『出会い』

2.



 この世は不公平だ、心からそう思う。


 いやに鈍い音がした。殴られた頬がじんわり痺れ、鼻先に触れてみて確認する。かろうじて鼻血は出ていなかった。こちらにとって当たり所がよかったのだと思う。だが、それを思うと何もかもが歯がゆくなって、くそったれと胸の内で悪態を吐いておくしかない。

 手加減に手加減を重ねられた、たったの一撃で。自分は芝生を転がり、夜の公園のど真ん中に枯れ草と砂埃まみれで突っ伏しているのだ。されどその一撃は骨の芯まで響き、人の拳とは比べるべくもない。


 悲しくも荒事の経験は少なくない。喧嘩のコツはまぁまぁに掴んでいるつもりだった。が、こればかりは仕方がないのだ。


「……はっ。ざまぁねぇな、劣等生?」


『おい。丸腰のガキ相手にわざわざ呼び出すなよ。俺が情けなくなる』


 相手が悪い。妖魔を相手に、生身で叶うわけがない。


 殴られた頬を草に擦りつけ、ジャリジャリと苦い砂の歯応えに顔をしかめる。いや、まさか歯が欠けたのか? まぁどっちだっていいか。

 それよりも、奴の勝ち誇ったかのような言い草だ。まだ負けてなどいない。悔しさは瞬く間に膨れ上がったが、対抗心を燃やしてすぐに立ち上がる気にはなれなかった。

 そこにいるうざったい面に今すぐ殴りかかってやりたいのは山々だが、そうすればもれなく、その隣にいる巨体の怪物に手痛い迎撃を受けるだろう。


 未だ響く鈍痛に脳が揺らぐような感覚を無視し、瞳を転がすようにして、その姿を睨む。牛の頭、上半身は筋肉隆々の人型をした獣、そして下半身は毒々しい蜘蛛のような外見をしている。あれは疑うべくもなく妖魔であり、確か『牛鬼』だといっていたっけか。


 目の前の怪物は、今しがた振りかぶった拳を解いて腕を組み、獣の瞳でこちらを一瞥しては嘆息を漏らしていた。それだけで、あちらの言いたいことはなんとなくに分かる。怪力である怪物の瞳には、ただの人である自分はさぞ脆弱な男に映っている様子に違いない。


 そして、その隣。その態度。牛鬼から横に逸らすように目をやって、苛立ちがさらに滾るのを感じた。

 してやったりの顔をして、小馬鹿にした態度で鼻を鳴らしている、同じ学び舎の同級がいる。その顔もまた少しばかり腫れ上がっていた。それもその筈、今しがた、人の身の一対一で掴み合い、殴り合っていたのだ。互いに無傷ではなかったが、勢いは決して負けていなかった、誰の目から見ても自分の優勢だったろう。


 奴が、舌打ち混じりにポケットに忍ばせていた封印札から『牛鬼』を呼び出すまでは。


 こちらに、呼び出せるような使い魔などいないことを、承知の上で。


「お前……妖魔に頼ってばっかで、恥ずかしくねぇのかよ」


 まず、体格……どころか骨格が違うのだ。あの怪物がそこにいるせいで手が出せない。やりようのない苛立ちを噛み締めるように地面から僅かに顔を覗かせ、悔しさを吐き出すように声を漏らす。

 荒い息で吐き捨てたとしても、相手の顔に期待したような動揺は見られない。寧ろ負け惜しみを言っているとでも思われているようで尚更腹が立った。


「はぁ? テメェがぼっちなのが悪いんだろうが。『使い魔』のいねぇ劣等生が、てめぇ好みのルール作ってんじゃねぇよ」


「……っ!!」


 暫し様子を見るつもりだったが、その言葉で気が変わった。


 次の瞬間には、立ち上がって地を蹴り、距離を詰めていた。あっという間に、隙だらけで唇を尖らせている同級に拳を振りかぶる。好きで使い魔と巡り会えていないわけではない。そんな人の心に土足で踏み入るような、欠点を見下すような態度がいい加減に我慢ならなかった。

 その後の体裁など構うものか。あともう少しで拳がたたき込める。それだけで、この胸に滾った苛立ちがどれだけ解消されることか。


 だが、もう少し冷静でいるべきだった。


「がっ……っ!」


 殴りかかるその寸前にて、こちらの腹部に突き刺さった太い腕。

 直後に息が詰まる感覚がして、再び体が吹き飛ばされる。


 相手には妖魔が味方についていたことを痛みを持って自覚する。再び『牛鬼』に殴られる形で阻まれて、地面を派手に転がる羽目になる。腹部の鈍痛に激しくむせ込み、かばうように背を丸める。骨は折れていないようだが息がつっかえてならない。今度は本当に立ち上がれる気がしなかった。


