きたいっていうか……」


『……お孫様』


 少しばかり気になって、麻雄は尋ねてみる。


 すれば、何故だろうか。こちらにしてみればなんとなしの質問だったのだが、返事を濁らせるリスの声色に陰りが覗けた。


『この本が、殆ど白紙になっていることは既に承知でございますね?』


 この本は、祖母の手紙と巻末のを覗いて全てが真っ白だった。だからこそ、今の今まで麻雄はこの本への疑問を拭えずにいた。何故祖母が貴重な筈の人生の最後の最後で、このような不可解な本を自分に託したのだろうかと。


 そして今、その秘密が解かれようとしている。麻雄はずいと顔を近づけ、話の続きを催促する。


 リスはまた、その小さな顎を開いた。


『実は、この本には元々、全てのにしかと語が刻まれてあったのです。シノ様の手にあった頃は、決して白紙ではございませんでした』


「えっ!?」


 それは初耳だ。白紙でなかった? どういうわけかと困惑が生まれ、麻雄は半分ほど開けた口を閉じられずにいた。


 手元にないので……そもそも自分の意識とやらは本の中に呼ばれているらしいので、今すぐには開いて確認してみるなどできない。が、されど祖母からの本は間違いなく殆ど白紙だった。それはベッドに横になったつい先程にも再確認したばかりである。


 頭に浮かんだ疑問符を察してくれたのだろう。リスはすぐにまた口を開いた。


『シノ様も、この事態は完全には予期しておられなかったでしょう。良識ならば、言霊の一言一句全てがお孫様であるあなたへと無事に受け継がれ、そして、使い魔の契約をそのまま引き継ぐことになると考えておられた筈』


「お、俺が? 俺は何も聞いては……」


 疑問をそのまま口に仕掛けて、ふと口を閉じた。わざわざ貴重な話の腰を折ることはないかと麻雄は自分を戒めて押し黙る。


 だが、胸の中では必死に考える。祖母の友達……えぇと、『言霊』というのか。その言霊が、目の前のリスだけではないというのは先程に聞いた。そこまで理解したところで、リスの説明はさらに突拍子のない内容に転がっていってしまう。


 自分が祖母の友達たちを受け継ぐ? 無論祖母からそんな話を聞いた日はない。一体いつからそんなことが決まっていたのか。進む話に追いつくため頭をフル稼働させ、麻雄は若干瞳を上逸らせつつも、目の前の……『言霊』からの説明を黙って聞いていた。


「じゃ、あ。えっと、今は俺があなたたちの契約相手になってるって事ですか? あの、あくまで契約の上でっていうか……」


「いえ……、そうなる手はずでしたが……」


 口ごもるリスは少し俯き、ステッキをこつんと鳴らした。


『お孫様も妖魔学の勉学にてご存知かと思いますが、妖魔との使い魔契約を次の代の主にそのまま引き継ぐことは、両者の合意があれば基本的には可能です。


 ですが……その一方、シノ様の死は、我々言霊全員にとって契約を更新するかどうかを考える契機となりました。即ち、両者の合意という点で契約の糸にほつれが生まれ、そしてシノ様は、我々との契約事の全てを把握してはいなかった」


 (……あれ、そうだったけ?)


 使い魔契約の分類などについては、最近に授業の中で学び始めたばかりだ。いつぞやの小テストで問われたような気がするが、今はとりあえずそれは置いておこう。リスの話に再び耳を傾ける。


『ただの言葉はといえ、我々には命があり、精神があり、そして意思があるのです、お孫様。

 単純に、新しい主になるお孫様の実力を疑問視する語、世俗へ憧れ自由を渇望する語もありました。何せ、我々のほぼ全ては一人の人に縛られていることに長い間納得してはおりませんでしたから。