「こりねぇの。バーカ」


 吐き捨てられた言葉に噛み付く余裕もない。今にも腹の中身を吐き出しそうな苦痛に表情を曇らせつつ、苛立たしい言動全てを涙を飲むように噛み締めるしかない。

 無様に地に伏すばかりのこちらの姿を見下す笑みで堪能した後、相手はそこらに唾を吐き、くるりと背を向けてしまった。


「行こうぜ『絹太』。チューハイぐらい奢るからさ」


『はぁ……』


 まるで此度の喧嘩に勝利した者のような……優越に酔った笑みを浮かべたまま、同級は去っていく。絹太と呼ばれた『牛鬼』は二度目の嘆息でそれに答えた。






 


 きっかけは、ヤツに「劣等生」だと罵られたのが原因だった。


 腫れ上がった頬をくすり、重い痛みで疼く腹を抑え、土で汚れたブレザーを叩きつつ。

 警官にでも見つかって補導されては面倒だ。従ってずっと夜の公園で倒れていることもできなくて、藤ヶ谷 麻雄(ふじがや あさお)はよろよろと立ち上がり、見慣れた通りを静かに歩いて帰路につく。自動車の行き交う車道の端、夜とは言え電工看板や街灯で眩しい路上の隅を、なるべく目立たないようにだましだまし歩く。散々にのめされたこの様を人の目に晒すのはやっぱり屈辱であり、知り合いにこの無様を知られるのは更に輪をかけて嫌だった。自分に言わせれば負けたつもりはない。だが、喧嘩に使い魔を突き出してくるのは卑怯だと喚くのも、それはそれで無様なので出来やしない。


 自分に使い魔がいれば……、本当にそう思った。喧嘩の為ではないが、少なくとも自分の周囲において、「劣等生」などという不愉快なレッテルは解消され、学校の面々から偏見の目で見られることもないだろうし、こんな気分の時には温かい相談相手になってくれたりするのだろう。


 「劣等生」。実に単純で、それだけに不愉快な呼称だ。確か隣のクラスだっけか。最初にそう罵って絡んできた奴を迎え撃って叩きのめしてやれば、ほかの連中も少しの間は黙った。だが、どうだろう。次に喧嘩をふっかけてきた奴は追い詰められた途端、先ほどのように使い魔をけしかけてきて、当然のことながら人の身一つで歯が立つはずもなく。

 それを悟ったのか、連中は息を吹き返したようにまた喧嘩をふっかけてきて、殴り合いの最中、戦局が悪くなる度に無遠慮に使い魔を身代わりにしてきた。

 よって、妖魔に殴られるのは今日が初めてではない。今回の妖魔は加減をわきまえていたようだが、以前に同級の使い魔に殴られた時には、衝撃のあまり血を吐いたこともあった。


「…………」


 思い出せば暗鬱になるばかりの記憶に首を振り、麻雄はちらと目をやった。


 派手なコートをまとい、楽しげに談笑している女性が二人、横を通り過ぎていった。どちらも若く目に見えて美人だったが、すれ違う間際、麻雄はほんの少し目を丸め、そして逸らす。

 目をやればすぐに分かった。その片方には、頭に猫のような耳、そして尻尾。一昔前に流行ったコスプレのようだが、おそらくそうではない。


 こんな夜の街中にさえ、目をやってみれば妖魔は沢山いる。


 おそらくは隣の女性の「使い魔」だろう。今時、人と「使い魔」との関係は単なる主従に留まらない。そんな考えは今よりずっと大昔の話で、愛玩の為にペットとして生活を共にする関係、親しい友人のような関係もあれば、淡白な金銭での雇用関係もある。殆どの妖魔は人に化けることもできるので、今や金銭の価値は妖魔の間にも通じている。立ち寄ったコンビニやレストランで主人と一緒に使い魔が働いている光景も決して珍しいものではない。


 ペットブームやソーシャルネットとなんら変わらない。妖魔と「使い魔」の契約を結ぶことが、ある意味では現代人においてのステータスであり、今の世界の常識となっている。


 そんな世界の中で、自分には「使い魔」はいない。


「はぁ」


 楽しげに使い魔と会話している誰かの影を見れば苛立ちもすっかり冷めてしまい、麻雄は脱力の息を吐いた。

 原因は分からない。どれだけ参考書を開いてみても全く心当たりが浮かばなかった。自分の何がそうさせるのか。だが、高校生活の初めに行われた「妖魔の召喚」の授業に失敗したのを皮切りに、妖魔たちからの拒絶の日々は始まった。

 それから幾度となくそこいらの妖魔に使い魔の契約を申し出てみても、全て取り入る隙もなく拒否されてしまったのだ。既に先約がいるだとか、性格が合わなそうだとか。理由は様々だったが、少なくとも今日までに二つ返事が返ってくることはなかった。


 国内で対妖魔の授業に定評のあるらしい高校に自分が身を置いていたのも不幸だったのかもしれない。授業の成績もいまいち中途半端で、使い魔のいない自分に芳しくないレッテルが貼られるのに時間はかからなかった。同級生のほぼ全てが各々の使い魔と契約を交わしており、真剣に勉強に取り組んで「魔祓い」を目指している者もいる。

 人の命を守る立派な仕事だとは思うが、自分には関係のない話題だとも思う。「使い魔」のいない自分はまずスタートラインに立つことすらままならない。


 この世は不公平だ。うん。本当にそう思う。


 (言ってても仕方ねぇけど)


 不平不満を百千と呟いたところで現状が変わらないのはもう分かりきっていた。麻雄はそれ以上は何も考えないようにして、疲れきった体を引き摺るように黙々と歩く。ふとすれば、自宅についてしまっていた。


 この傷だらけの様を身内に見せなければならない時が、いよいよ訪れた。麻雄はもう一度嘆息をついて、少しの躊躇いを胸に家の戸をくぐる。

 玄関に入れば、すぐにいい匂いが鼻をくすぐってきた。芳しいソースの匂いはハンバーグだろうか? 夕食の準備はとっくに済んでいるらしい。


 教科書の詰まったカバンを肩から下ろし、空腹と鈍痛の響く腹をさすって、麻雄は困り顔で呻きつつ、鼻をひくつかせた。


「……。麻雄さん。お帰りなさいませ」


「あ……、ただいま、潮江しおえさん」


 靴を脱ぐ最中、リビングの戸から顔を覗かせてきた女性の出迎えに気付き、麻雄は少し俯きながら答えた。

 小さな声でこちらに歩み寄り、丁寧に鞄を受け取ってくれる女性。やや暗鬱さを感じさせる青白い肌色や表情とは裏腹に家庭的なエプロンを纏っており、黒く艶やかな髪は長く、左目を覆い込むように隠してしまっている。

 

 家政婦の潮江しおえさん。普通の家には家政婦などいないだろうが、自分にとっては母親ほどによく見知った女性だ。だからこそ、麻雄は羞恥を感じて俯けた首を中々上げられずにいた。

 この姿を見られれば、何かあったのかと聞かれるに決まってる。


「麻雄さん。怪我をされておいでですが」


「いやっ! これは、その……」


 それ見たことか。だが全身の傷が物言わぬ証拠であり、隠し通すなどできない。普段から殆ど無表情な潮江の言葉には感情は伺い辛いが、麻雄は手を振って少し慌てた後、咳払いをしてから顔を上げた。

 自分を罵ってきた連中からふっかけられた喧嘩を買って出たのは今日が初めてではない。寧ろよくある事だと自嘲してもいいくらいだ。それでも、母が不在なのは幸いだった。潮江がキッチンに立っているということはそういうことだ。


「あの。いつもみたく母さんには内緒でお願いします。心配するんで」


「かしこまりました」


「で、母さんは?」


「本日はお勤めで外出しています。松子さんから、麻雄さん宛に書き置きを預かっています」


「書き置き?」


 ぼそりと続く返事を聞いて、そうだろうなとは思っていた。だが、その後にエプロンのポケットから渡されたメモを、麻雄は少し目を丸めながらも受け取った。


 母が夕食を用意できない時……ほぼ毎日で頻繁にあることだが、そんな日は今日のように潮江がやってきて家事を代行してくれる。正直、母はあまり料理が得手ではない。よって、その風貌からは想像できないほどに美味しく家庭的な潮江の料理が食べられることには内心喜んでいたりする。

 だから、母の帰りがいつも遅いのは麻雄にとって既に暗黙の了解であり、わざわざの書置きも必要ではなかった。


 自分がまだ小さかった頃ならともかく、最近では書置きなど残していなかったのに……。少し珍しがりつつも、麻雄は渡されたメモにさっそく目を落とした。


(アサちゃんへ。


 おかえりなさい~、学校お疲れ様です。ママは今日も帰りが遅くなるので、いつもみたく晩御飯は潮江さんにお願いして下さいね。

 あと、今日はおじいちゃんが知り合いに頼んで、アサちゃんの為に妖魔学の家庭教師を呼んでもらったみたいです。ママもよくわからないんだけど、アサちゃんがおじいちゃんにお願いしたのかな? 今日の夕方には到着するみたいだから失礼が無いよう行儀よくしてね。

 何かあったら、いつもみたいに潮江さんにお願いして下さ~い。ママより)