 シノ様の死は契約の終結、即ち我々言霊がこの辞典から脱走する絶好の契機となってしまったのです。


 ですから大変申し上げにくいのですが。長くなった説明をまとめるなら、今のこの言霊辞典は、中身の言葉であった言霊たちが全て逃げ出してしまった状態にあるのですよ』


「……な、なるほど!」


 わかったようなわからないような……。麻雄は情報を整理する為、今聞いた話を繰り返し思い浮かべつつ、煮え切らないながらも控えめに頷いておいた。


 つまるところ、祖母が亡くなった隙をついて、その言霊たちは逃げ出してしまったということなのだろうか。基本的に、妖魔と人との使い魔の契約はどちらかが死ねば解けてしまうというのは、一般常識の範疇では知っていたし、そこまでならばなんとか納得できる。本を残しての中身だけが逃げ出すなど、実際に想像するには途方もなくて難しかったが……。


「つまり、ほかの言霊は全部どこかに逃げ出しちゃって……。それで、この本は白紙になったってこと?」


『……ええ。左様でございます』


 それに関して……、驚きはあったが、別段感じ入るところはなかった。会ったこともない妖魔がいずこかへと逃げ出したところで、自分にはどうということはない。

 だが、これで本が白紙になっている謎は解けた、気がする。祖母が死に、それを尻目にして祖母の友達たちがみんな散り散りになってしまったのは、祖母が見捨てられたようで少し淋しいような気もするが。


「じゃあ、もう言霊はあなただけ? まぁ仕方ないか。ばあちゃんのこととか聞きたかったけど」


『申し訳ありません。ですが、やはりシノ様の仰せられた通り』


「へ?」


 聞き返すと、リスは少し腰をおり、帽子をとった。


『麻雄様が我々の力に執着されるお方でなかったことに、心から安堵し、尊敬しております。シノ様もさぞお喜びであられましょう』


「いや、そんな……」


 小動物の顔では笑顔なども受け取りづらいが、声色から褒められているのはよくわかった。麻雄は少しだけ目を逸らしてその言葉を受け流す。


 だが、リスが再び小さな咳払いをする。はっとした麻雄は再び向き直った。


『では……、これまでの説明で、新たな疑問が生まれたかと存じます。なぜ私だけが辞典に残されていたのか。それを説明いたしましょう』


「あ、そういえば」


 このリス……言霊は自らを『懐古』と名乗った。そして懐古といえば、祖母から貰った本の最後のに意味不明な文字が刻まれてあったのを思い出す。今だからこそ頷けるが、あのの意味不明な文字群は妖魔を封印しておくための何かだったのだろう。


 考えてみれば、他の言霊はみんな逃げ出したのに、この『懐古』だけは尚も本に残っていて、今、自分に説明をくれている事になっているのか。


『私、言霊の『懐古』だけは、単純な使い魔契約とは別個に、もう一つ特別な契約をシノ様との間に設けていたのです。シノ様は死の間際、言霊たちが少なからずこの辞典から逃げ出してしまうことを、僅かな可能性として憂いていた。つまり、辞典が白紙になってしまったその時の為に、手紙と、私との契約をお孫様に遺したのです。

 私との契約とは、シノ様が亡くなった時、言霊辞典の次の後継者であられる麻雄様に対し、シノ様が負うべき説明の責を代行する事』


「……説明? あ、今のこの話のことか……」


『足して、シノ様がこの本をあなたに託さざるを得なくなった理由についても』


「?」


 更なる疑問をぶつけるのを一旦止めて、麻雄は息を呑んだ。


 リスが自分の前にて立ち止まり、そのつぶらな瞳でじっと見上げてくる。まるでこれまでの説明がただの前置きだったかのように、空気が引き締まりを得たのを感じた。

 これより先に、更に重要な話が続くのがよく理解できる。


 (……ばあちゃんが、自分に本を託さざるを得なかった、理由?)