 ところどころハートマークの散りばめられたその書置きは紛れもなく母のものだ。読んでいる息子の側が恥ずかしくなるような文も今ではすっかり見慣れたもので、一通り目を通した麻雄は再び潮江へと向く。

 夕方……時計をちらと見て、もはやそんな時刻ではないことに改めて息を呑んだ。確かに同級との揉め事などがなければ、いつも通り夕方に帰宅するつもりだったが。


「家庭教師? 俺、聞いてないんですけど……」


「もう、お見えになっています」


「えっ!?」


「「何も食べていない」とおっしゃられましたので、先にお食事をご用意しておきました」


 書き置きにあった事とは言え、まさかの返答に麻雄は目を丸めてしまう。戸惑いながらもリビングへの扉をくぐった。

 家庭教師……おそるおそるリビングへと踏み込み、首を覗かせて見渡せば、それらしい人影は直ぐに見つかった。


 部屋の中央にある机の上には茶碗や皿が既に用意されており、いい匂いもより強く鼻をついてくる。そんな食卓の一角を陣取って、自分より先に、さぞ美味だろうハンバーグにありついている者がいる。


 全く知らない雰囲気だった。若い男で、麻雄はおずおずとその背中を目の当たりにした。


「あ、あの……」


「んあ?」


 気まずいながらそっと声をかければ、その背中が反応した。

 こちらに振り向くその顔は、やはり若い男だった。頬に刺青を入れていたり、首から鎖を揺らしているのも手伝ってやたら軽薄そうな顔つきをしている。かと思えば、顔に飯粒をつけたままで、茶碗片手に忙しなく飯をかき込み始めた。

 恐る恐る覗き見てみても、やはり、その顔に見覚えはない。


「こんばんは……」


「おうっ、遅いぜ麻雄くん。先生腹減ったんで先にご馳走になってまーす。あ、でもまだ部屋には上がってないからそこは安心な? エロ本隠す時間ぐらいはやるからさ」


「いや……あの、呑み込んでから喋ってください」


 お互いに初対面の筈。だがこちらの戸惑いなどまるで意に介した様子もなく、箸を置いて手を振ってきた男はやはり軽薄な口調で冗談を並べ始める。

 その奔放な態度を目の当たりにしてかなり陽気な印象を受けたが、どうだろう。だからといって易やすと溶け込めるような雰囲気でもなかった。いくら馴れ馴れしさを覚えたところで、全く見知らぬ人がリビングにいて夕飯を食べている状況には変わりない。


 母からの書き置きがなければ、潮江さんも家に入れようとは思わなかったはずだ。咀嚼の途中でも無遠慮にものを言う男を見て、麻雄は質問を切り出すことにした。


「あの、家庭教師とかって話ですけど……。ホントですか? 俺のこと知ってます?」


「いんやー」


「は?」


 呆気ない返答に、麻雄の方が少し萎縮してしまう。


「ま、でも。『牛鬼』とガチで殴り合うなんてガッツ見れて、ちょっと面白かったけどなー」


「えっ!?」


 箸を止め、冗談めいた口ぶりのままでそんなことを言い出す男に、麻雄は図らずも目を見張ってしまった。男は頬杖をつき、意味ありげに笑っている。


 牛鬼といえば、つい先ほど同級が召喚してきた妖魔であり、つまりそれに殴られたことについて言っているのだ。

 何故、先ほどの喧嘩について知っているのだろう、こちらの知らぬところで始終を見ていたのか?


「どうして、それを……?」


「すんません潮江さーん、おかわりくださーい! 大丈夫、美人の為ならどんな修羅場でも割と受け入れるんで、愛情たっぷりの人妻盛りでお願いします!!」


「かしこまりました」


 先ほど同様、こちらに浮かんだ疑問符に目もくれていない様子で、男は立てた親指を掲げながら空っぽになった茶碗を突き出した。まるで見知っているかのように名を呼ばれ、軽い言葉をかけられようが潮江は全く動じていない。茶碗を受け取り、黙々と炊飯器からご飯をよそい始める。

 そして、さりげなく質問をかわすとは、一体どういう了見なのか。


「まずは怪我の手当を。その後は、夕飯になさいますか? それとも、お風呂になさいますか?」


「い、いや、それより……」


 山盛りに盛った茶碗を再び男の前に置き、こちらを向いた潮江は悠長にそんなことを言う。男は目を輝かせて再び食事を再開した。

 いやいや。飯も風呂も二の次だ。まずはこの謎の男の正体が気になって仕方がなかった。


「あの」


 麻雄は他人への遠慮をとりあえずは潜めて、なんとも幸せそうに飯をほうばっている男の正面に移動し、その目をじっと見つめた。


「すいません……けど。どなたですか? ……爺ちゃんの知り合い?」


「おっす、オラ家庭教師。なんつって」


「……だから、そうじゃなくて」


 男の性分がそうさせるのだろうか。その口は舌を出して掴み所のない冗談ばかりを並べ続ける。またも不真面目な返答が返ってきて、このままでは埒があかないと悟った麻雄もまた、勢いよく椅子を引く。男が先んじていた食卓の正面にどかりと腰を下ろした。









「あり、聞いてない?」


「全く……」


 言うと、しかし特には動じないままで、頭の裏で手を組んだ男は口笛をひと吹きする。麻雄は小さく息を吐いた。


 夕飯が終わり、ようやく落ち着いて話をすることができそうだ。

 潮江から傷の手当を受けた麻雄は男の向こう側に座り、神妙な様子でその顔をじっと見つめていた。潮江は台所に立ち洗い物をしている。とにもかくにも説明をくれと、食後に出された飲み物を片手に話をしていた。


 家庭教師がどうたらとかいう謎の事情は、母からの書置きにもあった。が、先ほど男にも伝えたものの、自分に家庭教師が付くという話は全く聞いていないし、今日がその顔合わせの日だったというのも当然ながら把握していなかった。


 ……誰かを家に招いて勉強するのに一考の余地がないわけではないが……、うん、なんとなくこの人とは相性が合わない気がする。突き返すならこのタイミングか? 自分の学業での成績を考慮し、それでも必要ないと言い切るのはどこか嘘になるが……。


「なんかテキトーだなぁ。ま、いいけど。あ、自己紹介とかいる? そういう空気?」


(そっちがいうか……)


 口には出さずとも、麻雄は呆れた様子で肩をすくめた。男は乾いた笑いでこちらの呆れ果てた視線を受け流す。満腹になった腹をさすっている様は満足げで無防備だが、麻雄は不審げな目を緩めず、静かに頷いた。


「んとー。俺は佐々守 想ささもり そう。今をときめく高校二年生だ。つまりお前ちゃんと同じ高校生。よろしく」


「は? いや……」


 ちょっと待てと、麻雄が口を開こうとした瞬間。

 どういうわけか男は手を突き出してきて、それを遮られてしまった。


「おっと。高校生の顔じゃねぇだろオッサンとか、口が裂けても言うなよ? 二十歳半ばの俺がオッサン呼ばわりされた日にゃ、俺はお前のそのデタラメな口を封じて海に沈めなきゃならねぇ」


「いや……、やめてください」


 呆れた口調で麻雄が淡々と答えると、目の前の男……想は突き出していた手をひらつかせつつ快活に笑った。どう答えればよいのか分からず、苦笑いで誤魔化しておくしかない。


 流石にそれほど失礼な文句を吐こうとしたつもりはなかったが、まぁ似たりよったりなことを言おうとはした。その見目は、決して老けているわけではなく寧ろ若々しいが、十代半ばと言えるほどに童顔でもない。それに今しがた自分で実際の年齢を吐露したではないか。となれば、高校生のくだりは全て意味のない冗談だったのか?

 本音が読めない。麻雄はますます表情を訝しげに曇らせた。


「家庭教師、なんですよね? 俺の」


「おう。んで訳あってお前ちゃんと同じ学校で高校生やるけど、まぁ気にすんな。大人の事情、な?」


 そんな説明をされても、全く納得できなかった。どうして自分の家庭教師になるらしい人が、二十半ばで高校生をする道理があるのか? そんな意味不明な冗談を真に受けねばならないのか。

 なんだ、この人? 麻雄は首をひねり、あっという間に洗い物を終えてこちらに歩いてきた潮江に目をやってみた。


「潮江さん、何か聞いてます?」


「この方は、対妖魔開発省の特務部に所属されている公務員なのだそうです」


 ……ん?


 うまく聞き取れなかったわけではないが、麻雄は目を丸めて聞き返す。


「対妖魔開発省に勤めていらっしゃる魔祓いで、特務部実行部隊の隊長も務めていらっしゃるとか」


「えっ!!」


 相変わらずぼそぼそと話す潮江だったが、教科書やニュースでずっと見聞きしてきたその機関の名をしかと聞き、麻雄は目を見開いた。


 対妖魔開発省……、妖魔による事件に対抗するため発足された国の新たな機関であり、現代における妖魔を払う職、『魔祓い』や祭祀たちの最高位の就職先でもある。小中学の教師でさえ、対妖魔の科目を担当する教師は『魔祓い』の検定合格者が就くことが法律で定められている。


 『魔祓い』の資格を持っている事は、すごいとは思うが驚くには値しない。だからこの驚きはその先だ。そんな大それた組織に勤めている? ……この男が? では、この男はプロの『魔祓い』なのか?