『その時が来たなら、お孫様に警鐘を鳴らすよう、シノ様が設定しておいたと聞いています。私が目覚めたということは、この辞典を狙う輩が満を持して麻雄様に近づいてきたという事でしょう』


 そんな話を聞いて、そんなのは全く知らないと答えようとした、その矢先。


 麻雄は安易に答えようとした自分の舌に待ったをかけた。本を狙う輩。最も分かりやすい心当たりが先ほどにも浮かんでいるではないか。


 無邪気に白飯をかき込んでいた、あの男。


 (でも、なんでだ?)


 麻雄は少し俯き、その顔を思い浮かべつつ考えを張り巡らせた。


 自分にとってのこの本は、大好きだった祖母から貰った、そして今ではこの手の中に唯一残る祖母の遺留品。この上なく貴重なものだ。他の誰かが抱く価値観など知ったところではないし、誰の手にも引き渡したくなどない。


 だが、この本の中身だったらしい祖母の使い魔までは、正直のところ手にして置きたいとは思わない。今までの話を聞いて尚も、もし出会えたなら祖母の話を聞いてみたい、そんな程度の感情しか持ち合わせてはいない。


 だから、どこか焦燥を見せるリスのいい口には首を捻ってしまった。この本が言霊という妖魔を封じてある本だというのは理解できた。だが、他の誰かにとってもこの本は貴重なのだろうか? それほどに、目の前のリス……他の言霊とやらが珍しくて、欲しがる連中が多いのか?


 ベテラン魔祓いなら、他にも使い魔を沢山引き連れていてもおかしくないだろうに。麻雄は半笑いになりながらも答えた。家庭教師を称したあの人は、確か対妖魔開発省のエージェントだとか。


「えっと。心当たり……ちょっとあります」


 聞いたリスは、小さな顎で嘆息を付くような素振りを見せて、再び自分の椅子に腰を下ろした。


 ティースプーンでかき混ぜて、再び紅茶を一すすり。その仕草にはどことなく神妙な様子が垣間見えた。指を絡ませ、紡ぐ言葉を考えているようだ。


『自らの死期を悟ったシノ様は、我々言霊の力が旦那様であられる信玄様、そして、対妖魔開発省の元に下ることを強く懸念しておりました』


「それはまた……どうして?」


 言われるまでもなく本は絶対に誰にも渡さない。白紙だろうが妖魔の家だろうが麻雄の決意は揺るがない。だが、それでもその言葉に引っかかりを覚え、麻雄は尋ねた。


 祖父は嫌いだが、それでも祖母の伴侶なのだ。確かに考えてみれば、自分の使い魔を封じておいた大事な筈の本を、長い人生を共にしたろう、しかも魔祓いである祖父ではなく、どうして、魔祓いでもないただの幼い孫に託そうだなんて考えたのだろう。みずみず幼い孫にそれを渡した祖母の行動を間違いだったと否定する気は毛頭ないが、それでも何故そうしたのか、考えれば謎は深まるというもの。


『シノ様は大変にお優しい方でした。対妖魔の組織に囚われれば、我々は永遠に妖魔との戦いを強いられてしまう。その過酷な運命から身を挺して庇ってくださったのです。

 残念にも、いくつかの好戦的な語は尚も戦いを望み、そのシノ様の御心を理解しようとは思いませんでしたが……』


 対妖魔開発省や、その他の対妖魔事務所などなど。高校生の身分で実際にそういった組織に立ち入ったことなどあるはずもなく、そこで使い魔がどんな扱いを受けるのかも知らなかった。だが、悪い妖魔を退治する際、その妖魔と最前線で戦うのは、やはり組織に使役された使い魔だろう。銃火器や武器、念仏や聖書で祓う方法もあるようだが、やはり使い魔が戦いの最中にいることは想像に容易かった。生身の人が妖魔に叶うべくもないのは、実際に妖魔に殴られ続けてきたこの身で散々に思い知っている。


「あの、変なこと聞くけど……あなたたちって、強いんですか?」


 対妖魔開発省……その他にも、妖魔専門の駆除会社や結社の存在はテレビのコマーシャルでも有名だ。そんな組織たちが妖魔をスカウトする理由といえば、やはり使い魔として強くて戦力になるからなのではないかと、麻雄は当たりをつけていた。