 

「いわゆるエージェントな、エージェント」


(超エリートじゃん……こんなチャラそうなのが……)


 疑わしいとは思ったが、真顔の潮江がこのような冗談を言うとも思えなかった。となれば、次の疑念が浮かぶというもの。麻雄は丸めていた目を再び細めて、ぼそりと口を開いた。


「そんな人が……なんで家庭教師に……」


「頼まれたんだよ、信玄しんげんセンセーに」


 国や公共団体に属するプロの『魔祓い』は立派な公務員だ。部隊の隊長だかなんだか知らないが、見るからに若いこの人がその機関……対妖魔開発省においてどれだけの存在なのかは全く想像できない。


 それに、現代の法律では公務員は副業や兼業などはできなかったのではなかったか。対妖魔開発省といえば言わずと知れた立派な国家機関であり、従ってこんな場所で家庭教師のアルバイトをしてもいいのだろうか。この家、自分の元に至った経緯などはともかく、そういう意味合いで繰り出したつもりの質問だった。


「えっ……!?」


「だから、信玄センセー。つまりおじいちゃん。分かるだろ?」


 だが、会話の折にその名前を聞き、麻雄は表情を引きつらせる。あたかもそれを悟っていたかのように、想のにやけ面は変わらない。


 信玄。藤ヶ谷 信玄ふじがや しんげん。祖父の名だ。確かに、祖父が対妖魔開発省に関係する、しかも偉い何かの地位についていることは知っていた。


「……祖父から?」


「あぁ。聞いたぜ? お前、まだ使い魔いないんだろ? じいちゃんは超ベテランの魔祓いなのにな~」


「……だから、なんですか?」


「あ、怒った? ごめんごめん、ほんの特務部ジョークだって」


 そして続いた言葉に、麻雄は不愉快さから冷めた声色で答える。

 往々にして気にしている点について踏み込まれ、威嚇のつもりの態度だったが、気楽に口笛を吹いている想にそれが通じたかどうかは怪しいものだった。


 だが、合点はいった気がする。祖父は確かに、使い魔を持ち得ない自分に憤慨を覚えている。それは痛いほどに思い知っていた。


 自分の中で祖父といえば、厳格で冷たく、はっきり言って嫌いな人だった。幼い頃、正月に親戚で集まった時も冷たい態度で物を言われたり、かと思えば怒鳴りつけられたこともあった。管轄する寺に自分を丸一日閉じ込めたことも。それらの原因は、たいてい自分に使い魔がいない事実に起因している。あの厳格な祖父は、身内に落ちこぼれがいることをよしとしていない。使い魔の一匹すら持ち得ない非力が血筋を許せない。

 そうか。そういうことだったのか。祖父がこの人を寄越したのだ。劣等生である自分を叩き直す為に。


(昔っから、そういうとこが嫌いなんだよな……)


 だがこれで、ある程度の筋が通った。麻雄はなんとなく全てを悟り、胸の中で悪態をついて表情を苦くする。

 幼少時のトラウマもあり、何事にもおおらかだった祖母とは違い、麻雄は明確に祖父のことを嫌悪してならなかった。


「帰ってくれません? 俺、あの人苦手なんで」


「まぁまぁ、そうむくれんなって。今のままじゃ誰とだって馴染めないだろ?」


「余計なお世話です」


 この人が、祖父から自分のことをどういう風に聞いているのかなど、聞きたくもなかった。どうせ出来損ないの孫だとか藤ヶ谷家の恥だとかを古風な言い回しで罵っていたに違いないのだ。それでも、祖父ならば確かに対妖魔開発省のエージェントすら動かすことができるかもしれない。いや、何事にも手段を選ばぬあの頑固老人なら、逆にどんな手を使ってもやりかねない。


 もし、本当に祖父が自分に家庭教師をやってきたならば、それは純粋な勉学の為ではない。間違いなく自分に使い魔を持たせる為だ。それが分かっていて、尚もその人に教えを乞えるほど自分は素直ではない。


「俺、家庭教師とか最初から聞いてないし。一緒に勉強とか無理ですから」


「まぁまぁ。この際じいちゃんのことはいいじゃねぇか」


 そんな事のためにあてがわれたこの人には申し訳ないが、そっぽを向いて拒否の態度を貫く。しかし、想の飄々とした態度に狂いは見られなかった。


「だって欲しいだろ? 使い魔。俺がとっておきの使い魔を見繕ってやるからさ?」


「…………」


 祖父への嫌悪を隠さず晒しても、わざわざ回り込むような物言いまでしてなぁなぁと宥めてくる。

 そして、立ち上がり、近づいてきた。柔らかい物腰ながらも、確実に退路を塞いでいくように。まるで今日出会ったばかりとは思えない馴れ馴れしさで肩に腕を回され、麻雄は苛立ちよりも勝った戸惑いで顔を俯けた。


 この人が祖父の差し金でやって来たことは当の本人の口からはっきり理解したが、この人は祖父と自分との関係性をとっくに把握し、こちらが苛立つのを見越した上で、多分そんな話を持ちかけている。でなければすぐに宥めてくる筈がない。それが少し引っかかってならなかった。

 使い魔が欲しいのはもちろんだ、常日頃からそれがいない故に憂い目を見続けており、喉から手が出るほど欲しい。だが、甘い言葉故に何か裏があるような感触も否めない。数年前の幼さなら何も勘ぐらずに手を伸ばしていたかもしれないが、向こうの腹の内を疑ったままでその言葉に頷ける筈もなく、麻雄はあらぬ方を向いたままで黙り込んだ。


 流石に、祖父が一応の身内である自分を悪意で陥れようとしているとは考え辛いが、そもそもにしてこの人自体がいまいち信用に足らない。


(……なんか、さっきから言ってること、全部嘘くさいし)


「んで、だ」


「?」


 胸の中で疑りつつ、暫く口を閉じていれば、すぐ真横まで寄ってきている想が指を一本立ててくる。その顔にはこれまた繕ったような笑みばかりが張り付いており、その奥に潜んだ感情は読み取りづらかった。


「俺が麻雄に妖魔のイロハを叩き込んで、その後で使い魔を引き渡す。その代わりに、麻雄から譲って欲しいものがあるんだよな」


「……俺から?」


 まだ承諾した覚えはないのに、この人は何を言っているのか。不可思議な言動に麻雄は目を細めたが、想は勝手に頷いて自身の話を肯定してくる始末。例えその話に乗ったとしても、高校生の身分で渡せるものなど限られている。そもそも、祖父が勝手に寄越してきた家庭教師への謝礼を自分自身が支払うなど考えにも及ばなかった。


「金ならないですよ?」


「高校生ハメてどうすんだよ。いや、報酬はちゃんと耳揃えてセンセーに請求するけどさ。そうじゃなくて」


 家庭教師への分かりやすい対価といえば、もっぱらアルバイト代。だがどういうわけか、首を振った想はわざとらしく咳払いした後、ここからが本題だとでも言わんばかりに声のトーンを落としてきた。


「持ってんだろ? 『言霊辞典』」


 声色に余裕を添え、想が自信満々に言い放つ。しかし、その自信は麻雄には伝播しない。


 ……なんとか辞典? 麻雄は首を傾げた。


「? こ……なんですか?」


 うまく聞き取れなくて、麻雄は再び聞き返す。


 だが、想はただの聞き違いだとは思わなかったようだ。


「藤ヶ谷 シノ(ふじがや しの)の言霊辞典……俺らは『SPELL COLLECTION』て呼んでるけど。この期に及んでシラ切りはないっしょ? 情報上がってんだぜ? お前が例のブツをこっそり隠し持ってること。きりきり吐いちまえって」


「えっ……ばあちゃんの?」


「そうそう。孫のお前がこっそり継いだんだろ? なんの価値もない、古臭い本だよ」


 冗談のような口ぶりはともかく、藤ヶ谷 シノ(ふじがや しの)……今は亡き祖母の名をこの見知ら人から聞いて、麻雄ははっとしたように刮目した。

 祖母の名は祖父から聞いたのかもしれない。そして、そこまでに踏み込まれてやっと、祖母の持ち物だった本……そして今、自分の手元にあるという本に、確かな心当たりが生じる。


 その本が……謝礼? 密かに線と点がつながって、その瞬間、麻雄は胸の中できっぱりと目の前の人間を断絶した。


「心当たり、思いついたか~?」


「いや、別に……」


 どうしてそれを欲しがる? なんて、尋ねてもこの人が真剣に答えるとは限らないし、そんなことは後でも考えられることだ。となれば、好奇心に首を突っ込む必要はなく回避に限る。


 しかし……面倒なことにならぬようごまかしたつもりだが、想の言葉はいやに図星を貫いていた。それでも否定の意味を示して首を振ったが、それまでに一拍置いたのが仇になったのかもしれない。

 咄嗟の嘘は見抜かれてしまったらしく、こちらの顔に指を向け、想は悪戯な笑みを一際強める。


「このままシラ切り通せますようにって、顔に書いてんぜ?」


「ホ、ホントに知らないって……」


「おおっと、恐いじいちゃんに怒られてもいいのかなぁ~?」


「ぐ……」

 