 質問してみても、リスの顎は縦にも横にも振るわれず、その表情は獣面故にやっぱり読み取れない。


『言霊という括りでは、純粋な強力さなどは測りかねます。苛烈な性格の語や平和主義の語。強力な破壊を行える語もあれば、殆ど無害な力の語もおります故。

 だから、戦力が欲しいという観念では、他の名高い妖魔を探し出して契約する方が無難でしょう。

 我らが狙われている理由といえば……。思いつくのは、その特殊性』


「特殊性?」


 ただ、強いのではないのか? 鋭利な牙を持ったり、火を噴いたり? 映画などに出てくる三首の犬や巨大なイカなどを勝手に想像し、しかしそうではないと断ずる解説に麻雄は首を傾げた。


『我らは『言霊』。言葉の化身。故に言葉を操ります。言葉は時と場合によって、強力にもなり役立たずでもある。連中にとってはそれが興味をそそるのでしょう』


「へぇ……」


 『言葉』の力というのが、具体的にどういう何なのかは全く理解できなかったが、麻雄はポカンとした顔のままながら頷いておいた。


『連中の行動には、くれぐれも警戒を……。おや? そろそろ……』


「?」


 リスは再び嘆息を吐く素振りを見せて、組んでいた足を解く。ふとして胸の内から懐中時計を取り出し、顔をあげた。


 周りは相変わらず本ばかり並ぶ図書館の壁で、窓などは見当たらない。よって時間の経過を明確には実感できない。


 が、リスはステッキを持ち上げ、その先を突き上げる。ステッキの先は、最初から目の前に展開されていた、まっさらな紙を指し示していた。


『時間が過ぎるのは早いもので、もう夜明けのようです、お孫様。誠に勝手ながら本題をば。

 今回、麻雄様の意識を夢から我らの住処へとお招きしたのは、今までのお話の為と、その話を踏まえた上で、お孫様からサインを頂きたかったからなのです』


「へ、サイン?」


『サインを頂かなければ、私はシノ様との契約を達したことにはならないのです。郵便屋が印鑑をもらう理由と同じでございますね』


「あ、なるほど」


 どの妖魔も、己の契約事については几帳面であるとは高校の授業で習った。とすれば、此度迫られているそれもそういうものなのだろうか。分かりやすい例えを聞いて別段断る理由もなかった麻雄は、白紙の紙のすぐ傍に立ててあった万年筆を取り、指の中で遊ばせつつ話を聞いた。


『私から事の全てを聞いたという了承のサイン、そして、この辞典を、その内容である言霊自体は相続の範囲外であると納得していただいた上で正式に受け取る意味のサイン。お名前を二つ頂戴したく思います』


「はぁ」


 から返事もそこそこに、麻雄は空になったカップを皿ごと机の隅にやって、白紙の紙を手元に寄せた。


 すれば、それを尻目にこちらへやってきたリスが、ステッキで紙の隅を叩く。すればなんと、真っ新の白紙だった紙に変化が。

 まるで炙り絵でもやるように……氏名を書く箇所と思わしき線が二つ、白紙の上に浮き出てきた。


『では、お願いします』


 カップや皿が魔法のように飛び出てくる様を見せつけられたのだ。今更これしきのことでビックリすることもないだろう。麻雄は声を少し漏らす程度に驚きを留め、紙に向かって万年筆を立てた。夢の中で悪質な詐欺などないだろうし……まぁいいか。


「あの、ハンコとかはないんですけど……この辺でいいですか?」


『構いません。はい。ありがとうございます』


 使い慣れない万年筆での文字は少し歪になってしまったが、それでもリスは満足した声色で首を縦に振る。


『契約の更新です。この瞬間、『藤ヶ谷 シノの言霊辞典』は、『藤ヶ谷 麻雄の言霊辞典』へと変更されました。ご納得いただけますか』


「は、ぁ……」


 納得というには流されている気がしたが、話がよく分からないので頷いて返すしかなかった。


『そして、あなたがこの辞典の正式な所有者となった事を、そしてこの辞典が狙われていることを、世に散らばる全ての『言霊』が知りました。自ずと辞典の因果に引き寄せられる語もあれば、何か行動を起こす語もいるでしょう。この辞典を狙う連中の件と合わせ、身の回りにはくれぐれもお気をつけください』