 陽気な口調で想が脅してくる。対妖魔開発省の繋がりで、もしかしたら本当にチクられるかもしれない。麻雄はこれ以上の嘘をひとまずは呑み込んだ。

 そう言われてしまえば、押し黙るしかないではないか。祖父は嫌いで苦手だ。好き好んであのしかめっ面に怒鳴られたいわけがない。


 すると、悠々と笑う想は鼻を鳴らして、また麻雄の顔を見やってきた。


 かと思えば、自分から目をそらす。次にその視線が向いたのは……。


「部屋に隠してんの? 二階だよな?」


「お、おいっ!!」


 想はおもむろに椅子から立ち上がると、どういうつもりかリビングの奥の、二階へ通じる階段を指で示した。言われた通りで確かに二階には自室がある。


 だが、麻雄は慌ててその前に立ちふさがった。


「おっ、おい! ちょっとっ!」


 家庭教師云々の前に、このタイミングで自分の部屋に立ち入られる、その意味が分からない。許可した覚えなどない。この人の言うような卑猥な本が置きっぱなしになっているわけでは決してないが、自分の空間を、それほど知らない、しかも祖父の差し金である家庭教師の高校生? に踏み荒らされていい気分がする筈はない。

 それに、この人は今しがた祖母の本を寄越せといってきた。そしてこの強引な態度。それだけでも十分警戒に値する。 


「いきなりそれはないだろ! いや、マジで散らかってるから!」


「男同士だし気にすんなって。それに、別に何も取り上げたりしねぇから安心しろっての。ただちこっと……」


 立ちはだかろうとする麻雄をにやけ面で宥めながら、しかし半場強引に押しのける。全てを誤魔化すような態度のままで想は階段目掛けて進もうとする。麻雄はそれでも食い下がったが、他人の服の袖を無理やり引っ張ったりするのは流石に気が咎めたので、強引にはどうしても引き止められず、ずるずると想の歩みを許してしまっていた。


 声を張り上げながらも、麻雄は困惑の瞳で想の背後から手を伸ばし続ける。 


「……ん?」


 すると、想は声を漏らし、階段の手前で立ち止まった。


 ゆったりとした足取りで、しかし颯爽と二人の前をゆく、黒い髪。


「……佐々守さん」


 つつましく前で手を重ね、しとやかに移動する。庇うように階段の前に立った潮江が、それ以上の想の侵入を許さなかった。

 麻雄は未だ表情に焦燥を貼り付けていたが、想の背後で気づかれぬ程度にそっと胸を撫で下ろす。こういう時、余計な心情を挟まない潮江は昔からすこぶる頼りになる。

 いつもながらの無表情に冷ややかさを覗かせて、潮江は想を見つめていた。


「……麻雄さんが不快がられています。本日はお引取りを」


「……ちょっと部屋に上がらせてもらうだけなんだけどな。俺・イズ・家庭教師。分かります?」


「お引取りを」


 どれだけ軽薄な態度で取り入ろうとしても、潮江の態度は固く、まるで通じない。その冷や水をかけられるような態度に想は苦い顔をして呻いたが、少しの間の後、潮江の絶対の拒否を理解したのか、一歩下がって肩をすくめた。


「ま、いいか。腹いっぱい食わせてもらったし?」


 すると、想は存外に呆気なく、くるりと階段と潮江に背を向けてしまった。背後にいた麻雄と目を付き合わせる。


 陽気な笑みと目に見つめられ、麻雄はどんな表情を見せて良いのか分からず、斜め下の床にでも視線を逃がしておいた。


「んじゃ、今日から麻雄って呼ばせてもらうぜ? 明日からよろしくな。麻雄が使い魔持ってくれんと俺の任務が終わらないから、まぁ本気の死ぬ気で励んでくれ」


 そして、ポンと肩に手を置かれる。だが、伸し掛かってくる重さには全く納得できなかった。麻雄は肩を振るようにして想の手を払い、すぐに表情を変えた。


「あ、明日っ!? そんな急な話って、だから俺はっ……」


「ま、お試し期間ってことで。とりあえず出来る範囲でやってみろよ、どっちに転んでも損はさせねぇからさ」


 祖父からあてがわれた家庭教師なんて、とんでもない。


 なんて、拒否を突き通す間も与えずに、そんなことを言われてしまう。そんな気などまるでないとまだまだ噛み付いてやりたかったが、それを長々と語らせる前に、想は玄関へと歩き出してしまった。どれほどの無礼者でも客人には違わないのだろう。潮江が見送りのためにその後に続く。


「んじゃ、おじゃましましたー。あ、ハンバーグゴチっしたぁー」


「あ、ちょ……」


 言いかけた言葉も、相手を失ってはかすれて消えてしまう。


 未だ理解の追いつかない話について考えながら、麻雄は玄関の扉が開かれ、そして聞き慣れたベルの音が鳴り響くのを聞いた。

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