「へ? それは……」


 だが、流されていい範疇でなく、決して聞き捨てならない話が混じってきて、麻雄は小さく手を挙げた。


「どっかに逃げたその言霊たちが……、お、俺に襲いかかってくるかもって?」


『可能性は否めません』


 今になってそんなことを言うリスに、麻雄は明からさまに嫌な顔をした。


 妖魔の乱入した喧嘩でさえ死にかけているというのに、祖母の使い魔だった妖魔に襲われるなど命がいくつあっても足りない。ただでさえ、自分には使い魔がいないのに……。それを易やすと納得など、とんでもない話だ。


 こちらの暗鬱さを汲んだのか、リスは小さな咳払いの後、また口を開いた。


『ですが一方、これでこの辞典は完全に蛻の殻となりました』


「え?」


 リスが杖で叩けば、万年筆と、サインをした紙が消えてしまう。小動物の瞳が戸惑う麻雄を見上げる。


『あなたは我々に遠慮することなく、この本を処分することができます。それであなたは、再び辞典に封印されることを懸念する『言霊』たちからの攻撃や、この辞典を付け狙う者たち……信玄様やその他の組織らとの混沌を避け、穏やかな日々を送る事が叶う。

 言霊たちが逃げ出したのは想定外だったでしょうが、これでシノ様の願いは概ね達成できたかと自負しております』


「しょ、処分とかっ!!」


 とんでもない! 本を奪われない為に本を捨ててしまうなど、それでは自分にとって本末転倒である。麻雄は盛大に首を振った。


『この本自体が、例え白紙に過ぎないとしても、麻雄様にとって思い出の品であるのもまた事実。それに何より、『藤ヶ谷 麻雄の言霊辞典』ですから。空である限りはお孫様の独断で好きに扱って頂けます。例え辞典が失われても、我等が『言霊』であることに変わりはありませんが……』


「…………」


 リスの言うとおりで、例えこの本が本当に祖母の使い魔に関する何かだったとしても、何も変わらない。これは大事な祖母からの贈り物だ。


(……でも、まさかじいちゃんまで……)


 そして、覚悟すべき事実がちゃっかりもう一つ聞かされた。


 あの祖父も、この本を狙っているのだろうか? 考えてみれば祖父は対妖魔開発省の関わるお偉い方だ。その機関がこの本を欲しているなら、祖父自身がその考えを抱いていても何ら不思議ではないし、そもそもの発端が祖父であるという考えもまた否めない。


(……え? ……じゃあ、あの人は……)


 そういえば、あの家庭教師の男……祖父の差し金だとか言っていたような。誰にもこの本について話した記憶はないが、祖父は自分の手元に本があることを知っている? だから、あの謎の男を自分の元にやってきたのか? まさか、家庭教師の名目で、自分からこの本を取り上げるために……。


 まるで、禍々しく気味の悪い絵のパズルが組み立てられていくように……つながっていく危機的な状況の理解に、麻雄は肩を震わせた。

 つまり、いつかは祖父に取り上げられてしまうのだろうか? 今や自分の手元に唯一現存する、祖母との思い出である大事なこの本を。


『お孫様』


「っ?」


 深くまで考え込んでしまい、すぐに反応できなかった。


 話しかけてきたリスに、麻雄は慌てて顔を上げる。


『まもなく、お孫様はお目覚めになります。すれば、私めとはもうお別れでございます』


「え?」


 お辞儀をするリスに、麻雄は慌てて椅子から立ち上がった。勢いのついた膝が机を叩き、空のカップが倒れて転がってしまう。


「え!? いやっ、俺まだ聞きたいこととか!!」


 これで、別れ? それまでには予期など出来なかったあっけない幕切れの言葉に、麻雄は声を張った。


 まさか、このリスまで出て行くのか? まだまだ自分は肝心なことを聞けていない。真に迫って聞きたいことは、祖母のことだ。生前の祖母はどんな人だったとか、どんな魔祓いだったのかだとか、そんな話をこの祖母の使い魔だった存在から微塵も聞いていない。

 明かされたのは、この本の秘密と、自分へのよく分からない警告のみ。いつかに祖母の友達という誰かに出会ったならば、聞いてみたいと温めておいた質問の一つも、自分は尋ねることができていないのに。


 動揺した麻雄だったが、リスはその小さな指先でまた、パチンと指を鳴らす。


『これも、シノ様の最後の時に頼まれていた内容ですが。もしも、あなたが我々言霊と向き合うと言うならば……ひとつ助言を。

 我々は精霊であり、言葉です。ただの人の声でさえ、人を傷つけることも癒すことも叶う。くれぐれも言葉の力を甘く考えませぬよう……』


「いや、ちょっと!!」


 リスが消えてしまう。そんな気配を悟って、麻雄は図らずも手を伸ばした。


 だが、その瞬間。


 視界を覆い尽くす程の光が渦巻く。周りの景色、本棚や天井の光景がねじ曲がり、うねりだし、虹色の入り混じった光に満たされていく。射し込むような眩しさに耐えかね麻雄は目を瞑った。それでも激しさを増す光は、目蓋の内側まで染み渡ってくる。

 細い目でを開き、最後に見えたのは、帽子を取って深々と礼をしているリスの紳士的な態度のみ。



『それでは私めも、暫しの浮世巡りと参りましょう。また会う日までお元気で。お孫様』



「いや、だからっ! 聞きたいことがっ!!」


 伸ばした手が、逆に遠のいていく。夢の中で唯一の登場人物だったリスが、そして、あらゆる謎をその口から明快にしていった祖母の友人が、あっという間に小さくなっていく。


 その声を最後に、その小さな影さえも光の中にかき消えてしまう。そして麻雄の全身も、程なくして眩い光に包み込まれた。






「あ」


 呆気ない声を漏らして、麻雄はうっすらと目蓋を開く。


 目に映る天井に豪華なシャンデリアはなく、別段珍しくもないごく普通の電灯。壁には本がぎっしり詰まった本棚はなく、普通の壁紙が貼られている。


 自分の部屋で、ベッドの上だ。麻雄は今一度刮目し、そして、目を細める。


「……眩しい……」


 カーテンを閉め忘れていた窓から射し込む朝日に、自分の目元が照らされていた。手を持ち上げて光を遮る。


 やはり、夢だった。だが、いくつも知り得た事実のせいで、ただの夢だとは思えない。実際にただの夢ではなかったのだろうし。

 そして、今し方見た夢の内容は、何故だかはっきりと、頭の中に全て鮮明に仕舞われているのに気がついた。まるで刻み込まれたように会話の細部まで思い浮かべることができる。


 麻雄は息を吐き、枕元にちらと目をやった。


 祖母から受け継いだ本。少なくともそれは変わらず枕元にあったことに、麻雄はほっと胸をなでおろした。


「……まぁ、実際、確かめようもないし……」


 妖魔からの、夢のお告げ。実際にそれを実感できるかと言えば、妖魔はびこるこの昨今でもなかなか難しい。あの妖魔の言うことが真実であろうと嘘であろうと、いま、置かれている状況はごく当たり前の日常の、登校前の朝に変わりない。


 複雑な気分ではあるが、なにも変わらないのだ。麻雄は上半身を起き上げ、大きく欠伸をした。



 だが、本の末尾。 


 『懐古』のまでも、人知れず白紙と化してしまっていた事に、麻雄は布団から這い出た後に気付くこととなった。

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